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John Cleves Symmes Jr.バージョンの地球空洞説


wikipedia: John Cleves Symmes Jr.(訳時点: 04:35, 8 September 2019‎ )

John Cleves Symmes Jr. (1780/11/1-1829/5/28)は米国の陸軍将校、貿易商、講師であり、1818年に発表した、南北極で空洞とつながっているという地球空洞説の変種で有名である。



空洞地球


Symmes' Circular No. 1, 1818

I declare the earth is hollow, and habitable within; containing a number of solid concentrick spheres, one within the other, and that it is open at the poles 12 or 16 degrees; I pledge my life in support of this truth, and am ready to explore the hollow, if the world will support and aid me in the undertaking.

私は、地球が空洞であり、内部が居住可能であると言明する。 多数の固体同心円球が含まれ、一方が他方の内部にあり、12度または16度の極で開いている。 私はこの真実を支持して自分の人生を誓い、世界が事業を支援してくれるなら、空洞を探求する準備ができている。

— John Cleves Symmes Jr., Symmes' Circular No. 1



言明と反応

1818年4月10日、Symmesは自分の地球空洞説を世界に公表すべく、Circular No. 1.を出版した。少数の熱心な支持者が「西のニュートン」として、Symmesを究極的にもてはやしたが、世界は感銘を受けなかった。

Symmesは(本人にとってはかなりの費用で)「著名な外国政府、現王子、議会、市、大学、および哲学学会全体、議会の全議員たちに、合わせて最大500部」を送付した。Symmesの息子Americusは、1878年のCircular No. 1への反応を次のように書いている。「[i]ts reception by the public can easily be imagined; it was overwhelmed with ridicule as the production of a distempered imagination, or the result of partial insanity. It was for many years a fruitful source of jest with the newspapers.(大衆の反応は容易に想像できた。狂った想像力あるいは部分的な狂気として笑いものにされた。長年にわたり、新聞の笑いものネタになった。)」 しかし、Symmesは思いとどまらなかった。彼は自分の地球空洞説を擁護・宣伝するべくサーキュラー・ニュースペーパーレター・講演のキャンペーンを始めた


[ Illustration from Symmes's Theory of Concentric Spheres ... , 1878 ]


Symmesの理論

Symmesの地球空洞理論は、もともとは、世界を5つの同心球で構成され、外側の地球とその大気が最大であると記述していた。Symmesは地球の地殻が厚さ1610kmで、北極の開口部が約6450kmの幅、南極の開口部が約9650kmの幅であり、これらの極開口部の縁の曲率は、内部地球へ実際には移行を意識することなく入れほど緩やかであると提唱した。彼は、地球の自転の遠心力により、地球の極は平らになっており、内部地球への広大な通路が形成されていると主張した。地球の表面を内部地球に接続する極開口部というSymmesのコンセプトは、地球空洞説の伝説にユニークな貢献をした。kこのような極開口部は、地球空洞説文献で「Symmes Holes」として知られるようになった。

地球空洞説の同心球の内側表面は、次の同心球の外側表面で反射した太陽光により照らされており、居住可能で、「温暖で豊かな大地で、人間はいないとしても、動植物が繁殖している」とSymmesは主張した。彼はまた、同心球はそれぞれ異なる速度、異なる軸で自転しており、磁北の見かけの不安定性は、旅行者が内部地球と外部地球の間を気づかずに越えたことにより説明できると考えていた

Symmesは彼の理論を地球以外へと一般化し、「地球と同様に、太陽をめぐる天体には、眼に見えない天体にも目に見える天体にも、最大の天体から最小の天体まで、惑星の性質に関連して、太陽から最も小さな隕石や流星まですべて、程度の差はあれ、なんらかの同心球がある」と主張した

最終的に、Symmesは自分の理論を単純化し、複数の同心球を放棄し、東海岸の講義ツアーに着手する前には「5つではなく、1つの同心球(空洞地球)」を語るようになっていた


[ Symmes Hole, from Harper's New Monthly Magazine, 1882 ]


Symmesの理論の起源

1817年8月、Symmesは義理の息子であるAnthony Lockwoodに初めてすべての惑星と地球は空洞であると推測する」と述べた。しかし、Symmesの理論は前例のない者ではなかった。空洞地球につながら極開口部というアイデアはSymmesのイノベーションだったが、地球空洞というコンセプトは17世紀のEdmond Halleyに遡る知的伝統があった。Halleyは地球の極と磁極の位置が異なることを説明するものとして、空洞地球を提唱した。Halleyの同時代人たちは、彼の収集した地磁気データに興味深いものがあることに気づいたが、空洞地球という彼の提案は広くは受け入れられなかった。理論はHalleyにとって大切なものだった。(王室天文官としての)の最後の肖像画として、彼は内部が同心球となっている地球の絵を持っている姿を選んだ。一部の学者たちは、SymmesがCotton Matherの本「The Christian Philosopher, a popular survey of science as natural theology」で、Halleyの地球空洞説を知ったのかもしれないと主張した

スイスの数学者Leonhard Eulerは、しばしば地球空洞説の提唱者だと主張される。Eulerのものだと主張される地球空洞説には、Halleyが提唱した同心球はなかったが、内部太陽という要素が加えられていた]]。しかし、Eulerは実際にはそのようなことを示唆したことはなかった。Euler研究家の C. Edward SandiferはEulerの著作を調べ、そのような信念を持っていたという証拠を見いだせなかった

Eulerが地球空洞説を提唱していたか否かにかかわらず、Symmesと彼の同時代人の幾人かは、Eulerがそう主張していたと信じていた。1824年のSymmesとのニュースペーパーレターの交換で、D. Prestonは、Symeesの理論は初出のものではなく、HalleyとEulerを初期の例として引用していると書いた。Symmes自身は、理論を思いついたとき、HalleyやEulerが地球空洞説を提唱したことを知らず、ずっと後になってから、そのことを知ったと述べている。Symmesの弟子James McBrideは自著「Symmes's Theory of Concetric Spheres」(1826)で、同様の理論の提唱者としてEulerを引用して、Symmesの理論を宣伝・解説した。


サーキュラー・講演・Symzonia

Symmesは理論発表後の2年は、宣伝活動をサーキュラー新聞や雑誌へのレター掲載に限定していた、1818年から1819年にかけて合計で7つのサーキュラーを発行し、同心球の間の光などを含み、National Intelligencerへの掲載により、全国民に届けられるようになった。しかし、Symmesは改宗者を得たものの、彼の理論は一般には笑いものにされ続けた

1819年、Symmesは家族をセントルイスからケンタッキー州ニューポートへ移した。そして、1820年に、Symmesはシンシナティやその方面の町や都市で、極部分を切り取って地球内部と内側の球殻が見えるようにした木製の地球儀を使った講演を行い、直接的な宣伝活動を開始した。(Symmesが加工した地球儀は、現在は、Drexel UniversityのAcademy of Natural Sciencesのコレクションで見られる。)Symmesは威厳のある講師ではなかった。彼は講演者としては不快で、話すのをためらい、不幸な鼻声の持ち主だった。それでも彼は耐えた。


[ Symmes Globe (at Academy of Natural Sciences, Drexel University ]

Symmesは改宗者を作り始め、彼のアイデアは一般大衆に浸透し始め、彼の提案した北極遠征に対する一般的な支持が構築され始めた。1820年に、彼はシンシナティのWestern Museumのため、画家John J. Audubonによる未完の肖像画のために座った。Audubonはスケッチの裏に「John Cleeves Simms 極に穴とともにある男、描かれ、良い姿」と書いた

Captain Adam Seabornが書いたと称する"Symzonia; Voyage of Discovery"の真の著者はSymmesだと主張する者もいる。最近の出版ではSymmesを著者としているものもある。これに反論する研究者たちもいる。これは、Symmesの考えを風刺したもので、初期の米国の作家Nathaniel Amesによるものだと主張する者もいる


[ Frontispiece to Symzonia. ]


McBrideとReynolds 弟子たち

Symmes自身は講演旅行で説明することに忙しく、自分アイデアの本に書くことはなかった。しかし、他の者が執筆した。彼の支持者であえるJames McBrideは1826年に「Symmes' Theory of Concentric Spheres」を執筆出版した。もう一人の支持者Jeremiah N. Reynoldsの記述は、1827年にAmerican Quarterly Reviewの別冊ブックレットとして「Remarks of Symmes' Theory」が掲載された。1868年にW.F. Lyons教授はSymmesに似た地球空洞説を記述した「The Hollow Globe」を出版したが、Symmesについては言及しなかった。Symmesの息子Americus Symmesはその後「The Symmes' Theory of Concentric Spheres」を再販し、記録を修正した。


[ Map of the northern polar regions hand drawn by John Cleves Symmes Jr. ]


Americus Symmes

Symmesの長男Americus Symmesは父親が死んだとき17歳で、彼が家族の唯一の支持者であり、ほとんどが借金である資産を受けえ継いでいた。Americusは母親と弟妹を養い、父親の借金を返済した。彼はまた父親の伝説を擁護し、父親への記念碑を建て(空洞球の形状に掘られた地球を頂きに持つパイロン)、1878年に父親の論文を編集した論文集「Symmes's Theory of Concentric Spheres: Demonstrating That the Earth is Hollow, Habitable Within, and Widely Open About the Poles, Compiled by Americus Symmes, from the Writings of his Father, Capt. John Cleves Symmes」を出版した。(類似タイトルのJames McBrideの1826年の本とは別物)


[ Symmes' Hole—in the papers over 50 years after his death. ]





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