救おうと伸ばした手は届かなかった。
それはいつも夢に出ていた。
その時は決まって汗だくで身を起こす。
そして感情篭らぬ目で、自分の掌を眺める。
そんな日々が暫く続き、雀は普段の生活から姿を消す。
かつて、蓮華村で生死を共にした1人、辻宮子の下に訪れたのだった。
赤月に来て、そんな夢を見なくなった。
事件の応対に対する忙殺もあっての事だが別に理由はある。
自分に宛がわれた一室で深い眠りから目覚め、身を起こす。
時間は朝の7時。遅くに戻ってきた宮子はまだ就寝中。
起こさぬ様に静かに朝食の支度を整える。
調理しつつも、視界の隅に置かれている小さな酒徳利に時々注意を払う。
「…潮時、すかね。」小さく呟きつつ
「さあ子ネコちゃん、こんどは、あれをすべて夢にみたのがだれだったかを考えてみましょう。
まじめにきいてるんだから、そんなに前足をなめてばかりいるんじゃないの!
ダイナに朝、洗ってもらったばっかりでしょう?
つまりね、夢を見たのは、あたしか赤の王さまかのどっちかにまちがいないのよ。
赤の王さまはあたしの夢の一部よね、もちろん――でも、そのあたしは、
赤の王さまの夢の一部でもあったのよ!
だからほんとに赤の王さまだったのかしら、子ネコちゃん?
おまえは赤の王さまの奥さんだったんだから、知ってるはずでしょう
――ねえ、おねがいだから、考えるのを手伝ってよ!
前足なんかあとでいいでしょうに!」でも意地悪な子ネコは、
反対側の前足をなめはじめただけで、質問が聞こえないふりをするばかりでした。
宮子さんの飼い猫であり、ワタシが名付け親の"夜"の喉を優しく撫でながら風呂敷に手製の菓子を詰めて行く。
赤月様のお屋敷と、魔女様の喫茶店、赤月警察署と縁のあった方々への餞別の品。
特に、赤月様のお屋敷に出入りされている紫の兄さんには多めに用意する。気持ち良く嬉しそうに食べてくれる人に悪い人はいねえ。
"人とは違うもの"…お屋敷の人達の真実を敢えて捉える事無く、知己として歪めて認識する自分に、この街の影響を多大に受けている事を実感する。
一つ小さく溜息を吐き、用意した荷物を抱えるように持ち、書置き一つ残して外出をする。
廻って行った先では皆が各々に渡した餞別を受け取ってくれた。断られた場所は一つもなかった。
去り行く際に幾つか言葉も貰った。ワタシは貼り付けたような笑顔を浮かべ、曖昧な返事を返し去る。
その言葉を真摯に受け止めれば、気持ちが鈍るのを判っているからだ。
言葉をくれた者達もそれ以上は問わなかった。
『また何れ。』
言葉にならない別れの言葉を交わして、ワタシの今日が終わって行く。
このお話は結局の所、危機に瀕した赤月と言う街が見た夢だったのだろうか。
救いを求めて流れ着いたワタシが見た夢だったのだろうか。
宮子さん、恭介さん、或いは他の誰かの夢だったのだろうか。
味付けには工夫を重ねた。
何にしろ日本酒で洋菓子を作る試みは初めてだった。
影響を受けない程度に少量のみを舌に乗せ、味を量り調整していく。
必要量摂取してもらう為に、ティラミスの形状を選んだ。
見た目同じの"自分用"も用意した。
誰の夢でもいい。
…ああ、この夢がいつまでも続けばいいのに。
終わり行くワタシの今日の仕上げだ。
紅茶を淹れ、一緒に用意した洋菓子を並べていく。
一緒に居続ければ、二人ともこのまま留まり続ける。
それはまるで優しい泥濘の中に居るように。
だが、それではワタシの望む彼女の幸せは伺えない。
境を超え、共に有る事が全て良いとは限らない。
悪い夢は見なくなった。此処の生活で癒された結果だろう。
それでも、それだからこそ…
(ワタシは人としてあり続ける為に赤月から離れる必要があり…)
(宮子さんの幸せを願う為に宮子さんから別れる必要がある…)
そう結論付けた。
そして、宮子さんとの最後の語らいが始まる。
→辻 宮子さん 胡蝶の夢 に続く