創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

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天文学者William H. Jefferysによる、"The Privileged Planet"批判



遥かなる昔からあるファインチューニング論を、新しいことのように語るインテリジェントデザインの本山たるDiscovery InstituteのGuillermo Gonzalezの本:"The Privileged Planet:"に対する批判を、University of Texasの天文学のWilliam H. Jefferys名誉教授が天文学者として正面から行った。


Review of The Privileged Planet
reviewed by William H. Jefferys, The University of Texas at Austin

"The Privileged Planet"は、我々の宇宙が知的生命を生み出すに適していないほど、不確定な性質の"デザイナー"によって、知的生命が生み出されるように我々の宇宙は"デザイン"されたのは確からしいという奇妙な考えに基づいている。言い換えるなら、我々の宇宙に、知的生命をサポートする惑星がありそうになければ、この宇宙は、宇宙の性質を探求する特定の知的生命の形態、すなわち我々、を生み出すように"デザイン"されたのは確からしい。

我々が唯一経験的に知っているインテリジェントデザイナーたる人間が働く方法ではないことを、我々は経験的に知っている。我々は、工場の人間のデザイナーが、車やコンピュータやその他の対象の製品を製造するために、工場をデザインしないことを知っている。むしろ、工場は、コストや物理的実現性やその他の制約条件のもとで、製品を最大限に生産できるようにデザインされる。

GonzalezとRichardsの基本的な間違いは、インテリジェントデザイン創造論者を含む多くの創造論者と同じく、特定の自然主義的シナリオのワラ人形に反する証拠を根拠なく主張し、明確に代替モデルを定義することなく、すべては"デザイナー"によって創造された以外に可能な説明がないと言い張ることで、彼らの"インテリジェントデザイナー"の存在を証明できると思っていることだ。この戦略のもとで、"デザイナー"が存在したならば、我々が見ることが期待できるものついて、いかなる詳細も記述されることがない。これから見ていくように、それは科学理論ではない。それは、ありきたりの間違っている、"Argument from dichotomy"(誤った二分法からの論)にすぎない。

もちろん、我々は、インテリジェントデザイン創造論者たちが"デザイナー" の性質について語りたがらない理由を知っている。もし語ってしまえば、インテリジェントデザイン創造論が宗教とは無関係だという彼らの主張を否定することになるからだ。彼らは個人的に、あるいは仲間内ではデザイナーの性質を認めているが、校区教育委員会や州教育委員会の前では認めない。インテリジェントデザインの本当の目的が、公立学校の授業に宗教をこっそり忍び込ませることなので、かれらはこの本のような一般向けに示されるいかなり論においても、彼らの"デザイナー"の真の性質をあらわにはできない。この政治戦略と同調して、この本の著者は、デザイナーの性質について用心深い(p. 330)。

しかし、彼らは板ばさみになっている。GonzalezとRichardsは、我々が実際に見るものが、「インテリジェントデザイナーがそれをした」ということがありそうだと示せない限り、勝利がないことに気づいていない。これは何故かといえば、考えられる仮説H1, H2, ... Hnのもとで、証拠Eを観測する見込みを比較することが、推論の基本ルールだからである。そして、そして最も見込みがある仮説が、その証拠によって最も支持される。明らかに、仮説がいかなるものか言わないと、仮説のもとでEを観測する見込みを計算できず、従って、その仮説はスタートラインに立てない。インテリジェントデザインの場合だと、インテリジェントデザイナーの性質と、それが存在するなら実世界がどうなるのかを記述しなければならない。

証拠が支持しないならGonzalezとRichardsはどう言うだろうか。彼らは、我々の宇宙が、知的で好奇心旺盛な生命を生み出す確率が、素晴らしくわずかだという話をする。しかし、その逆だったらどうだろうか。この宇宙が実は、知的で好奇心旺盛な生命の存在に都合がよいとしたら、どうだろうか。そのときは、GonzalezとRichardsはそのような宇宙はインテリジェントデザイナーによってデザインされた可能性は小さいと結論するだろうか? 私はそうは思えない。その場合は、彼らは宇宙の豊穣さを、"インテリジェントデザイナー"が存在することの証拠だと指摘するだろう。言い換えるなら、"デザイナー"が存在するという主張には、負けるポジションがない。どんな証拠が観測されても、この誤った理由付けは、彼らの"デザイナー"の存在を支持する。

しかし、障害がある。彼らは二股をかけられない。証拠Eが仮説Hを支持するなら、Eが誤りだという観測は、仮説Eを否定するというのが、推論の初歩的規則である。言い換えるなら、宇宙が豊穣であるという観測が、宇宙がデザインされていることを支持するのであれば、宇宙が豊穣でないという観測は、必然的に宇宙はデザインされておらず、デザイン論を否定する。

残念ながら、古典的なデザイン論(この本はその現代の例)は科学的には役に立たないことを意味する、あらゆるものが、何にも制約されない強力な"デザイナー"によるものだという主張を論破する考えれる証拠は、原理的にも存在しない。何故なら、そのような存在は、いかなる証拠も説明できてしまうからだ。真に科学的な仮説は証拠によって論破可能でなければならない。仮説を否定するような証拠を考えられなければならない(Pennock 1999, ch 6参照)。ミステリアスな"インテリジェントデザインー"の性質がまったく指定していされていない。だから、それが存在するなら、何が観測されると期待できるかについての予測を創りえない。従って、科学的仮説ではない。

たとえば、ファインチューニング論を考えてみよう:我々が存在するために"物理定数は正しい"という事実は、インテリジェントデザイナーの存在を支持することになっている。科学哲学者Elliott Sober(2003)はこの論を論破し、彼と独立に、Michael Ikedaと私(William H. Jefferys)も少し違った形で同様の指摘をした(Ikeda and Jefferys 1997)。デザインが真であることを示す"定数が正しい"確率は、自然主義的宇宙が真であることを示す"定数が正しい"確率よりも、はるかに大きいというのが、普通のデザイン論であるとSoberは指摘する。我々は、インテリジェントデザイン創造論者の見方において、この不等式が真であるのかどうか知りえないので問題は深くなる。というもは、インテリジェントデザインのコミュニティが頑として"デザイナー"の性質を規定するを拒否しているからだ。

Sober(2003) とIkeda and Jefferys(1997)は、この関係が、我々が存在することの説明に失敗すると指摘した。言い換えるなら、我々はここにいる(これを我々は知っていて、我々がここにいないとしたときのいかなる論もできない)ので、いかなる論もこれを説明に加えなければならない。従って、正しい比較は、(A) デザインと我々の存在を与える"物理定数が正しい"確率 vs (B) 自然主義的宇宙と我々の存在を与える"物理定数が正しい"確率である。自然主義的宇宙では、我々の存在自体が物理定数が正しいことを意味し、これは(B) の確率が1に等しいことを意味する。では、(A)はどうだろうか。明らかに、確率は1以下であり、(A)は1を超えられないので、(B)と(A)の比率は少なくとも1.0である。これは、観測される"定数は正しい"が自然主義仮説を否定しないことだ。

Soberは(A)も1だと言っているが、彼は重要な点を間違えている。デザイナーの性質が指定されておらず、全能の神であるかもしれないので、たとえば、デザイナーは物理定数が正しくなくても、我々が存在できる宇宙を創造できるかもしれない。恒星内部で炭素原子が作れないような物理定数が正しくない宇宙を例として考えてみよう。 GonzalezとRichardsは彼らの本で、1954年の注目に値するFred Hoyleによる炭素原子核と酸素原子核の特別な共鳴の予測に言及している(p.198)。これらの共鳴が予測されたのは、その共鳴がなければ、炭素原子と酸素原子は恒星内部で合成されることはない。炭素原子と酸素原子はビッグバンで合成されえないので、我々の存在は、宇宙が自然主義的であるなら、共鳴の存在を意味する。これは、特定の物理定数のかなり狭い予測範囲("定数は正しい")を導く。実際にも、共鳴が存在することが見つかっている。

これは、物理的事実についての予測が、感覚を持つ存在は、彼らが住まう宇宙は彼らの存在と整合するということを観測すべきであるという、いわゆる弱い人間原理から導かれた最初の例のひとつであり、最も良い例である。

しかし、宇宙がもし十分に強力なデザイナーによってデザインされていたら、物理定数が我々が存在するように正しくある必要はない。たとえば、デザイナーは炭素と酸素を恒星内部で生成できないような、物理定数が正しくない宇宙を創造できる。そして、かわりに(いかなる理由かはわからないが、気まぐれか、それとも科学的に微妙な手がかりによって我々に自らの存在を知らせようとしたのか)、必要な炭素原子と酸素原子を宇宙のいたるところにばらまいてもよい。そのようなデザイナーが存在すると考えるなら、Soberが主張するように、もはや(A)の確率は1ではなくなる。ここで、インテリジェントデザイン創造論者たちがデザイナーの性質を規定すること意図的に拒否していて、どんなデザイナーを考えても良くなっていることを思い起こそう。実際、(A)は1より小さく、おそらく非常に小さい。これは"物理定数が正しい"という我々の観測が、本当に自然主義的仮説とって強い証拠となるからだ。"物理定数が間違っている"という観測は、本当に、そして実際に自然主義仮説を反証する。インテリジェントデザイン創造論者はこの不等式を逆にしている。

また別の節では、GonzalezとRichardsは、莫大な数の宇宙あるいは無限個の宇宙が存在する多元宇宙を仮定する、いわゆる多元宇宙仮説(Many Worlds Hypothesis)を論破しようとする(p.268)。これについて、まず言っておかなければならないのは、多元宇宙仮説の動機がファインチューニング問題に対応するものだという考えがそもそも間違いだということだ。事実、これは、(Wilson Microwave Anisotropy Probeの最近の観測を含む)証拠によって最もよく支持される、主導的な宇宙論であるカオティックインフレーション理論の帰結である。カオティックインフレーション理論は、我々の宇宙の観測事実、たとえば均質性を説明するために発明されたものである。インフレーションのひとつの帰結は、宇宙が空間的にも時間的にも無限に広がっていて、インフレして我々の宇宙と同じような広がった、しかしおそらく物理定数が我々のものと違う宇宙になった多くの領域を含んでいるというものである。実際、この多元宇宙は非常の大きいので、我々の宇宙とまったく同じ宇宙を無限個含んでいるかもしれない。同様に、我々の宇宙とは違う宇宙を無限個含んでいるかもしれない。たとえば、そのひとつでは、私(William H. Jefferys)がインテリジェントデザイン創造論者で、GonzalezとRichardsが私のインテリジェントデザインを支持する論を論破しようとしているかもしれない。またある世界では私は相続財産を持っているかも知れず、私のゲノムタイプの特定遺伝子がCがAに置き換わっているかもしれない (Seife 2004参照)。

GonzalezとRichardsによる多元宇宙の反証は納得できない。本当に無限個の宇宙が存在しうることを否定し(p.268 -- 彼らはどこで数学を学んだのだろうか)、「他の宇宙が存在すると考えられる証拠はない」と主張するが、この主張は次の理由により間違っている。ひとつめの理由は、宇宙論における最も支持される理論の予測であり、これは証拠によって強く支持されている。さらにふたつめは、このモデルのもとで、我々の存在が多元宇宙を証拠として支持する(この仮説のもとでは、選択効果が含まれる。我々は世界の、"物理定数が正しい"ほんの小さな一部のひとつに存在できればいい。であるなら、我々の存在は別の世界たちの存在を意味する。)

Mark Perakh (2004)が別のコンテキストで指摘するように、多元宇宙仮説には何らと区別に気前のよさがあるわけではない。ひとつには、これが我々の宇宙が現に存在するという観測事実に基づいている。我々の宇宙が存在するから、我々の宇宙とは異なるほかの宇宙を、自然主義的過程が作り出したと考えるのはもっともなことである。物理がひとつの宇宙を作れるなら、無限個の宇宙を作ることを妨げるものは原理的に存在しない。実際に、それは予測されている。これに対して、宇宙のインテリジェントデザイナー仮説は、まったくの憶測に過ぎない。Perakhが指摘するように、古代の矛盾した伝説以外に、そのようなデザイナーの存在を指摘するひとつの観測事実もない。

多元宇宙の議論において、GonzalezとRichardsはJohn Leslieによる間違った論を繰り返す(p.270)。それは、ナチの銃殺隊を生き延びた仮定上の士官が、これは偶然(ナチの銃殺隊は全員ミスった)ではなく、デザインされた(ナチの銃殺隊は意図的に銃殺に失敗した)と結論するようなものだ。

我々はこのアナロジーからの類推で、士官が偶然ではなくデザインだと結論したのは非常に確率の小さい出来事だからであり、よって我々は宇宙についても同様にみなすべきだと推論したとしよう。既知の意図がない自然主義的な宇宙と、インテリジェントデザイン創造論者の政治的動機を損なうことなく、その意図を規定できない根拠なく主張される"デザイナー" と、意図が明確にわかっている銃殺隊の違いは明らかであり、この論はまったく愚かであり、Sober(2003)によって論破されている。アナロジーは危ういものである。

最後に、我々の地球は、科学的探求をする居住者のために特別にデザインされていて、同様に我々が科学的探究をするために宇宙はデザインされているという、GonzalezとRichardsの主張に立ち返っておこう。GonzalezとRichardsは、地球の大気の透過性や、素晴らしい日食が起きるように、地球から正しい距離に月があるという事実など、我々の科学研究を推進するような数多くの現象を指摘する。もちろん、この本の論は、あまりに弱すぎる。本末転倒だ。たとえば、我々が地球とはまったく違う別世界にいたとしても、我々はまったく同じことをするだろう。我々は、自らが置かれた状況下で可能なことは何でもするだろう。もし、GonzalezとRichardsのホイッグ的論理を認めるなら、我々は我々が偶然何かしようとしたときや、何かを見つけたときにはいつでも、我々の惑星、そして我々の宇宙はそのようにデザインされたものだと結論することを正当化するだろう。多様な人類の文化がいつでもそうしてきたように。GonzalezとRichardsはほんの少し人類学と歴史を学んでいれば、多くを知ることが出来ただろう。

まとめると、この本のわずかな新しいネタは面白くなく、古いネタは、現代の新しい天文学のコスチュームをまとわせた古い創造論でしかない。それは古いイカサマと同じだ。テキサス大学天文学科でのポスドクの頃から彼のことを知っているが、Guillermo Gonzalezが、この古い論の主張者としてだまされるのは最低だ。デザイン論(Argument from Design)は200年前のものであり、それ以上古くないにしても、それからまったく進んでいない。それからの時間に積み重ねられた新しい知識からいかなる結果も出していない。現代天文学は常に宇宙についての新しい知識と理解を生み出し続けている。そして、Guillermoは前途有望な天文学者であり、こんなナンセンスで経歴を捨てないことを望む。

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