目の前に『ぼく』がいた。
そいつはまるで合わせ鏡のようにぼくそっくりで、ぼくが右手を上げればそいつもまた左手を上げるんじゃないかと思うほど精巧で精密だった。
いつもぼくが鏡越しに見ている顔──他人からの評価なら『中性的』、ぼく自身の分析なら男にも女にもとれるどっちつかずで中途半端──がそこにある。
「誰?」
2メートルほどを挟んで問いかける。
「誰だって? それはもちろんぼくだよ。半田陽(はんだよう)さ」
ぼくの声でそう告げる。それは紛れもなくぼくの名前だった。
実は双子でふざけてぼくの名前を名乗っただけの可能性もないこともない。
でもそれはありえない。驚くべき出生の秘密も何もない、平均的な家族の平均的な人生を16年間過ごしてきたはずだ。
「もう1回聞くけど。…君は誰?」
「今にわかるさ。なにしろぼくたちは他人同士じゃない──家族よりも兄弟よりもずっと近いところにいるんだから」
『ぼく』が意味ありげににやりと口の端を吊り上げた。
「じゃあ、また」
そういい残すと踵を返し、夕闇の向こうへと消えていった。
それを待ちわびたかのように一斉に街灯がともる。その下でぼくは混乱する頭を抱えて立ち尽くすしかなかった。


--------


あの日から3日が経ち、でもぼくの周囲には何も起こってはいなかった。
忘れかけてすらいたのに、ここにきて思い出したのは同じような時間に出会った場所を通ったからだ。
記憶が蘇って、あれはなんだったのだろうかと改めて思う。
それとなく親に聞いてみるのもいいかもしれない。出生について重大な秘密なんてなさそうだけど。
「ただいまー」
玄関には靴が3足。姉さんのと母さんのと、珍しいことに父さんの革靴が段差に沿って揃っていた。
「あれ、今日は遅かったわね」
ダイニングに入ると料理を並べている母さん──半田円(はんだまどか)に呼び止められた。
「ちょっとコンビニで立ち読みしてて」
本当はゲーセンに行っていたんだけど、言うと確実に怒られるので適当に誤魔化す。目でばれないように目線を母さんからはずすと、父さん──半田両一(はんだりょういち)と目が合った。
「今日は早いね。いつもは11時とかもっと遅いのに」
「ああ。会社からこれ以上残業代払いたくない、って言われてな。サービス残業するのも馬鹿らしいから帰ってきた」
コップになみなみと注がれたビールを一息に飲み干すと、心底幸せそうな顔になった。
「会社の中の人も大変だね」
「近頃は行政の目が厳しいらしくってな。それに乗じて組合も動き回っているとかなんとか。私らにゃ嬉しいが会社はたまったもんじゃないな」
ごくありふれた家庭内の話。
こんな家族にサプライズな過去があるとはどうしても思えない。
「あのさ、どうでもいいことなんだけど……」
それでも、どうでもいいことながらも心の中にわだかまった微かな不審を拭い去ろうと何気なくそれとなく聞いてみる。
「ぼくが生まれてきたときに何かなかった? 例えば双子だった、とか」
……全然何気なくない。というか直球ど真ん中ホームランコース。本当ならかする程度がちょうどいい。けど、あまりにはずれると意味のない会話になる。
こういう話の調整は苦手だ。
「なにか……? なあ母さん、陽が生まれてきたときになにかあったかな」
「んー、特別なことは何もなかったと思うわよ」
「おお、そういえば!」
父さんが何かを思い出したのかぽんと手を叩いた。
びくっとする。何かがあったのか…正直かなりショックだ。
「産声が天使のラッパみたいに聞こえたなあ。二人目とはいえあれには感動した」
それ、なんてし○かちゃん誕生秘話?
「別に何もなかったの? 双子とか絶対にない?」
「ないわよ」



2階にある自室に戻ってからぼくは安堵のため息をついた。
白昼夢。そうだ白昼夢だ。そうでなければ何かタチの悪いイタズラだ。
方法は思いつかないけど、何か催眠術かトリックを使えばぼくがもう一人いると思わせることもできるに違いない。
声だって自分が思っているのと実際のはかなり違う。骨を通さず聞こえる声を把握している人なんてそうそういない。
『残念でした』
不意にどこからか声がした。ぼくが思っている自分の声が。
あたりを見回すと、
「やあ、また会ったね」
窓際に3日前の夕方に見た『ぼく』が悠然と座っていた。
「──! どこからっ!」
「タネも仕掛けもありまくりだけど、それは企業秘密」
ウィンクしながら指を振る。自分がやっているみたいで気味が悪い。
「どうした?」
『ぼく』がぬうっと下からぼくを覗き込んでいた。写真以外で見ることのできないアングルに違和感を覚える。
「そんなカッコつけている自分を見て恥ずかしいと思ってるだけ。もうやらないでくれると嬉しいんだけど」
考えてみれば異様な光景だった。同一人物が同じ時間、同じ場所に二人もいる。客観的に見てありえないことだった。
でも主観的には実現している。絶対的な矛盾がそこにはあった。
逆説が真であるなら、今ここで起こっていることは現実ではないことになるけど、これがよくできた夢だというには無理がありすぎた。
「何しにきたの?」
もっともな質問をぶつけてみる。最近は学校でも来訪目的を明かさないと入れない時代だ。
でも刃物かざして「生徒刺しにきました」は認められない。現状はすでに校舎に入り込んでいるのと同じだけど。
…………
これはもしかして危険度99%と赤文字で表示されてもおかしくない状況ではないだろうか。
高めに推移していた警戒心がリミットに近づく。
だが心配のしすぎではないか、という一節が頭をよぎってすぐ消えた。
いきなり殴られたり刺されたり、撃たれたりすることだってあるかもしれないし、その可能性はディープインパクトが勝つ以上にある。
一発だけなら誤射かもしれない、なんて悠長なことは言ってられないのだ。



「そう身構えなくたっていいよ。挨拶にきただけだし」
敵意をあらわにしたぼくとは対照的に、『ぼく』は平静におどけた感じでたしなめるように言った。
「いまはまだ『その時』ではないからね。『その時』になれば歴史が動く…………じゃなかった……。いやこれでも間違いじゃないか。
すぐにわかることになるさ。ちなみに『その時』は3日後だから」
今までいた窓際からひょいと立ち上がり、ぼくに向かってくる。
反射的に身構えるぼく。
部屋の真ん中にいたぼくの真横で歩みを止めた。すれ違う形で並んだ状態だ。
「じゃあ、また」
耳元で囁かれて身体がすくんだ。
その一瞬で『ぼく』は跡形もなく消え去っていた。ぼくの後ろにはドアしかない。そのドアが開いた音すらしなかった。
どこから出て行ったのかと周囲を探すと、ドアにメモ紙が張り付けてあるのを発見した。

『今はこれが精一杯』

……すごく力有り余る精一杯だと思うのは気のせいだろうか。
ふうと大きくため息をつく。安堵感からか解放感からかその区別はつかない。たぶんどちらもがその息には混じっている。
それにしても、とさっきを思い返す。
「背、伸びてた……」
並んだ時にわかったけど、同じだったはずの身長が『ぼく』だけ頭半分くらい伸びていた。前に会ったのが3日前だったのを考えると急激な伸びだ。
身長の低いことがひとつのコンプレックスになっているぼくにとっては羨ましさを通り越して僻みにすらなる。
ともあれ終わったことだ。『ぼく』の身長なんか関係ない。そう、まるっきり関係ない。
3日前には何事もなかった。
今日も何事もなかった。
だったら3日後も何事もないに違いない。
「タワゴトだけどね」
短絡的としかいいようがないことはわかっていたけど、そうとでも割り切らないとこれからやっていけそうになかった。
それほどまでに非現実的すぎた。
(3日後に何もないといいけど)
そう願いながら、その日は眠りについた。


--------


次の日、目を覚ますと何だか身体がだるかった。
妙に身体が重い。何かがぼくの上にのしかかっているかのようだ。
イメージ的には象。朝焼けをバックにサバンナのど真ん中に布団を敷いてその上に象が乗っている感じ。
(せーの……!)
心の中で勢いをつけて腹筋の要領で一気に起き上がる。たったそれだけのことなのにかなり体力を消耗してしまった。
朝起きることは重労働だけど、息が切れるのは理屈に合わない。重病人でもケガ人でもないのだし。
訝りながらも、いつものように洗面台に向かう。鏡に映ったぼくが「やあ」と声をかけてくるかも、と思うあたり重症だ。昨日のことがまだ余韻として残っている。
果たして、鏡に映った顔はいつもよりふっくらした感じだった。
むくんでいるのかと指でつついてみると、ぷにぷにとした弾力でその指を押し返してきた。
むくんだという以外にこの現象を分析できないので、仕方なしにそれ以上の詮索を打ち切る。
(身体もなんだか重いし、きっとそのせいそのせい)
深く考えてもしょうがない。日常生活は送れるし、だとすれば大したことではない。たぶん。
部屋に戻り、着替える。まずはTシャツから。
無造作に脱ぎ捨てると思った以上の涼気に鳥肌が立った。もう7月だけど梅雨に入っているせいか肌寒い。
早く替えのTシャツを着よう──
ふと目が胸のところで止まる。
「あれ?」
なんか膨らんでいるような……?
まだ寝ぼけていた意識が覚醒する。
(そんな馬鹿な!)
手に持ったTシャツを放り投げ、急いで確認する。
「…………」
見間違いではなかった。残念なことに。
確かに胸の部分が膨れていた。ささやかでちょっとで少しだけ。でもはっきりと。
「腫れたんだ。きっと。絶対。うん、そう」
恐る恐る触れようと試みる。その指が震えている。未知への恐れ。
きっとエジソンが電灯のスイッチを初めて押すときもこんな気持ちになっていたに違いない。
点灯。
「うっ…」
あまりの緊張で意思とは無関係に肺から空気の塊が吐き出される。
結論からいうと、柔らかいけれども弾性に優れたいつまでもふにふにしたい、癖になりそうな感触だった。
腫れものにしてはまったく痛くないし痒くもない。ただいつものようにそこに肌があってそれを触っている、それだけ。
「鳩胸にでもなったのかな…」
顔もむくんでいるし、全身が不調なのかもしれない。心因性なら一晩で総白髪になったという例もあるので、基本的に何が起こってもおかしくはない。
そうやって自分を納得させる。自己防衛機能絶賛稼動中。
ふと。
いつもなら気にならないようなことが思い浮かんだ。
下、下半身、局部、陰部とも呼ばれる部分のことが、何故か。
ぼくの予想はありえない未来を描いていた。そんなことは現実的にはありえない。でも『ありえない』ことはすでに3日前から起きている。
心音が途端に早くなる。
確認しないと、と脳が命令を出す。でも心がやめろと制止をかける。
きっと何事もないと思う反面、ひょっとしたら万が一とも思っているからだ。
どこからともなく天使とも悪魔ともつかないのが飛んできて勝手に戦いを始める。どちらが良いことなのかわからないまま。






「はぁ……はぁ……」
知らないあいだに呼吸が荒くなっていた。
行動を起こせばすぐに終わる。ズボンを掴んで下に降ろす。ただそれだけだ。1秒と数カロリーで事足りる。
でもそれをやったら取り返しがつかないような気もした。
少なくともこの状態を維持すれば『ある』と『ない』の確率が混在させることができる。
シュレーディンガーの猫ならぬ『半田陽の下半身』。
「情けない限りの名前だ……」
世が世なら名前が後世に残ったかもしれない。末代までの恥さらしとして。
……何かどうでもよくなってきた。
ちらりとベッドの枕元に置いてある時計を見遣ると、すぐに朝ごはん食べて家を出ないとやばい時間になっていた。
深呼吸をひとつ。

やるしかない。

固く目を瞑ってズボンとトランクスを一緒に爪が手のひらに刺さるくらいの強さで握りこむ。
(3……2……1……)
ゼロと同時に一気に降ろした。
ズボンと下着に包まれ一晩かけて保温されていた下半身が外気に触れ、急速に熱を奪われてゆく。
今の状態を誰かに見られたら家族会議ものだけど。そんなことはもう気にならなかった。
目を開ける。
カーテンの隙間から注ぐ朝日が眼球の中を白く照らす。
数瞬後には焦点が定まる。
伸るか反るか。

「…………ない」

目の前が真っ暗になった。朝日はどこへ消えてしまったのだろう。
頭から血が引いていくのがはっきりわかる。
血の気の代わりに頭の中に入ってきたのは、
(何で? 何故? Why?)
大量の『?』マークだった。
それはまるでコンピュータウィルスのように侵蝕し、判断力と冷静さと理性を根こそぎ破壊して回った。
理解不能理解不能理解不能理解不能理解不能埋解不熊裡解下態…………


数秒か数十秒か数分か数時間か、どれほど経ったかわからないけど、一抹の判断力が戻ってくる。
(きっと見間違いだ)
これほど(自分のなかで)大騒ぎして単なる見間違いなら大恥もいいところだ。自分以外誰もいなくてよかった。
覗き込む。
「……見えないような気がするけど、錯覚だよね」
16年そこにあり続けたモノが綺麗さっぱりなくなっていた。棒と袋のあった場所には何やらスジというのだろうか、割れ目のようなものができている。
いやしかし人の視覚回路はファジーにできているが故に騙されやすい。
視診だけで判断するのは早い、と脳のどこかが反論する。詭弁だろうが逃避だろうが自己防衛だろうがそれは一理ある。あるといったらある。
触診もしなければ完璧とはいえない。
そうと決まれば話は早い。
けど、知らないうちに握りこんでいた右手は痙攣を起こしたかのように震えてしまっていた。
腋の下を圧迫したときに起こるに似た痺れが右手──いや全身を覆う。
全身が細かに震え、ともすれば揺れているかのようにさえ感じる。

触れる。

ババ抜きでジョーカーを引いたときの数十倍ものショックがぼくを襲った。
「ない」
右人差し指は男の証を何一つ発見できなかった。
「……お、んなに……なった………?」
胸があり、男のモノがない。ぼくの知識内で語るなら、それは女の特徴で、男女の差異に他ならない。
(ありえない!)
昨日までは確かに男だった。ここに間違いはない。
でも今朝になって性別が真逆になった。
ダウト。それは現実的に起こりえない。雌雄同体生物ならまだしも、人間にとっては。
やっぱり間違いだ。
たまたま触れられなかっただけで、ちゃんとあったのだ。
まさぐるようにサーチする。
「あっ…」
『男』の代わりに人差し指は妙な感覚を返す。意図せず割れ目を下から上になぞっていたようだ。
反射的に背筋が伸びた。バネ仕掛けの人形が元の位置に戻ろうとするかのように。
続けて頭の中に何かが閃く。
これまで味わったことのない感覚だった。
「なに……これ……」
触れるなという警告にも、興奮を促す情動にも取れる得体の知れない謎の衝動。
果たしてそのどちらなのか、それとも2種類の混合物なのか、あるいはそれ以外の何かなのか、判断はつかない。



いつしか座り込んでしまっていた。どのタイミングで腰が砕けたのかまったくわからない。
それほどまでにショックが大きかった。
(どうしよう)
意外にも次に湧き上がってきたものはパニックでもなく、これからどうするかという疑問だった。
「話せるわけないよなあ…」
朝起きたら女の子になってました。
誰が信じるだろうか。ぼくでさえ「なに言ってんの」と取り合わないだろう。
不幸中の幸いか、『元』の顔と大して変わりがなく、体つきもこの程度の膨らみもまず見破られることもない『誤差』の範囲内で済んでいる。
隠し通すしかない。
そう心に決めたとき。
「なーにやってんだ、陽」
背後でドアを勢いよく開けられた。
「に、兄さん!?」
首だけ振り返って、そこにいたのは潤(じゅん)兄さんだった。
まずい。反射的に思った。
穿いているものは膝から下にあって上半身は裸。ほぼ全裸の状態で部屋の真ん中に座り込んでいる。
それだけでも不審極まりないのに、加えて今のぼくは昨日までのぼくではない。
「なにやってんだ? いつまで経っても降りてこねーし」
不審者でも見るような目でぼくを睨みつける。メガネの反射が鋭い眼光のように見えた。
「き、着替えてたんだ。夜に汗かいちゃったみたいで」
咄嗟の嘘。我ながら苦しい言い訳だ。
たったいま隠し通すことを決めたばかりだというのに早くも崩れ去る一歩手前。砂上の楼閣にもほどがある。
「いーんだよ隠さなくたって。『処理』してたなんて誰にも言わねーよ」
「ち、違うよ! そんなんじゃ……!」
「そんなことより早くな。遅れても知らねーぞ」
言いたいことだけ言って兄さんは階下に姿を消した。
本当の事はばれずに済んだけど、あらぬ誤解を招いてしまった。
でもこの両者を天秤にかけたとき、どちらに傾くのかはわかりきっている。
まるでチェスだ。キングを守るために他の全ての駒を犠牲にする。
でも相手のキングがどこにあるのかわからない不条理なまでに不利な条件でのチェスゲーム。
チェックメイトの糸口は3日後に掴めるはずだ。
当面の敵は、
「バレないで日常生活なんて送れるのかな…」
世界であり社会といういきなりのボスキャラだった。
めげそう…。


--------

学校の存在を思い出したのは、時計の針がいつも家を出る時刻を指していた頃だった。
超特急で着替えを済ます。ハンガーから制服のカッターをはずし、いつものように身に着けてゆく。
身に着ける端々で小さな違和感を感じたけど、そんなことを気にしている余裕はない。朝食を諦めなければならないほど土俵際に追い詰められている。
カバンを引っ掴み階段を駆け下りる。ダイニングの横をそのまま通過。さようなら朝食。
走るスピードそのままで靴をはき玄関から外に飛び出した。
直後むわっとした空気が頬をなでる。まとわりつくような湿気。走るには向かない環境だ。
でもそうも言っていられない。
一生懸命走るぼくの横を何の苦労もなく通り過ぎる車に、羨望と世界中の格闘家の集まるボーナスステージに送り込みたい願望を覚える。
せめて自転車でもあればそれなりに楽はできるけど、あいにく校則で自転車通学は自宅から学校までの距離が2キロ以上と決まっている。
学校の近くに友達の家があればそこまで乗っていくという裏技が使えるのに、残念なことにそんな一等地に住んでいる友達はいなかった。

派手に息を切らし、汗と湿気で肌に張り付いたシャツに不快感を覚えつつも、何とか遅刻せずに済んだ。先生とはほぼ同着だったけど。危ない。
磁石のS極とN極のようにくっつきたがる前髪を額から引き剥がしながら呼吸を整える。
が、治まらない。
肺が酸素を貪欲に求める喘ぎが止まらない。立ち上がろうという気力もない。もしあったとしてもこんな膝が大笑いしていては無理だ。
おかしい。
ペース配分をした走りだったはずだ。間に合わせるためにスピードを上げ過ぎたかもしれないけど、ここまで全体力を使い果たすようなことはこれまで一度もなかった。
……おそらく。
(この身体になって体力が落ちてる?)
そうとしか考えられなかった。
陸上競技を見ていても男女の差は瞭然だ。
身体の構造の違いか心肺機能の差か、たぶんそんな要因が関わっているのだろう。
「よお、今日は遅かったな」
息も絶え絶えに机に突っ伏しているところに、上から陽気な声が降ってきた。
朝っぱらからこんなにテンションが高いのは一人しかいない。小学校時代からの親友の芹沢明(せりざわあきら)だ。
「ちょっと寝坊しちゃって」
上向いて顔を確認する。正解。
普段からつき合せて新鮮味もまるでない二枚目と三枚目の中間くらいの顔を眺めていても仕方ないので、突っ伏しに戻る。
こんな不快指数の高い日でもサラサラ感を失わない髪も見飽きた。
「そんなことよりいいのか?」
「なにが?」
「1時間目体育だぞ」
それを聞いて身体が反射的に勢いよく起き上がった。
散々疲れて息をするのも面倒なくらい何もやりたくない気分なのに酷すぎる。1時間目は休息にあてようと思っていたのに……。



「遅れて怒られるのは陽だけじゃねえからさ。早くしてくれよ」
体育教師の鬼頭心人(きとうしんと)は前時代的な教育方針を打ち出している。
精神論を筆頭に、一人のミスは全員のミス──連帯責任を押し付け、体罰の代わりとばかりにあらん限りの大声で罵声を浴びせる、など。
一度目をつけられると、別の意味でとことん『特別扱い』されることになる。
その凄惨な光景を見ると、絶対にその立場になりたくない、死んでもご免だと心の底から思えるようになる。
教室の前にかけられた時計を見ると時間がなかった。
(今日は時間に追われてばっかりだ)
と、いつものように服を脱…………
カッターを脱ぎシャツから体操着に着替えるところでピタリと身体が止まった。
「どうした、陽?」
教室から人が少なくなったとはいえ、人前で着替えるなんてことができるわけがない。
今朝誓ったばかりではないか。世界から真実を隠し通す、と。
「ナンデモナイ」
何でもありすぎるけど、なんでもない。
「…? まあ何にせよ早くな。待っててやるから」
「えっと……それは困る。……すごく」
「なんでよ?」
それはこっちのセリフだ、と言いたいのをぐっと堪える。どうしてこんな時に限って追究しようとしてくるのだろうか。
適当な言い訳を探す。
瞬間、閃いた。電球。
「パリ…………じゃない。ちょっとトイレ行ってくるから先に行ってて」
言うなり返事も聞かずに教室を飛び出した。
そのまま個室に飛び込みカギをかける。
束の間の安心。それもすぐ振り払ってシャツを脱ぐ。
「やっぱり、あるんだよなあ…」
ささやかながらも確実に存在する膨らみを見て現実を思い知らされる。
深いため息が漏れる。
この手もこの足もこの体もこの頭も、身体中のありとあらゆる構成要素が不幸でできているかのように思える。
その不幸を覆い隠すように体操着に乱暴に頭を通す。
白い体操着は、白いというだけで不幸に対抗しているようだ。これで黒だったり紺だったりすれば一層陰鬱な気持ちになっていたことだろう。
幸い体操着は元々サイズが大きめで、肝心の膨らみは外からだとシワに隠れてほとんどわからない。
グラビアアイドルみたいなポーズを取らず、気持ち前かがみになっていればバレることもなさそうだ。

──キーンコーンカーンコーン

「やばっ!」
個室の扉越しにくぐもって聞こえてきたチャイムの音。ぼくは慌ててグラウンドに駆けていった。




「間に合った…………ふぅ」
整列していたクラスメイトの列に潜り込んだとき、鬼頭先生はまだ姿を見せていなかった。
「危ねえぞ。こっちの心臓に悪い」
整列すると明はぼくの左隣になる。連帯責任は横一列と決まっているので明の心配ももっともだ。
謝罪の言葉を口にしようとするところで、鬼頭先生がやってきた。
「よーし、揃ってるな。号令!」
鬼頭先生の耳をつんざく命令が飛ぶ。生徒の間で俗に『ジャイアンヴォイス』と呼ばれる鋭いダミ声は、毎回思うけど心象に悪い。
「気をつけ! 礼!」
日直が大声を張り上げる。ここで小さい声を出そうものならすかさず怒声が返ってくるのは必至だ。
「やめろやめろ! なんだその声は、子守唄歌ってんじゃねぇんだぞ! どこかにタマでも落としたか!」
……どうやら今回は気に入られなかったようで。
「でも、精一杯……」
理不尽な叱責に日直が反論する。でもこれは逆効果だ。
「黙れ! 俺に何か喋るときは『よろしいですか鬼頭先生』だろうが! そんなことも忘れたのか!?」
「い、いいえ」
「違う! お前らが口でクソたれる前には『はい』を付けろ。否定するときも『はい、いいえ違います』だ!」
こういった『基本的なこと』は最初の授業のときにイヤというほど教え込まれた。
確か最初に言われたのが『俺はお前らを体力がねぇとか上手下手とかそんなんで差別はしねぇ。なぜならお前らは平等に価値がない。地球上で最下等の生物だからだ』だった。
以来それは続き、何故鬼頭先生がクビにならないのか、は学校の七不思議のひとつに数えられている。
「わかったか!」
「はいっ!」
ようやく言葉責めが終わったらしい。日直は半泣きどころか95%くらい泣いてる。
面と向かってジャイアンヴォイスを一身に受け、横一列の人たち合わせて放課後グラウンドを走ることになるとなれば、それも当然だろう。
可哀想だと思ったけど、この授業に限っていえば戦争中となんら変わりないので、仕方ないで済ますしかない。
せめてトラウマとして残らないように祈るばかりだ。
「よーし、今日はサッカーだ。各自ストレッチ、5分後チームに分かれてキックオフ! 負けたほうはグランド10周!」
「「「はい!」」」
2クラス40人分の声が曇天に響く。同じ轍を踏まないのがこの授業を乗り切るコツだ。
そして悪をなさず求めるところは少なく林の中の象のようにしていれば嵐は勝手にどこかへ通り過ぎてくれる。



二人一組になってストレッチを始める。ケガをしたら本人の責任になるし、時間制限もあるのでみんな黙々と真剣にやっていた。
足首、膝、手首、アキレス腱と各関節を入念に伸ばし、二人でしかできない柔軟に移る。
「じゃ、先に座って」
明に促されるままひんやりとした地面に足を伸ばし、座る。
ぼくの体は硬く、柔軟は痛いだけなので正直やりたくない。
背中に体重がかかる。さあここらあたりで膝裏のスジが痛くな…………あれ?
「すげえ、頭がついたぞ?」
ありえないことに、額が膝とくっついていた。
しかも全然痛くないどころか、まだ余裕さえある。普段なら爪先を持つことすらできないというのに。
女の子のほうが身体は柔らかいというけど、それは本当のことみたいだ。
「なんか、柔らかいな」
明がぽつりと呟く。
「うん、ぼくも驚いた」
「そうじゃなくって。んー、なんか感触が柔らかいんだよ。弾力があるっていうか、見た目も華奢だし。ま、陽はいつもそんなだけどな」
最後は冗談めかしだったけど、言われてドキリとした。途端冷や汗が分泌される。
もしぼくが漫画の登場人物なら服の上だろうが髪の上だろうがかいているところだ。
(鋭い…!)
顔に出さないようにして「じゃあ交代」と明の手から逃れる。これ以上触られていたらバレる可能性が高い。
無理やり座らせて力を込めて押す。
「ちょ、痛い痛い痛い!」
この痛みでさっきのことは忘れてください。

「これで最後っと」
背中合わせになり背筋を伸ばす。
まずは明のを伸ばす。……重い。いつも以上に重く感じる。
「ねえ明。最近太った? すごく重いんだけど」
「そんなことねえよ。毎日体重計乗ってるし、いつもと同じだって」
やはり力も弱くなっているようだ。でも普段は重いものを持つこともないので、特に困ることはなさそうではある。
「次、陽な」
手首を掴まれ逆に担ぎ上げられた。



思い切り伸びをしているようで心地いい。ラジオ体操でも上体胸そらしは好きな部類に入る。
(胸そらしって……。この体勢は…………ひょっとして胸を強調してる?)
予想は無情にも当たっていた。
自然なシワでは再現できない波型の隆起が姿をのぞかせている。
慌てて首を左右に振って状況確認。
今は誰も見てなかったけど、これからどうなるかはわからない。危険だ。装備なしの鳳天舞の陣の皇帝くらい危険だ。すぐに終わらせないと。
「もういいよ、明。降ろして」
「なに言ってんだよ、まだ上げたばっかじゃん。ほらもっと伸ばさないと」
さらに身体が反る。胸元を見ると、膨らみが自分はここだと言わんばかりに自己主張していた。
明はそれでもまだ伸ばそうと弾みをつけて身体を揺さぶる。
「きゃっ…!」
電流が全身を通り抜けた。そして自分の意思でなく出た変な声。
(な、なに?)
これまで味わったことのない強烈な刺激だった。意識を集中してその発生元を追う。
と、また電流が身体の中を通り過ぎた。
本当に通電してしまったかのように全身が痺れる。
自分でもわけがわからないけど、甘い痺れと形容するしかない。何せまた味わってみたくなるように思えてしまうのだから。
発生元は…………胸の先端。
そこが体操着と擦れてこの現象を引き起こしている。
(……!)
また来た。
3度目の感電。脳を焼ききるような痛烈な衝撃がぼくを襲う。
やたらに身体の芯が熱い。胸焼けとは違う、ただ心地いいだけの熱さが全身を支配…………ダメだ!
このままではまずいことになる。気がする。
「も、もう……明ぁ……いい…から……っ!」
理性が全神経、全感覚器官に冷水を浴びせる。それによって動くようになった喉から声を絞り出す。
同時に縛めから逃れようと足をばたつかせる。
「お、おい! 動くなよ!」
もう何も考えられない。理性と本能が入り混じり混沌とした意識下で逃れることだけを実行する。その結果を考える余裕もなく。



「うわっ!」
とうとう明城が瓦解した。上にいるぼくもバランスをなくし崩落する。
ドタッ、と閉じた目の向こうで音がした。
「痛え……」
痛い? ぼくはどこも痛くないのに。
目を開ける。明の顔が見えた。それもすぐ側に。折り重なって地面に倒れているらしい。
しかもこの体勢は、ぼくが明に胸を押し付けて…………!?
「ちょ、重い…」
言われるまでもなくぼくは飛び退いた。顔が赤いのが鏡を見なくてもわかる。触れる指が冷たく感じるほどに紅潮してしまっていた。
「こらそこ! なにやってんだ!」
鬼頭先生の怒号が飛んできた。
「はい、ちょっとバランスを崩してしまって…」
ぼくが口を開こうとしたその直前、明がぼくの言おうとしたことそのままを代弁した。
これではまるで明が元凶みたいではないか。本当はぼくが悪いのに…。
「ケガはないんだな?」
「はい、大丈夫です」
「今回は許してやる。だが次はねぇぞ、いいな!」
言いたいことだけ言って鬼頭先生は行ってしまった。
「本当にごめん」
いたたまれなくなって謝る。
「いいって」
その笑顔に対しても、申し訳なく思ってしまう。ともすれば泣いてしまいそうになるほど目頭が熱い。
「そんな顔すんなよ、いこうぜ」
何も言うことができず、無言のまま頷いた。


--------
まずいことに、さっきの一連の出来事が尾を引いていた。
(あっ……また……)
胸に意識が行き過ぎるのだ。
走れば体操着も身体も動く→擦れる。そのたびに刺激を受け紅潮するのだから、サッカーなんてまともにプレイできるわけがない。
「おい、もっときびきび動け! ジジイのファックのほうがよっぽど気合はいってるぞ!」
序盤に1点入ったきり膠着しているのが面白くないのか鬼頭先生がハッパをかける。
ぼくのいるチームは負けていた。スタメンなのは普段だったら嬉しいけど、今のぼくは確実に足を引っ張っている。
ロングボールの応酬で直接的には関係してないけど、実質10対11だ。負けの要因にはなりたくないし、その後の罰ゲームもイヤだ。
そのためには何か対策を取らないといけない。
(そうだ!)
目には見えない電球が閃く。これは無双三段並の思い付きだ。
すぐさま実行に移す。
とりあえずベンチメンバーと交代し、保健室へと急ぐ。先端に触れさせないよう体操着をつまんで浮かしながら。


「失礼しまーす」
入り口の不在表を見て居ないことはわかっていたけど一応。
後ろ手で閉めるなり目的のものを探す。
消毒液のにおいが鼻につく。こういった場所にいると、どこも悪くなくてもどこかが悪いような気がするから不思議だ。
「お、あった」
しばらくして戸棚から目標が見つかる。
絆創膏。
これを患部(?)に貼れば直接擦れることはなくなる。我ながらいいアイディアだ。きっとドラ○もんのひみつ道具にだってこれ以上便利なものはない。
さっそく体操着をたくし上げ、手を自由に使えるように裾を口にくわえる。
…………
……ひょっとして、これはすごくエロい格好なのではないだろうか。
ぼく以外誰もいない、授業中で耳が痛いほどに静かな保健室。誰も見てないというのに勝手に赤面してしまう。
(いや、その理屈はおかしい)
思い直す。あくまでぼくは男だ。外見が『少し』違うに過ぎない。男がそれを気にすることではない。
とはいえ、
「なんか立ってるし……」
さっきのことを思い出す。不可抗力とはいえあれは恥ずかしい。その結果か、ぼくの先端は見るからに硬くなっていた。
そんなことよりも、と気を取り直す。今はそれどころではない。まだ試合の途中だ。
なるべく刺激を与えないように注意しながら絆創膏の布(?)の部分で先端を覆い隠してゆく。逆側にももうひとつ。
いつからこんなになったのか淡い桜色の突起が絆創膏の下に両方隠れ、ようやく人心地ついた。これで心置きなく動き回ることができる。
「おっと、早く戻らないと」
こんな恥ずかしいことまでやって負けたら、それこそ救いようがない。
思い付きと行動を無駄にしないためにも、一刻も早く戻らなければ。


--------


「勝ってるし……」
ぼくが戻ったときにはほとんど勝負がついているようなものだった。
5−1。
何があったんだ。
「半田君。どこに行ってたんだ?」
得点ボードに釘付けになっていると、ベンチメンバーの一人に話しかけられた。ぼくのクラスの学級委員長の来栖冷一(くるすれいいち)が非難するような目でぼくを見ていた。
「ちょっとトイレに行ってて…」
「行くなら誰かにちゃんと断って行ってくれないか。鬼頭先生に怒られるのは御免だ」
メガネの奥の冷たい眼差しがぼくを射抜く。
名は体を表すというけど、彼はそれが正しく当てはまる。冷静沈着で何事にも動じない。
感情が表に出ず、聞くところによると生まれたときですら泣かなかったらしい。
抜ける時にはちゃんと断りを入れたはずだったけど、どうやら伝わってないらしかった。
かといってここで反論する気にもならない。ここで言い争ってもただ不毛なだけだ。それに先生に怒られるし。
「まあいい。君の抜けた分はサッカー部の多賀君が補ってくれた。おかげで無意味に走らずに済みそうだよ」
興味が失せたのか、ぼくから目線を逸らす。
はっきりいって委員長とは関係が悪い。確か今年の5月くらいに突然、明ともども敵認定された。
以来こっちは不干渉を貫いているのに、何故か委員長は事あるごとに突っかかってきた。
今回もその延長だろうと思うので大して腹も立たない。徳島ヴォルテイスVSザスパ草津の試合くらいどうでもいいこととして処理している。うん、大人だ。
──ピーーーーーッ!
また1点入ったみたいだ。やはり本職の人は凄い。
…………
(ぼくがいなくても全然問題なかったし)
それどころか、いたら負けていたかもしれない。あんなことをしなくてもベンチに下がればいいだけの話だった。
圧勝のうちに試合が終わったとはいえ、報われない気分だ。せっかく努力したというのに。
「集合!」
鬼頭先生の号令に、一目散にみなが整列する。
「負けたほうに言っておく。お前らは『精一杯努力した、だが報われなかった』そう思ってねぇか?
だがそれは違う。努力が報われるんじゃねぇ。報われるために努力するんだ。報われない努力に意味なんかねぇ。わかったか!」
あっさり全否定ですか。
「「「はい!」」」
「じゃあ行ってこい!」
整列していたうちの半分がグラウンドに散る。半数になってより多く先生に睨まれていると思うと居心地が悪くてしょうがない。
「ほかは解散!」
これでジャイアンヴォイスから解放されると思うと晴れ晴れする。
オツトメが終わってシャバに戻ってくるときにこんな気分になるのだろうか。なにしろ暗に『懲役1時間』なんて言われているくらいだから。
解放と同時にぼくは誰よりも早く教室へと急ぐ。誰も見ていないうちに着替えを終えないと、またトイレに篭らなければならない。
こんな苦労があと最低2日は続くと思うと、気が重い。
心の中は今日の天気のようにどんよりと曇っていた。




--------
「──い」
なんだか揺れているような気がする。地震? まあいいや。震度5強でなければ問題はな──
「おーい、起きろー」
「──んぁ?」
ぼんやりとした霧が意識にかかって、いまいち現状が理解できない。薄いレースのカーテン越しに見ているように視界も悪い。
「おーきーろー」
肩を揺さぶられる。だんだんと脳が活動を始める。
「ん、なにか用?」
半無意識的に口が勝手に喋る。人は、寝起きのときに「あと5分」とか反射プログラムを発動させるAIを持っていると思う。とても便利だ。
「『なにか用?』じゃないわよ。図書委員の仕事忘れたの?」
そういえばそうだった気がしないでもない。……というかこの目の前にいる活発そうな人は誰だったか…………図書委員?
あ、六条単(ろくじょうひとえ)だ。特別親交はないけど挨拶するくらいの仲。
例外なく誰とでもフレンドリーに振る舞え、あの委員長にも真っ向から立ち向かえる奇特な人。
「もしかして、いまもう昼休み?」
記憶が2時間目の数学からない。疲れていたとはいえ随分と眠りこけてしまったみたいだ。
「当たり前じゃない。さあいつまで寝ぼけてんの。さっさといくわよ」
有無を言わせず手を掴まれ無理やり立ち上がらせられる。
「ちょ、ちょっと待って。ぼくまだ何も食べて──」
「あたしもまだよ。図書室で食べればいいじゃない」
「それもあるけど、何か買わないと食べるものがな──」
「そんな時間ないし、あたしのを半分あげるわよ」
別に言い訳するつもりはなかったけど、ことごとく論破された。
後ろ手に掴まれ、揺れる肩までのツインテールのすぐ後ろを強制的に歩かされる。市中引き回しの刑とでもいえばいいのか、情けない構図だ。
それを知ってか知らずか、彼女は無言で先をゆく。
そんなに図書委員の仕事を忘れたことを怒っているのだろうか。心なしか怒ったときに出る荒い鼻息も聞こえる。
掴む手にも力がこもっているし、いよいよ怒り心頭のようだった。
「あの……六条さん?」
「! なによ!?」
荒げた声。やはり完全に怒っている。振り向いた顔も湯気が出そうなほど赤い。
ちょっとした刺激で「ドガァ!」というオノマトペと一緒に噴火しそうだ。

「図書委員の仕事忘れて、ごめん。だから機嫌を直して、ね?」
ぼくなりの精一杯の笑顔を向ける。誤魔化しの意味を少なからず含ませて。
瞬間、六条さんの顔の赤さが一段階増して鮮やかになった。
しまった、逆効果だ。
天ぷら火災をどうにかしようと消化剤としてマヨネーズを放り込んでしまったようなやっちゃった感がぼくを襲う。
どう後始末をつけたものか。嵐が過ぎるのをただ待つしかないのか。
…………
でも、噴火どころか天変地異はなにひとつ起こらなかった。
ぼくの目に飛び込んできたのは、茹でダコもしくは茹でカニのように顔から首から足まで真っ赤に染まった六条さんの姿だった。
そのままぴくりとも動かない。弁慶の立ち往生を連想させる格好だ。
「六条さん?」
呼びかけにも応じない。焦点が定まってないというか、心ここにあらずというか、なんというか現実を見ていない感じがする。
何かの持病だろうか。例えば某半島特有の「ふぁびょん」とかいう風土病とか。
だとすれば保健室に連れて行くのが一番いい。そう判断して100年経った古時計のように動かなくなった六条さんを背負う。
(思ってたより、軽い)
ぼくと同じくらいの背丈なのに驚くほど軽かった。これなら力の弱くなったぼくでも保健室くらいまでなら運べる。
あえて障害をあげるとするなら、女の子を背負うというあまりない光景に好奇の目を向ける人があちらこちらにいることだ。恥ずかしいけど、我慢しかない。
嫌な噂が流れないといいけど……。


--------
「失礼します」
本日2度目の保健室。今回は保健医がいることはわかっているので後を任せることができる。
「どうかした?」
保健医の指定席にいたのは校内で人気度が一番高い(といわれている)嘉神みなも(かがみみなも)先生。
美人でスタイルもいいとなればそれも当然で、見下ろす格好の今は谷間が…………
「あ、あの。急に動かなくなってしまって」
そんなことをしている場合でないと煩悩を振り払いながら説明する。
「じゃ、ちょっとそこにゆっくり寝かせて」
言われた通り嘉神先生に一番近いベッドの上に寝かせる。
ここにくるあいだに赤みは消え、もとの白い肌に戻っていた。静かに寝息を立ててさえいる。素人目にももう大丈夫だとわかった。
「どうしてこうなったかわかる?」
おでこに手をあてて熱を測ったり、脈拍を取ったりしながら聞いてくる。
「それがさっぱり……。あまりに突然だったので何か持病でもあるんじゃないかと思って連れてきたんですけど」
「そう。本人に聞いてみるまではわからないけれど、脈拍も心音も安定してる。少なくとも持病があったとは考えられないわ」
ほっと胸をなでおろす。
「あ、図書委員の仕事があるので、あとをお願いしてもいいですか?」
「それが仕事だもの」
特上の笑顔。これならこの学校の未婚の男性教諭が全員嘉神先生を狙っているという噂も信用できる。生徒の中にもチャレンジしている人がいるとかいないとか。
「失礼しました」
「あ、ちょっと」
退室しようとして、不意に呼び止められた。


「なんですか?」
次に嘉神先生から発せられた言葉はぼくの予想を遥かに超えたものだった。

「なんでその服着ているの?」

「──!」
どくんと心臓が大きく波打った。
(バレた!?)
いや違う。別の意味で言ったか、特に何も意図してない、そう考えるのが自然だ。
ぼくは普通の男子生徒として振舞っていた。何の糸口もなくバレるわけがない。
膨らみだって普段のぼくを知らなければ微妙な差異なんか絶対にわかるわけがない。
「え、どこかほつれてますか?」
我ながら白々しいと思った。でも、その反応のほうがよほどそれらしい。
「そうじゃないわ」
嘉神先生は椅子から優雅に立ち上がり、ぼくに迫ってくる。ぼくは動けなかった。

「どうして男子の制服を着ているのかってことよ」

完全な看破。
「あなた、女の子でしょ?」
「違いますよ。ぼくは2−Bの半田陽。名簿見てもらったらわかりますけど、れっきとした男です」
本能的に最後の抵抗だと悟る。すぐに逃げられるように引き戸に手をかけ──
「これのどこが男の子なわけ?」
嘉神先生の指が合わせに沿い這うようにゆっくりと下る。ボタンがほとんど無抵抗にはずれてゆく。
3分の1まではずすと、その間にするりと手を滑り込ませシャツの上から胸を撫で回した。
「──ひっ!」
「もう一度聞くわ。どこが男の子?」
暗く静かな最後通牒。でももう反論はできなかった。逃げようとする気力すらなくなり、妖しく光る先生の目を見ることしかできなかった。
今朝の誓いは半日も経たず瓦解した。
自分は負けた。それもあっけなく。
だったらこれ以上の抵抗は無意味だ。
諦めが心と身体を支配する。観念するしかない。


内側から鍵を閉められ、保健室は完全な密室になった。
ぼくは操り人形のように嘉神先生の言う通りに従う。
先生は患者用の椅子に座らせたぼくをしげしげと観察する。
「聞かせてもらっていいかしら。どうしてその服を着てるの?」
「…………」
ぼくは押し黙る。本当のことを言ったところで信じてもらえるわけがない。だったら喋らないでいることと同じだ。
「素直に喋ってちょうだい。秘密は必ず守るわ」
話さなければ、この質問が続くだけだ。そのまま解放されるとは思えない。
「…………実は、」
ぼくは話し始める。朝起きたらこうなっていたこと、原因はさっぱりわからないこと。
ただ、もうひとりの『ぼく』については話さなかった。
「そう、そんなことが。確かに名簿には『性別:男』とあるわね。でも、原因がなければ結果は起こらないものよ?」
「この話をそのまま信じてもらわなくていいです。ぼくだって信じられないんですから。それから質問……いいですか?」
原因だって話したところで『信じられない』範疇に含まれる。だから信じる信じないはどうでもよかった。それよりも聞いておきたいことがある。
「どうしてぼくの身体のことがわかったんです? バレるようなことをしたつもりは全然ないんですけど」
「それはね……匂い、よ」
「匂い、ですか」
「そう。男の子と女の子は匂いが全然違うの。あなたは格好とは正反対の匂いがした。だからわかったの」
匂いで識別──まるで犬みたいだ。
それにしても匂いなんてそんなに違うものだろうか?
「いま、犬みたいだ、って思わなかった?」
「そ、そんなことはないですよ。でもそんなにはっきり違うんですか? だとすると嗅ぎなれてないとわからないんじゃ……」
「それはね」
嘉神先生がずいっと前に乗り出す。漂ってくる化粧とか香水の混じった大人の女性の香り。
「女の子の匂いをたくさん知っているからよ」
唇を塞がれた。嘉神先生の唇で。
「ん──!」
舌がぼくの口の中に押し入ってくる。不意打ちということもあって易々とぼくの口の中を蹂躙する。
先生の舌がぼくの舌を絡め、離し、絡めを繰り返す。そのたびに身体が熱くなっていくように感じた。意識もぼーっとし、力が抜ける。
ぼくはなされるままになっていた。
どれだけ時間が経っただろうか、くちゃくちゃと唾液を交換する音が静かな保健室に場違いのように響いている。ように聞こえた。



「ふぅ」
唇が離れる。ぼくの唇との間にぬらぬらと光る半透明の橋ができる。
「よかったわよ、陽くん…………いえ、陽ちゃん」
第三者がよくいう『中性的』な顔もあって、陽ちゃんと呼ばれることも珍しくない。家族から呼ばれるのならまだいいけど、知り合ってすぐの人に呼ばれるとなると話は別だ。
その理由が「可愛いから」なら論外だ。ぼくの中で男を形容する言葉に「可愛い」はない。この顔がコンプレックスなのだから当然だ。
…………でも。
いまはそんなことは微塵も感じなかった。
「可愛い顔してるわよ、陽ちゃん」
むしろ自分を認めてくれた感すらある。何故かそう感じた。
「さあ、続きをしましょうか。女の子の愉しみを教えてあげるわ」
男なら誰でも虜にしてしまいそうな魔性の笑み。
赤ん坊のように軽々と抱きかかえられ、一番奥のベッドに横たえられた。カーテンがレールを滑り、独立した空間ができる。
「じゃ、脱がせてあ・げ・る」
心の底から楽しそうだった。ぼくはさっきの強烈なディープキスの余韻が残っていて何も考えられない。
着せ替え人形のように一枚一枚剥ぎ取られていくのをぼーっと眺めることしかできなかった。
「あら、そんなところに絆創膏なんか貼っちゃって」
シャツも脱がされ、ズボンも脱がされ、残ったのはトランクス一枚。半裸だ。
「ほら、天井を見て。鏡張りなのよ。元が男の子ならこの機会に女の子を知っちゃいなさい」
絆創膏が剥がされ、最後の砦のトランクスも剥ぎ取られ、完全に生まれたままの姿になる。
天井にはぼくに良く似た女の子が不安に表情を曇らせていた。
「ふふ、可愛いわよ。体つきのバランスもいいし、余分な贅肉もない」
そう耳元で囁く。離れ際にふうっと息を吹きかけられ、身体がびくりと震えた。
「まずはここね」
先生の白い両手が胸へと伸びる。冷たさに身体が強張る。でも別の感覚がやってきてそれらを打ち消す。
「うっ、ぁぁ……」
手は優しく揉みしだく。膨らみはささやかものなのですっぽりと手のひらに覆われてしまう。
「小さいけど弾力もあるし、いいおっぱいよ。きっと成長したらすごく綺麗になるわね」
まるでマッサージをするかのように強弱をつけて上下に左右に揉まれる。
「あぅ……」
何かしらの刺激が与えられるたび、口から自然と意味をなさない声が漏れる。
「可愛い声出すじゃない。感じてきた?」
感じる──気持ちいいことだというのは知識で知っている。でもそれがどの程度のものかは、
「わから……ない」
「そうよね、男の子だったら知らないわよね。じゃあ、教えてあげる。これが感じるってことよ」
「──! うぁぁあぁぁぁ!」
何が起きたのかわからなかった。突然雷が落ちてきてぼくの身体を隅々まで走り抜けていったとしか認識できない。
先端を指で摘まれていると理解できるのにそれから少し時間が要った。

「いい声……。これが『感じる』よ。気持ちよかったでしょ?」
うっとりとした表情でぼくを見つめる。
ぼくは無言で首を横に振る。こればかりは男として認められない。
「だったらこれで感じるはずよ」
また唇が塞がれる。息が荒くなっていたぼくの口は無防備に舌を受け入れる。
「うん……むぅ……ん……!」
舌がぼくのなかで暴れ回る。さっきと比べるとあまりに乱暴すぎる。
「ん! んんんんんんんん!」
再び身体の中でなにかが爆発する。状況が理解できないまま、2度3度と強烈な刺激が波となってぼくに襲い掛かる。刺激が強すぎて処理範囲を軽く超える。
ぼくはただ刺激をそのまま受けるしかない。
「──!」
突如として爆発した何かがまるで歯車のように合致した。刺激の動力が伝わった先は、
「どう?」

「気持ち……いい…です」

快感だった。
それも男の時に感じた局所的なものではなく、全身の隅々まで行き渡ってまだ余る類の圧倒的な快感。
「それはよかったわ。……次はもっと気持ちよくしてあげないとね」
自然と頷いていた。もう男であるとか女であるとか関係なく、ただこの気持ちよさを味わいたい。それだけしか頭にない。
嘉神先生はぼくの下半身の横に移動させる。そこにあるのは当然、
「見ないで……ください」
下半身を見られ顔がかあっと熱くなる。
「ここも綺麗……。よかったわね、あなた完全に女の子よ」
「そんな……」
ある程度覚悟していたとはいえショックだった。専門家がそういうのだから、間違いないのだろう。
それでも「よかった」とは思えない。まだぼくは自分のことを『男』と思っている。
「毛もはえてないし小学生のみたいだけど…」
「ひゃっ!」
割れ目をなぞられた。
「しっかり濡れてる。すごいわ、こんなの見たことない」
半透明に光る液体を指に乗せてぼくに見せ付ける。興奮気味に語る嘉神先生の姿は狂気といってもよかった。
未知なることへの恐怖が湧き上がる。鏡の中のぼくは青ざめてさえいる。
「そんなに怖がらなくたっていいわ。さっきのなんか比べ物にならないほど気持ちよくなるんだから」
優しげな声音。でもその奥には獰猛な欲望が見え隠れしていた。狼は羊の皮をかぶっても狼にしかなれな──


「ひゃう!」
思考は突如打ち切られた。いや、打ち切らざるをえなかった。
先端のときとは本当に比べ物にならなかった。倍とも数倍とも思える快感の奔流は意識を簡単に押し流すほどに強い。
「まだ触っただけなのに、ちょっと敏感すぎるわよ」
「……そ…んなこと言われて……も…………あっ!」
快感が津波のように押し寄せ、身体中をそれ色に染める。間違っても波ではなかった。次から次へとやってきても全く引かないのだ。むしろ蓄積さえしている。
「指でなぞるだけもつまらないわね。味わっちゃおうかしら」
ぞくりと背筋が凍りそうなほど冷たい舌なめずり。逆光で顔はよくうかがえないけど血のように赤い舌が印象的だった。
それにしても、味わう……?
「きゃうあああぁぁぁぁ!」
その意味は頭ではなく身体で理解した。
舐められている。ぼくの。あそこが。なんで。こんな。すごい。なんで。
「あっ…う………あっ…あっ……はぅ!」
なんで。こんな。声が。出。なんで。これ。でも。気持ち。いい。
「美味しいわよ、陽ちゃんの蜜。愛液といったほうがいいかしら。知ってるわよね?」
ぼくは少しだけ首を縦に動かす。
「女性はね、感じるとこうやって愛液を分泌するの。でも陽ちゃんは少し感じすぎね。こんなに溢れ出してるんだから。もしかして淫乱なのかも?」
「ち、ちが……!」
違う。ぼくは。違う。絶対。
「やぁっ!」
生温かい舌がぼくの『中』に入ってくる。そのまま入り口付近を舐め回す。もう何かされるだけで気持ちいい。身体も脳も溶けてしまいそうなほどに。
「あぅ……やっ……だ…だめっ!」
自分の中で何かが高まっていくのがわかる。それは例えるなら、水がぼくという風船の中を満たしてゆくのに似ている。
許容量いっぱいになれば何が起こるか。……怖いと思う反面期待もしている自分がいた。
水が満たされるにつれ、声がより高くなる。その声すら自分を高めてしまう。
「よだれまで垂らして感じて……それで淫乱じゃなかったら、世の中のほとんど女性は不感症じゃない。
まあいいわ、そろそろイきそうなようだし。仕上げは……ココ」
ぼくの快感の高まりを察知したのか先生はにやりと笑う。
「イっちゃいなさい!」
「──! やあああああぁああぁぁああぁあああぁぁぁあ!!」
瞬間意識が真っ白になった。これまで感じていたものを覆すような圧倒的な快感がぼくを貫く。
自分の声のはずなのに誰が別の人が叫んでいるように聞こえる。力のこもっていた下半身から力の一切が抜け、何かが自分のなかから出ていく感じがした。
今ここが天国といえば信じてしまいそうなほど身体も心も充実している。


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
ふと自分の呼吸の音で我に返った。
「どう、女の子の快感は?」
火照った身体にはまだ絶頂の感覚がありありと残っている。
「……よかった…で…す……」
頭で考えるまでもなく答えは決まっていた。
「最後のはとくに良かったでしょう。あれがクリトリスよ。女の子が一番感じるところ。……またやってほしい?」
それは悪魔の誘惑であり天使の祝福だった。
頷くと濃厚なキスをされた。今は何をされても気持ちいいとしか感じない。髪ですら触れられるだけで快感を覚えるかもしれない。
「今度は指でやってみようかしら」
「せんせぇ……はやく……やってください……っ!」
股間が疼いてしょうがない。早く刺激を。もっと快感を。求めるように腰をくねらせる。
「まずは……1本」
「ああっ!」
ずぷりと細い指が中に入ってくる。でもそれだけでは少し物足りない。何とか快感を得ようと下腹部に力を入れ指を中で挟みこもうとする。
「凄い締め付けね。でも1本じゃ足りないって顔してるわ。いいわ……2本目」
「うあっ!」
差し込まれると同時に指が前後に動き始める。抜き差しされるたびその動きが快感を呼び戻す。
「い……いい……です…それ……もっと…っ!」
「あらあら、男の子のくせに女の子みたいに喘いで」
そんなことはどうだっていい。些細なことだ。
いまはただ快感が、充足が欲しい。
「あん……あっ……あんっ……ぁ……うんっ!」
感じたものをそのまま口に出す。天井の鏡には快感に酔いしれる『女の子』が映っていた。
そのいやらしい姿に興奮する。途端に絶頂を近くに感じる。
「もっ、もう……! 何か……くる……っ!」
それに応えて指の動きが早さを増す。くちゅくちゅと聞こえる水音がぼくをさらに扇動する。
「さあイきなさい! そしていやらしく鳴くのよ!」
先生の指がぼくのクリトリスを圧迫する。
「だ……め……! い、いやあああぁあぁぁあぁああぁああああぁ!!!」
喉が痛くなるほど叫んで、ぼくの意識は暗い闇の中へ落ちていった。


--------


──キーンコーンカーンコーン

どこか遠くでチャイムの音が聞こえる。
海の中か雲の上か、なにかを隔てて振動の伝わりを妨害しているような、そんな感じの音質。
(? チャイム?)
まどろみのなか連想ゲームが始まる。
(チャイム……学校……チャイム…………授業!)
たどりついた言葉が引き金になり、一気に覚醒する。ベッドから飛び起き…………ベッド?
「お目覚め?」
パイプ椅子に腰掛けぼくを見つめていたのは嘉神先生だった。その姿は優美で気品すら漂っている。
「嘉神…先生…?」
「あんまり可愛い寝顔だったから、結局起こさなかったわ」
(寝てた? 保健室で?)
記憶の網を手繰り寄せる。
(確か昼休みに六条さんに連れられて図書室に行く途中、六条さんが突然倒れて、保健室に連れて行って、嘉神先生に身体のことがバレて、それから……)
顔から火が出そうになった。というか見えなかったけど出た。顔面ファイアー。
初対面に近い保健の先生と、よりにもよってあんなことまでしてしまった。羞恥を覚えるなというほうが無理だ。
「そうだ! いま何時ですか? 授業は?」
「もう放課後よ。授業を欠席することはちゃんと伝えておいたわ」
「ありがとう…ございます」
あのあと眠りこけてしまったぼくに対してちゃんとフォローを入れてくれたみたいで安心する。
もう放課後なら帰ってもいいはずだ。さっさと服を着て…………えっ?
「な、なんでこんなものを!?」
起きてからなにか胸周りが窮屈な感じはしていた。でも、これを着けていることは想定の範囲外だ。
「あら、女の子なら当然じゃない。下ともお揃いよ」
ぼくの胸には純白のブラジャーが着けられていた。言われて下を見てみると、その通り白の女物のパンツが。視認したことで、お尻や前に完全にフィットし、それでいて少しも窮屈でない不思議な感じを覚える。『あった』ときより安定感があるかもしれない。
「いくらまだ小さいからって着けないわけにはいかないわ。形が崩れてからじゃ遅いのよ。下だって女性用に作られたものをはかないと機能的にも衛生的にもよくないの」
うろたえるぼくを冷たく諭す。
「でも、これじゃ家に帰れませんよ……」
もしこんな姿のぼくを家族に見られたら……。間違いなく大騒ぎになる。言い訳のしようがない。


「それは心配しなくていいわ。全て通達済みだから」
「え?」
……さらりと凄いことを言われたような気がする。全て?
「親御さんにも、学校の先生にも、あなたが女の子になったことを教えたの。大丈夫よ、みんな納得してくれたから」
「…………」
これは精神的ダメージが大きい。クリティカルヒットだ。再起不能まであと少し。
隠し通すはずが、いまや周知の事実となってしまっている。理想と現実にはもはや接点tがない。
明日からどんな顔して学校に行けばいいのだろう。
ぼくが何事もなかったかのようにいつも通りに振舞ったところで、周囲がいつも通りになるとは思えない。
……何も変わらなかったらそれはそれでイヤだけど。
「ショックなのはわかるわ。でもいつまでも隠し通せると思う?」
嘉神先生は放心するぼくをそっと抱きしめる。
「一言も相談せずに決めて、悪いとは思った。けれどこのタイミングでならあなたにとって状況は不利に動かない。
さ、これを着てお帰りなさい。今のあなたは誰が見ても女の子にしか見えないんだから変な目では見られないわよ」
元気付けようとしてくれるのはわかる。けど、いますぐに元気にはなれそうもなかった。
とりあえず家に帰って、何も考えずお風呂に入って、何も考えないまま眠りたい。
「ところで、どうやって説明したんです?」
ひとつだけ疑問が残る。こんなフィクションな話をどうやって納得させたのだろうか。
「『原因不明の奇病で女の子になりました』と言ったら、みんな『ああ、それなら仕方ないですね』と口を揃えて返事してきたわよ」
……心が広いというか、よく信じる気になると思う。
「だからそんなに深刻になることはないのよ」
「案外そうかもしれないですね」
口ではそう言ったけど、すべては明日の朝、みんなの反応を見ないことにはわからない。
奇異な目で見られることは間違いない。
そのあと受け入れられるか、疎外されるか──
(今ここで考えてもしょうがないか)
悪い未来を払いのけるように思考を打ち切った。





--------
渡された制服は紛れもなく女子用だった。毎日のように見ているけど、自分の手で持ってみると変な感じがする。
上は、男子のと同じカッター(ブラウス?)だけど、合わせが右前だ。襟が長めにとってあり、それを通して浅葱色のリボンを胸の上あたりで結ぶようになっている。
そして下はやっぱり、
「スカートはかないとダメですか」
「ダメよ」
一縷の望みはあっけなく潰えた。ただ春の夜の夢のように。
まさか自分がスカートをはくことになるなんて思ってもみなかった。
…………
一通り身に付けると、どこから出してきたのか姿見の前に立たされた。
「……違和感がそれほどないのがイヤですね」
率直な感想を漏らす。
「違和感どころか、よく似合ってるわよ」
姿見に映ったぼくという形は、そのまま女子生徒だった。
元々の顔でさえ着る服によっては女の子に見られていたのだ。ましてや今は女顔寄りで『女』。似合わないはずがなかった。
これまで必死になって隠してきた胸の膨らみもブラジャーの存在によって制服の上からでも一目でわかる。どう言い訳しても『男』ではない。
「似合うと言われても嬉しくないですよ……。あくまでぼくは男なんですから」
「それもひとつの個性じゃない?」
個性。便利な言葉だ。ナンバーワンよりオンリーワン。無個性も個性と定義付けるなら話は別だけど、普通一般のカテゴリに属しているほうがはるかに楽だと思う。
少なくとも『中性的』という個性はぼくにとっては重石だ。そのせいでイジメの対象にもなったことがあるし…。
「それじゃ、帰ります」
「気をつけてね」
保健室を出る。何時間ぶりかの廊下は茜色に染まり、とても静かだった。生徒も行き交わず、時折グラウンドのほうから野球部のものらしい掛け声が薄く届くだけだ。
この空間のなかで一番大きい音は自分の足音くらいで、その音さえもそこかしこに広がる影に吸い込まれて消えてしまっているようだった。
ぼくは教室に向かっていた。カバンもそうだけど、汗まみれの体操着を置いて帰るのはとてもできない。明日が地獄になる。
幸いにして教室には誰もいなかった。
教壇の上にある時計の針は午後6時を指していた。この時間まで学校にいるのは部活動をやっている人くらいなので、教室はがらんとしている。
ぼくのいない間に配られたらしいプリントの束をカバンに放り込む。
ふと窓ガラスのほうへ目を遣る。ガラスの向こうには、ぼくによく似た別人がいた。
いったい『本来の半田陽』はどこへいってしまったのだろうか。
「考えてもしょうがないか…」
わからないことを突き詰めたって答えにたどりつくことなんかできやしない。
考えを振り払い、止まったままになっていた手を動かす。


──ガラッ

唐突に教室の引き戸が開け放たれる。
「陽──か?」
明だった。
いま家族に次いで会いたくない人物。
ぼくのほうへとゆっくり近づいてくる。
「やっぱ女になったってのは本当だったのか…」
先生から聞かされたのだろう。どうせ明日になれば嫌でも知られることになる。その点において、事前に伝えることでパニックを和らげられるのは得策といえる。
でも自分と無関係のところで話が広がっていくのは、お世辞にも良くは思えない。
「ホント、信じられねえよ。急にそんなになっちうまなんて。クラスメイトの奴らみんな驚いてたぞ」
それはそうだ。ぼくだって逆の立場だったらきっと驚く。
「ひょっとして、今日の体育のとき妙におかしかったけど、そのせい?」
明は、うつむくぼくに矢継ぎ早に言葉を浴びせかける。焦っているのか、声が上擦っている。いつものように余裕のある陽気なそれではなかった。
「ま、まあ元気だせよ! いきなりは無理だろうけどよ」
明が元気付けようとしてくれているのは痛いほどわかった。けど、それになんて応えたらいいのかわからない。
『気にしてないよ』と空元気でも見せればいいのか。
なにも話さずにいればいいのか。
逃げるようにこの場を立ち去ればいいのか。
「…………ごめん」
「お、おい、なに謝ってるんだよ。陽は別になんも悪いことしてねえだろ?」
「……ごめん。いまは何も言えない……」
口をついて出たのは『逃げ』の言葉だった。
保留したといっても事態は決して好転しない。それを理解しながらも、逃げる以外にいまできることは見つからなかった。
「いきなりそんなのになっちまったら誰だって動揺するよな。そんな時は美味しいもん食ってゆっくり風呂入って寝れば、次の日にはちょっとでも落ち着くって。な?」
明の無責任とも取れる言葉が心に響く。
「深く考えなくていいじゃん。陽は陽なんだから」
ぼくは、ぼく。
外見が変わっただけで本質は変わらない。我思う故に我在りではないけど、それは確かだ。
「……そうかも」
これまでは嫌なことがあっても一晩寝たら次の日にはどうでもよくなっていたことは多々あった。
楽観的に考えれば明の言うことは一理ある。いつまでもネガティブでいると、自分で自分を追い込んでしまいかねない。
たまにはこうやって楽に構えるのもいいかもしれない。
「だろ? じゃあ帰ろうぜ」
「うん」
自然と少しだけ笑みがこぼれた。この姿になってたぶんはじめての。
これからやっていけるだろうか?
いや、何があってもやっていかなくてはならない。
そして男の自分を取り戻す。絶対に。
そう心に決める。
朝のときみたいに漠然としたものではなく、確固たる決意だ。



--------
「俺ってさ、実は女と一緒に帰るの初めてなんだよ。青春って感じでいいなぁ」
帰り道、明は上機嫌でぼくの横を歩く。脳内にアルフォードの『ボギー大佐』かスーザの行進曲のどれかが再生されているのだろう。明の足取りはおそろしく軽い。
「あれ、彼女できたって前言ってなかった?」
3日くらい前にそんな話を聞いた気がする。
「ああ、あれ? 別れた。どうも気が合わないっていうか、ハートにズドンとこなかったっていうか」
社交的なこともあって明は結構モテるほうだ。告白するより告白される回数のほうがたぶん多いのではないだろうか。でも長続きしたという話はまったく聞かない。
「飽きっぽいんじゃないの?」
「いや、そんなことはない。想い続けたら俺は一途だ」
ぼくの推測は即座に全否定された。
明の理論で言うなら、これまで付き合ってきた彼女のことをみんな想ってなかったことになる。羨ましいと思うより、逆に明の将来のことが心配だ。
「信じられねえと思うが、俺ってこれでも惚れた女にはとことん弱えんだぞ。そりゃもう見つめ合うと素直におしゃべりできないぐらい」
絶対嘘だ。
「ところでよ、本当に……その、胸とかあるのか?」
明の視線がぼくの胸元に突き刺さる。
「ちょっとだけだけどね。これするほどじゃないと思うんだけど」
そう言って胸元からブラジャーの紐を見せる。着けていると、締め付けられているせいかどうも落ち着かない。
(帰ったらすぐにはずそう)
着けているだけでぼくのなかの男の領域が掘削機で削られているように思えてしょうがない。
「ん、どうしたの明?」
明の挙動がおかしい。目が泳いでいたり、金魚のように口をぱくぱくさせたり。
「い、いいいや、ななんでもない」
呂律も回ってない。ひとりなら、この時刻ということもあって不審者に間違われてしまいそうなほど挙動不審だ。顔色もせわしなく変わっている。
(どうしたんだろう)
と思っているうちに家の前まで来ていた。
「じゃ、また明日」
「お、おう」
ロボットのようなぎこちない動きで明は黄昏のなかに消えていった。


--------


玄関の前に立つ。
ドアノブになかなか手が伸びない。家に入るのにこんな勇気がいるとは。
スローを飲んだ誰かさんのときのように誰かが開けてくれるのを待つことも視野に入れてドアの前で立ち尽くす。あの話で結局ドアを開けたのは、
「──あの、どちら様?」
背後から声をかけられた。家族なら誰でも知っている馴染みの声。
振り返る。
そこには父さんがいた。驚愕を顔に貼り付けて。
「よ、陽……? ど、どどうしたんだ、その格好!」
ここまで慌てふためく父親の姿など見たことがなかった。カバンを落とし、顔面は蒼白だ。
それを観察する余裕はぼくにはあったけど、父さんには気の毒なくらいかけらも余裕はなさそうだった。
「……おかえり、父さん」
ほかにかける言葉が見つからない。
「陽、本当に陽なのか?」
とうとうぼくの存在を疑い始めてしまった。
おぼつかない足取りでぼくのところまでくると、両肩を掴まれた。そして胸をプッシュ。胸はぼくの意思とは無関係にその手をわずかに柔らかく押し返す。
「お、おま…………手術してしまったのか!?」
「違うよ。手術なんか──」
「母さん、大変だ! 陽が!」
ぼくの話を聞かずに父さんは物凄い血相と勢いで家の中へ入っていった。
開け放たれたドアを見て嘆息する。それから父さんのカバンを拾ってぼくも家に入る。
「ただいま」
ダイニングから聞こえてくる父さんの叫びに、どう説明したものかと、ぼくは陰鬱な気分になった。

食後すぐ、家族会議が召集された。
ダイニングテーブルに5人──父さん、母さん、兄さん、弟、そしてぼく、がつく。
Tシャツにハーフパンツという格好のぼくに自然と視線が集まる。白く薄い生地がいけなかったのか下のブラジャーが透けている。別段恥ずかしいとも思わなかったのでそのままにしていたけど、それについて最初から父さんの怒りを買った。
「陽、なんだその格好は! 恥ずかしくないのか、そんなしたっ、下着を着けてっ!」
「お父さん、落ち着いてくださいな。下着は女の子なんですから着けていて当然でしょう? それとも大事な部分が見えていてもお父さんは平気なんですか?」
ナイスフォロー。母さんの理路整然とした発言に父さんは息を詰まらせる。
重苦しい空気がダイニングに充満していた。
その原因は父さんが発する負のオーラだ。そんなにぼくが『女』になったことが許せないのだろうか。


「今回集まってもらったのはほかでもない。陽のことだ。見ての通り女になってしまったわけだが、それは断じて認められん!」
あれから母さんによる説明で一旦は平静を取り戻したものの、ここにきてまたバランスが崩れてきている。
「まあいいじゃありませんか、お父さん。性別が変わっても陽は陽のままですよ」
母さんはぼくが女になってしまったことについて全肯定してくれた。理由は女の子が欲しかったから。とてもわかりやすい。
「そーだよ、父さん。見た目だってあんま変わってねーし、問題ないじゃん」
とは兄の弁。内容は正しくて協力的だけど…………なんか納得がいかない。
「これからは『陽姉ちゃん』って呼べばいいの?」
雪(ゆき)は黙っていてくれると嬉しい。
「ほらご覧なさいな。みんな問題ないと言っているじゃありませんか。それとも他に問題でも?」
父さんは婿養子で入ってきたためか、母さんには強く言えない傾向にある。最初の威勢はどこかへ消え、残ったのは会社勤めで疲れた中年の姿だった。
「それに、お父さんが『男』にこだわっている理由はなんです? どうせ禄でもない理由なんでしょう?」
母さんの発する言の葉が父さんを切り刻む。結構辛辣だ…。
「しかし、世間にはどう……」
「そんなことは気にする必要はねーと思う。誰がウチに関心持ってんの? たとえ持ってたとして、陽を階段下の物置にでも閉じ込めるつもり?」
トドメとばかりに兄がばっさり切り捨てる。
「しかし、しかし……」
「ホントにおっぱいあるの?」
触ろうとしてきた雪の手を払いのける。もう小6なんだからいい加減に空気を読め。
「…………わかった」
誰も味方がいないことを悟った父さんはがっくりとうなだれる。あ、頭頂部がやばい。
薄毛の予兆から時計に目を遣ると、会議が始まってまだ10分くらいしか経っていなかった。早々の陥落だ。
たった10分なのに燃え尽きて真っ白になってしまったのだから、可哀想だとしかいいようがない。
終わったとみて各々テーブルから離れてゆく。
しつこく付きまとう雪をかわしながら、部屋にたどり着く。
窓を全開にし、崩れるようにベッドに倒れこんだ。
「……疲れた」
今日はいろいろありすぎた。
女になって、それを隠し通そうとして、結局ばれて、嘉神先生にあんなことをされて、明に励まされて、父さんに怒鳴られて……
振り返るだけで疲労の度合いが重くなっていくようだ。
(記憶を自分の思うようにできたらいいのに)
何も考えないということは難しい。なぜなら、何も考えないということを考えてしまうからだ。
疲れた…………
なにも…………
考えたく…………
ない…………

…………
……………………
…………………………………………




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目を開けると朝だった。
結局昨日はそのまま寝てしまったらしい。
いまが6時半だから10時間以上も睡眠に費やしたことになる。昨日は肉体的にも精神的にも疲労の極致にあったとはいえ、さすがに寝すぎだ。
ひとつ大きく伸びをして部屋を出る。
ダイニングでは父さんが新聞を読みながら朝食をとっている最中だった。
目が合う。
父さんの目の下にはクマができていた。顔全体も心なしかこけているように見える。出社前から激務をこなした後みたいに疲れ果てているようだ。
この状態はとても気まずい。
図らずとも始まったにらめっこは、父さんが目線をぼくから新聞に移したことで終わった。
このままダイニングにいる気にもなれなかったので、昨日入りそびれたお風呂のことを思い出し、シャワーを浴びることにした。
Tシャツを脱ぐと、下からブラジャーが現れる。
まだ頭の片隅で昨日のこと一切が夢ではないかと思っていた。でも紛れもない現実だとわからされる。
「どうやってはずすんだ、これ…」
そして現実的な問題として、どうやって男に戻るかではなく、着け方も外し方も知らない女性用下着の存在のほうがより深刻だった。
後ろに手を回して探ってみたところ、ちょうど背骨のあたりに外れそうな部分の感触があった。どうやら金具で引っ掛けてある仕組みらしい。色々な角度に引っ張ったところはずすことに成功した。はずしてから、これをまた着けるのは絶対に無理だと悟る。
はずしたばかりのブラジャーは、持っているのも何かためらわれたので、なるべく見ないように脱衣カゴに放り投げる。
下のほうも見ないように素早く脱いで同じく脱衣カゴにシュート。
ただ脱ぐだけなのにこの気苦労。しばらく『女』でいれば次第に慣れてくるんだろうけど、そんなつもりはさらさらない。
全開にし勢いよく流れ出るシャワーを頭から浴びていると嫌なことも一緒に流れていくようで気分がよくなった。このままずっと浴び続けたいと思うほどに。
鼻歌まじりに洗髪を済まし、さて次は身体を洗おうかとスポンジにボディーソープをつけようとして、
「あれ?」
スカスカと空気が漏れるだけで中身が一向に出てこない。
空。
ならば詰め替えのがどこかにあるはずと、浴室と脱衣所を探してみたけど、見つからない。
と、思い出す。日用品全般を取り仕切っているのは母さんだ。聞けばきっとわかるはず。
浴室から出て腰にバスタオルを巻きつけ、ダイニングへ。
「母さん、ボディーソープの替えどこにあるかわか………………る?」
何故かその場が凍りついていた。
起きてきた兄さんと雪と、父さんが揃ってぼくのことを見たまま蝋人形のように固まっていた。目が点になっている。
いつの間にか恐ろしいものの片鱗を味わわせる能力でも身についてしまったのかと、改めて3人を順番に眺める。
兄さんはトーストを齧るところで、雪はフォークをサラダのレタスに突き刺そうとするところで、父さんはコーヒーカップに口をつけた状態で、それぞれ動作が完全に止まっていた。
その他はテレビはニュースキャスターが何やら喋っていたし、アブラゼミがうるさく鳴いていたので時間自体が止まっているようではなかった。
まあ普通に考えれば当たり前だけど。
5秒経っても10秒経っても動き出さなかったので、3人を放置してキッチンへ入る。
「母さん、ボディーソープどこにあるか知らない?」
プレーンオムレツを焼いていた母さんは、こっちを振り返るなり何かを言いかけて、やっぱり絶句した。
『オムレツを作っていたら目玉焼きになっていた』とありのままに話させることだって今ならできるかもしれない。

「母さん?」
「…………陽ちゃん、うえ裸よ」
何を言っているのだろう。別に男が上半身裸でいようが気にする人は一部を除いていない。
「別に問題はないんじゃない」
「陽ちゃん…………あなたいま女の子なのよ?」
自分の姿を見下ろす。水滴もまだ残る肌に膨らみが。ひとつ。ふたつ。

あ。

シャワーを浴びて、嫌なことどころか自分の立場まで排水溝に流してしまっていたらしい。道理で3人が固まったわけだ。
「すぐ隠しなさい!」
命じられるままバスタオルで胸から下をHIDDEN+。
すると今度は下半身の究極のチラリズムに強制的に挑戦してしまうことになってしまった。まさしく帯に短し襷に長しだ。
見かねた母さんが「待ってなさい」とキッチンを出て行く。それがきっかけになったのかダイニングの時が動き出し、父さんの「あちっ!」という悲鳴が聞こえた。
数分後、戻ってきた母さんの手には袋に入った薄いピンク色の女性用下着があった。
「はい、これ。昨日連絡を受けてから必要になると思って買っておいたの」
「男物じゃダメ?」
昨日は着ていたとはいえあれは不可抗力だ。今日になってまで着ける気はない。
答えは、無言で渡された袋。
人生諦めが肝心とは誰の言葉だったか。素直に従うほかないようだった。
でも、渡されたところで着け方なんかわからない。昨日はぼくが寝ているあいだに勝手に着けられていたし。
「どうやって着ければ…?」
袋から出し、それっきり動けなくなる。困って視線を巡らすと母さんと目が合った。
……女の先輩にご教授願うしかないようだ。
ということで、キッチンで臨時の下着着用の講習会が行われることになった。
肩紐を調節して、前でフックをかけて留め、胸をカップに収める。
今まで着けていたやつとは違い前で留められるタイプだった。これなら着けやすいうえに外しやすい。
下も穿いたし、隠す必要もなくなったのでさっさと朝食をとろうとダイニングへ…………
肩をがっしと掴まれた。
「女の子は下着姿でうろつかないの!」
女の世界には心得というかガイドラインというか、そういうものが男と違ってかなり厳密に定められているようだった。
母さんは再びキッチンから姿を消す。今度はすぐに戻ってきた。制服を持って。
手渡された制服はどこからどこまでも女子用で、また着ることになるかと思うと動作も自然と鈍くなろうものだ。
リボンが追加オプションだけの上はともかく、まだスカートに抵抗がある。
同じスカートでも、ここがスコットランドでバグパイプを持っていればまだ自然だったかもしれなかったけど、あいにくここは日本であってスコットランドではない。
スカートどころかバグパイプなんか持っていた日には職務質問されてもやむなしだ。
意識がグリニッジから135度あたりまで戻ってきたところで、黙々と着付けを完了させる。
そこまで見届けると、鬼の形相に近かった母さんの顔が柔和なそれに変わった。
「やっぱり女の子っていいわぁ……」
年甲斐もなく頬を染めて感嘆のため息を漏らす。
ぼくはよくないんだけど…。



今日は昨日と違って時間に余裕があったけど、いつもの20分前には家を追い出された。
早歩きにNGが出されたからだ。
母さんが言うには「女の子はスカートの裾を翻したりしないものよ」だそうで。愛読書がお嬢様学園が舞台の小説だと言うことが一味違う。言葉の厚み重みはまるでないけど。
久々となる厚い雲の吹き散った青空の下、悠々と学校へ…………とはいかなかった。
周りの視線が気になる。何故か未知行く人やすれ違う人がぼくのことをちらちらと見てくるのだ。
一度気になってしまうと意識しないではいられない。
もしかしたらいまの僕はとんでもない間違いを犯してしまっているのではないかとさえ思う。裸の王様のように勘違いでこんな制服を着ているのではないか、と。
家に帰りたくなった。一刻も早く。そして制服を脱ぎ捨てベッドの中に潜り込み己の愚かさを呪うのだ。
足は自然と人通りの少ない裏道を選び、歩調はカタツムリのそれに近くなっていた。これ以上なにかきっかけになるようなものがあれば即座に回れ右して走り出せるように。
「──半田君?」
そんなネガティブで野生動物の逃走本能を発揮させていたから、背後から不意打ちをされた時には心底驚いた。心臓が止まりそうになったほどだ。
「六条……さん?」
恐る恐る振り返ると、六条さんが立っていた。ぼくのことは聞いているのだろう。大して驚いていない様子だった。
「おはよう、半田君」
「あ…、お、おはよう」
挨拶を交わし、それっきりになる。気まずい雰囲気。このあたり限定で気温も数度下がった気がする。それなのにじんわりと汗がにじむ。
まるでぼくは蛇ににらまれた蛙だ。六条さんに気圧されて動くことができない。
捕食者と被捕食者のあいだで、まさに食べる・食べられるの直前には両者とも動かなくなるという。
死の対話とか呼ぶそれは今の状況にそっくりだと思った。
食べられるのはごめんだけど、ぶたれるくらいなら甘んじて受ける。
昨日だって怒り過ぎてああなってしまった可能性がある以上、ぼくにも責任がある。
このぎすぎすに決着がつくなら1回痛いくらいは安いものだ。ほかに案があればそれでもいい。これからずっと謝罪と賠償を求められるのはさすがにイヤだけど……。
「六条さん」「半田君」
ぼくと六条さんの声がハモった。
「あ、六条さんからどうぞ」
「半田君からでいいよ」
漫画のような譲り合い。でもお互い一歩も引かない。意地と意地のぶつかりあい。譲り合っているはずなのに我を通すのに必死になっている姿はなんだか滑稽だ。
「えっと、そろそろやめにしない? ぼくから話すよ」
ぼくの口元はいつしか緩んでいた。
六条さんも笑ってそれに「いいわよ」と応える。


「えーっと、……昨日はごめん。怒らせちゃったみたいで」
「なんのこと? 昨日は怒った覚えはないけど」
返ってきた答えは、殴られることまで覚悟していたぼくにとって拍子抜けするものだった。
「え、だってあんなに顔を真っ赤にして……」
「そんなことあったっけ?」
嘘をついているようにも、誤魔化しているようにも見えなかった。舐めて味でわかる人でないと本当のことはわからないだろうけど、本人が否定するならそれを信じるしかない。ちょうどぼくの利にもなっているし。
「で、六条さんは何が言いたかったの?」
「あ、うん。半田君って女子用の制服着るんだ、って」
瞬間、羞恥の導火線に火がともる。まあまあ棒も間に合わない数秒ももたない短すぎる導火線に。
「あ、こここここれは……!」
事実を否定する理由はどこを探してもなかった。着せられたとはいえ、着ていることには変わりがない。言い逃れもできなければ捏造もできない。
いっそ宇宙人がやってきて強制的に着替えさせられました、とでも言おうか。と、ここまで2秒弱。
「似合ってるわよ」
「……え?」
「だから、凄く似合ってるって言ってるの」
ちょっとそれの意図するところがわかりにくい。英語で言ってもらったらわかりそうな気がする──
なんて思うくらいに頭の中は混乱していた。
似合っている? 母さんもそんなことを言っていた。
しかしちょっと待って欲しい。『男』に女子用の制服が似合うというのは早計に過ぎないだろうか。
「似合ってるはずないよ。だってぼく『男』なんだし」
「そんなことないわよ! 半田君は……女のあたしが見たって可愛いって思うもの」
ぼくの否定は否定された。それに、
(可愛い? ぼくが?)
「自信もっていいよ。変に思う人なんて一人もいないんだから」
自分の制服姿は昨日見ている。確かに外見に不自然なところはなかった。
でも、内面は不自然極まりなかった。違和感であふれていた。
穿いたこともないスカート。着けたこともない下着。
そのどれもが身体にフィットしながら、心の中では間違ったパズルのピースをはめているようなしっくりこない気分だった。
「まあ最初は慣れないと思うけど、やっていくうちに慣れてくるわよ」
どうしてぼくの周りには、こうポジティブ過ぎる人が多いのだろう。
「さ、もう学校に行かないと」
六条さんがぼくの手を取る。そのまま引きずられるように学校まで連行されることになった。
…………


--------



学校中があるひとつの話題で持ちきりだった。
それは芸能人の熱愛発覚でもなければ凶悪事件の発生でもない、ただの一般人の身の上話。
でもそれは身近に起こった大事件であり、何の危険もなくギャラリーできるとなれば野次馬根性が出てくるのが普通だ。
そしてその話題の渦中というか中心にいたのがぼくだった。
幸いだったのは、学年と組と名前はわかっても顔までは知らないということだった。
主に同級生、次いで3年生がぼくのクラスにやってきてはいたけど、ぼくを見つけることはできてない。何しろ噂する群集のすぐ横にぼくがいるのに、それに気づいていなかったのだから。
みな開かれたドア越しから中を覗き見、なかにはクラスメイトにぼくの所在地を聞いたりしている。まるでウォーリーを探せ、だ。
けど、そのウォーリーは探す人にまぎれている。つまり、本の中ではなく探す人の背後にウォーリーがいる状態。……怪談だ。
予鈴が鳴り、人がはけたところで教室に入る。
一旦は静かになったものの、ぼくが入ると教室内がまたざわめいた。
「おい、あいつが…」「え、あれが半田君?」
見ると見ないの中間あたりの視線が集中する。
足早に席についたけど居心地が物凄く悪い。何も聞こえないふりも、ここまで露骨にひそひそ話が聞こえると維持できるものではない。悪意もなく悪い噂でもないにしろ、こういう態度は帰りたいゲージを上げる役にしか立たない。
担任の先生が教室に入ってくるまでの長い長い時間を外圧と戦いながら過ごさなければならなかった。
やがて先生がやってくると、教室はぴたりと静まった。

朝のHRが終わる。
先生はぼくについては一言も触れなかった。気を遣ってくれたのだろう。本人の前で『半田のことは気にするな』とはさすがにいえない。
先生が出て行くと、教室はまた雑然となった。
さっきと違ったのは、クラスメイトが競うようにぼくのところへやってきたことだった。
まず最初に来たのが女子の集団だった。
「えー、ホントにオンナノコになっちゃったの?」
「ウソー、すっごい可愛いじゃん」
口々に好きなことを並び立てる。それにどう応えたらいいのかわからず曖昧な笑顔で切り抜けるしかなかった。
「ちょっと抱きしめてちゃっていい?」
普段あまり面識もない人に抱きしめられる。
「ちょ、苦し──」
「あたしにもやらせてー」
「胸も揉ませてよ」
と代わる代わるやってきては頭を撫でたり胸を触ったり強烈なスキンシップの嵐をぼくの都合もお構いなしに見舞う。
しばらくして一通りやりつくして満足したのか女子軍団は去っていった。残されたぼくは呆然としたままの真っ白な灰になっていた。
誰か囁き詠唱祈り念じろとでも唱えた?

一波去って、次に寄せてきたのは男子の集団だった。
「おい、マジで女になっちまったのか?」
「下着とか女物?」
「ちょっと触らせてくれよ」
「パンツ見せてくれ」
セクハラっぽい発言が多いのは何でだろう。
次々浴びせかけられる質問に答えられるはずもなく、次第に言葉の海の中にうずもれてゆく。
「付き合ってくれ」とか「ヤらせろ」とかいう段階まできたところで授業開始のチャイムが鳴った。軍隊アリが去ると、ほぼロストしたぼくが残された。
もみくちゃにされながら、でも、悪い気持ちにはならなかった。
みんな肯定的に受け取ってくれているようで、むしろ嬉しい。ただ人との接触が増えただけで何も変わらない。
拒絶され、排斥されることも可能性のひとつとして考えていたぼくにとっては、それが否定されたいま、感謝すらしている。恥ずかしいので口には出さないけど。
「人気者だな、陽」
前の席の明が上半身だけこっちを向けて笑った。
「動物園のパンダに近いけどね」
珍しさなら、もしかしたら特別天然記念物のトキにも勝っているかもしれない。
でも、物珍しさが消えたとき、日常に戻るのか、それとも離れていってしまうのか……。
「まあ人が集まるのも無理はねえな。転校生みたいなもんだし」
転校生とは言いえて妙だ。
「でも、それだけであんなに寄ってくるものかな」
「そりゃ顔見知りだからな」
顔見知りの転校生。それは確かに普通の転校生とはワケが違う。基本情報があるとないとでは近寄りやすさが変わってくるからだ。
でも、それを差し引いてもあの騒ぎはちょっと行き過ぎだと思う。
次の休み時間もああなると思うと……
どうやって逃げるかの算段を考えなければいけないようだった。


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「大人気だな。陽様ブームってか」
昼休み。
ぼくと明は教室から逃げ出し、屋上のさらに上、給水塔にいた。ここは屋上の入り口から死角になる。さすがにここまでやってくる人はいないようで、喧騒とは無縁だ。
「そんなブーム嫌なんだけど」
昼休みまで3回あった休み時間は、教室はいうなれば人の洪水に侵食されていた。
逃げの算段はいくつか考えてはいたけど、そのどれもが失敗に終わった。あの人数を相手にして逃げられるわけがない。押し寄せる人波は、思い返したいまでも恐ろしい…。
ほとんどの人が知らなかったぼくの顔も、写メを撮られそれが学校中に回ったらしく、もうこの学校のほとんど誰もが知るまでになっていた。
それどころか先生まで珍しそうにぼくを見るのだから始末に負えない。おかげで当てられる回数が飛躍的に増えた。
だからこうして一息つけるのは本当に助かる。もしインターバルなしで5時間目に突入したらたぶん──いや確実に死ねる。
「なんかぼくやつれてない?」
明に顔を近づける。ぼくの感じだと、朝から2キロは軽く減った。果たして他人の目にはどう映っているのか。
「明?」
返事がない。ただの銅像のように大口開けた状態で固まっている。
この状況は朝のとそっくりだ。あのときは上半身裸でうろついていたのが原因だったけど、今はそんな格好ではないし、そのほかに思い当たる節もない。
(昨日もこんなことになったような……)
とはいえ場面も場所もまったく違う。それに、結果が同じでも原因が同じとは限らない。
1発のホームランだって、ストレートを打たれたのかスライダーを打たれたのか、打つほうもフルスイングだったのかバントだったのか……いろいろありえるのだから。
「もしかして、また保健室行き……?」
まさかこのまま放っておくわけにもいかない。とはいえ運搬は不可能に思えた。ただでさえ力がないのに、この赤錆も浮き出た鉄製のハシゴは2人分の体重を支えられるほど丈夫に見えない。
……やっぱり諦めた。
風に吹かれるに任せていればいずれ復活するだろう。
と。
湿気をはらんだ強めの風が吹き抜けた。空を見上げると、朝のような青空はどこにもなくなっていた。暗い灰色の雲が目に見える速さで動いている。この前兆は……
白っぽいコンクリートに黒い点が穿たれる。数個だったのが瞬く間に数十になり、数え切れなくなる。
「ちょっと、明。雨だよ、雨!」
未だに固まっていた明をガクガクと揺り動かす。景色を反射するだけだった目に光が宿り、状況を理解してくれたようだ。
急いで昼食を片付け、ハシゴを下る。
屋上の入り口にたどりついたときには既に雨は本降りに近かった。太陽はどこかへと隠れ、昼間だというのにひどく薄暗い。まるで別世界のようだった。

教室はこれまでいた廊下と違い電灯がついていて、ここもまた別世界だった。
ぼくが教室に入ると、一瞬の沈黙のあと、何やらどよめきが起こった。
(前にもこんなパターンがあったような)
ぼくを見ているのは一目瞭然だ。おかしなことは特にない気がするので、まだ見慣れてないせだろうと勝手に解釈して席につく。
すると間髪いれずに男子の軍団が押し寄せてきた。


「そういえばもうそんな季節だよなぁ」
「いいもん見せてもらってアリガトウ」
「夏といえばこれだよな。季語にしたっていいぐらいだ」
口々にわけの分らないことを発する。理解不能だ。
「なにが季語なの?」
たまらず聞く。
一人──確かサッカー部の多賀君だったか──が女子の目を気にしながらぼくの耳元で囁く。

「透けブラ」

ハッとなって胸元を確認する。
雨に濡れたカッターが身体に張り付き、布越しに薄いピンク色のブラジャーが存在をアピールしていた。それはもう形がくっきりとわかるくらいに。
顔の部分だけ体温が上がっていく感じがして、反射的にぼくは胸を手で隠していた。
「み、見ないでよ!」
うわずった声が情けない。
「いいじゃん、見られても減るもんじゃないし」
「透けブラ! 透けブラ!」
普通なら絶対に女子に対してできないことでも、相手が『元』男だと平気でできるようになるらしい。この数々の言動のなかに遠慮という文字がどこにも見当たらない。
このままだと穏やかな心を持ちながら怒りに目覚めてしまいそうだ。
相手にするのは得策ではないと判断し、囃しを聞き流しながら、濡れたままの制服をどうするか考える。下はそうでもないけど、上は雨に当たらなかった部分はほとんどない。
着替えはもちろんない。タオルなど拭くものもない。だとすれば自然乾燥に任せるしかないけど、この湿度では裏干しと体温乾燥させたところで乾きは期待できそうもない。
一度気になりだすと不快感ばかりが募る。視線もあるし、どうにかしないとストレスが溜まる一方だ。
なんとなく周囲を見渡す。
助けになりそうな人は…………いなさそうだ。
「半田君、ちょっといい?」
そう思っていたのに、助けは意外なところからやってきた。
いつの間に目の前にやってきていたのか六条さんがつい今までいた男子を押しのけてそこにいた。
「着替えあるから、良かったら使わない?」
このタイミングは渡りに船というほかない。断る理由もなかったのでお言葉に甘えることにする。
制服を受け取り、さっそくリボンを解き、微妙に体温が移った濡れたブラウスのボタンをはずしてゆく。
が、その動作は六条さんの手によって阻まれた。酷く慌てた様子でぼくに何かを訴えかけている。
『ま・わ・り』
声にならない声でそう告げられる。
まわり。
教室とその周りにいる全員の男子の目がぼくに注がれていた。
(またやっちゃった……)
16年の蓄積があるので、どうも『男』の感覚で行動しがちだ。──まあそれが当然なんだけど。その行動が結果として『女』として恥ずべき行為になってしまうらしかった。
とはいえ矯正は難しい。人生の9割9分は男だったのもあるけど、何より『女』として行動するのを拒否しているからだ。
でも実際には完全な男として生活はできない。そうなら必要最低限のレベルで『女』として振舞えばいいだけの話だ。そう割り切ってしまえば、幾分か気も楽だ。
(人前で着替えができないとなると…)
トイレくらいしか思い当たらない。
「じゃあ、トイレで着替えてくるから」
そう言って席を立つと、教室の内外から魂のこもったブーイングが発せられた。
「なんでだよぉ〜! ここで着替えれば楽でいいじゃないかよぉ〜!」
「生着替え見てえ! 見せろ!」
欲望と怨嗟の混じった声を振り切るように駆け出した。


トイレの前まできたところで、足が止まった。
(どっちに入ればいいんだ…?)
ぼくは男なので男子用に入るのが普通だ。何も深く考えることはない。
と、いつものように男子用に入ったら悲鳴を上げられた。
同じ男に変質者扱いされたことにヘコみながら、どうしようかと男子用と女子用の中間のあたりをウロウロする。女子用のに入っても悲鳴が聞こえそうで怖い。
トイレひとつでここまで迷うことになるとは。これではまるで初めてエロ本を買おうとしている中学生ではないか。
「やっぱりこんなことだろうと思ったわ」
助けの手を伸ばしてくれたのはまたしても六条さんだった。
「制服貸してそれっきりだと無責任だしね。さ、こっちよ」
手を引かれて女子用のトイレに入る。もちろん初めての体験だ。心臓がドキドキする。更衣室に並んで男の入れない聖域のひとつなのだからそれもしょうがない。
空いている個室に入り、鍵をかける。こうすると男子用のと何も変わらない。少し気分も落ち着いた。
落ち着くと、今度は別のことが頭に浮かんだ──女になってから初めてのトイレのことだ。
初めてのトイレは戸惑うことばかりだった。小でも座らないとできなかったことが特に大きい。
今朝には母さんにトイレについてのガイドラインも教わった。それによると、用の足し方にもいろいろと作法(?)があるようだった。終わったあとには必ず拭け、とか。
(なるべく考えないようにしよう……)
ボタンをはずし、制服を取り払う。続けて借りた制服に手を伸ばすと、綺麗にたたんであった制服のあいだからタオルが出てきた。こういう細かな気遣いは嬉しいの一言だ。六条さんはきっと将来いいお嫁さんになれる。
微妙に湿った顔にタオルをあてがうと、匂いが鼻をふわりとくすぐった。自分の家のものでない匂い。
各家庭には固有の匂いがあるとぼくは思っている。その原因や理由はよくわからないけど、確かに家によって匂いが違うのだ。例えばローソンとセブンイレブンのように。
そんなことを思いながら上半身を丹念に拭ってゆく。拭き終えるとさっきまでの不快感はどこかへ消え、シャワーを浴びたあとのようにすっきりした気分になった。これで心置きなく新しい制服に袖を通すことができる。
着てみると驚くほどサイズがぴったりだった。同じ背格好ということになるけど、それはイコールぼくが貧弱を意味する。
(少しは鍛えないと…)
鍛えに鍛えた末、マッチョになった自分の姿を想像してみる。
…………
似合わない。


「ありがとう、六条さん。すごく助かったよ」
六条さんは待っていてくれていた。
「昨日保健室まで連れて行ってくれたし、そのお礼だから気にしないで」
「明日……は無理かもしれないけど、洗濯して返すから。あ、あとこれもありがとう」
制服はもちろんのこと、タオルも洗ったほうがいいだろう。こういうものは、一度借りたら洗って返すのが礼儀だ。
「そこまでしてくれなくてもいいよ。どうせ家に帰ったら洗うものだし」
ぼくの返事も待たず、手に持ったタオルを奪われてしまった。
これではぼくの気は済まないけど、本人がいいと言うならそれに従うしかない。
「あ、あとすごく助かったって思ってるなら『六条さん』って他人行儀みたいな呼び方はやめてくれない? なんだかすっごく気になるの」
「えーっと……」
「あたし、友達とは名前で呼び合ってるのが普通なの。だ・か・ら!」
そういうことかと、心の中で手をぽんと打つ。
「えー……単……さん…?」
「『さん』も禁止」
「う……単…………ちゃん」
すごく恥ずかしい。最後のほうはかすれて消えかかっていたけど、六条さん…………じゃない、単ちゃんは満足したようにウンウンと頷いていた。
上機嫌で教室に戻る彼女の姿を見送り、どんな心変わりがあったのか考えてみる。
(確かに女になってから接する機会は増えたけど…)
図書委員、保健室への運搬、朝の出来事、そしていま。
春から昨日までと、昨日から今を比べてみるとイコールどころかこの24時間以内のほうが喋った時間がたぶん長い。
(それだけが理由とは思えないけど)
友達になるまでのプロセスにはいろいろあるとはいえ、ここまで友達になる宣言をされたことは初めての経験だった。
いままでの場合は、いつの間にかそうなっていた、という自然発生的なものだったし。
女の子の世界はまた違うのかな、と釈然としないまま時間は過ぎ、放課後になっていた。

ちなみに、陽様ブームはぼくが校門を出るまで続いた。
暇な人たちだ……。


--------



「ただいまー」
「あ、陽兄ちゃん……じゃなかった。陽姉ちゃん、おかえり」
玄関のドアを開けると、ちょうど階段を登ろうとしている雪と鉢合わせた。靴は1足だけ。どうやら母さんは出ているらしい。
「『姉ちゃん』はやめろよ…。いつも通り『兄ちゃん』でいいだろ?」
「えー、だって陽姉ちゃんは女になったんでしょ? だったら『兄ちゃん』じゃおかしいじゃん」
普段抜けているところがあるのに、こういうときだけ妙に理路整然としている。しかも満面の笑顔。ちなみに雪の顔は小5当時のぼくそっくりだ。自分を相手しているようでなかなか反論し辛い。
「いいか、今はこんなだけど兄ちゃんは『男』なんだ。わかった?」
「じゃあ男だったらこんなことしても怒らないよね」
「──え?」
風が太ももを撫でた。
それがスカートめくりだと理解できたのはその一瞬後。
「ちょ、なにやって…!」
「あれ? 男だったらパンツ見られても怒らないよね。なんで陽姉ちゃんは怒ってるの?」
ぼくの身体は脊髄反射の域でスカートを押さえていた。それでいて声を荒げているのだから怒っていると捉えられてもしょうがない。
(それにしても何てませた小5だ!)
「別に怒ってないよ。兄ちゃんは男なんだから」
ここで激情に身を任せてしまったら雪の思う壺だ。ここは冷静に冷静に…。
「男だったら、うえ裸になれるよね?」
「な…! そんなことやらないよ」
とんでもないことを言っているけど、構うだけ無駄だ。適当にスルーすれば問題ない。
「できないの?」
「できないとは言ってないよ。やらないだけ」
「服脱ぐならすぐじゃん。なんでやらないの? できないから?」
これは挑発だ。しかも見え透いた。乗ったらダメだ。乗ったら──

「『女』だからできないんでしょ?」

「わかったよ! 脱げばいいんだろ」
ぼくの馬鹿。
口を塞ぐも、言ってしまったからにはもう後には退けない。
カバンを下ろし、ボタンに手をかける。ひとつずつ丁寧にはずし……やがて下着があらわになる。
「……脱いだよ」
「まだ裸じゃないじゃん。それにそれ『ぶらじゃあ』って言うんでしょ。なんで男がそんなの着けてるの?」
「──っ!」
顔が熱を帯び始めたのは恥ずかしさからなのか、怒りからなのか。もう冷静さはどこか遠くへ飛んでいってしまった。
ブラジャーのホックを震える指先で摘む。
外すと、ゴムの勢いで左右に勢いよく弾けるようにして開いた。
「うわぁ……本当に女になっちゃんだ。でも、ちっちゃなおっぱい」
雪は、完全にさらけ出したぼくの胸を目を皿のようにして見つめる。観察といってもいいくらいの注視だ。

(……ん?)
男であることを証明するために裸になったのに、なんで女であることを確認させているのだろう。
単純な疑問にして最大の謎に思い当たった。
(1.男であるなら服を脱ぐ。2.服を脱げたら男だ。3.服を脱いだら女だった)
…わけがわからない。頭がこんがらがってきた。
「さわってもいい?」
ぼくが難題に悩んでいることも露知らず、雪は新たな要求を突きつけてくる。
まんまと口車に乗せられてここまでやってしまったとはいえ、これ以上何も許す気はない。
「…………」
何も言わず床に落とした制服を拾う。これ以上付き合っていられない。
「──ひゃっ!」
何か冷たいものが皮膚に当たる。
「さわらせてくれないなら、自分でさわっちゃうから」
雪の手がぼくの両胸を包み込むようにして触っていた。
「こら、雪! やめろって!」
制止の言葉も耳に届かないらしく雪は執拗に胸を撫で回す。力任せに引き剥がそうと試みるも、胸元に入り込んでいるので頭を押さえることくらいしかできない。
「ちょ、やめっ……あぅ!」
意図してかせずか指が先端に触れたようだった。強烈な衝撃がぼくを襲った。
衝撃が筋力を奪い取ってしまったかのように、身体から力が抜け落ちる。
(そんな……これだけで……)
ぼくからの抵抗がなくなって雪はいっそう手の動きを早める。大胆とも大雑把ともいえる無茶苦茶な動きだ。
「ちっちゃいけど、やわらかい……」
雪の小さな手がぼくの胸の上を縦横無尽に動き回る。時折先端に触れると甘い快感が脳を揺さぶった。
「もう…やめ……んっ」
昨日の保健室でのことがフラッシュバックする。同時にあのとき感じた絶頂を思い出す。
……身体の奥底で何かに火がついた。
雪の行動はどんどんエスカレートし、とうとう先端を口に含まれた。
「こうやって赤ちゃんはおっぱい飲むんだよね。ぼくも昔そうだったのかなぁ」
ちゅーちゅーと吸われるたびに未知の刺激が火山のように噴出する。
でもその『未知』の正体は知っている──快感だ。
「あぁっ、ゆ、きぃ……んんっ!」
すぐさまやめさせないと、と思うのとは裏腹に身体がいうことをきいてくれない。
気持ちよさが身体にじわじわと浸透し、浸透したところから熱を帯び始める。身体の中が燃えているように。燃えているところはもはや抵抗の使い物にならない。
胸から始まったそれは、いつしか下腹部を特に熱くしていた。


「はぁっ……はぁっ……」
吐息さえも熱い。
快感の浸食は脳の中心にまで達し、意識に霞がかかった。でも感覚だけはどこまでも鋭敏なままだ。
雪が舌先でぼくの先端をチロチロと舐めると、ぼくは背中をのけぞらせるくらいに感じた。
嘉神先生のような巧さはない。……けど、とっても気持ちがいい…。
実の弟にこんなことをされて、という敗北感と背徳感は快感の津波に押し流され、貪るようにぼくを攻める雪にすべてを委ねようとする。
「ゆきぃ……もっとやって……ね?」
甘えるように、ねだる。こんなことを口走った自分に驚きを覚えていた。
……でも気持ちよくなるためなら何でもしたい。そうも思う。
雪は無言で行為を続ける。左の先端を口に含みつつ、右側も手のひらでまさぐる。
「いいよ、ゆき……そのまま……あんっ!」
雪の行為は誰に習ったでもないだろう。つまり本能のままに雌を求めていることになる。
ぼくも誰に習うでもなく身体が快感を欲し、受け入れようとしていた。
理性のタガが外れかけ、隙間からあふれ出る欲望に負けかけているのだ。
「よう、ねえちゃん……。なんだかオチンチンがあついよう…」
雪の下半身はズボンの上からでもはっきりわかるほどテントを張っていた。
ぼくはそこから目を離せなくなった。
ズボンの中のものが欲しい──頭のどこかでそんな声がしている。
ぼくの身体は物足りなさを感じていた。もっと強い刺激と快感を求めている。
「雪……じっとしてて」
あらかじめプログラムを打ち込まれた自動人形のようにぼくの身体は勝手に動いた。膝立ちになり、雪の半ズボンに手をかけ引きおろす。
小さいながらもちゃんと立ち上がった男のモノが現れると、喉がごくりと鳴った。
(なんで…?)
男なのに男のモノを欲しがっているなんて。
身体は疼いてしょうがない。明らかに『入れられ』たがっている。
不自然なはずなのに、ぼくのなかに別の誰かがいるかのように『それは自然なことだ』と正当化するのだ。
(違う! ぼくは『男』を求めてなんかいない。絶対に!)
その思いと正反対に、身体が次の段階へ進ませる。
ぼくの右手は雪のモノを包み込んでいた。そっと壊れ物を扱うかのように。
前後に優しく動かすと雪の身体はびくっと痙攣した。それを見て可愛いと思ってしまう。
「よう…ねえちゃぁん……」
切なげにぼくの名前を呼ぶ。その声も可愛く、愛おしい。
そんな感情の揺れに任せるまま、手を動かし続ける。
(嫌だ! こんなこと…)
自分のやっていることと感じているが信じられなかった。否定の言葉をいくら頭の中に並べても、身体がそれと真逆のことをする。
嫌悪感だらけなのに。
やめろとどんなに思っても、神経が断絶してしまったかのように身体に伝わらない。
そのくせ感覚だけは敏感なままだ。いまだって、下半身が──アソコが熱くてたまらない。
大きさをさらに増したモノを見ていると、ある欲望がせり上がってくる。


自然と左手は股間へと伸びていた。下着は触れただけでわかるほど湿っていた。その『内』がどんな状態になっているかは推して知るべしだ。
「ふあぁっ……」
『準備』を進めているかのように下着の上から割れ目をなぞる。たったそれだけのことなのに、たまらなく気持ちがいい。喘ぎがだらしなく開けられた口から漏れた。
(そろそろ……)
いったい何がそろそろなのか。
(……欲しい)
相手の都合はどうでもいい。ただ自分のために快感を貪りたい。そんな欲望が堰を切られるのを待っている。もう『その時』はすぐそこまで迫っていた。

──プルルルルルルル

不意の大音量に、意識は急激に現実に引き戻された。
興奮は冷め、さっきまで感じていた高まりは身体の奥底に沈む。
現状を理解し、ぼくは雪から飛びのいた。ブラジャーを着ける間も惜しんで無理矢理ブラウスを身につける。
(危ないところだった…)
安堵を覚える。
でも、水を差されたと残念がっている自分もいた。
それと、一線は越えなかったものの、寸前までやってしまったことに自己嫌悪する。
(兄弟であんなことをやるなんて……)
そう簡単に忘れられないだろう。それどころか一生に残る傷になるかもしれない。
その予測はぼくをひどく落ち込ませた。
でもやることはやっておかないと、ととりあえずぼーっと立ち尽くす雪に今のことを口外しないようきつく口止めする。すると意外と素直に応じてくれた。
少しばかりの安心を得て、動揺がそれ分だけおさまる。……まだ液状化した埋立地みたいに不安定だけど。

部屋に戻ると、ぼくはベッドに潜り込んだ。
とんでもないことをしてしまった後悔と羞恥に全身がガクガクと震えた。
(思い出すな、思い出すな、思い出すな、思い出すな……)
呪文のように声にならない声で唱え続ける。
…………
…………
いつしか転落するようにぼくは眠りに落ちていた。




──ここはどこだろう。

暗くて何も見えない。
それになんだか身体が窮屈だ。深海にいるみたいに上からも下からも、横からも圧力がかかっているような感覚がある。
手を顔の前にかざしてみる。
目をはっきり開けているはずなのにやっぱり見えない。ただ体温がその位置と存在を教えているだけだ。
純粋な暗闇。
そのなかに閉じ込められでもしたのか。声も出ず、物も見えず、音も聞こえず、何もできない。

──誰?

その声も喉から先には出なかった。
人の気配がした。自分以外の誰かが近くにいるのがわかる。
何も見えないはずなのに人の形が気配の方向に見えた。影絵のように真っ黒で、でも暗闇とは別の黒色の形が。それは推理漫画に出てくる犯人を連想させた。それか幽霊か亡霊か。
──!
一瞬何が起こったのか理解できなかった。
影は瞬間移動したかのようにぼくの上にいた。覆いかぶさるように。
「────」
何事か言われた。けど耳栓をしているかのように声はぼくの耳の奥まで届かない。
影には顔がなかった。のっぺりとした影色の平面があるだけだ。
その顔がぼくの顔に近づき──有無を言わせず唇を奪われた。
唇がぶつかる一瞬あとに舌が割って入ってくる。不快感ばかりを呼び起こす生暖かい舌がぼくの口の中でうごめく。そんなことをされて、でも抵抗しようにもできなかった。
身体は全身に接着剤をかけられたみたいに固まり、動けない。口と目蓋の開閉だけが自由の限界だった。
なおも『攻撃』は続く。
吐き気すら催した。涙が目じりから滲んで、頬を伝う。
そんなぼくを見て影が口の端を吊り上げていた。いまやっていることを愉しんでいるように。
唇が離れて、ぼくは盛大にむせ返る。でも咳の音も掻き消え、ゴホゴホと身体の中だけに重く反響するだけにとどまる。それでも喉に唾液が溜まって気持ち悪かったのが少しだけ解消された。
けど爽快までは程遠い。


「────」
また何かを言われた。ぼくを嘲笑っているようにも罵っているようにも見えた。
ただひとつ確かなのは、ぼくに対して温情なんてものを持っていないということだ。なにか物のように、愛玩動物のように見下している──そう感じた。
べとべとになった口のまわりを影の手が這い回る。顔をよじって逃げることもできない自分をもどかしく思う。
手はだんだんと下へ向かって移動を始める。
頬、首、肩、胸──
そこになって初めて、ぼくが何も身に着けていないことに気づいた。
乱暴な手つきでこねるように胸をもてあそぶ。それは快感を与えようとかそういうものではなくて、ただ自分の愉しみのためだけにやっている行為だった。ぼくには痛みと不快感しか残らない。
──やめて!
心の中の叫びは表まで届かない。届かないけど、それでも叫ぶ。でも結局は届かない。悪循環の見本。
手が下る──胸、脇腹、下腹部。
触られた部分は例外なく怖気が走った。
そして。
一番触れてほしくないところへと手は侵入を果たした。
割れ目をなぞられ全身に鳥肌が立つ。不快感があとからあとから際限なく湧いて出くる。脳に「なんとかしろ!」と身体から警告が発せられる。
止める手段なんかないというのに。
指を差し込まれて、痛みにまた涙が溜まる。屈辱の分もいくらか混じっているかもしれない。
快感をまったく覚えないまま、それでも身体の奥からとろりと何かがぼくの奥から流れ出す。
「────」
影は酷く愉しげだった。
おもむろに自分の股間に手を伸ばし、何かを引っ張り出す。
いまのぼくになくて、かつてのぼくにあった物を。
それは太く大きく天に向かって起ち上がっていた。
──嫌だ!
これから行われるであろうことは容易に想像できた。
挿れるのだ。
アレを。ぼくのアソコに。
恐怖が全身から湧き上がる。それだけはダメだ。
──それだけは! そこだけは!
思い切り叫んで、でも喉が熱くなるだけだった。
言葉を失い、身体も動かせないとなると、他に何もすることはない。
何かがぼくの股間にあてがわれた。柔らかいようで硬いモノが入り口を探すように上下に左右にぼくを擦った。
そして。
あるところで動きが止まった。
一瞬の停止のあと、再び動き出す。
『前』に向かって。

──ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!

かつて味わったことのないような痛みが走り──


--------

「──ぁぁぁぁ!」
転げ落ちるように目が覚めた。
激しく息を切らし、全身は汗でびっしょり濡れていた。身体はまるごと心臓になってしまったかのように脈打ち、耳に聞こえるほど高鳴っている。
まだ夢の中にいるような気がして、ぼくはかぶりを振った。
嫌な夢を見た。
やけにリアルな夢。寝覚めが最悪な悪夢。
(よりにもよって犯される夢を見るなんて…)
夢の内容ははっきりと頭の中に残っていた。シーンのひとつひとつが鮮明に焼きついているのだ。
口の中を舌でかき回され、胸をいじられ、舐めるように全身を触られ……
アレがぼくに差し込まれた瞬間は思い出すだけで身震いする。
夏の熱い直射日光をまともに浴びているのに、氷の中に閉じ込められたかのように酷く寒い。
こんな夢を見たのは昨日の雪との一件のせいだろうかと思考を巡らす。
(夢は見る人の願望を表すってよくいうけど……)
男に犯されたいと思っている?
(そんなことは絶対にない!)
そうだ。そんなことをぼくが望んでいるわけがない。こんな夢を見たのもなにかの間違いだ。
否定する材料はいくらでもあった。
でも肯定する材料も確かにあった。
(でも、もし男に戻れなかったら女として生きていくことになるんだよね……。結婚もすることになるだろうし、そうなると子供も作…………)
想像して脳が沸騰した。いま頭の上にヤカンを乗せたらたぶんお湯を沸かせられる。
子供を作る──それはつまり『そういうこと』をすることに他ならないわけで。
……コウノトリやキャベツ畑が本当ならまだ気が楽なのに。
(──って、なにを考えているんだ、ぼくは!)
これではまるで男に戻れないことが前提になっているようではないか。
ぼくは男に戻ると決めた。何が何でも。
(いつまでもこうやって下らない考え事をするから、変なことまでつい考えてしまうんだ)
スッキリさせようと、ぼくは洗面所に向かった。

「おはよう、父さん」
階段を下りると、父さんのちょうど起きてきたところのようでばったり鉢合わせた。
「ああ、おはよ……」
と言いかけたところで動きが止まった。昨日も同じようなことがあった気が。
今度こそもしかしてフラッシュマンの能力をいつの間にか身に付けてしまったのかもしれない。
一応ぼくに『不備』がないか確かめてみたけど、上半身裸でもないし、下もちゃんとハーフパンツをはいている。
結論、自責なし。
「ま、いいか」
さっさと洗顔を済ませてしまおう。
洗面台の前に立つ。
否が応でも鏡に映った自分の姿を見ることになるけど、
「あ」
唐突に、父さんが固まった理由がわかった。
原因は汗で肌に張り付いたTシャツだった。それだけなら問題はない。でもいまのぼくはブラジャーを着けていなかった。どうやら昨日はずしてそのままにしていたらしい。
そうなると胸の形も先端もくっきり浮き出ているわけで。
(学習能力がないホントないなぁ…)
気をつけなければという意識は皆無だと再認識する。
いや、無意識下で女であることを頑なに拒否しているせいかもしれない。受け入れられない現実から逃避しようとする自己防衛の手段のひとつとして。
……ただ単に男の生活の延長にいるように考えているだけかもしれないけど。
どちらにしても、しばらくは女として振舞わなければならない。
なるべく波風立てなくないし、そのためには不自然は禁物だ。女が男として振舞うのは不自然さが際立つ。いくらあまり『元』と変わらないとはいえ、みんなの認識ではすでにぼくは『女』なのだ。そう見なされている以上、そうすることが最善だ。
「気乗りはしないけど」
そういえば、と思い出す。
今日はたしかあの日から3日目にあたる。
『ぼく』から何らかのコンタクトがあるはずだ。それは同時に元に戻る方法を聞きだす絶好の機会でもある。
「絶対に…………戻ってみせる」
鏡の中のぼくは決意に頷いた。



--------
「陽ちゃん、出かけるわよ」
朝食をとっていると母さんは開口一番そう言った。
「どこへ? というか何で?」
「それはもちろん陽ちゃんの服を買いによ」
「別に服に不自由はしてないけど?」
男のときに着ていた服がそのまま流用できるので、着るものについては問題はないはずだ。季節の変わり目でもないし、改めて買いに行く理由が見つからない。
「ダメよ。女の子なんだから、ちゃんとそれ用のを買わないと。それに、」
「それに?」
「下着も、ね?」
いまのところぼくが持っているのは2着。中1日でローテーションしないといけない計算になる。さすがにそれは無理がありすぎる。
──とは思うけど。
「いいよ。いつ戻るかわからないんだし。ひょっとしたら今日にでもいきなり治っちゃうかも」
無理があろうがなかろうが、これ以上の『女性化』は遠慮したい。それこそアイデンティティの危機だ。
「ダメよ」
そんなぼくに、母さんはにっこりと微笑んだ。魔神の笑みとでもいうのだろうか、ゴゴゴゴゴゴと聞こえてきそうな迫力がある。ついでに負のオーラが背後に見えた気がした。
と同時に身の危険を感じる。
「……はい」
白旗。あっさりとあっけなく。
「いっぱい可愛いの買いましょうね」
オーラが負から正に転じ、でもそのままの笑顔で母さんは不吉なことを口にする。
頼むから、それだけはやめて……。
2時間くらいあとの自分を想像して、その予想は絶対にはずれそうもなかった。

車に揺られて30分。
ぼくと母さんは、いま流行り(?)の郊外型ショッピングモールにきていた。
『1000台駐車可能!』と書かれた看板の横を通り過ぎながら、これから起こるであろうことを考えると、それだけで気が重い。
「まずは下着売り場ね。ちゃんと測ってもらうのよ?」
下着はまずスリーサイズを測るところから始めるらしい。男のときはS、M、Lの3種類くらいしかなく、そこから選べば済むというのに。
「面倒くさい…」
それにわざわざ計測するほどでもない身体つきだ。
砂時計には程遠い平坦なライン。
本物の女の子ならコンプレックスを持つんだろうけど、ぼくにとっては『男』に近いぶんありがたいとさえ思う。
だからわざわざ『そういうふう』に矯正するのはどうにも理解できない。


異世界が広がっていた。
現実に目の前に広がっているのに、別の世界に来てしまったのではないかと思うほど異質な空間が存在していた。
これまで来ることもなく、近くを通り過ぎることはあっても見ないようにスルーしていた、公共の場にありながら男の侵入を許さない聖域。
入ろうものなら即座に変質者のレッテルを貼られ、そして通報されカツ丼を食べることにもなりえる禁断の地。
それを目の当たりにして、ぼくは早くも怖気づいていた。
足が前に進まない。
眩暈さえする。
それもそうだ。ワ○ールのCMだって気恥ずかしく思っているのに、本物を見せられて竦まないわけがない。
「どうしたの陽ちゃん。行くわよ」
異分子を存在を決して許さない空間があったとしたら、ここがまさしくそうだろう。
『男』のぼくがその中に入ろうとすることは、清水の舞台から飛び降りることと同義だった。
「そんなところに立ってないで」
手を取られ、強制連行される。
こうしてぼくは男子禁制の結界の中に足を踏み入れることになった。

「じゃ、お願いしますね」
「承りました。どうぞ、こちらへ」
店員さんに連れられ試着室に入る。中は思ったよりも広く、人ふたりが入ってなおスペースにはかなりの余裕があった。もう2人くらいは入れそうだ。
「上下とも脱いでいただけますか?」
満面の営業スマイル。これはもう覚悟を決めるしかないようだ。逃げ道があっても、外には鬼が待ち構えている。
言われるままTシャツとデニムを脱ぐ。
「ブラもはずしてくださいね」
やっぱり。実寸を測らないと意味がないとはわかっていたけど、赤の他人──しかも異性の前で裸になるのは恥ずかしい。
……いまは同性だけど、そんなことは関係ないし、気休めにもならない。
なるべく店員さんのほうを見ないようにしながらはずす。はずした後も顔を合わせる度胸はとてもではないけど、なかった。
測ってもらうあいだ、ぼくは斜め上に視線を固定していた。
「はい、まずはバストから測ります」
「!」
冷たいメジャーの感覚に肌がびっくりした。
その通常味わえない感覚が記憶を呼び起こす──前に胸囲を測ったのはいつだっただろう。
小学生のときには何回かあった記憶があるけど、中学に入ってからはなかった気がする。
4年ぶりにこんなことをしたかと思うと、なんだか感慨深い。
次に測るのは大学の入学式か成人式用のスーツの採寸のときか。また2年くらいあとにも同じことを思い出すのだろうか。
「はい、もう結構ですよ」
そんなことを考えているうち、採寸は終わっていた。
教えてもらったスリーサイズは3つの数字とも見事にニアピンだった。ちなみにAカップらしい。
おいくつですかと聞かれ、ぼくが高2だと答えたら店員さんはまず驚き、そして「大丈夫です。すぐに成長しますよ」と励まされた。
……余計なお世話だ。


「こちらがお客様のサイズに合った並びでございます。何かありましたら遠慮なくお申し付けください」
店員さんは一礼するとどこかへ行ってしまった。
そしてぽつんと残されたぼく。よく見たら母さんもいない。
勝手に選んでいいものかと迷った末、勝手にさせてもらうことにする。
「適当でいいよね、適当で……」
とはいうものの、なにを基準に選べばいいか見当もつかない。
色とりどりの下着が整然と並べられている光景に目がくらみそうになる。幻覚作用のあるお花畑に迷い込んでしまったかのようだ。
形にもデザインにもいろいろあって、何が良くて何が良くないのか判断するには材料と経験が足りなさすぎた。
「スポーツタイプ? ハーフ? 3/4?」
聞いたことのない専門用語の羅列に頭が混乱する。さっきの店員さんを呼ぼうかとも思ったけど、恥ずかしいのでやめた。
こんなときこそ母さんがいなければいけないのに、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
助けを求めるように周囲を見回す。
「────!」
どくんと心臓が大きく脈打った。

まさか。

想定外だった。
こんなところに現れるとは。
下着売り場の程近く。
エスカレーターのすぐ横。

そこに『ぼく』がいた。
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