「…………」
(どこ?)
 頭が、いまいちすっきりしない。心は横になったまま、辺りを見回した。
 ふつうのキングサイズよりさらに大きい、天蓋つきの巨大なベッドのうえに、清潔な白いシーツと
これまた白いフワフワの綿毛布に包まれて、柔らかな枕に半分うずもれるように寝ている。
 空調が万全に施されているのだろう、暑くも寒くもなく、すごし易い室温だ。
 天蓋から下ろされたレースのカーテンから、向こう側が、部屋の中がかすかに透けてみえる。
(ここ……この感じ)
 どことなく、この部屋を見たことがあるような気がするのだが、よくは思い出せない。
 この部屋だけで何十畳あるのだろうか、出入り口とおぼしきドアまで、かなりの距離がある。
 ドアの辺りに、人影が二つ。
 心が身体をおこすと、
「お目覚めでございますか? 心お嬢様」
 あちらも心に気付いたようだ。
(お嬢様って、ボクのことかな?)
「……はい」
 いまの心は完全に、本来の彼に『帰って』いるわけではない。
 少々『戻って』いる状態だ。ちょうど、小学校の高学年くらいだろうか。
 むろん本人は、あいかわらず男でいるつもり――いつも通りの自分でいるつもりなのだ。
「すぐに、お知らせを――急いで」
「はい」
 シルエットと声から判断すると、双方とも女性らしい。
 ドア付近にいた二人のうち、年長者らしきほうが、もう一人に指示を出している。
 指示を受けたほうは、すばやく部屋から出ていった。

「もうしばらくで、主がまいります――よろしゅうございますか?」
 部屋に残ったほうの女性が、ベッドに近づいてきた。
 どうやら、ベッドのまわりのカーテンを開けてよいか、訊ねているようだ。
 ここで心は、いまの自分の格好に思い至った。
 薄手の白いガウンのみを羽織っており、下着は身に着けていない。両腕に、包帯や絆創膏で治療した
あとがある。それだけでなく、全身いたるところに治療は施されているらしい。


 寝乱れた胸元をなおし、髪にも気を配る。それも、ごく自然に。
 身だしなみを整えるのに、男も女も関係ない。人として、最低限度のマナーというものだ。そういう面
において黒姫家の、母の躾は厳しかったため、心は男だった時からきちんとしていた。
 とくに今は、幼く『戻って』いることも手伝って、母の教え通り、素直に行動している。
 しかし、そのような自分の姿が、まわりからすれば『女の子らしく、微笑ましい』という風に映ること
にまでは、まったく気が及んでいない。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 カーテンを開けたのは、優しげな中年の女性だった。
 映画にでも出てきそうな時代がかった衣服を身につけており、いかにも、「ベテランの使用人です」と
言わんばかりだ。なんだか、
(修道服みたいにも、みえるかな?)
 などと心は思った。
「お嬢様、ご気分はいかがでございましょうか? お具合のおもわしくないところは、ございませんで
しょうか?」
 にっこり微笑みながら、莫迦丁寧に訊ねてくる。
 こそばゆい――が、ここでも『戻って』いることが幸いして、ごく自然に対応する。
 今でこそ一人もいないが、祖父の生前までは、黒姫家でも住み込みの使用人を数名やとっていたから、
『扱われ方』のようなものはいちおう心得ている。
「ありがとうございます。大丈夫です。あの、ここはいったいどちらの――」
「もうしわけございません。たいへん失礼ではございますが、そのようなご質問にお答えすることは、
主から禁じられております。どうか、ご容赦ください」
 みなまで言わさず、すっぱりと断られてしまった。
「……そうですか。ではせめて、あなたのお名前を教えていただけますか?」
「これは、たいへん失礼いたしました。吉野と申します。心お嬢様の、身の回りのお世話を申し上げる
ようにと、主より命じられております」
{やはり、本当だったのね。なんて、おいたわしい……}
 彼女は一歩下がって、深々と頭を下げる。
「吉野さん――ですか。こちらこそ、お世話になります。それでは、さっそく一つお願いがあります」
「はい。なんなりと、お申しつけくださいませ」



 心は、まっすぐに吉野の目を見ながら、
「お嬢様と呼ぶのは、やめていただきたいのです。ボクのことは、ご存知でしたね?」
「はい、存じております。心様とお呼び申し上げて、よろしゅうございますでしょうか?」
「……」
(様は、いやだな)
 と思ったが、彼女の態度からみて、さん付けなどでは呼んでくれまい。
「はい、よろしくお願いします」
 にっこりと、心は微笑んでみせた。
 その笑顔のまぶしさに、吉野は見惚れてしまう。
「どうかしましたか?」
「は、はい、いえ――失礼いたしました。心様、なにかご所望はございますでしょうか?」
 心はいっしゅん考えて、
「それでは、ミルクをお願いできますか?」
「はい、ただいまお持ちいたします」
 いつの間にか、心と吉野が会話しているあいだに、出入り口のところに二人の使用人が待機していた。
 その若い二人の使用人が身につけている衣服は、吉野のものとは異なっている。まごうことなき、
ほんもののメイド服というやつだ。
 吉野は二人のうちの片方に、心のミルクを持ってくるよう命じて、自分は心の側に控えている。
 どうやら彼女は、はじめに心が見て取ったようにベテランで、使用人たちの上役にあたるらしかった。
***********************************************
「吉野さんは、こちらのお屋敷にはずいぶん長く、おつとめなさっておいでのようですね?」
(使用人をまとめる立場。それに、ボクの監視までさせて――かなり信頼されているらしいね)
 少しでも情報が欲しい心は、探りを入れるための取っ掛かりとして、吉田に話しかける。

「はい、二十年ほどになります。いまは当屋敷の、使用人頭を務めております」
 これくらいの、世間話レベルのことであれば問題あるまいと判断して、吉田は正直に答えながら、
{この方は、『上』のお方だわ……記憶なんて関係なしに、以前とまるでお変わりない}
 確信のようなものを、得ていた。

 もちろん、あの黒姫家のお嬢様だ。特別であることは主人から聞かされているし、吉野とて、この町で
ずっと暮らしてきたのだから、どれほどの重要人物であるのかは重々承知していた。
 実のところをいえば、この少女とは初対面ではない。過去に何度も、最重要の客人として、もてなして
きたことがあるのだ。だから、彼女が受けている教育や躾の上質さ、その頭の良さなど、十分に分かって
いたつもりだ。
 ここで一つ、大きな問題があった。主からも事前に聞かされていたことだが、彼女は記憶を失っている
らしい。この屋敷のことを忘れてしまっていたことからみても、間違いないようだ。
 そんな状態にありながら、この少女の優秀さにも、魅力にも、いささかの変化も見られなかった。
 現に二・三言かわしただけで、吉田の立場や人柄をほぼ把握してみせた。さきほどからの質問も、確実に
答えてもらえることを見越して選んでいるのだろう、頭が良いことは相変わらずで、疑いようもない。
 しかしながら、それらは瑣末なことでしかない。
 目の前にいる少女は、黒姫家のお嬢様だからこのように育ったのではなく、この少女だからこそ黒姫家に
生まれたのだと、いっそのことそう考えた方が自然に感じるほど『分からせて』くれている。
 この少女自身が、本質的に『上に立つ』人間だ、ということを――。

 上に立つもの、人を支配する・使う側に立つものには、どうしても必要とされる能力がある。
 それは支配する対象・相手を『理解』する能力だ。これなくして、相手をうまく働かせることは難しい。
 不可能ではないにしても、この能力の有る無しで、効率に決定的な差が生じてしまう。
 この能力には別に、「コレだ」という典型があるわけではない。さまざまな要因が複合して現れるもの
でもあるし、どういう風に成立しているのかなぞ、はっきりいって関係がない。
 ただ、有れば良いのだ。
 さらにもう一つ、これが加わればより好ましいとされる能力がある。
 それは『理解』していることを、その相手に『知らせて』やることだ。

 “あなたのことは『理解』していますよ。だから存分におやりなさい”と『知らせて、分からせて』
くれることが、その下に仕えて働く者にとってどれほど勇気づけられ、やる気を与えてくれるものか
簡単に想像できるだろう。与えられた圧倒的な安心感と信頼感は、古臭い表現だが、そのまま忠誠心
へと結びついてゆく。
 それは薄っぺらな言葉でできるようなものではないし、これ見よがしな押し付けがましい態度で示せる
ような簡単なものでもない。できる者にはできるが、できない者には決して真似できない、『理解』する
ことそれ自体より、はるかに難しいことだ。
 この少女――心ほど、この二つをバランスよく持ち合わせ、完全に、そしておそらくはまるで無意識に
使いこなしている人物に、吉田はかつて出会ったことがない。
 無意識――そう、本人には全く『そんなこと』をしているつもりは無いはずだ。
 ごく表面的な見方をすれば、『知らせて』やる能力とは『考えていることを読まれてしまう無防備さ』
とも受け取れるだろう。それでは「本音と建前の使い分けができないのでは?」と思うかもしないが、
そんなものは杞憂にすぎない。
 ようするに支配する相手に対し、適切に情報を与えてやって、せいぜい張り切って働くように仕向けて
いる、その程度のことなのだと考えればいい。
{まさに下賤の者の、浅はかな誤解といったところかしら? 心様にとっては我々なんて、欺く必要すら
ないはず}
 吉田にしても、長年、使用人として自らの仕事に誇りを持ち、真摯に努めてきたからこそ、ここまで
心のことを読みとれたのだという自負がある。
{亡くなられた奥様に、本当によく似ていらっしゃる}
 少女――心の母親も、二つの能力をバランスよく持っていた人物だった。心をのぞいては、心の母が
これまで吉野の出会ったなかで、一番の『支配者』だった。
 この『理解』云々についても、心の母親から聞かされたことだった。いや、聞かされたというよりも、
話相手を務めていた間に、自然と吉野のなかにかたち作られるよう仕向けられた、といった方が正確だ。

 心と、心の母。この二人には大きな違いがある。それは自覚的に能力を使っているか、そうではないか
ということだ。心の母は自分の能力を受け入れて、自らそれを磨きあげていたが、心は自分の能力に対して
まるで無自覚――それどころか、人を支配することを嫌がっている印象すらある。
 そういう点ではむしろ、
{旦那様に、似ていらっしゃるのかしら?}
 心の父親のほうに、似ている感じだ。

 心の横顔に見惚れつつ、吉田はさらに考える。
 もしも家族や友人といった立場で、心に関わったとしたらきっと、『かまってあげたい』とか『願いを
聞き届けてあげたい』とか『放っておけない』だとか、そんな風に感じたに違いない。
 下手をすれば『見透かされている』などと感じて、敵意を抱くことすらあったかもしれない。
 もっとも心は外見も、芸術と呼べるほど整いすぎた美しい少女だ。たとえ同性であっても、あまりに現実
離れした美しさには、ただ見惚れてしまうしかない。よほどの馬鹿か、身の程知らずでもなければ、敵意なぞ
持ちようがないだろう。
 だが或いは、目の前の人物が男だったとしたら? 事態は少々複雑になるのかも……。
{何を考えてるのかしら……私ったら}
 大袈裟に、バカバカしいことを考えすぎた。そう思いつつ、ついでとばかりに『妄想』を飛躍させる。
 この目の前にいる少女の在りようは、もはや上に立って『支配する』などというレヴェルを超えている
のではないか? 『奉られる』というところにまで、届いている気がする。
 自分に仕える、もしくは自分のために働く相手に対して、『喜び』を与える能力をもつ存在――それは、
{人では、ないみたい。まるで……}
************************************************
「ありがとうございます」
 届いたミルクを差し出すと、優雅な所作で一礼し、心は受け取った。

「――おいしい」
 ミルクに軽く口をつけて、心はほうっと溜息をつく。
 ほんのりと、頬が桜色に染まっている。なんとも可愛らしい。
「お気に召して、いただけましたでしょうか?」
「はい」
 吉野に聞いた話では、いまは土曜日の昼過ぎだという。
(昨日の夜からさっきまで、ずっと寝てたのか)
 時間的にはずいぶん長く寝ていたことになるが、そのわりには気だるいというか、疲れが残っている。
 ――と、
 とつぜん音もなく扉が開く。
 現れたのは、背の高い少年だ。
「若様! おやめください!」
 扉のあたりで控えていた二人が、少年を引きとめようとするも、軽く無視されてしまう。少年のあとに
ついて現れた、大柄な男たちによって、彼女らは扉の外へと引きだされてしまった。
 吉野が、少年のまえに立ち塞がる。
「若様、このようにご無礼なふるまいをなさっては、いけません」
 いかに自分の屋敷であろうが、
{レディの部屋へノックも無しに入りこむなんて!!}
 非礼にもほどがある。たとえ自分が仕えるべき主人の一人であったとしても、吉野はこれを咎めずには
いられなかった。ましてや吉野にとって心は、『本来の主人』の、さらに『主人』にあたるのだ。尚更に、
この非礼を許すわけにはいかない。
 しかし、少年――龍鬼は、そんな吉田のようすを意に介すそぶりすら見せず、クイッと顎をしゃくって、
『出て行け』というジェスチュアをしたのみだ。声すら使わない。
 従わぬわけにも、いかない。龍鬼はこの屋敷の『本来の主人』ではないが、実質的な最高実力者なのだ。
 しかし吉野は、心をかばうように、龍鬼のまえに留まり続ける。主人から命じられた仕事を放棄すること
など、信頼を裏切ることなど彼女にはできない。彼女の、仕事にたいする誇りがそれを許さなかった。
{心様をお守り申し上げることも、仕事のうち}
 なのだから。

 身体をこわばらせながらも、吉野は龍鬼の瞳を見つめ返した。
 龍鬼はただ傲然と、彼女を見下ろしている。なんの感情も込められていない、凍りついた瞳で。

 にらみ合いが続くうち、吉野の額に汗がにじみ始めた。
「――吉野さん、ボクなら大丈夫です。どうか心配なさらないでください」
 沈黙を破ったのは、心の一言だった。
「心様……」
 振り向いた吉野の表情は、憔悴しきっていた。無理もあるまい。龍鬼の放つ重圧に耐え切れるものなど、
たとえ男であったとしてもそうはいないはずだ。
「大丈夫、大丈夫ですから、ね?」
 にこにこと、心は微笑んでみせる。がくりと吉野の身体から力がぬけるが、それも一瞬のこと、すぐさま
ぴしりと姿勢を正して、
「失礼いたします」
 声と表情にほんの少しだけ、「渋々……」といった感じを含ませて、吉田は部屋から出ていった。
 室内に残ったのは、心と龍鬼のみ。

「良かった。気がついて――具合はどうかな? 心配したよ。あれからずっと、目を覚まさなかったから」
 優しい声、気遣わしげな視線。
 龍鬼の姿を確認してから、心は顔をふせて、目を合わせないようにしている。
「助けていただいたことは、感謝しています。けれど――」
「心? どうしたの?」
 よそよそしい丁寧語に、違和感をもったらしい。龍鬼は心の手に、自らのそれを重ねようとする。
 さっと胸元に抱えるように、心は両手を引っ込めた。
「触らないで、ください」
 丁寧語を用いているのは、ようするに牽制のためだ。龍鬼には、こちらに危害をくわえるようなつもり
が無いらしい事は分かっているのだが、だからといって油断はできない。
 彼には色々と――されたし、いったい何者なのかも、いまだに心はまったく分からないのだ。
(あんなこと、イタズラ…? 悪戯された…なんて……どうして、あんな)



 完全ではないが、かなりの部分を、心は覚えている。
 龍鬼にされたことも、そして自分がどのような反応をかえしたのかも。
 彼に触れられることを、自分は嫌がるどころか、
(求めて、いた? ちがう……ちがう! 知りたかった、知りたかっただけだよ!!)
 ではいったい、
(ボクは、なにを、知りたかったんだ? あれじゃ、あんなのじゃ……)
 まるで――犯されることを、望んでいたようなものだ。
 小さな胸をかばうように、心は自分の身体を抱きしめる。
(……そう、いえば)
 龍鬼は、自分――女の子の『心』のことを、知っているらしい。それに昨日、何度も何度もくりかえし、
耳元で囁かれた「愛している」という言葉……。思い出すたびに、こころがざわつく。
(へんな、感じ)
 生理的な嫌悪とはあきらかに異なる、水面にさざ波が立つような、かすかな精神の揺らぎ。
 何かはっきりとした感じがするわけでもないし、龍鬼のことを『好き』でも『嫌い』なわけでもない。
 ただ「安心するな」・「気を緩めるな」と、呼びかけられているような、そんな気がしてくる。
(とにかく、たつきは要注意だ。しっかり、しなくちゃ)
 こころの中からの呼びかけのみではなく、龍鬼にたいする警戒には、はっきりした根拠がある。
 まず第一に何よりも、龍鬼は『危険』な人間だ。
 何故か? 心は見たのだ、はっきりと。
 龍鬼が吉田に一瞥をくれたとき、そのあとさらに見下ろしつづけた瞳は、あの中年男を『始末』したとき
と同じ――感情というものがさっぱり読みとれない、表情の無い、凍りついた瞳だった。
 そんな瞳が心を見た途端、雪や氷が溶けるように、優しげなものに変化した。
 龍鬼にとって『人間』は心だけだと、目に映る他のすべてのものは、生物だろうが無生物だろうが、
心いがいは単なる『動く物』に過ぎないのだと、その瞳が何よりも雄弁に物語っていた。
 人を人と思ず、扱いもしない人間。そして彼は力――この屋敷の主人であることから十分に想像できる
金や権力、さらに、これは心の見立てに過ぎないが、優秀な肉体的能力――を持ち合わせている。


 こういう人間は危険だ。扱いに注意しなくてはいけない。
 さらに自分は、その龍鬼にとって特別な人間らしい。下手な反応をすれば、まわりに被害が及んでしまい
かねない。さきほどの吉野にしてからが、そうであったように、だ。
「一人にして、ごめんね。少し、用事があったものだから――」
「…………」
 ちらりと龍鬼の方を見ると、しっかり目が合ってしまった。心はあわてて視線をそらす。
 はじめて会ったときは薄暗い場所だったせいもあって、まともに見ることが出来なかったが、優しげに
微笑んでいる龍鬼は、少しだけ死んだ父に似ている気がする。心が、一番『苦手』とする――無論それは、
言葉どおりの意味そのままではない――タイプ。
(ん……?)
 自分の頬が熱くなっていることに、心は気がついた。
「痛いところはないかな?」
 いつの間にか引き寄せた椅子に腰掛けて、龍鬼はあいかわらず微笑みながら、心を見つめている。
「大丈夫です!」
「そう――よかった」
 強い口調でこたえても、龍鬼はまるで気にする様子もない。むしろ、心が元気になったことを喜んでいるようだ。
 愚かしいほど真っ直ぐに、龍鬼は『心』に――自分に好意をよせてくる。まさに『お子様』状態にある、
いまの心にもはっきりと分かるくらいに、言葉にせずとも伝わってくるほどに強い、つよい想い。
「あの」
「ん?」
「…………」
 また目が合ってしまった。あわてて顔を伏せる。龍鬼がクスリと笑った。
 顔が、そして全身が火照っていくのが、今度こそはっきり分かる。
(う、あ……どうして? どうして?)
 どうしてだろうか? 胸のあたりが苦しい。息が詰まりそうだ。

 自分は男だ、男なのだ。それに自分には、環がいる。たとえ環がいなくとも、男からの求愛など、
(イヤだよ。そんなの、ボクはホモじゃない!!)
 当然ながらお断りだ。それに、
(ボク、たつきは……たつき、たつき……やっぱり、キライだ)
 本当は自分でも、はっきり『キライ』と断定できるわけではないのだが、とにかく龍鬼に対して、
よく分からないモヤモヤした、不安定な――ゆらゆらして、スッキリしない。
 このモヤモヤには、こころ当りがあるような、
(……そうか、分かった)
 似ている――清十郎との、初めての試合に負けたときと、同じような感じがする。
(くやしい、『悔しい』んだ)
 清十郎に負けたときも、その次の彼との試合に勝つまで、悔しくて堪らなかった。そして悔しさが
あったとはいえ、そのあいだ清十郎のことを『キライ』になっていたわけでもなかったから、ずっと
いわく名状し難い、モヤモヤ・イライラに悩まされた。
(きっと、そうだ。間違いない――たつきに『負けた』からなんだ)
 少なくともいまの心にとっては、龍鬼に対するこの感じも、『負けた悔しさ』で間違いないように
思えるのだ。
 この『負けた悔しさ』というやつは、ふたたび同じ相手に挑んで勝つ以外、解消しようがない。
 だから、
(勝たなきゃ――たつきに、勝つんだ。けど……)
 いったい、『何で』勝てば良いのだろうか? いまいち分からない。
 何かの勝負で、たとえば格闘技の試合で負けた場合ならば、勝つまで挑めばいいだけの話なのだが、
今回は別に、龍鬼と勝負したわけでもない。勝負がうんぬんどころか、龍鬼には、あの中年男から助けて
もらったのだ。たとえその後でイタズラもされたとはいえ、助けてもらった事実に変わりはない。
(……むぅ?)
 自分が『負けた』のは、直接にはあの中年男だ。だがあの男は目の前で、龍鬼によって『始末』されて
しまった。おそらく、もうこの世には存在しない。再戦すべき本来の相手は、目の前にいる龍鬼によって
倒され、そのうえでイタズラまでされた……。

 心の脳内に、
(あれがトーナメントだって考えれば、あの中年サラリーマンに負けて、そのあと敗者復活して、それで
たつきに……たつきに『負けた=イタズラされた』から――決定、たつきはボクの敵(あいて)だ!!)
 どこをどうすれば、そんな発想が出てくるのか、無茶な理屈がヒネリだされた。
 いかに今の心が、幼く『戻って』いるとはいえ、この理屈があまりにも無茶なことはくらいは分かっている。
 分かってはいるのだが、龍鬼にたいして何か判断を下さないことには、気持ちの整理がつけられないのだ。
 結局は、イタズラされたことが気に入らないのに過ぎないのだが、
(助けてもらったから、チャラにするのが男ってものだよ、ね? なんか、ほら…逆恨み…みたいだし)
 心としては、そのことを理由にするのは避けたいのだ。
 妙なところにこだわるのは、子供っぽい『男らしさ』の追求のためだけではない。
 イタズラされたことを理由にしてしまうと、イタズラされたことを事実として認めなくてはならない。
 つまり、自分から『求めた』ことも認めなくてはならないのだ。
 絶対に認められるわけがない。もう思い出したくもない。だから別の理由を、無理矢理にでも決め付ける
必要があった。とにかく『勝負』に『負けた』ことに結びつけてしまえば、
(もう一度やって、たつきに勝つ。勝てれば、それでいい)
 そちらに集中すれば、イタズラされたことは忘れてしまえる――忘れようとしているのだ。
 さて、龍鬼を敵と考えて『復讐』するには、すなわち勝負して勝つには、幾つも問題がある。
 第一に、「勝負しろ」と言ったところで龍鬼は相手にしてくれまい。第二に、龍鬼は強い。例の中年男を
『始末』したときの手並み、普段の身のこなし等をみればおのずと判断できる――心の見立てが正しければ、
もし勝負してもらえたとて、いまの心が勝てる相手ではないことは、ほぼ間違いあるまい。
 だからといって、龍鬼にたいするモヤモヤを『負けた』からだと思い込んで――正確には、思い込もうと
している心には、このまま放って置くことなど出来ない。


 もともと心は、頑固で負けず嫌いな性分なのだ。そうでなければ、これほどまでに『勝負』にこだわる訳
がない。しかも幼く『戻って』いるせいで、余計にそれが強くなっている。
 心は龍鬼のことを、『危険』で『厄介な』人物だと考えているが、『厄介さ』という点では、心のほうが
よっぽど性質が悪いといえるだろう。
 なにせ、とんでもなく負けず嫌いなものだから、イタズラされたことを認めるのが嫌で、かといってそれを
見過ごして、なかったことにもできない――どうにかして仕返ししたいくせに、仕返しだとは思いたくない、
ときている。
 まったくもって始末が悪い。
(まてよ、まてまて。なにも、たつきと殴り合いすることもない……よね?)
 何かほかのことでも、勝負ができればよいのではないか?
 龍鬼と互角に遣り合えそうなものを、心は考え始める。やるからには、どうしても勝ちたいらしい。
 いまの自分に、この身体でも以前と変わらずできそうなことといったら、
(お茶? お花? それとも、料理かな?)
 幼い頃、母と祖父から仕込まれた、茶道と華道はどうだろうかと考えて、
(たつきができるかどうか、分かんないや。でも、たぶん出来そう……)
 しかし、
(ボクの得意なことで「勝負しろ」っていうのは、なんか卑怯だよ。男らしくない!!)
 自分の土俵にひっぱり込むような真似は、したくないらしい。
************************************************




 なにやら真剣な表情で考えこみはじめた心のようすを、龍鬼はあいかわらずじっと見つめている。
 本当に、いくら見ても「見飽きるわけがない」といった感じだ。
「――昨日は、とっても甘えん坊だったね。あんなに甘えん坊な心は、初めてだった」
 ふいに口をひらく。心に話かけている、というわけでもなく、一人ごとのような調子だ。
「ずっと、ずうっと一緒だったのに、本当にはじめてだったね」
「?……」
(ずっと、いっしょ? 環と……おなじ?)
 考えこんでいた心が、顔をあげて龍鬼の言葉を聴きはじめる。
「嬉しかったよ。甘えてくれて、とても嬉しかった。甘えん坊な君は、すごく可愛かった」
 心の頬が、真っ赤に染まっていく。
「本当に可愛かった。心はいつでも可愛いけれど、でも、甘えん坊な心は、その……魅力的だったよ」
 ふたたび心はうつむいてしまう。かすかに、肩がふるえている。
「また、甘えてほしい。心、僕に甘えておくれ――愛しているよ。これからも、ずっといっしょに……」
 うつむいたままの心に触れようと、龍鬼の腕がのばされてゆく。
「……だまれ」
「心?」
「だまれ、バカにするな!」
 立ち上がりざま、綿毛布を龍鬼に投げかけて目くらましにすると、心は右コブシを叩きこむ。
 ビシリッという手応え。スピードもタイミングも、申し分のない一撃。
 ――だが、
「…………」
 心の表情が怪訝なものへと変わる。
「元気になったね。いつもの心だ。安心したよ」
 綿毛布がしずかにのけられると、コブシを受けるまえと何も変わらぬ笑顔があらわれた。
 すっぽり綿毛布につつまれ、完全に目隠しされた状態にもかかわらず、龍鬼は心のコブシを造作もなく
受け止めていたのだ。
 彼は掴んだままの右手を引き寄せて、心を抱きしめる。

「はなせ! はなせ、はなせ、はなして――はなして、ください」
 抵抗できない。どうしてなのか、心は龍鬼を跳ね除けることができない。
 抱かれることを嫌がるわがままな猫でも、扱いのうまい人間に首や顎の下などをなでられると、
簡単におとなしくさせられてしまう。いまの心は、まさにそんな状態にみえる。
「心は、こうやって抱っこしてもらうの、好きなんだよね?」
 そうなのだ。
 女の子になってからの、いままでの二週間ほどで分かったことなのだが、心は誰かに『抱いて』もらうと、
安心するとでもいえば良いのだろうか、何故だか、とても気持ち良いのだ。
 これまではもっぱら、恋や愛や玲那など年上の女性に『抱っこ』されていたから、そのせいで気持ち良い
のではないかと、そんな風に心は考えていたのだが、まさか男――龍鬼に抱かれても同じだったとは……
 なにはともあれ、このことを知っている龍鬼は、心の扱いに『慣れている』人間だといえそうだ。
「元気になったのは良かったけれど、もう少しだけ、安静にしていてくれるかな――せめて精密検査を受けて、
その結果がでるまでは、ね?」
「せいみつ、けんさ?」
「いや、心配しなくても大丈夫だよ。昨日あれからすぐに、田崎先生に往診していただいたから」
「田崎せんせいが? わざわざ、ここに? ボクのために?」
「うん。当たり前だよ。あの人以外の誰に、心の治療をまかせられるっていうんだい? できるわけ、
ないじゃないか」
{本当は、誰にも触れさせたくない。だけど、心のためには――心のため、なんだ}
 龍鬼が心を抱く腕に少しだけ力をこめると、二人の頬がひたりと触れあった。
「せんせいは? せんせいは、どうしたの?」
 玲那のことを耳にした瞬間から、まるでスイッチが入ってしまったかのように、甘えん坊な心が顔をだす。
「たつき…さん、ねえ、せんせいはどこ? どこですか?」
 鼻先が触れ合いそうになるのも構わず、心は龍鬼を真正面からみつめる。
 玲那のことが気になってしようがないのだろう、瞳を潤ませながら、龍鬼の頬に手をそえて取りついていく。
 心によってゆらゆらと揺さぶられながら、龍鬼は少しだけ、悔しそうな表情をする。
「――もちろん、昨日のうちに帰られたよ。会いたかった? 会いたい?」

 龍鬼の顔から手をはなして、心はこくりとうなずく。
「会いたいです、せんせいに。あ――環、環、あの…環にも、会いたい! あっちゃんも、千鶴さんも」
 次から次へと会いたい人が思いつくらしい。つい先ほどの、あの跳ねっかえりぶりはどこへいったのやら、
心の態度はすっかり『やわらかく』なってしまった。
「大丈夫。すぐに会わせてあげられるから、ね? それから心配しなくても、お家には連絡をさしあげたから、
お姉さん方は、心が僕といっしょにいることをご存知だよ」
「あの、あの、姉たちは、なんて?」
「うん? くれぐれもよろしくお願いしますって、そうおっしゃっていたよ」
 じっさいに龍鬼はみずから、電話で連絡をしていた。
 電話にでたのは恋だったが、彼女は努めて事務的な態度で応対してきた。
 恋はいった、「ご迷惑でしょうが、どうかよろしくお願いいたしますわ。龍鬼さん」と。
 それが言葉どおりの意味ではないことなど、龍鬼は当然に承知している。
 恋の言葉を意訳すれば「心に指一本でも触れてみなさい。覚悟してもらいますよ?」と、いったところだろうか。
 もちろん、
{我慢なんて、するものか、できるものか。もう嫌だ、嫌なんだ。……心は、僕のものだ}
 心を自分のものにする。
 そのつもりで、『お姫様』をさらってきたのだ。
 すでに昨夜から人をやって黒姫家の屋敷周辺を監視させ、その動向は逐一、報告させている。
 その報告を受けるため、少し目をはなした隙に、心は龍鬼の自室からこのゲストルームに連れ出されて
しまったというわけだ。龍鬼にとっては肉親のなかにまで『敵』がいるのだから、まったくもって黒姫家の
『支配』は根深いものなのだと、いまさらのように思い知らされた。
{こちらの屋敷に、心を『招待』したのは失敗だったかな? まだ、本邸のほうが良かったか?}
 自分を抱きしめたまま考えこんでしまった龍鬼を、心は不思議そうに見つめている。
「あのう、たつきさん。精密検査って、どうして、そんなことをするのですか?」
「――ああ、田崎先生がね、心を診察なさったときに、念のために精密検査もしておくべきだって、
そうおっしゃったからだよ。予定では、明日うかがうことになってるんだけど、平気かな?」

「はい、もう平気です」
「そう、それじゃ明日には、田崎先生に会えるね。嬉しい?」
「嬉しいです――けれど、あの」
 心はもじもじと、言葉につまってしまう。
「どうしたの?」
「ですから、その、もう平気なので――ですからもう、おいとまさせていただきたいのです。病院へは、
家からうかがいますから、家に……家に帰らせてください」
 たどたどしく言葉を紡ぐ。丁寧語を用いるのは、なんの抵抗もできない心にとって、最後の防壁だから。
「ごめん。それはできない。せめて検査の結果がでるまでは、いっしょにいさせて欲しい――心配なんだ。
とても心配でたまらないんだ」
 桜色をした艶やかな心の唇に、龍鬼の唇が近づいてゆく。軽く触れあった瞬間、心は顔を逸らす。
「いやです。やめてください。ボクは……男、です。男なんです。だから、やめてください」
「分かっているよ。心のこころは、男の子なんだって、僕は昔から知っている」
 唇が触れるほど耳元に近づけて、龍鬼はささやいた。
「それなら! それなら、どうして!! どうして、こんな……昨日だって、あんなこと」
「覚えていてくれたんだね。昨日のことを、忘れずにいてくれたんだ。ありがとう」
 心の額に口付けると、胸板におしつけるようにきつく抱きしめる。
「どうして――って、いうんだよね? それはね、心を愛しているからだよ」
「だから、ボクは男だってば!! 男なんだもん!!」
「かまわない。僕はかまわないよ。君が男の子で、僕も男で――男同士だって、僕は全然かまわない」
「そんなの、イヤだ!! ボクはいやだもん!! だってそれじゃ、ホモじゃないか!!」
 興奮しはじめたせいで、心の言葉づかいは乱雑なものになっている。

「僕はいいんだ。気にしない。僕が好きなのは、心なんだから――君そのものを愛してるんだ。男だろうが、
女だろうが、関係ないんだ。もし君が、身体も完全に男だったとしても、僕は君が、心が好きだ」
 このままでは、まったく話はかみ合いそうもない。どこまでいっても平行線で終りそうだ。
 心はそう考えて、
「そんなこと言ったって、どうせ君は、ボクのことなんかホントは知らないくせに!!」
(本当は、ボクは本当に男なんだからね!!)
 決め付けると、龍鬼の腕から逃れようともがき出す。
「ボクは男だから、君を好きにならないし、それに環が好きなんだから!! 恋人なんだから!!」
 自信満々に言い放つ。しかし、
「うん。知ってるよ」
 涼しい表情で、龍鬼はうけながす。
「心が環ちゃんを好きなことも、ずっと一緒にいたことも、二人が付き合いはじめたことも――」
 龍鬼の手が、心の髪に触れて、かるく撫でるように手櫛ですきはじめる。
 言葉のつづきが気になるのだろう、心は抵抗することなく、龍鬼をみつめている。
「僕ら――心と環ちゃん、それに僕は、ずっと一緒にいたんだ。小さな頃から、ずっとね」
「そんなの、知らない……。うそ、うそだ……ボク、君のこと、知らない……」
「嘘じゃないよ。心が、忘れてしまっただけなんだ」
「忘れ…た…?」
(違う。忘れたんじゃない。ボクは知らない。でも、『心』は? たつきは『心』の…なに?)
 時おり思い出す、女の子の『心』としての記憶。本来ならば『知らない』はずの『思い出』たち――
 龍鬼の言葉を待ちながら、心は女の子になって以来ふえ続けている、それらに思いを巡らす。
 自分は確かに、黒姫 心という23歳の男から、同じ名をもつ15歳の少女に『なった』のだ。
 清十郎や、男だったときの友人・知人たちの存在が、そのことの正しさを証明してくれている、と思う。
 しかし同時に、少女の『心』にも過してきた時間があり、友人や周りの人々との『思い出』が確実に存在している。



 男の世界と女の世界――心の世界と『心』の世界。
 それらは両方とも存在して、さらに時間という『軸』の上では、かなりの部分が同時に『在った』こと
になってしまうのだ。少なくとも、女の子の『心』が生まれてからの15年間は、『重なって』いる。
 いまの心の周囲は、女の子の世界で囲まれており、男だったときの世界は、清十郎たちとの接点にのみ、
確認できるかたちで存在している、そんな感じだ。
 もともと別々に存在していた男の世界と女の世界、それら二つの世界そのものの何処かに断面が生じて、
心を取り巻く周囲のみ『入れ替わって』しまい、同時に心という名をもつ、二つの魂も入れ替わった。
 ただ単純に女の子に『なった』というよりも、こちらの方がより正確なのではないか?
 そして、女の子の『心』の身体――脳に残っている記憶が、ときおり『思い出す』知らない『思い出』
の正体なのではないか?
 心は突然、そんなことを思いついた。
「――そうだよ。心は、忘れてしまっただけなんだ」
 思考のなかに沈みかけていた心の意識を、龍鬼の声が現実に呼び戻した。
「……忘れて、しまった? ボクが忘れている、だけなのですか?」
(本当は、違う。でも、もしかしたら――)
 先ほどの思いつきに絡んで、心の脳内に、さらにいくつかの思いつきが連鎖しはじめる。
「うん。そうだよ」
「なぜ? なぜですか? どうして、忘れているのですか?」
 頭を働かせ始めたせいだろうか、心の口調は、ふたたび落ち着いてきている。
 思いつきを悟られまいとして――龍鬼に知られると、せっかく思いついたことを確かめるのが困難に
なってしまうかもしれない――心は丁寧語を使い、冷静にふるまおうとしている。
 しかし、それがかえって不自然に映る可能性にまでは、気が及んでいない。
 この辺りが『お子様』状態にある、いまの心の限界なのだろう。
「……つらいことがあったから、かな」
「つらいこと?」

「とてもとても、つらいことがあったんだ。深くふかく、君は傷ついてしまった……そのせいで――」
「忘れてしまった? あなたを――たつきのことを?」
「僕のことなんて、どうでもいい。それよりも、もっと大切なものを、君はたくさん失くしてしまった。
環ちゃんやお友だちとの、大事な思い出も、長い綺麗な髪も……ごめんね」
「どうして、たつきが謝るのですか?」
「守れなかったから。君を守ることが、僕の役目なのに……守れなかった。ごめんね。許しておくれ」
 龍鬼は哀しそうに目を伏せると、心を抱く腕にかるく力をこめた。
「……ボクを、守る?」
(やっぱり……なのかな? たつきは、知っているかもしれない)
 心の思いつきはこうだ。
 龍鬼は、『心』に関して色々と知っているらしい。
 ゆえに上手くすれば、自分の知らない『心』の情報を、彼から引き出せるのではないか? 
 そこにはひょっとすると、自分とまわりが『入れ替わった』ことに関する重要な手掛りが含まれているかもしれない。
 むろん心は、龍鬼が直接に『入れ替えた』犯人を知っているなどとは考えていない。
 それに『思いつき』は、言葉にできる部分がこのようであるというだけで、まだまだ未整理のものが幾つもある。
 とりあえずは龍鬼と接することで、家族や環と接して『知らない記憶』を思い出したのと同じように、
彼との『知らない記憶』を、より思い出しやすくなるかもしれない。

「苦しいです。もう、放してください」
「――ごめん」
 龍鬼は心をいったん強く抱きしめると、ベッドの縁に腰掛させて、放してくれた。
 なんだか哀しそうな龍鬼の視線に、心は居心地の悪さを覚える。
「なにか?」

「お願いがあるんだ。もう二度と、『龍鬼さん』なんて他人行儀な呼び方はしないでおくれ。
それに、いつも通りの心でいてくれれば、いいんだからね?」
 小さな子供に言い聞かせるように、やさしく頭を撫でてくる。
「……はい」
 子供扱いされるのは悔しいが、撫でられることそれ自体はべつに嫌ではない。
 嫌でないどころかむしろ、
(気持ちいい……? イヤだ……そんなわけ、ないよ。でも)
 恋と愛、それから玲那や千鶴たちに撫でられたときも気持ち良かったのだから、
(同じ? ……なのかも)
 仔猫のように目を細めて、心は大人しく撫でられている。
 心がすっかり落ち着いたのを見計らうと、龍鬼は一歩ひいて、その場に跪いた。
「たつき?」
 ベッドの縁に腰かけた心に対し、下から見上げるように視線を合わせる彼の表情は、とても真剣だ。
「心――いいえ、心様。これまでの無礼、どうかお許しください」
「どうしたの…ですか?」
 急に畏まられても、心にはわけが分からない。
「穢れと禍を従え、守られし、この世でもっとも清き闇の魂を、御身に宿す――黒姫の『御子』……」
 龍鬼は恭しく頭をさげると、心の小さな白い足に両手をそえて、その甲にキスをした。
「――んっ」
 背筋が、ぞくりとする。
(…………なあんだ、『身内』だったのか)
 耳によく馴染んだ『文句』を、龍鬼が口にしたことで、心にはそれがはっきりと分かった。
 『身内』とはつまり、この町にいくつかある旧家の、その内のどれかの家の人間である、ということ。

 たったいま龍鬼が口にした『文句』と、それを知っている人間だという事実が、旧家の者である証明だ。
 さきの『文句』はあの他にも、「外のもの、はるか遠く旧き神……」云々とながなが続いていくのだが、
龍鬼が口にしたのはほんのさわりの部分であって、『御子』を示す決まり文句のようなものといえた。
 ――そう、心は『御子』と呼ばれる者。『お役目』に選ばれた人間。
 男であったときから、心は『お役目』についた『御子』であり、今もそれは変わらない。
 『お役目』だの『御子』だのと、ご大層な呼ばれ方をしているが、何のことはない。ようするに、
《カミサン》を祭る土着信仰のようなものの、祭司であるというだけのことだ――と、心は考えている。
 なにしろ『祭る』といったところで、何か大々的に行事をおこなうわけでもなく、せいぜい旧家のうちで、
結婚や葬儀があったときに《カミサン》に報告したり、月一で《オツトメ》をする程度のものなのだから、
心がそう考えるのも無理はない。
 他にも、町で公共・民間を問わず大きな開発・建設事業が行われるときなどにも、《カミサン》へ報告をする
という出番はあるのだが、心の代になってからはそれもなかったため、よけいに縁遠くなっていた。
 だいたい、『御子』であるはずの心自身、《カミサン》が何なのか、ろくに知らないときている。
 『儀式』のための『作法』の類は、先代の『御子』であった父母から、一応ひと通り教えてもらったが、
《カミサン》に関しては、肝心なことは何も教えてもらっていない。
 だから心は、高校を退学したときの暇を利用して、それらをわざわざ調べてみたことがあった。
 結果は――調べただけ無駄。
 まあ、それは当然といえるのかもしれない。
 《カミサン》を祭っている黒姫家の人間より、それについて詳しい人間がいるとは考え難い。
 わざわざ『こんなもの』を研究する物好きでもいない限りは、という条件がつくのだろうが――
 そもそもこの『御子』というやつにしてからが、けっこういい加減な代物だ。
 まず、『お役目』について『御子』とよばれる人間は、男でも女でも、どちらでも良い。
 それに一代に一人と決まっているわけではない。多いときには一代で三人のときもあったというし、
途中で増えたりすることまである。

 ほとんどは一人か二人、そのうち一人は必ず黒姫家の『御子』の血の繋がった者でなくてはいけないという、
『絶対条件』がある。
 『御子』の子が『御子』となる。
 ゆえに『御子』は結婚し、子供をもうけることを、なかば義務づけられてきた。
 子供さえつくれば良いから、かつて先祖のうちには、たくさんの妾を囲った男が何人もいたという。
 この手の土着信仰につきものの、「血を穢してはならない」とか、一生独身を守らねばならないとか、
そういった堅苦しさや潔癖さとはまるで無縁だ。だからこそ、『巫女』でなく『御子』なのだろう。
 一〜三人のうち、最低一人が黒姫家の人間であればよく、途中で増えることもある――という点から、
ピンとくる人もおられようが、夫婦で『御子』になる場合もある。
 心の先代、つまり父母にしてからがそうだった。
 だからといって、必ず夫婦で『御子』になるわけではないのが、さらにいい加減なところだ。
 ちなみに『御子』の代替わりには、これといって明確な決まりなどない。儀式の類もとくにしない。
 たとえば先代だった父母は、先々代であった祖父が存命中に『お役目』をついで『御子』となったが、
心の場合は父が死んだ瞬間から『お役目』についている、といった具合なのだ。
 『絶対条件』さえ守れば、あとはかなりいい加減な『御子』だが、次に『お役目』につく者を選ぶのは
誰かといえば、それは当代の『御子』ではない。
 黒姫家の当主でもないし、ましてや周りの、旧家の人間たちが後押しして選ぶのでもない。
 『御子』を選ぶのは、《カミサン》なのだ――と、心は母から教えられた。
 心はそれを信じていない。なぜなら母に、
「《カミサン》が選んだ、次の『御子』が誰なのか、どうやって分かるの?」
 と訊ねたことあり、それに対する母の答えが、
「それは《カミサン》が、いまの『御子』に教えてくださるのですよ」
 だったからだ。

(なんだ……『御子』を決めるのは、結局『御子』なんじゃないか……)
 少しだけ、がっかりさせられたことを覚えている。
 もっとも心は、はじめから《カミサン》の存在など、ろくに信じてはいなかったのだが。
 それでも、もしも本当に『それ』がいるとしたら、父や母との絆になってくれるかもしれないと、
こころのどこかでそんな風に想っていたことも、まぎれもない事実。
 母は生前、《カミサン》の声が聞こえると明言していたが、そんなものを、心は一度たりとも、
(聞いたことなんか、ない……)
 きちんとした『作法』に則って、『儀式』で呼びかけたこともあるが、こたえてくれた例がない。
 よって、
(《カミサン》なんて、いないよ。いるわけないじゃないか)
 これが心の結論だ。
 だからこそ心は、男だったとき、いずれは黒姫家を出て――悪くいえばしがらみをすべてを捨てて、
自分の実力と腕のみで生きていくことに、さしたる抵抗を持たなかったのだ。
 かような、その存在すら怪しい《カミサン》であり、それを祭る『御子』もいい加減なものなのだが、
どういうわけかこの町においては、ことに旧家の連中にとっては重要なものらしい。
 伝承によれば《カミサン》は気まぐれなうえ、無闇矢鱈と『祟る』または『障る』ものであるらしく、
いざとなれば失うものの大きい、いわゆる資産家だとか地主がほとんどである旧家連中にとってみれば、
その影響を恐れたり、気にかけてきたのは、『縁起かつぎ』として無理からぬことにも思われる。
 庭先やビルの屋上にいらっしゃる、お稲荷様のような存在を、もっと大袈裟にしたものなのかもしれない。
    ――と、《カミサン》にたいする心の解釈は、いまのところそんな感じに落ち着いている。
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 さて、龍鬼が旧家の人間であることは分かった心だが、
(どこの家なんだろう?)
 問題は、このことだ。
 例の『文句』を知っていることから、旧家のうちでも親密な間柄であり、それにこの屋敷のようすからみて、
かなり裕福な家であることは確かに思われる。
(東堂? 西ノ宮? 二本木? それとも外山? 桝田? 呉? 瀬丸ではない、よね?)
 七つほどの家が、まっさきに思い浮かんだ。
 西ノ宮家、つまり環の家も旧家にふくまれている。
 田崎家も旧家にふくまれてはいるが、先に挙げた七家に比べると、失礼なはなしだが一段落ちるし、
さきほどの龍鬼との会話からみても、違うことは間違いない。
 ちなみに瀬丸は母の実家だ。よってこれも多分ちがうはず。
 先ほどから心は『この町』という括りで考えているが、何もそれは本来の、行政の区画でいう町ではない。
 実際はもっと広い一帯であり、部分的には他県にふくまれて――つまり二つの県に跨っているので、
地域という表現の方がより適切だろう。
 さきの七家から瀬丸をのぞいた六家のうち、東堂・西ノ宮・二本木の三家は距離的にも近いし、
裕福さという点でも、頭ひとつ勝っている感じだ。
 心のみたところ、おそらく龍鬼はいまの心と同年代、15〜18歳といったところだろう。
 環に兄弟がいるという話は聞いていないし、西ノ宮家に龍鬼のような少年がいるという情報は、
男女両方の心の記憶にないから、西ノ宮家ではなさそうだ。
(東堂か、二本木なのかな? でも)
 どちらの家にも、いまの心と同年代の子息はいなかったはずなのだが――もっともこれは、
男だったときの記憶によればの話だ。
 そもそも男だったときの記憶を持ちだすならば、龍鬼のような少年は、旧家中には存在しない。
 龍鬼どころか環でさえも、男だったときには、
(いなかったはず、なんだよね……)
 ということになってしまうのだ。
(うーん……えーと、だから)
 これはもう、まったくもってお手上げだ。今のところ、心には判断がつかない。
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「心様、どうかなさいましたか?」
 からかっているのだろうか、龍鬼はあいかわらず畏まった態度で、心に話しかけてくる。
「いいえ、何でもありません。あの――」
「はい。なんでしょう?」
 跪いたままで、龍鬼は愛想良くこたえる。
「そういう態度は、やめていただきたいのです」
「それはできません。『御子』にたいして、失礼なことはいたしかねます」
 どうにもむずがゆいし、それについ先ほどまでは、あんなに親しげな態度だったというのに……
(からかってる? バカにされてる? ……ムカつく!!)
 龍鬼の慇懃な口調と態度を、止めさせたい。
「ならば、『御子』として命じます。必要以上に丁重な扱いは、やめてください」
「はい。承りました。いつも通りにお呼びすれば、それでよろしいですか?」
「そうしてください」
「わかりました。――心、となり、いいかな?」
 急に、龍鬼は親しげな口調に戻る。
(やっぱり、からかってたな!!)
「……どうぞ、ご自由に」
 ぷいっと視線をそらして、心は自分がいま不機嫌であることを態度で示す。
 本人はいたって真面目なつもりだが、その姿はとても子供っぽく、微笑ましいものに見える。
 龍鬼は立ち上がると、心のとなりに腰かけた。
 にこにこと嬉しげに微笑みながら、龍鬼は心をみつめている。
 ぱっと見た外見、とくに顔立ちにかんしていえば、龍鬼はかなりの男前――というか美少年だ。
 全体に女性的なつくりで、これはいわゆる日本的な美人顔というやつなのだろう、涼しげな切れ長の目、
高く整った鼻筋、細くとがり気味の顎のラインが少しだけ神経質そうな印象を与えるものの、
くっきりした濃いめの眉が少年らしさを漂わせている。

「…………!?」
 龍鬼の腕がのばされて、心の肩に廻された。やんわりと力をこめて、抱きしめてくる。
「やっ! やめ、やめてください」
 固くて柔らかい龍鬼の腕、そして胸板。
 鍛えあげられ、適度に絞られた、逞しい筋肉の――どこか懐かしい、『久しぶり』の感触。
(イヤだ。イヤだ、イヤだ。男に抱かれるなんて、イヤだ、イヤ……なのに)
 力が抜ける。さっきと同じだ。
 抜けるというよりも、力が入らない。抵抗できない。
「よしよし、こうするのは、本当に久しぶりだね。いつ以来かな」
 心を横抱きにかかえあげて膝の上に座らせると、龍鬼はまた先ほどのように、頭を撫ではじめる。
「やあ……やだ、いやだ。いやです、やめて、やめてよぉ」
 あっという間に、心はふにゃふにゃになって、大人しくさせられてしまう。
(…あ、あ……)
 気持ち良い、頭がぼうっとして、ふわふわする。
「……なでなで、もっと」
 とんでもない事を口走ってしまう。心は自覚していながら、これを止めることができなかった。
 男に抱かれているというのに、気持ち悪さを感じない。嫌悪感はまったくない。
 まるでなんだか、身体がこうされることを望んでいるみたいだ。
 しかし、たとえ身体が「嫌ではない」といっても、
(…イヤ……いやだぁ)
 こころは、イヤなのだ。否、そう思いたいのだ。
「いい子だね。心は、とってもいい子だ。可愛いよ」
 小さな子供をあやすように、龍鬼はしつこく『なでなで』してくる。
(ヤッパリ、環トイッショ、オンナジ、ヤサシイ……キモチイイ)
 女の子になってからこれまでで、触れ合って一番心地よかったのは、環だ。

 いまも環が一番なのは変わりない。ただ手を握り合うだけでも、彼女は深い安心を与えてくれる。
 龍鬼の『抱っこ』と『なでなで』は、その環との『触れ合い』に次いで気持ち良い。
 このことは、環と同様に龍鬼もまた、『心』にとって特別な存在である証なのかもしれない。
「……む、んぅ」
 龍鬼の胸にほほを寄せて、心はうっとりと目を細める。
(だめ、だめだ。だめだよ。たつきは、男じゃないか。男同士じゃないか! それに、なんだかちがう、
ちがうよ。たつきは、環とちがう)
 龍鬼と会ってから、ずっと感じ続けている微妙な違和感が、こころを揺らめかせて警告してくる。
 さざ波のような違和感。
 なんと表現すればよいのか、環といっしょだとまぎれもなく、こころも身体も安心できるのに対して、
龍鬼には安心『させられている』とでも言おうか、落ち着くのを『強いられている』ような感じだ。
 やわらかく『抱っこ』したまま、心を撫でていた龍鬼の手が、不意に止まる。
「怪我の具合はどうかな? 少しだけ、確かめてもいいかな?」
「へいき、へ…平気です、だから、あの……やめて」
 心はやっとのことで言葉を紡ぐが、抵抗まではできないでいる。
「大丈夫だよ、何もしないから、ね?」
 頬に口付けると、龍鬼はガウンの袖を捲り上げて、包帯につつまれた心の腕を露出させる。
 包帯をていねいに巻き取って、心の腕を注意深く見つめる。
「良かった。あまり酷い傷は、ないみたいだね。でも――」
「あ…ん、んん……やめて、やめて」
 肘のあたりに薄く拡がった擦り傷に、龍鬼は舌を這わす。
「可哀想に、こんなにたくさん傷ついて――痛くないかな? 可哀想に――」
 ぎゅうっと抱きしめて、唇を重ねてくる。口中に舌を差し入れて、心の小さな舌を絡めとってしまう。
 舌で舌を包みこみ、優しく愛撫しながら、心の唾液を飲み下していく。
(いや、いや、いやいや……やだ、やだよぉ)
 頭の中にあった違和感が、ほどけて拡がっていくような感覚を、心は感じている。

 長いキスが終わるころには、頭の中全体に、ぼんやりと霞がかかったようになってしまった。
「――次は、足の方の具合を、確かめさせてもらうね」
 そういって龍鬼は、心をベッドに横たえさせると、ガウンの裾に手をかけた。
「ヤッ! だめ、だめ! やめて、だめです」
 すっかり子供に『戻って』しまったうえ、頭がぼんやりしてろくに働かない状態になっても、
心は懸命に男であろうと、身を守ろうとする。じたばたともがいて、ほとんど意味のない抵抗をはじめる。
「うーん、困ったねえ。そんなに、嫌なのかな?」
 しかし龍鬼には、多少の効果があったらしい。わずかに戸惑っている。
 どうやら彼は、心を困らせたり、悲しませたりするようなことは、本気でやりたくないらしい。
 よほどに心を大切に思っているのか、それとも単なる気まぐれなのか─―。
「いやです。やめてください。平気です……」
 心は必死で身体を起こし、手足を縮めて龍鬼から逃れようとする。
「そんなに嫌がられたら、僕も嫌だよ。心を困らせたりなんて、したくないよ――」
「!?」
 何を思ってか、龍鬼はみずからの人差指の先端ちかくを噛み破った。
 真っ赤な血が一瞬だけ玉のように膨らみ、それからつうっと流れていく。
 その指先で、口紅でもさすように心の唇をなぞる。 
「な!! ……う?」
 口を開いた瞬間、血が流れ込み、舌先に触れる。
 心の口中に広がったのは、むろん血の――生臭く、鉄臭い味。
 しかし同時に、
(…あま、甘い?)
 フルーツのようにさわやかな甘い味がする――かと思えば、ミルクチョコレートのような味へ、
さらにエスプレッソのようなほろ苦い味へと、それは少しづつ、しかも刻一刻と変化し続けて、
まったく捉えどころがない。ただ一つ確実にいえるのは、それは間違いなく血の味わいでありながら、
同時に心にとってはとても美味しい、大好きなものの味にも感じられるということだけ。

「どうかな? 美味しい?」
「……ん」
 うっとりとした表情で、心はうなずいてしまう。
「――さあ」
 差し出された龍鬼の指に、心は引き寄せられていく。
「いくらでも、好きなだけ舐めていいんだよ」
 心はちろちろと舌を這わせて、流れていく龍鬼の血を舐める。
 一滴一滴が、身体の奥にしみこんでくるような感じだ。
 舐めていくにつれて、胸やお腹が中から温まってくるような気もする。
(おいし……もっと、もっと…)
 心は生まれてこのかた、一度も味わったことのない渇きを覚えていた。
「…おいち」
 そのうち、流れ出した分を舐めるだけでは物足りなくなったのか、龍鬼の指に直接しゃぶりついて、
ちゅうちゅうと啜りだす。
 血に気を取られているあいだに、龍鬼はすみずみまで入念に、心の身体を調べていく。
 左右の二の腕に、少し重い打撲傷がある――これは昨日、中年男の振るった腕をガードした際にできた傷だが、
もちろん龍鬼が知るわけもない――これ以外は、ほとんどが軽い擦り傷だ。
 擦り傷もほとんど全て、中年男に『襲われた』最中に擦りむいてできたものだが、なかには龍鬼との
『情事』のときに作られたものもあるだろう。それを思うと、龍鬼のこころは痛んだ。
「ごめん。痛かっただろうね、きっと」
 龍鬼は頬をすりよせ、心の首筋に口付けをする。
 血を味わうことにすっかり夢中になっている心は、抵抗もせず、ただくすぐったそうに顎をもちあげて、
軽く身をよじらせるだけだ。
「もっと美味しいのを、あとであげるから、少しだけ我慢しておくれ」
 龍鬼はそう言うと、心の口から指を引き抜いた。ちゅぴっと音がして、唾液が糸をひく。
「いやぁ…もっと、もっとぉ」
 心の視線は、指先に釘付けだ。瞳をうるませて、龍鬼の左手に取り付こうとする。

「ごめんごめん。大丈夫だから、大丈夫だから、ね? 美味しいのをすぐにあげるから、たくさんあげるから、
ほんの少しだけ待ってくれるかな?」
 心の頭を撫でながら、龍鬼は親指と人差指をかるく揉むように擦りあわせる――と、血が止まった。
 それどころか傷跡すら残ってはいない。
 あれだけ血が流れた、かなりの深さの傷だったというのに、完全に消えている。
「もっと、もっと、はやく、ください……はやく」
 心は目の前で起こったことの異常さに全く気がつかず、龍鬼の首筋に手をまわして揺さぶり、『おねだり』する。
「片手だと、怪我の具合をみるのが難しいから――すぐに終わるから、ね?」
「ほんと? ほんとうですか? すぐに、おわる?」
「うん、本当だよ。だから、いい子にしていておくれ」
「はい」
 何の疑いも抱かぬ心の態度に、龍鬼は激しく愛しさを掻き立てられた。
 無言で背中をさすってやりながら、唇を重ねる。
「……ん、んん」
 心は少し驚いたが、目を閉じて大人しく身をまかせた。
 龍鬼の舌が侵入してきて、口のなかをかき回し、心の舌にくちゅくちゅと絡み、包み込んでくる。
 生温かくて、不思議な感じで、ちょっとだけ気持ちが良い――と、心は思った。
 自然と唾液が溢れてきて、どんどん飲み込まないと口からこぼれ出してしまいそうだ。
 それは龍鬼も同じらしい。彼の喉が動き、唾液を飲み込んでいることが感じられる。
 とつぜん龍鬼が顔を傾けるようにして、彼の口中から唾液が注ぎこまれてきた。
 心の口のなかで、二人の唾液が混ざり合う。
 ――と、
(…あまい、おいしい……おいし、もっと、おいし)
 さきほど血に感じたのと同じような、『美味しい味』がする。
 唾液自体の味が、血液に比べるとソフトなためなのだろうか、さきほど血に感じたものよりも、
ずっとずっと強くはっきりと、『美味しい味』を感じる。
 いままで龍鬼と、いや誰とキスをしても、こんな『味』を感じたことなどなかったというのに――。

 こういう『味』が存在していることを、心が気付いて――いや、『気付かされた』からなのだろうか、
いちど『認識』してしまったからには、その『認識』に引っぱられてしまうようだ。
 龍鬼の血と唾液は、心にとって『美味しい』ものになってしまったらしい。
「ん…ん、んん、んぅん」
 心は龍鬼の首にまわした腕に力を籠め、彼の口中に舌を乱暴に侵入させると、激しくかき回して、
分泌された唾液を夢中で啜りだす。
 心が離れようとしないので、龍鬼はそのまま心のお尻をまさぐって、撫で回しはじめる。
「――んぁ、いやぁ!」
 さすがにこれは嫌だったとみえて、心は龍鬼から離れた。
「美味しかった?」
「あ、あ……はい」
 にっこり微笑んで訊ねてくる龍鬼に、抗議することを忘れ、素直にこたえてしまう心。
「それじゃあ、もうちょっとだけ我慢してくれるね? あとでたくさんあげる――もっと美味しいのも、ね」
「…………いまの、よりも?」
「うん、そうだよ。いまのより――キスよりも、血よりも、もっともっと、ずっと美味しいのを、
いくらでも好きなだけあげるからね」
「はい。あの、えーと、はやく、ほしいです」
(もっと、もっとおいしいの、たくさん……)
 こころが小さな子供に『戻って』いる心は、『美味しい味』の誘惑に勝つことなどできない。
 考えてみれば、今日はまだ起きてからミルクしか口にしていない。
 だから心はいま、とてもとてもお腹が空いている。
 お腹が空いていて、しかも何だか、いつもと違う感じで――お腹が空いて、身体が『渇く』感じがする。
 ふつうとは違う、『べつのお腹』が空いているような気がするのだ。
***********************************************




 心を膝の上からおろすと、ベッドに腰かけさせ、龍鬼はやさしく言い聞かせる。
「今までよく見えなかったところを、確かめるだけだから――怖がらないで、いいからね?」
 心は小首を傾げるようにして、龍鬼を見つめている。
 先ほどまでのような、あからさまな警戒の様子は、もうほとんど見受けられない。が、だからといって、
龍鬼に対する注意がおろそかになっているというわけでもない。
 むしろ興味深げに、龍鬼の挙動を観察しているような感じがうかがえる。
 血を『味あわせた』ことによる効果は、龍鬼の想像以上だったようだ。
***********************************************
《心は『力』を必要としている。あれが欲しているのは、自らに従い、『力』をふるう『手足』だ》
 つづけて“声”は言う。
《ゆえに、心に選ばれたいのなら、『御子』と共に在りたいのなら『力』を身に着けろ》
 さまざまな意味をもつ言葉。それらを弄んだ曖昧な表現。
 いつものことだが、“声”は勝手だ。つねに突然やってきては、分かり難いことや意味不明なことを言う。
 龍鬼の疑問には、ほとんど何も答えてくれず、言いたい事だけいって、さっさと帰ってしまう。
「またですか…また、それですか……いいでしょう。ならば…ならばあえて、今日はあえてお訊ねします。
『力』とは? それはどういうものなんです? どういう種類の力だというのですか?」
《すべて、だ。お前が考えつく、ありとあらゆる全ての種類の『力』だ。富だ。権力だ。知だ。腕力だ。
単純な暴力だ。人を制する武だ。外面的な魅力だ。内面的な魅力だ。人徳だ。洗練された美的センスだ。
身体能力だ。何事にも動じない精神だ。法を操り社会を欺く知識と機転だ。深く複雑な思考を可能とする、
考える力だ。魔術のような超常的な力だ――すべてだ》
 今回はめずらしく、龍鬼の呼びかけに答えてくれた。

「分かりました。『支配する』ための方法というものがあるとしたら、その全部――と言いたいんですね?」
《そうだ。お前の思う通りだ。『力』を身に着けろ。あとは心の意に従え。心の望むままに『力』を行使しろ。
あれは、自分が『なに』を欲しているのか、今はまだ気がついてすらいない。あれはまだまだ『子供』だからだ。
しかし、案ずることはない。共に在れば、すぐに分かるようになる》
「――まってください。心は、自分の欲しいものが何なのか、まだ分かっていないのでしょう?
それなのに、どうやって『それ』を持つ者を選ぶんです? どうやって判断するんです?」
《案ずるな、といったはずだ。心は、それと知らずに『力』を持つ者を惹きつけ、その中から選り分ける。
己の望む、『力』を持つ者を》
「ただ黙って、近くにいればいいと? そのままで、心に選んでもらえるまで待っていろ――と? 
心が求めている『力』の持ち主ならば、自然と選ばれるから、それまで黙って待っていろというのですか?」
《不服か?》
「もちろんです。心が、僕に気付く前に、他の誰かを選んでしまったら? そんなことになったら、どうすれば?
それに、僕はもう待つのは嫌だ!! 我慢できない!! こんなこと、あなたはとうに知っているはずだ!!」
《そうであったな》
「だから僕は『あの時』も、あなたの言葉を信じた」
《そして失敗した。だが、失敗したのは、我のせいではないぞ?》
 “声”が、笑っている。とても愉快そうに。
「分かっています。あなたの言葉に従ったのは――いや、利用したのは、すべて僕の責任ですから。
『あの時』は準備も万全ではなかったし、それに何より、僕は弱かった。あれは、僕の力不足………力?
そう…そうだ……」
 もうすでに分かっていたのに、あえて目を逸らしていた事実を、龍鬼は噛みしめる。
 自分に足りないのは、『力』だと。いま有る『力』だけでは、及ばないのだと。


《お前が『力』を持っていることを、心に知らせる方法を一つだけ教えてやる。『力』はお前の持つすべてだ。
ゆえにお前のすべてに、お前の『力』は宿っている。たとえば、お前の身体を巡る『血』の一滴の中にも……。
お前の身体を離れれば、それは力の残滓、痕跡にすぎなくなる――が、判断するためには充分だ》
 それだけ言うと、“声”は消えた。気配のかけらも残さずに。
 このあたりは、いつも通りだ。
「……あなたのいう『力』とやら、僕も多少は持ち合わせている、そのつもりだった――けれど、
今のままでは、この程度では不足……。どうすればいいんでしょうね? ……《お方》様」
 鉄格子のはまった窓から、月の光が射し込む。
 龍鬼は考える――いつからだろう? 闇の向こうから“声”が聞こえるようになったのは。
 物心ついた時点で、龍鬼にとって、これはすでに当たり前のことになっていた。
 だからといって、はじめから“声”のいうこと全てに、いちいち従ってきたわけではない。
 従うようになったきっかけは、心のため、心を守るためだった。
 “声”の与えてくれた情報に従って、心を助けることに成功してからというもの、
龍鬼はそれ以来何度も、最愛の幼馴染を守るために“声”の『導き』を利用してきた。
 “声”は、いつでも有益な情報を与えてくれるわけではない。先ほどの『力』云々というような、
わけの分からない『講釈』を述べる場合も多いし、質問にはろくに答えてくれない。
 だが、ここぞというとき、役に立つことも少なくなかった。
 はじめは“声”の正体なぞに、まるで興味を持たなかった龍鬼だが、いつの頃からか、
この“声”こそ、自分の祖先が代々仕えてきた、黒姫家の祭る《カミサン》なのではないかと、
考えるようになっていた。
 そうでもなければ、『御子』を――心を守ろうとする自分に、その『危険』を知らせる理由がわからない。
 『御子』である心は、おそらくだが、この同じ“声”を、幼いころから自分などよりもずっと鮮明に、
そして頻繁に耳にし続けているのではないだろうか――そう思うと龍鬼は、これが二人の絆のような気がしてきて、
心と自分との『運命』を夢想せずにはいられなくなるのだった。

 龍鬼は、“声”を《カミサン》だと思いたかった。だから、旧家の人間たちが儀式や報告のさいに、
《カミサン》に対して用いる《お方》様という呼び名を、“声”に『贈った』のだ。
 《カミサン》を《お方》様と呼ぶのは、なにも旧家の人間たちだけではない。
 黒姫家の人間であっても、『作法』に従う場合は、《お方》様と呼びかける。
 ただ『御子』だけが、彼らのみに許された特別な呼び名を用い、《カミサン》に語りかけるのだ。
 『御子』以外の者にとっては、その呼び名をただ『思う』ことですら、禁忌に触れる行為とされている。


 龍鬼は窓辺へ歩みより、鉄格子の間から夜空を見上げた。
 梅雨の切れ間、久しぶりに顔をみせた月は、心の瞳のように金色に輝いている。
{心……君に、逢いたいよ}
 殺風景な部屋。
 備え付けのベッドと机、小さな本棚以外はろくなインテリアさえありはしない。
 真っ暗な室内を、青白い月の光がぼんやりと照らす。
 月明かりに照らされた白い壁一面に、無数の紙が貼り付けられている。
 否、壁が白いのではない。それは、貼り付けられた紙の白さだ。
 紙にはすべて、同じものがスケッチされている。
 おどろくほど精密で、繊細なタッチで描かれているのは、一人の少女のさまざまな表情。
 一枚一枚、どれも凄まじい描きこみ度合いであるのにも関わらず、紙そのものの白さは失われていない。
 紙をまるで汚すことなく、描き損ねらしい描き損ねも、修正の跡もない作品たち。
 モデルは、これらを手がけた少年の脳内に焼き付けられた肖像のみ。
 その他には、写真一枚とてありはしない。
 当然だろう。
 少年がこの施設に収容された、その『原因』となった人物の写真を持ち込むことなど、許可されるわけがない。

 写真はおろか、ここでは新聞も雑誌もTVも、外からの情報はすべて遮断されていて自由に得られず、
たとえ学術書の類であろうとも、読書には許可が必要だ。
 内容が適切であるか否か、それが検閲されるのはもちろんだが、本の重さや大きさ、固さや紙の質などが、
より重要視されている。実際に許可がでるのは、薄く小さな文庫本や新書、いくつかの雑誌・新聞くらいのものだ。
 筆記具などに関しても、先端が尖った固いものは、人を傷付けるための「武器になる可能性がある」として、
持ち込むことを禁じられており、クレヨンやクレパスなどの『軟らかい』物のみが許されている。
 そのため龍鬼は、デッサン用の木炭を差し入れさせて、それで描いている。
 じつは収容されてしばらくの間は、サインペンやマジック、フェルトペンなども持ち込みを許されていたのだが、
ちょっとした『騒ぎ』を起こしたために、それらも禁止されてしまった。
 『騒ぎ』の『被害者』となった人物は、この施設の職員であり、龍鬼の最初の担当者だった。
 その男は、龍鬼がこの施設に入った当初から、あからさまに侮蔑するような態度をとりつづけていたが、
龍鬼はまったく相手にせず、無反応であり続けた。
 龍鬼は、男の名前を知らない。名前どころか、すでに顔も覚えていない。
 仕方あるまい。
 心と、心の大切なものたち以外の『もの』など、龍鬼にとっては単なる『動く物』にすぎないのだから。
 何か理由があるならともかく、道端の石ころに、わざわざ話しかける者がいるだろうか? 
 仮に狂人であるのなら、何の理由がなくともそうするのかもしれないが、龍鬼は狂人ではない。
 ゆえに、男がいかに失礼な態度をとり続けようとも、龍鬼は黙々と、絵を描きつづけた。
 そんな龍鬼の態度から、「組し易し」と侮ったのか、それとも「無視された」と判断して、
憤慨したのかは定かでないが、男の『いやがらせ』は少しづつ度を増していった。
 男はまず、龍鬼の描いた絵を取り上げた。
 それでも反応がないと見るや、「絵を描く事は禁止だ」とわめいたが、男にそんな権限がないことを、
龍鬼は知っていたので、無視して描きつづけた。
 つぎに男は、取り上げた絵を破り捨てて踏みつけ、唾を吐きかけることまでした。

 この時点で龍鬼は、男に『制裁』を加えることを決めていたのだが、あくまで表には出さずにいた。
 そのせいで、調子に乗ったのだろう。
 最後に男はあろうことか、心を侮辱した。口にするのも憚られるような、とても汚らしい言葉で。
 この瞬間、男への『制裁』は極刑――単純に命を奪うだけでなく、出来うる限りの方法で苦しめ、
後悔させること――に決定した。
 朝食を運びこむ時を利用し、男を捕らえた。その後、本来は龍鬼を『拘束』するための施設を逆手にとり、
『安全な』室内でじっくりと、ほぼ丸一日かけて、男を『処分』した。
 この施設で、絵を描くことと読書以外に、龍鬼が時間を費やしたのは、後にも先にもこの時のみ。
 かように心を描くことに熱中している龍鬼だが、彼はいままで、これほどまでに集中して、
絵を描いたことなどなかった。絵を描くという行為自体ろくにしたことがなく、せいぜいが学校での、
授業程度のものだった。
 それが、ここへ来てからずっと、憑かれたように、心を描き続けている。
「――もうすぐだよ、心、待っていておくれ」
 満足のいく出来の作品が描けたら、龍鬼はこの施設を出るつもりだ。その気になれば、
彼はいつでも此処から抜け出せる。
 例の男を『処分』したときも、そのまま出ようと思えばできたのだが、わざとそうしなかったのは、
いまだ満足のいく絵が描きあがっていないから、ただそれだけが理由だった。
 描きはじめて一月ほど経っているが、その間で彼は急激に、かなりの上達を示している。
 あと一週間もすれば、絵は完成するだろう。
{喜んで、くれるかな……?}
 描きあがった絵は、心に贈るつもりだ。
 月が、雲に覆われていき、闇がふたたび、辺りを包みこんでしまう。
 龍鬼が、心を『助けた日』から、遡ること半月ほど前、静かな夜のことだった。
**********************************************
 そうして昨日――つまりは、『助けた日』――も、やはり“声”の導きに従ったおかげで、
龍鬼は心を助けることができた。

《心に会わせてやろう》
 と、“声”は遠回りの道を指示してきた。
 よもや、『あんな場面』に出くわすとは、思ってもみなかったが……。
 心が無事なうちに助けることができて本当に良かったと、龍鬼はこころから安堵したものだ。


 あの夜、“声”は言った。「お前のすべてに、お前の『力』は宿っている。たとえば、
お前の身体を巡る『血』の一滴の中にも」と。
 もしも言葉どおりに、龍鬼の『力』が『血』に宿っているというのなら、いったいそれを、
どうしたら良いのというのか?
 龍鬼には、『味あわせる』ぐらいしか考えつかなかった。
{まさか……吸血鬼じゃあるまいし}
 我ながら貧弱な発想だと、そう思ったのだが……一応、これはこれで『正解』だったらしい。
 まあ、良しとする。
 心は口元に微笑みを浮かべて、琥珀色の透き通った瞳に、龍鬼の顔を映している。
 愛しさがこみ上げてきて、龍鬼は堪らなくなってしまう。
 手を伸ばして、そっと頬に触れる。と、心はその手を包み込むように、両手で握ってくる。
 龍鬼は思う――離れ離れになっていた二ヶ月ほどの間で、心の外見は、少し大人っぽくなった。
 だが同時に、以前の、彼が知っている心よりも、態度の面ではむしろ幼くなっている。
 大人っぽさと子供っぽさの、その間のふり幅が大きくなったような、色気と幼い無防備さが混ざりあった、
ちぐはぐで不安定な感じを受ける。だが、それが心の魅力を、さらに引き立たせてもいるのだ。
 ふたたび『なでなで』してやると、心は心地良さそうに目を閉じた。
 龍鬼は、心の身体を引き寄せる。
 上半身を龍鬼の膝の上にもたせかけ、心は横になる。ちょうど、うつ伏せで膝枕をしてもらう状態だ。
 心は『なでなで』されるのが、すっかり気に入ってしまったらしい。
 龍鬼の手が、背中からお尻にかけて触れてきても、抵抗しようとはしない。

「いい子だね。すぐに終わるよ」
 龍鬼が、ガウンの裾に手をかける。
 恥ずかしそうに身をよじり、心はガウンの裾をおさえる――が、龍鬼に『なでなで』されて、
すぐにふにゃふにゃと力が抜けてしまう。
 包帯が手早く巻き取られ、真っ白な太ももが、ついで、お尻が晒されていく。
 お尻や、太ももの裏側のところどころに、肘などと同じく擦り傷ができている。
 とくにお尻のあたりの傷が酷いようだ。
 きっと中年男に襲われたとき、乱暴に扱われてできた傷に違いない。
{可哀想に、酷いな}
「んっ」
 ピクンと、心が震えた。龍鬼の指先が、そっとお尻の傷に触れたためだ。
「ごめんね。痛む? 痛いかい?」
「…少し、ピリピリします。だけど……だいじょうぶ」
「そう――凄いな。心は偉いね」
「どうして?」
「だって、こんなに酷い怪我をしてるのに、痛がったりしていない。泣いてもいない。凄いね。
心はとっても、とっても強い子だね」
 心の頭を優しく『なでなで』しながら、龍鬼は答えた。
「ボクは、泣いたりしません。ボクは、男ですから……男が泣いて良いのは、本当に悲しいときだけです。
母様も、父様も言っていました。だからボクは、痛いからって、泣いたりしないですよ……」
 龍鬼が『褒めて』くれたので、心はなんだか嬉しくなってしまう。
「そうだね。でも僕だったら、心のようには我慢できないかもしれない――だから、偉いよ。凄い。
心は強い子だね。強い、とっても強い男の子だ」
 さすがに今の心にも、龍鬼の言葉が見え透いたお世辞だということくらいは、分かる。
 だが、そうだと分かっていても、『強い子』だと言われること自体は、まんざらでもない気分だ。


 否、悪い気がしないどころか、素直に嬉しい。心は『男の子』なのだから。
 嬉しくて嬉しくて、ついつい気が緩み、得意になってしまう。
 こころが幼く『戻って』いる『お子様』状態の心にとって、己を戒めるのは非常に難しいことなのだ。
「良い子だね。良い子、良い子……」
 龍鬼も、いまの心のそういう状態を何となく悟っているのだろう。褒めてやりながら『なでなで』を続けて、
心を安心させ、油断をさそおうとしているらしい。
「えへ…ふふ、ふふふ……」
(ほめられた。いい子、ボク、いい子……つよい子だって、ほめられちゃった♪)
 膝枕をしてもらいながら、心はすっかりご機嫌だ。龍鬼に対する警戒は、加速度的に緩んでいく。
「良い子には、お利口さんな心には、ご褒美をあげないとね」
 そう言いながら龍鬼は、心の髪に口付けた。
「ごほうび?」
「そうだよ。ご褒美をあげる」
 心は思い出す。先ほど龍鬼は、後でもっと『美味しい』ものをくれると言っていた。
 ご褒美とは、それのことだろうか?
「なあに? おいしいの、ですか?」
「ううん、ごめんね、違うんだ。それはもうちょっと後で、必ずあげるから、もう少し我慢しておくれ。
ご褒美とは関係なしに、絶対にあげる――ご褒美は、それとは違うけど、でも、『良いもの』だから、ね?」
「なあに? なあに? なんですか? おしえてください」
「ご褒美はね……」
「ひあ! あ、ん……なに、するの…? やめて、いたずら、やめてください」
 髪を撫でていた龍鬼の手が、すべる様に移動して、お尻に触れている。
「大丈夫、悪戯なんてしないから、絶対。優しくするからね?」
 覆いかぶさるようにして、龍鬼の顔がお尻に近づいていく。
 ペロリと、龍鬼はお尻の傷を舐めた。

「あうぅ! やめて、ください」
 とてもくすぐったい。舌先が触れるたびに、傷に滲みてちくちくする。少しだけ、痛い。
「うう、ん、あ……あ、だめ、だめです!」
 無言で、龍鬼は心のお尻を舐めつづける。
 その一方で、相変わらず優しく『なでなで』をして、心が抵抗できないようにしてしまう。
「い、いやぁ…あ、あんっ……はぁ、ん、やめて、やめ――う?」
 痛みが、ちくちくと滲みるような痛みが、どんどん薄れていく。
「い、ふっ…ふあぁ、ん」
(いたく、ない…?)
 程なく痛みが完全に消えて、あとに残ったのは、ただただこそばゆいだけの、かすかな心地よさ。
「あう、あ、あ……いや、もう、やめて…ください」
 心臓が、ドキドキする。頭が熱い。くらくらして、身体の自由がきかない。
 もの凄く、『イケナイ』ことをされている気がしてきて、心は恥ずかしくて堪らない。
「さあ、もう大丈夫だよ」
 ぴたりと、龍鬼は舐めるのを止めた。
「どうかな? もう、痛くない――よね?」
「あ……あ、あの、はい。いたくない、です。……でも、どうして?」
 心の疑問はもっともだ。
 たいしたものではないが、心はたしかに傷を負っており、痛みもあった――はずなのに、
その痛みが、気のせいなどではなく、完全に消えてしまったのだから。
「怪我のことだよね? 傷は、僕が治したよ。綺麗に治してあげたからね。不思議?」
「…はい」
 『治した』とは? 一体どうやれば、怪我をたちどころに治すような真似ができるというのか?
 心は、不思議でしようが無い。だから大人しく、龍鬼の次の言葉をまっている。

「怪我を治してあげられた、その理由はね……僕が、心を愛してるから――だよ」
「……うそつき」
 信じられるわけがない。からかわれている――としか、思えない。
「嘘じゃないよ。真剣に、本当の本気で、心の怪我が治るようにこころを籠めたんだ。だから、
願いが通じたんだよ。それで、心の怪我は――治ったよね? この通り」
 龍鬼は、唾液でべちゃべちゃになってしまった心のお尻を、優しく撫でる。
「んっ……だめです、さわったら、だめ」
「ね? もう痛くない。それに……ごらん」
 龍鬼は、心の腕を示してみせる。
「……あ」
 お尻よりも前に、龍鬼に舐められた肘の傷が、綺麗に消えている。
「この通り、肘も――お尻だって、同じなんだよ。心の身体は、綺麗に元通り」
「どう…して? どうして?」
 さっぱり分からない。まるで魔法――そう、「魔法みたいだ」と、心は思った。
「ふふ、みんな治してあげるね」
 言い終るや、龍鬼は覆いかぶさってくる。
「あ……やっ! いや、いやです。やめて、治さないで、いいです」
「恥ずかしがらなくて、いいんだよ? 心の身体を元通りに、綺麗に治すだけだから――これは、
治療なんだから恥ずかしくないよ」
 唾液でぬるぬるするお尻を、優しく撫でさすりながら、龍鬼は腕の傷に舌を這わせる。
(ま…また、また、おなじ……おんなじ)
 龍鬼の舌が触れるたび、ちくちくと傷に滲みて、微かな痛みを感じる。
 白い肌のあちらこちらに、紅くうっすらと広がる擦り傷が少しずつ消えていき、それと同時に痛みも、
まるで目に見えるかのように薄まっていく。
「う、うぁ……ぁ、あ…だめ、だめぇ」

 しばらくすると、腕の傷は完全に見えなくなり、痛みもいっしょに失せてしまった。
「綺麗になったね。これで上はお終い。さあ、次は下のほうだね」
「はぁ、はぁ…は…ん」
 身体が熱い。熱にうかされたようにぐったりして、心は抗議の声をあげることすらできない。
 ベッドに、心をうつ伏せに寝かせなおすと、龍鬼は太ももの裏側に舌を這わせはじめる。
 ぴちゃぴちゃと、湿った音。
 痛みが消えていくのと比例するように、心の呼吸はどんどん荒くなっていく。
 龍鬼の唇が、舌が触れてくるたびに、胸の奥のほうがちゅくちゅくして、息苦しい。
 太ももとお尻のいたるところ、下半身の怪我のすべてを舐めあげて、龍鬼は『治療』を施していく。
「はっ、は……はぅ…んっ、ふぅ」
 治療のすべてが終わったころには、心の瞳はすっかり潤み、いまにも涙がこぼれ落ちそうになっていた。
「――うん。これで、すっかり綺麗に治ったよ――心?」
 龍鬼が顔を覗きこんだ、ちょうどその瞬間、心の瞳から大粒の涙がこぼれ出す。
 ぽろぽろと、堰を切ったように止め処なく、涙は流れつづける。
「ごめん。ごめんね……ご褒美のつもりだったのに。怪我が治ったら、きっと喜んでくれるって――なのに、
ごめんね。ごめんね」
 龍鬼はすっかりうろたえて、心を抱き上げると、子供をあやすように『なでなで』をはじめる。
「……んっ、ひっ…ん」
「――心」
 それでも、心が泣き止まない――と見るや、龍鬼は唇を重ねてしまう。
 心の口に舌を挿し入れて、小さな舌に絡めてもてあそぶ。
 溢れだしたお互いの唾液を混ぜ合わせ、心の口にそそぎこむ。
 『抱っこ』された安心感と『なでなで』の心地よさ、そしてキスに感じる『美味しい味』――。
 それらのおかげだろうか、心は胸の奥のちゅくちゅくした感じが、少しづつ溶けて消えてゆくような、
そんな気がしてくる。
 身体が熱くて、ぐったりした感じは相変わらずだが、息苦しさは薄れて、もうさほど感じない。
***********************************************




 どれくらいの間、キスを続けているのだろう。心の気持ちは少しづつ落ち着きはじめているものの、
涙のほうは一向に止まる気配を見せない。
 心自身にも、「男は泣いたりしちゃいけない。めそめそするのは格好悪い」という思いがあって、
懸命に涙を止めようとしてはいるのだが……だからといって、そう簡単に止められるものでもない。
 龍鬼は唇をいったん離すと、心の目尻に当てて涙を啜りだす。
 いくら涙を啜っても、あとからあとからじわじわと、透明なそれは溢れてくる。
「ごめんね。僕が余計なことをしたせいで、つらい目に遭わせて」
 ベッドサイドに放置されていたカップを手に取ると、心の飲みかけのミルクを一口含んで、
龍鬼はふたたび口付けをする。
 ほんの少量づつ、心の口にミルクが注がれていく。
 それをすぐには飲み込まず、舌をつかって唾液と混ぜ合わせるようにしながら、ゆっくりと味わう。
 二人の唾液とミルクの合わさった液体が、お互いの口内を何度か行き来するうちに少しづつ消えていく。
 絡み合うものが舌だけになってしまうと、龍鬼は唇をはなした。
 別れを惜しむかのように、白く濁った粘液が糸を引きつつ、ゆっくりと切れていく。
 もう一口ミルクを含み、龍鬼は同じことをくり返す。口移しでミルクを与えながら、頬の内側や舌の裏側、
心の口内のすみずみまで愛撫してやる。
 心は瞳を閉じ、龍鬼の舌をただただ迎え入れるだけ――。
 息をしゃくり上げるたびに鼻や咽喉が、子犬のようにきゅんきゅん鳴ってしまい、情けない事この上ない。
 ちょうど四回くり返したところで、カップは空になった。
 ミルクが無くなっても、二人のキスは終わらない。鼻先を押し付けて擦り合わせるようにしながら、
夢中で舌を絡めあう。
「こぼれちゃったね……綺麗にしてあげる」
 いつに間にか二人の口の端からミルクがこぼれ落ち、首筋を伝って、心の胸元にまで流れていた。
 龍鬼はそれを舌で舐め取っていく。首筋を通りすぎて、胸のあたりに舌が触れる。
「やぁ…」
 小さな胸を庇うように、心は両手で抱えて隠す。

 両腕で抱えられたために、ささやかながらも一応谷間らしきものができた心の乳房。
 その谷間に唇を当て、龍鬼は残りの液体をすばやく啜りこんだ。
「ほらね? もう終わったよ」
 心の頭を撫でてやりながら、微笑みかける龍鬼。
 意外なほどあっさり終わったので、心はどう反応したらいいのか分からず、龍鬼の顔を見つめている。
 ――と、龍鬼の口元にもミルクがついていることに気付く。
 お返しのつもりなのか、それとも、ただ単純にもっとミルクが欲しいだけなのかは分からないが、
 胸を抱えていた腕をほどくと、龍鬼の首にしがみついて、まるで子猫のように龍鬼の口元を舐めはじめる。
 小さな舌が、龍鬼の唇やその周辺をちょこちょこ動きまわると、すぐにミルクは無くなった。
 そのままぴたりと龍鬼の耳に口をつけ、小さな声で何事か囁く。
「…………」
 龍鬼は微笑んで、
「――うん、分かった。連れて行ってあげる」
 真っ赤になって視線をそらし、心はこくんと頷きかえす。

 **

 軽々と心を抱き上げ、龍鬼は扉を目指して歩いていく。
 扉の向こうは、先ほどまで居た寝室とほぼ同じ大きさの部屋。
 たぶん居間なのだろう。テーブルとソファーが中央に置かれており、趣味の良い調度品がそこかしこに
配置されている。部屋には誰もおらず、正面と向かって左とのそれぞれに一つずつ扉がある。
 やっぱり此処には、見覚えがあるような気がする――と、心は思った。
 龍鬼は左の扉へと進んでいく。
 着いたところは洗面所にトイレ、さらに奥へと扉は続く。この並びからするとバスルームだろうか。
 トイレの真正面で、心は下ろしてもらう。

「着いたよ」
 龍鬼はニコニコしながら心を座らせる。
「…あの」
「ん?」
「…出ていって、ください」
「どうして?」
 なぜか意外そうな顔で、龍鬼は訊ねてくる。
「どうしてって…そんなの、決まってます…………はずかしいです…だから」
 吐息がかかるほど近くにいても、耳をすまさなければ聞き取れないくらいに小さな声。
「どうして恥ずかしいの? 僕たち、男同士じゃないか。恥ずかしがらなくても、大丈夫だよ――ね?」
「それは、それはぁ……だけど、でも…そんな……こんなの」
「大丈夫――おしっこだったよね? 何もしないから、安心して」
 腰を屈めて心を抱きしめると、龍鬼は唇を塞いでしまう。ガウンの裾をまくり上げて下半身を露出させ、
お腹を優しくさすりはじめる。
「ん、んぅ……んん、ん」
 抵抗したくても、心の手足はうまく動かない。龍鬼のキスは、先ほどから相変わらず『美味し』くて、
『なでなで』は気持ち良い。身体――肉体的には、まるで不快なところなどありはしないのだ。
 けれどだからといって、彼に抱かれたまま『して』しまうわけにはいかない。
 いくらなんでも、
(や……こんなのヤダよぉ。はずかしい……はずかしいよぉ)
 だが考えてみれば、龍鬼の先の言葉もあながち間違いとは言い切れない。本当に『男同士』であるのなら、
小用くらい見られたところで、さしたる問題にはならないはずだ。だいたい、公共施設・駅・店舗などの、
不特定多数が利用する男性用トイレにおいて、小用便器はとなり合って設置されているのが一般的なものだ。

 しかしながら、こういう点がいわゆる『お坊ちゃん育ち』の、さらにその上をいく甘えたい放題で育てられた、
心という人間の『心らしい』ところなのだから仕方がない。実をいえば、心はもともと男だったときから、
個室でないと用を足すのが苦手であったほどに、『繊細な子供』だった――だった、と言うべきだろう。
 なぜなら、現在の――女の子になる直前までの心は、そういう点を『克服』していたから。
 黒姫家の――つまりは母の『躾』はたしかに厳しいものだったが、それはあくまで礼儀作法やマナー、
道徳や倫理などに関する部分であり、それ以外では、むしろ過剰すぎるほどの愛情を注がれて心は育った。
 心の暮らす町の住民たち、なかでもとりわけ富や権力など、ある種の『力』に恵まれた旧家の連中にとって、
重要かつ特別な存在である《カミサン》を祀る、『御子』の血筋――黒姫家。
 その黒姫家の『御子』であり、跡取りでもある心は、周囲の大人たちから特別中の特別扱いを受けてきた。
 望むものは何でも、ほぼ全て間違いなく与えられたし、よほど道義に外れた真似をしない限りは、
叱られることも滅多になかった。基本的に『お行儀良く』さえしていれば、何をしても許された。
 心が望んでも得られなかったのは、友達――同性・同年代の友人くらいのものだ。
 けれども幼いころは病弱だったこともあって、いつでも母と一緒だったし、周りには常に使用人たち――彼ら、
いや、彼女らはほとんどが女性であり、黒姫家の子供たちは彼女らを『姉や』と呼んでいた――がいてくれたから、
友達のいない寂しさを特に感じることもなかった。それに学校――I学園の幼稚舎や初等部の低学年の頃――には、
病気で休みがちでまともに通うことができなかったため、友達ができないのは「仕方がないことだ」と思い、
心本人もそれで納得できていた。
 幼いころの心には、『男の子の友達』は一人もいなかった。
 身の周りで男といえば、父や祖父、それに旧家の優しい『おじさま』や『おじいさま』たちだけだった。
 だから心は、歳の近い『男の子』がずっと苦手だったのだ。
 そして、いまの心はその頃の、幼いこころに『戻って』しまっている。

(いや……いやぁ…)
 心は漏らさないよう、一生懸命に我慢している。
 『あそこ』に意識を集中して、おしっこが出てしまわないように身体を強張らせている。
 お腹をさする龍鬼の手の動きが、変化していく。撫でるような動きから、手の平をおしつけて、
そっと揉むような動きへ。さらに空いているもう片方の手で、背中もさすりはじめた。
 決して安易に、心の『大切な部分』に触れるような真似はせず、出来うる限り刺激の少ない方法で、
心を安心させようとしている――らしい。
 かたく強張っていた心の身体から、力が抜けていく。

 ぷしゅ ちょろちょろ ちょろ ちょろろろろろ ちょぽちょぽ ちょぽちょぽ ちょぴ

 我慢しきれずに、心は龍鬼に抱かれたまま『して』しまった。
 もちろんここはトイレなのだから、『した』こと自体には問題が無いと言えるのかもしれない。
 しかし文字通りの『目の前』で、龍鬼にすべてを聞かれてしまった。『見られた』のとは違うことなど、
何の慰めにもならない。
 排泄行為を強要される――もっともこの場合は強要されたとは言い難いが――などということは、
一個の人間にとって身体・精神に受ける『いたずら』のうちで、単純かつ直接的に『犯される』ことよりも、
ある意味ではずっとずっと屈辱的な仕打ちだ。
 ましてや、心は普段こそ、そのような素振りを見せはしないものの、とても『誇り高い』人間なのだ。
 『誇り』は、心を取り巻く様々なものと、自身の内面とに根ざしている。本人は否定するのだろうが、
由緒ある旧家に生まれたという出自も、当然にそれらのうちの一つであろう。
 心のショックをさらに大きくしているのは、排泄行為を見られたのが、これで二度目であるということ。
 一度目は昨日、透子に。そして二度目はたった今、龍鬼に。 

 心にとっては、透子のような女性――今では年上の『お姉さん』だ――に『悪戯』をされるよりも、
龍鬼のような男の子――同年代の同性――から『辱め』を受ける方が、何倍も悔しい。
 物心ついたころから、いつでも身近にいて、接することにも慣れている若い女性に『おしっこ』を
見られてしまう――それとて充分に恥ずかしいが、もっと小さな頃は『姉や』たちにお風呂に入れてもらったり、
トイレの世話もされたりしていたのだから、ショックはさほど大きくなかった。
 それよりも、ほとんど接したことのない、まるで『知らない生き物』である自分以外の『男の子』に
『悪戯』された――身体を触られ、いいようにあしらわれたことの方が、よほどショックが大きいのだ。

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 心の瞳に、ふたたび涙が滲む。だが、泣いてしまうのは癪なので懸命に堪えている。
 龍鬼は、唇をほとんど触れあわせたまま微かにずらし、
「綺麗にしないと――ね」
 唇の動きで、心にはこのように伝わってきた。
 サイドにある操作パネルの上で、龍鬼の片手が素早く動く。
「んんっ!」
 最弱に調整された温水が一定のリズムを刻みながら、心の大切な部分に優しくぶつかってくる。
(…ちがっ…あ…ちがうぅ…)
 おしっこの穴とは違うところに、生温かい水がしっとりとしみ込んでくる。
「んぅ……ん、んん、んうぅ!」
 龍鬼は明らかにワザと、洗うべきところとは違う部分に温水を当てている。
 柔らかな水の舌が、膣口を舐め上げて胎内にまで染み入ってきたかと思うと、今度は尿道口へと移動して、
そちらの穴もそうっと突いてくる。
 少しづつ水流を操作して、『お花』のさまざまな部分をじっくりと時間をかけて嬲っていく。
 たっぷりと1分近くの間、心の敏感な部分は温水にさらされ、弄ばれ続けた。
「ちゃんと綺麗になったかな?」
 龍鬼はようやくウォシュレットを止め、唇を離した。跪くと、目線がちょうど心の胸のあたりにくる。
「確かめさせてもらうけど――いいよね?」
「え? やっ……いやです! もう、もうきれいになりました」
 心は両膝をぴたりと閉じあわせ、さらに股間を手で覆い隠す。
「んー、でも――でもやっぱり、ちゃんと見て確かめないと。女の子は――心はとくにデリケートなんだから、
身体を清潔にしておかなくちゃ。病気にでもなってしまったら、大変だからね。それに、お姉さん方から心をお預かりして、
任させて頂いてるのは僕なんだ。万が一のことでもあったら、申しわけが無いよ――ね? お願い」
 心の膝上に手をつき、上目遣いに見つめながら龍鬼は言う。顔立ちの整った彼がこんな態度をとると、
まるで女性のよう――心の好む『お姉さん』のような感じさえ受けてしまう。心にはこころなしか、
龍鬼の瞳が、微妙にではあるが潤んでいるようにも見えた。

「えと、あの…」
 なにか、自分の方が我がままを言っているようなばつの悪さを感じて、心は対応に窮している。
 その隙をついて、龍鬼の手が太ももの間に滑りこんできた。心は別に痩せ過ぎているわけでもないのに、
膝を重ねて組みでもしないと、どんなにしっかり肢を閉じても隙間ができてしまう。
 龍鬼はそこに手を差し入れて、太ももを開かせようとする。
「ごめんね。何もしないから、少しだけ我慢しておくれ」
「やだぁ! いや、いやだよぉ! 見ないで…見ないでよぉ」
 懸命に力を入れて抵抗するが、軽々と苦も無く、股を開かされてしまった。
「そうだ。まずは、おしっこから確かめないと――」
 龍鬼はトイレの中を覗きこんで、
「うん。異常は無さそうだね――心、昨日のことだけど……お腹とか、強く叩かれたりしなかったかな?」
 龍鬼はいかにも訊きづらそうな、「嫌な事を思い出させたくない。だが、聞いておかなくては……」といった面持ちだ。
 もしも昨日の中年男に襲われた時に、お腹に強い衝撃などを受けていた場合、今の『心』のヤワな身体では、
内臓に重大なダメージを負ってしまう危険がある。龍鬼が危惧しているのはその点なのだ。
 真剣に、全くやましい感情など無しに、龍鬼は心のことを気にかけている様子だ。
 それがはっきりと伝わってきて、心は恥ずかしいながらも、抵抗するのは我慢したほうが良いのではないかと、
そう思い始める。
「う、うんと……えと、ええと」
 おどおどしながらも、昨日のことを思い出そうとする。
 しかし、いまいち良く思い出せない。龍鬼との間にあったことなら、大部分を覚えているのだが……。
 龍鬼の顔が目の前にあるせいで、尚更に、彼との『情事』ばかりが頭に浮かんできてしまい、
心は恥ずかしさで叫び出したくなってしまう。
「あの、あの…あ…だいじょうぶ、だと…思います。お腹、たたかれたり…してません」
 顔を真っ赤にして、指先で唇をせわしなくいじりながら、おぼろげに思い出したことを告げる。

「そう――良かった…良かった」
 心のお腹に手を当てて、龍鬼は安堵の溜息をつく。
「いや、実はね。昨日のうちに、田崎先生にも言われていたんだ。できたら確認しておくように――って。
いま見た感じだと、おしっこにも異常はないみたいだし、本当に良かった…」
 龍鬼の表情がくしゃっと歪んで、目元から涙がこぼれ落ちた。
「…あれ? ははっ…何で僕、泣いてるんだろう。ははは…可笑しいよね。男のくせに泣いてしまうなんて、
心はこんな奴……情けない奴は嫌いだよね。ごめん、すぐ止めるから……」
 照れ隠しのつもりなのか、龍鬼は涙をこぼしつつも笑顔をつくる。
 或いはもしかすると、本当に、本気で、泣いていたら心に嫌われると考えているのかもしれない。
(どうして? どうして?)
 何故この人はこんなにも、泣いてしまうほど自分を――女の子の『心』のことを心配してくれるのだろう?
 彼は強い人だと――同時に、冷たい人だと――心はそう思っていた。昨日の中年男を始末したときも、
そして、つい先ほど吉野を見下ろしていたときも、龍鬼は恐ろしいほどに冷たい眼をしていたから。
 あのときの龍鬼からは、感情というものがまるで読み取れなかった。
 しかも決して、無理をしてそういう風に振舞っている感じはしていなかった。
 ただ単純に、最初から、何ものにも左右されない不動の、凍りついたこころを持っている人間なのだと――
たぶん彼は生まれつきに、本質的にそういう人間なのだろうと、心は解釈していた。
 それなのに、それなのに――だ。
 どうして彼が、『その』龍鬼が、自分――家柄が少々良い程度の、ただの女の子である『心』――のことを、
ここまで気にかけるのだろう? どうして、『心』のために泣いてしまうのだろう?
 確かに自分は、大昔から《カミサン》を祀ってきた黒姫家の、それも『御子』という役目にある人間だ。
 いわば、ワケの分からない宗教じみたものの『教祖』とでも言うべき存在。
 そのおかげで、『信者』にあたる旧家の人々からは、本人が望もうが望むまいがそのどちらにもかかわらず、
いろいろと特別扱いをされてきた。


 龍鬼は心のみたところ、ほぼ間違いなく、旧家の人間だ。
 よって、心を特別扱いしてくるのは、ある意味で当然といえるのだろう。
 だがいくらなんでも、こんな風に泣いてしまうほど、心配してくれる必要はないはず――と、心は思う。
 今だって一応のところ、心の無事は確認できているのだ。身体にも目立った異常はみられないし、
精神的にも、別に問題はない――心本人がそう判断しているだけで、実際はかなり幼く『戻って』いるのだから、
それを感じ取れる人間が判断すれば充分に異常なのだが、それは別の問題だ。
 とにかく、龍鬼がこんなにも自分のことを心配してくれる理由が、心は気になってしょうがない。
(どうして、泣いてるの?)
 いままでとは違ったかたちで、心は龍鬼のことが気になり始める。
 それはいわば、龍鬼から受ける刺激で、何かを『思い出す』のではないかという、
自分のことが原因となる『注意』ではなく、龍鬼本人、つまり彼そのものに対する『興味』だと言えるだろう。
(……たつき)
 こうしてあらためて龍鬼を見ていると、やはりなんと言うか『綺麗』な顔をしている。
 自分がもしも「綺麗な顔をしている」などと言われたら、以前なら『男として』腹を立てたかもしれないが、
でも今は確かに「ああ、そうかぁ。他に言い方…言葉がないんだ……」などと納得できてしまう。
 それに何度も感じてきたことだが、龍鬼は誰かに似ている。しかし誰なのかは、いまいち思い出せない。
(かわいそう……)
 龍鬼の涙を見ているうちに、心はなんだか気の毒になってきた。
 男の子は、『よほどのこと』がないと泣かないものだ――と、心は考えている。その『よほどのこと』が、
龍鬼のばあいは『心』のこと――つまりは、今の自分のこと――なのだ。
 泣いているところを見られるのは、恥ずかしいだろうな――という考えもあって、心は、自分が龍鬼を
泣かせてしまったような気がしてきた。
「いい子、いい子」
 そっと手をのばして、龍鬼の頭を撫でる。いままで、何度も龍鬼がそうしてくれたように――。

「……心」
 龍鬼は心地良さそうに目を閉じた。
 両側から挟みこむようにして彼の頬に手をそえると、心は涙を舐めとっていく。
 涙をきれいに舐めとってしまうと、小さな胸にきゅっと押しつけるように龍鬼の頭を抱きしめ、
髪を撫でてやる。
「いい子、いい子。泣かない、泣かない」
「……」
 龍鬼はされるがままに、大人しく心に撫でられている。
(たつき、なんか……猫みたい…信綱みたい……なんか、かわいい)
 胸に感じる龍鬼の重みと体温が、心に、いつも自分に甘えてくる愛しい家族を思い出させた。
「よしよし、いい子、いい子……」
 犬や猫などの、動物を愛しいと思う気持ち――そして、小さな子供を愛しいと思う気持ち。
 それらはとても近いところにあって、けれど厳密には、まるで違うものなのかもしれない。
 人が己の子を――或いはまた他人の子をも――愛しいと感じ、守りたいと思うこころ。
 それを男が持てば父性、女が持てば母性と呼ばれるのかもしれない。
 では、犬や猫を愛しいと思う気持ちは?
 母性とも、父性とも呼ばれることはないだろうし、わざわざ区別しようとすることもないのだろう。
 それならば、いま、心が龍鬼にたいして感じている気持ちは?
 これは父性なのだろうか? それとも母性なのだろうか?
 心には、自分が龍鬼に感じた『愛しさ』がどういうものなのかを判断する必要も、つもりもない。
 ただ少なくとも、腕の中に抱いた少年を、『かわいい』と感じていることは間違いない。
「……ありがとう…心」
 小さな身体にすがるように、龍鬼の腕が心の腰に廻された。
 二人は、まるで母と子のよう。
 その身は、いまだ幼さを色濃く残す少女にすぎないというのに、倍近くも大きな身体の少年を抱く姿は、
確かに『母』を感じさせた。




 さすがに、心のようにいつまでも泣いているということはなく、龍鬼の涙はすぐにおさまった。
 心の胸から移動して太ももに頭を預けたまま、龍鬼は黙って撫でられ続けている。
 ややあって、彼はそっと身を起こした。
「ありがとう……ごめんね――それじゃあ、続きを終わらせてしまおう。ちょっとだけ確かめさせてね」
 さらりと言いつつ、にっこり笑う。
 まだ、確認とやらを続けるつもりらしい。
「あ……。…いたずら、しないで」
 不意をつかれて、心は少し呆気に取られてしまったようだ。
 抵抗も、抗議することさえ忘れて、ただ情けない『お願い』をするばかり。
「もちろんだよ」
 龍鬼は、心の太ももを開かせて、股間に顔を近づける。
「ん。匂いはしないね。一応、綺麗になってるみたい……」
 くんくんと、わざとらしいくらい大げさに、龍鬼は心の匂いを嗅ぐ。
{いつも通り、いい香りだ}
 心の『お花』からは、あいかわらず、甘ったるいミルクのような独特の体臭が漂ってくる。
 匂いを嗅ぎながら、龍鬼はどんどん顔を近づけていき、ひたりと鼻先が股間に触れた。
「や、ん、あん」
 いつの間にか廻されていた龍鬼の手が、心の両太ももを下から掴んで支えるように下半身を持ち上げ、
確認しやすい体勢をつくる。
 鼻の頭がちょうどぴったりクリトリスに当って、擦れる。
「…匂い、だけだと、ちゃんと分からない…よね?」
 すでに龍鬼の唇は『お花』に触れていて、彼が言葉を発するたびに表面が擦れ、吐息がかかる。
「あん! や、やぁ…だめぇ」
 舌先が、膣口から尿道口までを一気に舐め上げた。

「――ん、うん。おしっこの味は、しないみたいだね。でも、もっときちんとみないと」
 何度も何度もくりかえし、割れ目をなぞり上げるように舌が這っていく。
「う、あぅ…んぁ、あ…やだ、やだぁ」
 ぬるりと、舌先が膣口にかるく潜りこんで、胎内のごく浅い部分で蠢いている。
 入り口の粘膜を押しひろげるように、肉の壁をなぞっていく。
 しばらく胎内を味わった後、舌を引き抜いた。
 今度は、尿道口の方に舌を当てて、円を描くようにしつこく舐めまわす。
 穴のまわりの肉が、ほんの少し膨らんでいる。それを捏ねくるように、舌を押し付けて動かす。
 尿道口をかるく拡げるように、舌を強めに押し付けて味わう。
「――うん。綺麗になってるみたいだ。けど、水が入ってしまったみたいだね」
「……お水?」
「そうだよ、お水。さっきの水がね、心の大切なところに入ってしまったみたいなんだ」
「どこ?」
「おしっこの穴と、それからね、心の大切な『お花』のところの――穴だよ」
「ないもん。そんなの、ない…ないもん。『お花』……穴、ないもん」
「――あるよ。心の『お花』には、ここに小っちゃな穴があるんだよ」
 龍鬼の唇が、すばやく膣口に当てられた。
 舌先をかるく侵入させ、心に『穴』の存在を強く意識させようとする。
「ああん、いやぁ! うそ、たつき、うそつきぃ……ないもん、ないのぉ…」
 そこに穴が存在していることくらいは、いくら幼く『戻って』いようが自分の身体のことなのだから、
心とて分かってはいる。だが認めてしまうと、龍鬼に悪戯されそうな気がして――だから、認めたくないのだ。
「分かる? ここ…だよ。ここに、あるんだよ?」
 舌でちょんちょん突きながら、心に示してみせる。

「……うん。はい、わかり、ました…だから、もう…やめて」
「さあ、お水をとってあげようね」
 心のお願いを無視して、龍鬼は唇を膣口にぐっと押し付けると、強く吸い付ける。

 じゅる じゅるじゅる じゅり じゅるる じゅるぅ じゅるるぅう

「いやぁ、いや、いや…きたないよぉ……飲んじゃだめ、やだぁ」
 心の胎内に入り込んでいた水を、わざわざ大きな音を立てて啜り、飲み下していく。
 水はもともと大した量ではないから、あっという間に無くなってしまったのだが、すぐには口を離そうとせず、
龍鬼はしつこく音を立て続けた。
 急に強めの刺激を受けたせいで、少しづつ、心の『お花』全体に血が集まり始めている。
「さあ、次はおしっこの穴だよ」
「だめぇ! もう、だめ……なんでぇ? なんで、こんなことするのぉ? いたずらしないって、
いったのにぃ……たつきの、うそつき……いじわるぅ!」
「悪戯? 違うよ。これは意地悪なんかじゃないよ……お願いだから、きれいにさせてね」
「うぅ……ん、んん、あ……や、いや、ん…あぁ」
 クリトリスごと口に含むようにして、尿道口のあたりにかぶり付くと、今度は静かに吸う。

 ちゅう ちゅるちゅる ちゅちゅ ちゅ ちゅう ちゅるる ちゅちゅう

 膣に比べればずっと少ない量の水は、すぐに無くなった。
 かぶり付いたまま、舌でクリトリスを突く。
 敏感な蕾は、すでに充血して膨らみ、包皮からわずかに顔をのぞかせている。
 龍鬼の舌には、感触でそのことが伝わっていた。

 ぷっくりと膨らんで少し固くなっているクリトリスを、舌で包み込むようにして愛撫する。
「ふ……ん、んあ…あ、あぁ…や、やめ……いやっ! いやぁ…ん」
 心は腰をくねらせて逃れようとするが、もちろん逃げられるわけもない。
 まわりの肉を押し退けるようにして、クリトリスの根本に舌を這わせていく。
 もしも汚れがついているとしたら、龍鬼はそれをこそげ取ろうとでもしているかのようだ。
 むろん、心の『お花』は汚れてなどいない。
 心の身体は、『お花』はおろかそのいたるところ全てが、恋と愛の二人によって手入れがいきとどいており、
いつどこでどのように、然るべき相手と『そういう行為』に及んだとしても決して恥をかくことがないように、
文字通り完璧に磨き上げられているのだから。
「はぁ…う…うぅん、あ、ああ、あはぁ…ん、んぃ、い……あ」
 口をすぼめるようにしゃぶり付いて、女の子の身体に存在する快感を感じる神経の集中した部分のうちで、
もっとも敏感なその一点のみを、龍鬼は執拗に責め立てつづける。
「いぃ、あ……ふ、ふぁ…んぅ、んふ、んふ、んぅう……あ、あぅ…んん」
 心は頬を真っ赤に染め上げ、震えながら声を押し殺す。
 小さなこぶしを握り締めて歯を食い縛り、身体を奔る甘い感覚に飲まれまいと懸命に耐えている。
「ひいっ! …ふぁあ、ひぃ…う、うぁ、ひ…ひぁ、い、んはぁ!」
 我慢しきれなくなった心の口から、悲鳴にも似た吐息が漏れる。
 柔らかな身体が強張りかけた刹那――龍鬼の『攻撃』がピタリと止んだ。
「――うん、これで良いね。すっかり綺麗になったよ、心」
「……あ、あ?」
 あと少しで、心は軽くイってしまう――そんな絶妙のタイミングで、龍鬼は愛撫を終わらせた。
 『焦らす』という点において、これほど完璧な仕事はまずありえないと言えるだろう。
「どう…してぇ?」

「ん? 何かな?」
 さまざまな意味が籠められた「どうして?」だったというのに、そして、籠められた意味のいくつかは
たぶん『分かって』いるのだろうに、龍鬼は何食わぬ顔で切り返してくる。


 龍鬼は、「どうして?」自分に、つまり女の子の『心』に優しくしてくれるのか?
 優しくしてくれるのに、龍鬼は「どうして?」こんな風に、たびたび悪戯もしてくるのか?
 そしてなによりも、「どうして?」龍鬼に関する『女の子としての記憶』は『思い出す』ことができないのか?


 女の子になって以来、ことある毎に思い出してきた、女の子の『心』としての『記憶』たち――それらは、
何らかの刺激を受けると、ときおり心の脳裡に浮かんできて、一つを思い出せば今度はそれがきっかけとなり、
次から次へと新たに『記憶』を呼び起こしていく。
 恋や愛と過ごす日常生活。
 幼馴染であり、恋人でもある環との接触。
 親しい友達たち――早苗に佳奈美、忍――との、他愛の無い会話。
 本当に何気ないことがきっかけとなって、『記憶』は順調に増えてきている。
 もうすでに、心の中には、女として生まれて歩んできたこれまでの『人生』が、きちんと順をおって、
組み上がりはじめているのだ。
 しかしながら、それはまだまだ完全と呼ぶには程遠い。
 いくつもの大きな『穴』が、まるで虫食い跡のように、そこには存在している。
 たとえば、I学園の高等部に入学した直後から、女の子として『目覚めた』二週間ほど前までの間、
ちょうど周りからは「入院していた」とされている期間のことは、まったく思い出せない。
 龍鬼のことも似たような感じだ。

 彼の言葉を信じるかぎり、そして彼自身の態度や、彼と触れあったときの感じから判断するかぎり、
龍鬼は女の子の『心』にとって、とても身近で親しい人物であることがほぼ間違いないように思える。
 他の親しい友人たちとは、かるく接触しただけで、その相手に関する『記憶』を『思い出す』ことができた。
 それなのに、龍鬼とは、あれほどまでに『濃密な』接触を何度もくりかえしているというのに、
彼に関する『記憶』をまるで『思い出す』ことがない。
 龍鬼にたいして感じるものを、「この感覚は知っている」と思うことはあっても、彼自身に関する『記憶』は、
いまだ何一つ思い出せずにいるのが心の現状なのだ。
 何か不都合なことが――そう、龍鬼のことを思い出すと、何らかの困ったことが生じてしまうから、
思い出さないように、『記憶』に蓋でもしているみたいだ。



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「何が『どうして?』なのかな?」
 龍鬼は、あいかわらず優しげな――綺麗な笑顔をうかべている。
「……え…」
 心は反射的に「どうして、やめたの?」などと言ってしまいそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
 これでは――こんな言い方をしたら、まるでもっと続けて欲しいと思っているみたいに――続きを
『おねだり』しているみたいに聞こえてしまうではないか。
 何と言ったらよいものか……少し考え、
「…ええと、あの、どうして、どうして、お口で…その、なめたりしたの? きたないです」
 なるべく誤解を受けることのなさそうな、それでいて、龍鬼への『非難』が込められた質問をする。
「汚い? そんなこと、あるわけないよ。心が汚いなんて、あり得ない。心は、とっても綺麗だよ」
「そうじゃないです。そうじゃなくて…不潔です。きのうは、お風呂に入ってないのに……」
「心の言いたい事は分かっているよ。だから大丈夫。それに心は昨日、きちんとお風呂に入ったからね。
僕が全部、身体のすみずみまで綺麗にしたから」
「え……」
 心は絶句し、ほんの一瞬で、耳たぶまで真っ赤に染まっていく。
「……見た?」
「うん」
「ぜんぶ?」
「うん」
「さわった…の?」
「うん、もちろん。そうしないと洗えないからね」
 恨めしそうな心の視線を気にも留めていない様子で、龍鬼は答える。
「でも、でも……お風呂に入ったからって、なんでおしっこの……なめたりするの?」
「見た目や匂いだけだと、良く分からないから――きちんと綺麗になったのか、確かめたかったからだよ」

「だけど! だけど…どうして? なめたって、分かるわけないのに」
「それなら大丈夫。昨日のうちに確かめておいたから、心の味はちゃんと分かるもの」
「…………」
「心? どこか痛むの?」
 うつむいたままの心に、龍鬼は見当違いな言葉をかける。
 彼には心を困らせているつもりなど、最初からまったくないのかもしれない。
 けれどそんなことは、やられる側にしてみれば、わざとであろうがなかろうが、どちらであっても同じだ。
 大体この様子では、気を失っている間に何をされたのか分かったものではない。
 恥ずかしくて、悔しくて――心はどうすることもできず、ただ苛立ちだけが募っていく。


「……きらい」
「え?」
「たつきの、ばか。きらい」
 せめてもの抵抗として、心は子供のように拗ねはじめる。
 いや、抵抗という言葉は正しいとは言えない。精神状態が幼い子供に『戻って』いる心にしてみれば、
駆け引き云々など考えられようはずもなく、素直なこころの動きにしたがったまでのことなのだ。
「そんな――僕は、心配だったから」
「だからって、いたずらばっかり……いじわるです。だから、きらい。だから、たつきはきらいです」
 泣いたままの顔で、心は龍鬼を睨む。
 そこには、迫力など欠片とて存在していない。
 見る者に微笑ましさを感じさせ、愛しさを掻き立てるだけの姿だ。
「違うよ、違うんだ――悪戯なんて…ただ、ただ僕は――」
 しかし、心の「きらい」は、龍鬼にとって思いのほか衝撃の大きなものであるらしい。
 滑稽に見えるほどうろたえている。

「僕は、君が心配で……もし何かあったら…怖かったんだ」
「心配だからって、知らないうちにいたずらするなんて……男らしくないです! そんな人は、きらい!」
「違う! 違うんだ。お願い、信じておくれ……悪戯なんて、絶対にしていないよ」
 龍鬼は必死に弁明する。
「ほんとうに?」
「本当だよ――悪戯はしていない」
「でも、さわったのでしょう? 見たのでしょう?」
「それは……それは、その…お風呂に入れただけで……」
「男なら、はっきりしてください! 見て、さわったのでしょう?」
「あ……う、うん、あの……はい、見ました。見て、触りました」
「ほら! やっぱり、いたずらしたんですね?」
「――だけど、それは」
 心は、龍鬼のうろたえる様子がだんだん可笑しくなってきていた。
 自分が「きらい」というだけで、龍鬼はこんなにも慌てて、必死に弁解しようとする。
(もっと……もっと)
 龍鬼を困らせてみたい――そんな気がしてくる。
 わがままを言ったり、悪戯や意地悪をして相手を困らせるという行動は、ある意味で相手に甘えている
ということだ。
 特に幼い子供である場合は、その傾向が強い。相手の『愛情』を試そうとするからかもしれない。
 つまり、心は自分でも気付かぬうちに、龍鬼への警戒を解いてしまっているのだ。
「見たのも、触ったことも、それは心の身体に異常が無いか調べるためで――綺麗に洗うためで、
だから悪戯なんかとは違うんだ――悪戯なんて、決して」
「うそつき」
 龍鬼の言葉を遮って、心は続ける。
「いたずらしたくせに……なめたりして…ひどいです、きらい」

「それは……ごめん。ごめんなさい。心、許しておくれ」
 龍鬼は心の肩を抱いて、すがりつくように顔を寄せてくる。
 キスをする気らしい。侘びのつもりか、はたまた、心の好きな『美味しい』キスで気を逸らして、
誤魔化してしまうつもりだろうか。
 ――しかし、
「いや!!」
 心は、両手で思い切り龍鬼の顔を押し退けた。
「そんな、そんな汚いお口でちゅうしないで!」
「心…?」
 きっぱりと拒絶されて、龍鬼は唖然としている。
 考えてみれば、昨日、彼に助けられてから今までで、心がキスを断ったのは初めてのことだ。
 しかも、今日目が覚めて、龍鬼の『味』を『美味しい』と感じるようになってからというもの、
心は自らキスを欲しがるほどになっていた。にも関わらず、心はキスを拒んだのだ。
 これには心なりの理由がある。
 龍鬼を困らせたいというのもその一つだが、それよりも本人の言葉どおり、『汚い』のが嫌だった。
 いくら龍鬼が「汚くない」と言おうが、彼の唇や舌が触れた部分は、心にとっては『汚い』ところだ。
 幼い子供に『戻って』いる心にしてみれば、自分の股間にそなわった器官など、『排泄に使う』という
認識がほとんどで、その他の『使い方』については、まだまだ情報が不足している。
 せいぜいが、『大切なところ』だから『清潔にしなくてはいけない』とか、誰にも――特に『男の人には
絶対に触らせてはいけない』ところだとか、理由は良く分からないが、悪戯されると『恥ずかしい』とか
『気持ち良い』とか『痛い』とか、断片的なものばかりだ。
 心は女の子に『なった』ばかりで、そのうえ頻繁に幼く『戻って』しまうのだから無理もない。
 さらに家では、入浴中に身体を洗うことすら一人ではやらせてもらえず、恋と愛に『手伝われて』いたから、
心はいまだに自分の胎内(なか)に触れたこともないのだ。

 とにかく、いまの心にとって、龍鬼に悪戯された部分は排泄のための器官であり、しかも『おしっこ』
をしたばかりの『汚い』状態にあった。
 だから、そんな『汚い』唇で、触れて欲しくなかったのだ。
「……したいなら、ちゅうするなら、いますぐお口を漱いで――歯も、みがいてきれいにしてください。
そうしてくれなくちゃ、イヤです」
 涙目のままで、まっすぐに龍鬼を見つめながら心は訴える。
「うん、分かった。いますぐ歯磨きしてくるね」
 キスを拒まれた原因が分かり、龍鬼は安堵する。
 本気で嫌われたわけではなさそうだと、そう感じたからだ。

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 心は少し焦っている。
 いま龍鬼は、心の『お願い』をきいて、歯磨きをするため洗面所にいっている。
 洗面所とはいっても、トイレとは壁で仕切られただけでドアも無く、距離もさほど離れていない。
 だが一応、壁が存在しているおかげで、お互いの様子は見えないようになっている。
 龍鬼はここに戻ってきたら、きっとまた『何か』してくるに違いない。
 だから、彼がこの場を離れているうちに、後始末を終わらせてしまわなくてはならない。
 後始末――龍鬼の唾液にまみれているはずの、『あそこ』を綺麗にするのだ。
 中途半端なところで途切れてしまった、龍鬼の『悪戯』のせいで、心の身体は今も火照ったままだ。
 燻りつづける甘い疼きが、心を切ない気持ちにさせる。
(……なんで? どうして、こんな風になるの?)
 女の子になってからというもの、悪戯されると、いつも、すぐ、こんな風におかしくなってしまう。
 龍鬼のことも、この身体のことも――心にとっては分からないことだらけだ。
 今の自分の『あそこ』は、一体どうなっているのだろうか?
 心は、ずっと気になっていた。妙な感じに疼くから、気になって気になって堪らなかった。
 龍鬼がいない今こそ、確認するためのいい機会に思える。
 それに後始末をする必要もあるから、どのみち確かめねばならない。
 ガウンの裾をまくりあげて、ふと、心の動きが止まる。このままだと裾が邪魔だ。
 手早く二回ほど折ってまとめ、口に咥えた。これなら落ちてこない。
(ちょっと、お行儀…わるいかなぁ?)

 肢を少しだけ開いて、股間を覗き込む。
 てかてかして――濡れている。龍鬼の唾液だ。
 ジンジンと痺れているような、それなのに敏感になっているような、変な感じが続いている。
 空気にふれて、微妙に涼しさを感じる。熱をもっているらしい。
 熱くなって、それに普段よりもふっくらして――腫れているみたいだ。
 いつもはぴったり閉じているはずの割れ目が、膨らんだ『花びら』や『蕾』に押し上げられて、
内側からめくれるように少し開いてしまっている。
(ひどい、ひどいよぉ……こんな、こんな…)
 龍鬼が舐めたせいだ。悪戯されたせいだ――心はそう判断した。
 確認するために、指先で触れてみる。
「んっ……」
 ヌルンと、指が滑った。
 ぬめぬめしている。
 唾液だ。これは龍鬼の唾液だ。しかし、それにしてはヌルヌルし過ぎているような……?
 何となく疑問に思って、割れ目の内側、桃色の襞を撫でて確かめていく。
「んっんう?! んん……」
 指の腹のあたりで、ぬるぬるした割れ目を擦るたびに、お腹の底の方がじんじんする。
「んふっ……んん、ん、ん…んふ、んふ、ん!」
 どうしてなのか、手が止まらない。
(だめ…だめだよぉ……やめなきゃ、だめぇ、だめなのぉ)
 ガウンの裾を咥えているおかげで声こそ出ていないが、心の呼吸は明らかに荒くなっている。

 左手で割れ目をそっと広げ、右手の人差指と中指の腹の部分をつかって、ヒダヒダの部分を擦る。
 ヌルヌルして、指に吸いついてくるような、柔らかい感触。
 微かに、くちゅくちゅという湿った音がする。
(あ、いやだぁ…なに? これ……こんなの、だめだよぅ)
 この音が、壁の向こうの龍鬼に聞こえてしまったら、もしも今ここに彼が戻ってきて、
こんなところを見られでもしたら、どうしよう――そう思って、心は止めようとする。
 しかし、肉襞を擦る感触が――同時に擦られる快感が、心を捉えて放さない。
「ん、ん、んん……んう、ん、ん、んふっ!」
(くちゅくちゅ、やめないと……でも、でも、気持ちいいよう…でも、だめ、だめだよ……でも、
ぬるぬる、いい、いい気持ち、でも、だめぇ……だめ、でも、だけどぉ)
 もっともっと、たくさん弄りたい――ヌルヌルしたい。
 自分の手で味わう快感に、心のこころは囚われていく。
(気持ちいいよぅ……もっと…ぬるぬる、キモチイイ)
 充血したせいで普段よりもふっくらしている大陰唇を、左手の指をつかっていっぱいに開き、
あらわになった桃色の肉を、右手でグニグニと強く擦る。
「んーっ! ん、んっんふ! んんー、んう、んー!」
 どんどん大きくなっていく、心の喘ぎ。
 うめき声にも似たそれは、もう恐らく、龍鬼の耳にも届いているだろう。
 ビクンッと、心の身体がふるえ、動きが止まる。
 いちばん敏感な『蕾』を、乱暴に擦ってしまったためだ。

 刺激を受け続けてさらに充血が進み、クリトリスは、いつの間にか少しだけ顔を覗かせていた。
 あまりに強い刺激が、一瞬、心の思考を呼び戻す。
(おかしいよ……こんなの、ヘンだよう。いやだ、ヘンになっちゃう…いや、いやぁ)
 それでも、手は止まらない。
 指先で、クリトリスをつんつん触り、痛みがないのを確かめてから、クニクニと弄りだす。
(いや、いや、いやぁ……おかしくなっちゃう)
 『蕾』を捏ねくり廻すように、ふにふにと刺激しながら、心は少しづつ思い出しはじめる。
 亜津子に悪戯したときのこと。そして、失くしてしまった『大切なもの』のこと。
(おちんちん……ない…よ?)
 そうだ。自分は『男の子』なのに、『おちんちん』が無い。
 男の子の『お股の間』には、『おちんちん』があるはずなのに、どこかに行ってしまった。
 あの時も、亜津子に悪戯した時も、『おちんちん』が無いのに気付いて、それで――。
 この突起を、小さな肉芽を、こうやって弄った。
 『蕾』を摘んで、指先をすり合わせるように、優しく揉みほぐす。
 適度な刺激を受けて、『蕾』はますますぷっくりと膨らみ、敏感さを増していく。
(ええと……それから……あ、大きく、あ、ああん! いやぁ、いやいやぁ……ヘンに…)
 かすかに帰ってきた思考も、あっという間に、快楽に押し流されていく。
「んうーっ! んっふ、ん、んんう……んん、ん、んう、ん……んー!」
 もはや声を我慢することさえ忘れている。
 ガウンの裾を噛み締めて――丁度、猿ぐつわを噛まされて、悲鳴を上げているような状態だ。

 右手でクリトリスを摘んで軽くねじり、こねくり回す。
 同時に、左手と右手の残った指すべてをつかって、割れ目の表面――柔らかな花びらを擦り、
つま弾いて、かきまわす。
 しかし、どうしたわけか、胎内には一切ふれようとしない。
 もしかしたら、心は、まだ『そこ』には気付いていないのかもしれない。
(ヘン…ヘンなの……おかしいの、おかしくなっちゃう……ヘンに……たつき、たつきぃ!)
 きっと、龍鬼が悪いのだ。彼が『いけないこと』をしたりするから――あんな風に舐めたり、
悪戯したりするから――だから自分は、『おかしく』なってしまった……。
 このままだと、自分はもっと『おかしく』なってしまう。
 『おかしく』なって――どんどん『ヘン』になって、きっと『病気』になってしまう。
 快楽に囚われた心は、愚にもつかないことを考えはじめる。
 悪いのは、龍鬼だ。
 だから『治して』もらわなくては――龍鬼のせいでこうなったのだから、彼に責任をとって
もらわなくては……。
(たつき、たつき……たつきぃ…たつきたつき、たつき、たつきぃたつきぃ!)
 龍鬼に対して、怒っているのか――それとも、すがっているのか。
 心のこころの中は、龍鬼への『何か』でいっぱいになっていく。
 そして、その『内なる呼び声』に応えるように、
「心……?」
 彼は、帰ってきた。

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 パサ――と、ごく小さな音を立てて、咥えていたガウンの裾が落ちた。
「…や、いや、いや……やぁ」
 ゆっくりと頭を左右にふって、心はイヤイヤをする。
「いやぁ! いやいや、いやぁ……みないで、みないでよぉ……みないで」
 両手で裾を引っ張って、『恥ずかしい部分』を覆い隠すように身体を丸め縮こまる。
 ほんの一瞬前まで、あんなにも強く、こころの中で龍鬼を呼びつづけていたというのに。
 まるで龍鬼は、その呼び声に応えたかのように、ここに戻ってきてくれたというのに。
 そういう状況であるにもかかわらず、心は彼を避けようとしている。
 いざ彼を目の前にした途端、心は、分からなくなってしまったのだ。
 もう少し細かく言えば、自分が龍鬼にどうして欲しいのか――何をしてもらいたいのか、
本当は良く分かっていないことに、いまさらながら『気がついた』のだ。
「……ん。大丈夫、大丈夫だから。ね?」
 かまわずに近寄って、龍鬼はその場に跪くと、心の頭を撫でてやる。
「僕のせい――だよね? ごめん、ごめんね。ごめんなさい……」
 龍鬼の言葉で、心は思い出す。そうだ。彼のせいで、自分は『おかしく』なってしまったのだ、と。
 しかし何故、心が言葉にする前に、龍鬼が『それ』を知っているのだろう?
 考えてみればとても不思議なことなのだが、心にはそれを疑問に感じる余裕すら無い。
「たつき……たつきが、わるいんですよ? さっき、いたずらしたから……」
 心の意識は、龍鬼を責めることに振り向けられている。
「ごめんね、本当にごめん」
 『なでなで』してやりながら、龍鬼は謝り続ける。
 心の言うことが理屈として正しかろうが間違っていようが、どちらであろうと龍鬼は構わない。
 構わないというよりも、龍鬼にとっては、心の言うことはすべからく『正しい』のだ。
 心が良ければ、心が満足してくれれば、心が喜んでくれれば、心が気持ち良ければ、彼はそれでいい。
 龍鬼にとって大切なのは心だけ。重要なことは、心の気持ちだけなのだ。

 そして今、その心がいったのだ――「龍鬼が悪い」と。
 だから、自分が悪い。たとえ傷付けるつもりが無くとも――彼にとっては当然のことなのだが、
龍鬼はいつでも常に、絶対に心を傷付けまいと考えて、細心の注意を払って行動している。
 しかし、そういうつもりであったにもかかわらず、結果として心を傷つけてしまったのなら、
「全て自分が悪い」と龍鬼は考える。
 彼にとっては己の気持ち――どういうつもりで行動したか、それすら『どうでもいい』ことだ。
 それに今回は、確かに龍鬼が原因なのだから、心の言い分も、龍鬼が謝ることも間違いではない。
「ごめんね、ごめんなさい。ごめんね、ごめん、本当に――」
 心に詫びながら、龍鬼は、どうすれば許してもらえるのか考えている。
 何となくならば、心がどうして欲しいと思っているのかを感じてはいるのだが――とはいえ、
許可もなしに勝手な真似をして、さらに不機嫌にさせてしまっては元も子も無い。
 やはりここは、本人に直接たずねてみるのが一番のはず。
「ごめんね。僕のせいで、つらい目に逢わせちゃったね。どうすればいい? どうしたら、
許してもらえるのかな? 教えて欲しいな」
 背中をさすってやりながら、心の瞳をまっすぐ見つめる。
「たつきが、いじわるしたから……ボク、おかしくなっちゃう……病気に、なっちゃいます……」
 心は涙ぐんで、駄々っ子のように「龍鬼のせいだ」とくり返す。
「ごめんね――だから、許して欲しいから――どうしたらいい? どうしたら許してくれる?」
「……なおして。なおしてください。さっきみたいに…なおして」
「なおす……? 治すの?」
 コクンと頷く心。その濡れた瞳が、龍鬼を見つめている。
「なおして」
「どこかな? どこを、どうやって、どんな風にして、治してあげたらいいのかな?」
「……ここ、この……お股の、ところ」
 とても、とても恥ずかしそうに、心は自分の下腹部のあたりに触れた。
 うつむいたその顔は、真っ赤になっている。

「うん。そこを、どうしたらいいのかな? さっきみたいに――」
 龍鬼は、心の唇を舌先で舐める。蕾がほころぶように、かすかに心の唇がゆるむ。
 その、ほころびかけた蕾へ舌を挿しこみながら、ゆっくりと唇を重ねていく。
 挿しこんだ舌で、心の舌を誘うように、そっと触れる。
 心は瞳を閉じ、龍鬼の舌に触れようと舌を伸ばしかけた。
「…ん、んむぅ」
 龍鬼は心の舌を絡め取り、包み込むようにして愛撫をはじめる。
 舌を絡め合ったまま、心の口内を点検するかのように、龍鬼は舌を蠢かす。
 薄く、小さく、柔らかな舌をもみくちゃにして、じっくりと弄ぶ。
 心が感じるのは、先ほどまでと同じ『美味しさ』――甘く優しい味、龍鬼の味だ。
 龍鬼の味に混じって、さわやかな香りと、微かな苦味がする。歯磨きか、口中洗浄剤だろう。
 してみると、龍鬼はきちんと真面目に歯磨きを済ませてきたらしい。感心なことだ。
「――こうして――こうやって、さっきみたいにしてあげたら、いいかな?」
 解放されて惚けていた心が、龍鬼の言葉に反応する。
「…いや…」
「うん?」
「……だめ、だめです。お口はだめ。お口は、イヤ」
 龍鬼のシャツの肩のあたりをきゅっと掴んで、心は、自分から唇を重ねた。
 せっかく綺麗にさせたのに、もう一度『汚い』ところを舐めたりしたら、また汚れてしまう。
 だから、龍鬼が口で『あそこ』に触れないように、心は先回りして彼の口を塞いだ。
 いまの心にとっては、もう、龍鬼の口付けは『美味しい』もの以外の何ものでもなく、それゆえ、
彼の唇がふたたび『汚い』ところに触れるのを我慢できない――「もったいない」のだ。
「――じゃあ、どうしよう? どうしようか?」
 唇をいったん放し、軽く触れるだけのキスを繰り返しながら、龍鬼は笑いかけてくる。

「知らない…。知りません」
 心は、ぷいっと顔をそらす。その首筋に、龍鬼の唇が――舌が触れてくる。
「あ、あ……あん! いや、あ、ふぁ」
 つい、声が出てしまう。
 我慢しようとしても、吐息とも悲鳴ともつかないものが勝手に漏れてくる。
「口じゃ――舐めたら駄目なんだね? それなら、手で、触ってもいいかな?」
「……ん、んふ、ん、あ」
「いいかな? ねえ? 心、いいかな? いいかな?」
 心の唇や首筋に口付けをくりかえし、舌を這わせて『意地悪』しながら、龍鬼はしつこく訊いてくる。
 いかに彼が、傷を治せる不思議な能力を持っているとしても、触れなくてはどうにもできない。
 そして、心に嫌われないためには、身体に触れる『許可』を得る必要があるのだ。
「いいよね? 触らないと、治してあげられないから、だから、いいよね?」
「やめて、だめです……だめぇ!」
 龍鬼は『意地悪』を止めた。
「いいよね?」
「……ちゃんと、なおしてくれますか? いじわる、しませんか?」
「うん」
 屈託のない笑顔で、龍鬼は即答する。
「ちゃんと治すよ。意地悪なんてしない――悪戯しない」
「……」
 心は、『おかしく』なってしまった身体を、早く治して欲しいと思っている。
 治してもらうには、龍鬼が言うとおり、触る必要があるのだろう。
 だが、龍鬼に任せて本当に大丈夫なのか、不安だ。
 現に彼はいまだって、『意地悪』をしてきたではないか。


 けれど心は、ほとんど悩むことなく――
「お願い、します」
 自分一人では、解決する自信が無い――うまく治すことは難しいだろう。
 それに、もしも龍鬼が『意地悪』してきたら、「キライ」だと言ってやればいい。
 心はおおよそこんな風に考えて、身体に触れる『許可』をだしてしまった。
「いいんだね? それじゃ、早く治してあげようね」
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