創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

創造論ネタ>6日間の創造

オリゲネスは起きていないことも聖書に挿入されていると言う


Origen Adamantius(184/185 – 253/254)はアレキサンドリア生まれのギリシャ教父の一人で、"De Principiis"や"Contra Celsus"など多くの著作を残した。彼は、起きていなことが、聖書に挿入されていると考えていた。それには、太陽や月や星が創造される前の夜と朝も含まれる。
以上の主張が、事柄を[研究すること]によって確認されるために、聖書そのものの箇所を当たってみることにしよう。

さて、太陽も月も星もなく、第一日目には天すら存在しなかったのに、「第一日」、「第二日」、「第三日」と言われ、おまけに「朝」と「晩」があったとされているのを、合理的である解釈する人が誰かいるだろうか、私は尋ねたい。また、神が人間である農夫のように、東のかた、エデンに、園の中に、木々を[手ずから]植えられ、またその園に「生命の木」、即ちその木からとった実を身体上の歯をもって食べる者は善悪の知識を得る[木を植えられた]と考える愚者が、一体誰かいるだろうか。更にまた、昼下がりに園の中を神が歩まれ、アダムは木の下に身を隠したと述べられているのも、これを表象的比喩として聖書は述べているのであって、この[描写]を通じて神秘的な事柄[mystica]示唆されていることに疑問を抱く人は誰ひとりとしていないと私は考えている。同様に、「カインは神のみ顔[の前]から去った」という叙述にしても、賢明な読者を。「神のみ顔」とはいかなることか、神のみ顔[の前]から去ることがどうしてできるのか、ということを探求するよう刺激するであろう。

しかし、着手した本書をあまりにも長いものにしないために、[これ以上例をあげるのは割愛しよう]。なぜなら、聖書の中に出来事として書かれているが、歴史上実際に起こったとは合理的に考えられない箇所を見いだすのは、そのつもりになれば誰にでも、しごく容易にできることだからである。

しかも、聖書のこのような書き方は、福音書の中にも豊富に見いだされる。例えば、「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き」、そこでイエスに「この世のすべての国々とその栄華とを見せた」とあるのがその一例である。これを文字通りとるなら、イエスが悪魔によって「非常に高い山に連れて行かれ」、[悪魔が彼に]一つの山から、肉眼で[見えるように]、眼下に広がる この世のすべての国々、即ちペルシア人の国、スキタイ人の国、インド人の国等を示し、またそれらの国々の王たちがいかに人々の称賛を受けているかを見せたといったことが、一体全体どのようにしてなされ得たのであろうか。誰しも注意深く読むなら、これに類したことを数多く福音書の中に見いだすことだろう。それらの叙述は、歴史的事実を記述しているように見えるが、歴史的出来事として取ることはできず、霊的な意味で理解されるべきであると気づくに違いあるまい。

[オリゲネス(小高毅 訳): 諸原理について (第4巻3章一, pp.296-7)]







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