「ああ……薬を…!薬を…っ!!」
自分のものであるはずの叫び声が遠くに聞こえる……
歯と拘束具の金具がカチカチと鳴って、悲鳴と混ざりあったかと思えば
次第に泣き声とも囁き声とも怒鳴り声とも判断つかないものが聞こえてくる。
またこの声だ。入院してからずっと誰かがぼくの中で喚いている。
唯一自由な首を必死に左右へ振りたくって声を追い出そうとするのだけれど、
脳味噌の代わりに重苦しいバターの塊が詰まってるようでどうにもならない。
頭の中で真っ黒な蛇が這いずり回ってうるさいんだ。いっそペンで鼓膜を突いてしまえたら!
楽になりたい……誰かナースコールを……薬……薬 が 欲 し い !
「アレがないと狂ってしまいそうなんだ早く、早く、はやく…」
おかしくなりそうで気を紛らわせようと天井を見つめていると、模様がぐにゃりと蠢いた。
だんだんと色濃く渦巻いて……決壊した川のように溢れて……あ……あああ……っ
影が、影がどんどん伸びてくる…「来るな…」波うつ黒い蛇たちが手足に巻きついて…「いやだ…」
無数の口が牙を剥いて…「誰か…」最後の一滴まで喰らい尽くされる…!「誰か助けてくれっ…!」
あああああやめてくれもうへびはいやだいたいのはいやだいたいいたいいたいいたいだれかだれか
いっそ殺してくれ
死ねたならどんなに楽であっただろう。
ぼくが発症した後遺症は、手足の神経に焼けつく針を直接埋め込まれるような激痛だった。
鎮痛剤どころかモルヒネすら効かず、神経ブロックでようやく束の間の安らぎを得る。
さらに痛みによる自傷行為を防ぐため腕と脚は拘束されている始末だ。
死ぬことすら許されない。
当然だ。この生はあまりにも多くの犠牲の上に成り立っている。
プレハブ小屋で会った人々、多くの研究員と変異者、希ちゃん、そして……生田博士。
ぼくは、正直なところあなたが羨ましい。
たとえ非道な方法であったとしても、あなたは絶望の中にありながら確かに希望を掴み取ったのだ。
生田博士の末路は、自分自身の可能性。
抱く目的ために誰かを犠牲にしようとするならば、ぼくもまた同じ穴の貉と化すのだろう。
はっきりと理解しているはずなのに……それでも狂気の世界へ身を沈めずにはいられない。
ぼくはおかしいのかもしれない。いや、もはや立ち止まれないのだ。
でも、しかし、けれど。逆接が、生田博士を糾弾した戦友の言葉が突き刺さる。
『どんなに悲しくても誰かを犠牲にしていい理由にはならん』
『つまんねぇお涙頂戴は沢山なんだよぉ!!!!』
『まずあなたが現実を受け入れなさいよ』
そうだ彼らの価値観はきっと正しく善良で、何も間違っていない。
だが……理解していても、受け入れられないものはあると思わないか?
生田博士の行いは罪であるかもしれない。しかし果たして悪であっただろうか。
いや、これは詭弁だ。自分でもわかっている。
ただ、こうでもして自分を慰めなければどうしようもなく悲しくて、苦しくて、心臓が圧し潰されてしまいそうで。
「いたい……どこもかしこも……いたい、んだ……」
罰か、或いは贖罪か。
じっと耐え続けることしか今のぼくには許されていない。
「ぼくは………どうすれば………」
明けない夜はないというが、沼の底に朝などない。
悪夢にすら逃げられず。暗い病室に掠れた嗚咽が響き続ける。
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氷川雪史郎 生還 後遺症:激痛
麻薬後遺症により二ヶ月間入院生活を送る。
退院後は大学に復帰、変わらず勤め続けるものの
何かに憑りつかれたかのように奇妙な噂に首を突っ込むようになる。
己を奮い立たせる蛇足
それでも
氷川雪史郎は諦めない。
託された願いは多く、背負ったものは重く。
誰かのせいではなく、誰かのためでもなく。
氷川雪史郎は彼自身のために歩み続ける。
すべての因縁に決着をつけ、胸に抱いた悲願を成就するか或いは
……志半ばで朽ち果てるその日まで。
「ぼくだけが頑張る形にすればよかったのにね」
「僕がそれを許すと思うかい?」
「はは、違いない」
「ひとり背負わせていたなら、僕は僕を一生軽蔑していただろう」
「………」
「どこまでも一緒に行こう、約束だ」
「………ああ、約束だ」
最悪な夢はすべて焼かれていた。かろうじて残った建物の壁にさえ煙が染みついていた。
彼らは焼け跡に佇んだまま、薄氷に伸びた半透明な影をじっと見つめていた。