その日の豊の目覚めは、しょっちゅう快活な一日を送るには好ましくない
ひどい悪夢に度々苛まれ続けた人生の中でも、指折り数えて間に合うほど
上に順位付けられるくらいに、気持ち悪いものだった。
 脱水症状でも起こしたときのようにカラカラに乾いた、喉。炎天下で
急激な運動をした後と同じく全身を這う汗の玉、湿った肌の感触、
そしてそれを吸い取ってベチャリと肌に密着する寝間着を見れば、
実際に体に変調のひとつも来たしているのではないか、と思える。
 張り付いた布地の感触が不快でしょうがなく、本来なら窓を全開にして
新鮮な朝の空気を全身に浴びたいところのはずなのに、何故か
窓に手を触れることすら躊躇われた。
 何もかも不愉快で、そして奇妙な朝。
 こんなにも異常な目覚めをもたらしたほどの、おそらくは悪夢、だというのに
、豊はその内容をわずかも憶えていない。思い出したくもないと心が訴えかけて
いる。だからそのこと事態は助かったという感慨すらあるが、しかし、豊は
自分自身忌んでやまない悪癖として夢というものを微細漏らさず克明に
記憶してしまう性質なのだ。たった今見た夢の断片すら思い浮かばないなど、
まるで初めての経験だった。だからこそか、云い難い違和感が思考に
付きまとって離れない。
 だからと言って考え込んでも答えなど出るとは思えず、豊は取り敢えず
布団から出ることにした。


 豊には全身汗みどろで登校する趣味はない。朝からシャワーを浴びる
習慣はないが、とにかく悪夢と一緒に汗の匂いを洗い流してしまいたいかった。
 替えの下着を用意するためクローゼットを開ける。
 しかしごく何気なく伸ばされた手に触れた布地の感触は、長年慣れ親しんだ
トランクスの持つ綿地のそれではなかった。
「……え? 」
 もっと柔らかく滑々としたそのもの、そこにあるはずのないもの、それは
豊の知識の中では女性が身に着けるべきもののはずだ。だから、
こんなところ、男子高校生である豊の衣装箪笥に納まっていることなど
有り得ない。有り得ないものが、現にそこにあった。
 少なくとも豊自身には自分の下着をそっくり女性ものに替えた憶えなど
ない。だからと言ってじゃあ誰が? 母親? それとも父親?
 馬鹿なことを考えて、と頭を一振りする。悪戯には度が過ぎるし、
それ以外でこんなことを豊にする理由など思い付かない。そして
そんな風にじゃれるには、親子は余りにも疎遠だ。
 ふっと豊は我に返る。なんでこんなことに考えを巡らせているんだろう?
本当なら「わっ」とか驚きの声のひとつもあげて、大慌てするくらいが
ちょうどいい状況なんだろうに。
 変に冷静になってしまい、慌てる機会を逸したな、と思った。しかし
とにかく困った状況であることには違いない。


 仕方ないか……。
 どうして自分のクローゼットに女性ものの下着が納まっているか、などと
言うことはさて置いて、早く支度をしなければ学校に遅れてしまう。
 下着の替えは母に言えばなんとかなるだろう。詮索はされるだろうが、
恐らく簡単に言い抜けることが出来るだろう自分達親子の冷めた関係を
今だけは少し感謝した。
 階下に降りようと扉に向き直ったところで、また奇妙な感覚が豊を襲った。
 奇妙な感覚が襲った、とは適切でないかもしれない。正確には本来感じるべき
感覚、股間に感じるはずの重み、男性器の感触が無いのだ。
「……な!? 」
 今度こそ、パニックだった。震える手で寝間着のズボンに、手をかける。
それは萎縮しているとかそういったレベルのものではなかった。
まるでそこに、なにもないのだ。いわば喪失感といったようなものが
股間を占めている。
 尻に引っ掛かって下がりにくい下着ごと、ズボンを降ろす。
 また、パニック。
 尻に引っ掛かる? 何故? そして、この手で引き下げた、この下着。
「なんで……女の子の……」
 自分が今まで履いていたもの、それは女性ものの下着だった。


 足から力が抜け、へたり込む。
 呆然と情報を整理出来ない脳に視界を通して入り込むのは、予想通りに
男性器を失った、股間。陰毛の向こうに刻まれた、襞の絡む縦筋。そして
それに絡む、パンツ……女性のもの。更にそれを守るように両脇にある、
丸みを帯び、筋肉に乏しい、太腿の光景だった。
「え? え? え? 何……コレ?」
 まだ、悪夢の中に居るのだろうか。恐ろしく現実感のない、いや
恐ろしすぎて現実だなどと認識しようもない、光景だった。
 自分の肉体が女性のものに変容している。
 だが、現実だった。事実だった。どんなに否定しようとも、これが
幻想でないことは、嫌というほど分かっている。嫌でしょうがなくとも、
分かってしまっている。
 視界が回り始めたような気がした。重い風邪にかかったときのように、
回転する世界、重力。唐突に食道を駆け上がる、吐き気。
 座ってさえいられず、膝を揃えたまま横ばいに倒れる。苦しさに
涙が目尻に浮かんだ。
「僕は……気が」
 狂った? 再び押し寄せた吐気の大波によって、口から漏れでようとした
言葉が中断される。
 そんなそんなそんなそんなそんな
「う……そ」
 ヒィヒィと、口だけでする呼吸音を漏らしながら、豊は腕を曲げる。
 手を押し付けるように触れた胸は……柔らかかった。
「……ッ!!!イヤだあァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!」
 涙とともに絶叫が迸った。




 もう何も考えられなかった。受け入れ難い現実に、ただ涙を流れるに
任せて、横になっていた。
 どれくらい時間が過ぎただろうか。
 階段を踏む足音が響いてきた。それは慌ただしく、駆け上がるといった
様子だった。音から窺える体重の軽さが、その人物が誰であるかを知らせる。
「豊!? 豊、どうしたの!? 」
 それは果たして母親だった。
 心配のほどを表わす乱暴さで、扉がノックされる。
「どうしたの!? 豊! ねえ、返事しなさい! 」
 そこで、豊は我に返る。この姿を見られるわけには行かない。母親に
余計な心労を掛けたくなかった。
「……なんでもないよ、なんでもないから」
 豊の声で、一応はノックが静まる。だが母親の心配が治まったわけではなかった。
「なんでもないことないでしょ! さっきの声は一体なんだったの、あんな
声出したことなかったじゃない! 」
 その言葉と同時に、ドアノブを捻るガチャガチャという音が聞こえる。
 駄目だ!
 力の抜けた体に鞭打って、内開きのドアに跳びかかろうとするが、間に合わない。
無情に扉が開かれていった。
「ああ……」
 せめて視線に触れる部分を少しでも隠そうと、身を縮こまらせる。
 室内に足を踏み入れた母親は、倒れている豊にすぐさま駆け寄った。
「どうしたの……一体……大丈夫? 」
 そう声をかけてから、室内を見渡す。


 とても、母親の顔など見られなかった。
「大丈夫だから、なんでもないから……」
 ぐずつく涙声でそれだけ繰り返すのが精一杯だ。
「だってあなた……どう見ても普通じゃないわよ」
 そう言って、豊の肩に手をかけ、顔を見ようとする母親。
 豊の体が、ビクリと震えた。ただそれだけの接触でも、華奢になった
肩の感触で肉体の変容を悟られるかも知れないと思った。
「やめてよ! 」
 叫んで母親の手を振り払う。だが、それが早まりであったことを
下に向けたままの視線に飛び入った光景で思い知らされた。
引き下げられたままのズボンからは、紛れもなく女性のものである股間が
覗いていたのだ。
「あ……! 」
 絶望的な心情で母親の顔を見上げる。母の視線は間違い無く、豊のその
部分に注がれていた。だが、その顔色を見て豊は違和感を憶えた。
 そこには落胆だとか悲しみといったような感情が窺えなかった。強いて
言うならば、ただのショック。我が子に手を上げられたことによる、それだけだ。
 続いて母親の口から出た言葉は、信じられないものだった。
「ご、ごめんなさい……急に触ったりして……ただ豊の様子がおかしかったから」
 え?
 有り得ない反応だと思った。息子の体が一晩のうちに女性へ変わったのを
知って言う言葉としては、余りに不自然だった。まさかよく見えなかったのだろうか?
 それならその方がいい。芝居をし通すことにした。
「ほ、本当になんでもないんだよ。ただゴキブリが出て……」
 我ながら苦しい言い訳だとは思ったが、途中で切るわけにはいかない。
「着替えの途中だったしボーッとしてたから、つい大声出して転んでみっともない
格好になってたのに母さんが来るもんだから、動転しちゃって……」
 ひどい嘘だな、と思った。こんなので騙される人、居るわけない。
「そ……そうなの? 」
 思った通り、母親の声音は不承不承といった感じだった。


 だが、どうでもここは誤魔化し切るしかない。
「ごめん、母さん、出てってくれる……? 汗かいてシャワー浴びたいから準備しなきゃ」
 言ってしまってから、しまった、と思った。シャワーを浴びるだけなら
このまま手ぶらで風呂場に行けばいいだけなのだ。母親を追い出す必要はない。
 次の言い訳を考えていると、母親は「あ、それじゃガスつけておくね」
とだけ言い残して部屋を出ていった。
 それはこの親子のいつものやりとりだった。豊が拒否したとき、母は
必要以上の慎重さで息子に立ち入ることを避けた。
 だが取り敢えず危機は去ったのだ。こんな格好で学校に行く気など
とても起きないし、その為の準備にシャワーを浴びて変わってしまった
体と直面させられることは気が重かったが、豊は一息安堵して一階へと
踏み出した。
 階段の段差を一足一足降りる度、焦燥が去っていき、代わって暗鬱に
気分が沈んでいく。これから僕はどうなるんだろう。
 誰が見ても女の子にしか見えない体を持った、男。そんな人生、
想像もしたことがなかった。
 これからは男として生きて行くんだろうか、女として生きて行くんだろうか。
いずれにしてもこれまでの豊の人生が粉々に壊れてしまうことだけは、
簡単に分かった。
 涙はさっきから流れ続けていた。目が痒くなるぐらい拭っても拭っても、
次々溢れ出して止まらない。両親に聞かれる恐怖から、嗚咽だけを
どうにか抑えこむ。
 死にたい、と初めて思った。


「母さん、替えの下着なかったから、新しいの洗濯機の上に置いておいてもらえますか? 」
 ほどなく母から返事が返る。普段の豊は母親をこんな風に使ったり決して
しなかったが、今服のまとめてある居間に行くわけにはいかない。
少々心苦しかったが、お願いすることにした。
 朝から疲れきった手で、寝間着のボタンを外していく。下からは
当然のようにブラジャーが出てきた。
 もう胸の感覚で分かっていたことだ。今更驚きはしない。何故こんなものを
つけているのか、という疑問も考えるのはやめてしまっていた。
 ただ、たとえ自分が身につけているものでも、やはり女性ものの下着に
手をつけることは躊躇われた。数瞬の逡巡のあと、下端に指をかけ万歳を
するようにして上半身から抜き取る。
 乳房を引っ張るような感じで上に上がったブラジャーが抜けたとき、胸が
少し揺れた。大きいのかどうかは分からない。しかし男性の体ではどこにもない、
お尻よりもまだ柔らかい肉の塊が二つ、自分の胸についているというのが
実感されるのは奇妙な気分だった。
 パンツを下ろすときはもっと要領を得なかった。くびれた腰と大きなお尻の
段差に引っ掛ったゴムを、限界まで広げるようにして頂きを通過させる。
 避けきれずお尻に当たった指から伝わる感触は、まるで座って押しつぶされたことが
ないように、柔らかかった。そして無駄に大きかった。お尻が感じた感触、
指に伝わった感触、その両方がとてつもなく醜いものに思える。
 お尻の下部まで下げて、洗濯物入れに若干寄り掛かるようにしてバランスを保ちながら、
片足ずつ抜き取っていく。
 裏返ったブラジャーとパンツは、まとめて折り重なった洗濯物の一番奥に
突っ込む。部屋で脱いでくれば良かったな、と少し後悔した。


 バスルームに入って、ノズルを捻る。ほどなくシャワーヘッドから
温水が迸った。
 熱い。でも、熱量を調節する気は湧かなかった。肌を焼く熱湯を
頭からかぶる。
 両手を髪の中に突っ込んで、掻き乱す。さらさらとして、一本一本の
細さを感じさせる髪質。こんなところまで変わってしまったのかと、
虚ろな笑いが零れた。
 閉じた目蓋を伝う水流が涙の筋を混じり合って、消していく。
 乳房を這った温水が、雫を作り、その雫がポトポトと下腹を打つ。
 シャンプーを取って、手にニ三回吹き掛け、そのままじっと見つめる。
 呆れるほど小さな手の平、細い指。ベチャ、と薬液を髪に擦り付けてから、
裏返した手の甲を見る。脂肪がついてないように、皺も寄らずすらりと伸びた
指。その先にちょこんとついた、貝殻の欠片のような爪。
 普通なら綺麗な手なんだろう、な。今はただおぞましいだけだった。
 乱暴に髪を掻いて、泡立てる。こんな髪、抜けてしまえばいいと思った。
 髪の毛を全部後ろに撫でつけて、洗顔剤を顔に塗っていく。こんなときでも
丁寧に普段通りの順番で体を洗って馬鹿みたいだな。自嘲の笑いが出るが、
シャワーに当たっている間は、現実に目を向けずにすむような幻想があった。
 シャンプーを綺麗に洗い流す。
 いよいよ、体を洗わなければならない。


 タオルにボディソープを吹きつけ、擦り込む。
 まずは腕からタオルを滑らせていく。
 首から上を洗っているときは気にならなかった、上腕に押しつぶされる
胸の感触。沈み込むような、弾き返すような、生まれて初めての感覚に
戸惑う。
 乳首がわずかにこすれた。ただそれだけのことで、じん、と打ち身のような
熱さを伴う痺れに似たものが、乳房から上半身に走った。
 それが恐くて、極力頂きには触れないよう、慎重に手を動かす。
 順番通りなら、次は胸と腹部を洗う番だ。
 意識が、胸の頂き、ぽつんと佇む乳首に集中する。それとともに
全身の血液がそこに集まっていくような気がした。
 鎖骨から、タオルで触れる。そこから、少しずつ下へ。
 撫でる以上の力を入れることが出来ない。ほんの少し乱暴に扱うだけで、
壊れてしまいそうな恐怖感があった。
 続いて乳房の下の付け根。少しずつ、少しずつ、頂きに向けタオルが
近寄っていく。
 どんな風に洗ったらいいか見当がつかない。どう触れてもまた、あの
感覚が襲ってくるような気がして仕方なかった。そのまま乳首を避けて
周りを撫で続けていると、乳房が熱を持ってきた。
 うかされたように、頭がぼうっとしてくる。バスルームの熱気に当てられただけ
ではないことは分かっている。結局、乳首だけ洗わずに、腹に移った。
 腹筋が無いのではないかと思える、腹だった。全身どこもかしこも、贅肉の
膜に覆われている。それを苛めるようにゴシゴシとこすった。
 下半身は、陰部を除いて毛が無かった。元々無毛に近い豊ではあったが、
産毛の存在すら窺えない足は、やはり女性のものでしか有り得ないと思った。


 左手にタオルを持ち替え、泡を陰毛に立てる。それすらも今は女性の
肉体の一部であることが異常に意識されて、気恥ずかしさが襲った。
 裂け目の、上辺りに位置するクリトリスは包皮に隠されていて、ペニスが
そのまま萎縮したような形だった。自分の男性自身の象徴であったペニスの
縮小が、脳内で現在の境遇とリンクし、止まっていた涙が情けなさにまた
溢れだす。
 包皮を剥き、内部の淫核に泡のついた手で触れる。きん、といった感じの
金属質な尖った刺激が走ったが、それ自体は亀頭に触れたときの感覚と
似通っていて、大して戸惑わずにすんだ。ああ、乳首もこんな風にすればいいな、と考える。
 更にその下の裂け目。中まで洗ったほうが良いようには思えたが、
体内にたとえ自分の指といえど挿入する勇気は出なかった。仕方なく上面を
こするだけに留める。
 後は大して気にかけるような部位は残っていない。息をついて、残った
部分をゴシゴシとこすっていく。太腿、すね、足の先、ぐにゃぐにゃとした
感触が気持ち悪く、また、自分の体を洗っているのではないような気分になりながら、
最後に背中を洗って、温水で泡を全て流す。
 単純作業に移ると、頭の中にあったわだかまりが、甦ってくる。
 さっきの母の表情。


 小柄とはいえ、剣道を熱心に修めてきた以前の豊の肉体は相応に引き締まっていた。
 にも関わらず、肩を掴まれても気付かれなかったなどということが、果たして
あるだろうか。この華奢で弱々しい体で。
 それにあの視線。さっきは見られなかったなどと楽観的に結論づけたが、
今思い返せば、豊の股間は確かに朝の陽光の中、浮かび上がっていたのだ。
 青年としてあるべき一定のサイズのものが、どこにも見当たらない陰部。
それを母は確かに目撃したはずである。あのとき見上げた母の顔は、確実に
豊のその部分に向けられていたのだ。
 衣装の問題だけなら、万一には母の衝動的な悪戯であるということも、あるいは
あったかも知れない。だが、自分が身に着けていた分は? 
 そして何より、息子が女性に変身しているのを知っていながらの、あの
小さすぎる反応。
 それらを結びつけて、豊は考えてはいけない結論を得てしまっていた。
 ……もし、この戸を開けて。その先の洗濯機に、豊の考えを裏付けるものが
乗っていたら。今度こそ、発狂するかも知れない。いや、既に発狂しているのかも。
 泡は完全に洗い流された。向き直った先に在る、戸。
 この狭いバスルームから、豊の新しい、忌むべき人生に繋がっているかも知れない、戸。
 足が竦む。下半身の痙攣は、すぐに全身をガタガタと奮わせ始めた。
 声なき声が、脳を巡り、口を暴れまわり、全身を侵していく。
 イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ
 右手が、戸にかけられた。


 朝日に照らされた、洗面室。
 少しずつ開けていく、戸の先の世界。
 真っ直ぐ、バスルームの扉に相対する位置にある洗濯機の、上。
 母が、自分のために、自分の着替えのために用意した、下着。
 きちんと畳まれたそれは、

 ブラジャーと、パンツ……女性ものだった。

 母は、自分を、「娘」として認識している。
 ペニスの無い股間に驚くはずがない。娘だと思っていたのだから。

 間違っているのは、自分なのか。女性の体に、女性の服、娘という認識。
 自分が、自身を男であると思い込んでいるだけなのか。
 世界は全く正常で、自分は完全に気でも狂ったのか。
 この、記憶も? ただの思い込みなどと、思えなかった。
 両親と過ごしてきた生活、学校での自分、ライバルと競い合った剣の道。
 それら全ての光景に鮮烈なまでに刻み込まれている自分の姿は、間違い無く
男性のものだった。思い込みなど、有り得ない。
「……あっ……!! 」
 絶叫の迸りそうになった口を、抑える。また、世界が、重力が、回り始めた。
宇宙空間に放り出されたような、不安定な感覚。止めど無く溢れる涙。
 ゴボッ
 嘔吐感がこみ上げたと、思う間もなく、指の間から吐瀉物が噴出す。
「うぅっぐっうっうげっげっえっへっぐ……」
 胃の内容物が次々吐き出されていった。それら全てが出尽しても、
嘔吐感はまるで治まってくれなかった。
「……助けて、助けて……母さん……英……光」
 膝をつき、自らのへどろの海に突っ伏す。
 意識が急速に遠のいていった。




 二日が過ぎた。
 吐瀉物にまみれて洗面場の床に倒れていた豊が発見されたのは、
あれから大体十分後ほどのことらしかった。
 ガスが止まってからの余りに長い着替えを不審に思った母が、洗面場を
覗いて、気絶した豊を見つけたというわけだ。
 目が醒めた豊はすぐに病院へと連れられた。何一つ異常は発見されず、
ひとまず胸を撫で下ろした様子の母だったが、それからは何事か悩みが
あるのではないかと、しきりに気を揉んでいて、繰り返し詮索された。女性の
体に変わったことがショックだったなどと、「娘」の口から言えるわけもなかったが。
 そうして結局、学校に行く気力の萎え果てた豊は、その後の二日、自室で
安静に過ごしたというわけだ。
 長く触れ合いを欠いた親子関係を続けてきた豊には、その二日間の母の
かいがいしい看病が、面映くもあり、なんだか不思議な気分でもあった。
 そして、夢を見た。


 茜射す、夕暮れの薄暗い部屋。
 中心に据えられた食卓に、突っ伏した女性が、声もなく泣いていた。
 学校から帰ったばかりの少年は、貰い泣きのように顔を歪めて立ち尽す。
 それは毎日繰り返される光景だった。
 泣いているのは少年にとってこの世で最も大切な存在、母親。
 父がもう帰っては来ないと息子に告げたその日から、母は母であることを
やめてしまっていた。ただ父の名前を呟き、泣いてばかり居た。
 優しい少年は、母の涙を止めたいと願った。
 母の瞳から零れた涙の雫一滴一滴がテーブルを打つたび、胸が締めつけられて
苦しかった。
 だが少年は、彼女の頭を掻き抱いてやるための背丈すら、持ち合わせては
いないのだ。自身の無力に、ただ歯噛みした。
 だから、決意したのだ。
 この人の涙を、自分が絶対に止めると。
 立派になって、強くなって、この人を守ると。


 目が、醒めた。
「ここまでなら悪くないのに……な」
 呟き、苦笑する。
 余りにも幼稚な、それだけにひたむきな、切ない昔の自分。
 8歳のころの記憶だったろうか。
 ここ二日の母との触れ合いが、深いところにあって普段は中々顔を
出さない記憶を呼び起こしたのかも知れなかった。
 「さて……と」
 胸元に目を向ければ、やはりそこは隆起している。何としても醒めては
くれない悪夢だった。
 例えば自分が正気を失っているのだとしても、そしてその結果の世界なのだとしても、
自分が今ここに居るという状況には些かの変化もない。逃れたとすれば……
それは自らの命を絶つという手段によって行えたとして、しかし、
その時の母の心境を思えば、およそ取り得ない方法だった。すなわち
逃れ得ないのならば、向き合うしかない。豊は今までもずっとそうして生きて
来たのだ。
 クローゼットの前に立つ。忌まわしい朝の発端だった、クローゼット。
 今は、向き直ろうとする決意があった。だから、平気だ。
 大きく両開きに引き開ける。ブラジャーとパンティーを取り出す。
 あくまで淡々と、女性の装いを始める。下着の着け方はこの二日で
練習していた。何の感慨も持たないよう、努める。女性として生きるには
絶対に必要なことなのだから。
 制服は机の脇の大きめな小物入れの上に、きれいに畳まれている。
学校指定のセーラー服だ。何度も手に取ってはみたが、袖を通すまでは
行かなかった。少しだけ、気合を入れなおす必要があるかも知れない。


 まずスカートを持つ。腰まで通して、腰骨にかけるようにして引き締め、フックを止める。
 膝下10センチ、今時としては少々大人しすぎるきらいがあるかも知れないが、
股間を覆い隠すためのものでありながら、真下に死角が存在するこの
着物は、ズボン以外に履いた経験のない豊にしてみれば欠陥品とも感じられて、
表面的にはしっかりとその機能を果たしているように見えながら、同時に
何も履かないでいるような不安を覚える。
 次はセーラーだ。襟を若干持ち上げ、リボンを通していく。
 結び方については至極難儀だった。
 女生徒の服装など観察したことはもちろんなく、当然リボンの結びなど
知るわけがない。
 それでもブラジャー同様、この二日の間に、布団の上に置いて何度も
シミュレーションを繰り返し、一応それらしく見えるようにはなった。本職に
見られたら、やはりどこか不自然かもしれないが。
 着終わってみると、厚いとも丈が長いとも言えないセーラーを盛り上げる
胸、かすかに透けて見えるブラの紐、ある意味で下着だけの状態同然の
下半身など、やはり全てが具合悪く思える服装だった。女性にスカートや
セーラーを着せようなんて考えた奴を殺してやりたいと思う。
 だがどうあれ、この格好以外では通学出来ないのだ。余り長く学校を
休むと学業にも支障が出るし、何よりもどんな理由があっても母にこれ以上
心配をかけたくなかった。
 溜息をついて、ドアノブを捻る。階段の脇の姿見のことが思い浮かんだが、
この格好を確認のためとは言え、全身眺めて見る気にはなれない。
 何か不審な点があれば、母が注意してくれるだろうと考え、階下に降りた。


「おはようございます」
 居間では義父が朝のテレビニュースを眺めていた。
「豊ちゃん……大丈夫なのか? 」
 二日ぶりに見る義父は、心底からと思える心配顔を見せる。
「ご心配お掛けしてすみません、見た通りなんともありませんから」
 無理して笑顔を作ってみせ、『豊ちゃん』なんだな、と思いながら席につく。
「本当に? 豊ちゃん、今まで倒れたりしたことないだろ。やっぱりどこか悪いんじゃ……」
「心配性だな、医者がなんともないって言うんだから大丈夫ですよ、きっと」
「……無理してないかい? 」
「顔色、悪いですか? 」
「いや、それはないけど……」
「じゃ、心配しないで。本人が一番体のこと分かってるんですから」
 そう言って、話を打ちきる。豊が会話の継続を望んでいないことを知ったか、
義父も口をつぐむ。
 この義父も母同様、普段余り豊に構ったりはしない人だから、その心配の
ほどが知れたような気がした。
 ……真面目でいい人なのは分かってるんだけどな……。
 そう心の中でひとりごち、テレビニュースに目を向ける。交通事故情報、
美術館強盗の逮捕、殺人事件の裁判などキャスターの口から語られる
ニュースは、断片的になって意識の表層をかすめるだけで、理解という
形で脳内に入っては来ない。豊の身の上に起きたこと以上の事件など
豊個人にとって有り得ないのだから、当たり前だ。


 居間での会話を聞き付けてか、母が食堂から姿を現した。
「豊、念を押すけど、大丈夫なの? 」
「も、何度言わせるのさ。病人の顔に見える? 学校だってそうそう休んで
られないよ」
 両親の視線が、ジッと注がれているのが分かる。どれだけ心配して
くれたかが分かるから、それが痛い。
 不承不承の態で母が言う。
「それは、そうでしょうけど、体には代えられないわ」
 異常があるのは体じゃなくて、心なんだよ。
 自嘲混じりに呟きそうになり、口をつぐむ。そんなこと言ってなんになる。
本当に病んでる、な。
「休んでも、誰も何も言わないからね。苦しかったら言いなさい」
 そうだけ言うと、母は食堂に取って返した。義父も顔だけテレビに向けるが、
ちらちらと豊の顔を窺っている。
 朝食はひどく気が滅入るものになった。
 両親とも、箸を進めるのもそこそこにジッと豊の顔を見つめるのだ。
「早く食べないと冷めるよ……」
 そう言われると少しだけおかずに手をつけるが、大した間もおかず
元の木阿弥となる。豊はもう何か言うのを諦め、食事に専念することにした。
 本当のところ、胸が一杯で味も良く分からないのだが、だからといって
食事を途中で打ち切れば、心配の種を与えることになる。食べられなくても、
胃に詰め込まなければいけなかった。
 どの程度食べればいいのか見当がつかない。今の彼女達の記憶にある、
女の子の『豊』はどの程度食べていたのだろうか。それが分からない以上、
男であったときに近い量を胃に入れるしかない。苦しくて吐きそうになる。
「今日は随分……食べるわね……」
 しまった。やはり女の子である『豊』は、相応の食事量らしかった。
これでは無理して食べることで、元気を装おうとしていると思われてしまいそうだ。
 もっとも、そう大差ないが。
「ん……最近あんまり食べてなかったから、お腹減っちゃった」
 青色吐息で言うことではない。居たたまれなくなり、席を立つ。


 げっぷが出そうになりながら、洗面場に向かう。背中には相変わらず視線が
刺さっているのを感じる。
 これではますます、元気に振舞ってみせなければならない。そうしなければ
この人達は心労で倒れてしまうんじゃないかと、冗談でなく思った。
 洗面場の鏡に、顔を映す。顔のパーツそのものに、そう大した変化は
現れていないようだった。元々が女顔だったためだろう。お陰でここでは
違和感を覚えずにすむ。
 だが、この髪。
 長さ、ヘアースタイルなどは変わりないようだったが、髪質は大きく変化していた。
 サラサラと、細く滑らかで、黒絵の具一色で染め上げたような、混じりけのない
綺麗な黒髪。
 顔、髪、胸、手、すべらかで細く、適度に丸みを帯びた足。
 手前味噌でなく、今の自分が非の打ち所のない美少女と言える体になっていることが、
思い知らされる。まるで、何かの作為が働いたかのように。
 そうしたら、顔は動かす必要のないパーツだったってことかな?
 自嘲の笑みが零れる。少年の中で、『女』というものが忌むべき存在に
なり始めていた。
 乱暴にブラッシングしていく。みっともなくないよう、しかし、出来るだけ
女として人目を惹かないような容姿に。だがそれがとても難しい努力であると
知るのに、そう時間はかからなかった。眼鏡が、欲しい。
「じゃあ行って来ます」
 鞄を手に持って、居間の両親に声をかける。と、ともに母が見送りに出て来た。
これとてついぞ無かったことだ。そして彼女の心配が大きければ大きいほどに、
豊は自分自身を追い詰めて行くしかないのだ。
「行ってらっしゃい」
 それだけだった。だがその目はきっと、口以上にものを語っているのだろう。
 豊に、それを見る勇気はない。振り返らず家を出た。
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