出遅れた神父
――こうして柵から逃げられなかった山羊は、
――迎えに来た妹山羊と仲間達によって外へと連れ出され
――遠い世界へと旅立って行きました。
――めでたしめでたし。
「……」
――で、いいのだろう。そう眼下に広がる惨状を見下ろしながら、黒肌の神父は思う。
「……大方は予想通り、ではあったのです…………『出』のタイミングを、逃しただけで」
そう一人言葉を漏らす神父の顔は、いつも通り邪悪な余裕を保ちつつ嗤ってはいたが――そこにはなんともいえない、複雑な気分が混じっている。
「……ふっ。……これだから人間は面白いのですよ」
負け惜しみにならぬよう、そうなんでもない事のように呟くも、その気分――非常に微妙かつ理不尽な敗北感を、神父はどうしても消し去る事はできない。
神父は今まで、長い時間をかけて、まるで熟れた果実の収穫でも待つように、目を付けた小さな囲柵中に作った村を見守っていた。
飢餓に苦しむ村人達に救済という名の外法を与え、その後は村人達の欲望が乾く事の無いよう、定期的に邪悪なる知識という名の毒を流し込み、誑かし唆しながらあの手この手で勤勉に、村人達の悪意を育ててきた。
それは全て、愚かな人間達にどうしようもない破滅を迎えさせるためだった。
その時を待つ事は、神父にとって愉悦だった。
「……」
飢えから救われるため、邪神に魂を売り渡し領主の娘を贄とした背信者達。
背信者が享受した豊穣を失わないため、邪悪な祭儀を続け邪神の血筋を保ち続けた堕落者達。
堕落者達によって生み出され続けた、邪神の異形なる落し胤達。
そして――その落とし胤達を救おうなど考える探索者という愚者達。
その一挙手一投足を見守りながら、愚昧極まりない悲喜劇を傍観するのは愉しかった。
そしてその結末も、期待通り愚かしく破滅的で、愉しいものであったと神父は断言できる。
「……出そこねましたが」
――ただ、出番を失っただけ。
ただそれだけの事であるが、それだけの事が案外気に入らなかったのか、神父はさっぱりしない。
そしてそれが、手の内で弄んでいたはずの人間のせいなのだから、やはりすっきりしない。
「……」
――”あんたを殺して!!美月を解き放つっ!!”――
――そこのあんぽんたん!一度ここを出て頭を冷やしてきなさい!――
――おかしい。何かがおかしい(断言――
――(´;ω;`)――
――……これが、きみのいし……なのか?――
「……まさか……あえて狂気に乗って突撃してくるバカがいるとは……」
あえて殺人癖の衝動のまま、救いに来たはずのバケモノに襲い掛かった聖職者(見習い)と、その聖職者(見習い)からバケモノを守ろうと立ちふさがった女医、探偵、武術家。――そして自分が守られているという状況が把握できず、呆然とするバケモノ、その妹。
「……愚かだ。……だが、なんとかなってしまった……あの愚かさ故に……」
神父は混沌状態と化した土蔵の中を思い出し、なんともいえぬ気分になる。
あそこは、もっと悲痛な光景になるはずだった。
救いを求め、救いたいと望み、それでも答えが出ない者達が、絶望の中で必死に活路を探す。――そんな光景を嘲笑い、更なる悲劇に繋がる助言を、神父はしてやるつもりだった。
だが。
「……」
――混沌珍騒動の勢いに任せて、皆はそのまま、あの場からさっさと逃げてしまったのだ。
状況についていけないまま、なんとなく正気を保ってしまったバケモノを連れて。
――そして神父こと、這い寄る混沌の出番も消えた。
「………………………………………………………………………………………………………ふっ……まぁ良いでしょう。愉しませてもらいましたよ、愚かな人間達」
と言っておかないと、なんとなく敗北感が増すような気がするので、這い寄る混沌は余裕を保ち探索者達を嘲笑う。
這い寄る混沌にとって、人間達は全て愛すべき玩具であり、興味深い実験動物であり、消耗されるべき贄だ。
そんな人間の若造に、なんとなくでも『してやられた』感情を覚える事自体、這い寄る混沌は納得できない。――納得できないので、なかった事にする。
「……また遊びましょう。……ふふ、次の愚行も期待しています」
とりあえず憂さ晴らしに村を滅ぼした後、いつもの調子で這い寄る混沌は呟き、そしてその場から消える。
「素晴らしい永劫の絶望へとご案内しますよ」
――だからもう、悲劇破壊(シリアスブレイク)するんじゃありませんよ。
とは言わないが、微妙にそんな気持ちをこめつつ、這い寄る混沌は忌まわしい嘲笑を深めた。
その頃のバケモノ
「……」
――なんだかよく判らないまま、殺されかけたり守られたり妹に泣きついたりしているうちに、助かってしまった。
としか思えない状況から『救出』されたバケモノは、なんとなく絶望するタイミングも失ったまま助かる方法を考え、結果大陸の秘境を放浪していた。
「……みるひとがいなきゃ、わたしのすがたも、がいには、ならない」
その結論が、這い寄る混沌がするつもりだった助言と同じだったと、バケモノが知るはずもない。
それでも大陸某所の人外魔境に潜んだバケモノは、周囲の人間に自分の容姿という毒を撒き散らす心配から解放され、心身ともに落ち着く事ができていた。
(時々運悪く、バケモノの素顔に遭遇してしまったパンダや大猿が狂ったりはするが、それはそれ)
「これもみな……美月と、あのものたちのおかげだ」
《……》
「…………おかげ、だよな?」
――ただあの状況で感じた、一抹の不安を忘れられないだけで。
バケモノは共に在る同じ怪物から生まれた『兄弟』の、まるで「お前、それでいいのか?」と聞き返すような視線から目を逸らし、ぽつぽつと言葉を続ける。
「……あれは……ほら、きょうきで……おかしくなったからで……あのものに、わるぎは、なかったとおもうんだ……」
《……》
「……たのしそうだった? ……うん。……まぁ……そうかも。……で、でも、きょうきというのは、そういううちにひめたがんぼうを、あらわにするものでもあるらしいし……」
《……》
「……だ、だいじょうぶ……だよ。……またあったときは……もうそういうことは……ない……とおもう。……たぶん。……きっと」
バケモノは、女性らしい優しさを示しながら親切にしてくれた女医を思い出し、
男気溢れる勇気で、傷を負ってでも赤の他人を救った探偵を思い出し、
飄々とした物言いが場の空気を和ませた武術家を思い出し、
――そしてとても良い笑顔で自分を殺しに来た、聖職者見習いを思い出す。
「……」
あれは狂気のせいだろう、と納得はしている。
自分の態度も良くなかったし、美月に好意を持っていたらしいあの聖職者見習いが内心で自分に反発を覚え、それが狂気に出てしまっただけだろう、という分析もできている。
つまり、一時の気の迷い、という事で結論できてはいる。――できてはいるのだ。
「……こわかった、けど」
――ただちょっと、あの時の笑顔で活々サーベル男が、怖かっただけで。
「……にんげんって、こわい」
知らずに漏れた独り言は、バケモノの脅威を知る者達にとっては大いに理不尽なものであったろうが、バケモノにとっては、そうとしか言いようのない本心だ。
人間は怖い。――というか。
自分より遥かに恐ろしいはずの存在に、笑顔で剣を向け突撃してくる人間の、
得体の知れない無謀と狂気が怖い。
《……》
「……ええと……うん。……まぁその……いつかは、にほんにもかえるよ」
……でもあの聖職見習いには、ちょっと……会いたくないかな? ……こわいし。
《…………》
そう言って目を逸らすバケモノをしばらく見下ろしていたバケモノの『兄弟』は。
人間に怯えたバケモノに呆れた様子で触手を揺らし――やがてバケモノの頭を、それで小突いた。
秘境は今日も、平和な日常が過ぎる。