大変にお久しぶりです。
クリスマス物でひとつ書いたので投下します。


 日付:12月23日
 時刻:午後4時28分
 天候:晴れ
 気温:9℃
 積雪:15cm

 昨晩から今朝にかけて降り積もった雪が道という道に人類への挑戦のように摩擦係数を
軽減させる罠を張り、徒歩やその他移動手段による迅速かつ円滑な移動を阻害していた。
 上り下り無数にある先人の足跡をなぞりながら、油断すれば即転倒という惨事に繋がる
地雷原のような道を男二人──田布施直哉(たぶせなおや)と吉川稔(よしかわみのる)は
連れ立って、寒さで凍えた口よりも、潤滑油が切れたロボットのようにぎこちない足を動かし
て大学からの帰路についていた。
 ザクザクと雪面に残る足あと以外のところを踏むのは、一歩一歩バランスをとりながら進む
ことによって削られる精神への配慮だ。足首の深さまである積雪を踏み抜く爽快感程度では
劇的な効果はのぞめないが、均衡させるくらいの役にはたっていた。
 遥か西を仰げば、今まさにビル群の谷間に没しようとする太陽の姿があった。しかし暖色
であるそれも地球の表面に熱伝導を阻害するフィルターでもかかっているのか、凍てついた
空気を暖めたり積もった雪を溶かすほどの熱量はない。
「寒い。死ぬほど寒い。絶対あの太陽、中に電球が入ってるだけのハリボテだろ」
 家々の隙間をぬうように吹き寄せてきた風を受けて、たまらず背の高いほうの男、直哉が口を開いた。
「言わなくてもわかる」
 もうひとりの背の低いほうの男、稔によって会話は途切れさせられた。現在ふたりの脳の働きは、
大気中に遍満する冷気が耳から頭の中にまで入り込んで凍らせてしまったかのように鈍っていた。
気の利いた言葉を出すためには余裕が必要だ。そのためには現状、脳の解凍という工程を経なければ
ならないが、しかし解凍するにもまた余裕という要素がいるのだった。完。
 ざく。
 ざく。
 ざく。
 足音が、断絶した会話の代わりとばかりに積み重なる。
「そうは言っても、現状を言葉で素直に率直に表現するのはいいことだとオレは思う」
「直哉がそう思うならそれでいい。でもボクに押し付けないで。せっかく人が気にしないようにして
いたことを思い出させて。もう黙ってよ」
 心頭滅却すれば雪もまた温しと、寒さを意識から追い出すことでどうにか防寒していた稔の努力は
直哉によって無残にも崩されてしまった。逃避の手段にもなる携帯いじりを手を出すことによって生じる
デメリットを考慮してやめ、けなげにも暗示をかけるように行ったことのない南国の風景を頭の中に展開
していた稔とって、直哉の無用心な一言は逆鱗に等しかった。
「この機会だから言う。前々から思っていたけど直哉は軽率な発言とか行動が多い。この前もゼミの先生の
カツラをはたき落としたり、眉間のホクロを押してみたり、加齢臭を指摘したり……。そんなことだからレポート
枚数を10倍に増やされたあげく、学校から厳重注意受けたりするんだ。いい加減、迂闊で生きるのをやめてくれない?」
 だから腹いせに逆襲する。直哉は身を切る寒さよりも切れ味の鋭い言葉の刃にさらされ、なます斬りにされた。
心にも血が通っていたなら、全身が自分の血しぶきで真っ赤に染まっていたことだろう。
 またしばらく──直哉の心が回復するまでの間、無言と無言の隙間に雪を踏みしめる音だけが無機質に響く。



「そういや、稔には明日のクリスマスってなんか予定ある?」
「…………ない」
 向けられた質問を振り払うかのように稔は無愛想を貼り付けた顔をぷいと横にそむけた。
少し言いよどんだのは、当該日のまっさらな予定表に虚偽と虚飾で彩られた架空の予定を
書き込むか迷ったせいだ。
 日本における数少ない一大イベントであるクリスマス・イヴは明日に迫っている。しかしながら
稔に予定はなかった。予定がないということはパートナーがいないということだ。三段論法的思考
によって導き出された寂しいクリスマスになりそうな予感に、稔は盛大な溜息をついた。
「せめて付き合っている人がいたらまた違ったんだろうけど」
 隣にいるのが自分より背の高い男性ではなく、自分よりも背の低い女性ならと夢想して──むなしく
なって打ち切った。稔にも女性の友人がいることはいる。しかし彼氏彼女の関係にまで発展はして
いなかった。現実はいつも理想を阻む。夢はかなわないから夢と言ったのは誰だっただろうか。夢は夢。
現実は現実。夢はいつも見えるところにあるが、両者が交わることは決してない。
 ざく。ざく。ざく。
 ざく。ざく。
 ざく。
「──お、あそこなんかないか?」
 直哉が何かに気づいたのは、そろそろ何かしらのギャグを飛ばして会話の活性化を図ろうと構えていた
ときのことだった。足を止め、右方を指差す。
 空き地があった。いずれそこにビルかマンションが建つ予定があるのか、四角く広い敷地は綺麗に
整地されている。しかしまだ機材も資材もなく、立ち入り禁止のプレートのかかったロープで隔てられた
ただの四角い土地でしかない。住居ひしめきあう住宅街のなかにあって、公園のように密度の緩衝地帯
であろうとするかのような空白、そのど真ん中に直哉が見つけたものはあった。
 赤。
 一辺が20メートルはある白い四角の中心が、ぽつんと赤い点によってワンポイントの効果で強調されていた。
彼我の距離はおよそ10メートル。ふたりとも決して目が悪いわけではなかったが、それが何であるかは判断がつかなかった。
 興味を引かれたふたりは誰も踏み入れたことのないことを証明する足跡をつけながら赤に接近する。
「本当に歌のとおりあわてんぼうだったとはな。そんなに早くオレの家に来たかのか、感心感心」
「なんでそう都合よく解釈するんだろうね。もっと現実を直視したら?」
 サンタクロースがいた。
 もっと正確には『サンタクロースのようなもの』だが。なにしろこんな住宅街のど真ん中だ。様々なファッション
あふれる街中ならともかく、人気もまばらな住宅街にいては不審者以外の何者でもない。
 直哉は無用心に、稔はいつでも110番できるように携帯を握り締め、サンタクロースのようなものをひとりは大胆に、
ひとりは慎重に確認していく。
 サンタもどきは真っ赤な暖かそうな生地に白のモコモコ素材で縁取られた服を全身にまとい、
同様の配色の帽子までもかぶり、さらに白い袋を肩に担いでいた。色彩といい服装といい小物といい、
世界的に有名なある炭酸飲料メーカーの宣伝で広まったといわれるあのサンタクロースの姿以外に例えようがなかった。



 改めて二人は状況を確認する。サンタ(仮)は雪で覆われた空き地の中央にうつ伏せで倒れていた。
白の中の赤はよく映える。たとえ二人が見過ごしたとしても、他の通りかかった人がしかるべきところに通報したことだろう。
「白い四角の中央に赤い点、ね……」
 そう直哉がつぶやくのを聞いて稔はカキ氷のイチゴ味や日の丸弁当を連想したが、言った本人はまったく
別のことを思い浮かべていた。
「これは……密室殺人だ!」
 サンタは空き地の対角線の交点上に倒れている。しかしその周囲に足あとはない。足あとをつけずにここで
犯行におよぶ、もしくは犯行後ここに運んだのだとすれば、雪が降り始めた昨日かそれ以前に行われたことになる。
なぜなら今日は新たに雪が降っていないからだ。しかし矛盾がおこる。往路、直哉の記憶が確かならばここには
誰もいなかった。つまり昨日より前に事件を起こしようがないのだ。そうなると朝から夕方にかけて犯行はなされ、
この空き地から犯人は足あともつけずに立ち去ったことになる。オープンスペースでありながら、実質には閉じられた空間での殺人事件。
「これはすっげえ難事件だ。だがオレは必ず解決してみせる。田布施雄一(ジッチャン)の名にかけて!」
「また勝手に呼吸しているのを無視する。それに誰かも知らないジッチャンとかいいから」
 うつ伏せのまま、サンタらしきものの丸い背中は規則正しい間隔で上下していた。様子から死んでもなければ
呼吸器障害も起こしていないことがわかる。こんな場所でなければ昼寝をしているとみなすことができるほど安らかだった。
「なんだ、生きてたのか……。となると、うつ伏せのままだと窒息しそうでやばそうだから仰向けにしとくか?」
「普通は横向き。最近免許取ったんじゃなかった?」
 応急救護の観念を破壊せんばかりに足で体勢を変えようとする直哉を制して、稔はちゃんと手を使って横向きにする。
稔の知識の裏づけとなる自動車教習所の応急救護用人形は何回か臨終を迎えることになったが、今回は蘇生をするわけではない。
 ごろんとでっぷり太った体が横になり、埋まっていたサンタ(?)の顔が二人にお目見えした。
「このじいさんの苗字、黒須じゃないか? フルネームだと黒須三太」
「……ボクもそんな気がしてきた」
 老人だった。ここまでは両者の想像通りだったが、そこからが予想を上回っていた。老人は鼻が大きく
肌が白の下地の赤ら顔というところから鑑みるに外人である公算が高い。うつぶせでいたためにか雪の色が
写ったかのような白いヒゲが顔の下半分を覆い、同じ色の眉毛はまぶたを隠すほど垂れ下がり、
帽子からはみ出るほど長くもじゃもじゃした髪も同じく白。それらの配置が絶妙なまでにサンタクロースに酷似していた。
いや、服装・体型・容貌のどれをとっても、これはサンタクロース以外にありえない。ふたりともどうせどこかの
オッサンが戯れにか本気にかで似合わないコスプレをしているのだろうと思っていただけに、このサプライズは直哉の心を大いに動かした。
「直哉、どうする? とりあえず救急車を呼ぶべきだとは思うけど」
 どうすると聞かれ、直哉は損得勘定に特化した打算計算機を働かせる。

 助けない→(サンタ+凍死)=遺棄罪容疑者
 助ける →(サンタ+お礼)=プレゼント

 一瞬で演算を終え、直哉脳内議会は満場一致で助けることを採決した。人道を叫ぶ昨今、国際的にもちょうどいいと建前もつけて。



「んじゃ、オレん家に運ぶか」
「ボクの話聞いてなかった? まずは救急車だと思うんだけど」
「家まで運んで介抱したら感謝感激雨アラレされてなんかお礼がもらえるかもしれない! サンタからのお礼だからなー、
きっとすっげえプレゼントだと思うぞ」
 紛れもない本音だった。しかし面倒ごとに関わりたくない稔は反駁する。ここまでサンタにそっくりだと逆に薄気味が悪い。
「救急車呼んでももらえると思う。というかボクとしては早く救急車を呼んで手を切りたい。それにもし目に見えない重い病気
だったりしたら手に負えないし」
「感謝の度合いが変わるだろ。運んだやつより治療してくれた医者のほうに感謝の気持ちが間違いなく傾く。
それではお礼が少なくなる! 別に病気にも見えないしそっちのほうがお徳だ」
「……呼ばなかったことで怒られてもボクは知らない。それが下心ならなおさらだ」
「善意ある下心と言ってくれ。ボランティアにしても、あれは奉仕活動であって無料奉仕じゃない。善意にも相応の対価がいるんだよ!」
「…………」
 稔はこれ以上の反論は無駄だと悟る。力説する直哉の中ではサンタを家に運ぶことを結論として話が進められている。
自分とは反対の意見を持つ結論ありきの人と議論することほど不毛なものはない。皮算用で前が見えなくなっている
のであればなおさらだ。
 言いだしっぺで体格の勝っている直哉がサンタを背負い、それを稔がサポートする。
「さすが……肉とワインで……育った……やつは……違うな……」
「この袋は軽いよ。なにか入ってるようだけど」
 白い袋にはよくプレゼントであるような箱状の物体は入っていないようだった。なにかが入っていることは確かだが、
大勢いる子供たちに配るようなプレゼントが収められているとは考えられない重さと密度だ。骨粗鬆症な袋かよ、
密度の高いサンタとは大違いだと直哉はぼやきに大量の怨嗟を含ませていながらもサンタを放り出そうとしない。
苦労しているぶん、お礼への期待が高まっているようだ。もはや意地で運搬する直哉を稔はある意味すごいと呆れ半分、
感嘆半分な心持ちで眺めていた。
 空き地から目的地であるアパートまでおよそ100歩だが、直哉は500歩分ほど歩くことになった。雪に足を取られ、
滑りそうになること実に20回。部屋が二階の、それも一番遠い角にあることを呪いながら直哉は玄関に倒れる。
「ぜえ……ぜえ……もう……ぜったい……こんな日に……サンタは……っていうか……人は……運ばない……」
「安心していいよ。こんな大雪の日にそんな機会はもうないから」
 稔のにべもない冷たさは外気温以下だった。

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 布団で眠るサンタクロース。似合わないかと思いきや、意外と馴染んでいた。稔は和室だったらさぞかし
不気味なんだろうなと考えながら、膨らんだお腹によってなだらかな山になった布団の稜線を眺めていた。
 中央にサンタを寝かせた布団があり、その両サイドに二人が座っていた。直哉の部屋はフローリングで
5畳の広さしかなく、3人がいるだけで身動きが取れなくなる。それでも夏場でなかったのは幸運だった。
病人を巻き込んでのガマン大会など好き好んでやりたいとは思わない。
「こういうことを見越してもっと広い部屋に引っ越す気はない?」
「そんな気は1ミクロンとてないな。今以上の家賃は出せん」
 エアコンが存在するだけ奇跡のこのアパートでは贅沢は敵であり、さらには上にヒルズを見るくらいなら
下にダンボールを見ろという人生訓をも教えてくれる。希望する条件をすべて満たすアパートを大学入学の
1年前から探していたという話を稔は何度も聞かされていた。
「起きないな。あわてんぼうの上に寝ぼすけか」
 家に運んでから1時間が経つ。しかしサンタは目を覚まさない。「まだクリスマス・イヴ1日前だから、
当日にならないと動けないんだよ」と直哉のさも自動ロボットであるかのようなサンタクロース概念を
稔は「はいはいなんだってなんだって」と適当に聞き流しながら、目覚めるのを待っていた。
「わかったぞ!」
 さらに30分ほど経過したとき、唐突に直哉が口を開いた。
「なにが?」
「あの事件だよ。何故このサンタは四角い密室の中心にいたのか。稔、どうやって移動したんだと思う?」
「……さあね」
 そんなことはどうでもいいとばかりにあっさり考えることを放棄した稔に、直哉は人差し指を突きつける。
「しかしオレはそのトリックを暴いた。ひとつのことに気づけば簡単だった。キーワードはサンタ。これですべて説明できる」
「どうやって?」
「簡単だ。サンタはこの街にソリに乗ってやってきた。しかし何者かに襲われたか振り落とされたかで、偶然あの空き地の
中央に落ちた。ソリは宙に浮いているから足あとは残らない。どうだ、完璧だろ?」
「……誰も考え付かないような革新的で奇想天外で常識を覆すようなトリックだから、ミステリー小説にでも応募したらどう?」
「今から受賞の言葉でも考えておくか」
 サンタがトリックの鍵。誰も解けないし、それじゃあ不条理ギャグ小説だと稔はひとりごちた。皮肉を善意の言葉に受け取って
携帯のメモ帳に打ち込んでいる受賞の言葉は無駄になるだろうなと呆れつつ。



 サンタは目を覚まさない。
 まぶたは完全接着してノンレム睡眠の兆候も見られない。深い深い眠りだ。無理に起こすわけにもいかず
レム睡眠に切り替わるのを待っているが、周期を無視するかのようにもう数時間文字通り微動だにしなかった。
大きな腹以外は。
「もしこのじいさんがサンタクロースだったら、なにをお願いしようか」
 暇つぶし用の話題は次々シフトする。病人と思われる人の真上で声をひそめるでもなくいたってノーマルな音量で
取り留めのない話をして時間を消化する。はじめこそ気を遣って小声での会話だったが、時間の経過とともに遠慮は
なくなっていた。
「お金か物品かそういう方向で。物はお金で買えるし、やっぱりお金かな。……叶うならの話だけど」
 叶うと思ってはいないが、万が一叶うとするなら常に金欠気味である稔には結構切実な願いだった。
具体的であり現実的でもある。欲しかった靴が買える、欲しかった服も買える。貯蓄という選択はなかった。
「オレは金よりも断然彼女が欲しい! とりあえずはクリスマスを一緒に過ごす彼女!」
 一方の直哉の願い事は具体的ではあったが夢想的なものだった。
「もし叶ったら人身売買一歩手前ということをお忘れなく」
 稔の現実的なツッコミも、もしかするとサンタの持つ絶大な魔力で異次元のかなたから女の子が召喚される
かもしれない、といつになくテンションを上げる直哉には届かない。
「み、な、ぎ、っ、て、き、た!!」
「かたや徹夜できそうなくらいテンションが高いのに、かたやこっちは身じろぎさえしないね。まあバランスが取れて
いるといえなくもないけどさ」
「まったくだ。老人だからといって動かないでいると、失速して奈落まで落ちるのにな。適度な刺激が長生きの秘訣だって
ジッチャンが言ってたな」
 サンタは一向に目を覚まさなかった。
 宵を過ぎ夜が更けても、ぴくりとも動かない。ただ眠り続けていた。すぐ隣で直哉手作りのナポリタンを二人して食べていても、
反応がなかった。
 やっぱり救急車を呼んだらという選択肢は、せっかくここまで運んで介抱したんだからという稔の変な意地と
直哉のプレゼントへの下心でお流れになった。眠っているだけで特に命に別状がありそうな様子でもない。病気の心配も、
いまのところ異変もないところをみるに、なさそうだ。だとすればできることは様子見だけだった。
「明日になったら起きてるだろ。時限式だから」
「はいはい。──それより、また雪降ってる?」
 外ではまた雪が降っていた。降雪というよりは吹雪に近い。この勢いなら今日一日かけて車や人間で削った路面の雪も、
朝になれば元通り修復されていることだろう。時折強い風が吹いて直哉の部屋のガラス戸をたわませるほどに震わせた。
いや、このアパート自体も揺れている。地震が起きているような規模で。
「このアパート、壊れたりとかは?」
「ケセラ・セラ」
 なおもガラス戸は周期的に動物が突進してぶつかっているような音を立てる。
 築25年を数える古びたアパートVS冬将軍。
 防衛戦は深夜まで続き、かろうじてアパートが防衛に成功し、無敗記録を更新した。

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 底冷えのする冬の冷気が家の中まで侵入していた。完全密封しきれない部屋に冷やされた空気が、
無数にある建築士の想定していなかった空気穴から流れ込んでくる。室内であるにもかかわらず外気温と
さほど変わらず、吐く息は白い。
 昨晩病人を気遣ってエアコンをつけていたが、タイマーが切れた今となっては無言の通風孔から間違って
冷風が吐き出されているのではと訝ってしまう。のそのそと起きだした直哉はとりあえず暖房を入れると、
温風が部屋を暖めるまでその場でぼーっと何をするでもなく待っていた。
「あれ? なんでオレ布団で寝てないんだっけ……? ……おっと、そういえばサンタを拾っていたんだった!」
 眠気は一瞬で吹き飛び、興味の対象を見つけた子供のように嬉々として振り返ると──
「あるぇー?」
 部屋中央の布団には誰も寝ていなかった。昨日までそこにいたサンタが煙のように消えている。
 トイレ──いない。
 玄関──脱がせたはずのサンタブーツがない。
 布団を探ってみる──冷たい。
 つい今まで人がいた形跡ではない。体温のなごりはかけらもなく、密度ある体重で変形した敷布団のへこみも
掛け布団のふくらみも、もうわずかに残るばかりだ。
「そうか、仕事があるもんな」
 きっと準備で忙しいんだと自分の都合のいい解釈をしてサンタがいなくなった理由を片付けた。
「さてと、プレゼントは、っと」
 布団をあさる──ない。
 台所──ない。
 洗濯物の靴下の中──ない。
「おい稔、大変だ!」
 大変と言いつつも、直哉には緊迫感が欠如していた。サンタがいなくなったことは、直哉の中で別段深刻なこと
ではなかったが、寝起きの悪い稔を起こすにはそれなりの理由がいる。プレゼントがなかった──直哉からすれば
一応は一大事だ。
「うる……さい……」
 怨嗟の唸りを吐く稔の姿は無念の死を遂げ眠りをさまたげられた亡霊のようだ。体を起こすスピードも老人的で、
ゾンビにも似ていた。半開きにも満たないまぶたの隙間からは、おそらくなにも見えていない。うつむいていた顔が正面を向き、
直哉のもとにあらわになる。
「──どちらさん?」
 直哉は疑問に思う間もなく問いかけていた。
 今起き上がったのは稔ではなく──女性だった。昨日から今日にかけての記憶をたどるも該当する人物に思い至らず、
連れ込んでいないと結論づけた。そもそもこの部屋は定員3名だ。自分に稔にサンタ。これで限界値だった。サンタは
いなくなっているが、新たな人員──しかも女性を自室に呼び込む機会も動機も余裕も人脈もない。ならばここにいるのは
一体誰だというのだろうか。



「誰、って……。ボクだ……よし、かわ……みの、る」
 女性は不機嫌そうにぼそぼそとわけのわからないことを言った。自分は吉川稔である。
たしかに彼女が着ていた服は、昨日稔が着ていたものと同じだった。冗談にしては手が込んでいる。
「ああ、女装してるのか」
 主観のフィルターに通すと、彼女の顔はどことなく稔に似ていた。今の声も稔のそれに似てなくもない。
ゆえに直哉が思い立ったのは稔が女装をしているという仮説。今日はクリスマス・イヴだ。サプライズの
つもりで体を張っているのだと強引に解釈する。仮説の真実性を確かめるためにぶっきらぼうに
一番わかりやすい場所──膨らんだ胸を触る。
 ぷにょん。
 柔らかくも弾力のある感触だった。例えるなら中反発素材。すぐに跳ね返るほど弾力性はないが、
かといって硬くもない。パッドにしてはよくできている。
「ちょっと服をまくりあげてみてくれ」
 直哉に言われるまま寝ぼけた自称・稔が胸の上まで捲り上げる。そこには明らかな女性の乳房が二つ、
くっついていた。特殊メイクなどではない。豊満なそれはノーブラでありながら自重と重力に負けず形をたもっている。
 直哉はもう1回触ってみた。ぷにょん。幻ではない。ニセモノでもない。むしろホンモノであると確信が持てた。
その様子を寝ぼけたままの自称・稔は不思議そうな目で静観していた。
「このおっぱい、……ホンモノだ」
「朝っぱらから他人の胸でなにやってるんだ。本物に決まって…………………って…………」
 固まった。見事なまでに固まった。動かない石像のほうが柔軟でありそうなほどの硬直だった。
視点は胸に固定され、なにかを言いかけた口はそのまま、自身の胸を一度、二度、三度四度五度と触って──現実は夢を超越した。

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「どうだった?」
「……ついてなかったし、余計なものがついてた」
 稔は重い足取りで戻ってきた。体を調べると言ってユニットバスにこもりたっぷり15分。
途中で断末魔の絶叫のようなものが聞こえたが、そこはさすが無愛想の鑑だった。
人前で醜態はさらさない。たとえ王様の耳がロバの耳だった話を聞いたところで、
その秘密を最後まで守り通すことだろう。
「朝起きてみればあのサンタのじいさんはいないし、プレゼントはないし、お前は女になってるし。
どうなってんだ?」
 話題を振るも、すっかり意気消沈してしまった稔からの返事はない。普段なら、なんで自分の順番が
一番最後なんだとかみついてくるはずなのだが、顔を青くも赤くもしてなにもする気力もなく座り込んでいた。
しっかりスネをハの字にした女の子座りで。稔自身、状況の把握に努めようとしているが、
混乱している今はそれも徒労に終わっていた。
 稔の変化は甚大なものだった。
 短めだった髪は肩にかかるまで伸びていた。引き締まったウェストに張ったヒップ──と平均値を
そのままとったような均整の取れた身体つきだ。ただ無愛想とだけ評されていた顔は、動揺で多少崩れてはいるが
無愛想というよりはクールというプラス要素となっていた。そしてもうひとつ──
「うーむ、でかい」
 胸の大きさはぶかぶかの服の上からでもわかるくらいで、巨乳のカテゴリに入れてなんら問題のないものだった。
 あまりの変わりように、本人かどうかはいくつか質問して確認した。結果は全問正解。50問ほど出し、
引っ掛けを多数織り交ぜておきながらこの結果なのだから、はっきりと彼女が稔であることは証明された。
「これはまた意味不明な出来事がクリスマスに起こったもんだ。──と、お?」
 サンタが寝ていた布団の枕元に置手紙があるのを直哉は発見した。


『私を介抱してくれてどうもありがとう。
 そのお礼に由緒正しきグリーンランドのサンタとしてお二人の願いをかなえておきました。
 メリークリスマス。

 PS 直哉さんの推理は当っています』


「本物だったらしいな。しかもオレの推理とピタリ一致だ」
 褒め称えろといわんばかりに鷹揚に頷く。気をよくして認識が大雑把になっているため、書置きが達筆な日本語で
書かれていることに疑問も挟まない。
「夢だと思うからちょっと寝る。もし途中で起こすようなことがあれば……色々と友人関係にバラすから。
人生の損壊的な意味で」
 稔にとってもサンタの書置きはどうでもよかった。というよりは、そもそもそのような余裕はない。目の前のいびつな
現実を夢だと思っていた。いや、そう思い込むことで精一杯だった。


「昼前までには起きてくれよ」
 稔は頬にかかった髪を鬱陶しそうにかきあげながら、サンタが寝ていた布団に潜り込む。直哉に背を向け枕に頭が乗ると、
量のある艶々の黒髪がさらりと重力方向に流れた。
やがて寝息が聞こえてくる。
 直哉は起こさないように布団をまたぎ、反対側──顔が見える方に移動する。
 寝顔は女性のそれだった。実際にはいないが、稔に姉か妹いるとするならこんな感じになるだろう。
「もしかして、これが願い事か?」

 ──オレは彼女がほしい!

 あのサンタの置手紙を信じるならば──
「信じるもなにも稔がああなったのはそういうことなんだろうな。サンタすげーな!」
 サンタ魔力は実在した。異次元から縦と横だけの存在に奥行きを追加して召喚するには至らなかったが、
男を女にする程度のことは軽々やってのける力がサンタには備わっていた。

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「……起きないな」
 正午15分過ぎ。昨日のサンタのように稔は深い眠りの底にいた。実は一度目を覚ましていたのだが、
体がそのままだったため逃げるように二度寝していた。しかし日曜日の次には必ず月曜日がやってくるように、
現実は避けて通れない。たとえそれがどんなに嫌なものであろうとも。
 とりあえず掛け布団をひっぺがす。肩を叩くとか体を揺するとか消極的な起こし方では生温いからだ。
突然襲い来た寒気に稔は危険を察知したアルマジロのように身をまるめる。
「しかし……完璧女だな」
 丸く柔らかそうなお尻、腕の間から見える胸、そして顔の造形──興味は尽きない。おっぱい星人である
直哉にとって特に乳房には目を見張るものがあった。
 触ってみたくなった。
 彼女がほしいと願い、それを具現するかのように女性化した稔は彼女とみなすこともできる。推測にすぎなかったが、
直哉の本能を呼び覚ますには十分な燃料となった。燃えてよし、盛ってよし。人間火力発電状態。
「彼女ならAだろうがBだろうがCだろうがなんでもやっていいよな。いや、むしろしなきゃマズイだろ。なんたってクリスマスだし」
 サンタは稔を彼女として置いていった。彼氏と彼女の間柄ならばそれなりのことができるはずだと胸に手を伸した。
思う存分揉みしだき、感触を楽しみたい──もはや直哉にそれ以外の思考の能力はなくなっていた。
 手が稔の胸に触れるか触れないかの瞬間、
「なに……してる?」
 両者の視線が合った。半開きの目から放たれる冷たい眼光が直哉を射抜く。室温が下がったような気がして身をすくめた。



「まさか、男に襲いかかろうとした……?」
 無理やり布団をひっぺがし、あまつさえ尋常ならざる顔と雰囲気とで迫っている。これを好意的に
受け取るのはどんなに優秀な弁護士がどう取り繕うとも不可能だ。
「ご、誤解するなよ。男に襲い掛かろうなんてしてないって!」
「じゃあ、何に襲い掛かろうとしたと?」
「オレは……オレは、女に襲い掛かろうとしたんだ!」
 とても声を大にしていうようなことではなかった。男が女に襲い掛かって何が悪い。本能を重視した。
言った本人でさえ子供の言い訳以下だと自覚している。しかし言われた方である稔は別の捉え方をした。
「──ッ!?」
たちの悪い夢だと思って一眠りしても、現実には乳房がまるでそこがホームポジションであるかのように
存在し続けていた。
「夢……じゃなかったのか……」
 直哉に対する敵意で膨れ上がった風船は急速にしぼんだ。現実だ。もはや夢と断じることができない。
つねった頬の痛みも、顔を洗う水の冷たさも明瞭すぎて隙がなかった。
「現実を受け入れてくれてなによりだ」
「受け入れたつもりはないよ。まだ夢だと思ってる」
 しかし稔はまだ認められずにいた。理屈として頭で理解していても、心が認めようとしないのだ。リアルな夢、
きっとそうに違いないと抗弁して。
「害はないんだし、いいんじゃないか? いますぐに辛いっていう生理が来るってわけでもないし」
「なんでデリカシーのないことを言うかな、変態」
 驚きや戸惑いと同じくらいに苛立ち稔の精神を占拠していた。要するに今のこれは八つ当たりでの憂さ晴らしだ。
口内にあると思われるレンズで収束された言葉は針となって直哉の心をダイレクトに突き刺した。
「お、女から、言われると、ぶっちゃけ、つらい……」
「大変態。変態大人(ターレン)」
「うごあッ!」
 容赦のない口撃が直哉の心を深くえぐるのに反比例して、稔はリアクションを見て溜飲を下げていた。
そののたうちまわる様は、テレビに出てくるわけのわからない芸人よりも面白かった。
「お……オレは、変態、だったのか……。しかしこのままだと何か新しい悦びに開花してしまいそうな気が……!」
「あ、それはもういいから」
 ひとしきり楽しんで終結を告げ、ふと稔は思う。直哉がいなかったらこんなに余裕はなかったなと。
いつもとは違う自分とは真逆にいつもと同じヤツがいる。そう考えると直哉の存在がありがたく──
 待てよ、と思い直す。
「どうして諸悪の根源である直哉に感謝しないといけないんだ!」
 肝心なことを思い出し、言葉による追加攻撃が始まった。



 緊急討論会が設けられた。
 議題は稔の女性化について。会議である以上、レッテル貼りや罵倒や人格批判はないと始める前に
直哉によって定められた。
「サンタ魔力のせいだろうな」
 トンデモな意見だったが稔に反論の余地はなかった。実質会議の終了も同じだった。自分自身で
体験していること以上の証拠はない。現実にありえないことが起こり、それを説明する手段として
超常現象に頼らざるをえなかった。
「そのサンタ魔力とやらで願い事が叶ったとして、ボクがこうなった理由がわからない。それにボクの
願いは叶ってないし」
「金だっけ?」
「そう。でもサイフの中身はそのままだった。札入れも小銭入れも」
「サンタが老人すぎて耄碌してたとか。他に変わったことは?」
「ボクがこうなった以外はぜんぜん。っていうか、なんでボクなんだ! もっと別の人がパッと現れても
いいじゃないか!」
 稔はいつになく激情に駆られていた。敵意をむき出しにし、サンタを見ようものならそれがたとえ
仮装している人であっても襲い掛かっていきそうな雰囲気がある。
「だから耄碌してたんだろ。手品のように現れるはずが、ミスってそうなったとか。てか、オレの願いが
叶ったことに間違いはないと思うな」
「そんな趣味? 男が男を好きになるっていう」
 稔は座ったまま器用に移動して直哉から距離を取り背を向ける。ほんの1メートルほどだったが、
逆説的にとれば地球1周分マイナス1メートルの距離になる。地球が丸いからこそできる芸当だ。
「だから今のお前は女だって。それに、今のお前ってオレの好みど真ん中なんだよなー。
つまり彼女ほしいって願いは叶ってるも同然ってことで」
「いくら好みだからって男のボクを彼女にしようとか思わないでくれる? 欲情したりとかは論外で」
 果たして銀河はまるかっただろうかとユニバース規模で心の距離の再設定を模索する稔に対し、
直哉はいたってマイペースで持論を展開する。
「どうかなー。いまから探すの面倒だし。お前が彼女になったとしたら、もう気心知れてるし付き合いやすいし、
そっちのほうが好条件だな」
「最初に言っとく。ボクにその気はない。いい加減しつこいと直哉の二人称が変態になるよ」
 太く鋭い釘を直哉に刺す。しかし、それでへこたれるようなら直哉は直哉をやってなかったのだった。
「そんなことより恋っぽいことしようぜ!」
 稔を逆鱗に触れたがごとくイラつかせたのは言うまでもない。

 ------



「せっかくなんだし女にしかできないことでもしてみたらどうだ?」
 稔の意向で原因不明を結論とした会議の後。泥沼の意見交換の後遺症を打破すべく、
話題が提供された。
「女でしかできないことね……」
女にしかできないことと言われて、稔は更衣室や銭湯や女性専用車両を思い浮かべていた。
自分は女の体をしている。それらに入ることになんの問題もない。誰がボクを
咎め止められようか──いや、できない。
「──それも悪くな…………いやそれはまずい。男のボクがそんなことできるはずない。
うん、できない」
 否定はしたが、無愛想が崩れかけたのを直哉は見逃さなかった。
「欲望に忠実だな。妄想にふけるのはいいけど、誰も彼もが若くて綺麗だと思うなよ?」
 雲のようにふわふわ浮いていた稔の精神はツイスト式掃除機の勢いで現実に吸い戻された。
0歳でも100歳でも女性は女性。美醜とりどり十人十色。メメント・モリ。忘れてはならないことは
世の中にいくつもある。
「……目が覚めた」
「じゃ、目が覚めたところででかけるか」
「でかけるって、どこに?」
「そりゃ買い物だよ。女物の下着とか服とかを買わないとな」
「なんでそう適応する気満々?」
「お前だってその気だったじゃないか。だいいち、服とかないと不便だろ? 体格まで変わってんだったらさ」
 直哉と稔の身長差は、つい昨日までは頭半分ほど稔が低かったが、今はさらに頭半分ほど低身長が
加速していた。計、頭ひとつ分。身体つきも女性のそれになり、華奢だ。着ているものにバランスがとれておらず、
ファッション評論家が見たら眉をひそめるのは確定的に明らかだ。
「遠慮しとく。お金持ちになりたいっていう願いは叶わなかったし、そんな経済的余裕はないから」
「安心しろ。オレが全部出してやる! これを見ろ!」
 大きく胸を叩いた直哉は、押入れの天井裏に隠していたサビの浮いたクッキー缶の中から十数枚の
お札を取り出し稔に見せ付ける。そのうちの半分には慶應義塾の創始者の肖像が刻まれていた。
「いや、そこまでしてくれなくても……」
「いつも靴が欲しい、服が欲しいって言ってただろ? 願いごと叶うんだぞ。なんでためらうんだ?」
「いや、こんなときだからこそためらうんだけど」
「こういうとき、オレは出し惜しみはしない。ウジウジしたりもしない」
「男らしいね」
「男だからな」
 予期せぬカウンターパンチに稔はまたへこんだ。





 クリスマス全盛の街並みは、人でごったがえしていた。必然的に足元の雪は踏み荒らされ、
いつもの路地が顔をのぞかせている。雪が残っているのは街路樹の足回りと側溝だけだ。
各店舗から流れてくる曲が洋楽邦楽古典新譜のキメラクリスマスソングとなって通行人の脳をかき回し、
強制的に今日がクリスマスであることを知覚させていた。
「このへんは融けててよかったな。歩きやすくていい」
「そんなことより歩くの早い」
「だったらまたさっきのしようか?」
「……さっきのことは忘れてくれていい。というか忘れて」
 現在の稔の足元は安定しているとは言いがたかった。直哉は立ち止まって稔がくるのを待つ。
今日になって何回もしたことだ。歩幅に差があるうえに女性化したことによってサイズが合わなくなった
稔の靴はちょっとしたことで脱げそうになっていた。加えて雪面は歩行に適しているとはいえない。
それで、足元が安定するところまで稔は直哉におんぶされていた。直哉は胸の感触を存分に楽しんだ。
次回を背中が切実に望んでいる。
「まずは靴からだな。おっと、拒否はなしだ。おんぶされるのと靴を買うの、どっちがいい?」
 状況的に直哉に逆らえない。唯々諾々と無条件降伏のように従わなくてはならない。自由奔放、
フリーダムにふるまう直哉に付き合う。どれほどの暴挙に見舞われることか。
 これから先のことを予測して、嫌な未来ばかりが稔の頭に浮かんだ。

 生まれて初めてのランジェリーショップ。色彩の洪水が稔の視覚を蹂躙する。
無愛想のなかにもほんのり朱色が混じっていた。
「女がランジェリーショップで恥ずかしがってどうするんだ。不自然だぞ?」
「……うるさい。ボクは女じゃないし、そもそもこういうのも必要ないし、さっさと出よう。そのほうがいいよ」
 そう並び立てる言葉にいつもの精彩がない。完全にアウェーの体勢だった。直哉からの猛烈な後押しを受けて、
逃げ帰りたくなる衝動に耐えながらサイズを測ってもらった。
「どうだった? というのは主にカップのことを聞いているんだけれども」
「……Eだって」
「おおー! さすがだな。すごいさすがだ。素晴らしい。ディ・モールトベネ!」
 直哉は惜しみない喝采を与えた。胸に。高低差20cm。なぜ胸を愛するのか──そこに胸があるからだ。
名前も知らない登山家はいい言葉を遺してくれた。直哉の脳内でコンサートホール級の拍手喝采が鳴り響く。
「なにがさすがだ」
 男の身でありながら平然とランジェリーショップの中まで押し入る度胸。逆の立場だったら絶対真似できない
だろうなと思う。いつか署に連行される日がくるかもしれないと淡い期待にも似た未来像を思い描いていた。
「じゃ、探してくるわ。ちょっと待ってろよ」
「なんで直哉が?」
「だってオレがスポンサーだし」
 あらゆる業界の頂点であるがゆえにスポンサーには暴政が許される。莫大な投資をしながら、
それを上回る利益を吸い上げていく現代の荘園。ランジェリーショップにもまたその縮図が現れていた。



「よし、これを着るんだ」
 そして暴君は与える。義務であれ責務であれ債務であれ、マイナス要素となるものを与えることには不自由しない。
「こ……これを……!?」
 紐タイプ(黒)、超フリルタイプ(桃)、ヌーブラ(半透明)、シースルー(ほぼ透明)etc…。計10着による、ザ・直哉セレクション。
「オーソドックスなのは!? 白とかベージュとか華美な装飾のついてない──」
「オレはスポンサーです」
 暴君はいつでも下々を圧倒する。圧倒しつつ圧搾する。いかなるときでも相手の立場を顧みない。慌てふためく木っ端のような
最下層民を歯牙にもかけない。そうあれかしと聖書の文言にあるように立場が定まって揺らぐことはない。
「別に着けなくても──」
「オレはスポンサーです」
 圧搾がかかる。
 稔の素肌の一部が黒い布と紐で覆われた。
「女性用下着を着けてみて感想は?」
「……違和感だらけ。胸はキツいし、パンツは完全密着して居心地が悪い」
 頬を染めてもぞもぞと内股をすりあわせる稔は、まさしく女の子だった。所作といい表情といい、奥手で男に免疫が
ないように見えるため、直哉にイタズラ心が芽生えた。
「大胸筋サポーターと思えばいいんじゃないか? ほら、こんなにナイスプロポージング」
「なッ、なに触ろうとしてるんだ!」
 猛禽類がその足で獲物を掴み取るような胸へのアタックを稔は即座にはらいのけた。直哉を睨みつけていたが、
胸を両手でカードし、少し涙目になっている姿は直哉の心を大いに満足させるものだった。
「男の胸をどうサポートしろっていうんだ! もういい、脱ぐ!」
 突発的に上着を脱ごうとするところですぐそこの試着室の鏡の中の人物と目が合った。その醜態も。動きが止まる。
「脱いでくれるのか?」
「────ッ!!」
 吉川稔大隊、全滅。

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 スポンサーの威光は続いて入ったカジュアルショップにおいても燦然と輝いていた。頭上にはどんよりとした
暗雲が垂れ込めていたが、そこだけ青空が差しているように晴れ晴れしていた。太陽の寵愛を受けたと称される
ブルボン朝の王様のように。
 下着のときと同じ轍を踏まない、踏んでたまるかとばかりに男物をチョイスしようとする稔を阻止し、
それならばとユニセックスタイプで妥協を引き出そうとするのを却下し、スカートをはかせた。計画通り。
稔の見えないところでガッツポーズも忘れない。
 稔はスカートというのを生まれて初めてはいた。感想は、冬場はつらい。それには直哉も同意した。
同意したが、決定は覆らない。
 ミニスカートに膝まで隠れるニーソックスをあわせる。スカートとソックスを隔てるわずかばかりの領域も
直哉の計算のうちだった。それに膝までの丈のホワイトコートを着せ、完成した。
「見違えたな」
「……ボクもそう思う」
 稔はどこにでもいる女の子に変身していた。──いや、どこにでもいると言うには語弊がある。
その抜群のスタイルによって、そこらの女性よりも女性らしい。
「すっげえ似合ってる。さすがオレ……と言いたいところだが、ここはさすが稔と言わざるを得ない」
「……その感想は困る」
「似合ってる」
「だから」
「似合ってる」
 単発的な応酬。しかし立場にはっきりとした差がある以上、折れるのはいつも弱者のほうだ。
「……ありがとう」
 理想的な為政者はアメとムチを使い分ける。アメは見えるように、ムチはそれと気づかれないように。
いつか立ち読みした帝王学の本が役に立ったと直哉は満足気に頷く。稔はいつか打倒することを誓った。

 ファッションコーディネートの旅という名の買い物には予想以上の時間がかかった。正午過ぎに家を出発し、
現在時刻は7時。頭上にはすっかり夜の帳がおりているが、繁華街にあるこの通りは過剰なまでにライトアップされ
昼間のように明るい。加えて年に一度の大イベントということもあって、人通りは混雑をきわめていた。
「右も左もカップルばっかりだな」
 通りには男女のペアが跋扈していた。家族連れよりも、友人同士よりも、単独よりも比率が多い。
マジョリティであるがゆえにその行動も我が物顔であり、あるカップルは手を繋ぎ、あるカップルは人目も
はばからず口を繋いでいる。その盛り様から行く末が見えるようだ。独り身には精神にこたえる光景だった。
「でもまあカップルっていえばオレらもそうだけどな」
「カップルになった覚えはない」
「晩飯おごるけど、それで今日だけ付き合ったことにしないか?」
「……ちょっと考えさせて」
 それほど考える時間もなく、聖なる夜にまた一組のカップルが誕生した。



「「「メリークリスマース!」」」
 夕飯を食べるところを探して全国的に有名なデパートにさしかかったとき、入り口では威勢のいいサンタが
集団になって愛想を振りまいていた。10人からなるサンタはどれも本物らしく見える。通りがかりの大人にはチラシを、
その連れの子供には風船を配っている。なかには細長い風船を上手い具合にひねって動物を作り、
なかには白い袋から包装された小箱を取り出しては配っている者もいる。いちいちの動作が演技がかっていて、
デパートのチラシを配るにしては本格的だった。
「もしかしたらあの中にも本物もいるかもな」
「それはない」
 無碍にも稔は否定した。木を隠すには森の中とはいうが、しかし誰がなんのために隠さなければならないのか、
その理由が見つからない。
 恰幅のいい男だけを集めたサンタs。本物そっくりだが本物ではない。その証拠にあの袋は有限だ、と直哉は言った。
彼の頭の中では本物のサンタの袋はサンタ魔力によって四次元であるらしい。現に、袋に柱の隅に隠すように置いてある
ダンボールから包みを補充していた。夢を壊すような無頓着さに少なからず憤りを感じていた。
 アグレッシブなサンタは少し離れたところで自分たちを眺めていた直哉たちにも寄ってくる。
「メリークリスマース! そこのカップルさんも、どうぞデパート最上階にあるセントクロスで!
 それからこちらはサンタからのプレゼント! 彼女さんに渡せばクリスマスプレゼントの手間が省けますよ」
 サンタは押し付けるように手のひらサイズの小さなプレゼントとチラシを直哉に渡すと、身軽なステップを
踏みながら別の通行人目指し離れていった。「HOHOHO」とサンタ笑いも忘れずに。

『レストラン・St.CROSS
 この時期限定オープンのレストランです。本場デンマークの料理やお酒がたくさん!
 このチラシをお見せいただけるだけでワンドリンクサービスします。ぜひお立ち寄りください。
   営業時間 17:00〜25:00』

「どうせだからここにするか? ──稔?」
 稔は別のサンタから渡されたチラシを手にしたまま固まっていた。しかし視線はチラシにはなく中空をさまよっている。
その視線もどこかを見ているようでどこも見ていなかった。
「どうかしたか?」
「──あ、いや。なんでも」
 稔の顔から一瞬表情が消えていた。いつもの無愛想顔ではない。それさえも剥落していた。しかし数瞬後にはフォーマルに戻る。
その一瞬が幻だったかのように。
「カップルって言われて赤面したか?」
「そ、そんなことあるわけない!」
 即座の否定。いつも通りに見えたが──直哉の見えないところでかすかにぶれていた。

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 食事を終えデパートを出ると、雪が降っていた。
日中、人の踏み荒らした地面を覆い隠そうとするかのように深深と雪が舞い落ちる。薄い新雪の絨毯の上を一人は陽気に、
一人はそれをとりなしながら足あとをつけていく。繁華街を抜け、閑散とした通りに入る。
「公園で一休みでもするか」
「うん、ひょっといま地震がおこってるみたいだしね〜。ひなんしないと〜」
 激動の1日を忘れてしまおうとするかのように稔は酒をあおりつづけた。料理よりもアルコールに重点を置いていたほどだ。
生ビールに始まり、チューハイ、カクテル、ワイン、果てはウィスキーまで。慣れない酒とその複合。その結果がここにいる
見事な酔っ払いだった。酩酊式歩行術──千鳥足で雪を踏み分けるのを楽しんでいる。
 新しく買ったスニーカーの判子を押しながら訪れた小さな公園には誰もいなかった。ここもまた誰かが訪れているような気配はない。
 電灯がいっそう気温を下げようとしているかのように寒々しい白色の光を足元に投げかけている。背もたれのない木のベンチの雪を払い、
座る。雪はやむ気配がない。払ったばかりのベンチにわずかな時間で新しい柔らい綿毛のようなクッションが形成される。
 なにを話すでもなく、摂氏一桁の外気に身を任せる。吐く息は雪のように白い。それでもアルコールで火照った体には
涼むのにちょうどいい塩梅だった。
 稔から笑い声が聞こえなくなる。しんと静まり返った公園に二人の息遣いだけが響く。
「……寝たのか」
 稔は直哉の肩に頭を預け、安らかに寝息を立てている。
 今日はクリスマス・イヴ。ツリーを飾り、靴下を枕元に置く。本式なら教会のミサに参加すべきなのだろうが、
日本人はそこまで熱心ではない。直哉もしかり。しかし、これからはやってもいいかなと心変わりしていた。
直哉の望んだクリスマスプレゼントがすぐ隣に無防備な姿をさらしている。まったくの女性になってしまった友人。
おそらくは彼女がほしいという願いの結実だ。
 その友人の手を取る。
 暖かい。
 自分の男の手とは違う柔らかな手。
 今、直哉の心の中では二つの想いが刃を交えていた。

 ひとつは、稔を諦めること。彼女にすることを諦め、友人に戻る。
 ひとつは、先に進むこと。戻れない道に一歩を踏み出す。

 そして、一方が勝った。
 心が決めたことに従って決意を固める。つなぎは勇気で骨子は覚悟。固めるには絶好の素材だ。
純粋な動機で、体を突き動かす。
 規則正しく肩を上下させる稔を背中に乗せて、公園を出た。
「サンタとは比べ物にならないほど軽いな」
 昨日のことがまざまざとよみがえる。あのときは地獄の苦しみを味わった。だがそれで今が手に入ったのなら、
悪くない条件だと思う。
 通りの先にあるお城のようなホテルを目指す足取りは軽い。背に感じる暖かくもやわらかい感触が、
足に活力を与えてくれているかのように。
「まさかこんなホテルに連れ込む日が来るなんてな」
 呟きながら眩しい光で彩られた門をくぐった。



 ホテル上階からの眺めは、不思議と自分がこの街を掌握しているような高揚した気分にさせる。
 無数に散らばるビルディングの光点に、道路以外の場所に赤や黄が多く混じったこの時期限定の景観。
今年は青も多いようだ。
 直哉は選択した。
 選択とは、ひとつを選び取り、ほかを選び捨てるということ。この部屋に稔を連れ込んだときにもう後戻りはしないと決めた。
 “彼女”は今、ベッドでいつ覚めるとも知れない眠りについている。彼女が着るのは直哉が見繕った服。
膝上のスカートはこの時期は寒くはなかっただろうかと心配する一方、そこから伸びるすらりとした足に惹き込まれる自分がいた。
寝苦しくないようにと下心があるようでない感じの名目で上着を脱がせ、今は薄手のシャツだけの格好。薄布一枚に隔たれた双丘。
Eという直哉理想の乳房。呼吸によって上下する丘から目が離せない。そしてシャツの下には自身で選んだ下着が収まっているはずだ。
 想像するだけで下半身に血が集まろうとしていた。
 知らず口内に溜まっていた唾を飲み込み、深呼吸。
 トリプルほどの広大なベッドにもう一人がエントリーする。軋んで、稔がわずかに目を覚ます。
「み、みず……」
 開口一番は催促だった。あれだけアルコールを飲んだのだから渇水は避けられない。直哉はミネラルウォーターを備え付けの
冷蔵庫から取り出し、ベッドに戻る。巣で待つ雛鳥のように口をあけて待つ稔にペットボトルの口を近づける。
「もっと……ひょうだい」
 酔いも目も醒めきらないまま稔は次を求める。数度、繰り返した。
「直哉……ありがと」
 限界だった。水で潤った唇で名前を囁かれ、普段見ることができない熱で浮いたような顔と潤んだ瞳で微笑まれたら──
「んむっ!? んんん……!」
 気づけば唇を奪っていた。強引に唇を重ね、今またより深いものにしようとしている。呆気に取られている稔は
なにが起こったのかさえ理解できていないのか、直哉の攻撃を無防備に受け入れていた。
 たっぷり数十秒続けて、口が離れる。
 沈黙。
 エアコンが吐き出す温風の音だけが場に静かに満ちる。間接照明の明かりが稔の顔に陰を作る。衝動的にやってしまった接吻。
その情動と行為を顧みて、直哉は動けなくなった。
「……いいよ、しても」
 うつろな表情で稔が消え入りそうな小さな声で言った。直哉の予期せぬ言葉だった。



「ボクと、したいんだろ。ほかの、男だったら、嫌だけど、直哉なら、いいから」
「お前、なに言って──」
「ボクは、もう男じゃ、ないから……。そう言われた、から」
 一語一語、確かめるように言葉を紡いだ。自分自身に言い聞かせるように。
「あのデパートの前のサンタに混じって“本物”がいた。そしてボクに囁いた。願い事は取り消しできないって。
だから、ボクは、もう、一生、このままだ、って……!」
 涙が一筋、頬を伝った。
「なんで……なんで、ボクなんだ……。サンタなら別の人を連れてきてもよかったはずだ。なのに、なんでボクが……!」
 繰り返してきた問い。最初から最後までわだかまって消えない絶対的な問い。答えを持っているとするならば、それは稔ではなく──
「オレにも、わからない。ただ今のお前だったら付き合いたいって本気で思う。付き合ってデートして、それから──」
 言おうかどうか迷った。しかし公園で固めた決意を思い出した。もう後戻りはしないと決めたのだ。心を奮い起こす。
「お前と──稔と、したい」
 決然と言った。これ以上ないというほど本気で、本音を吐露した。返事がくるまでのわずかの時間、
それでも直哉にとってはやけに長く感じられた。
「しても……いいよ。でもするなら早くしたほうがいい。まだボクは酔ってるから。醒めたら抵抗すると思う」
 実のところ、稔の酔いは醒めているも同然だった。酒の勢いという口実が欲しかったのだ。自棄になって自分を蔑ろにすることで、
己の境遇への意趣返しのような、腹いせのようなことがしたかった。稔にはそうした自虐的で被虐的な思いがあった。
しかし直哉にとってはどう慮ろうと稔の心中を計ることはできない。しかしながら、たったひとつわかっていること──合意に至った
ということで直哉の興奮は最高潮に達し、自分のことで精一杯で稔のことなど考える余裕はなくなっていた。
 稔が買ってもらった服はその所有者が直哉であるかのように奪われ、最後にショーツ以外の自分の所有物──裸体だけが残る。
それももうすぐ直哉のものになろうとしている。
 すべてがさらされ、右腕で顔を隠したのは羞恥からか恐怖からか。弛緩した体は艶かしく、均整のとれたプロポーションは
見ているだけで欲情を駆り立て、欲望をかきたてるに十分なものだった。
 直哉の手がおそるおそる豊満な胸へと伸びる。触れられた直後ビクっと身体を強張らせたが、ランジェリーショップのときのように
払いのけたりはしなかった。
「やわらかいな……」
 形と柔らかさを確かめるような手つき。張りのある胸は吸い付くように直哉の手に馴染んだ。
「く……ん……」
 誰かに触れられることに慣れていない稔は嫌悪のようなものを感じていた。しかしそれと同時に別離的な感覚も感じ取っていた。
 自分の胸。女性的な胸。女性の中でも豊かな部類に入るであろう大きさの胸。それを触られている。揉まれている。摘まれている。
舐められている。
「なお、やに、触られると、ひんっ、電気が、走った、みたいに…!」
 神経との距離が薄皮一枚ほどしか隔てていないと思うほどの刺激が稔を襲う。先端は特に敏感だった。直哉の舌が、指が、
硬くなった桃色の乳首を攻め立てる。



「そんな、胸ばっかりぃ……。いくら、好きだって、好きにも、限度ってものが、あっ!」
 乳房への愛撫は続く。特に乳首は直哉の口の中で吸われ、転がされ、甘噛みされ、そのいずれもが未知の感覚を呼び起こした。
「やっ、ちくび、そんな、いろんなこと、しちゃ…!」
 口に出しては言わなかったが、稔は戸惑っていた。気持ちよすぎる。簡単な理由だ。身体は勝手に感じ、しかし精神がついてこない。
それでも、こんなに気持ちいいことがあったのかと薄っすらと把握していた。大きな間違いだったが。
 くちゅくちゅと、わずかな水音が稔の耳に届いた。出所となんでそんな音がしたのか考える前に、それ自体中断されることになった。
「ああああッ!? な、なに!? 直哉、なに、した?」
 直哉の右手が稔の秘部に伸びていた。黒いショーツは脱がされずそのままだが、その内側に指が丸ごと入れられている。
音と何だかわからない感覚の出所はそこだった。
「もうすっかり濡れてるな。パンツの上からでも濡れてるのがわかるぞ」
 稔の秘部は直哉の指が到達したときにはすでに十分に濡れそぼっていた。乳房への愛撫だけで蕩け、あとからあとから泉のように湧き出てくる。
 直哉の指はさらにほじくるように動く。
「あッ、やッ、ゆ、ゆび、が、なか、でぇ…!」
 嫌悪感。初めにあったのはそれだけだった。自分以外の者に秘部を触られる。男であったときにもそんな経験はない。
ましてやそれが男を相手にというのであればなおさらだ。自分とは違う体温を感じる嫌悪感は肌を粟立たせる。
しかし今は性別的にごく正常な関係であり、そのせいなのか時を経るにしたがって嫌悪とは別の感情が出てきていた。
「ん……やっ……! こんな、こえ、だしたく、ないのに…!」
 まさぐる指は秘芯へ。それにしたがって稔の声音も変わっていた。
「イキそうなのか?」
「わかん、ないよ、そんなの。でも、からだが、なんか熱くて、くあっ、こえが、こえがとまらなくなって…!」
 嫌悪感は快感に変遷し、稔の身体は過度ともいえる感度で直哉の愛撫に反応していた。
「や、なんか、くる……ッ! ヘンなのが、あそこから、なに、これぇッ!?」
 直哉の指が膣内の一箇所を擦り上げる。その直後──
「あッ、あッ、もうダメ…! もうイク、イッ…────!!!」
 稔は声にならない声で絶頂に達した。
 初めての絶頂。稔はもう何も考えられなくなっていた。気持ちよかった。ただそれのみが脳内を支配した。全力疾走したかのように
激しく息を切らし、余韻に浸る。
 あまりに快感が凄すぎて稔は、もうこれで終わりだと錯覚していた。しかし直哉が着ているものをすべて脱ぎ、
次いで稔の最後の砦となるショーツまで脱がそうとしているのを見て、ようやくまだ『本番』がまだなことに気づいた。
 直哉は局部見せ付けるようにショーツを脱がした。露わになった女性器はイったことで愛液まみれとなり、とても淫卑だった。
稔は自分のものであるにもかかわらず、こんなものが付いていることがまだ信じられなかった。しかし現にそこに“付いて”いる。
初めて見る“それ”が自分のそれだとは。興味よりも感慨よりも、虚脱に稔の精神は近かった。そして初めて見るものがまたひとつ。
「……なんで、ボクにそんなものを見せ付けてるの?」
「なんでって。そりゃ挿入するために決まってるじゃないか。自己紹介しとかないと」
 押し付けの善意ほど迷惑なものはない。直哉は全裸で逸物を稔の顔の間近まで接近させていた。すでに勃起は最高潮に達していて、
いつでもできる準備が整っていた。
「……痛くしたら、……許さないから」
 精一杯の強がりも、絶頂に達した直後の顔ではなんの効果もなかった。直哉の情動を煽り立てる以外には。



 膣口に逸物があてがわれたとき、稔は顔をそむけたり接合するであろう部分を注視したりを繰り返していた。
拭いきれない恐怖を感じていた。口では強がっていたが、内心は臆病な羊そのままだった。本当に男のアレが自分の中に入るのか、と。
半信半疑どころか一割も信じてなかった。
 膣内を少しずつ割り開きながら、とうとう最後まで──男の侵入を許した。
「はぐっ……!」
 破瓜の血が純白のシーツに鮮やかな紅の点をうがつ。異物が差し込まれ、感じていた快楽はすべて吹き飛んだ。
積み上げたものは瓦礫と化し、感覚は痛いという一点に収束した。
「大丈夫か、稔?」
「だいじょう、ぶ、な、わけ、ない…! いたく、しないって、言った、くせに…!」
 できることなら、今あったことをなかったことにしたかった。しかしもう遅い。自分の女性器は直哉の逸物を完全に飲み込んでいた。
しかし不思議と違和感というものを覚えなかった。男に組み伏せられ、自身の乳房越しにその男の姿をみる。自分が女性であり、
男性と交わる。あるべきところに、あるべきものが収まる。自然なことだとどこかで納得する。一線を越える破瓜という儀式を経て、
稔の思考は変容していた。
「じゃあ、やめるか?」
 直哉は挿入したまま問う。もちろんそんな気はさらさら持ち合わせていない。口先だけのものだ。
「……やめ…………ない」
 処女だけを散らして、そこで終わる。最悪だ。そんな初体験にしたくないという気持ちが強くあった。もし自分が男に執着していたら
こんなことは考えなかっただろう。それほどまでに、自身の女性化を受け入れていた。
「……動いて、いいから」
 ほとんど意地から強がった。せめて直哉の前では醜態を晒さないようにと。
 そう言われてしまえば直哉は従うしかない。もともとそのつもりだったが、逆に熱意に水を差されてしまった。
そうなってよかったかもしれないと直哉は思った。もしさっきまでの欲望に満ちた感情で思いのままつき動いたとしたら──
 ゆっくりと、腰を動かす。とにかく稔のことを気遣って。
「んッ、んッ、はッ、ッ…!」
 ほんの少しだけしか動かしていないにもかかわらず、稔は苦悶の表情を浮かべ、くぐもった呻き声を上げていた。
少しの間、慣らすようにちょっとずつ可動範囲を広げていった。
「ゴメン、直哉。もう、大丈夫だから」
 ずちゅずちゅと粘着質な音が結合部からする。抽挿を円滑にするための液体が分泌され、直接擦られない分、
痛みはやや緩和されていた。それでも慎重を期して直哉は優しく抽挿する。見下ろせば、眼に涙を溜めて声を押し殺して
喘いでいる稔の姿がある。乱暴に扱うなんてことはとてもできなかった。
 直哉は攻めの中心を別のところにすることにした。
「きゅうに、胸、さわったら、あッ、うッ…!」
 絶頂の余韻は乳房にはまだ残っていたようで、ほんのわずかの接触で、稔の身体は電気が流れたように撥ねた。
 双丘の片方には指を、もう片方には舌を這わせる。硬くなった乳頭への愛撫は、稔の秘裂に変化をもたらした。
「くッ、急に、締め付けが強くなったな…!」
「そんなこと、言ったって、胸、また、気持ち、よすぎて…!」
 稔の膣は直哉の逸物をぎゅうぎゅうと絞り上げるように締め付けた。と同時にさらに愛液を分泌して抽挿をスムーズにした。



「な、なんか、あそこ、わかんないけど、おかしく、なって…!」
 稔は呼吸が荒くなっていた。激しい運動をしているつもりはないのにと思っていたが、別の要因によるものだとは気づかなかった。
いや、気づきたくなかった。
 感じている。
 女として快感を得ている。男の意識が強く残る稔にとって致命的な事実だった。一旦味を覚えてしまえば、占めざるをえない。
女の身体の快感が男のそれと大きくかけ離れていた。挿入と抽出によって膣壁をこすられる。
その1回1回が射精に匹敵するほどの快感を稔に与える。
「これ、ダメぇ! 感じすぎて…ッ、こえ……とまらな……! ん……やっ……! こんな、こえ、だしたく、ないのに…!」
 したくないと思っていても、それを身体が許さない。当然の現象であるかのように、突かれれば喉から甘い声が出てしまう。
 ここまでくると、直哉も遠慮がなくなっていた。稔が感じている。だとすればもっと感じさせてやらなければと、ピストン運動を激しくさせる。
ぶつかる肉と肉の乾いた音が小気味よく部屋に響く。
 稔も直哉も限界に達しようとしていた。直哉はさらに激しくと言わんばかりに、ラストスパートをかける。
「あッ! あッ! だめ! そんな、つよく! ああッ! はあッ! イクッ! また、イって…! ああああああああああああ!!!」
 直哉の逸物から白濁が勢いよく迸り子宮の奥へと注がれるのと同じくして、稔もまたアクメに至っていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……、すご、かったぁ……」
 呆然と、女の快感に酔いしれる。だらしなく開いた口からはまだ甘い声が漏れ出ていた。下の口からもまた、
たった今射精されたばかりの白濁が逆流してシーツを汚していた。
「なかに……出されるって……こんなに……きもち、いいなんて……」
 言葉の推敲なしに出た紛れもない本音だった。
 ふと直哉に顔を向ける。一通りやり遂げた清々しい笑顔だった。それを見て稔の中に火が着く。
どうして自分ばかりがこうも一方的にやられているのかと。直哉にいいようにされて、自分はこれでいいのだろうかと。
妙な意地に火が着いた。



 稔は両肩をつかんで直哉を仰向けに押し倒すと、その上に馬乗りになった。そして自分の膣口をいまだ怒張の勢いやまぬ逸物にあてがう。
「おいおい、無理すんなって」
「直哉がなんと言おうと、やめない。ボクの矜持的に直哉に、やられっぱなしというのが、どうしても、許せない」
 息も絶え絶えにするその仕草や表情がどうにも可愛くて、ついつい“攻め”に転じてしまおうとする欲求をどうにか押さえつけた。
せっかく“彼女”が頑張ってくれているのだ。もし無碍ににでもしてしまうものなら失うものは計り知れない。
「う……くッ…!」
「お、おい。無理すんなって──」
「直哉は……黙ってて!」
 一喝。稔が意地っ張りなのを直哉は知っていたので、それ以上は口を噤んだ。
「あッ、はッ……、ぜんぶ、入った」
 見るからに辛そうな顔をしていたが、かまわず稔は腰を上下に動かす。
「どう、あッ、直哉。きもち、いい?」
 稔は自ら腰を振り、直哉の逸物を締め上げる。初めはぎこちなかったその動作も、回数を重ねるうちにスムーズになっていった。
それにともない──
「はぁはぁ……んッ、はッ、あんッ」
 快感を求める余裕もうまれていた。腰をくねらせ感じるところを探す。まだ下腹部には多少の違和と疼痛がわだかまっているものの、
それを上回る快楽を得始めていた。
 直哉も、稔が自分から気持ちよくさせてくれようとしている、その心意気が股座のものをさらに怒張させた。
「せっかくだから、俺も手伝うよ」
 そう言うと、稔の腰を両手で固定し、自らも腰を突き上げ始めた。
「やッ、あッ、いきなり、そんな、強く……!」
 直哉の腰使いは強く深く、稔の『中』を刺激する。そのたび稔の口からは小さく短いながらも強い喘ぎが漏れ、乳房は大きく激しく撓んだ。
「だめ、だってぇ…! あそこで、感じてる、のに、胸も、そんなことしちゃ…!」
 直哉の両掌は押しとどめるように稔の乳房を覆い、指先は乳首を引っかくように刺激した。
「な、おや、のが、いちばん、おく、までぇ…! そんな、つきあげ、たら、ボクの、こわれ、ちゃう…!」
 逸物は稔の膣の奥の奥、子宮口まで達し、ぐいぐいと押し上げた。稔の喘ぎが悲鳴のように高くなる。



「こ、これぇ、かんじ、すぎ…! ボク、ボク、もう、イっちゃう、イっちゃうよう…!」
 もはや稔は自分から動いてはいなかった。直哉の腰遣いになされるがままだった。体力に限界が訪れ、直哉のほうに倒れる。
そして、どちらかということもなく、深いキスをかわしていた。
 上下二ヶ所からの愛撫と接吻。快感の度合いからすれば後者の割合など一割にも満たなかったが、情感は激しく動かされた。
男とキスをしている。そんなことは微塵もマイナスにはならなかった。口付けをし、舌を濃密に絡め、こんなにもキスが
気持ちいいものだったのかと新発見したほどだ。相手の体温と感触を強く強く強く感じ、絶頂へ上り詰める。もう抑え切れなかった。
「イっちゃう! ボク、キスでイっちゃうううう!!」
 直哉の逸物から大量の白濁が射出するのと同じくして、稔もまたのけぞりながら高い高い頂へと上り詰めた。
 稔はぐったりと脱力し、直哉にもたれかかる。そしてそのまま気を失ってしまった。

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 一夜明けて──クリスマスの日。
 サンタがいれば枕もとの靴下にプレゼントが届いている。
 直哉宛のプレゼントは靴下の中には入っていなかったが、シワだらけになった白いシーツにくるまり、まるで靴下の中に
入っているかのように見える。
 同じベッドに横たわっている、昨晩は乱れに乱れた『彼女』。空調が効いていてもなお冷える早朝の清澄な空気。
朝靄に包まれた街は彼女と同じく眠りの底だ。
 直哉はおもむろに投げ出された稔の衣服を物色する。決してやましいことは──少しだけあって、目的のものを探し出した。
男物の財布。稔のものだが中身は外気のように寒い。カラに近い札入れと数種類のカード類。そこからひとつ抜き取る。免許証だった。
「やっぱりか」
 項目のひとつが直哉が思った通りの記述になっていた。おそらくほかのもすべてこうだろう。どういう仕組みかはわからない。
ただ、彼が彼女になった意味は軽くないということはわかった。
 そして小さな小箱を思い出す。デパートの前でサンタから渡されたプレゼント。その中身を見て、直哉は思った。
「サンタは本当に万能だな」
 遊ぶにしろ愛でるにしろ、プレゼントは活用しなければならない。

 昨朝のように稔を起こす。どうやって起こそうかと考えて、やっぱり同じようにするのが一番だろうと布団をひっぺがした。
布団となっているシーツの下にはもちろん──
「改めて見ると……やっぱり素晴らしいな。ついついありがとうと言ってしまいそうだ」
「う……。もう……朝……?」
 ゆっくりと稔は身体を起こす。目をこすり、なぜ直哉が感謝の辞を口にしながらガン見しているのかに気づいた。
「ばッ、バカ! こっち見るな、変態!!」
 昨晩は行為の後はそのまま眠りについた。行為の最中はもちろん一糸纏わぬ姿であり、その姿が継続されるのは当たり前の話だ。
今稔は、その豊かなバストを、柔肌を、肢体を、そのすべてを惜しげもなく直哉に晒していた。
「まあそんなことはともかく、これを見てみろ」
 稔の憤怒と講義の声を遮って差し出したのはさっき抜き取った稔の免許証だった。
「ボクの免許? これがどうか…………あっ!」
 稔の視線がそこで止まる。
「……ホント、サンタは本物だったんだ」
 性別の欄。そこでは確かに稔が女性であることを明示していた。その他のカードについても同じで、性別はすべて女のほうに丸がついていた。
「顔写真も変わってるし、名前もそうだな。『吉川みのる』ってなってる」
 写真の中で微笑をたたえるその顔も髪の長さも、まるで昨日撮り直したかのように現在のものだ。



「覚悟はしてたけど、これは、さすがに……」
 稔から感情があふれる。自分が男だった証拠はどこにもない。自分は最初から女だったのだろうか。
ただ自分だけが男だと思っていたに過ぎないのだろうか。
「オレが覚えてるよ。稔、お前は確かに男だった」
 優しく、直哉は抱きしめた。稔からも腕が伸び抱き合う。
 心が、少しだけ通じた。
「ここまでやってんだから、わかってるよね? …………から」
「え、なんか言ったか?」
 聞き返され、稔は顔を真っ赤にして、声を振り絞る。
「責任、取ってもらうからな! サンタに頼んでボクを女にした挙句、しょ、しょ処女まで奪って、あまつさえ中にまで出したんだからな。
それ相応の報いというか償いしてもらうから!」
「責任は最初から取るつもりだったぞ。俺──お前と結婚する」
「……は? いや、そんな気軽に…」
 安請け合いはなはだしい答えだったが、稔にはそれがそうではないとわかっていた。大きく溜息をついて思ううちを吐露する。
「……正直言うとさ、戻れないって聞かされたときからどうしようか思った。薄々だけど、直哉と一緒になることも可能性のひとつとして考えてた。
で、直哉のことばかり考えた。直哉はいつも誠実だった。ウソがなかった。ただ単に表裏がないだけなのかもしれないけどさ。
だから今の言葉が本気だってよくわかってる。
 昨日遊びに行くのだっていつもより楽しかった。いつもボクのことを考えてくれていたんだよね。そして今のキミの言葉で決心した。
ボクはこのまま女で生きることにする。ずっと一緒にいられたら楽しいと思ったから。本当のボクを知ってるというのもあるけど」
「……真顔でそんなこと言われるとこっちが恥ずかしいな」
「う、うるさい! ちゃんとボクの気持ち言ったからな!」
 ムキになって枕を投げつける稔。直哉はニヤニヤしながらそれを躱しながら、あーやっぱ可愛いなー、なんてことを思っていた。
「お、そうだ。これを渡すのを忘れてた」
 直哉はサンタからもらった小箱を稔に差し出した。
「これは?」
「いいから開けてみろって」
 言われるがまま箱を開ける。果たしてそこには──



「指輪…?」
 箱の中身はシルバーの指輪だった。装飾もなにもないデザインだったが、
「ぴったりだ」
 まるで初めからそう作られているかのように稔の左薬指に寸分の狂いなく収まった。
「とりあえずの婚約指輪ってことで。まったくあのサンタは老婆心というか善意というか、余計なところまでサービスが行き届きすぎだな。
なあ稔。──稔?」
 話の矛先が向いても、稔は反応しなかった。自分の指にはまった指輪を見つめて顔を紅潮させていた。
直哉の呼びかけに応えるようになるまで、しばらく時間が要った。
「そういや、俺と結婚するってなったわけだが、これで稔の願いも叶ったな」
「どういうこと?」
「だから、オレと結婚したら、お前玉の輿じゃん。結婚すれば総資産の半分が手に入ったも同然だからな、願いが叶ったっていえるだろ?」
「……ぶしつけで失礼な話だとは思うけど、直哉の総資産って?」
 いつもの赤貧生活を見せられていては総資産と言われても眉をひそまざるをえない。
「じゃあ聞こう。この部屋をとったのは誰だと思う?」
 二人が宿泊していたのは高級マンションの一室と見紛うばかりの豪華な部屋だった。ホテルといえば稔の知識の中ではベッドがあって
ユニットバスがあるだけの部屋。それとは月とスッポンとばかりにかけ離れていた。
 まず部屋がいくつもわかれている。今いるのが直哉の部屋より倍以上も広い寝室。ドアの向こうにダイニング、
その奥にはキッチンも見える。風呂トイレ別、風呂は一面大理石でシャワールームが別にあって、それぞれ広々。
「てっきりラブホにでも連れ込んだのかと思ったんだけど。……ここはどこ?」
「この街一番の格式あるホテルのスウィートルーム。空いてるところはって言ったらここしかないってんで、ここになった。
一泊ひとり30万だったかな」
「さ、さんじゅうまん!?」
 素早く計算が行われる。ひとり30万。ならふたりでは? 天文学的数字に卒倒しかけた。
「ど、どうするの!? 支払いは!?」
「大丈夫だ。ちゃんと先にカードで払っておいた」
 直哉が財布から取り出したのは銀色とは色の質が違う煌くカード。
「プラチナ!? え、なんで直哉がそんなカードを? 偽造? 窃盗?」
「さっきから驚いてばっかりだな。偽造でも窃盗でもないぞ。まあこれもいつも使うわけでもないし。
そういや親は黒いの持ってたような気がする」
「直哉の家は金持ちだったのか……。じゃあいつものあの狭い部屋は?」
「だってもったいない。お金はなるべく使いたくないからな。今回のだって結構精神的にこたえてる。
一泊で家賃何か月分だよ……」
 リッチマンの上に倹約志向。これなら成功するわけだ。成功の秘訣は身近なところにあった。
 個人資産は10桁という途方もない金額だった。
 今度こそ本当に気絶した。



「そんじゃ、さっそく誓いの儀式でもするか」
「誓いの儀式って?」
 直哉は何も言わずみのるの両肩に手を置き、顔を近づけた。唇はすぼみ、直後に何をするかは誰の目にも明らかだった。
みのるもそれに気づき、顔を近づけたり遠ざけたりキョドりながらダンジョンに仕掛けられた罠のごとく迫り来る唇を受け入れようとして、
「ごめん、シラフじゃまだ無理」
 逃げ出した。
「おいィ!? せっかくのハッピーエンドが台無しじゃないかあああ!!」
 追いかける直哉と逃げるみのる。そんな二人の姿はとても幸せそうだった。



 おわり
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