忘却からの帰還〜Intelligent Design - 歴史学者Richard WeikartのQuote Mining
STSとしてのインテリジェントデザイン, Quote Mining

進化心理に対する、歴史学者Richard WeikartのQuote Miningを使った批判



取り上げたインテリジェントデザインの本山たるDiscovery Instituteのフェローである歴史学者Richard Weikartの2004年3月の記事「Does Darwinism Devalue Human Life?」は見事なQuote Miningを行っている。

参照元は「人間の本性を考える〜心は空白の石版か」や「心の仕組み〜人間関係にどう関わるか」や「言語を生みだす本能」などでも知られる進化心理学者Steven Pinkerの1997年の記事「Why They Kill Their Newborns」[ COPY ]である。

原文の対訳はこちら

Quote Miningに対象にされたPinkerの記事の論点は以下に通り:
  1. 「誕生日当日の嬰児殺」と「より成長した幼児殺」では、母親も、それ事件に対する一般人の反応も違っている。
  2. Pinkerの記事では「幼児の生存権を否定している人はいなくて、一部の哲学者が嬰児の生存権を否定している」のだが、Weikartが引用すると「Pinkerが幼児の生存権を否定している」ことになっている。
  3. 「私たちの遺伝子を運ぶ子孫の養育こそが、私たちのすべてである」というは「生物学者の冷たい計算」も、「嬰児殺を精神異常のせいだと考えそう」だが、実際には精神異常ではなかった。
  4. 答えのない問題だが「嬰児殺について法的には殺人だが同情的に対処」という「現状」のままで行くしかないだろう。
  5. 嬰児殺を狩猟採集社会から我々がひきずってきたものらしい。実際、嬰児殺は歴史を通じて実行されてきており、多くの文化に受け入れられていた。

これを歴史学者Richard Weikartがどう切り取ったかというと...
The evolutionary psychologist Steven Pinker, a professor of psychology at Harvard University, also draws connections between Darwinism and infanticide. After some high-profile cases of infanticide occurred in 1997, Pinker wrote an article purporting to explain its evolutionary origins. Since Pinker believes "&bold(){that nurturing an offspring that carries our genes is the whole point of our existence,}" of course he tries to explain infanticide as a behavior that somehow confers reproductive advantage. He argues that a "&bold(){new mother will first coolly assess the infant and her current situation and only in the next few days begin to see it as a unique and wonderful individual.}" (This is outrageously speculative; no new mother I have ever met has "coolly assessed" her infant, and it seems to me that those who commit infanticide are not "coolly assessing" the survival prospects for their infant, either--more likely they are desperate). According to Pinker, the mother's love for her infant will grow in relation to the "increasing biological value of a child (the chance that it will live to produce grandchildren)." Pinker specifically denies that infants have a "right to life," so, even though he doesn't completely condone infanticide, he thinks we should not be too harsh on mothers killing their children. [13]

Harvard Universityの心理学教授である進化心理学者Steven Pinkerもダーウィニズムと幼児殺の関係を記述した。多くの関心を集めた1997年の幼児殺事件の後で、Pinkerは、その事件の進化的起源について記述した記事を書いた。Pinkerは「&bold(){私たちの遺伝子を運ぶ子孫の養育こそが、私たちのすべてである}」と考えているので、もちろん、Pinkerは、繁殖が有利になる挙動として幼児殺を説明しようとする。Pinkerは「&bold(){新しい母親は、最初はクールに嬰児と自分の状況を評価し、ほんの数日で、かけがえのない素晴らしい存在だとみなし始めます}」と論じる。(これは論外な憶測である。自分の子供を「クールに評価」している新しい母親に私は会ったことがない。そして幼児殺をした母親も生存可能性を「クールに評価」していないだろう。もっともらしいのは、彼らが自暴自棄だったことだろう) Pinkerによれば、「子供の生物学的価値(孫をつくるまで生き延びる可能性)が高まるにつれ」母親の愛情は大きくなっていく。Pinkerは特に幼児の生存権を否定しているので、たとえPinkerが幼児殺をまったく容赦しないとしても、Pinkerは我々が幼児殺の母親につらく当たるべきではないと考えている。

[13] Steven Pinker, "Why They Kill Their Newborns," The New York Times Sunday Magazine (November 2, 1997).
[ Richard Weikart:Does Darwinism Devalue Human Life? ]
なかなか見事というか、徹底したQuote Miningの成果である:
  1. Pinkerの記事では「誕生日当日の嬰児殺」を取り上げ、「それが、より成長した幼児殺では、母親も、それ事件に対する一般人の反応も違っている」という話だったのが、Weikartが引用すると「幼児殺」についての話に変わっている。[infantは通常、7歳未満の幼児に対して使われる単語]
  2. Pinkerの記事では「幼児の生存権を否定している人はいなくて、一部の哲学者が嬰児の生存権を否定している」のだが、Weikartが引用すると「Pinkerが幼児の生存権を否定している」ことになっている。
  3. Pinkerの記述「私たちの遺伝子を運ぶ子孫の養育こそが、私たちのすべてである」は、Pinkerの記事では「生物学者の冷たい計算も、嬰児殺を精神異常のせいだと考えそう」な理由として書かれているのだが、Weikartが引用すると「繁殖が有利になる挙動として幼児殺を説明しようとする」動機になっている。
  4. Pinkerは答えのない問題だが「嬰児殺について法的には殺人だが同情的に対処」という現状のままで行くしかないだろうと書いているが、これをWeikartが引用すると「Pinkerが幼児殺につらくあたるべきでないと主張した」ことになっている。
  5. Pinkerが嬰児殺を狩猟採集社会から我々がひきずってきたものらしいと書いているが、Weikartはこれをスルー。(教義というわけでもないが、洗礼前の乳幼児の死後の行き先としてThe Limbo of Infants=幼児の辺獄という概念がカトリックにある。)

インテリジェントデザインにおける、科学の社会に対する影響研究はこんなものであり、
Richard Weikartの執筆物の"引用"はすべてオリジナルにあたる必要がある。




原文の訳

太字はQuote Miningされた部分。
Steven Pinkerの「何故、嬰児を殺すのか」

自分の赤ちゃんを殺すこと。それくらい悪いことはないでしょう? 女性が胎内の実(子)を殺すのは、自然の秩序に対する最終的侵犯のようも思えます。しかし、毎年。数百人の女性が嬰児殺を犯しています。彼女たちは嬰児を殺すたり、死なせたりしています。大半の嬰児殺は見つからないままでしょう。でも、時として、管理人がゴミ箱に血の跡を見つけ。それをたどって嬰児の死体を見つけることがあります。あるいは、気絶した女性を診察した医師が、その体内に胎盤の残骸を見出します。

先ごろ、2つの事件が米国市民の目を釘付けにしました。検察官によれば、この11月に、Amy Grossberg とBrian Petersonという18歳の学生である恋人たちが、自分たちの赤ちゃんをモーテルに運んで、殺して、ゴミ箱に捨てました。二人は来年、殺人罪で裁判にかけられ、有罪になれば、死刑宣告もありえます。また6月には18歳のDumpsterが、高校のダンスパーティー会場に出かけて、トイレに入って中から鍵をかけて、男児を産んで、ゴミ箱の中で死なせました。その後、何が起きたか、みんな知っています。彼女はメイクしなおして、ダンスフロアにもどりました。9月に大陪審は彼女を殺人罪で起訴しました。

こんなことを彼女たちはどうして、してしまったのでしょうか? 何もできない赤ちゃんほど、心を溶かすものはないのに。生物学者の冷たい計算も、私たちの遺伝子を運ぶ子孫の養育こそが、私たちのすべてであると告げています。多くの人が、嬰児殺を精神異常のせいだと考えるでしょう。精神科医は小児期精神的外傷を見つけ出すでしょう。被告側弁護団は一時的な精神病だったと論じるでしょう。専門家たちは、使い捨て社会や甘すぎる性教育や、もちろんロックの歌詞のせいだと言うでしょう。

しかし、私たちは、嬰児殺が歴史を通じて実行されてきており、多くの文化に受け入れられていたと知れば、嬰児殺を精神病であるという主張するのは困難になるでしょう。そして、嬰児殺をした女性は、一般に精神病の徴候を示しません。幼児殺害についての精神科医Phillip Resnickによる1970年の古典的研究によれば、誕生後1日以上経過した子供を殺した母親の多くは精神病だったり憂鬱だったり自殺しそうだったりしましたが、誕生当日の嬰児を殺した母親はそうではありませんでした。(この違いが、Phillip Resnickに、幼児殺害を誕生当時の嬰児殺と1日以上経過した子殺しに2分させたのでした。)

赤ちゃんを殺すことは非倫理的な行動であり、その非倫理さを精神病と呼ぶことで、私たち自身の怒りを表現します。しかし、健常な人の動機は必ずしも倫理的ではありません。そして、嬰児殺は、故障した神経回路や機能不全の躾の結果でないといけないということはありません。私たちは何が母親に嬰児殺をさせたのかを理解しようとすることはできます。しかし、理解しても、必ずしも許せるわけではありません。

Martin DalyとMargo Wilsonはともに心理学者で、嬰児殺の機能が、私たちの親としての感情の生物学的デザインに組み込まれていると論じています。哺乳類はほかの動物たちよりも、非常に多くの時間とエネルギーと食物を子供たちに投じています。そして、哺乳類の中でも人類は極端に多くを費やしています。親としての投資は限りある資源であり、哺乳理の母親は、その限られた資源を新生児に費やすのか、現在いる子供たちに費やすのか、あるいは未来の子供たちに費やすのかを"決め"なければなりません。新生児が病気だったり、生き残れそうになければ、哺乳類の母親たちは損切りして、最も健康な子供に資源を投じるか、再挑戦することを選好するかもしれません。

大半の文化において、嬰児殺はトリアージの一種です。人類の進化史のほんのつい最近まで、母親は再び妊娠するまでに2〜4年にわたって子供たちの世話をしていました。多くの子供たちが死んでいきました。特に、危険な最初の年には多くの子供たちが死んでいきました。ほとんど女性は2〜3人以上の子供たちが成人するのを目にすることはありませんでした。お祖母さんになるには、女性は厳しい選択をしなければならなかったのです。人類学者が記録した社会のほとんどで、私たちの祖先の生活様式の最高のもののひとつである狩猟採集文化も含めて、成人できそうにない新生児を死なせてきました。成人できそうかどうかの予想は、嬰児の異常な徴候かもしれません。あるいは、その時点では母親として成功するために状況が悪いからかもしれません。年上の子供たちに手がかかっているからだったり、戦争や飢饉だったり、夫や社会の支えがないからかもしれません。さらに、彼女はまだ若くて、もういちど挑戦できるからかもしれません。

私たちは、容赦なき世界で、お祖母さんになることができた厳しい選択をした女性の子孫なのです。そして、私たちは、そのような選択した脳回路を受け継いでいます。Martin DalyとMargo Wilsonは、北米の同時代の嬰児殺の統計と人類学の文献が同じ傾向であることを示しました。子供たちを犠牲にした女性たちは、若くて、貧しくて、結婚していなくて、社会的に孤立している傾向がありました。

自然選択は、直接に私たちの振る舞いのボタンを押せません。それは、適応的な選択へを私たちを誘う感情によって、私たちの振る舞いに影響を及ぼします。新しい母親は常に、現在の明確な悲劇と、数か月あるいは数年後のもっと大きな悲劇の可能性の間の選択に直面します。そして、その選択は軽々しくできるものではありません。今でも、憂鬱な思いの新しい母親の重荷にどう対処するかは、重い問題です。母子愛着関係(bonding)と呼ばれる感情反応も、「赤ちゃんの誕生直後のクリティカルな期間に母子が相互作用すれば、女性は赤ちゃんへの生涯の愛着を刷り込まれる」という、一般人が思っているより複雑です。新しい母親は、最初はクールに嬰児と自分の状況を評価し、ほんの数日で、かけがえのない素晴らしい存在だとみなし始めます。子供が成長初期の地雷原を乗り越えて、子供の生物学的価値(孫をつくるまで生き延びる可能性)が高まるにつれ、母親の愛情は次第に深まります。

狩猟採集社会の母親が新生児を犠牲にするように鉄の心臓になっても、心臓は石にはなりません。これらの女性(あるいは家族、というのは、そのような出来事は女性にとって話すには悲しすぎるから)をインタビューした人類学者は、女性たちが新生児の死を不可避の悲劇と見ていて、その時点では嘆き悲しみ、生涯にわたって、痛みとともにその子のことを覚えていることを見出しました。冷淡だとみられていたMelissa Drexlerも、死んだ子の名に苦しみ、葬儀で嘆き悲しみました(最初、出産後に彼女はメタリカの歌をリクエストして、ボーイフレンドと踊っていたと報道されましたが、それは誤りであることが判明しています)。

多くの文化的習慣で、新生児が生き延びられそうだとわかるまで、人々の感情を新生児から離しておくようにデザインされています。洗礼命名式やユダヤ人の割礼儀式でわかるように、完全な人間としての扱いが自動的に付与されないことが、しばしば見られます。それでも、最近の嬰児殺は謎めいています。これらの女性たちはミドルクラスであり、その両親たちにより新生児は幾千のカップルの誰よりも豊かでしょう。しかし、自然選択というゆっくりとしか進まない過程によって形成される私たちの感情は、私たちの進化史の99%の時間の過ごした種族たちの環境のシグナルに反応します。若くて独身であることは、母親として成功するには悪い2つの兆しであり、妊娠を隠して、成行きのままにしておくと、すぐに3つめの兆しに動揺することになります。人間の母親にとって特に良くない状態である、一人でで出産することになります。

特に第一子のとき、人体の構造上、出産は長くて難しくて危険なものになるので、狩猟採集社会では事実上、常に手助けがなされます。年長の女性が助産婦として感情的な手助けと、経験豊かな鑑定人として嬰児が生きるべきか否か判断する役割を果たします。人類学者であり助産婦としての訓練も受けているWenda Trevathanは、ヒト化石の骨盤を観察して、数百万年にわたって、出産が苦しいものであり、手助けを必要としてきたと結論しています。母親としての感情は、おめでとうの声によって、成人できそうな新生児の誕生を告げられる世界に適応しているかもしれません。でも、モーテルの部屋やトイレでの秘かに出産する場合、そのような強いシグナルはありません。

それでは、妊娠を秘密にしておいた10代の母親の精神状態はどのようなものでしょうか? 彼女は妊娠が勝手になかったことになるのを望みくらいに未熟で、母親としての感情はゼロになり、突然に大きなトラブル状態にあるのだと気づきます。時には、彼女は先延ばしにします。17歳のShanta Clarkは早産の子を産んで、その子をETのようにベッドルームのクローゼットに17日間にわたって、隠し続けました。彼女の母親がその子を見つけるまで、学校へ行く前と、学校から帰った後、その子に栄養分を与えていました。早産の子の泣き声は弱くて、なかなか見つからなかったのです。(他の事件では、女性たちは赤ちゃんが泣くことにパニックになって、泣かないようにしようとして、赤ちゃんを殺しています)

このような事件をみると、ほとんどの人は嬰児殺に女性を追いやった自暴自棄を感じます。検察官は訴追しないことがあります。陪審員はほとんど有罪を評決しません。有罪になっても、ほとんどは収監されません。科学捜査心理学者Barbara Kirwinは米英で嬰児殺で女性が有罪になった300件近くを調べて、一晩以上、刑務所に収容された女性がいないことを報告しています。欧州の数か国では、成人の殺人よりも嬰児殺の刑罰を軽くした法律を定めています。Grossberg-Peterson事件では死刑にすくむことになります。厳罰主義をとる人々であっても、素敵な子供たちと報道された二人を死刑を想像すれば、ぞっとすることでしょう。

しかし、私たちの同情は、母親ではなく、子供で決まります。どんなに自暴自棄の母親であっても、年長の子供を殺した場合、同情心を私たちは呼び起されません。生後14か月と3歳の二人の子供を水死させたサウスカロライナ州のSusan Smithは、刑務所にいて、誰にも嘆かれることもなく、終身刑に服しています。嬰児殺をした母親に対して私たちが同情心を持つことは、多くの社会や多くの母親自身と同じく、私たちに、新生児が正式に人間であるかどうか、完全にはわかっていないという、考えにくいことを考えさせ、問いかけます。

私たちには、人間に人間性を与え、生きる権利を与えるための、明確な境界線が必要なことは明らかなようです。でないと、私たちは、不都合な人々を処分したり、個人の生命の価値に関するグロテスクな議論に終わる滑り坂論に陥ってしまいます。しかし、終わることのない妊娠中絶論争は、境界線を見つけることが、どれだけ困難かを示しています。反中絶主義者たちは受精を以て線を引きます。しかし、それは目に見えない受精卵が子宮に着床に失敗するたびに、涙を流すべきだということを意味します。そして、論理的帰結はIUDを使ったら人をすべて殺人罪で起訴しなければならなくなります。妊娠中絶を求める人々は、生存能力で線を引きます。しかし、生存能力は子供のリスクをどこまで両親が容認するかに依存した、あいまいなものです。両サイドが合意できることは、誕生前のどこかの時点に線を引かなければならないということです。

嬰児殺はその境界線を調べさせるものです。生物学者にとって誕生は、他と同じく任意のマイルストーンです。多くの哺乳類は、子供たちが地面に降りたら、すぐに目が見えて歩けるようになるまで、子供を胎内にとどめています。しかし、人間の場合は、特大の頭が、母親の骨盤を通れなくなる前に、不完全な9か月の胎児は子宮から追い立てられます。普通の霊長類の組み立て過程では、一年目に子宮から胎児を外へ出します。そのことが人間の定義を難しくします。

何を以て、生存権を持つ人間とするのでしょうか? 動物の権利過激派は、すべての感覚を持つ存在は生存権を有するという、最も簡単な議論をします。しかし、その論の擁護者は、子供からシラミを駆除することを、大量殺人と同義だと結論しなければならなくなります。動物の権利過激派でないなら、もう少し範囲を限定することを模索しなければなりません。私たち自身の種たるホモサピエンスにのみ生存権がある? しかし、それは単なる盲目的愛国心にすぎません。ある人種に属する人は、他の人種に属する人に生存権がないのだと、たやすく言えてしまうことになるからです。

生存権は、私たち人間が偶然にも所有することになった倫理的に顕著な特徴に基づくものだと、倫理哲学者たちは主張します。そのような特徴は、個人としての私たちを定め、他の人々との関係を形成する個別の経験の系列を持っています。他の特徴は、意識の連続した軌跡として私たち自身に影響を及ぼす能力を持っています。それによって、未来への計画を立てて実行し、死を恐れ、死なないように判断します。しかし、ここで問題があります。私たちの未熟な嬰児は、このような特徴をネズミほども持っていません。

倫理哲学者のなかには、嬰児は人間ではなく、嬰児殺は殺人には当たらないと結論した者たちもいます。Michael Tooleyは、誕生後一定期間内の嬰児殺は許容されるべきだとまで言いました。ほとんどの哲学者たち、そして言うまでもなく哲学者でない人々は、そこまでは進めません。しかし、嬰児より年長の子供たちは人間であることに議論の余地はありません。そして、そのことが、Susan SmithよりもAmy Grossbergに同情を感じる理由を明らかにしています。

では、嬰児殺を法律違反だとするための根拠を何に求めればいいでしょうか? 事実では問題は解決しません。ある哲学者たちは、人々は直観的に嬰児とそれより成長した赤ちゃんたちを同様に見ていて、子供たちと他の人々を同様に扱うようにすることなく、嬰児殺を犯せないと主張しました。しかし、事実はそれに反しています。現代でも狩猟採集社会についての調査でも、嬰児殺の女性は自身の新生児のみを殺すことが明らかになっています。さらに、彼女らが嬰児殺の後に、よい状況の下で出産すれば、献身的で愛情豊かな母親となれることが明らかになっています。

生物学の法則はAmy GrossbergとMelissa Drexlerに対して優しくはありませんでした。そして、ティーンエイジャーの行動の倫理感覚を構築しようとする私たちに対しても優しくありません。私たちの倫理体系は、どこからが人間なのか明確に定める必要があります。しかし、問題はホモサピエンスの組み立て過程が段階的で、小刻みで、明確ではないことです。もう一つの問題は、母親の感情回路がこの明確ではない過程に対処するように進化していて、嬰児殺をした女性は、倫理に対するモンスターではなく、素敵で普通の、そして時として信仰心篤い若い女性です。これらは私たちがおそらく、決して解決できないジレンマでしょう。そして、どのような方針をとっても、それにあわない事件が残るでしょう。私たちはこれからも迷いつつ、誕生を明確な法的境界線とし、その境界線と衝突するほかなかったと感じて、苦しむ女性たちに同情を示し続けるでしょう。

[Steven Pinker, "Why They Kill Their Newborns," The New York Times Sunday Magazine (November 2, 1997). COPY ]