帝都、初冬。暮乃は自室で小さく息を吐く。
卓上にはくしゃりとよれた新聞を広げ、ほんの少しの一角に載る記事をぼんやり眺めている。
斑乃大村、消失。原因不明の山火事により、跡形も無く消え去ったと言う。
暮乃は記事に指を這わせながら、また一つ、溜息を漏らした。
今をときめく麗しき女優、都乃美月子…本名を、斑乃美月。生まれ故郷を、彼女は喪った。
思えば、とんでもない暴挙、無謀、愚かな行為だった、かも知れない。
重く長い一日を終えたあと、もう随分帰っていないような感覚で家に戻ったあとで冷静に考えれば、思い出したように背筋が震えた。
たった一日の中で、人生でそう何度も無いような死線を一体幾度越えたのだろうか。
――それでも。と、暮乃はゆっくりと椅子へ背を預けて沈み込む。
例え幾度繰り返そうと、意思を曲げることはなかったと、あの選択は間違いではなかったと、確信している。
彼女は故郷を無くしたが、その代わりに掛け替えのないものを掴み取った。
二度の機会を得ぬ、いつ切れるとも知れない希薄な――しかし紛う事なき一縷の望みを。
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――死なせてくれと、彼は叫び、
なれば共にと、彼女は叫んだ。
そうして暮乃に沸々と沸きあがったのは、哀しみと、静かな怒りであった。
思いが喉を押し開くに、何の躊躇があっただろうか。
暮乃の言葉に、そして傍らで見守る頼もしい輩(ともがら)に。
彼は漸く心の内を開き、信じ。望む未来を、妹と共に生きる事を、選んだのであった。
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――暮乃は惰眠へ誘う心地良い椅子から立ち上がり、新聞を丁寧に折りたたむ。
新聞の裏に隠れていたのか、舞台への招待状が一枚ひらりと落ちる。
あぁ。そうだ。
相変わらず交番では顔馴染みの警官殿が欠伸を噛み殺しているし、諸々の処理に忙殺されていた様子の将校殿も流石に一息ついただろう。
全国を旅する画家殿は、舞台とあればまた帝都に戻ってひょっこり顔を出してくれるはずだ。
再び一堂に会すなら、思い出話にも花が咲こう。暮乃の口角が、思わず小さく緩む。
――その時。
再び這い寄る、混沌の気配。
くつくつと、押し殺すような笑い声が聞こえた。
反射的に声の方へ目を向ければ、窓辺に佇む人影が一つ。
嫌悪感が血に混じって、轟々と耳の裏で叫びだす。心臓を早鐘のように打ち付けさせ、背筋は冷たい指でなぞられたよう。
『それ』は悪意であり憎悪であり、畏怖であり、絶望であり―――
真っ赤な瞳を薄く細らせ、嘲るように、蔑むように、此方を眺めていた。
「ああ。愚かにも勇敢なボウヤであっても、独りとあっては流石に子羊のように哀れに震えますか」
「………」
暮乃は『それ』を否定せず、しかして肯定もせず、静かにその瞳をきっと見据えた。
「その目。そう、それだ…実に興味深い。恐怖と絶望に慄いておいてすら、向ける眼の純粋なことよ」
「一歩誤れば身を打ち滅ぼすと知ってなお、…いや、その危うさを知らぬが故に?」
「ふふ…何れにせよ。愚かで浅はかで無謀なその人間性が未だ健在とあれば」
「如何に抗おうといずれ訪れる破滅の際は、さぞかし官能で甘美に絶望し壊れてくれるのでしょうねぇ」
「その時になれば、いかなボウヤであろうと自らの愚行に後悔するのでは?ねぇ、少年?」
いたくご機嫌な様子で笑む『それ』に、暮乃は震える指をぐっと押し込め、きつく握り締めながら、答える。
「僕たちは…少なくとも僕は。あの選択が間違いだったとは、思わない」
彼が災厄の力に抗えぬようになる時間が、少しばかり先に延びただけの話だったとしても。
「それは僕が背負わなきゃならないこと。僕には選んだ責任がある。選ばせた責任がある。だから、後悔なんて、しない」
「成程、くくっ…これは大層高尚な概念をお持ちだ、未熟で蛮勇な少年。一人で背負う事を否定していながら、自らは一人で背負おうと言うのですか」
「……」
「おや、心に迷いがありますか。揺らぐのですか?それとも今更気付いたのですか?」
『それ』は一瞬で暮乃の目前に詰め寄り、赤くどす黒い瞳が、脳内までを舐るように、重苦しく絡まり来る。
心臓を掴み取られ、今にも握り潰されようとしているような恐怖に掻き立てられる。
「あの日頑なに貫いた意思がこんなにも薄っぺらで、ちっぽけで、浅はかで、無意味であったかを?」
「……」
より直接的な害意の塊に触れ、顔を苦に歪めながらも。
「…彼は選んで、僕も選んだ。それを背負ったのは、僕だけじゃない」
暮乃は毅然として、『それ』を睨み返す。
「……それはあの日、皆で背負ったもの。皆でなければ、背負えなかったもの」
「僕はそう、信じてる」
『それ』は一瞬目を見開く素振りを見せたかと思うと、口角を歪に歪ませて嘲るように笑った。
「そんな無秩序で非合理的で浅ましい屁理屈で自分を保つとは」
「くふ…ふはは……滑稽な、しかし破滅に精神を苛まれる姿を想像するに……くく…」
「矢張り君は面白い!まっこと私の欲を満たすに足る実に興味深い逸品」
「その意思を貫きなさい、少年。そしてその強固な意思が何時か崩れた時、あるいはその機会に恵まれた時、またお会いしましょう」
「…僕はもう、会いたくない」
あの時と同じように、暮乃はきっと『それ』を見据えて応える。
だがそんな視線などまるで意に介した様子もなく、『それ』は不愉快な笑みを浮かべたまま、一方的に、姿を消したのであった。
「……っ…」
今更襲い来る極度の恐怖の波に押され、暮乃はその場に膝を付く。
「…僕は、強くなんかない……」
誰に聞かせるでもなくほつりと呟くと、息を整え、震える膝を叱咤しながら立ち上がる。
――しかして。
暮乃は最早何事もなかったかのように舞台の招待状を拾い上げ、さっと踵を返して自室を後にする。
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帝都、初冬。澄んだ空気がぴんと張り詰める、寒々しくも麗しい日であった。