創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

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Jason Rosenhouseの「自然選択はトートロジーか」


James Madison Universityの数学科のJason Rosenhouse準教授の連載コラム: CSICOP: Evolution and Creationから、「Is Natural Selection a Tautology? (自然選択は、トートロジーか?)」を紹介する。

かつて、自然選択と適者生存はトートロジーだという主張は創造論者のデフォな主張だった[ Gish 1981 ]。もちろんそれはFAQな間違いであり、今や創造論者も放棄している

そもそも、適者生存は自然選択の別名であり、"Origin of Species"では、"Survival of fittest"(適者生存)は使われていない。そして、"Origin of Species, 6th Edition" で登場する:
I have called this principle, by which each slight variation, if useful, is preserved, by the term natural selection, in order to mark its relation to man's power of selection. But the expression often used by Mr. Herbert Spencer, of the Survival of the Fittest, is more accurate, and is sometimes equally convenient.

個々の少しの変化が、もし有益であれば保存されるというこの原則を、人間の力による選択との関係で、自然選択(選択)という用語で呼んだ。しかし、Herbert Spencerによって、しばしば使われる適者生存という表現が、より正確で、ときには手頃である。

(CHAPTER III. STRUGGLE FOR EXISTENCE.)

しかし、インテリジェントデザイン系の反進化論本[ Ann Coulter: Godless: The Church of Liberalism ]で未だに主張されている。これを批判したのが、Jason Rosenhouseの連載コラムだ。


Jason Rosenhouse: "Is Natural Selection a Tautology?
自然選択は、トートロジーか?

Ann Coulterの新刊本"Godless: The Church of Liberalism"が New York Timesで現在ベストセラーリストの第1位にいる。この本は進化論について4章をさいている。これらの章で、右翼な論客として知られるCoulter は、進化を、政治的リベラルの創造神話と々な見せ掛け科学以外の何ものとして描写しようとする。生物の初歩を知っていれば、この文章を読めば、とても奇異に感じるだろう。あらゆる反進化論文献と同じく、提示される論は間違っていて、しかも混乱してCoulterが何を指摘しているか、しばしばわからなくなる。

このエッセイでは、Coulterが基礎とした論の一つだけを扱う。この連載のコラムの動機は、常に基本的な生物学の質問に対して、はっきりした考えを進めるための道具として味気のない創造論者の無駄口を使いたいというものだった。何故Coulterによる進化生物学のカリカチャーが間違っているかを注意深く考えることで、本物をよく理解できるようになることを望む。

問われる論は「The Tautology Objection (トートロジー異論)」と呼ばれるもので、Coulterのバージョンでは:

The second prong of Darwin’s “theory” is generally nothing but a circular statement: Through the process of natural selection, the “fittest” survive. Who are the “fittest”? The ones who survive! Why look it happens every time! The “survival of the fittest” would be a joke if it weren’t part of the belief system of a fanatical cult infesting the Scientific Community.

The beauty of having a scientific theory that’s a tautology is that it can’t be disproved. Evolution cultists denounce “Creation Science” on the grounds that it’s not “science” because it can’t be observed or empirically tested in a laboratory. Guess what else can’t be observed or empirically tested? Evolution! (pp. 212-213).

ダーウィンの"理論"の第2の枝は、一般には循環論法にすぎない: 自然選択の過程によって、"適者"が生存する。誰が"適者なのか? それは生存したものだ! それはいつでも起きる。"適者生存"は科学界を侵す狂信的カルトの信仰の一部でないなら、ただの冗談だろう。

トートロジーである科学理論を持つ美しさは、それが反証できないことだ。それが、それが観察できないか、研究所で経験的に検証できないのでそれが「科学」でないという理由で、進化論熱狂者は「創造科学」を非難する。何が他に観察されることができないか、経験的に検証できないかについて推測できるか? 進化論! (pp. 212-213)。

保守系コメンテーターであるTom Bethellは、昨年12月のNational Review Onlineで、主たる点を明解に表現した:
Darwin's claim to fame was his discovery of a mechanism of evolution; he accepted “survival of the fittest” as a good summary of his natural-selection theory. But which ones are the fittest? The ones that survive. There is no criterion of fitness that is independent of survival. Whatever happens, it is the “fittest” that survive by definition. (Emphasis Added)

ダーウィンの名声は進化のメカニズムの発見によるものだ。彼は"適者生存"を自然選択の理論のよい概要として受け入れた。しかし、何が適者なのか? それは生存したものだ。生存と独立した適者の基準はない。 何が起きようとも、定義上、適者は生存する


適者をどう定義するかの詳細を考える前に、まずこの論の怪しい点に注意しなければならない。CoulterとBethellはここで、最近の発見が進化を不適切な理論だと示したとは言っていない。そうではなく、彼らは科学者が単純な論理的不注意をしたと主張している。Bethellが同じ論を提示した Harper's Magazineの記事に対する反論として、古生物学者Stephen Jay Gouldは次のように書いた:
Bethell’s argument has a curious ring for most practicing scientists. We are always ready to watch a theory fall under the impact of new data, but we do not expect a great and influential theory to collapse from a logical error in its formulation.

Bethellの論は大多数の活動中の科学者にとって奇妙なリングを持っている。我々は常に、新しいデータの結果によって理論が崩壊するのを見る用意ができている。しかし、その構築のときの論理エラーによって影響力の大きい理論が崩壊するとは考えていない。

本当に。科学者は結論に飛びつたり、不適切なデータから誤った理論に到達することは大いにある。しかし、科学史上で、賢明な外部からの論理的不注意に気づいただけで、主流の座に着いた理論が分解してしまったことは一度もない。進化論がトートロジーだと示唆するCoulterとBethellの構成は、彼らが攻撃対象としている理論を理解していない(あるいは、意図的にゆがめているかだが、これは我々は考慮しない)。

では、可能な限りもっとも直接的な形でこの論に反論しよう。進化論では生存したものが適者だと定義されていると主張されている。これは、論の要点である、そして完全に間違っている。実際には、適者とは、身体的特徴と彼らが見つかる環境に基づいて、最も多く子孫を残すと期待されるものだ。これをGouldは次のように説明した:
My defense of Darwin is neither startling, novel, nor profound. I merely assert that Darwin was justified in analogizing natural selection with animal breeding. In artificial selection, a breeder's desire represents a “change of environment” for a population. In this new environment, certain traits are superior a priori; (they surive and spread by our breeder's choice, but this is a result of their fitness, not a definition of it). In nature, Darwinian evolution is also a response to changing environments. Now, the key point: certain morphological, physiological and behvioral traits should be superior a priori as designs for living in new environments. These traits confer fitness by an engineer's criterion of good design, not by the empirical fact of their survival and spread. It got colder before the wooly mammoth evolved its shaggy coat.

私のダーウィンの擁護論は、別に驚くようなものでも、目新しいものでも、深いものでもない。私は、ダーウィンは自然選択のアナロジーとして動物のブリーディングを挙げたことは正当だったと主張するだけだ。人為淘汰における畜産家の要求は、集団にとっては"環境の変化"を意味する。この新しい環境では、ある特徴はアプリオリに優れている。それらは畜産家の選択によって生存し、増殖する。それは適応性の結果であって、定義によるものではない。自然においては、ダーウィンの進化は、同じく環境の変化への応答である。今やキーポイントは:特定の形態や、生理的あるいは行動の特徴が、新たな環境で生きていくためのデザインとして、アプリオリに優れていなければならない。これらの特徴はエンジニアの基準で適応となるのであって、彼らが生き残って増殖したという経験的事実からではない。ウーリーマンモスが毛皮を進化させる前に、寒冷化したのだ。

ある生物集団が見つかる場所の環境についての完全な情報が我々にあるとしてみよう。さらに、我々は集団において、遺伝可能な変種の範囲を完全に知っているとしよう。この状況下では、我々は集団の将来の進化について、確定的なことが言える。一群の科学者がこれらの情報を調べて、集団のメンバーのどれが最適者であるかのコンセンサスに到達できる。これがただ生存したということの独立な、適者の基準となる。

しかし、これがすべてではない。将来の予測は進化生物学のほんの一部にすぎない。進化の興味深いイベントの大半は、遠い過去に起きている。過去が科学者に提示する問題を解明し説明することは、前のパラグラフで考えたこととは正反対になる。現在の環境について与えられた情報によって、種の将来の進化を予測しようとするかわりに、今度は我々は、生存した生物の種類から与えられる情報によって、先祖の環境を理解しようとする。

このコンテキストでは実際に、科学者は、長い時間にわたって持続し発展する特徴が、彼らが先祖から受け継いだ適応上の有利の故だと仮説を立てる。ここで重要なことは、これが探求の始まりであって、終わりではないことだ。探求中の特徴が長きにわたる自然選択の結果から現れたという仮定は、探求対象の生物について検証可能な仮説を作るために用いられる。生物学者 George C. Williamsは、"Plan and Purpose in Nature"という本で次のような例を提示した:
Productive use of the idea of functional design, in modern biological research, often takes this form: an organism is observed to have a certain feature, and the observer wonders what good it might be. For instance, dissection and examination of a pony fish shows it to have what looks like a light-producing organ, or photopore, and even a reflector behind it to make it shine in a specific direction. So we accept the conclusion that the organ is good at producing light, but the obvious question then becomes, What good is light? The pony fish photopore is deep inside the body. Can it really be adaptive for a fish to illuminate its own innards?

機能的デザインという考え方を生産的に使うことは、現代生物学の研究では、次のような形をとることが多い:ある生物が特定の特徴を持つと観察され、観察者はそれが何の役に立つのかと疑問に思う。たとえば、ポニーフィッシュを解剖調査して、発光器官のようなものと、その後ろにリフレクターのようなものがあって、特定方向に輝かせるようになっているとわかったとしよう。我々はそれらの器官が発光に有効だという結論を受け入れるが、光に何のご利益があるのかという明らかな問題が出てくる。ポニーフィッシュの発光器官は体内深くにある。自らの内臓を照らして適応的によいことがあるだろうか?

The organ is situated above the air bladder, and the light shines downward through the viscera. The pony fish is small and its tissues are rather transparent. Some of the light gets through and produces a faint glow along the ventral surface. But what is the use of a dimly lit belly? Perhaps it makes the pony fish more difficult to see in the special circumstances in which it lives. It inhabits the open ocean, where it may move toward the surface as darkness approaches, but spends the daylight hours far below at depths where the light is exceedingly dim by our standards, detectable only as a murky glow from above.

発光器官は浮き袋より上にあり、光は内蔵を通して下方に輝く。ポニーフィッシュは小さく、その組織はむしろ透明だ。光の一部は腹部を通過し、その表面にかすかな輝きを作る。ぼんやりと光った腹部は何の役に立つのだろうか?おそらくは、それが生きている特殊な環境では、ポニーフィッシュを視認しにくくするのだろう。ポニーフィッシュは暗い時は海面に向かって動き、昼間は海洋深くの我々の基準からすれば非常に暗い、上からの弱い光のものでしか見つけられないところで生活している。

Williamsは、この仮説が、どのようにして、カモフラージュを第一の機能として持つような光度を、ポニーフィッシュの発光器官が持っていること検証する実験を導けるかを説明する。科学において、淘汰を基礎とする論理がどのように使われるかの素晴らしい具体例だ。

自然選択が、生物学研究の抽象的な原則として使われることはない。"適者生存"は自然選択について何が重要かをつかんだキャッチーな表現だが、専門家の研究論文ではあまり見かけることはない表現だ。そのかわりに、科学者は、特定の環境で特定の特徴から得られる適応の有利さについての特定の仮説を提案する。たとえば、暗色化した蛾は明るい色の蛾よりも暗色の樹木にとまるときに捕食者たる鳥に見つかりにくいというのは、何らトートロジーではない。

このような形で科学者に使われる論理は、歴史家が特定の事件がそのように起きたのが何故かを理解しようとするのと同じだ。19世紀米国を研究している歴史家は、その研究を南北戦争で北軍が勝ったという事実から始めるだろう。このスタートポイントから、自然と、北軍が南軍に勝つことが出来た有利な点は何かを問うことになるだろう。しかし、北軍がそのような有利な点を持っていたという仮定は、歴史家の研究のすべてではない。そして、誰も、歴史家の研究が循環論法に基づくものだという合理的な異論を考えることはないだろう。

さて、長きにわたる進化の歴史を生き残る生物の集団は、戦争の勝者のようなものであり、ここでは生存者である。生き残れたものが、生き残れなかったものより何らかの有利な点を持っていたと仮定することは完全に合理的だ。これらの有利な点の正確な性質を定めることは、実際上は困難な問題となるかもしれない。しかし、有利な点が存在することは確実に何の問題もない。

我々はトートロジー異論について2つの答えを提示した。ひとつめは、生存から独立した適者の基準がないという中心的全体が間違っているということ。ふたつめは、示唆されるように"適者生存"が表現するような単純な形で、実際に自然選択が適用されないということ。そうではなくて、科学者は選択を基礎とする論理を、研究対象とする生物について、特定の検証可能な仮説をつくるために使う。

Stephen Jay Gouldはかつて、創造論者は、進化論に反する論理を作るとき、それがどんなに空虚でも、何度論破されても、その論理を使おうとするという"まったくの恥知らず"だと見た。彼は創造論者と並んで右翼の扇動家も含めていたかもしれない。"トートロジー異論"は進化論の最も基本的な要素を熟知した者による、検査を生き残れない。

Coulterがあまりに不正直に論点を挙げて、その結果として本は売りまくっていることは、政治的な右にいる多くの人々にとって、Coulterが話していることを知ることが何の価値を持たないことを証明している。



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