創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

STSとしてのインテリジェントデザイン

Michael Lynchの「STSはアンチサイエンスであったことはない」(2020)


Lynch (2020)によれば、STSにおける対称性と相対主義は、特定の事例を「真か偽か」などに分類せず、多様な形の知識に到達しようとする取り組みだった。しかし「科学の性質と他の知識モードとの関係についての決定的な立場」と見なされると、「専門家エリートの権威に疑問を呈する」ものと解釈されたり、ニセ科学を確立された科学と同等の立場にするものとして批判されたりしたという。
STSと対称性とアンチサイエンス

ここ数十年の数人のコメンテーターは、科学的事実を信念のレベルまで貶めたとして、科学技術社会論を非難した(あるいは信用した)。彼らは「このSTSが、陰謀論として切り捨てるようなものまで、あらゆる信念を公平に分析的に扱うことを奨励してきた」と主張した。(見せかけの)論争において、反対側に「バランスの取れた」扱いを与えるというニュース報道の原則に対する異論のように、STSの「対称的な」スタンスは、変人や奇人や心理的虐待者を、正真正銘の科学者たちと同じ認識論的立場に引き上げたと非難された。トランプ政権の科学政策に責任はないが、STSは、いわゆる「科学に対する戦争」に引きずり込まれた。コンテキストと利害関係は異なるがこれは20年前に起きた「サイエンスウォーズ」を思わせる。

1990年代に、科学を民主化し、エリート科学の権威を打ち消そうとした幅広い社会的・文化的・フェミニスト批評家たちが、反科学だと大量の出版物やフォーラムで非難された。これらの批判とそれらへの対応は、大げさな名称「サイエンスウォーズ」と呼ばれることがあった。最も広く知られた作戦行動は、物理学者のAlan Sokalが執筆したパロディな「デマ」論文を掲載したメジャーな文化学術誌が発行されたとき発生した (Gross and Levitt 1994; Sokal 1996a、b; Sokal and Bricmont1998)。Sokal及び「ポストモダニスト」と呼ばれるものを批判する人々は、自らを「巨大企業や宗教やポピュリストの利益に反する、確立された科学的証拠を曖昧なものしようとする、右翼の活動を、ポストモダンなアカデミック左翼が不用意に支援している」ことを憂慮する、政治的左翼と位置づけた。10年後、Los Angeles Timesの論説で、Sokal(2007)は、「Republican War on Science(共和党の科学戦争)」(2005)というタイトルの本で論争を書いたChris Mooneyと同盟し、「GWブッシュ政権の科学的助言の選択的取り扱いを、アカデミック左翼に起因するアンチサイエンスな論と」関連付けた。

「対称性」はもともとDavid Bloor (1976)によって方法論的方針として提唱された。この「対称性」について、知識社会学において「Strong Programme」と彼らが呼ぶものを推進するエッセイでは、Bloorと友人であるUniversity of Edinburghの科学研究ユニットのBarry Barnesは「equivalence postulate(同等性の仮定)」という用語も使った。最も確立された科学的や数学的法、事実や手順でさえも、社会学的説明からの逃れることはできないという意味で「Strong」である。原則として、「近代科学や数学の分野でいかに論争が決着し、コンセンサスが確立されるか」についての社会学研究では、文化的信念や宗教的教義や政治的イデオロギーの整合についての説明で使う説明的概念(社会的利益、説得、信頼性、文化的権威など)と同じものが使う。Bloor and Barnes (1970)とCollins (1985)は、(哲学的相対主義よりも、マンハイム(1936)の「関係主義」に近い)相対主義の立場を明示的に採用した。「コンセンサスに基づく科学的知識は、啓発された観点から判断して、それが真実であるか、成功するか、または有効であるかを事前に決定する」ことなく、「信念」の問題として扱われる。Bloor (1976)が述べているように、「同じ種類の原因が、たとえば、真と偽の信念を説明することもあるだろう。」重要なことに「社会学的」説明の目立った特徴は、「科学理論が受け入れられたものか否か、科学的事実が正しいと確立されたか否か」によって妨げられることない点である。Bloorのもう1つの仮説は、「真と偽、合理と非合理、成功と失敗に関する」公平性だった(Bloor 1976, Sismond 2017, Lynch 2017)。対称性は「現在の仮定のもとで過去を解釈するという現在中心の歴史を回避する」ための歴史学的努力の強力な変種と見なせる。(不可避ではあるが、完全に脇に置いてないなら、おそらく対処は可能)気候変動やその他の論争中の最近の話題のさらなる要素は、論争の製造であり、これは「経済的・宗教的・その他社会的利益の周りにめぐらされた防壁と対立する政策を、遅延あるいは撃破する、(否定可能ではあるが)意図的で潤沢な資金による努力」と見なせる

最初に提案されたように、STSにおける対称性と相対主義は、特定の事例を「真か偽か、合理的か非合理的か、成功したか失敗したか、失敗する運命にあったか」に分類しない、多様な形の知識に到達しようとする取り組みの一環として制限された。しかし、「科学の性質と他の知識モードとの関係についての決定的な立場」として大まかに解釈されたとき、対称性は簡単かつ頻繁に政治化された。「認定された知識の作成と普及を助言および管理する専門家エリートの権威に疑問を呈する」ものだと一般化される一方で、「投機的で詐欺的な存在論的主張を宣伝したことで、確立された科学的知識と同等の地位を持っているかのようにした」と非難されることもあった。和平のため幾つかの努力(ex Labinger and Collins 2001)がなされ、その後まもくなく、「サイエンスウォーズ」のより二極化した緊張は勢いを失ったが、政治化された対称性の変種はアカデミックSTSと、コンセンサスに基づく科学知識の政治的関連性と権威をについて公衆議論において生き残った。

[ Michael Lynch: "We Have Never Been Anti-Science: Reflections on Science Wars and Post-Truth", Engaging Science, Technology, and Society 6 (2020) ]

そして、「対称性」は、現在の価値観で過去を裁くようなことを避けるための手段として提唱されたもの。
普遍的対称性?

私の「対称性」の理解では、探求の最初にとる暫定的なスタンスであり、社会史学者や人類学者や社会学者が調査対象の特定知識の主張について、真理性や合理的といった判断を差し控えること促すものである。これは必ずしも公平に見えるようにとる、見せ掛けの態度である必要はなく、広く認められている科学的事実や理論やパラダイムの認識論的地位を格下げしたり、それを置き換える教義を格上げする必要もない。これにより、社会史学者が「最終的には現代的概念システムに置き換えられた、フロギストン説やカロリック説や自然発生説など何世紀も前に論争を引き起こしたものを、不合理だと切り捨てる」のではなく、「何故あるいはどのように、今や信頼されないシステムが当時は理にかなっていて、当時の生活様式に合っていた」かを理解することができるようになる。そのような理解から必ずしもつながることのないのが、そのような信頼できないシステムを推奨することである。

気候変動に関する論争の場合、論争中の現在のモデルや予測を技術的に評価する訓練を受けた歴史学者や社会科学者はほとんどいない。論争の中心的な当事者の知識や利益や動機についての判断を一時的に棚上げすることで、分析者はは、敵対者が集めた推論と証拠をより深く掘り下げられる。対称性は「競合する当事者とその背景やコミットメントや論の違いに気づくこと」を排除する者ではないが、「一方の立場を不合理や無知や不正な動機として切り捨てるという、慣れ親しんだ簡単な論法の使用」を思いとどまらせる。対称性は、「そのような公の論争の回復力を生み出し、維持する実践的行動や言説や制度的支援に対する洞察を得るための戦略」であっても、「解釈による慈善の方針」ではない。

Bloorが最初に仮定を示したように、対称性に関する1つのポイントは「対称性の原則が普遍化された」というFuller (2016)の主張とは反対に、対称性は「すべての場合に同様に適用される『ポスト真実』だとは主張しない」ことである。「感情と個人的な信念に」訴えるかけるどころか、現在の環境論争の両側の当事者は、時には不確実性の程度によって修飾された強力な事実の主張をし、前述のように、通常科学的権威を主張する。公立学校で創造論を教えることについての米国の裁判所での一連の論争においてさえ、双方は科学的権威を主張しているが、一方の側は彼らの科学的主張が薄く覆い隠された宗教的議論以上のものであることを連邦裁判所の納得させることに成功したことは一度もない。どちらかといえば、いわゆる「ポスト真実」政治は、客観的な真実との関連性を消し去るのではなく、そのように装うものである。双方は、「科学」の権威に裏打ちされ、文学団体、美術館、その他の機関によって支持された真実の主張を提示する。対称性の仮定に基づいて研究を進めることは、どの科学と科学的主張が本物でどれが偽物であるかを区別するための明確なガイダンスを提示することにつながらないだろう。しかし、特定の場合の詳細な研究はそのような問題に関する実用的な判断に到達するには十分かもしれない。しかし、対称性は、論争を持続させる回復力の源を文書化するための持続的な努力を奨励し、それ自体が価値がある。

[ Michael Lynch: "We Have Never Been Anti-Science: Reflections on Science Wars and Post-Truth", Engaging Science, Technology, and Society 6 (2020) ]
ただし、Steve Fullerの立場は異なるようである。






コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます