創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

STSとしてのインテリジェントデザイン>STSのアンチサイエンス

1990年代のSTSの気候変動否定論(4) Mary DouglasとAaron Wildavsky


1990年代の社会学者たちによる気候変動否定論への関与を調べたSven Ove Hansson (2020) は、Crononに続いて、社会学者Mary Douglas(1921–2007)とAaron Wildavsky(1930–1993)を取り上げた。彼らはおそらく気候変動否定論を正しいと信じたようである。
Mary Douglas(1921–2007)とAaron Wildavsky(1930–1993)の高い影響力のあるリスク文化理論は、(個人あるいは文化的)思考形態とは独立に存在する真の危険への社会的対応という観点ではなく、リスクと危険の文化的構造の観点から説明するように促進した。 (Douglas and Wildavsky 1982; Antonio and Clark 2015, pp.340–341)。後の研究で、両者はいずれも、気候変動否定論の立場を擁護した。

1992年、Aaron WildavskyはRobert C. Ballingの温暖化否定論本のイントロダクション(Wildavsky 1992)を書いた。この記述は、温室効果ガス排出量削減に反対するものだった。そのような措置は、米国の「産業空洞化」(p.xvi)につながり、「我々の生活水準をひどいレベルにまで下げる」(p.xxi)だろう。リスク文化理論と完全に一致して、彼は地球温暖化を「環境恐怖」として否定しました(p.xv)。代わりに、「より大きな危険は、地球温暖化の名の下に我々の行動を制御する人々から来る」(p.xx)。

Wildavskyは、死後出版された著書「But is it True?」の中で、広範囲の環境問題が通常想定されているより、全然深刻ではないと証明しようとした。Wildavskyの議論は、査読された独立した科学ではなく、産業界が後援する情報源による主張に主に基づいており、その多くは科学的コンセンサスに反していた。地球温暖化に関する章は、さまざまな否定論主張の一貫性のない寄せ集めである。Wildavskyは、地球の表面積の1.9%を占める米国の気温記録に基づいて、地球温暖化の証拠を否定した。Wildavskyはさらに、温暖化は「海洋や風、太陽放射などの他の要因」によって変化または逆転する可能性があると主張し(Wildavsky 1995, p.397)、地球は寒冷化しているかもしれないと主張し、CO2の増加は地球上の生命の生存条件を向上させるだろうと憶測した。

2003年の論文で、Mary Douglasと2人の共著者は、気候科学とその反対者の間で中立であると宣言し、「あるグループの予測が他のグループよりも本質的に合理的または正確であるとは想定していない」と述べた。彼らは、この問題が「厳密に科学的な理由で合理的な選択をすることによって」解決できることを否定し、代わりに「動的な複数の対立する視点を維持し、育む」べきであると主張した (Douglas et al. 2003, p.107)。

2006年、Douglasはこの立場を繰り返した。Douglasは、地球温暖化に関する討論で、「それぞれの側が、疑わしい危険についての新事実を研究するために多額の資金を費やしているが、新事実が問題を解決することはないだろう。各当事者が異なる文化的プラットフォームから話しているため、見解は一致することはない」と書いた。Douglasの立場は文化理論に基づいており、どちらの側も「彼らの忠誠心と道徳的原則、そして彼らの社会の他のメンバーに対する彼らの責任」を表現しているだけなので、どちらの側も「非合理的でも不道徳的」でもないことを示している (Douglas 2006, pp.9–10)。同じメッセージは同じ年の本の章でも繰り返され、Douglaと共著者が、気候変動に関する政府間パネルを「民主主義の侵食」として否定し、「事実と価値の明確な分離」を「欠陥のある」政策指針として説明した(Verweij et al. 2006a, p.20. Also in Verweij et al. 2006b, pp.839–840)。

Douglas, M., & Wildavsky, A. (1982). Risk and culture: an essay on the selection of technological and environmental dangers. Berkeley: University of California Press.
Douglas, M., Thompson, M., & Verweij, M. (2003). Is time running out? The case of global warming. Daedalus, 132(2), 98–107.
Douglas, M.. (2006). A history of grid and group cultural theory. Downloaded September 26, 2019
Verweij, M., Douglas, M., Ellis, R., Engel, C., Hendriks, F., Lohmann, S., Ney, S., Rayner, S., & Thompson, M. (2006a). The case for clumsiness. In M. Verweij & M. Thompson (Eds.), Clumsy solutions for a complex world. Governance, politics, and plural perceptions (pp. 1–27). Palgrave Macmillan: London.
Verweij, M., Douglas, M., Ellis, R., Engel, C., Hendriks, F., Lohmann, S., Ney, S., Rayner, S., & Thompson, M. (2006b). Clumsy solutions for a complex world: The case of climate change. Public Administration, 84(4), 817–843.
Wildavsky, A. (1992). Global warming as a means of achieving an egalitarian society: An introduction. In R. C. Balling Jr. (Ed.), The heated debate. Greenhouse predictions versus climate reality (pp. xv–xxxvi). San Francisco: Pacific Research Institute for Public Policy.
Wildavsky, A. (1995). But is it true? A citizen’s guide to environmental health and safety issues. Cambridge: Harvard University Press.


[ Sven Ove Hansson: "Social constructionism and climate science denial", European Journal for Philosophy of Science volume 10, Article number: 37 (2020) ]


Hansson (2020)が例示した記述を少し長めに見てみる。

まず、始まりの1992年、Wildavskyによる地球温暖化否定本のイントロダクションから。
Meanwhile, back in the mundane world of public policy, the threat of global warming will be used to justify nothing less than changing how we live. Private cars will give way to public transport. Every source of greenhouse gases will be regulated. The reduction of cattle herds may be justified on the grounds that their backsides emit too much methane; besides, they are too high on the food chain anyway. Then we will discover that carbon dioxide is nei-ther the only nor the most important greenhouse gas by volume. Regulating methane, for instance, will involve curtailing rice production and other forms of agriculture. (When the regulators can reach termites I must leave what will be done to the reader's imagination.) Water vapor, by far the largest greenhouse gas, opens up limitless possibilities. In short, agriculture, industry, transportation, practically everything can be regulated with the aim of (or in the guise of) limiting global warming. One of many worries is that if the proponents have their way, by the time we know whether and to what extent global warming has occurred, the United States will have started down the path to deindustrialization, so that the knowledge and organizational capacity to cope with climate change will also have deteriorated. A closer look at the arguments, viewing the scientific positions through a cultural lens, will enable us to follow not only the "technics" but the "politics" of global warming.

一方、公共政策の平凡な世界に戻ると、地球温暖化の脅威は、我々の生活を変えることに他ならないことを正当化するために使われる。自家用車は公共交通機関に取って代わられる。温室効果ガスのすべての発生源が規制される。牛の頭数の削減は、メタンを過剰に放出するという理由で正当化されるかもしれない。その上、牛はとにかく食物連鎖で上位すぎる。次に、二酸化炭素が体積で唯一でも最も重要な温室効果ガスでもないことを発見する。たとえば、メタンの規制には、コメの生産やその他の形態の農業の削減が含まれる。 (規制当局がシロアリに到達したとき、何は起きるかは、読者の想像にまかせよう。)はるかに最大の温室効果ガスである水蒸気は、無限の可能性を開く。要するに、農業、産業、輸送、事実上すべては、地球温暖化を制限する目的で(またはそれを装って)規制できる。多くの懸念の1つは、気候変動支持者が好き勝手すれば、我々が地球温暖化の起きたか、あるいはどの程度起きたか知ったときには、米国は産業空洞化への道を歩み始め、それ対処する知識と組織力は失われているだろう。文化的レンズを通して科学的な立場を見ながら議論を詳しく見れば、我々は地球温暖化の「テクニック」のみならず「政治」も見通せるだろう。

[Wildavsky, A. (1992). Global warming as a means of achieving an egalitarian society: An introduction. In R. C. Balling Jr. (Ed.), The heated debate. Greenhouse predictions versus climate reality (pp. xv–xxxvi). San Francisco: Pacific Research Institute for Public Policy.]

温暖化否定論本のやめの記事なので、そのストーリーを追認する記述である。ただし、Dr.S Fred Singerが自然科学の枠内でカウンターを放っているのに対して、社会学者として、社会との関連での主張を提示している。

この流れは1年後でも変わらず、「厳密に科学的な理由で合理的な選択をしただけでは、地球温暖化の問題が解決されることは決してない」と主張している。
Does global warming put the future of the world at risk? Is time running out? Or should we take our time in order to investigate and evaluate soberly the possible risks presented by greenhouse gases? We don't have the answer to these questions. But our cultural theory teaches us that vigorous debate among rival perspectives is the best way to address them. That is because the issue of global warming will never be resolved simply by making a rational choice on strictly scientific grounds. It is a battle, as well, between groups of actors with different perceptions of time that derive from conflicting ways of organizing and justifying social relations. Unlike the rational choice theorists, we do not assume that one group's predictions are inherently more rational or accurate than another's. Unlike the post structuralists, we do not shy away from concluding with a normative generalization : If this sort of institutional turmoil intensifies as we approach various environmental limits, then one policy challenge will be to maintain and nurture a dynamic plurality of contending points of view. Wisdom will lie in remaining open to, and appropriately critical of, each one.

地球温暖化は世界の未来を危険に陥れるだろうか? 時間は尽きようとしているのか? それとも、温室効果ガスによりもたらさるリスクを冷静に調査および評価するために時間をかける必要があるだろうか? これらの問いに対する答えはない。しかし、我々の文化理論は、ライバルの視点の間で活発な議論がそれらに対処するための最良の方法であることを教えてくれる。それは、厳密に科学的な理由で合理的な選択をしただけでは、地球温暖化の問題が解決されることは決してないからである。それはまた、社会的関係を組織し正当化する矛盾した方法から派生する、時間の認識が異なる当事者グループ間の戦いでもある。合理的選択理論家とは異なり、あるグループの予測が他のグループの予測よりも本質的に合理的または正確であるとは想定しない。ポスト構造主義者とは異なり、我々は規範的な一般化で結論を出すことをためらわない:さまざまな環境限界に近づくにつれて、この種の制度的混乱が激化した場合、1つの政策課題は、動的な複数の対立する視点を維持し、育むことである。それぞれに対してオープンであり、適切に批判的であり続けるところに、知恵が生まれる。

[ Douglas, M., Thompson, M., & Verweij, M. (2003). Is time running out? The case of global warming. Daedalus, 132(2), 98–107. ]

気候変動否定論を併存させておく方が適切だという主張を社会学の範疇で述べているが、これは、否定論の世界で見れば、「まだ論争中で確定していない」という状況を作り出す「製造された論争(Manufactroversy)」という戦術そのものである。


次はBrian Wynne




コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます