女の子が二人、手をつなぎ歩いている。
 苔生した飛び石の上を軽やかに、弾むように。
 古びた庭園は、庭木も大小の庭石も、すべてが長い年月を経たもの独特の深みを漂わせている。
「まってぇ心くん、まって。ねえ、どこ? どこにいくの?」
「お山。お山のねえ、森です。ずうっと、ずっと奥のほう。環にいいもの見せてあげる」
「私たちだけで? 誰にもいわないで、二人だけでお庭を出たら、叱られちゃうかも」
「平気ですよぉ。だって、お山も森も、お庭だもん。それにヒミツなんだもん。環にだけ、
おしえてあげたいの。だから、ね? だからね、二人だけでいくの」
 どこまでも無邪気に、可愛らしい笑顔でこたえる、二人のうちの小柄な方の少女。
 もう一人は、その笑顔に見惚れて真っ赤になってしまう。
「……ヒミツ?」
「うん!」
 やっとしぼりだした声に無邪気過ぎる答えが重なり、畳み掛けるように言葉は続く。
「ねえ、いきましょう?」
「……はい」
 うっとりと見惚れたまま、彼女も微笑みでこたえた。


 二人は、幼い。
 特に小さい方の女の子は、少女というよりもむしろ幼女といった方が適切に思われる
ほど、態度も雰囲気も幼く、見た目にも『小さい』。
 この小柄な方の少女の名を、黒姫 心(くろひめ しん)という。
 もう一方の少女――彼女が大柄というわけではない、心が小さ過ぎるだけだ――の名は、
西ノ宮 環。
 心と環は生まれた時からの幼馴染だ。
 二人の家は、それぞれかなりの資産家であり、家柄も相当に古い。黒姫家と西ノ宮家の
付き合いは、確かな記録と認められるかぎりでも文禄のはじめ頃から続いている。

 心の肉体は間違いなく女性だが、精神の性別は男性として生まれた。少なくとも本人は
そのように考えており、「自分は男だ」と主張し続けている。
 そのためか常々、環を「お嫁さんにする」と口にして憚らない。
 環もまた、そんな心を受け入れているようだ。


 この日。
 環は、その祖父である西宮 成和とともに黒姫家を訪れていた。
 成和は、心の祖父である黒姫 監物の義理の兄にあたる。監物の妻・文は、成和の妹だ。
 のみならず、監物と成和は『義兄弟の契り』を結んだ親友でもある。
 現代においては任侠物か時代小説くらいでしか目にしないような関係も、土蔵に刀槍は
おろか大鎧が使用可能な状態で保存されている旧家の人間には、まだまだ『当たり前』な
ものらしい。
 西宮家は一族で商社やデパートを経営しており、黒姫家は西宮一族に次ぐ大株主だ。
 さらに監物は、成和の個人的な経営コンサルタント――の真似事をしているので、
成和が監物を訪ねることは珍しくないし、その際には環を伴うことも多かった。
 心と環とは平素からお互いの家を行き来していて、それぞれが一人で『お泊り』する
こともよくある間柄なのだ。

        *         *

「ねえ心くん。見せたいものって、どんなもの?」
「まだ、ないしょです」
 心と環は、しっかりと手をつないで歩いていく。黒姫家の裏庭を抜け、お山――裏山を
囲む森へと。


 黒姫家の庭はそこそこに広い純日本式庭園で、正門から入った表庭(前庭)と屋敷に
囲まれた中庭、屋敷の裏手に広がる裏庭の三つに大まかに分けられる。
 さらにこの庭全体を、お山(裏山)から続く森が取り囲んでいる。面積からみれば
庭そのものよりも、この森の方が遥かに広い。
 とはいえ、どれほど広かろうが内容は単なる照葉樹の森だ。
 最低限度の手入れはされているものの、基本的には《カミサン》の森――神様の住まう
《ヤシロ》を護る『鎮守の森』として、ほぼ手つかずの状態が保たれている。
 だから、幼い子供だけで遊ぶには少々危険な面が目立つ。
 そもそも子供が遊ぶためならば庭だけでも十分な広さであるから、外で遊ぶといえば
二人は基本的にこちらで過ごすことが多い。
 もしも森まで行く場合には、『姉や』達がお供に付くのが決まり事になっていた。
 これが安全管理の為であることは、もちろん言うまでもない。
 だがこの日、心は、環と二人だけのヒミツを持ちたいがために決まり事を破ったのだ。

         *         *

 ――夢。
 これは『心』の思い出――幼い頃の夢だ。
 この時のことは覚えて……いや、知っている。女の子に『なって』から比較的すぐに
『思い出した』、女の子の『心』としての記憶だ――と、おぼろげな意識の中で、
心はおもった。
 そう、黒姫 心という人間には、『男の子のこころを持った女の子』として生まれた
現実やその過去とは別の、もう一つの過去があり、現実があった。
 それは男性の黒姫 心として誕生し、生きてきたという過去。それが、ある日とつぜん
女の子になってしまったという現実だ。
 今、この世界にも、男だった時の友人たちは存在していたし、彼らは男の心が『いた』
ことを忘れてはいなかった。
 男の時の親友である嶋岡 清十郎や、その恋人の杉原 透子――彼らの存在が、
いま心のこころを辛うじて支えていると、そう言っても過言ではない。

 ――自分は、男だ――と。

 ――男として生を受けて、生きてきた。そうしてある日突然、女の子に『変わって』
しまっただけなのだ――と。

 そうやって己に言い聞かせながら、必死で男としてのこころを保っているのだ。

 だが、心が直面している現実は、女の子の方の『心』の世界が優勢だ。
 姉の恋も、男の時は妹であった愛も、心が女の子として生まれた世界を在るべき現実と
して捉えている。
 黒姫家と付き合いのあるいくつかの旧家の人々にとっても、やはり心は『少し変わった
女の子』なのだ。

         *         *

「……きれい」
「ね? すごい? すごいでしょう?」


 森の中、心と環が行き着いた場所には、鬼百合や山百合が咲き乱れていた。
 自然状態ではありえぬほど、一面に。
 むせかえるような甘い匂いが、あたりに立ちこめている。
「心くん……」
 ぎゅうっと、環は心に抱きついた。
「環、どうしたの?」
「……」
 環が微かに震えていることに気付き、心も抱き返す。
 しかし、環のほうが背が高いため、心がすがっているようにしか見えない。
「どうしたの? こわいの?」
「ごめんなさい。少しだけ……でも、でも、とってもきれい。うれしいの、おしえて
もらえて……でも」
「だいじょうぶ。こわくないからね」
「うん。心くんがいっしょだから、こわくない。もう平気」
「環とボクだけのヒミツですよ」
「はい…」

 心が覚えているのは――いや、知っていたのはここまでだ。しかし、夢は終わらない。
 女の子としての新たな『思い出』が、心のナカにツクラレテいく。

         *         *

 しばらく花々と戯れた後、二人は黒姫家の裏庭へ戻ろうと、もと来た道を歩き始めた。
 手には数輪の百合がある。

「――心様? 環様?」
 秘密の場所から少し離れたところで、声が掛かる。
「……みっちゃん」
 それは、心のよく知る人物だった。
 波木井 通子(はきい みちこ)。
 女の子として生まれた『心』のみならず、男の心にとっても彼女は馴染み深く、
そして同時に、とても懐かしい存在。
 通子は、男女どちらの世界においても、心が生まれた時からの『お世話役』だった。

 この頃の、即ち、まだ心が幼く、祖父も父母も生きていた頃の黒姫家には、
いつも二十人近い使用人が住み込みで働いていた。
 住み込みでない者も多少はいたが、若い女性の『姉や』達は一部の例外を除き、
ほとんどが住み込みだった。
 使用人はほぼ全員が女性で、数少ない例外が、祖父の秘書を兼ねていた執事の吉野と、
運転手の牧野だ。
 姉や達は若い女性ということもあってか、辞めたり他所へ移ったり、或いは逆に移って
きたりと、入れ替わりもそこそこに頻繁だったので、新しい姉やが心の知らぬ間に増えて
いることすら、さほど珍しくはなかった。
 さらにいえば、これは至極当たり前のことであるが、姉や達はそれぞれ担当する仕事が
決まっている。一例を挙げれば、心、恋、愛、黒姫家の子供たちには専属の『お付き』が
二・三人ずつ就いていた。
 『お嬢様・坊ちゃま』が幼い頃は子守として、成長してからは侍女として常に付き従う
――そういった『お付き』の使用人達にとっては、その担当するお嬢様・坊ちゃまこそが
主(あるじ)に他ならない。
 たとえ実際の雇用主は黒姫家の当主だとしても、最優先すべきは『お嬢様・坊ちゃま』
なのだ。

 大事な子供の面倒を看させるわけだから、この仕事に就くためには厳しい審査を受けて
合格せねばならない。
 もっとも重視される人となりはともかくとして、家柄つまり身元の確かさから、
受けてきた教育など、ありとあらゆる点を徹底的に調べ上げられるのだ。


 すべてにおいて問題なしとされた者が、この家の奥方――心たちの母――による面接を
受ける権利を得て、さらにこれを通った者だけが、最後に当主の承認をもって『お付き』となる。

 審査項目を重要度から見た場合、家柄は、かなりの上位に位置する。
 家柄などと言うと「何を時代錯誤な」と考える向きもあるかもしれないが、
要は身元の確かな人間が望ましいというだけのこと。が、ここで少し問題なのは、
黒姫家が由緒ある旧家だということなのだ。

 これまでにも少しだけ述べてきたが、黒姫家は古い家だ。
 かつては大身の旗本で、交代寄合に列し、『屋形号』を許されていた。
 これの意味するところは、名目上、大名に近い扱いを受けていたということ、
そして徳川幕府の治世が始まる時点で、すでに『旧家』だったということだ。
 そのために現在でも付き合いのある家は、黒姫家のように古い家が多くなるし、
かつての家臣であった家々も、今もって黒姫家を取り巻いている。
 この家臣だった家の中には、現在でもその事を誇りとし、古いしきたりを進んで守ろう
とする者達がいる。
 たとえば、嫁入り前の娘を行儀見習いと称して奉公に上がらせる――等が『それ』だ。
 そして、各々の一族の期待と誇りを背負った娘たちが望む役目こそ、
他ならぬこの『お付き』だ。
 彼女らが『お付き』になりたがるのには、一応、それなりに理由がある。
 黒姫家自体が古い家であるから、それに仕えていた家々も同様に古い家になるのは、
まあ一応、筋の通る理屈であろう。
 家臣であってもそれなりに高い位にあった家の子孫は、没落した場合を除けば、
その『それなり』の暮らし向きを保っていくし、なかにはかつてより栄えることもある。
 繁栄したにせよ没落したにせよ、彼らが『それなり』に古い家柄であることは
変わらないし、その子女ともなれば『それなり』の『お嬢様』でもあるということだ。
 きちんとした教育を受けた『お嬢様』が、『お嬢様・坊ちゃま』を世話する。
 まことに結構なこと――なのかもしれない。
 だが、世話する側の『お嬢様』達にも、それぞれのプライドがあるのだ。
 かつての主――『お殿様』である黒姫家の人々に仕え、お世話するのならばまだしも、
どこの馬の骨とも知れぬ者と共に働いたり、ましてや指示に従うなど以ての外だ。と、
そう考えたのが多数派だったということらしい。

 使用人とて職業である以上、そこには上司と部下の上下関係がある。黒姫家の場合は、
執事の吉野を筆頭とする、概ねピラミッド型をした単純な組織だ。
 吉野の家も代々黒姫家に仕えてきた家系であり、家臣内での身分の高低は、
御一新以前でいえば、高くも低くもない中程度だ。
 行儀見習いとして姉やになる『お嬢様』のなかには、吉野よりもかつて高い身分だった
家の子女もいる。彼女らも、現代の黒姫家で働く以上は、使用人の監督者である執事の、
吉野の指示に従う義務が生ずる。
 しかし、特例として、執事の監督を受けない仕事もある。
 それが『お付き』なのだ。
 『お付き』の姉やは、直接、黒姫家の家族にのみ従えばよい。
 だから身分の高い家臣の子孫ほど、この役目に就くことを望む。
 結果として、もともと高い採用基準をさらに厳しいものに吊り上げていた。
 故に『お付き』に選ばれた者の誇り高さと自負は、並大抵のものではない。
 『お付き』のうち、子守の専門家として、いわばプロの乳母として雇われた者を
とくに『お世話役』と呼ぶ。
 行儀見習いの姉やは、大体が長くても2年ほどで辞めてしまう。それは首尾良く希望の
職である『お付き』となった場合でも変わらない。


 彼女らは、主である『お嬢様・坊ちゃま』が赤ん坊のときから、奥方のサポートをする
かたちで仕え始め、基本的に主が成人するまではずっと傍にいる。
 黒姫家の長い歴史においては、主にその一生を捧げた『お世話役』も珍しくはない。

         *         *

「ごめんなさい」
 言い訳をせずに、心は素直に謝った。
「ごめんなさい」
 心の隣で、環も声をそろえて謝っていた。
 二人は手をつないだまま不安げに通子を見上げている。
 通子は叱ろうという様子も見せず、
「やはり、こちらにいらしたのですね」
 と、静かに微笑んだ。
「心様も、環様も、お二人ともお怪我などはありませんね?」
「はぁい」
 少し甘えたような、可愛らしい声で、返事をする心。
「はい」
 心に比べれば、幾分しっかりとした口調で、返事をする環。

 いつものことだ。
 通子は、滅多なことでは叱らない。
 心がよほどに『悪いこと』をしない限りは、声を高くすることさえないのだ。
 いざ叱るにしても、それは『叱る』というより『たしなめる』とか『諫める』、或いは
『注意する』という表現のほうが適切であった。
 きちんと筋道を立てて、『道義・道理』に基づき、何故『それ』をしてはいけないかを
分からせようとする。
 それが、通子という人物であった。

 心のほうも、叱られるような『悪いこと』は滅多にしない『良い子』であったから、
その結果、心と通子の間には、いつも笑みが絶えない――そういう関係が、自ずから
出来上がっていた。

 なかには、こういう通子のやり方を「甘い」という人間もいる。
 心の母だ。
 通子を選んだのは心の母であるから、もちろん彼女は、通子を誰よりも信頼している。
 けれど『やり方』というのは人それぞれに違うもの。
 ゆえに信頼していても甘いと感じるものは仕方が無い。
 だからといって、通子の『やり方』に口出しするようなことは無いのが、母の、通子に
対する信頼の証であった。
 第一、お世話役と言っても、心の母は、病弱な心にほとんど付きっ切りであったから、
心に対する『教育』の手綱は、つねに心の母がしっかりと握っていた。
 あくまで通子の役目は、心の母親の補佐なのだ。
 ことに、礼儀作法に関しては、心の母は誰よりも厳しかった。
 父や祖父ならば構いつけもせず、通子であれば大目にみてくれるような些細なことでも、
『お行儀の悪いこと』をしたら、母には叱られてしまう。
 幼い頃、心が、もっとも恐れていたのは他の誰でもなく、母であった。

 ただ、心に限っていえば、通子のやり方が性に合っていたのだろう。
 心は潔癖すぎるほど、『曲がったことが大嫌い』な人間に育っていったのだから。

 何より、黒姫家とそれを取り巻く旧家の人間達には共通の『規範』が存在していたから、
それを『道義・道理』の基礎として、心を教育すればよかったのだ。
 その『規範』とは、《カミサン》を祀る『教義』のことである。

 黒姫家は、代々、正体のよくわからぬ『神様』である《カミサン》を祀ってきた。


 黒姫家に仕えた家臣たちも、当然として主に習い、《カミサン》を信仰してきたし、
大昔から付き合いのあった家々も、密かに、この信仰を共有してきた。
 この『土着信仰』の『教主』とも言えるのが、黒姫家の《御子》である。

 《御子》とは《カミサン》を祀り、祭祀を取り仕切る『お役目』だ。
 さらに御子は、その名の示す通り、《カミサン》の《子》であり、現世における化身で
あるともされている。

 この世で唯一、《御子》のみが、《カミサン》に対して『お願い』することを許される。
 《御子》と《カミサン》を結ぶものは、『親子の情愛』なのだ――と言われている。

 しかも、黒姫の一族以外の人間は、《御子》による『仲立ち』無しには、《カミサン》
への信仰自体が許されない。
 ゆえに、黒姫家が祀ってきたのは《カミサン》であるのだが、それを取り巻く旧家の
人々が信奉してきた存在は、直接にはむしろ《御子》のほうなのだ。

 いうなれば『生き神』である。

 そうして、心は《御子》となるべくして生を受けた。男として生まれた世界においても、
女として生まれた世界においても、この点は変わっていない。

 いずれ《御子》となる者には、それに相応しい心得というものがある。
 『お役目』を継ぎ、《御子》となった暁には、すべての『信奉者』に対し、ごく一部の
特別な者たちを除き、できるだけ平等に接しなくてはならぬからだ。
 この『平等』は、一般的な意味での平等ではない。
 あくまでも、《カミサン》と《御子》の下における『平等』なのである。

 《親》である《カミサン》の庇護のもと、ただ、おのれ一人のみを絶対の存在として、
あとのすべては『平等』に『下』として扱う。
 これが――《御子》たる者の心得――と、されていた。

         *         *

 通子は一人ではなく、若い女性を伴っていた。
 心には『お世話役』である通子のほかに、あと二人の『お付き』がいるが、この女性は、
そのどちらでもない。
 けれど心は、彼女の顔に、何となく見覚えがあった。
 夢の中の、女の子の『心』も、彼女の顔に見覚えがあるものの名前は知らないようだ。
「だあれ?」
「ご挨拶が遅れたこと、どうかお許しください。わたくしは内田と申します。先日より、
黒姫の御家の、お世話になっております」
「うちださん? ごめんなさい。お顔は知ってるの。でも、お名前は……」
 しょんぼりと、心は本当に申し訳なさそうに、内田と名乗った女性を見上げている。
「お気になさらないで下さい。お嬢様方とこうしてお話させていただくのは、初めてで
ございますから」
 心を見つめて、内田は優しく微笑む。
 その頬にわずかながら赤みがさし、瞳も潤んでいるように見えるのは気のせいであろうか?
 通子は黙ったまま、この場の様子をさり気なく、だが注意深く見守っている。

「はじめまして、西ノ宮 環です」
 心の隣で、環も遅れて挨拶をする。遅れたというよりは、二人の会話が落ち着くまで
待っていたのだろう。
 きちんとした振る舞いは、幼いながらも、まさにお嬢様の鑑といった感じだ。
「これはご丁寧に恐れ入ります。はじめまして、内田と申します」
 通子が見守る中、環を交えつつ、心と千重の会話は続く。



 《親》である《カミサン》の庇護のもと、ただ、おのれ一人のみを絶対の存在として、
あとのすべては『平等』に『下』として扱う。
 これが――《御子》たる者の心得――と、されていた。

         *         *

 通子は一人ではなく、若い女性を伴っていた。
 心には『お世話役』である通子のほかに、あと二人の『お付き』がいるが、この女性は、
そのどちらでもない。
 けれど心は、彼女の顔に、何となく見覚えがあった。
 夢の中の、女の子の『心』も、彼女の顔に見覚えがあるものの名前は知らないようだ。
「だあれ?」
「ご挨拶が遅れたこと、どうかお許しください。わたくしは内田と申します。先日より、
黒姫の御家の、お世話になっております」
「うちださん? ごめんなさい。お顔は知ってるの。でも、お名前は……」
 しょんぼりと、心は本当に申し訳なさそうに、内田と名乗った女性を見上げている。
「お気になさらないで下さい。お嬢様方とこうしてお話させていただくのは、初めてで
ございますから」
 心を見つめて、内田は優しく微笑む。
 その頬にわずかながら赤みがさし、瞳も潤んでいるように見えるのは気のせいであろうか?
 通子は黙ったまま、この場の様子をさり気なく、だが注意深く見守っている。

「はじめまして、西ノ宮 環です」
 心の隣で、環も遅れて挨拶をする。遅れたというよりは、二人の会話が落ち着くまで
待っていたのだろう。
 きちんとした振る舞いは、幼いながらも、まさにお嬢様の鑑といった感じだ。
「これはご丁寧に恐れ入ります。はじめまして、内田と申します」
 通子が見守る中、環を交えつつ、心と千重の会話は続く。

「お名前は? うちださんのお名前は、なんていうの?」
 言葉足らずも甚だしいが、心は、氏名の『名』のほうを訊いているのだ。
「千重と申します」
「ちえさん……ちーちゃんですね。ちーちゃん、よろしくね」
 心は早速いつも通りに、姉やに愛称を押し付けた。いちいち相手の許可を求めたりはしない。
 本当の意味で、まだまだ子供であった頃の心は、己のもって生まれた立場等に疑問を
抱くことも無く、子供らしい無邪気さを抑えることもなく、その発露として無神経とも
いえる態度をとっていた。

「でも、どうしてちえさんは、みちこさんと一緒にいらしたの?」
 姉や達の忙しさを、多少は理解している環は、疑問に思いたずねる。
 彼女の疑問はもっともな事で、『お世話役』として心を探していた通子ならばともかく、
こんな場所をふらついていられるほど姉や達は暇ではない。
 仮に、心と環を探す手伝いをしていたというならば、通子と別れて、手分けして探した
ほうが効率が良いはず。わざわざ一緒に行動する理由が、今一つ見えてこない。

「奥方様より、お二人をお連れするようにと命じられました」
「おば様が?」
「はい。お二人をお探しする通子さんを手伝うように、と。その際、通子さんから離れぬ
ようにとも仰られました。……わたくしには、理由までは分かりかねます」
「それで、みちこさんと一緒に、わたくしたちをさがしてらしたの?」
「はい。大殿様と西ノ宮の大旦那様は、お出かけになられるそうで、お嬢様方をご一緒に
お連れなさりたいと仰られまして――」
 使用人といえど、他家の大人を相手にしていることから、環はきちんとした言葉遣いを
している。


 心と同い年でありながら、環の態度は、旧家の令嬢として恥ずかしくないものだ。
 西ノ宮家は、黒姫家と同じく幕藩体制においては大身の旗本であり、いわばかつての
同僚にあたる。それ以前から両家には付き合いがあって、姻戚関係も結んでいた。

「お祖父さまとお出かけ? 何しにいくの?」
 『お出かけ』と聞いて、心は気になって仕方が無いようだ。二人の会話に割り込んで、
その上、千重の衣服の裾をくいくいと引っ張って自分に注意を向けさせようとする。
 一緒にいる環の、洗練された態度とはまるで違う。
 心の母――奥方の目に触れたら、きっと叱られてしまうだろう。
 子供らしいといえばまことに子供らしいが、一つ間違えれば『はしたない』とも取られ
かねない姿である。

 それなのに――。
 仔猫のように気まぐれなのに、少しも『はしたなく』見えないのは、

{どうして?}

 なのだろうか。
 先ほどから、その姿にずっと見惚れている千重は、もはやなかば夢見心地だ。
 まだ、如何なる穢れも知らぬ無垢な肌は、剥きたてのゆで卵のようにつるんとして、
真っ白で、きめが細かい。
 触れればきっと、すべすべ、ぷるぷるした、極上の感触を味わえるはず。
 やわらかく艶やかな髪は、光の差し加減によって輝きを変え、『金色(こんじき)』にも
見える。
 ぱっちりとして人一倍大きいくせに黒目がちという、いささか矛盾した特徴をそなえる
琥珀色の瞳も、やはり、髪と同じく『金色』と表現できようか。
 薄桃色の唇は、大き過ぎず小さ過ぎず、厚くもなく薄くもなく、ちょうど良い大きさと
厚みをもって、これまた絶妙な位置に可愛らしく鎮座している。

{奥方様に、とてもよく似ていらっしゃる――だからかしら?}

 譬え世界最高の芸術家の手になる彫刻であっても、ここまでは辿り着けまい。
 そう確信できるほどの、あまりにも整い過ぎた美貌を、目の前の少女はそなえており、
そこには彼女の母親の面影が色濃く表れている。
 ただ単純に可愛らしいとか美しいというだけでなく、上品で優雅な貴婦人である母親と
似ているため、そのイメージが重なるのではないか――と、千重は考えたのだ。

 千重は、この家の奥方、つまりは心の母親に心酔している。
 彼女はまだ黒姫家にきて日が浅く、客間女中の見習いを始めたばかりだ。
 千重の家――内田家は、黒姫家で代々『用人』を務めてきた二本木の一族。
 それも本家にごく近い、新しい分家である。
 用人は、殿様の身辺にて日常生活一般の管理をし、家政をとりしきる役目であるから、
現代に当てはめて考えると、執事である吉野と似たような仕事をしていたと言えよう。
 こんにちでは、二本木家とその一族はいくつかの事業を経営しており、外見のうえでは、
とうの昔に主家から独立した、ひとかどの旧家である。
 そればかりか、いまや単純な財力でいえば、二本木家は黒姫家をしのぐほど。
 よって、そんな一族の娘である千重は、紛れも無いお嬢様だといえる。
 当然、彼女も行儀見習いにあがるに際して『お付き』となることを希望していた。
 しかし、千重は、黒姫家に来た当初から面接までの期間において、奥方にすっかりと
惚れ込んでしまった。
 もともと顔見知りではあったし、美しさに『憧れ』も抱いていた相手であったのだが、
その人柄に触れるうち、単なる『憧れ』が明確な『目標』へと変化していったのだ。
 だから、奥方から直接指示をいただける役目を志望することした。

 黒姫家には何かと来客が多い。


 いまの奥方は、自らが客人と直に接することを好んでいるから、接客を役目としている
客間女中は、直接、奥方の指示・監督を受けられる。
 また、家族の口に入るものに関しても、幾つかは手ずからつくりあげるのが常なので、
台所女中も奥方と接する機会が多い。
 むろん、奥方付の侍女が、もっとも傍にいられるのだが、そちらにはすでに長年つとめ
たベテランがおり、そうそうとって代われるようなものではない。
 ゆえに千重は客間女中を志望し、それは拍子抜けするほど呆気なく、すんなりと叶った。

         *         *

「お食事と伺っております」
 心に見惚れてしまい、答えることが出来なくなっていた千重に代わって、通子が簡潔に
答えた。
「ほんと? いきましょう、環」
「はい」
「……あ、お供いたします!」
 心と環がトコトコ歩きだしたことで、ようやく我に返った千重は、二人を先導しようと
歩きだす。数歩すすんだところで、ふいに彼女の手に何かが触れた。
「…心様?」
 心がその小さな両手でしっかりと、なかばぶら下がるように、或いはすがるように、
千重の手を握っている。
「うふふ、ちーちゃん」
 にこにこと満面の笑みで、心は千重を見上げている。
 赤ん坊のように小さくやわらかな手が、きゅっと千重の指をつかみしめている。
 少し高めの体温がしっとりと伝わってきて、その、えもいわれぬここち良さに、千重は
つかの間、またしても、こころ奪われそうになってしまう。
 ぐっと堪え、通子に視線を送り、

{よろしいのでしょうか?}

 と、目顔で確認する。
 新参者の自分が、お世話役を差し置いて、次の代の『御子』であり『跡取り娘』でも
ある心と、かように気安く触れ合っても良いものなのか、伺いを立てたのだ。
 対して通子は、ただ、にこやかに肯いた。

         *         *

「ちーちゃんに、おねがいがあります」
「はい、なんなりとお申し付けください」
「これを――このお花、ボクのおへやに活けてください」
 そう言って、手にした百合の花を、手を握ったまま千重に渡す。
 茎がつぶれて折れてしまうのではないか、と思われるような無造作な渡し方。だが、
不思議なことに、百合の花はまったくの無傷だ。
「承りました」
 千重は答えて、両手で恭しく花を受けとり、はじめに心が渡してきた方とは逆の手に
持ち替えた。
「……それから、それから、もう一つおねがいがあるの」
 急に声が小さくなり、うつむいて、心はもじもじし始める。
「はい。それは、どのような…?」
 よほどに無茶な『お願い』でなければ、可能な限り叶えるのが使用人のつとめ。
 それに千重自身が、

{何でも、叶えて差し上げたい}

 と、思い始めてもいるのだった。

「あのね」
 心は瞳を潤ませて、ほっぺを朱に染めながら手招きする。
 千重いがいには聞かれぬように、小さな声で話したいらしい。


「はい…?」
 誘われるまま、千重は屈んで、心の口元に耳を寄せた。
「あのね、ここにボクたちがいたこと、ないしょにしてください。母さまにはないしょに
してください。ボクと環が、二人だけで森にきたこと、ひみつにしてほしいの」
 やっとこれだけ言うと、あとはただ、じっと千重を見つめている。
 心の瞳はうるうるとして、今にも涙がこぼれだしてしまいそうだ。
 みればいつの間にか、心の傍らには環がいて、こちらも千重を見上げている。

{どうしましょう! どうしたら、いいのかしら……?}

 『お願い』されたものの、これはなかなか難しい。

 何といっても、千重は奥方のもとで直接に指示を仰ぐ身。今こうして心と環を探しに
来たことからして、奥方から二人を連れてくるよう命じられたためなのだ。
 それに、お世話役たる通子を目の前にして、見て見ぬふりなぞできよう筈もない。
 考えてみれば、いったい何故、通子を差し置いて自分にこのことを『お願い』してきた
のだろう――。千重は、どう答えたものかと窮してしまう。

 固まってしまった千重の肩に、そっと、手をかけるものがいる。
 通子だ。
「あ…その」
「心様と環様の、お望みどおりにしてあげてください。――ね? 大丈夫ですから」
「……。はい」
 通子の自信に満ちた眼差しに、千重は落ち着きを取り戻す。
 不安げな表情で見つめている心と環に向き直り、
「お任せください。わたくしは、決して、どなたにも申しません。絶対に秘密にいたします」
 この一言で、
「ありがとう。ちーちゃん」
「ありがとうございます」
 心も、環も、笑顔に戻る。
 二人して、「よかったねえ」などと言い、手を握り合って喜んでいるのだから、
まったく他愛のないものだ。

「では、千重さんはお約束どおり、奥方様に何も申し上げずにいてください。わたくしも
お約束します。すべて、わたくしが責任を持ちますから」
 千重にしか聞こえぬ声で、しかし、きっぱりと通子は言った。
「はい」
 千重は答えながら、

{さすが…。奥方様の選ばれた方}

 己の『先輩』のやりように、ただ素直に感心していた。

 心が、千重だけに『ないしょ』にしてと『お願い』した理由は単純だ。 通子は、わざわざお願いせずとも『分かって』くれている――と、信頼しているからに
他ならない。
 通子は心のお世話役だ。だから心がお願いすれば、大体のことなら聞き届けてくれるし、
いざとなったら『命ず』れば、かなり無茶なことでも強制できる。
 となれば、この場の『ひみつ』を守る為に『お願い』せねばならない相手は、千重のみ
ということになるわけで……。

 実際は、今日の『このこと』は、通子から奥方へ、仔細洩らさず報告されるだろう。
 そのうえで、すべて分かったうえで『無かったこと』にしてしまえる――そういう強い
結びつきが、お互いへの信頼とそれに応える能力と自負が、通子と奥方の間には存在して
いるのである。

 そもそも通子は、奥方の実家である瀬丸家に代々仕えてきた、波木井家の人間だ。


 瀬丸家は、大昔に黒姫家から分かれた家であり、やはりかつては大身の旗本だった。
 いまの奥方――心の母親は、何人もの許婚候補の中から選ばれた存在であり、尚且つ、
当代の『御子』が『お役目』を継ぐ契機ともなった女性だ。
 彼女がまだ黒姫家に嫁ぐ前から、通子は、その傍に仕えていた。
 通子のほうが年下であるから、彼女にとっては何となく『妹』のような存在でもあり、
黒姫家に嫁ぐに際して、通子をまず自分の侍女として伴ったのだ。
 どうやら彼女は、はじめから次代の御子の『お世話役』をさせるために、通子を選び、
連れてきたふしがある。
 その頃はまだ学生であった通子は、黒姫家から高校・大学へと通って卒業し、さらに、
『乳母』としての勉強をするために、英国・欧州へと留学もした。
 それらの費用はすべて、当然に、黒姫家の負担によった。
 奥方からの、通子に対する信頼の厚さと期待の大きさ、その何よりの『表れ』だといえよう。

 さて、奥方が来客の接待を好んでいることは、さきにも少し触れた。
 この日も、西ノ宮 成和氏がその孫・環を伴って訪ねてきたため、彼女ははりきって、
義父・監物とともに、その接待に臨んだ。
 このようなとき、かつて長年、自分の侍女として傍らに置き、いまも心のお世話役と
して近くにいる通子に補佐をたのむのは『よくあること』であった。
 接待の場に、心や子供達を同席させておけば、常に自分の目で見守ることができるし、
そういった席での『行儀作法』を身につけさせる良い機会にもなる。
 だから、いつもは、心も一緒にさせていた。心のところに遊びにきた環も同様だ。

 しかし、この日は珍しく、心が、「環と二人で、外に行きたい」と言い出した。
 生まれたときから病弱であった心も、最近は少しずつではあるものの、だんだんと
しっかりしはじめているし、甘えん坊ではあっても周りを困らすようなことはしない子で
あったから、奥方は心の願いをきいて、外に出させた。
 そして、通子を除いた『お付き』の二人を、供に付けたのだが……。

 心は、「鬼ごっこがしたい」といって、まず、環を鬼にした。
 いざ鬼ごっこが始まるや、さっさと環に見つかって、そのまま、二人だけでまんまと
庭を抜け出し、お山へ赴いたというわけであった。

         *         *

 心は千重の手を握り、反対の手を環とつなぐ。心を真ん中に、三人が横並びで歩く形に
なった。その後ろから、それとなく周囲に気を配りつつ、通子が続く。
 四人は、子供たちのペースでゆっくりと歩いている。
 広い森の、だいぶ奥まで来ていたために、到着にはまだ暫く時間がかかりそうだ。

 心は、まだ馴染みの薄い千重に対して興味があるらしく、いろいろと話かけている。
 そのどれもが実にもう、他愛のないことばかり。「冷し汁の具は何が好きか」とか、
「お魚とお肉はどちらが好きか」などなど、食べ物のことばかりなのはきっと、これから
祖父とお出かけするお食事が楽しみだからに違いないのだ。

 すっと、音も立てず、通子が三人を背にかばうように歩みでた。
「何者です」
 静かに、行く手に向かって誰何する。
「ほほう。気づいていたか。さすがに……だが、何者とは、ずいぶん乱暴な口の利き方を
するんだな? そんなことで《御子》のお世話とやらが務まるのか?」
「こそこそと姿を隠して、あとを尾行けまわすような方にとるべき礼儀はありません」
 返ってきた軽口に対して、通子はきっぱりと言い切った。
「ふんっ。口の減らぬ……。まあいい。ならば、こちらが礼儀を通してやろう」
 通子が睨み付ける先に、男が現れた。
 一見すると真面目そうな、サラリーマンらしきスーツ姿をしている。


「お初にお目にかかる。故あって今は名乗れませんが。《御子》よ、お迎えに参りました」
 その場に跪き、心に向かって頭を垂れる。
「何を言うのです。心様を、どうなさるおつもりです」
「いま申し上げた通りだ。これより《御子》には、我らとともにおいで頂く。我らが
『教団』に、な……」
 ざわざわと、辺りに気配が湧き上がる。
 男を囲むように、スーツ姿の集団が、周囲の木影から姿を見せた。

         *         *

 夢を見ている心は、

(……『教団』? ああ、そうか、そうか)

 そういえば、そんな人たちがいたような――と、古い記憶に思い至る。
 男であったときの心も、『教団』と名乗る連中に『誘拐』されかかったことがあったのだ。
 それも、一度や二度ではなかった。

 『教団』は、ある日とつぜん現れた。
 心は、彼らのことをよく知らないが、『教団』の本部は米大陸にあるらしかった。
 遠い異国からやってきた、その『教団』は、この地域に大昔からあった『土着信仰』に
目をつけ、その『教主』たる黒姫の『御子』を狙ってきた。
 この地域の実質的な支配者層である、黒姫家とその取り巻きの旧家たちが邪魔と考えた
『教団』は、これを排除するのではなく、自らの内に取り込もうとしたらしい。
 《御子》を手に入れてしまえば、黒姫もその他の旧家も、『教団』に従わざるをえなく
なる。
 当時、《御子》は心の父と母であったが、同時に、次代の《御子》である心も狙われた。
 しかし、その目論見が成功することはなく、いつの間にか『教団』は姿を消した。

 いま心がみている夢の内容は、どうやら、男の心の世界に現れたのと同一のものらしい
『教団』が、女の子の『心』の世界にも現れていた――ということなのだろう。

 男の子のときには、いつも、父が、守ってくれた。

 女の子のときにも、やはり、父が、守ってくれるのだろうか?

 心は、だんだん『わくわく』しはじめていた。
 このまま、この夢を見続けていれば、逢えるかもしれないのだ。
 大好きな、大好きな、父に。
 それも、心がいちばん好きだった、誰よりもいちばん男らしく、いちばん格好よく、
いちばん優しく、世界でいちばん強い――あの頃の『父さま』に逢えるかもしれないのだ。

 今まで、この夢を見ていた心は、それほど熱心にこれを見ていたわけではない。
 例えるなら、つけ放しのTVを見るとはなしに眺めていたようなもの。
 しかし今度はこれまでとは違い、むしろ積極的に、夢の中の女の子の『心』へと意識を
溶け込ませていく。

         *         *

「おまえ達、《御子》にご挨拶申し上げろ」
 はじめに現れた男の言葉に、後から現れた男達は全員、その場に跪いて頭を垂れた。
 合わせて七つの頭が、心に向かって下げられている。
 皆、黒っぽい地味なスーツ姿だ。よくよく見れば、彼らはそれぞれになかなか良い品を
身に着けているらしいのだが、これだけ人数が揃ってしまうと、逆にぱっとしないようだ。
 まじめそうなサラリーマンの集団といった印象にしかならない。

「……しかし、なんと……なんという、なんという愛らしい御姿であることか!」
 この集団のリーダーであるらしい、はじめに現れた男が、溜め息とともに立ち上がり、
笑みを浮かべ両手を広げた芝居がかったポーズで、心を見つめる。


「見ろ! あの御姿を。噂以上に無垢で、神々しい。流石は、かのご高名な『魔王』の
『落し仔』であらせられる。やはり、この御方こそ、我らが『聖人』としてお迎えするに
ふさわしい」
 その、あまりといえばあまりに大仰な仕草に、心は驚き、傍らの環にしがみつく。
 それを庇うように、環は、心を抱きかえす。
 環は気丈にも、男たちに挑むような視線を投げかけていた。

「もう一度お尋ねします。心様に何をなさるおつもりですか?」
 通子は、静かな声で、先ほどと同じ意味の質問を繰り返す。
「我らと共に『教団』へおいで頂く」
 リーダーらしき男の答えは、変わらない。
「心様は――黒姫の《御子》は、あなた方とはまるで関わりの無い御方です。なにゆえ、
あなた方の『教団』とやらに、心様の赴かれる道理があると申されるのでしょうか? 
このまま立ち去るというならば、無礼な振る舞いは不問にします。さあ、いますぐ、
ここから立ち去りなさい」
「それはできん。我らは誓ったのだ。必ず、《御子》を『教団』にお連れ申し上げると。
この我らの行いが、御子に対する無礼であることも、恐らくは決して許されぬ『罪』で
あろうことも、すべて承知の上。ゆえに、どうあってもおいで頂く」
 男の声は徐々に低くなり、恫喝の色を帯びていくかに思えた。
「――だが、これだけは分かってもらいたい。我らには、決して《御子》に危害を加える
つもりなどは無いのだ。《御子》は丁重にお迎えする。我らにできる最上の崇敬をもって、
お迎えすることを約束しよう。もっとも、こんな形でお迎えにあがった我らを、信じろと
いうのは無理なことかもしれんな……」
 男の声からは力が抜けて、寂しげな笑みさえ浮かべている。
 しかし、そんな、どことはなしに含みのある男の態度も、
「そこまでお分かりならば、なぜこのようなことをなさるのです」
 通子はまるで意に介さぬつもりらしい。
 自覚しているなら「早く失せろ」といわんばかりの冷たい声を返すのみだ。
「必要だからだ。今の我らには、どうしても必要なのだ。本部から遠く離れた東の果ての、
この国の『支部』には、教主様に比肩するほどのカリスマをもつ象徴が、新たな『聖人』
が必要なのだ。となれば、黒姫の《御子》をおいて他に『聖人』たりうる方はおられまい。
かの果てしない『魔王』は、我らが偉大なる神においても窮極の根源であり、始祖にても
あらせられる。その『落し仔』たる《御子》は、いわば我らが神の親族――いや、兄弟も
同然。その《御子》に『教団』の『聖人』として『支部』を導いていただくことに、何の
不自然もあるまい?」
「なんという勝手な……。そのように身勝手な理由で、心様を煩わすなど言語道断です。
第一、《御子》のお導きを賜りたいと申されるならば、なぜ、わたくしたちのように
『輪』に加えて頂こうとなさらないのですか。そうなさろうともしないばかりか、反対に、
《御子》を自分達のために担ぎ出そうなどと……。あなた方は、ただ、《御子》の御威光
を利用せんとしているだけです」
「否定はせんよ。まさにその通りなのだ。我らは、この国で『教団』の――教主様の教え
を広めるために、戦う『力』を必要としている。そのために、人を集める象徴が欲しい。
その象徴とはもちろん、我らの教義において、『神聖な』御方でなくてはならん」

         *         *

 男の話からすると、彼らの『教団』は、いわゆる多神教であるらしい。
 彼らの崇める神とは、創造主ではなく、その子か孫か―― 子孫にあたる存在のようだ。
 世界中に数多ある神話のなかでも、創造主を主神としないというのは、さほど珍しい話
でもないらしい。
 多神教ならば、そうなる可能性も自然と高くなるのだろう。
 なにせ、多神教には『神様』がたくさんいるのだ。


 『親』より『力』をもつようになる『神様』が存在しても、おかしくはない。
 それに主神として扱われるかどうかは、崇める側の事情にもよるから、単純に『力』の
有る無しや強弱で決まるわけでもない。

 『教団』は、自分達の教義にある創造主を、黒姫家の祀る《カミサン》と同一視して、
《御子》を自分達の組織に組み込むつもりのようだ。
 《御子》を、自分達の神や教主と近しい神聖なものとして祀り上げ、黒姫家とその取り
巻きの旧家たちごと吸収しようという魂胆だろう。
 侵略する側が、される側の神話・宗教を、都合の良いかたちに読み替え、組み換えて
取り込む――使い古されてきたやり方だ。であるからこそ、有効なことが証明されている
ともいえる。
 この目的のために、『教団』の人間達は、《カミサン》と《御子》についても、
それなりに調べてきているようだ。
 例えば、彼らは《カミサン》をさして『魔王』といった。
 この『魔王』という呼び方は、黒姫家に伝わる伝承においても、《カミサン》を表して
使われることがある。
 そのほとんどは、伝承のなかで、他の神様が《カミサン》を呼ぶ場合だ。
 黒姫の《カミサン》の教義も、多神教なのだ。

 伝承によれば、『神様』は、ありとあらゆるところに、数多く存在している。

 海の底に、豊かな平野に、湿った洞穴に、山に、空に、深い井戸の底に。

 この世界にも、ここではない世界にも、世界ではない何処かにも――。

 神様がたくさんいるのと同じように、『世界』もまたたくさんある。

 力をもつ神様もいれば、そうでない神様もいる。

 『人気』のある神様もいる。誰からも信奉されることのない神様もいる。

 そして《カミサン》は創造主……親のようなものであり、すべての源だ。

 しかし、《カミサン》は源ではあっても、積極的に『何か』を生み出そうとするような、
生産的・建設的で『親』らしい存在ではない。
 ただ何となく、いつの間にか『すべて』を生んでいた――あらゆるものは、勝手にその
うちから湧いてきたものにすぎない――という。

 だが、たった一つだけ、《カミサン》が生もうとして生みだした存在がいる。

 その存在こそ《御子》である。

 ――黒姫の伝承とは、極めて大雑把に言えば、このような内容からはじまるものだ。

         *         *

「ちがうもん」
 これまでずっと黙って、男達と通子の様子を見ていた心が、はじめて声をだした。
「ボク、御子じゃないもん。《御子》は、父さまです」
 心の声を聞いて、リーダーの男は目を細める。
「そうでありましたな。確かに、今は、貴女様のお父上が《御子》であらせられますな。
しかし、いずれは貴女様が《御子》となられる。そのことに間違いはございますまい?」
 男の優しげな態度に、どうしていいものか戸惑いながらも、こっくりと心は肯いた。


「ならば、問題などございません。いいえ、我らにとってはむしろ貴女様こそが、まこと
理想の『聖人』なのです。ですから是非とも、貴女様をお連れ申し上げさせて頂きます」
 男たちが四人の方へと、取り囲むように近寄ってくる。
 その足取りは非常にじりじりとしていて遅く、彼ら同士の間を心たち四人に抜けられて
しまうことのないように、また大きく迂回されてかわされることもないように、注意深く
慎重だ。

「千重さん。お二人をしばらく、お任せしてよろしいですね?」
 通子の声が、これまで黙っていた千重にかけられる。
 千重は、男達が現れた直後から、心と環を抱きしめて、ずっと庇っていたのだ。
「お任せください」
 力強くこたえて、千重は笑顔を見せた。
 心にじゃれつかれて戸惑っていた女性と同じ人物とは思えぬほど、今の千重は落ち着い
て見える。
「では、お任せします。心様、環様、千重さんと少しだけお待ちください。あの方達に、
お引取りをお願いしてまいります」

(みっちゃん、『あれ』使うのかな?)

 女の子の『心』の内に同化して、夢を見ている心には、通子がこれから始めるであろう
『行為』に、おおかたの見当がついた。

         *         *

「覚悟がおありだと、さきほど、そう申されましたね?」
 通子は、男達の方へ向かって踏み出していく。
「ならば遠慮はしません」
 続けて二回、間髪を入れずに、短く鈍い風切り音が響いた。
 ――と、男が二人、自らの足を押さえ倒れこんでいる。
 獣のうなりのような低い悲鳴が、木々に吸い込まれるように、消えていく。
「物騒なものを…持っているな。さすがに」
 リーダーの男も、これには動揺したらしい。
「わたくしとて『黒姫』の『郎党』の端くれ、甘くはありません」
 果たして、彼女の手には、心の考えていたとおりの『得物』があった。

 片手に収まる程度の握りと、そこから伸びるU字もしくはV字型の部品。U字の二つの
先端をゴム製のチューブがつないでいる。
 『パチンコ』と呼ばれる道具だ。
 但し、玩具のパチンコとは少々違う。
 スポーツシューティング――狩猟・競技用のスリングショット(ゴム銃)であり、
威力のほうも用途に見合ってそれなりに強力だ。
 威力が強いということは、その構造上、ゴムチューブを引いて弾を放つにも結構な力が
必要になるということだ。 連続して弾を放つのに適した構造をしているとは言い難いし、狙いをつけるのも、
狙った所へ弾を飛ばすのも、そう簡単なことではない。

 簡単で扱いやすい護身具――とは、呼べぬ代物だ。

 しかし、通子は事も無げに、これを使いこなす。
 その腕前は凄まじく、男であったときの心の記憶によれば、実際の狩猟に出ると、
野鳥や野兎など小型の獲物を、いとも簡単に捕らえてしまったものだ。

 現代の『日本』という国において、ほとんどの人間にとって『狩猟』は縁遠いものかも
しれない。
 しかし、黒姫家とその取り巻きの旧家の人間たちにとっては、それなりに馴染みのある
『遊び』であった。


 心の父も祖父も、時折、この『遊び』を楽しんでいた。
 なにしろ、お山や森――私有地を猟場にして、あとは適当な得物と獲物を用意すれば、
それだけで行える。とても手軽で、丁度よい暇潰しになったのだ。

         *         *

 鈍い音が響く。
 その度に一人、また一人と、男達は倒れていった。
 ある者は膝を、ある者は太腿を、脛を――男達は皆、一撃で身動きを封じられている。
 数分もたたぬうちに、男達のうち六人が地面に這いつくばり、ただ一人残ったリーダー
の男は、木々の後ろへと身を隠しつつ、通子の様子を窺う状態になっていた。

 通子の腕前は、心の記憶にある姿を数段上回る、もはや『神技』と呼べる域まで達して
いるようだ。

「さすがに見事なものだ。だが」
 追い詰められている状況にもかかわらず、リーダーの男は落ち着いた声色で、通子に
言葉をかけてきた。
「何故、殺さない? 一度で動きを封じる正確な射撃と、その武器の威力――君にならば
できたはずだ。『黒姫』の『やり方』とはそんなに甘いものなのか?」
「この場で、あなた方にお引取り頂くだけでなく、今後、心様に――御子に対する無礼な
振る舞いを、もう起こさないようにして頂かねばなりませんから」
「命までは取らずにおいてやるからさっさと逃げて帰れ、二度と来るな。仲間にも伝えろ。
忘れるな――というわけか」
「そのように受け取って頂いて結構です。あなたも、お調べになったのなら、ご存知なの
かもしれませんが――わたくし共にとって、《御子》を煩わせることこそ、もっとも忌む
べき行為なのです。わたくしたち自身が引き起こした意図的なものか、そうでない不始末
かにはかかわり無く、少しでも煩わせるようなことがあってはならないのです。ですから、
二度とこのようなことが起こらないよう、あなた方にも理解して頂かなくては」
「ならば尚更、これでは甘かったのではないか? ん……見ろ」
 膝を打ち抜かれうずくまっていた男の一人が、何事もなかったかのように立ち上がる。
 さらに、最初に通子の攻撃を受けた二人の姿が消えていた。
「いつの間に」
 さして慌てた様子も無く、通子がつぶやいた。

「いぃあーっ!」
 千重の声だ。
 姿を消していた二人の男が、心と環、そしてこれを守る千重に迫っている。
 二人の男も、やはり何事も無かったかのように、傷ついたはずのその足で立っていた。
 千重の手には、いつの間に用意したものか、手ごろな棒切れが握られており、さきほど
の声はどうやら、この棒切れをもって男へと打ち込むために発した気合であったらしい。
 心を捕らえようと飛び掛った男は、千重に、鼻面をしたたか打ち据えられたものとみえ、
両の手で顔を覆って退いている。
 長さがおおよそ三尺ほどの、細身の枝でつくったらしい即席の短杖を、ひたりと正眼に
構え、心と環とを後ろに庇う千重の姿は落ち着き払っている。

「ほう。あちらもなかなかやるようだ」
「彼女も黒姫の郎党です。甘くみてもらっては、困ります」
 通子は、リーダーの男に向かい新たな一撃を放つ。
 一瞬はやく動いていた男は、再び樹の陰へと身を隠した。
「いつまで、もつかな?」
 なぜか溜息と共に、リーダーの男は言った。

 顔を打たれた男に続き、もう一人の男が、猛然と千重に飛び掛る。
 迎え撃つかたちで左足を踏み込んだ千重の短杖が、うなりをあげ、男の顔めがけて打ち
込まれた。
 拳を握って両腕を顔の前に構え、男はこれを防御する。
 仲間のように顔を、視覚を潰されて「役立たず」になることを警戒しているのだろう、
何度も腕を打たれながらも、男はじりじりと前進する。


 細身の枝は、普通の棒とは少し異なって粘り強くよくしなり、杖というよりも固めの鞭
による打撃に近いようだ。
 繰り返される打撃によって、男の衣服の袖部分はところどころ裂け、蚯蚓腫れができている。
 手の届く間合いまでいかねば手出しの仕様が無い男は、それでも構わず進む。しかし、
「ふんっ」
 せっかく詰めた間合いも、千重の押し込むような蹴りで、一瞬にして無駄となる。
 通子の攻撃から立ち直った男が心を狙い、新たに千重を襲う方へと回ってきたのは、
ちょうどこの時だった。

 千重に顔を打たれて「役立たず」となった男は、いまだ回復できぬものと見え、千重と
通子にはそれぞれ三人の男が相手となっている。

 リーダーの男は、はじめから通子のほうへかかっているのだが、どうにもあまり積極的
に攻撃に参加するつもりがないらしく、樹の陰に身を隠したまま、他の男達に指示をする
だけだ。
 リーダーを除いて通子にかかっている二人も、彼女の攻撃によって碌に身動きがとれず、
やはり身を隠して様子を窺うだけになっている。

 千重にかかっている三人は、同時に襲い掛かるなどして、どうにか千重を崩そうとする
のだが、杖と蹴りの連携に阻まれてうまく近寄れないでいる。
 そのうえ、二人で千重にかかって、もう一人が心をさらおうとすると、通子からの絶妙
な援護射撃にあって、これも身動きを封じられてしまう。

「手詰まりか……おい、射手の相手は私がする。お前達は《御子》に集中しろ。いけ!」
 リーダーの男は、ようやくに、動く気になったらしい。
 部下に命ずると、樹の陰から出て、通子の前に姿をさらす。
「お相手しよう」
 ひと息で、通子に肉迫する。
 一発。
 撃ってすぐに外れることを察知した通子は、次弾を準備しつつ、リーダーの男の動きを
追う。
 再び樹の陰に隠れたが、また隙をついて仕掛けてくるつもりであろうことは、分かる。
 そして、その『隙』を通子につくらせるのは――心だ。

 三方から一度に迫ってくる男達に対し、千重は短杖で応戦する。
 彼女の後ろには、数本の木を背負って心と環の姿がある。
 若い樹木が、偶然にも密集して線状に生えており、これを衝立にして背後の守りとして
いるのだ。
 千重の後ろを回りこみ、心と環に迫ろうとする者は、先ほどから通子の援護射撃を受け、
迂闊に手出しできなくなっていた。 だが、この援護をするたびに、通子自身には隙が生じ、相対するリーダーの男に攻め込
まれる羽目になっている。
 今のところ、リーダーの男との接触による怪我などは無い。

 千重の杖さばきにも、ほんの少しだが疲れが見えてきた。
 男達の詰める間合いが、徐々にではあるが狭まってきている。
 びちぃっ――と鈍い音がして、一人の男の手に、千重の杖が受け止められた。
 好機とみたか、二人の男が千重に迫る。
 一人は、これまでと同じく蹴りによって弾き飛ばされた。
 もう一人が、ついに、千重の肩を掴む。
 並々ならぬ技量を示したとはいえ、女一人の力では男数人に、しかも得体の知れぬ異様
に頑丈な者どもに力ずくで圧し掛かられれば無事には済むまいと、そう思われた。

 クスクスと、千重は少女のように可愛らしく笑って、


「使う時まで明かさないからこそ、『手の内』なのです」
 肩を掴んだ男の動きが止まっており、杖を掴んだ男も同じように固まっている。
 千重はすでに、杖を手放していた。
 代わりに彼女の手に握られているのは、冷たい刃だ。
 それが、肩を掴んだ男の腹と、杖を掴んだ男の首とに、深々と突き刺さっている。
 男を蹴倒して引き抜きつつ、素早く退いて間合いをとり、油断なく構えなおす。
 10cmほどの刀身は、二等辺三角形に近い刺突に向いた形状だ。
 刀身と柄が一体化したナイフには、深めの血抜き溝が切られており、刺した後に抜けな
くなることを防ぐようなつくりになっている。
 柄には指を入れて固定するリング状の部分があり、滑り止めと指の保護を兼ねていた。

「通子さん。急所です。それで止まります」
 倒れたまま起き上がらない男達を一瞥して、千重は叫んだ。
 男達は、起き上がってはこないものの身動きはしており、死んだわけではないらしい。
「なるほど」
 言葉と同時に通子は、千重の手近にいた二人の男――片方は、先ほど千重の短杖で顔を
打たれ回復していない男。もう一方は、蹴り飛ばされて千重の様子を窺っていた男――の、
それぞれのコメカミと鼻面とに撃ち放った。
 命中。
 男達が、もんどりうって倒れる。
 こやつらも、この一撃を受け絶命こそしていないが、やはりもう身動きは取れぬらしい。
 まったくもって得体が知れない連中だ。
 普通であれば命を落としかねない傷を受けても、簡単には死なない身体のようだ。
 とはいえ、全く影響が無いわけではなく、頭や目鼻、咽喉、腹など急所に類する箇所に
損傷を受ければ、すぐには回復できず行動もできなくなるらしい。
 無闇矢鱈と生命力の強い身体をしている癖に、動きや行動そのものは、リーダーを除け
ば素人同然だ。
 ただ集団で、馬鹿のように真っ直ぐ向かってくるだけというのが、不気味でもあった。

 ここで、心は妙なことに気づいた。

(血が……流れて、ない)

 千重に刺された男達からも、通子に打たれた男達からも、一切、血が流れてはいないのだ。

(夢、だから…?)

 なのだろうか?

         *         *

「――心様ぁ!」
 悲鳴のような、千重の叫び声。

 一瞬の油断だった。

 はじめ七人だった男達も、すでに四人は倒れている。 残り三人のうち、リーダーの男は通子と、一人は千重と相対している。
 そして最後の一人が、いま、心と環に迫っていた。

 心と環は、お互いを庇うようにしっかりと抱き合い、男を睨みつけている。
 これまでは通子からの援護射撃と、千重の奮戦もあって、どうにか守られてきた二人で
あったが、いまは通子も千重も、目前の相手に阻まれて駆けつけることができずにいる。

「怖がらないでください。どうか、どうか」
 男は、おずおずした態度で、


「傷つけたりはいたしません。助祭どのが先ほど申し上げたとおり、我々は貴女様を……
お、お迎えに参ったのです。どうか、お気をお静めください」
 心に対して手を出しかねている。
 この男は、リーダーや他の男達に比べ年も若いようで、これまで積極的に動こうとして
いなかったがゆえに、通子や千重の攻撃を受けずにすんできたらしい。
 心と環を刺激せぬように、ゆっくりと、男は歩み寄ってくる。
「ご心配には及びません。これよりは、わたくしどもが――『教団』が、貴女様をお守り
申し上げます」
 男の手が、心を捕まえようと伸ばされた。

       *      *

 男が飛んでいる。
 心と環の前には、少年が立っていた。
 両手を無造作に下げて、片足を振り上げ、前に突き出して。
 心を捕まえようとする男を蹴り飛ばした、そのままの体勢で。

「なっ!?」
「いつの間に!?」
「ウソ…?」
 当の少年と、通子を除き、その場にいた全ての人間が呆気にとられている。

 突然現れたとしか思えなかった。
 一応、通子の目には、少年が滑り込んで男を蹴り飛ばした姿は見えていた。
 だが、滑り込んでくる以前は何処にいたのか、通子にも分からない。
 ましてや『教団』の男達には、瞬間移動でもしてきたとしか映らなかったに違いない。
 ドスンという音とともに、男が墜落する。
 男はたっぷり数秒間、空中遊泳を楽しんだことになる。
 悠然と足を下ろし、少年は、心の方を振り向く。
「迎えにきたよ」
 声変わりなど、まだまだずっと先のことであろう澄んだ声が、優しく心の耳に届いた。
 少年の体格は一見して大柄だが、顔立ちの方は少年というには幼いようで、まだ男の子
という言葉がしっくりくる感じだ。
 ひょっとすると、この夢の中の、女の子の『心』とさほど変わらぬ年齢なのかもしれない。
 男の子は、
「片付けるから、少しだけ待っていてね」
 心の頭を優しく一撫ですると、爽やかに微笑む。
「うん」
 心も微笑んで頷いた。

         *         *

 それはまさしく、化け物だった。

 夢の中、絶体絶命と思われた『心』を――女の子として生まれた『心』の、幼いころの
危機を救った少年。
 彼は、冷たい視線を、『教団』の男達に向けている。
 先ほど心に向けられた優しげで暖かい微笑みと、いまのこの表情とが、同じ人間の顔に
あらわれたものとは到底信じ難い。
 それほどに違う『顔』だ。


 彼の体格は、年齢の低い子供とすれば大柄。一方で、顔貌はそれなりに幼くも見える。
 だが、落ち着き払った雰囲気には子供らしさが微塵もなく、はっきりいって年齢不詳だ。
 顔かたちに残る幼さが、どんなに多く見積もっても、この少年の年齢は7〜8歳程度まで
であろうと物語っているのに。大柄にみえるとはいっても、所詮は小学校低学年生くらい
までの範疇において目立って背が高いといえる程度でしかないのに。
 それでも男の子の精神的な動きの無さは、『異様なもの』としか思われないのだ。

 『教団』の男達のうち、残っているのはあと二人。
「黒姫の兵隊なのか? しかし子供とは……」
 千重と対峙していた男は、あからさまにうろたえている。
 一方、リーダーの男は、突如あらわれた少年を、黙って睨み据えていた。

 千重は呆然と、通子は静かに、少年と男達の様子を窺っている。
 通子の表情からは、先ほどまで漂っていた緊張感が消え失せていた。彼女はどうやら、
少年が何者なのかを知っており、心にとって危険な存在ではないことも合わせて確信して
いるようだ。

「……」
 少年が、無言のまま真正面から踏み込み、千重と対峙していた男の眼前に迫った。
 ほんの二,三歩で10m近い距離を移動している。
 超低空で『飛んだ』ようにすら見えた。

 ドン――と重い音があたりに響き、男が吹き飛ぶ。
 地面を弾みながら転がっていき、木に叩きつけられ、止まる。
 もう、ぴくりとも動かない。
 おそらくは、この男も蹴り飛ばされたのであろうが……。
 どこをどうされたものか、周囲の者には、まるでわからなかった。

 物凄い速度で、ただ真っ直ぐに飛んでいき、正面から、ただ、ふっとばす。
 技もなにもあったものではない。
 単純な速さと力が起こした結果は、人という範疇を軽く飛び越えているようにみえた。
 人間のような姿をした、人間以上の能力を備えた『何か』。
 だから彼は、やはり、化け物なのかもしれなかった。

 リーダーの男は、油断無く身構え、
「黒姫を甘くみるな、か……。成る程、これは確かに甘くはない」
 苦々しげな表情で呟く。
 残るは、この男ひとりのみとなった。

 パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン、パン――。

 乾いた音がする。
 緊迫した空気を台無しにして、かるく間抜けに響くのは、場違いな拍手であった。

「はははっ! ふははははっ! はっはっはっはっ! はーっはっはっはっはっは――」

 つづいて大笑。

「はっはっはっはっは――でかした!! よくやった! 流石は私の見込んだ者だ」

 空気を震わすその声は、『上』から聞こえてきた。


 皆の視線が、はるか頭上へと引き上げられる。

「……父ぉさまぁ?」
 戸惑い気味に、『心』は小さな声で呼びかける。

「おおーう! しーんたぁーん! パぁーパだよーん」

 地響きがした。
 ちょうど、この場にいる全員の中心にあたる場所に、『それ』は落ちてきた。

「心たーん、パパ、お迎えにきたぞぉーう」
 直立不動――腕組みをし、すらり立った体勢で、その人は心に呼びかける。
 高い樹の上から落下してきたというのに、衝撃などまるで感じていない様子だ。

 その姿を、言い表すとしたら――。

 『いい男』だ。

 他に表しようがない。

 背が高く、衣服のうえからでも一見して分かる長い手足。
 つくりものでもこうはいかないというほど均整のとれた、素晴らしい骨格だ。
 鍛え上げられた筋肉が、全身を適度な厚みで鎧っている。
 その肉体には、下品で粗野なゴツさは微塵も無く、どこまでも洗練された、しなやかな
力強さと逞しさのみが溢れている。
 涼しげな目元に、高く整った鼻筋。
 瞳の色は、心と同じく琥珀のような――黄金だ。
 美麗すぎる顔貌は、化粧でもすれば女性といっても通用しそうなほどだが、口髭と顎鬚
を生やしていることで、男らしさもじゅうぶん感じられる。

 創造主が御手でつくりたもうた、天上の美と威容をそなえる存在がそこにいた。

 男の名は、黒姫 桜。

 黒姫 心の父にして、その一代前の《御子》である。
 つまり、この夢のなかの時点における、当代の《御子》ということになる。

 桜は、まっすぐに心を目指し、悠々と歩いていく。
 『教団』の男達には、気を払う素振りすら無い。

「う、うう……まさか、まさか、何故だ。なぜ」
 何事かぶつぶつと呟きつつ、リーダーの男は、桜に手を出すことも動くこともできずに、
悠々と歩む姿を見送っている。
 その表情からは、ある強い感情が読み取れた。
 すなわち、恐怖。そして、それを遥かに上回る、強烈な『感動』。

 リーダーの男にとって、これらの感情――これに近いものは、今までにも味わった事が
あるものだった。
 彼ら『教団』の教主を前にしたときにも、確かに、この種のいわく言い表し難い、魂を
直に揺さぶられるような、『感動』としか言いようのない精神の揺らぎを味わったのだ。
 しかし、桜から感じているそれは、教主に感じたものとは比較にならない。

 かくん――と、男の膝がぬけた。

 両膝をついたまま左右の手を組み奉げ、男は無意識のうちに祈拝している。
 視線をあげることができず、《御子》の――桜の歩む足元をちらりと見て、すぐに目を
そらし伏せてしまう。


 ありとあらゆるもののなかで、もっとも尊貴な存在に対し、彼の精神と五体は自ずから、
とるべき礼をとっているのだ。
 彼が『敬虔な』人物であるということの、その何よりの証明だろう。
 これまで彼が信じてきたものは『教団』の教義であり教主であったが、それは即ち、
彼が《神》の実在を信じているということだ。
 彼はいま、まぎれもない《神》の一柱を、目の当たりにしたことを悟ったのである。
 理屈ではない。
 魂で、そのように確信『させられた』のであった。

         *        *

 桜はひょいと、心を抱き上げた。
「おうおう心たん、ひさしぶりだねぇ。元気かなぁ?」
「はあい」
 久しぶりどころか、『心』が母とともに桜を見送ったのは今朝のこと。
 大げさにも程がある物言いだ。
 髭面――という言葉ほど「むさ苦しい」わけではないが、確かに髭は生えている――で、
心に頬擦りをしてくる。
「父さまぁ。おひげー」
 心は嫌がるようすは見せず、くすぐったそうな声をあげる。
「ん〜ちゅっ」
 きゃっきゃっと騒ぐ心に、桜は口づけをした。
 唇と唇で、ごくかるく、触れるだけのキスをした。
「……父さま、お酒くさぁい」
「うん? そうかぁ? お酒くさいかぁ……よーし、これならどうだぁ」
 何が「これなら」なのかさっぱり分からないが、桜は心のほっぺにキスをはじめる。
「やぁ! いやいやぁ……父さま、いやぁ! いやぁん!」
 桜の腕のなかで心は身をよじり悲鳴をあげるが、本気で嫌がって抵抗しているわけでは
なく、単にくすぐったいので困っているだけだ。
 騒いだためか心のほっぺは薔薇色に染まり、瞳までも潤みはじめている。
 嬌声をあげて身をくねらせる心からは、幼子とは思われぬ――この世のものとも思えぬ
ような、妖しい色気すら匂い立っている。
 そのことに気づかぬのは当の本人たち――黒姫親子だけなのである。

 我が子がかわゆくてたまらず、溺愛してしまう父親と。
 おのれを無条件に受け入れ、愛情をそそいでくれる父親が大好きな子と。
 そこには、誰がみても「親ばか」「子ばか」に過ぎる――立派な『大ばか親子』の姿が
あった。

         *        *

 心は、恥ずかしさのあまり頭を抱えたくなった。
 耳をふさぎ、目を瞑って、叫びだしたい衝動すらこみあげている。
 もっとも、夢をみている状態にあっては、そんなことができようはずもないのだが。

 『あの人』は、何一つ変わっていなかった。

 夢の中のこととはいえ、そして現実ではすでに死んでいて、もう今さら変わりようが
ないとはいえ、どこまでも『こういう』人だったのだ。

 心の父――桜という人は。

 そうしてまた、かつての自分も――幼かった頃のおのれも、ただただ素直に父を慕い、
憧れて……愛していた。

 本当は今このときでも、ココロのなかでは以前と変わりなく父を愛しているのだ。
 ただ、いまとなっては――ある程度の分別がつく年齢になってからは、どうしても、
『恥ずかしさ』が先にたってしまう。
 それに、ただ恥ずかしいばかりではない。


 ココロの底から愛し、憧れている父だからこそ、その父を「超えたい」とおもう。
 だから……。
 甘えては、いけないのだ。

「あなたの息子は、あなたのように強くなりました」

「だから、もう大丈夫です。心配しないでください」

 胸をはって、そう言えるようになりたいから――なりたかったから。

 いつまでも、幼子のように、甘えていてはいけなかったのだ。

         *         *

「おかえりなさいませ、御館様」
 『大ばか親子』の『感動の対面』が落ち着くのを見計らって、通子は、主を出迎えた。
 このような点までそつなく対応するのが、彼女の『憎い』ところだ。
「うむ。ご苦労だった。みな、怪我はないか?」
「おこころづかい、ありがたく存じます。西ノ宮の環お嬢さまは、ご無事でございます。
こちらの千重さんにも怪我はありません。わたくしは御覧のとおりでございます」
「そうか、そうか――。よくやってくれたな。ありがとう」
「おじさま」
「おお、環ちゃん。大丈夫だったかな? もう心配ないからね」
 環の頭を『なでなで』しつつ、猫撫で声をだす桜。
 桜の言動には、威厳も何もあったものではないが、この場にいる黒姫家側の人間たちは、
彼がいるだけですっかり安心しきっている。
 先ほどまでのような緊迫した雰囲気も、不安な気持ちも、すべてが吹き飛んでいた。

「……ですが御館様、何ゆえ、こちらに?」
「うん? ああ、そのことなあ……ほれ、あの子が」
 言いつつ、桜の目線は、自分にさきがけてこの場に駆けつけた例の男の子を示す。
「はあ……」
 心も環も、千重までもがつられて、男の子をみる。
「あの子がなあ、わたしと義兄(あに)が飲んでいるところへきてな、心が危ないという
のだ。それで案内させた。すると見よ! これ、この通りだ」
「まあ!」
 控えめながら驚いたようすで、通子も、男の子のほうを見た。
 男の子は、相変わらず、冷たい視線を『教団』の男達に、特に無傷なままのリーダーの
男に向けて身じろぎもしていない。
「見よ。まったくたいしたものだ。あの落ち着きようはどうだ? ……ふふん。わたしの
見立てに間違いはなかったなあ」
「仰せのとおりでございます」
 通子は、みょうに機嫌の良い主に、あわせるように賛同する。
「うむ! そうだ。ああでなくては――わたしの選んだ、心の『テ』なのだからな!」
 はっはっは――と、ふたたび大笑しはじめた桜であったが、

(あの子が……僕の、女の子の僕の……『心』の『テ』だって?!)

 それを聞いた心は、のんびりと夢をみているどころではなくなった。

         *         *

 『テ』は『支』と書く。
 黒姫家と、その周りを取り巻く旧家たち――《カミサン》を信奉する者たちに、昔から
伝わる『制度』とそれに『選ばれた者』たちを、こう呼ぶ。

 『テ』は、親や周囲の人間たち公認の『友』である。
 それは、単なる幼馴染や幼友達とは異なる存在といえた。


 乳兄弟がもっとも近いかもしれない。だが、同じ乳母に育てられた者同士でなくとも、
乳母の子でなくとも『テ』にはなれるので、乳兄弟よりずっと融通の利く制度といえる。

 黒姫家は、代々武家であった。もと家臣がほとんどである旧家も、大半は同様だ。
 武家の者にふさわしい教育を施すためには、幼い頃から競い合う相手が必須となる。
 当然に、その相手とは、信頼のおける者でなくてはならない。
 信頼できる一族の、一家の、優秀な子でなくてはならない。
 時には兄・姉のように、時には弟・妹のように、時には無二の友として――。
 『テ』は、生涯における特別な『友』・『義兄弟』となるべくして選ばれる。
 一例をあげれば、心の祖父・監物にとって、環の祖父・成和は、もともとこの『テ』で
あった。
 ちなみに、『テ』に選び任命することを、『テ』を『立てる』という。

 さて――。
 黒姫家は、かつての『殿様』の家であり、また同時に《御子》の家である。
 その黒姫家の嗣子の『テ』になるということは、将来、『殿様』の『腹心』となること
が約束されたようなものだ。
 ほとんどの場合、黒姫家の当主は《御子》でもあるから、『殿様』の『腹心』であると
いうことは、《神》の寵愛を受けることとも同義だ。
 ゆえに、黒姫家の《御子》になる子供の『テ』を立てるには、さまざまな事情が絡む。
 旧家同士の、とくに元家臣団内部での、権力の均衡を保つことも考えねばならない。
 しかし結局のところ、そのときの《御子》の意向で、どうとでもなってしまうのが、
『信仰』で結ばれた共同体のばかばかしいところでもあった。

 《御子》には、誰も逆らえない。
 《御子》の意思を覆せるのは、《御子》だけである。
 もしも黒姫家の当主と、《御子》が違う人物であるときは、《御子》の立場が上となる。
 黒姫家は武家であったから、幕藩体制の時代では、当主には男性しかなれなかったが、
《御子》には性別など無関係だ。
 兄弟姉妹のうち、姉や妹が《御子》となる場合などもあったわけである。
 そういった場合、あくまで表向きでは当主が立てられるが、実際の支配者は《御子》で
あった。
 話が少しそれたが、とにかく、心の『テ』を選ぶ場合であれば、この当時に《御子》で
ある桜の決定には誰も逆らえないわけだ。
 だから心の『テ』にかんして言えば、桜が自身で選んだ決定を覆すか、もしくは将来、
心が《御子》となってから、桜の立てた『テ』をお役御免にしないかぎりは、一度『テ』
に選ばれた者は一生『テ』でありつづけるということになる。

 しかしながら、いま、心が動揺している理由は、そんなところにあるわけではない。

 心が、女の子として生まれたほうの自分に、『テ』が存在したことに驚いたわけの一つ
は、男として生まれたときの自分には『テ』がいなかったことによる。
 心には、桜が立てた『テ』は一人もいなかったのだ。

「心の『テ』にふさわしいものがいない」

 いつも、これが、桜のいう『理由』であった。
 心がおもうに、これは桜なりの、心への気遣いの表れでもあったようだ。
 『テ』が存在することで、確かに、黒姫家の子供にありがちな『孤独』は味わわずに
済むのだろうし、また『取り巻き』がいることは、ある種の『安全対策』にもなる。
 その一方で、つねに『テ』が離れず周囲をとりかこむ状態は、とてもとても『窮屈』だ。
 桜自身が、幼い頃から、この『窮屈』さを味わってきたがゆえ、せめて我が子には、
この『窮屈』さを味わわせたくなかった――に違いない。
 それが『テ』を立てないというかたちで表れたのだと、心はそのように考えていた。

 さらに桜は、心が男であったときの世界において、心が高校生となり、おのれでめぐり
あい得た友である清十郎を紹介した折、それはそれは喜んでくれたものだった。


 男子たるもの、おのれが選んだ生きざまによって、腹をわって付き合えるまことの友を、
いずれは得ることができるもの。そうでなくてはならぬ――桜は、そう信じていた。
 また、男の価値はその友で決まる――とも。
 だから、一目で好ましいとおもえるような人物――清十郎を、心が友人として紹介して
きたことに、桜はひじょうな喜びを感じたらしかった。

 それなのに――。

 心が、女の子として生まれた世界では、桜によって『テ』が立てられている。
 いったい、これはどうしたわけによるものなのか。
 男の子と女の子とでは事情が違う。とでもいうのだろうか。
 そういえば、桜は、男の心には『テ』を立てなかったが、女の子の恋や愛にはそれぞれ
『テ』を立てていた。
 しかし、それはたまたま、桜の子供たち――心、恋、愛と同年代の、近しい旧家の子供
たちには男の子がほとんどいなかったためだと、心はこれまで考えていた。
 じっさい、心と同じまたは近い世代において、主だった旧家に、男の子は少なかった。

 男の子には男の子。女の子には女の子。ふつうは同性の『テ』が立てられる。
 げんに、恋と愛にも、それぞれ女の子の『テ』が数人ずつ立てられていた。

 にもかかわらず、桜が、女の子の『心』のために立てた『テ』は異性――男の子だ。

 異性の『テ』には、同性の『テ』とはまた違った意味合いがある。
 じつは桜の妻も、かつて桜の『テ』のうちの一人であった。
 つまり、異性の『テ』は、婚約者候補でもあるということだ。

 心が桜の言葉に驚いたもう一つのわけは、このことにあった。

(この子が、父さまの選んだ許婚……)

 女の子として生まれた自分には、敬愛する父の選んだ許婚候補がいる。
 たとえ今はまだ候補に過ぎなくとも、許婚の一人には変わりない。
 父が選んだ男の子は、まず間違いなく、『心』にとって特別な存在であるはず。

 また、心を溺愛する父の選んだ者が、凡庸な人物であるとは考えにくい。
 家柄・血統は当然として、おそらく、いろいろな意味で見所ある人間なのであろう。

 父は、強いやつが好きだ。
 それもとくに、分かりやすい強さを好む。
 そのことを踏まえてみれば、先ほど『教団』の男達を蹴散らしたときの、例の男の子の
異常なほどの素早さ、力強さも、父が彼を気に入っている理由の一つなのかもしれない。

         *         *

 夢のなかで、女の子の『心』に意識を溶け込ませている心は、桜の腕に抱かれながら、
『心』の目を通して、例の男の子を見ている。

(父さまに、似てる……かも)

 彼は何となく、桜に似た面差しをしている。
 とすると、黒姫家にごく近い血筋にある家の子供なのかもしれない。

 血のつながりの濃い親類といえば、心には、まず分家である瀬丸家が思い浮かぶ。
 瀬丸は母の実家だ。
 しかし、瀬丸の家系の顔立ちは、むしろ心に似ている。心は母親似なのである。
 よって顔立ちからみるに、あの男の子は、瀬丸家の子ではあるまいとおもわれた。

 西ノ宮家はどうだろうか。


 古くから婚姻関係を結んできたこともあり、顔立ちなどには近いものがある。
 しかし、男の子と環のようすをみるに、二人が兄妹やもしくはそれに近い間柄で
あるようにもおもえない。
 もしもそうであるなら、環から「兄さま」の一言くらいでてもよさそうなものだが、
まったくその気配が無い。

 桜のいった「義兄(あに)と飲んで」いたという言葉が、男の子の正体を突き止める
手がかりになりそうだ。
 桜には実の兄はない。姉が一人いるだけだ。
 よってこの義兄には、二通りが考えられる。
 一つは、姉の夫。
 もう一つは、妻の姉の夫。桜の妻、つまり心の母には兄はおらず姉達しかいないので、
その夫たちのうちの誰かということになる。

 父方か母方か。
 どちらにせよ、あの男の子は、伯母の息子であるようだ。

 しかし、このように下手な推理の真似事などしなくとも、すでに心は男の子の名前だけ
ならば直感的におもい当たっていた。
 あの子は、『彼』ではないだろうか――と。

         *         *

「まもなく昼餉の時刻であろう? 義兄にな、良いハタとマナガツオをもらったのだよ。
もう届いているだろうから、すぐ帰って一緒に食おう」
 心を『なでなで』しつつ、桜はいった。
 ハタもマナガツオも、心の好物である。
 心を抱いて、環の手を引き、いまにも屋敷に帰ってしまいそうな桜をみて、
「御館様。あの者たちは、いかがなされます?」
 さすがの通子も慌てたらしく、急いで伺いを立ててきた。
「捨てておけばよいではないか」
 どうやら桜は『教団』のことなど、どうでもいいと考えているようだ。
 このまま無視して、放置するつもりらしい。
「おそれながら……それでは、この先、禍根を残してしまうやもしれません。今後二度と、
かようなことを起こさせぬように処理なされるべきとおもわれるのですが……」
「かまわんさ。好きにさせておけばよいではないか。どのみち、こちらが何をしようが、
彼らがやってきたいとおもえば再びやってくるだろうし、もうやめようとおもえば二度と
来ないはずだ。そういうものだろう、違うかな?」
「……仰せのとおりでございます。わたくしが浅はかでした」
「いやいや、君の心配はもっともだ。きっと君が正しいのだとおもう。だがな、わたしは
放っておきたい。面倒事は大嫌いだからな」
 言ってから、はははと笑う。 
これは何も大物ぶって格好をつけているわけでもなければ、そのことに照れているわけでもなく、
本当に面倒なのだ。
 桜にとっては、いまは何おいても、心といっしょに食事するほうが重要なのであって、
あとは他の何事も邪魔なだけ――面倒なだけなのだ。
 桜はそういう人間なのである。

「聞こえているな? 『教団』の――確か、助祭殿だったかな? もうまもなく、ここに
わたしを追って兵どもがやってくるはずだ。兵どもにはこれ以上、こちらからの手出しは
ひかえさせよう。あとは帰るなり、兵どもに挑むなり、君らの好きにするといい」
 桜が現れてからというもの、跪いて拝したままになっている『教団』のリーダーに、
桜ははじめて声をかけた。


 その言葉も、相手であるリーダーの男が答えることなどまったく考えておらず、自分の
おもうことを一方的に告げるものでしかない。
「む。来たようだ」
 桜の言葉どおり、ぞろぞろとやってくる黒服の男達の姿が見えた。
 言葉で表せば、『教団』の男達と同じように『黒服の男達』となるのだが、見た目には
だいぶ違う連中だ。
 外見上は、『教団』の男達のほうがずっとまともに見える。
 はっきりいえば、『ヤ○ザ者』としかおもえぬような集団だ。

「御館様……! 遅くなりまして…も、申し訳なきことでございます」
「ああ、よい。もう済んだ」
 黒服達はずらりと整列し、一人の謝る声に合わせるように全員恐縮の態で頭を下げるが、
桜はいたって気楽な調子だ。
「彼らが帰るのに難儀するようなら、手伝ってあげなさい。怪我人が多いからな」
「はあ……」
 目線で示しつつ桜が言うのに、黒服たちは何とも複雑な表情だ。
 まあ、当たり前であろう。
 「心が危ないかもしれん」とかなんとか言って飛び出した桜を追い、駆けつけてみれば、
今度は見るからに怪しい、たぶん心を脅かした当人であろう連中を助けてやれと言われたのだ。
 訳が分からないし、納得もできないというのが正直なところだろう。
 それでも桜の言葉は、彼等にとって絶対である。さっそく数人が『教団』の男達を助け
起こしにかかる。

「さあ帰ろう。心たん、パパとお昼ご飯たべような。――おーい『龍鬼』、おいで」
「はい」
 ずっと『教団』の男達を見張り続けていた、例の男の子にも、桜は声をかけた。
 それは、心に対するような、どうしても愛情が先にでてしまうような甘い声ではなく、
あたたかみがありやさしげでありながらも、冷静さと厳しさを失わない、男の声だった。
 通子や、黒姫家に仕える人間たちに接するときとも、もちろん違う。
 それは確かに、『父なるもの』の声だった。

         *         *

(やっぱり……この子、龍鬼だった)

 少年があらわれてすぐ、その正体はもしや――とおもっていた心であったが、果たして
考えたとおり、少年は幼いころの龍鬼であったようだ。
 予想が当たったこと自体は別段、心にとって何ほどのことでもない。
 そんなことよりも――。
 心はなぜか、苛立ちのようなものを覚えている。
 桜が、心にはあのような声をかけてくれたことが、ほとんどなかったからかもしれない。
 空手を習うようになって、はじめて、心に対してもあのような厳しさのある声をかけて
くれるようになったのだ。
 桜はいつでも、心を溺愛した。
 心のこととなると、桜は人格がかわってしまう。
 普段の冷静さも、厳しさも、すべてが深すぎる愛情のなかへと沈みこんでしまう。
 心に接する桜は、ただただ甘くやさしい『パパ』であるばかりで、ちょっと格好わるく
みえてしまうときもあった。
 もちろん心は、やさしい『パパ』が大好きだった。


 けれど、本来の『父さま』は、もっともっと、ずっと格好いいはずなのに――それが、
心にはじれったく、たまらなくもどかしかったのだ。

 そんな中で、本来の格好いい『父さま』の姿をみられる機会の一つが、空手であった。
 桜に空手を習い始めて、その格好いい姿を間近でみられるようになったことが、心には
内心とても嬉しくて、また、誇らしくも感じたものだった。

 なのに龍鬼は、ただ一緒にいるだけで格好いい『父さま』と接している。
 まるでこれでは龍鬼のほうが、『父さま』の『息子』のようではないか……!

 理不尽で子供っぽい、『嫉妬』としかいいようのない感情が、心のなかに渦巻きはじめ
ていた。
 同時にまた、女の子の『心』としての『思い出』のうち龍鬼にかかわる部分が、急速に
心のなかに浮かびあがりはじめている。
 それら新たな『思い出』は少しの違和感も与えず、まるで意識されることすらもなく、
これまでの『心』の記憶と自然に一体となっていく。

 心のココロは、あらたなかたちへと変化をはじめている。

         *         *

「おっお待ち、くださいぃ!」
 かすれて裏返った声だった。
 緊張で渇ききった喉から、やっとのおもいでしぼりだしたような、そんな声だ。
 声のぬしは『教団』の男達のリーダーである。
「――何かね?」
 桜は、いかにも面倒そうにこたえた。
「ご無礼を承知で、《御子》に申し上げる……! 我らは、すでに覚悟のうえにて、
この場に参上したもの……ゆえに是非にも、次なる《御子》をお連れいたしたく!」
「君らの目的は、あくまではじめから心だと、そう言いたいわけかね? よって、わたし
を排除してでも連れて行きたい、と。だが、それは本意でないから、穏便にするためにも
わたしの許可が欲しいのだ、と」
「さようで、ございます」
「ふむ」
 桜は、少し考えるようなそぶりを見せ、
「なるほど、合点がいったぞ――君らの教主殿には、お子がおられるそうだな? それも
まだ幼い『男の子』のようだ」
「い、いかにも……しかし、何ゆえそのことを」
「なあに、『風の噂』というやつよ。なあ、君らはわたしの心を、君らの教主殿のご子息
と会わせるつもりではないか? いずれ、あわよくば伴侶にしようと――違うか?」
 桜は、急にニヤニヤしはじめた。
「……まさに、その通り」
「なるほどな。それならば確かに、君らとわたしたちは『仲良く』やっていけるかもしれ
んなあ」


「で、では?」

(僕を、教主の子供と結婚……させる?)

 『教団』の目的が、桜の考えたとおりであったとすれば、なかなかうまい筋書きだ。
 次代の《御子》である『心』が、『教団』の教主の息子と結婚したとする。
 二人の間に子ができれば、ゆくゆくはその子供が《御子》と『教団』の教主を兼ねるよ
うになるだろう。
 《カミサン》の信奉者たちと『教団』は無理なく一つにまとまる――はずだ。

「――ふむ。断る」
 少しばかり思わせぶりな態度をとったわりには、あっさりと桜はいった。
「……やはり、そうでしょうな」
 桜が、『教団』の非礼を許したうえに交誼までも結んでくれる――さすがによもや、
そのように都合のいい話があるわけもない。
 あるわけがないと分かっていても、リーダーの男は万が一の可能性を捨てきれずにいた
のだろう、がっくりと肩を落とした。
「はじめからな――正面から誼を通じたいといってきてくれれば、考えぬでもないよ?
 だが、いきなりやってきて我が子をさらおうとする輩に――君なら、どうするね?」
「むろん、あなた様と同じです」
「で、あろう」
「我らとて、わたくしとて分かっております。分かってはおりましたが、しかし……。
ご無礼は承知のうえで、すでに何度も申し上げておりますが、我らには、《御子》が必要
なのです!」
「何のために?」
「生きるため」
「ほう?」

      *      *

 ふっと、心の瞼が開いた。
 ぽーっとした表情のまま、あたりを見回した後、自分を抱きしめる存在に気がつく。
「……『たっくん』?」
 その『呼び名』は、相手が誰なのかを考えるよりも早く、自然と口をついて出ていた。
 龍鬼の目が一瞬、見開かれ、次いで眩しげに細められる。
「思い出してくれたんだね。ありがとう、…『しーたん』…」
「忘れて、ないもん。ボク、忘れたりしないもん」
 心はホッペを膨らませ、龍鬼の胸板におでこをくっ付けた。
 龍鬼からは心の表情は見えない。だが、ちょっぴり拗ねているような、甘えているよう
にも感じられるその声はとてもかわいらしく、狂おしいほど愛しさをかきたてるのだった。

 確かに心は忘れていた――いや、知らなかったというべきだろう。
 女の子の『心』としての記憶のうち、まだ『思い出して』いない部分は、男だった心に
とって『知らないこと』なのだから。


 だが、いまや心と『心』の記憶とこころは大部分が一体化していて、女の子の『心』の
気持ちも『思い出』も、心にとっては『忘れていた自分』そのものでもあるのだ。
 女の子の『心』も、かつて男だった心も、どちらも己であり、『自分の異なる局面』と
して捉えている――そんな感じだ。

 ほんの短い間、たった一つの出来事を夢に見ただけだというのに――。
 心は、龍鬼のことを、ほとんど全て『思い出して』いた。
 龍鬼が『心』にとって――女の子として生まれた『自分』にとって、どれほど大切な
存在であったのか。
 たくさんの『思い出』とともに、そのときどきの感情までも。

 『心』にとって龍鬼は、兄であり、弟であり――。
 死んだ父や祖父をのぞいて、こころ許せる唯ひとりの男性であり、そして環と同じ――
しかし、ほんの少しだが決定的に違う、もう一人の『親友』であった。

 環も、龍鬼も。
 どちらも『心』にとって、なくてはならぬ存在だったのだ。

 女の子の身体に男の子の意識をもつ存在。
 女性として生まれながら、自らの精神を男性と認識していた女の子の『心』にとっては、
精神にも身体にもその双方ともに、同性と異性の『親友』と『恋人』による支えが不可欠
だったのであろう。
 環との関係に悩んだときには、男の子として龍鬼に相談し、龍鬼との関係に悩んだとき
には、女の子として環に相談する。
 三人の関係は、そうやって築かれてきたものだった。
 危うい均衡のうえに成り立った、おままごとのような関係であったかもしれないが、
『心』にとっては真剣な恋愛であり、友情であったのだ。
 たとえそれが龍鬼と環、二人に多大な負担を強いてきたものであったとしても――。

         *         *

 心は、龍鬼に抱かれたまま、もの思いに耽けっている。
 たったいま夢をみたことで新たに『思い出した』内容を、整理しようとしているのだ。
 件の事件それ自体は、あの後の顛末も含めて、もはやどうでもよくなっている。
 『心』にとって――そして心にとっても重要なのは、幼い頃からずっと自分を守り続け
てきてくれたのが父と龍鬼であったということであり、さらに父の亡き後、いまでも龍鬼
は傍にいて守ってくれている、唯そのことだけだ。

 しずかに顔をあげた心と、龍鬼の視線が合う。
 龍鬼は微笑んで、心の唇に自らのそれを重ねる。
 ちゅっ、ちゅっ――と、ついばむような口づけをして、心が拒絶しないことを確かめ、
龍鬼はそっと舌を進入させてくる。
 深いキスをされたことで、ようやくに心は、自分が龍鬼に何をどうして欲しくて、顔を
あげたのかを自覚しはじめた。

(…あ、そう、なの…かな?)

 龍鬼の舌は、心の舌を逃がさずに絡めとって、もみくちゃにしてしまう。
 心の口のなかのいたるところを愛撫していく。


 唾液をすすり取り、それに代わるように、自らの唾液を流し込んでくる。
 二人の舌は絡み合い、もつれ合って、互いの口中を行き来しつづける。

(やっぱり、そう…なの? ……ふしぎ、きもちいいよぅ)

 何も言わずとも、龍鬼は、自分の求めるものを与えてくれる。自分自身も、いまだ気が
付いていないことさえ、彼は感じ取り、読み取ってくれる――心には、そう確信できた。
 女の子の『心』としての『思い出』が、それを裏付けてもいる。
 しかし、それでも――。

(あ、あ……でも、でも、どうして? ダメだよ、こんな……これ以上はダメだよぅ)

 こう考えてしまうのは、『思い出』の中の『心』と龍鬼の関係が『こういうもの』とは
違っているからに他ならない。
 『心』と龍鬼は、あくまで『親友以上恋人未満』の幼馴染であって、わずかばかり恋人
よりかもしれない程度の関係であり、いまのように濃厚な肉体的接触を――抱きしめあい、
深い口づけを交わしてしまうような関係ではなかったはずだから。
 もちろん極めて甘やかされて育ってきた『甘ったれ』の『心』であったから、寂しくて
どうしようもないというときがあり、そうしたとき極めてまれに龍鬼と二人きりであれば、
『抱っこ』や『なでなで』をしてもらうことも皆無であったわけではない。
 けれど基本的に、『心』を甘えさせるのは二人の姉――恋と愛であり、また『恋人』で
ある環の役目であった。
 龍鬼はいつもほとんど常に心の傍らにいてくれたが、それは影のように寄り添うもので、
『守る』という役目が中心であり、べたべたと触れ合うことは許されなかったのだ。

 これはしかたのないことだったといえるだろう。
 『心』は女の子で、龍鬼は男の子だ。
 いかに『心』が自分の精神の性別を「男です」と主張していたところで、肉体の性別を
変えられるわけもなく、どのようにもしようがない。
 二人のあいだに、万が一にも『間違い』が起こらぬよう、周囲から監視されるのも無理
からぬことだ。
 さらに加えるなら、恋と愛の常軌を逸した『心』への溺愛ぶりもあげられる。

 急に話はかわるが、黒姫家にはかつてたくさんの使用人がいた。
 だが現在では、住み込みの使用人は一人もおらず、通いの者が5名ほどいるのみだ。
 その通いの使用人たちも、勤務時間はおもに日中だけであるうえ、家族のみの生活空間
には許可無しに立ち入ることを禁じられている。
 とくに『心』の身の回りの世話は恋と愛の仕事とされており、使用人たちは『心』の
傍へ近よることすら控えるよう厳命されている。
 この点は男のときの心の世界でも、女の子の『心』の世界でも、ほぼ同じ状態だ。
 そもそも使用人の数を減らしたことの始まりは、父・桜の意向によるものだった。
 心の祖父・監物の死後、桜は己が子らの成長に合わせて、それぞれの『お付き』の数を
減らしていった。
 子供が成長し、自分のことを自分でできるようになれば、『お付き』は少なくても何ら
差し障りがない。また、『お付き』の『姉や』たちは大体が行儀見習いとしてやってきた
旧家の娘たちであるから、短い期間で去っていくのは当たり前のことでもあった。
 桜は、辞めていった使用人の補充を、一時的に停止させたに過ぎない。
 結果として、心、恋、愛には、それぞれの『お世話役』のみが残った。
 黒姫家全体でも、日常生活を支えるのに必要な数の使用人は住み込みで留まっていた。

 しかし、桜の死後、黒姫家の内政を恋が取り仕切るようになると、住み込みの使用人は
すべて任を解かれた。


 心が男であったとき、家のことを恋に任せたのは、心によってはじめてなされた正式な
《御子》としての決定だった。
 使用人の数をできるだけ少なくするようにさせたのも、心の好みによるものであったが、
恋のやりようは心のおもっていた以上に徹底していた。

 彼女は、自らの『お世話役』にすら暇を出したのである。
 もちろん、長年勤めてきた使用人たちをただ放り出すような無責任な真似をするわけも
なく、きちんと全員の身の振り方を世話したのだが……。
 もっとも多くの使用人たちが選んだのは、黒姫家が新たに設立した会社に所属すること
であった。
 その会社の主な業務は、プロの使用人―― 一流のメイドや乳母等を派遣する、または
派遣先でそれらの人材を育成・教育する、というもので、社長には通子が就いた。
 会社の構想はもともと心の母によるもので、心が一人前になった後の、通子のために
準備していたものでもあった。心の母は、通子をまるで妹のようにかわいがっており、
彼女のさきゆきをつねづね気遣っていたのだ。
 それが、父母の相次ぐ突然の死によって、実現が早まるかたちとなった。
 現在の黒姫家の使用人も、当然のように、ここから派遣されている。
 ただし、原則として「必要最低限の人数のみ」である。
 心が男として在った世界においても、恋は、家族以外の人間すなわち自分と愛以外の
ものが心のそばにあることを快くおもっていなかったふしがある。
 家族以外のものを、心のそばから遠ざけようとしていると感じられる行動は、そこここ
にみられた。使用人の扱いなどは、そのいい例といえる。
 ましてや心が女の子として生を受けた、この世界において、恋と愛が『心』のそば近く
に男子の存在することを黙っていようはずはなかったのだ。
 
 龍鬼は先代《御子》であり父である桜の立てた『テ』であるから、彼を排除するような
ことこそなかったが、二人は常に目を光らせて、『心』と龍鬼の仲が『お姫様』と『外敵
からの守護者』以上のものに進展することのないように監視してきた。
 それどころか、身体的には『心』と同性の女の子である環に対しても、二人はなみなみ
ならぬ注意を払ってきたとおもわれる。
 『心』がごく幼いころも含め、とくにある程度成長してからは、『間違い』が起こらぬ
ようにと、できるだけ誰かと『二人きり』にさせぬように気を配り続けているのだ。
 龍鬼と環に対しても、できるだけ『心』と三人一緒に行動させることで、龍鬼に対して
は環を、環に対しては龍鬼を、お互いをある種の『壁』として牽制させ合い、『心』との
仲が近づき過ぎぬように利用していたと考えられた。
 二人きりにさせることに関して、龍鬼にくらべ環に対する監視がゆるめだったのは、
女の子同士であるという点が大きかったようだ。
 女の子同士ならば『最悪の事態』は免れる――そういう考えがあったのかもしれない。

 とにかく、『心』にとって龍鬼は、もっとも近しい男の子であった。
 『心』は――じつは、男の心も幼いころはそうであったが――男の子が苦手だ。
 自分の精神の性別を「男だ」と主張するくせに、そうなのである。
 がさつだから、無神経だから――というのが、その主な理由(いいわけ)だった。
 裏を返せば、それだけ『心』が――幼いころの心も――繊細すぎ、潔癖すぎただけだ。
 普通、男であれば気にしないような些細なことでも、『心』は気になるのである。
 会話のこと、身のこなし――生活全般のあらゆる点で、普通の男の子たちは無神経に
過ぎる、と『心』にはおもえた。


 けれど、龍鬼だけは別だ。
 龍鬼の『心』に対するこころ配りは細やかであり、万全の一言に尽きる。
 それだけではない。
 龍鬼が一緒にいてくれれば、他の男の子たちは近づいてこない。
 がさつで無神経な男の子たちから――大嫌いな『外界からの闖入者』から、龍鬼は
『心』を守ってくれるのだ。
 ゆえに『心』にとって龍鬼の存在は、『頼りになるお兄ちゃん』という面が大きかった。

 女の子の『心』の記憶を『思い出し』て、そのほとんどを自らのものとした心にとって
も、この点については同じようなものだ。
 だが、龍鬼に対して心が抱いている感情は、それだけではない。
 男として生まれ育ち、女の子に変わった心にとっても、龍鬼が誰なのかを知った時点で、
実はそれなりに龍鬼に対しておもうところがあるのだ。
 それが心を、さらに深く戸惑わせている。

         *         *

「……たっくん、ン……ダメ、ですよぅ」
 長いながいキスの切れまに、息も絶え絶えとなりながら、心は龍鬼を抑えようとする。
 心の瞳は潤み、頬は紅潮し……口づけのみでもう感じてしまっていることがはっきりと
わかる。
「ごめんね。また意地悪して」
 龍鬼は詫びながら、心の髪をそっとなでる。
 それだけで、心のこころは、安らかさを取り戻していく。





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ここまでで今回の投下は終了です。
いまさら邪魔だと思われる方も多いでしょう。
スレの荒れる原因になるようなら、消えます。
この言葉自体が蛇足でしょうが付けざるをえないと感じました。
かつて乳無しと名乗った者でした。
失礼。
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