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目次

1890年代イギリスの概要

当時のイギリスは、イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王、初代インド女帝のアレクサンドリナ・ヴィクトリアが統治していました。
このヴィクトリア女王が統治していた期間(1837年 - 1901)をヴィクトリア朝(ヴィクトリア時代)と呼びます。
この時代は、産業革命によって経済発展が成熟し、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めたイギリス帝国の絶頂期とみなされています。

ヴィクトリア朝 初期(1837年 - 1850年)

イギリスの発展、繁栄は工業と共にあります。

1769年にイギリスの技術者、ジェームズ・ワットが蒸気機関の改良に成功してからというもの、生産性が向上し、短時間でより多くの製品を手間をかけずに生産することを可能にしました。これがイギリスにとどまらずヨーロッパ中での産業革命、工業化社会の文字通りの原動力として広まっていきます。同時代に起きた農業革命で食糧生産が増大したことも合わさって、ロンドンの人口は増加、多くの工業が発展し、その中でより儲ける資本家と労働者という社会の形態がかたちづくられてきます。この頃から現代の資本主義社会の仕組みが成立するようになりました。イギリスは18世紀後半にいち早く工場機械工業を取り入れたことで「世界の工場」と呼ばれるほどの工業大国となります。まさに産業資本家たちの台頭の時代でした。また同時に、工場から煙が大量に流れ出るようになり、ロンドンの空気は汚れ、これが有名な「霧の都」と称されるきっかけにもなります。

またこうした工業の発展・都市化に伴い、貧富の差の拡大や、労働者の雇用形態の悪化、失業者の増加、児童労働の激化、街のスラム化を引き起こすことになります。ディケンズの小説「オリバー・ツイスト」などには当時のそのような労働者の過酷な生活環境についても描かれています。その一方で利益を得た資本家たちはその資産で社交界へと進出し、爵位を求めて上流階級入りを目指すようになりました。

ヴィクトリア朝 中期(1850年 - 1870年)

ヴィクトリア朝の中でも栄華の絶頂を迎えていたのがこの時代です。その象徴はやはりロンドンのハイドパークで行われた万国博覧会(1851年)でしょう。世界で初めての国際博覧会であり、その技術力でもって「イギリスこそが世界のトップである」ということを他国に強く印象付けた瞬間でもありました。その後もグラッドストン内閣の政策によって自由貿易化が奨められたり、1863年には世界初の地下鉄が発足されたりと、ますます工業が力を持つようなります。

工業が発達するということは、科学が発達するということでもありました。この頃すでに自然科学は学問の一つとして認識されるようになり、大学でも工学や科学の講義が行われるようになります。科学者という知的専門職が誕生したのです。中でもチャールズ・ダーウィンは「種の起源」(1859年)を発表し、民衆に科学というテーマをより身近に感じさせ、大きな影響を与えました。それと同時に、科学の発展は神の存在を危ういものにすることでもありました。これは後にヴィクトリア朝末期の神智学の流行にも繋がってくることになります。

ヴィクトリア朝 後期(1870年 - 1901年)

ヴィクトリア朝期の終焉が近づいてきました。貴族たちの華やかな社交界と礼節、社会様式がある一方で、売春や孤児、労働者階級の搾取、スラムという大きな矛盾を抱えていたロンドンは、いよいよ雲行きが怪しくなっていきます。もはや霧や香水、豪華な絨毯なんかでは隠せないほどに社会の矛盾と悪臭は増大し、街にあふれた浮浪者と失業者達たちに人々は不安と危機感を抱くようになります。

1875年に「神智学協会」がブラヴァッキー夫人らによってニューヨークで設立されます。これはスピリチュアリズム(心霊主義)の一種であり、神智学というのは「お祈りや瞑想で神様の力を手に入れよう」という科学の時代には逆行したものでもありました。それでもハマっちゃうのが人間という生き物の性。社会情勢も相まって、この不安に煽られたロンドンの人々はあっさりオカルトに傾倒するようになります。紳士淑女たちはこぞって集会を開き、交霊会に明け暮れては神様の力とやらに頼ろうとしたのです。ブラヴァッキー夫人は1891年にロンドンで亡くなりましたが、彼女の思想はイギリスのオカルティストたちに多大な影響を与えました。

科学とオカルトが交差する……一見矛盾しているように思えるこの謳い文句は、まさしくこの時期のことを指しているのでしょう。クトゥルフ神話TRPGで遊ぶにはうってつけの、まさに混沌とした時期だったのです。

通貨

ヴィクトリア朝のイギリス帝国で使用されていた標準通貨はスターリング・ポンドです。単にポンドと呼ぶ場合は通常イギリスのポンドを指します。
その通貨記号は £ 、大文字のLに小さな横棒を交差させたもので、ラテン語の重さの単位であるlibrumを略したものです。
ポンドの下位通貨単位として シリングペンス(ペニーの複数形)があります。シリングは(s)、ペンスは(d)で表されます。
その他の通貨単位としてギニーがあります。1890年当時には既にポンドにギニー紙幣やギニー硬貨は使われなくなりましたが、医師や弁護士への謝礼、馬や土地の取引などで名目単位として使われていました。
もともと1ギニーは21シリング相当の価値があり、1ポンドと1ギニーではギニーのほうが1シリング余分に価値があります。この余分な1シリング(0.05ポンド)は日本でいう「心づけ」的な趣旨があり、売り手に感謝を込めたチップのようなものでした。

通貨単位の換算

1ポンド = 20シリング = 240ペンス
1シリング = 12ペンス = 0.05ポンド
1ギニー = 21シリング = 1.05ポンド

外国の通貨との換算

1ポンドの価値国名
5ドルアメリカ
25フランフランス
20マルクドイツ
10フローリンオーストリア=ハンガリー(1892年以前)
21クローネオーストリア=ハンガリー(1892年以降)
9ルーブルロシア
25フランベルギー
25レフ金貨ブルガリア
7テール(両)
25ドラクマギリシャ
25ルピー英領インド
25リライタリア
10円日本
11ペソメキシコ
25レイルーマニア
25フランスイス
115ピアストルオスマン帝国

流通していた硬貨

硬貨金属価値愛称・スラングなど
ファージング青銅貨1/4ペニー
ハーフペニー(ヘイプニー)青銅貨1/2ペニーフラッチ
ペニー銅貨1ペニー、1/12シリングイェナップ
タペンス(ツーペンス)銅貨2ペンス(1798年に鋳造終了)デュース
スリーペンス銀貨3ペンススラッペンス、スラペニー・ビット
ハーフシリング(シックスペンス)銀貨1/2シリング、6ペンスタナー、スプラット
シリング銀貨1シリング、12ペンスボブ、ディーナー
フローリン銀貨2シリング、24ペンス
ハーフ・クラウン銀貨2シリング6ペンス、30ペンスオールダーマン
ダブル・フローリン銀貨2フローリン、4シリング、48ペンス
クラウン銀貨5シリング、60ペンスドル
ハーフ・ソヴリン金貨10シリング、120ペンス
ソヴリン金貨1ポンド、20シリング、240ペンスポンド、クィッド、クーター、シッカン

社会情勢

諸外国との関係

フランス

ロシア

アメリカ合衆国

インド

政治

奴隷制の廃止

イギリスは19世紀の間、奴隷貿易の大手であったと同時に世界でも奴隷貿易廃止に尽力した国でもあります。

1807年のこと、イギリスで奴隷貿易法が成立しました。簡潔に言うと「イギリス国内での奴隷貿易を禁止し、見つかった場合には1人につき100ポンドの罰金などが下される」というものでした。なんだ、じゃあイギリスに奴隷制はなかったんですね? といわれると実はそうではありません。法律が適応されたのはイギリス国内だけでしたから、依然として植民地から奴隷が搾取され続けていたのです。その上三角貿易というシステムのせいでますますイギリス帝国内からはその悲惨さが伝わりにくいという状況でした。当時はまずヨーロッパから西アフリカの植民地へ武器やラム酒が輸出されます。しかし積み荷を空にしたまま西インド諸島、北アメリカ大陸に渡るわけにはいきません。当時ブラジルや西インド諸島でとれる「砂糖」などがとても貴重で好まれていたからです。そこで貿易船の船長達は、商品としての奴隷をアフリカで確保し、西インド諸島などで貿易を行うための代価にしたのです。こうして奴隷貿易はイギリス帝国を介さずに続けられていました。

結局、奴隷貿易が植民地含めてイギリスで完全禁止とされたのが1833年の奴隷制度廃止法が制定されてからのことでした。その反動からかイギリスは欧米諸国の中でも率先的に奴隷解放運動を推進していくようになります。1841年、ヴィクトリア朝イギリスを代表するロマン派の画家ウィリアム・ターナー「奴隷船」という題で一枚の絵画を発表しました。衛生状態の最悪な貿易船で何十人とすし詰めにされた黒人奴隷達。ある時、奴隷達の中で感染症が蔓延し、奴隷が病死するというケースがありました。積み荷が病死では海難保険による保障が効きません。冷酷な船長はそこで、病気になった奴隷達を鎖につないだまま大西洋へと何十人と放り込んだのです。この絵は奴隷貿易の悲惨さを後世に伝えるものとして有名です。ほかにもヴィクトリア超時代には奴隷解放運動に参加した者が上流階級の中にも多くいました。

女性の社会進出

ヴィクトリア朝時代は女性にとって抑圧と解放の時代でした。
近代家族の形成によって、女性の居場所は家庭であるという考えが浸透し、よき妻よき母であれという生き方が推奨されました。
一方で、そのような抑圧に反発する形で、女性解放運動や参政権獲得運動が活発化しました。
裕福な家庭で生まれるも、当時の女性観に反発を抱き看護婦として働いたフローレンス・ナイチンゲールが代表的な人物です。

多くの女性はハウスメイドや、中産階級であってもガヴァネス(家庭教師)等の使用人にしか就くことができませんでしたが、
19世紀中頃に女子教育の門戸が開かれ、婦人参政権等の社会活動に参加する知的女性が増え、
ヴィクトリア朝末期には、タイピストや電話交換手のような近代的な職業や、
医者や看護師等の専門職に就けるようになり、イザベラ・バード等の女性冒険家も活躍するようになりました。

1851年のロンドン万博では、アメリカ人のブルーマーがミラーが考案した改良服で服飾面での開放を訴えましたが、当時は嘲笑の的になっていました。
その後19世紀末にサイクリングブームが到来すると、機能性を重視したブルマースタイルが流行。
それまで女性は御者や随行者と一緒に馬車で移動していましたが、自分の力だけで自転車に乗るという行為は自立への一歩と言われ、
またコルセットの体への害が社会問題として取りざたされるようになり、レイショナルドレス協会が設立され服装面での改革運動が推進されました。
関連し、1894年に[ニュー・ウーマン]という劇が上演され、劇中で新時代の女性の象徴として、家の鍵・自転車・タバコが登場しました。
鍵は夫の許可なく外出できる立場、自転車は健康的な肉体、タバコは男性との対等さを象徴しました。

新救貧法と救貧院

ヴィクトリア朝時代の救貧院は、新救貧法に基づき劣悪な環境にありました。
これは、産業革命による都市化と貧困層の増加によって増えた福祉費の削減と、
新自由主義の広まりにより、貧困は本人が怠惰だから陥るという、
道徳的責任論の風潮の拡大、(この考え自体はイギリスにプロテスタントが流入した頃にルーツがあります。)
そして、救貧院の世話になるくらいなら外で働いた方がマシと労働者に判断させたい。という目的がありました。

働ける収容者(現代の基準なら障がいや老齢で働けないような人も含む)に対しては、
槙皮(まいはだ)作りや、道路の材料となる石の破砕、薪割り等の単純労働が課せられました。
食事は刑務所の基準よりも低く、ベッドは棺桶のように狭くて硬い物で、
収容者への暴力や、鞭、焼き鏝等の虐待も行われていました。
このような境遇は、ディケンズの[オリバー・ツイスト]の中でも描かれました。

19世紀中頃から悲惨な現状が慈善団体によってパンフレットや本で発信されたことで、僅かに改善が始まりましたが、
多くの救貧院は従来通りの運営が続いていて、貧困層の救済はもっぱら民間の慈善団体の活動が主でした。
その一例に、1882年にミース伯爵夫人レディ・ブラバゾンが高齢者や体が不自由な収容者に対して、
編み物や刺繍等の手芸を指導し、代わりの仕事を与えるというブラバゾン計画がありました。
計画が軌道に乗るまではレディ・ブラバゾン自身の自己資金が投入されましたが、
作品の販売で資金調達が行えるようになったことで、19世紀末には多くの救貧院が参加しました。

児童労働

近代以前より、子供は農村や家での手工業に従事していましたが、
イギリスにおいては、1760年代の産業革命を契機に児童労働は深刻なものになりました。
労働者の競争により賃金が下落し、貧困に苦しむ家では一家総出で働かないと暮らしていけなかったためです。
下層階級に生きる子供達は、工場、鉱山、煙突掃除、靴磨き、果ては売春やスリ等の犯罪まで、
ありとあらゆる過酷な仕事につき搾取され、事故や怪我、病気で命を落としていました。
彼ら彼女らの悲惨極まる境遇は、シャフツベリー伯爵を始めとする上流〜中産階級の慈善家の目に止まり、
19世紀中頃より工場法や煙突掃除法といった児童労働への法規制が始まり、少しずつ改善され始めました。
最終的に学校教育の義務化と同時に児童労働は法的に禁止されることになりましたが、
依然として多くの子供は生活や遊びのために、学校の時間外や学校をサボって働きに出ていたのが現状でした。

教育制度

社会階級によって生き方が区切られているのと同様、
ヴィクトリア朝時代の教育もまた階級によってそれぞれ異なるものでした
上流階級
上流階級に生まれた子供は、7歳までナーサリールーム(育児部屋)で、
乳母やナニー等の、子供の世話を担当する使用人に養育されました。
その後、男児は寄宿学校に行きジェントルマンとしての教育を、
女児はガヴァネスによって、レディになるための教育が行われることになります。
上流階級にとって教育は、階級社会の中で人々のお手本となるために必要な事だったため大変重要視されていました。

寄宿学校

国教派大学

ガヴァネス

中産階級
当時(今もかもしれませんが)の中産階級の人々は、こぞって上流階級を真似しようとしていました。
教育にもその傾向はありましたが、必ずしもそうではない場合もありました。

パブリックスクール

グラマースクール

セカンダリースクール

ハイスクール

市民大学

労働者階級
労働者階級の人々にとって子供は貴重な労働力でした。学校に通わせればそれだけ賃金が減るため、
上流階級や中産階級と比べて、教育の進みはゆっくりとしたものでした。

初等教育

工業・科学技術等について

万国博覧会

1851年世界初の国際博覧会であるロンドン万国博覧会が開催されました。
会場として作られた水晶宮はガラスと鉄骨で作られ、イギリスの技術を誇示しました。
世界各国から、機械、工業技術、製造品、芸術品、骨董品等、
様々な物品が集まり、業者や職人にとって最高の見本市となりました。
裕福な人々にとっては文化の向上に繋がり、飾り時計や陶磁器が生活に取り入れられました。

階級格差を露呈し労働者の怒りを買うのでは等という論争も起こっていましたが、
鉄道網の発達、トマス・クックのツアー企画、平日入場料の1シリングへの値下げにより、
地方からも含めて大勢の労働者も来場し、予想に反して見学のマナーは良好で、
文化的驚きと興奮による幸福感を与え、大衆的レジャーの概念が誕生することになりました。

最終的に入場者は延べ604万人に達し、18万ポンドの収益があがり、
収益を元に科学博物館やアルバートホール等の文化施設が作られました。
また万博を機に、文化に上品さを求める声が高まり、ヴィクトリア朝の転換点の一つとなりました。

ガス灯

1807年ロンドンで最初のガス灯がともり、1850年までにはロンドンだけで6社のガス会社ができ、イギリス全土の地方都市へまでガス灯が普及しました。
しかし、初期のガス産業は街灯や、商店・酒場・劇場等の事業用の物が中心で家庭への普及は1870年代を待つこととなりました。
栓の閉め忘れによる事故や、匂い、銀食器や金製品の変色、観葉植物への害、そしてガスによるギラギラした光が下品だとされていたたためです。
1870年代には中流以上の家庭で、玄関や台所での使用が普及し、1890年代には庶民の家庭でもコイン投入式ガスメーターの普及により浸透しました。

電気・電灯

1839年にアーク灯が発明され電気の商業利用が始まりました。
まばゆい光を放ち、街灯・灯台・工場・展覧会場等で用いられていましたが、日常生活には無縁の物でした。
また、アメリカやドイツ・フランス等では街灯が速やかに電化されていきましたが、
イギリスではすでにガス灯が発達していて、コスト面で代替えが進まなかったようです。
エジソンが1879年に電球を改良した後、1890年代からイギリスでも電球が普及し始めますが、
その利用は主に商店や劇場などの事業と、裕福な家庭が中心でした。
産業利用ついては1880年代にドイツやアメリカで路面電車の運行が始まり、
それに遅れる形で1890年代にロンドン地下鉄で電気動力が導入されることになりました。

電信・電話

1837年電信機が発明され、鉄道事故の際の緊急連絡や、ヴィクトリア女王の第二子誕生のニュース、
逃亡した殺人事件の容疑者の人相を警察に伝え逮捕に一役買ったりといった活躍で、電信の効力が人々の間に認知されました。
1850年代にはイギリス全土の都市が電信で結ばれニュースの時差が無くなり、
海外との電信の開通で文明世界観が近づき、世界経済の発達が加速しました。
電話は、1876年グラハム・ベルが特許を所得したことをきっかけにアメリカで普及が始まりました。
イギリスでは政府が国益を優先し認可規制を課し独占していたため、
1890年になっても所有者は4万5千人程で、アメリカや他の諸国からも遅れをとっていました。

上下水道とトイレ

ロンドン市民への水の供給は18世紀より、主に民間給水会社が担っていましたが、
多くの住宅には水道が引かれておらず共同の井戸や、給水塔を使用していました。
言うまでもなくテムズ川は生活排水や工場廃液に汚染されていたため、
川の近くの井戸も同様に汚染され、コレラや腸チフスの流行の原因となっていました。
ヴィクトリア朝中期に制定されたメトロポリス水法によって、
テムズ川の上水としての使用禁止と、くみ上げた水の濾過が義務付けられ、
水道会社は郊外の貯水池から水を引き供給することになりました。

ヴィクトリア朝中期にテムズ川の汚染による大悪臭や、伝染病の流行に対処するため、
鉄道建設が終わった肉体労働者を雇用し下水道の整備が始まりました。
テムズ川の南北にパイプ網を建設、エセックス州とケント州の処理施設へ送ります。
1870年頃に工事は完了し、下水道システムは21世紀の現代でも稼働しています。

ロンドン万博がきっかけで街には公衆トイレが整備されました。
会場内で作られた化粧室の成功により、買い物客が集まる場所に常設されました。
また下水道の整備に伴い、現代的な水洗トイレも各家庭に普及しましたが、
従来のトイレと同じく、新しい水洗トイレも多くは存在を隠すように地下や裏庭に設置されました。
ちなみに水洗トイレ普及前や、お金が無くて設置できない場所では大半は汲み取り式トイレで、
汚水槽を処理業者が処理していましたが、処理が追いつかない場合土壌や水源を汚染し、
前述の通り伝染病の原因となっていました。

機械式計算機

歯車で駆動するアナログ計算機。最古の物は1642年パスカルによって発明されましたが、
ロンドン万博でコルマーが開発したアリスモメーターが発表されたのがきっかけで、
商業ベースで生産が始まりました。その後19世紀末にはドイツやイギリス等各国で
アリスモメーターのクローン機を製造する会社が生まれ、機械式計算機が普及。
政府機関、銀行、天文台、オフィス等で利用され1970年代頃まで活躍していました。
初期はハンドルによる手動式で、20世紀に電気モーター式が開発されましたが、
1820年代に蒸気動力の大がかりな物が、チャールズ・バベッジにより開発されていました。
階差機関と、それの発展型である解析機関という計算機で、
後者は、パンチカードでプログラムを用意し、自動で計算を実行できる物でしたが、
予算や当時の工作技術の問題で完成には至りませんでした。

力織機

産業革命の原動力の中で重要だった物の一つとして、
エドモンド・カートライトが発明した力織機があります。
これは蒸気や水力で稼働する織機(経糸と緯糸を組み合わせて織物を織る機械)で
紡績機の発明で安く生産された糸を使い、効率的に織物を製造できました。
織物に柄を作るには経糸を一列ごとに部分的に上げ下ろしする必要があります。
非常に手間がかかる工程で、解決のためにジャカード織機とドビー織機が発明されました。
これは紋紙という、パンチカードの一種で機械を制御する事が可能で、
カードの穴の有無に応じて自動的に糸を上げ下ろしすることができました。

タビュレーティングマシン

織機でパンチカードの原型が使われましたが、コンピュータで使われるパンチカードは、
アメリカでホレリスによってタビュレーティングマシンと共に1890年に発明されました。
国勢調査でのデータを集計するのが目的で、手集計の10倍の効率を達成しました。
紙が絶縁体となり穴の部分が電気を通すため、それを利用しデータを電気集計します。
1896年にはタビュレーティングマシン社が設立され、各国の国勢調査局や、
大量の顧客データを扱う保険業者に、マシンの貸出やパンチカードが販売されました。

円盤式レコードと蓄音機

1890年代はレコードと蓄音機が実用化されたばかりの黎明期でした。
エジソンが発明した円筒式レコード[グラフォフォン]が発端となり、
1887年にベルリナーが現代に続く円盤式レコードと蓄音機[グラモフォン]を発明しました。
アメリカではグラフォフォンが、ヨーロッパではグラモフォンがシェアを独占していましたが、
円盤式レコードは収納性と量産性に優れ、グラモフォンに軍配が上がることになりました。
初期の蓄音機は使い勝手が悪く、レコード蓄音機共に個体により回転速度に誤差がある、
レコードが衝撃に弱く割れやすい、レコードの摩耗防止のため針の交換が頻繁で不経済、
容量が小さいためクラシック1曲でも再生中に交換が必要、といった難点がありました。
価格についてグラモフォンは見つかりませんでしたが、
グラフォフォンは1891年当時、1台150ドルしたそうです。
好事家や新し物好きの裕福な家庭にしか無かったことは間違いありません。

タイプライター

タイプライターのような発想や、原始的なタイピング機械そのものは1714年から各国にありましたが
商業ベースで成功した物は1874年に発売されたアメリカの[Remington No.1]でした。
これはミシンのような足踏みペダルがついていて、ペダルを踏む事で改行する仕組みです。
タイプライターにより、判読や写本が容易になり秘書の延長線として、
女性に事務職という職域が提供され、女性の社会進出が促進されました。
シャーロック・ホームズの[花婿失踪事件]にも、タイピストの女性が登場しています。

医療技術、薬品

アヘンチンキ

アヘンチンキはアヘンの粉末をエタノールに浸したものです。アヘンチンキの主な用法は鎮痛と咳止めでした。ヴィクトリア朝の人々はちょっとした偏頭痛や歯痛でもアヘンチンキを服用していました。アヘンチンキは非常に常習性が高く、現代では世界の多くで厳しく規制されています。しかし、当時は法的規制を受けるどころか、様々な慢性病の治療薬として一般に販売され、服用されていました。まだ、抗生物質も睡眠薬も鎮痛剤の類も存在しなかった当時にしてみれば、アヘンは万能薬だったのです。
アヘンチンキは、街の薬屋や食料雑貨店で20〜25滴分の量をわずか1ペニー程度で購入できました。なので正規の内科の診察を受ける余裕がない労働者階級の人々から手軽な万能常備薬として重宝されました。
アヘン製剤の販売に法的規制がようやく加えれるようになったのは、1868年のことでした。しかし、規制とは名ばかりのザル法で、しかもアヘンは非常にうまみのある商品であったことから、薬剤師らの強硬な反対にあいました。結局、アヘンが薬事法の第一種の毒物に指定される1908年まで、ほとんど規制らしい規制なしに自由に販売され続けることになりました。

クロロホルム

クロロホルムは1831年に、ドイツの化学者ユストゥス・フォン・リービッヒとアメリカの科学者サミュエル・ガスリーがそれぞれ独立にほぼ同時期に発見しました。このクロロホルムを初めて麻酔剤として人体に使用したのが、スコットランドの産科医であるジェームズ・シンプソンです。シンプソンは1847年にある婦人の出産の苦痛を和らげるために初めてクロロホルムを使用し、無事出産を終えました。当時、クロロホルムに関しては医学者の間でも人体への応用は時期尚早とする者や、犯罪に悪用されると危険性を訴えていたジャーナリストもいました。一般国民にとっては麻酔剤というものは胡散臭いものだったのです。しかし、1853年にヴィクトリア女王の侍医ジョン・スノウが、女王が8人目の子どもを出産する際にクロロホルムを処方し、世界初の無痛分娩をやり遂げました。これによってイギリス国民の麻酔剤に対する不審の念は一掃されることになりました。

食生活

イギリスのメシがマズいと言われている理由

この世で最も不幸なのはイギリス人のコックを雇うことだ」とか「イギリスでおいしい食事をしたいのなら朝食を三度とれ」だとか、イギリスは「メシマズ大国」のひとつとして現代でも有名です。ではなぜ「イギリスのメシはマズい」のでしょうか? 土壌や土地の環境だとかイギリス人の宗教観からだとか、原因は様々だと言われていますが、とりわけこのヴィクトリア朝の人々の暮らしの変化と定着が、大きな要因の一つと言われています。

産業革命によって生産効率が跳ね上がる一方で、労働者一人当たりのノルマは増えます。もっともっと大量生産して儲けたいと思う資本家はどんどん労働時間を引き延ばしていきました。忙しくなった労働者たちは、食事をゆっくりとることもままならなくなってしまった訳です。まして手間をかけて調理している暇なんてありません。労働者の食事は一日にたったの二回。家にまともなキッチンすらないのもザラ。それも豆を煮込んだだけとか、ソーセージを焼いただけとか、料理ともいえないシロモノの寄せ集め。おやつなんてもちろんありません。

働く必要のない上流階級の人間はどうだったのでしょうか。彼らは彼らでフランス人のシェフを雇っていたので食事は毎日ごちそうです。当時の人気メニューはフランス料理。またローストビーフなどはイギリス人が誇れる数少ないご馳走のレパートリでもありました。が、これは後述のローストビーフの項目にも記載されたとある習慣のせいでメシマズ化に一役買ってしまう。

こうしてイギリス人は料理という習慣とはかけ離れた生活が長く続いてしまったために、それまでの家庭料理の文化が壊滅してしまい、発達することもほとんどなかったのです。おまけに例のうなぎゼリーやパイ生地からニシンの頭が飛び出たフィッシュパイなど、見た目の酷さだけが1人走ってしまい「イギリス=メシマズ」という図式が現在にまで続いているのです……余談ですが、近頃はイギリス人たちの間でも料理研究が進んでいて、産業革命期前のブリテン料理を取り戻そう、復興しようという働きが行われているようです。

イングリッシュ・ブレックファスト
産業革命の時代、労働者階級の間にボリュームのある朝食が求められるようになりました。一日働きづめである彼らにとっては、朝から一日のエネルギーを得るためにモリモリ食べないと終日働けないからです。こうして19世紀には徐々にボリュームのある朝食が受け入れられるようになってきました。この朝食のスタイルはヴィクトリア女王の食生活に習って広まったともいわれています。この食生活はすぐに広まりました。一枚のプレートにベーコンやハム、ポリッジ(今でいうシリアル)、豆など消化に良いものが多かったのも、労働者階級に受けがよかったのかもしれません。

他にも少し贅沢なものだと、オムレツやローストしたトマトなどが含まれることもありましたが、これらは上流階級だけが食べられるラインナップでした。
ブレックファストの内容は社会階級でそのバラエティが大きく変わりました。また地域性があり、スコットランド、ウェールズ、アイルランドなどは各地の伝統料理が混ざったアレンジになっています。

現代でもイングリッシュ・ブレックファストは朝早くから開店する喫茶店やカフェのメニューに登場しています。
日本人には少し量が多いかもしれませんが、お昼ごはんがいらないくらい一日しっかりと頑張ることができます。

ローストビーフ
あのステーキやハンバーグと並ぶ肉料理の王道であるローストビーフが、実はイギリス人によって開発されたという話を聞けば驚く人も多いかもしれません。ローストビーフはヴィクトリア朝でもしばしば貴族のご馳走として数々の作品にも登場します。実際説明不要であるくらいには美味しいですし、シンプルな味わいで他の料理にも応用することができたため、イギリス料理の中でも「奇跡の逸材」と言えるでしょう。その一方で仰天の食生活の原因であることから、イギリス料理最大の「負の遺産」としても知られています。

貧民は貧民でつらい食生活(といっても前述のイギリスのメシマズな理由にもある通り、本人たちはそんなこと気にもせず、黙々と食べていたのでしょうが)を強いられていましたが、貴族は貴族でこれまた恐ろしい食生活をしていました。産業革命時代、ヨークシャーからイギリス全土で「サンデーロースト」という伝統的な食習慣が広まります。その恐ろしい内容というのが「日曜日になると牛一頭丸ごと屠り、オーブンで焼いて食う」というものでした。当然一日で食べきれません。その後月曜日火曜日…と少しずつ残り物の牛肉を消費していくのです。

もちろん飽きが来ないようビーフカレーやシチューの具にしたりと応用は効きましたが、毎日毎日牛肉を食べることの本当の恐ろしさはここではありません。前述したとおりイギリス人はただでさえ料理をしたがりません。おまけにローストビーフは調理が簡単(イギリス人に火加減という概念はありません)で、当時にしては日持ちする料理だったこともあって、下手をすると日曜日にローストビーフを食べた後は次の日曜日までずっと牛肉、なんてこともしばしば起こったわけです。……あれ、イギリス人料理してない?

こんな便利()な食習慣を考えてしまったのですから、イギリス料理はローストビーフの独り勝ちです。
こうして「イギリスにはローストビーフ以外美味しい料理がない」とまで言われるようになってしまいました。そんなことないぞ……ないよな?

ちなみにヴィクトリア朝ロンドンで有名なレストラン「シンプソンズ・タヴァーン」のおすすめのメニューが、このローストビーフです。
入店するだけ9ペンスを支払う少し上流階級向けのお店ですが、セッション内に名前を出して「食事に行こうよ」なんて誘えばあなたも立派なロンドナーに。

フィッシュ・アンド・チップス

名前ぐらいは聞いたことあるでしょう。この魚のフライに油で揚げたジャガイモを合わせた非常に脂っこい食べ物も、ヴィクトリア朝期に普及した食品の一つです。調理法のレパートリが少ないイギリス人にとって、油で揚げるという選択肢はまさに生命線のひとつでした。鉄道など交通網の発達と、冷凍保存の技術が進歩したことで都市部に大量の鮮魚が行き届くようになり、それらを消費するためにこの手軽な料理は人気になっていきました。魚は主にタラが使われています。ホカホカの白身魚にモルトビネガー、塩、ケチャップなんかをかけて召し上がれ。

ちなみにフィッシュ・アンド・チップスの「チップス」とはイギリスではフレンチフライ(マク〇ナルドやモ〇バーガーのポテトみたいな形の)のことをさしており、ポテトチップスのような薄いもののことは「クリスプ」と呼んでいます。1890年代になるころには屋台でも売られていたそう。油の吸いが良いので古新聞なんかにくるんで食べ歩くことができます。こどもにも人気なファーストフードのひとつでした。セッション内のちょっとしたロールプレイに屋台で買ってみるのもいいでしょう。
うなぎのゼリー寄せ
画像自粛。気になる方は自己責任で画像検索してください。よくもこんなキチガイ料理を!
……とはいえ簡単に馬鹿にするわけにもいきません。貧しい労働者階級にとってうなぎは貴重な蛋白源でした。卵や肉はまだまだ貴重で彼らの手には届かなかったのですから。その代わり、当時ロンドンのテムズ川ではうなぎが大量にとれました。このヨーロッパウナギの身を筒状にぶつ切りにした後、酢と水、塩などで煮込まれ、さらに煮汁ごと冷やすと完成します。ウナギは煮込めばコラーゲンなどのタンパク質が溶け出すので、冷やせば自然にゼリー状に固まります。これこそイギリスの伝統料理にして、イーストエンドの名物料理(美味しいかどうかは別として)
この見た目の悪さが災いし、「イギリス=メシマズ」という図式の成立に貢献?してしまったのは説明するまでもありません。

余談ですが、現代でもウナギゼリーを出している料理店は何件か存在する模様。またプッ〇ンプリンのようにゼリー状にプラスチックに梱包されていて、スプーンでいただくタイプのものがスーパーマーケットでうられているそうな。意外と美味しい。

ファッション

ミシンの登場

ヴィクトリア朝期といえば華やかな女性のドレス等を思い浮かべる人が多いことでしょう。19世紀半ばになると人力式のミシンがヨーロッパでも普及し始めたおかげで、手縫いでは困難だった装飾を安価で手軽に行えるようになりました。またミシンの登場は同規格の洋服を量産できるようになる過程でもありますが、それはもう少し先の話になります。中流・上流階級の女性たちはこぞって自身のドレスを華やかにしようとさまざまな工夫を凝らし始め、さまざまなスタイルのドレスが生まれてはおそるべき早さで流行も変化していきました。

紳士服(上流階級)

1806年にヘンリー・プール&Coと呼ばれる紳士服店が誕生しました。その後メイフェアに移転したこのお店ですが「サヴィル・ロウ最古の紳士服店」として根強い人気とブランドがあります。1858年、シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝・ナポレオン3世)をはじめとして、各ヨーロッパ王室御用達のお店として白羽の矢が立つことになったのです。顧客一人一人からサイズをしっかりと測り、創業以来の伝統的な手法を用いてモーニングコートや燕尾服が作られます。モーニングコートは主に朝から昼の時間帯。燕尾服は午後から夕方にかけて着られる服です。ちなみにイギリスでは当時も服装は黒色が好まれました。「気品がありスマートだから」という解釈もありますが、何より工場からモクモク出ていた煤煙などで汚れが目立ってしまうのを防ぐためであったと言われています。探索者の中におしゃれ好きな貴族がいれば、ここで社交界向きの上等な服をオーダーメイドさせていることでしょう。2016年も現存しており、その顧客の中にはチャールズ・チャップリンやウィストン・チャーチル、また映画「007」の主人公ジェームズ・ボンドもここを利用しているとのこと。

何故このお店を紹介したかといえば、1870年代このヘンリー・プール&Coが、燕尾服の尾(テール)を切り落とした服を広めるきっかけになったからです。このスタイルがヴィクトリア女王の息子エドワード7世の目にとまり、イギリスでも燕尾服よりやや略式のディナー・ジャケット(いわゆるタキシードの原型)がイギリスに広まったのです。このお店のある通りの名前「サヴィル・ロウ」が由来となって「背広」と日本で呼ばれるようになった、なんて俗説も存在します。
紳士帽
「もしその人物が家の中に入って来たときに、帽子を脱ぐようなら真の紳士。
 帽子を脱がないのなら紳士のふりをしている男。
 そして帽子をかぶっていない人物は、紳士のふりをすることさえあきらめた男だ」

現在でもシルクハットはヨーロッパで紳士の礼装の一部として広く伝えられています。こと紳士の国イギリスにかけては、この時代すでに厳しい帽子のエチケットがありましたが、基本的には現代と同じで屋内では脱ぐのが正しいエチケットです。国歌斉唱、葬式の場面、食事などでは紳士は帽子を脱ぎます。また挨拶の一例として、帽子を取って手にとって軽く持ち上げる、ただ帽子を押さえながら一礼するなどの方法もあります。帽子を脱ぐという行為が、キリスト教における敬虔さを表すことそのものでもあったからです。

1870年代からボウラーハット(山高帽)が流行し始めます。乗馬を行う貴族達の頭部を木の枝などから守るために考案されたもので、当初は鉄などが使われていましたがやがて現在しられているスタイルのものになっていきます。このボウラーとは「ボウルの形に似ている」ことと、帽子職人の名前が「ウィリアム・ボウラー」であったことからきています。上流階級のシルクハットと、庶民が好んだカジュアルなハンチング帽(シルクハットよりもずれにくい、狩猟用の帽子)の中間として多くの人間に好んで着用されるようになり、1890年代には大流行しました。

婦人服(上流階級)

バッスル・スタイル
ドレス流行の中心には常にヴィクトリア女王がいて、彼女を規範にしている女性が多かったそうです。当初のドレスはクリノリン等に支えられた全方向に大きなふくらみを持つ物が多かったのですが、クリノリンはその後のイギリスでのドレスの流行により出番が減っていきます。1870〜90年代では後ろ腰に大きなふくらみを持たせるバッスル・スタイルが流行っていましたが、ヴィクトリア朝末期になるとそれらも再び衰え、やがてふくらみの少ないスラッとしたものが好まれるようになりました。

バッスル・スタイルは後ろ腰にふくらみを持たせるために下にクリノリンのような骨組みをつけたり、尻尾のようなかたちの詰め物を腰に巻きつけたり、重ね着したスカートを後ろにたくし上げたりと様々な方法が存在しました。とりわけ重ね着したスカートを後ろでたくし上げる簡素なスタイルは「ドリー」とも呼ばれていますが、これはディケンズの小説に登場する活発な女性キャラクターの名前から来たといわれています。

コルセット
コルセットは体型補正下着と呼ばれるもので、主に女性の体のラインを細く美しく見せるためのものです。当時(というより18世紀頃から20世紀初頭まで)女性にはウェストが細い女性こそが美しいという共通認識がありました。いくつか例外もありますが、コルセットは当時素材には鯨鬚や鉄などが使われていて、装備してみるとこれがなかなか重くて大変だったそうです。おまけに人によってはウェストをかなり細めようとかなり無理なサイズのものを、無理やり締めるようにして着用したので息苦しいことも日常茶飯事。呼吸困難で意識不明になったりすることも珍しいことではありませんでした。

ところで、映画などでショックを受けたお嬢さんが気絶するというシーンを見たことがあるという方も多いでしょう。なにを大げさなと思うかもしれませんが、実はこれも彼女たちの計算の内だったというエピソードがあります。というのも当時のヨーロッパではこのように些細なことで気絶してしまう女性を「繊細な女性」だとして見ていたからです。わざとキツめのコルセットを着用することで呼吸を無理やり浅くし、あとはちょっとしたショックで気絶して「繊細な女性」を演出できるような細工したのです。社交界、女の戦いはまさしく命がけでした。

子供服(上流階級)

エプロンドレス
エプロンドレスは当時の5歳くらいまでの少女によく着せられていた服装の一つです。このエプロンドレスというのははルイス・キャロル作『不思議の国のアリス』の主人公アリスの服装と言えばイメージしやすいでしょうか。この服は本来労働者の象徴ともいえる服装でしたが、服を汚さないために使われていたそうです。ただ、メイドなどの着ていたエプロンドレスとは違い、子供服用のエプロンドレスは丈が短いミニスカートでした。これは幼い子どもは走り回ったりするときに障害にならないようにだと言われています。これらの少女にエプロンドレスを着ていたとされる名残はソビエト連邦時代のロシア小学校の制服などにもみることができます。他にもショートドレスと呼ばれるワンピースも着ていたと言われています。こちらも同様にミニスカートが多かったそうです。

この時代の娯楽文化

パブ

パブは元々パブリックハウスの略称で、町の社交場として各地に存在していました。
ヴィクトリア朝時代では人々にとって一般的な娯楽の一つで、
都市の住宅地なら30軒に1軒はパブがあったと言われています。
一見住宅と同じような素朴な物もあれば、豪華に飾り立てた物もありました。
多くのパブの店内は社会階級に応じて、内部がフロアや仕切りで二つに分けられていて、
労働者向けの空間はパブリックバー、中流・上流階級向けの空間はサルーンバーと呼ばれていました。
会合ができるパブリックルームあるいはクラブルームという部屋が用意されている場合もあり、
ここでは社会運動等の集会がしばしば行われていました。

クラブ

紳士階級の主に男性にとっての社交場で、共通の趣味の仲間達で集まれる場所でした。
貴族の中でもそれほどお金の無い者や、結婚してない若い子息にとっては、
居間・ラウンジ・図書館・食堂・バー・化粧室等が揃ったクラブは第二の我が家になりました。
使用人がいて、ホテルのレストランよりも安く食事を提供してもらえるためです。
こうしたクラブの運営資金は年会費と入会金で賄われていました。

ミュージックホール

従来のパブは酒だけでなくお客をもてなすための音楽が提供されていました。
ヴィクトリア朝中頃は、民衆が集まるパブが労働運動の集会場を兼ねているケースが多く
パブでの音楽等の演し物を見せるために酒の販売を禁止するか、演し物を諦め酒を販売するか、
という二択を迫る劇場法の改正が、風紀の改善という名目のもとで改正されました。
ミュージックホールは、パブではない新しい業態だと主張し法の抜け穴をつくために始まり、
ロンドンやリヴァプール等の都市部で栄えた娯楽の一つとなりました。
6ペンスから1シリング程度の入場料で、酒に軽食、そして初期は音楽を提供しましたが、
19世紀末頃から曲芸、演劇、漫才、奇術、ありとあらゆる大衆芸能を上演するようになり、
主に中産階級や労働者階級に大いに人気を博しました。
かの喜劇王チャールズチャップリンの両親も、ミュージックホールの俳優でした。
[チャップリンの寄席見物]は、ミュージックホールが舞台で、当時に近い雰囲気を見る事ができます。

劇場

ヴィクトリア朝初期の劇場は上流階級向けの娯楽で、シアターロイヤルではオペラや演奏会が上演されていました。
時代が少し進み、1860年代頃から誰にも興味を持てる演劇を上演するようになり、
庶民も劇場を訪れるようになりました。安価な天井桟敷の席で観劇する事が多かったですが、
劇場の定期会員が観劇しない際に古書店に入場札を売却する事もあり、
ボックス席や一階正面の特別席で観劇する事も可能でした。

読書

19世紀前半は、学校教育が行き届いていない事や、印刷物に税金がかけられ高価だったため
読書や新聞は上流階級のためのもので、貸本屋や新聞の共同購入が行われていました。
1850年頃から大規模企業の経営者が、従業員のために読書室や図書館を設ける事があったようです。
チャールズ・ディケンズ、ルイス・キャロル、アーサー・コナン・ドイル等々
様々な小説家が人気小説を執筆していました。

写真

感光材料によりカメラが実用化したのもこの時代です。
特に1851年の写真湿板の発明は画期的で、露光時間が5から12秒と当時としては大変短く、
一枚のネガから何枚も印刷できたことで写真代が安くなり、庶民にも親しみやすい存在となりました。
写真家の主な仕事として、国内や海外の風景を撮影した絵葉書の販売や、
スタジオや屋外での記念写真や肖像写真の撮影がありました。
中産階級や上流階級の間では、家を訪問した際に置いていく名刺に写真を入れる流行もできました。
1888年にはセルロイド式のフィルムがコダック社によって発明されましたが、
高価だったため1920年代頃までは、湿板や乾板式が現役だったようです。

ガーデニング

屋外余暇活動の一環としてガーデニングが注目されていました。
上流階級の庭園を整備していた労働者階級の人々が発端となり、花の栽培が流行し、品評会も行われていました。

また、植物学は当時の女性や聖職者が学ぶのに望ましい学問の一つであるとされていたことや、
お茶会等の社交の際のデコレーションに、フラワーアレンジメントが必要であったこともあり、
ヴィクトリア朝中頃には、女性と聖職者を中心に園芸の楽しさが浸透し、
現代で言う[趣味の園芸]のような、庭園設計や植物の栽培を指南する園芸本も出版されていました。

過密状態の都市において、飲酒無しの理性的な娯楽として公園が整備されました。
19世紀以前の公園は、利用者に制限があったり、料金を徴収したりしていましたが、
ヴィクトリア朝では市民が平等に利用でき、心をなごませ倫理観や社会性を育む事を期待し、開かれたスペースとなりました。
クリケット等のスポーツが行える広場や、種まきや苗を植えるための花壇、目を楽しませるロックガーデン、散歩ができる並木道が作られ、社交や休息に訪れた人々で賑わいました。

動物園

ロンドンリージェントパークに開園したロンドン動物園は、見世物ではない、
教育と研究施設としての役割を持った、近代的動物園の始まりとなりました。
1847年に一般公開が始まり、象やキリン等の珍しい動物が展示されていました。
中でも特に人気を博したのが1853年から1878年まで飼育されていたカバのオベイシュで、
お土産に、カバのネクタイピンや、[カバのポルカ]という曲の楽譜が販売されました。
中産階級の社交の場としてや、入場料が割引される月曜日には労働者の家族で賑わいました。

アクアリウム

1850年にロバート・ウォリントンが水草によって水生生物に必要な酸素を補給する水槽を考案しました。
アクアリウムの名前が定着したのは、フィリップ・ヘンリー・ゴスが、実際にイソギンチャク等を飼育し描いた[ジ・アクアリウム]という書籍がきっかけです。
中流階級に室内娯楽として流行しますが、現在と違ってエアポンプ等の機械が無かったため飼育難易度は高く、1860年代末には下火となりました。
代わってウィリアム・アルフォード・ロイドが水の循環装置を発明し、大規模な水族館が建設されるようになり、
海浜リゾート地や、ロンドンではクリスタルパレル水族館や、ウェストミンスターのロイヤルアクアリムが人々の目を楽しませることになりました。

旅行

鉄道が開通する前は、長距離を移動する手段は馬車しかなかったため、
旅行は主に上流階級やお金持ちの中産階級のための娯楽でした。
温泉地バースでの温浴や、海浜地ブライトンでの海水浴は、健康に良いとされた事もあり、
上流階級の社交場として、社交シーズンには舞踏会や音楽界が開かれていました。
鉄道の開通後は、馬車を持たない人々でも休日に日帰りで郊外に出かける事ができるようになり、
1845年にはトマス・クックが団体旅行を企画し、列車を手配したことで近代ツーリズムが生まれ、
労働者でも1年に1度くらいは旅行に出かけられるようになりました。

スポーツ

ヴィクトリア朝時代では、現代と同じく老若男女が様々なスポーツを楽しみ、また近代スポーツとしてルールが整備されました。
社会階級によって嗜むスポーツに違いはあれど、どれも余暇の活用や社交の場として大いに楽しまれていました。
また下層階級の人々にとっては、身を立てる一手段となる場合もありました。

ボクシング

クリケット

フットボール

ラグビー

クロッケー

アーチェリー

テニス

乗馬

競馬

狩猟

宗教・信仰について

イングランド国教会

イングランド国教会の成り立ちについては非常にややこしいので割愛します。(有志の方の分かりやすい加筆に期待しよう)
覚えておくべきことは、イングランド国教会とはイギリス国王を首長とするキリスト教の一派であること。当然1890年代のイギリス国民の多くが所属していることになるが、国民全員ということでもありません。
元々はカトリックの分派として誕生するも、16世紀にローマ法王庁から離れており、ローマ法王を頂点とするカトリックに所属しないと言う点から見れば、プロテスタント寄りです。
しかし典礼的にはカトリックの色も残しているので、独自の立ち位置にありとても難しいのです。
かつてはカトリックを排除するなど差別するなどしていましたが、1829年の時点でカトリック教徒解放法が成立して和解しており、表向きには対立は解消されています。
しかし個人では変わらずカトリックを嫌う人もいるので、そう言ったロールプレイを挟むのも面白いでしょう。

この時代の乗り物

鉄道

蒸気機関車の発明
イギリスは世界で初めて蒸気機関車による鉄道を用いました。1804年に、イギリスの機械技術者であるリチャード・トレビシックが蒸気機関車を発明しました。1812年には初の商業用の蒸気機関車が製作され、その後も改良が加えられていきました。1814年に「鉄道の父」と呼ばれているジョージ・スチーブンソンが、石炭輸送を目的とした世界初の輪縁付きの車輪を採用した蒸気機関車を設計、製作に成功しました。
実用的な鉄道の登場
1830年にはスチーブンソンの手によってリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(以下、L&MR)が開業しました。このL&MRは世界初の実用的な鉄道と呼ばれています。L&MRから初めてダイヤグラムが作成されて運行管理が行われるようになり、全ての列車が時刻表に基づいて運行されました。外部から所有者が持ち込んだ車両で列車を運転することが認められていた鉄道会社が存在する中、L&MRは自社所有の車両のみで運行することが意図され、ほとんどの区間で蒸気機関車が牽引していました。
鉄道熱狂時代
1840年代に入ると鉄道の発展が目覚ましくなり、この10年間でほとんどの主要都市を結ぶ鉄道網が形成されました。鉄道業界への熱狂的な投資も盛んに行われたことから、この年代は「鉄道熱狂時代」とも言われています。
1844年には国会に鉄道の国有化に関する法案が提出されましたが、これは採択されませんでした。しかし、後の英国首相であり当時商務庁長官だったウィリアム・グラッドストンの主導のもと、鉄道法の改正につながりました。これによって、客車の構造に関する最低基準の導入、三等客車の環境の改善、三等客車の連結の義務化などが行われました。三等客車の数も増えたことから庶民が鉄道を利用しやすくなりました。
ヴィクトリア朝後期の鉄道
1880年代後半から1890年代になると、イギリスの東海岸側の鉄道会社(グレート・ノーザン鉄道&ノース・イースタン鉄道)と西海岸側の鉄道会社(ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道&カレドニアン鉄道)がロンドンとスコットランドの都市間の旅客列車所要時間を巡り、「北への競走」と呼ばれるスピード競争が繰り広げられました。この競争によって安全性や利用客へのサービスに関する批判が噴出し、1895年8月に両者の競争は終息しました。
この頃になると、列車の運行速度は平均で約80km/hにまで達し、最大速度も100km/hを超えました。線路の耐久の問題もあって、約27km/hで走行していた1830年代と比べると、鉄道技術もかなり発展してきました。

馬車

馬と馬車の時代
ヴィクトリア朝の交通機関の中で最もポピュラーなものは馬車でした。19世紀半ば頃、ロンドンには約2万500頭の馬がおり、それらが年間約2万トンもの馬糞を路上に落としていたと言われています。当時のロンドンの街路にはいくつもの馬糞が点々と落ちていたことでしょう。それらの馬糞を処理するために使役されていた馬だけでも常時600頭もいたそうです。
1851年に行われた国勢調査では、イギリス全国に2万1000人もの御者や馬丁がいたことを示しました。これらの数字は増え続け、ヴィクトリア朝末期の1901年においても、イングランド内だけで約50万台の馬車が走り続けていました。ヴィクトリア朝はまさに馬と馬車の時代だったのです。
上流階級のシンボル
個人の馬車を所有しているかどうかは、上流階級及び上層中流階級(アッパー・ミドル)と中流階級を分ける決め手でした。馬車自体も高価なものでしたが、その維持費も高くつきました。馬車を操縦する御者や馬の世話をする馬丁を雇い、馬小屋を建てて飼葉も買わなくてはなりません。そんな上流のステータスを所有するには少なくとも750ポンド以上の年収が必要だったのです。
辻馬車
ロンドンでは辻馬車が圧倒的に利用されていました。辻馬車というのは駅前などの道端で客を待ち、客を目的地まで運び走行距離に応じて運賃を支払ってもらう形式の商業馬車です。現代のタクシーの前身であり、このようなシステムは今に受け継がれています。1890年代までには1万1000台以上の辻馬車がロンドンの町中を走っていました。
ヴィクトリア朝の辻馬車といえば一頭立て二輪馬車の「ハンサム・キャブ」(以下、ハンサム)でした。後に「ロンドンのゴンドラ」と呼ばれ親しまれることになります。ハンサムは軽量のオープン型の馬車で、二人乗りです。二人乗りと言いながら十分な余裕はありませんでした。御者席は客席の後ろの高い台に置かれました。御者と会話する際は、屋根に付いている跳ね上げ戸を開けて大声で叫びます。
また、「クラレンスあるいは「グロウラー」と呼ばれる大型の四輪馬車もロンドンの町中を走っていました。四輪馬車は通常四人乗りですが、もう一人御者台に上がって御者の隣に座ることもできました。荷物は馬車の中だけではなく、屋根の上にも積むことができました。四輪馬車は馬車を閉め切り、窓のカーテンを引くことができたのでハンサム辻馬車よりもプライバシーを守ることができました。
自家用の馬車で最も人気があったのは、女王の名を冠した「ヴィクトリア」でした。ヴィクトリアは小型の四輪馬車で、女性用の馬車として人気を集めました。
辻馬車の基本料金は2マイル(約3.2km)以下では一人2シリング、それから1マイル(約1.6km)につき6ペンス加算されました。また、乗客が一人増えるごとに同じように6ペンス加算されました。
オムニバス(乗合馬車)
乗合馬車は不特定多数の乗客を乗せ、時刻表に基づいて運行された公共の交通機関でした。英語で「オムニバス(omnibus)」と呼ばれ、後のバスの語源になりました。ほとんどのオムニバスが二階建てで、いつも混み合っていたそうですが、辻馬車よりも安価で利用できました。
オムニバスがロンドンに初めて導入されたのは1829年で、その後次々と新しいオムニバス会社が設立されていきました。1851年にイギリスで万国博覧会が開催された際には、万博を一目見ようとイギリス全土や大陸から押し寄せた客でごった返すロンドンを混乱から救い、大きな力を示しました。
当時、鉄道には客車には一等〜三等という等級が存在していましたが、オムニバスには階級的な差別はなく、民主的な交通手段と言えました。しかし、中流以上の人士の中には自分がオムニバスに乗り込むところを見られるのを嫌ったり、良家の婦女子がオムニバスに乗り込むのははしたないという風潮がありました。馬車を所有していないためにオムニバスを利用するのだと見られるのを畏れたのです。

自動車

蒸気自動車
ヴィクトリア朝ロンドンと言えば馬車、と思う人が大半でしょうが、事実だけ言うならばヴィクトリア朝期にも蒸気を動力とした自動車が既に存在していました。いわゆる"蒸気自動車"は蒸気機関車の生みの親でもあるリチャード・トレヴィシックによって1801年には試作機第1号(パフィング・デビル号)が作られています。この蒸気自動車は複数人を載せて街を走ることにも成功していました。しかしこの時点では時速は最高でも10キロほどでしか走れず、また15分間隔で給水が必要などまだまだ実用にいたるレベルではありませんでした

蒸気自動車の研究はその後、リチャードの蒸気自動車を少年期に見て成長したゴールズワージー・ガーニーウォルター・ハンコックなどの手により蒸気エンジンがさらに改良され、1827年にはロンドン~ストラトフォード間をはじめとする蒸気自動車を利用した乗り合い自動車(現代で言う路線バスのようなシステム)も誕生しました。しかしながら騒音や振動による乗り心地の悪さ、高圧蒸気機関の不安定さによるボイラーの事故、さらには当時ライバル関係であった乗合馬車組合からの圧力により国内での蒸気自動車の運行に厳しい制限と条件が敷かれることとなり(『赤旗法』、1865-1896)、イギリスの自動車事情は他国に比べて停滞、後れを取ることになります。赤旗法が廃止される頃にはすでに自動車の動力はガソリンエンジンの研究へと移り変わり、結局実用的な自家用車としての蒸気自動車がヴィクトリア朝期に陽の目を見ることはありませんでした。

なお、自家用車としての蒸気自動車はそれほど流行しませんでしたが、速度や乗り心地をそれほど重視しない耕運機やロードローラーなどの建設・インフラ整備などを目的とした利用においては、蒸気自動車がこれらの機械化に大きく貢献しています。これらの車を運転する機会がある場合、【重機械操作】での判定をKPが要求することがあるかもしれません。

自転車

自転車の発明
自転車の原型については諸説ありますが、現在の自転車のデザインの原型は、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子のひとりであるジャン・ジャコモ・カプロッティによって描かれたスケッチによるものと言われています。
実際に製作されたことが確認できる二輪自転車の祖先は、「ドライジーネ」です。これはバーデン大公国(現在のドイツ南西部に存在した大公国)の当時森林管理官だったカール・フォン・ドライス男爵によって1817年に製作された木製の乗り物です。この乗り物は木を組み合わせて二つの車輪を並べ、その間に跨って乗るものでした。この時はまだペダルは発明されておらず、地面を足で蹴って進むものでしたが、ハンドルで前輪の向きを変えて進行方向を操作することができました。この乗り物は間もなくイギリス人のデニス・ジョンソンによって改良され、「ホビー・ホース」と呼ばれる自転車がイギリスで製作・販売されるようになりました。
自転車の進化
前輪にペダルとクランクを装着した自転車は「ミショ―型」と呼ばれるもので、1861年にフランスで当時馬車職人だったピエール・ミショーが発明したものでした。ミショ―自転車は1869年にイギリスにも輸入されるようになりましたが、木と鉄でできた車体は走行時の衝撃が激しく、「ボーン・シェイカー」と呼ばれるようになりました。この時には自転車レースが開催されるようになるなど、自転車ブームが起こっていました。
庶民の乗り物へ
自転車をより庶民にとって身近なものにしたのは、1870年にジェイムズ・スターリーとウィリアム・ヒルマンが開発した「空気の精(エアリアル)」(アメリカではオーディナリーと呼ばれた)であり、前輪と後輪のサイズの比率から「ペニー・ファージング(ペニー硬貨と1/4ペニー硬貨)」の名称で親しまれることになります。一台8〜12ポンドという手ごろな価格で販売されたこともあって、1878年までにイギリス中で約5万台のペニー・ファージングが走るようになりました。
ペニー・ファージングと時を同じくして流行したのが、安定感のある大型の三輪車でした。
一般に二輪車よりも転倒してあられもない姿をさらす心配のない三輪車のほうが上品だと考えられていました。

帆船

19世紀は帆船技術の成熟期となり、多くの帆船が建造されました。
科学的進歩によって帆船の建造技術も向上し、大型化と高速化が突き詰められ、
アメリカとイギリスで作られた大型船、クリッパーが世界の海を渡りました。
紅茶を運ぶティークリッパーは、インドからイギリスへレースを繰り広げましたが、
スエズ運河の開通をきっかけに、少しずつ優位は帆船から蒸気船へと移り、
1931年まで続いたチリの硝石輸送を最後に、帆船は海運から姿を消す事になりました。

蒸気船

18世紀に作られ改良が続けられてきた蒸気ボートに着想を得て、
アメリカのフルトンによって、外輪式の蒸気船が1807年に実用化されました
初期の蒸気船は、ボイラーの性能の低さと給炭地が無いため、長期航海ができず、
小回りの良さを生かして、河川水運や兵員輸送船等の小型船舶から普及しました。
航続距離が伸びてからは、外洋では主に郵便船や高価格貨物輸送船として使われました。
1836年にはイギリスのフランシス・ペティ・スミスが実用的なスクリューを発明し、
テムズ川を始めとする各地の水運でスクリュー船が使用され始めました。
1869年スエズ運河開通に伴い、風の無いスエズ運河を航行し大量の貨物を運搬するため、
大型船の需要が急増。海運の主役は蒸気船へ移ることになりました。

熱気球

気球は人類が初めて手にした航空機でした。大別し熱気球とガス気球があります。
どちらも1783年のフランスで、モンゴルフィエ兄弟とジャック・シャルルによって発明されました。
有人飛行は熱気球が先駆けましたが、一度の飛行で火炎によって球皮が痛み、引火の危険もあったため、
同じく引火爆発の危険はありましたが、繰り返し使用できる等のメリットでガス気球が実用化されました。
用途は様々で、軍事用に偵察や大砲の着弾地点観測、冒険家による冒険飛行、興行の際の気球ショーや遊覧飛行に使われました。
イギリスでは、チャールズ・グリーンが水素ガスより扱いやすい石炭ガスによる飛行を行いました。
19世紀の空で気球は大いに活躍しましたが、20世紀には飛行船や飛行機が実用化し、
以降はスカイスポーツとして復活するまで、裕福な人々の趣味として愛好されることになりました。

社会階級

上流階級

ヴィクトリア朝時代の最高ランクに所属する人々。
この階級に属するには働く必要のないことや作法に精通していることなど様々なことを要する。
ただの金持ちや称号持ちというだけでは属せないのである。
通常は家柄・土地・品格・称号などを求められる。
中流階級の中でもトップクラスの人々はこの階級に所属するためにあらゆる努力を行なった。
この階級は労働とは無縁だったが貴族院議員・判事・軍や政府の最高役職などの名誉職は彼らの仕事とみなされた。
このランクにもなると時に数百人の使用人を雇う場合もある。
貴族
王族のほかにも世襲貴族から一代限りのナイトまで称号を持つ者は大勢いた。貴族とは次の称号のうち一つを持っているものだ。
つまり『公爵(duke)』『侯爵(marquis、英式ではmarquess)』『伯爵(count、英式ではearl)』『子爵(vascount)』『男爵(baron)』である。
通常爵位は当主のみが所持しているが複数の爵位を持つ家などは長男(後継者)が当主の持つ爵位の中で二番目のものを慣例的に名乗っていた。
継承権は男性にのみ存在するがスコットランドの伯爵位などは女性でも継承することは出来た。
後継者の男子がいない場合は血縁を辿り兄弟親戚に相続することになるが、当主の娘が男子を産んだ場合その孫に相続するというパターンもあった。

貴族への呼びかけ方(あくまでも一例で、資料によっては異なる)

ジェントリ
上流階級のうち貴族ではない人々。
世襲称号である「準男爵」、一代限りの「勲爵位」、代々広大な土地を所有する名士「スクワイア」が属する。
称号は古さや得た経緯も重要視されるため古い家柄ならば準男爵や勲爵位でも上の貴族と同等に扱われる場合もある。

中流階級

パブリックスクールで教育を受けたジェントルマンや商売で成功したブルジョア、知的専門職、職人、事務員、教師などが該当した。
この階級でも使用人は雇うが中流の中でも下層に近いものは雇うことが出来ないものも居た。
下層との違いは使用人の雇用や専門的な労働を行なう能力となる。
とくに使用人の雇用はその数でパーティの席次が決まることもあったという。
パブリックスクール出身で教養を身に付けジェントルマンとしての品格を身に付け自分の土地を持ち・・・
といくつもの条件をクリアすれば上流階級の人々と付き合いを持ち「スクワイア」として庶民の家柄でも上流の一員になれるため成功者達は次にそれを目指した。
プロフェッション
上流階級は元々働くことはないがその称号や土地は法律上後継者(長男)に全て相続されるため次男以下は労働をする必要があった。
プロフェッションというジェントルマン的として認められている知的専門職に就くのである。
聖職者・法廷弁護士・内科医・上級の官吏や軍士官などが該当するが時代が下るにつれて職種は広がっていった。
また、これらの職業は19世紀中ごろから上流階級への躍進を狙うものが狙うようになった。
この職種に就く人々は最低でも3人程度の使用人を雇わなければ体面を保てないとされた。

下層階級

いわゆる一般人。労働者階級。使用人や工場労働者、小作人、移民などが存在した。
この階級にも豊かなものはわずかに存在し皮肉をこめて労働貴族と呼ばれた。
使用人
ヴィクトリア朝時代は使用人雇用の全盛期である。
雇う使用人の数はステータスであり身分に応じて雇うべきとされる数もあった。
上流階級の多数の使用人を雇う家では作業は細分化され縦割り構造で管理されていたが、
1〜3人しか雇えない家では雑役女中(メイド・オブ・オールワークス)という使用人が家事のほぼ全てを担当していた。

使用人の仕事

役職(日本語読みの例)……詳細
ハウス・スチュワード(家令)
上級使用人。ヴィクトリア朝では絶滅寸前の役職で、執事が兼務することも多かった。
主人に最も近く、最も信頼厚い補佐役。主な仕事はスタッフの雇用と解雇、運用、食品や日用品の注文、帳簿の記録、貴重品の管理。
主人や屋敷内の予定を把握し、計画し、指揮する。思慮分別と誠実さが求められ、部下からの信任も必要な役職である。
上級使用人には専用の仕事部屋が与えられ、家令室には重要な法的文書や地図、日誌、帳簿などを防火金庫に入れて保管されていた。
実際の年収は100〜125£程度。
バトラー(執事)
上級使用人。主人と他のスタッフとを繋ぐ役であり、相談役であった。すべての時間と労力を仕えている家族に注ぐため、独身であることが望ましかった。
銀器、グラス、椅子、陶磁器や花の配置といった食事のすべてを取り仕切り、新聞のアイロンかけ、銀器磨き、アルコール類の管理、来客の仕分け(身分の値踏み)とアナウンスを行う。
特に晩餐は執事の最大の仕事で、来客の応対と案内、食前酒を配り、食堂への案内、フットマンたちの給仕の監督をした。
1日の終わりには屋敷中のドアと1階の窓の施錠の確認、ロウソクとランプが確実に消されていることをチェックして回った。
上級使用人は制服ではなくそれぞれの場に応じた背広を身に着けるが、自分が使用人であると分かるように「目立った間違い」をわざとしていたという。
通常、フットマンから昇格した。
フットマン(従僕・下僕)
高身長で外見がよく、上品な物腰が必須。体格がよかったので、18世紀には主人のボディーガードも兼ねていた。
表の仕事としては料理の給仕、メッセンジャー、馬車のドア係、旅行の際の通訳も行った。
一方で裏方の仕事も行い、銀器や陶磁器磨き、鏡や家具磨き、オイルランプの手入れ、主人や上級使用人の服の手入れも担当していた。
一見大変そうだが他より待遇がよく、彼らの外見も相まって、ほかの使用人たちからやっかみの目で見られることも多かった。
ホール・ボーイ
執事やフットマンの使い走りとして、薪割りや使用人のブーツ磨き、石炭運び、ごみ処理、家具の運搬、伝令、郵便出しなど、最も汚く骨の折れる雑務をこなした。
丈夫な身体つきと、ほどほどに賢い少年が選ばれた。
勤勉でまじめに働くと、フットマンに昇格できるかもしれない。
ヴァレット(従者)
紳士の個人付きの使用人。主人の補佐役として、旅行や訪問に付き添い、アシスタントとして万全の対応を行う。
髭剃りや散髪も担当し、プレゼントの手配や、厄介な訪問者には平然と噓をついてあしらい、万事円滑に処理する。
主人の服のクリーニングや修繕も行い、靴を丁寧に磨き、服を用意し、風呂に入れたりもした。
それ故に主人からの信任も高く、賢く扱いやすく、出しゃばらず忠実で、一緒にいて心地よい相手を求められた。
場合によっては執事やフットマンが代役を務めた。
レディーズ・メイド(侍女)
女性職。ヴァレットの女性版で、婦人の個人付き使用人。
日に何度もある婦人のドレスの着せ替えが主な仕事だが、髪結い、化粧の手伝い、服の仕立て直しや繕い物、装身具磨き、染み抜きなども行った。
妊娠を含めた夫人の健康管理にも目を光らせ、スキャンダルは徹底的に隠し、時として相談役になった。
婦人が傍に置いて恥ずかしくない使用人として整った容姿と物怖じしない性格、丈夫な体質、読み書きのほかに旅行の際の通訳としてフランス語ができると喜ばれたという。
ハウス・キーパー(家政婦)
女性職。ハウスメイドを取り仕切る上級職で、結婚の有無にかかわらず儀礼的称号として「ミセス」で呼ばれた。
ハウスメイドの雇用と解雇、教育を行い、倉庫とリネン室を管理し、生鮮食品以外のあらゆる物資の支給と帳簿管理を行った。
賢く、読み書き計算が得意で、料理の基礎知識も求められた。女主人からの信任も厚い直属の代理人であり、屋敷の女性で2番目に偉いとまで言われた。
ハウスメイド
女性職。屋敷の中を奇麗に整え、完璧な状態にしておく最も重要にして最も重労働な仕事の一つ。
彼女たちの仕事は朝から順に、暖炉の掃除、床掃除、真鍮磨き、ランプや燭台の手入れ、廊下や玄関の掃除、洗面器や室内便器(チェインバーポット)の回収、
ベッドメイキング、主人の部屋掃除、応接室の掃除、来客の応対、午後になると繕い物、料理の運搬(配膳は男性使用人が行うことが多い)、寝室の準備と、休む暇がなかった。
ランドリー・メイド(洗濯婦)
女性職。暖炉やロウソク、オイルランプから出る煤や舗装されていない路面の砂埃、そして何より大気汚染と、ヴィクトリア朝は汚れとの戦いだった。
そのため洗濯の需要は高かったが、専属でランドリー・メイドを雇うことができたのは裕福な家庭だけだったという。中流の家庭は週に1回業者に頼んだらしい。
とても専門性の高い仕事だった。仕事は名前の通りリネン室に籠り、独自レシピの洗剤で布製品を徹底的に手洗いし、染み抜きをし、アイロンやプレスかけをしてきれいに整えた。
実際の年収は12〜30ポンド程度。
シェフ(料理長)
貴族の晩餐には欠かせない人物。それ故に高給取りであった。
フランス革命(1789〜1799)に亡命したフランス人シェフを皮切りに、専門性の高い技術と外国料理を作れる人物がもてはやされた。
階下の職ではあるが、逆らえる人物は多くなかったという。
実際の年収は120〜150£と非常に高かった。
コック(料理人)
女性職(?)。通常はキッチン・メイドから昇格した。シェフと同様にキッチンの支配者で、未婚女性でも「ミセス」と呼ばれた。
コックの作る料理は来客をもてなす主人にとって社会的地位に影響するため、腕の良いコックは必然的に屋敷内での地位が高くなり、逆に主人に嫌われるとあっという間に解雇された。
  参考書籍には女性前提で記載されており、またシェフとコックの明確な違いがなかった。
キッチン・メイド
女性職。コックを手伝い、料理の下ごしらえをする。また使用人や子供部屋に出す料理を作ることも多かった。
晩餐の後には食器、銀器、鍋など千個にも及ぶ洗い物が出るため、彼女たちも手洗いに加わる。キッチンの整理整頓やレンジの掃除もキッチン・メイドの仕事になる。
コックから見て、あるいは直接指導を受けて料理を覚え、やがてはコックへと昇格する。
手伝いであるため、コックのように晩餐の賛辞を受けるために屋敷の表側(上階)へ出ることはほとんどなかった。
実際の年収は18£程度。
スカラリー・メイド(皿洗い)
女性職。文字通りの皿や鍋を手作業で洗う少女。
動物の皮や羽根を剥いだり、キッチンの掃除をしたり、レンジで沸かした熱湯を運んだりといった雑用もした。
1年ほど働くと、今度は根菜を洗ったり皮むきを任されるようになる。そうして筋の良いところを認められると、さらに1年後にキッチン・メイドに昇格することになる。
実際の年収は5〜9£程度。
スティルルーム・メイド
女性職。ジャムや果物の砂糖漬け、酢漬け、アルコール漬け、ドライフルーツなどのような保存食や、レモネードや大麦湯のようなドリンクを作る仕事。
下級使用人でありながら専門職であるため好待遇で、私服での仕事も許された。
実際の年収は18£程度。
カヴァネス(家庭教師)
主に年若い子どもや女子のための教育係。
男子はイートン校に代表されるような寄宿学校で学ぶことがステータスであり、女子を相手にすることが多く、必然的にこの仕事は教養のある女性が就くことが多かった。
子供を預けるのに信頼のおける相手として、遠い親戚などが選ばれやすかったが、新聞の求人広告も少なくなかった。
勉強の内容は手芸とダンスやフランス語、あとは適当なお洒落な嗜みといったちぐはぐな内容であった(当時の上流では、賢すぎる女性は結婚相手として敬遠された)。
家庭教師本人も雇われの身でありながら上品な態度や手厚い待遇を受けるため、他の使用人から嫌われる傾向にあったようだ。
実際の年収は80£程度。
ナニー(乳母)
女性職。その名の通り赤ん坊や子供の世話をする職。
当時の上流階級の母親は自分で子どもの世話をしないことが一般的だったので、日に数回顔を合わせる以外は乳母たちが世話をしていた。
当然このような環境で育った子どもたちは、成長後も乳母に全権の信頼を寄せることになり、乳母は離職後も子どもたちから気にかけてもらえたという。
ナニーは主に跡継ぎの長男を世話し、他の兄弟は下級職であるナース・メイドが面倒を見ていた。

著名人

王族(貴族)・政治家

アレクサンドリナ・ヴィクトリア(1819年 - 1901年)
イギリス・ハノーヴァー朝の第6代女王、初代インド女帝。
ウィリアム・グラッドストン(1809年 - 1898年)

英国首相

ロバート・ガスコイン=セシル(1830年 - 1903年)

イギリスの政治家、第3代ソールズベリー侯爵

学者

ジョン・スノウ(1813年 - 1858年)

ヴィクトリア朝初期の外科医

フローレンス・ナイチンゲール(1820年 - 1910年)

英国の看護師、社会起業家、統計学者、看護教育学者。

チャールズ・ダーウィン(1809年 - 1882年)

英国の自然科学者、地質学者、生物学者

実業家

トーマス・クック

イギリスの実業家。トーマス・クック・グループの創業者、近代ツーリズムの祖

技術者

ジョージ・スチーブンソン(1781年 - 1848年)

イギリスの機械技術者、鉄道の父

芸術家

アーサー・コナン・ドイル(1859年 - 1930年)

ナイトに叙された作家。ホームズの産みの親。

チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(1812年 - 1870年)

ヴィクトリア朝を代表するイギリスの小説家。

ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866年 - 1946年)

イギリスの小説家、活動家、SFの父と呼ばれる。

サー・ウィリアム・エドワード・エルガー(1857年 - 1934年)

ヴィクトリア朝末期におけるイギリスの国民的作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。

ロバート・ルイス・スティーブンソン(1850年 - 1894年)

ヴィクトリア朝を代表するイギリスの冒険小説作家、詩人。

ジョージ・バーナード・ショー(1856年 - 1950年)

ヴィクトリア朝から近代にかけて多様な功績を残した劇作家

オカルティスト

ブラヴァツキー夫人、ヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831-1891年)

神智学協会創設者

犯罪者

切り裂きジャック(?-?年)

おそらく世界で一番有名な連続殺人犯

ベンジャミン・バーカー&ラヴェット夫人(?-?年)

フリート街の理髪師とパイ屋。またの名を"フリート街の悪魔"

フィクションの著名人

クトゥルフ・バイ・ガスライト他によって彼らも冒涜的世界に飛び込むことになる。
シャーロック・ホームズ

伝説的名探偵

ジョナサン・ジョースター(1868〜1889年)

由緒ある英国貴族、ジョージ・ジョースター卿の一人息子

ヘンリー・ジキル&エドワード・ハイド

スティーブンソンの小説「ジキル博士とハイド氏」に登場する中年の紳士。

この時代の武器

拳銃

この時代の拳銃はほとんどリボルバー式です。世界初の実用的な自動拳銃は、1893年にドイツで開発されたボーチャードC93(ボーチャードピストル)です。
ボーモント・アダムス・リボルバー

1856年に英陸軍で採用されたパーカッション式リボルバー。
口径は45口径でこの時代には珍しいダブルアクション式(引き金を引くだけで撃てる。)
パーカッション式は金属製の薬莢が出て来る以前の方式で
金属薬莢と違い、雷管を別に取り付けなければいけない。
白衣の天使ことフローレンス=ナイチンゲールが従軍したクリミア戦争でも使用された。
基本ルルブ45口径リボルバーに相当すると思われるが、装填が面倒なのでルルブのデータより時間がかかるかもしれない。
軍用.455口径ウェブリー・リボルバー

1887年に開発された中折れ式リボルバーの軍用モデル。ガスライト拳銃の大本命。
軍用モデルとしてはMk機Mk兇ヴィクトリア朝では使用される。
トップブレイク式(中折れ式とも)で、銃が上の方からパッカーンと開いて銃弾の装填を行う。
その他にもカウフマンやWGといったモデルが存在するがゲーム的には大体一緒である。
455口径の大口径弾を使用する。
基本ルルブ45口径リボルバーに相当する。
ブリティッシュ・ブルドッグ

1872年に販売された短銃身・大口径のリボルバー。
当時の人々には護身用として強く人気があった。
装弾数が5発であること以外基本ルルブ45口径リボルバーに相当する。
.577口径ランカスター・ピストル。

誰だコイツを出そうと言い出したのは!?
ハンターたちの予備の火器として用いられた。エレファントガンと577口径ピストルが合わさり最強に見える。
大口径故に一つの銃身に一つの弾丸しか装填できない。
455口径の4連装モデルと577口径の2連装モデルが存在する。
ルフォーショーリボルバー

1850年代に芸術の国おフランスで開発されたリボルバー。
日本にも幕末にそれなりの数が輸入されており、現代でもお目にかかる事が出来る。
この銃の弾薬を作った人間は「弾丸と火薬と雷管を一つにまとめると装填早くて最強」という事実に気付いた。
・・・が、雷管を取り付ける場所に選ばれたのは「薬莢の横」でした。 違うそうじゃない。

この横の邪魔なでっぱりのせいで装填を早くしたつもりがそうでもなくなってしまったので
時代の波にのまれて姿を消した。フランスだからね仕方ないね
口径は45口径で装弾数は6発・・・であるが
この銃には怒涛の20連発モデルが存在する。
基本ルルブ45口径リボルバーに相当すると思われる。
ボーチャード・ピストル

ドイツ人のヒューゴ=ボーチャードさんは1888年にかのマキシム機関銃のデモンストレーションに遭遇した。
マキシム機関銃の動作を見て「これ拳銃に使えそう…使えるくない…?」と考え、1893年に「世界初の『実用的』自動拳銃」
となる「ボーチャード・ピストル」を開発した。(自動式の拳銃というだけならこの時代あらゆる人が試行錯誤していた。)
ドイツ語的に発音すると「ボルヒャルト・ピストーレ」になる。カッコいい!
この銃の特徴はそのデカいケツとトグルアクション(上の部品が尺取虫みたいに動いて排莢する方式)である。
デカいケツの中にはそのトグルアクションを作動させるための板バネが内蔵されており、銃自体が大型なのと相まって
携帯性が悪い・持ち心地が微妙・重心が後ろにあるので撃つと凄く跳ね上がる・・・などの欠点がある。
(そのほとんどは後輩のルガーM1900君で解決する。)
そう言う事情もあり、販売の際は専用の脱着式のストック(横にホルスターも付けれる)と一緒に販売された。
ボーチャードさんはせっかくなので拳銃弾も新規格の「7.65mmボーチャード弾」を開発した。
この弾はその後に出て来るモーゼルC96では盛大にパクられてリスペクトされ「.30モーゼル弾」として大成功を収められる。
基本ルルブ32口径オートマチックピストルに相当する。ストック装着で射程や基本命中率を多少伸ばしてもいいかもしれない。
モーゼルC78リボルバー

ドイツでドイツに陰湿ないじめを受けていたモーゼル兄弟が1878年に開発したリボルバー。
シングルアクション方式で中折れ式と手堅い設計・・・のように見えるが挑戦的な機構を持つ。
まず中折れ式というのは射手が装填しやすいように下の方に折れるのが普通だが
モーゼル兄弟は何を思ったか上に折れるようにした。使いずれぇ!

また、シリンダー(弾が入って回転するところ)を回転させる方式も独特である。
シリンダーにジグザグ状の溝が彫ってあり、撃鉄を起こすと本体にある棒が溝に沿って前後しシリンダーを回転させる。
軍への採用を目指して41口径で作ったが「使いにくそう」「泥とか付いたら使えなくないですか・・・?(小声)」といった理由で蹴られた。
当然と言えば当然である。しょうがないので9mmタイプと7.5mmタイプを民間向けに販売した。
余談だがその動作方式から「ジグザグリボルバー」の愛称を持つ。また、この方式はその後に登場するウェブリー・フォズベリー自動リボルバーでも採用される。
基本ルルブ38口径リボルバーに相当する。
モーゼルC96ピストル

あのモーゼル兄弟が1895年に開発し、大成功をおさめた自動式拳銃。販売開始は1896年から。
軍への採用を目指して開発されたがドイツ帝国は相変わらず採用してくれなかった。かなしい。
しょうがないのでまたまた民間へ販売したらとてもとても売れた。特に南米や中国でよく売れた。(持ち手が小さく白人でなくても握りやすかった。)
そしてパクられた。とてもかなしい。
この拳銃は特徴的な外観と10発という当時としてはかなりの装弾数を誇っていた。
また、ボーチャードピストルのようにマガジン(弾を入れておく部分)部分が引き金より前にあるので重心が前の方になり
撃っても跳ねにくく、命中精度も高かった。例によって脱着式のストックも存在する。
恐ろしい事に、この銃にはネジがグリップ(手で握る部分)の木製パーツを固定するところにしか使われていない。
「我がドイツの科学技術力は世界一ィィィィッ!!」とは間違いでは無かった。
画像のようなミリタリーモデルの他に一般向けの6連発モデルや長い銃身と固定式のストックを持ち20連発化されたカービンモデル、
後にドイツ帝国が9mm弾を採用したため使用弾薬が9mm化されたモデル(通称:Red9)などかなりのバリエーションモデルが存在する。
基本ルルブ32口径オートマチックの装弾数を6〜10発に調整すればそれっぽくなると思われる。
ブローニングM1900

銃火器界の歩くチートコマンド』こと、アメリカ人のジョン=ブローニングさんがFN社で1899年に開発した
ブローニングさん初の市販自動拳銃。所々に今日に続く自動拳銃のデザインが見られる。
世界初の携行できる中型護身用自動拳銃として大ヒットし、M1910 に変わるまで50万丁製造された。 民間、警察、一部軍用にも使用された。
この銃といいM2重機関銃といいBARといい、たぶんこの人は異世界転生モノの主人公か何かである。
口径は32口径(7.65mm)で、これまたブローニングさんが設計した「.32ACP弾」が使用される。(恐ろしい事に現在もバリバリの現役である。)
装弾数は7+1発。
本銃は1909年に起きた伊藤博文暗殺事件で使用された他、あのサラエボ事件でも使用されたとする書籍もある。(現在は後継のM1910が使われたとするのが一般的。)
ブローニングさんコワイ!
基本ルルブ32口径オートマチックのデータをそのまま使用して問題ないと思われる。

ライフル

1853年式エンフィールド銃

1853年にイギリスのエンフィールド造兵廠で製造が開始されたパーカッション式前装ライフル。
火縄銃のように弾と火薬を銃口から棒でねじ込み、雷管をセットして射撃する。
ミニエー弾と呼ばれる銃弾を使用することにより、従来のマスケット銃などよりもはるかに高い命中精度・破壊力・高射程を誇る。
インド大反乱からクリミア戦争・アメリカの南北戦争や日本の戊辰戦争・西南戦争でも多数使用された。
1866年以降は薬莢を用いる弾丸を使用するために銃身の後部に改造を施したスナイドル銃に取って代わられた。
これまた日本では三十年式歩兵銃が制式化するまで村田銃と共に使用され続けた。
元軍人の老人キャラなどに持たせると玄人感が増すかもしれない。
基本ルルブ58口径スプリングフィ―ルドライフルマスケットに相当する。
スナイドル銃の場合は装填Rを1R減らすといいかもしれない。
マルティニ・ヘンリーライフル

1871年から先述のスナイドル銃を更新する目的で製造が開始された後装式ライフル。
口径は45口径で、引き金の後ろの方にあるレバーを操作して薬室(弾を入れるところ)の開放・閉鎖を行う。
本銃はMk機Mk犬泙任離皀妊襪存在し、第二次アフガン戦争(1878〜1880)〜第一次世界大戦(1914〜1918)までの間、英国軍で使用された。
本銃が使用された戦いで特筆するべきはズールー戦争(1879年1月〜同年7月)である。
本銃は、ロークス・ドリフトに進出していた英国軍の中隊によって使用され、この戦闘で139名の英軍兵士が約1,000名のズールー戦士による攻撃に対抗し防衛に成功した。
ちなみにこの戦いに先立つイサンドルワナの戦いでは、英国軍は「敵は野蛮人の集まりなので特に陣地は構築せず敵に向けて撃っとく」という舐めプ戦術で全滅した。
何してんだコイツら。
本銃は英国の技術の塊であるが、英国特有の主力小銃バグいくつかの欠点が存在した。
〃發舛垢ると機関部が熱膨張を起こし、弾丸の排莢・装填が出来なくなったり射手が火傷を負う。(後期モデルでレバーを延長することで解決。)
⊇藉の薬莢は真鍮の薄い板をくるっと巻いた物だったので時々射撃の際に機関部から燃焼ガスが噴き出し射手の目を焼く。(後期モデルで薬莢の製造法を変更して解決。)
R客兇了兩で装填を行おうとするとレバーが邪魔なので銃を傾けないといけない(その分装填に時間がかかる。)
これらの欠点を抱えながらも約30年の間、大英帝国の制式小銃の座を守り続けて来た英国植民地支配の象徴のような銃である。
基本ルルブに45口径マーティニ=ヘンリー・ライフルとして記載されている。
リー・メトフォードライフル

1888年に、先述のマルティニ・ヘンリーライフルを更新する形で設計とトライアルに9年もかけて開発されたボルトアクション式小銃。
本銃は「他の銃より短く済むボルト操作」「脱着して交換できる10連発箱型弾倉」といった『ぼくのかんがえたさいきょうのしゅりょくしょうじゅう』である。
なるほど完璧な小銃っスねぇ〜〜〜!!ただ一つ「使用弾薬が黒色火薬」という点に目を瞑ればよォ〜〜!!!
そう、他国の小銃が従来の黒色火薬よりも優れた無煙火薬を採用していた中、コイツだけ黒色火薬を使用していたのである。9年の間に時代に取り残されてしまった。
そのおかげで1895年には無煙火薬を使用できるように再設計されたリー・エンフィールドライフルに更新されていく。英国特有の主力小銃バグその2。
基本ルルブ303口径リー=エンフィールドに相当する。
スプリングフィールドM1873

1873年にスプリングフィールド造兵廠で製造が開始された後装式ライフル。歩兵銃タイプと騎兵銃タイプが存在する。
南北戦争後、統一されたアメリカ陸軍の記念すべき最初の制式銃でもある。
蝶番のついたブリーチブロック(閉鎖器)が跳ね上げ扉(TrapDoor)のように開くことから「トラップドア・ライフル」と呼ばれる。

弾薬は.45-70-405弾(45口径で70グレインの黒色火薬で405グレインの重さの弾頭を飛ばす弾薬だよ!の意味)を使用する。
ブリーチブロックを開放すると同時にエキストラクター(爪状の部品)で中に入ってる薬莢をはじき出してくれる便利な奴・・・なのであるが
初期の薬莢が銅製だったために、薬莢が膨張して銃内部に焼き付いてしまうアクシデントがたびたび発生した。
1876年6月25日に発生したリトルビッグホーンの戦いで、カスター中佐の部隊が本銃のこの欠点により全滅したことを受けて
薬莢は直ちに真鍮製へと再設計を受けた。これ以降アメリカ軍の薬莢は全て真鍮製となる。
基本ルルブ45口径マーティニ=ヘンリー・ライフルに相当する。
ウィンチェスターM1873

ウィンチェスター社の社長であるオリバー=ウィンチェスターさんがヘンリーライフルの製造権を購入した後にヘンリーライフルの改良型であるM1866(通称イエローボーイ)
を販売した。M1873はそのM1866の改良型として1873年より販売が開始されたレバーアクション式ライフルである。
M1873は弾丸の共有可能なコルトSAA「フロンティアシックスシューター」(44-40弾仕様)と共に『西部を征服した銃』とも称されて名高い。
余談だが、ウィンチェスターM1873が販売された同年にコルトSAAも販売が開始されている。(なのでSAAもM1873と呼ぶときがある。)
レバーアクションとは銃の機関部下側に突き出たトリガーガードを兼ねたレバーを下に引き、それをまた戻すことで薬室から空薬莢を排除すると同時に次弾を装填するという仕組みで
チューブマガジン(管状弾倉)を備えることでそれまで1発発射するたびに弾込めが必要であったライフル銃を連射できるようにしたものである。
南北戦争でM1866の前身であるヘンリーライフルを自費で購入した北軍兵士の恐ろしい連射速度に南軍の兵士もビビっていたようである。
しかしこの銃にも欠点は存在し、これらはいずれも強力なライフルカートリッジの連射に充分に耐えられるほどの耐久力を持っておらず
ライフルでありながら実際は拳銃弾しか使用できないというものであった。
この問題は後継機種であるM1892が登場するまで待たねばならない。なお設計者はジョン=ブローニングさんである。またおまえか。
M1892については1920年代アメリカまとめを参照ください。
基本ルルブ30口径レバーアクションカービンを元にしつつ、ダメージを弾薬別で変更するとそれっぽくなりそうです。
.44-40弾/.45LC弾:1d10+2 .38-40弾:1d8+1d6+2 .38-20弾:1d8+2

コルト・ライトニング・カービン

シャープス・ライフル

マシンガン

ミトライユーズ

ガトリングガン

マキシム機関銃

ショットガン

8ゲージダブルバレルショットガン

ウィンチェスターM1897

参照・参考文献

  • 村上リコ (2012) シャーン・エヴァンズ(原著) 『図解 メイドと執事の文化誌 英国家事使用人たちの日常』 原書房
  • 小池滋 (1987) 『島国の世紀―ヴィクトリア朝英国と日本』 文藝春秋
  • 谷田博幸 (2001) 『ヴィクトリア朝百科事典』 河出書房新社
  • 高畠潔 (2004) 『イギリスの鉄道のはなし―美しき蒸気機関車の時代』 成山堂書店
  • Thomas De Quincey(原著) 野島秀勝(訳) (2007) 『阿片常用者の告白』 岩波文庫
  • Harold Ellis (原著) 朝倉哲彦(訳) 『外科の足跡―外科の歴史を築いた数々の手術 無麻酔にも敢然と身を任せた患者と外科医のドキュメンタリー』 バベルプレス
  • 前川一郎 (2012) 『イギリスの歴史【帝国の衝撃】』 明石書店
  • 村上リコ (2012)『図説 英国執事 貴族をささえる執事の素顔』 河出書房新社
  • Tom Ambrose(原著) 甲斐 理恵子(訳) (2014) 『50の名車とアイテムで知る図説自転車の歴史』 原書房
  • ウィリアム・バートン、ケビン・ロスほか(原著) 坂本雅之/アーカムメンバーズ(訳) (2014) 『クトゥルフ神話TRPG クトゥルフ・バイ・ガスライト』 株式会社KADOKAWA
  • アレックス・ワーナー(編) 日暮雅通(訳) (2016) 『写真で見るヴィクトリア朝ロンドンとシャーロック・ホームズ』 原書房
  • クリスティン・ヒューズ(著) 植松靖夫(訳) (1999) 『十九世紀イギリスの日常生活』 松柏社
  • ルース・グッドマン(著) 小林由果(訳) (2017) 『ヴィクトリア朝英国人の生活上・下』 原書房
  • マイケル・パターソン(著) 山本史郎(訳) (2010) 『図説ディケンズのロンドン案内』 原書房
  • 佐久間康夫/中野葉子/太田雅孝(編著) (2002) 『概説イギリス文化史』 ミネルヴァ書房

このページへのコメント

使用人の仕事について項目を書かせていただきました。今後も加筆させていただきます。

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Posted by すびえ 2017年07月28日(金) 22:23:47 返信

食生活の項目を書いてた者です。加筆のついでにさっそく加えておきます。
他にも「そこ違くね?」みたいな部分があれば、自由に加筆・修正していただければと思います。

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Posted by Starbuck 2017年07月04日(火) 22:17:24 返信

フィッシュ&チップスにはモルトビネガーでしょぉ!
日本では店頭にはなかなかなくてアマゾン等での入手と不便で臭いけど、フィッシュ&チップスにドバドバかけて食べるの美味しいのよぉ

しかしこのサイトは非常に面白いですね

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Posted by  2017年07月04日(火) 21:27:40 返信

このページを見つけてしまったものですが、積んでいた本の中に加筆できそうな部分がありましたので書き足しますが不具合がありましたら消去してなり直接呼びかけてもらえたらなと思います。

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Posted by 築港 2017年01月09日(月) 02:09:20 返信

このページを見つけてしまったものですが、積んでいた本の中に加筆できそうな部分がありましたので書き足しますが不具合がありましたら消去してなり直接呼びかけてもらえたらなと思います。

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Posted by 築港 2017年01月09日(月) 02:09:20 返信

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