―[1]―

「いっちにぃさんしぃ……」
 日の出を迎え、街中が明るさに包まれ始めた頃。
 あたしはジャージ姿で、ジョギングに精を出していた。
 もうずっと前から、習慣みたくやってきた事だけど、最近は色々ゴタゴタしていてそんな暇も無かったのだ。
 だからその分を取り戻そうと、今朝から再び始めているのだけれど……。
「ふへぇ……やっぱ久々に身体を動かすのは辛いかも……」
 膝に手をつき、肩で息をしながらその場に立ち尽くす。
 久々という事もあるかもしれないし、何よりこの身体になったのも影響してるのかも知れない。
 多分、前よりも体力は幾分か落ちてる筈だ。
「……うぇ〜い、こんな所でへこたれてらんないっての!」
 両の頬をパシパシと叩き、気合を入れなおすや、再び地を蹴って駆け出す。
「黄色と黒は元気のしるし〜」
 歌を口ずさむのに合わせて、徐々に走るペースも上がっていく。
「二十四時間っ戦えますか〜」
 さっきまでとは違い、身体の方も羽のように軽くなった気がしてくる。
ノリというものの力を、まざまざと思い知らされた気がする。

――よぅし、このまま河川敷の方までひとっ走りと行くか!
 俄然やる気になったあたしは、不必要なまでのスパートをかけて河川敷まで駆け込んでいった。
 それが命取りになるとは、つゆほどにも知らずに。



 
「うぅ……うぇぇいぃ………」
 朝焼けに包まれた土手の上を、ふらついた様子で進んでいく人影。
 そう、さっきまで元気よく駆け込んでいたあたしの慣れの果てだ。
――調子に乗って……勢いよく走るんじゃなかったぁ……。
 自らの軽率さを呪ったところで、重くのしかかってくる疲れが減るわけでもなし。
 酸欠状態で視界は霞み、呼吸も荒く乱れたまま。
 スニーカーも鉛のように重たく感じ、足どりはおぼつかず今にも倒れてしまいそうだ。
 そんな状態なもんだから、前にいた人影に気づく訳もなく、
「へぶっ……?」
 こんな間抜けな声と共に、思いっきり追突してしまったのはある意味当然なのかも知れない。
「いっ……てて………」
 尻餅をつき、尾てい骨を強かに打ち付けた痛みに顔をしかめていると、頭上から声が降ってくる。
 あたしにとっては馴染み深く、そして予想外な声が。
「だいじょぶ、君?」
「ふぇ……?」
 頭を上げたあたしは、目の前であたしに手を差し伸べてるのが何者かをようやく認知したのだった。
「とぉ……や…?」
「……あれ?」
 あたしの口から思わずこぼれた一言に、目の前の彼は怪訝そうな様子で見つめてくる。
「あれ…なんで俺の名前知ってるん?」
「あ!……えっと…そのぅ………それは……」
 その問いかけに、あたしは返答に窮してしまう。
 まさかこんな所で、彼――透矢と鉢合わせしてしまうなんて予想だにもしてなかったからだ。
 いくら幼馴染とは言っても、流石に自分の事を親友だと説明するのは難しいだろう。
そんな事をあれこれ考えていると、透矢の顔があたしの真ん前にぐぅっと近づけられる。
 眼鏡の奥の目が、何かを探らんとばかりに細められる。
「うぇ……!?」
「んぅ………もしかして…あぁ、そういう事か……」
 突然目の前に現れた透矢の顔に、驚いたあたしは弾かれるように後ずさりする。
 と、その時だった。
「ふぇ……んぁあうっ!?」
 不意に身体のバランスが崩れ、後ろへと倒れていくのを感じる。
「ちょっ、みゆっ!?」
 咄嗟に差し出された手をつかむものの、倒れていくのを止める事は出来なかった。

 助け起こそうとした透矢をも巻き込んで、あたしは土手の上から思いっきり転がっていったのだった。



 
「いった……ぁ…」
 転げ落ちた時にあちこちぶつけたのか、身体中がズキズキと痛む。
 とは言え、流石に動けないほどじゃないようだ。
「……ゴメン、ちょっとどいてくれる?」
 地面に目をやると、あたしに敷かれる形で彼が倒れているのが見えた。
「透矢!?大丈夫か?……怪我してないよな!?」
「……やっぱり当たりだったみたいな」
「………へ?」
 何の事かさっぱり分からないあたしに対し、透矢は寝転がったまま、意味ありげな微笑を浮かべているのみだ。
「みゆだよな、おまえ」
「えっ……!」
 その言葉を耳にした途端、あたしの顔から血の気がサッと引いていくのが感じられた。
 思わず言葉に詰まるあたしに対し、透矢はさらに言葉を続ける。
「そんなしかめっ面してたら、せっかくのかわいいのも台無しだって」
「……うるさい」
「ほら。そういうとこってまんまみゆじゃん」
 からかうような口振りの透矢に、あたしはひどくうんざりしてしまう。
 けれど、これもいつもの事なのだから仕方ない。
 良くも悪くも、フツーに人の心配するようなヤツじゃないのだから。
「そういや、みゆの方こそだいじょぶか?」
「あたしの方は平気だけど……何が可笑しいんだよ?」
「いや、俺もみゆも泥だらけになっちゃったなって思って」
「おめーもだろ」
 透矢の言う通りだった。
 あたしの着てたジャージも、透矢の着てた作務衣も、すっかり汚れてしまっている。
 そんな間抜けな様子にしばらくの間、二人でくつくつと笑いあう。
 久しぶりなせいか、こんな他愛の無い事でさえ妙に面白く思える。
「にしても、汚れたまんま帰るのもなんだし……とりあえず、家寄ってくか?」
「別に……これくらいどうって事ないし…っ?」
 そう言って立ち上がろうとしたあたしの身体が、ぐらりとよろめく。
 倒れ掛かるあたしを支えながら、透矢は呆れたような口振りを見せる。
「こんなふらふらの状態で、マンションまで戻ろうってのか?」
「でも……」
「どうせみゆの事だから、しばらく走りこみサボってた上に……メシも食わずに出てったんだろ」
 図星を突かれたあたしに出来ることと言えば、ただ赤くなった顔を背ける事だけだ。
「それに、たまには二人で駄弁るってのも……悪くはないよな」
「ん……まぁ」
「じゃ、決まりって事で」
 言うより早く、透矢が俺の手を取って引っ張っていく。
 手を取られたその瞬間、あたしは思わずドキッとしてしまった。
 でもなぜか、怖いとか嫌といった感じはしなかった。
 むしろ感じたのは胸が切なくなるような、そんな不思議な何か。

 この時はまだ、それが何を意味しているのか、ハッキリとは分からなかったけれど。
 


 
 ―[2]―

「ふぅ……」
 風呂に浸かりながら、ほっと一息つく。
 しばらくマンション暮らしだったせいか、この湯船も心持ち広く感じられる。
「しっかし……まさか透矢と鉢合わせするとは思わなかったなぁ」
 本当に予想外の事だった。
 まだ打ち明ける覚悟も出来てなかっただけに、あの時はホントにどうしようかと慌てたものだ。
 でも――あいつは至極あっさりと、変わってしまったあたしを受け入れてた気がする。
 それはそれで安心できるけど、同時に残念な気持ちもある。
 ――お互い、小さい頃から親しくしてきた仲であるだけに。
「やっぱ昔のようには……行かないんだろうな」
 ちょっぴりしんみりとした気分のまま、あたしはゆっくりと瞼を閉じる。
 何となく、透矢も変わった気がする。
 会わなかったのは、ほんの10日あまりの事だというのに。
 ――男子三日会わざれば剋目して見よ。
 そんな諺があるけれど、まさにその通りなのかも知れない。

 いつでも笑顔を絶やさず、周囲を明るくするムードメーカー。
 黙ってりゃ大人っぽいのに、やかましい位に陽気で、でもどこか憎めないヤツ。
 それが今まであたしが透矢に抱いてきた印象だった。
 けれど、久々に会った透矢は、前とどこか違った印象を感じさせた。
「あんなに……頼もしかったっけ……?」
 どちらかと言えば、あいつは頼りない部類に入る方だった。
 お調子者な上に優柔不断で、あたしや姉ちゃんがフォローを入れるのは日常茶飯事。
 けれど、さっき河川敷であたしの手を引いてった時、彼からは強い安心感を感じられた。
以前までは感じられなかったものが、今の透矢には確かにある事は確かだ。
――なんでまた……こんな気分になっちゃってるんだろ……?
 いつしか、さっきのあの切なさがぶり返してきていた。
 透矢の事を思い出した途端、こんな風になるのも不思議な感じだ。
 あたしだって、元々は男だっただけに。
 自分でも訳のわからぬまま、湯船の中で悶々とすることしばし。
――やば……なんか…のぼせてきた…かも……。
 のぼせてきたのを感じ、湯船から出たあたしは置いてあった手桶の中の水を頭から被る。
「ぷはぁ………っ」
 身に染みるような冷たさに、熱さでくらくらしていた頭がようやく正常に働きだす。
 冷静さを取り戻した途端、さっきまでの自分が急に恥ずかしくなってくる。
 透矢相手に、一体何を考えてるんだろうと。
――ホント、何考えてんだろ……あたし。
 心の中でぼやきつつ、手桶を置いたあたしは風呂場を出る。
 少しばかりのもどかしさを感じつつも、あたしの目はかごの中に収まっているものに向けられていた。

「これって……?」
 それが手に取ったあたしを、別の意味で困惑させるものである事は間違いなかった。



 
 風呂から上がり、畳敷きの居間であたしと透矢は顔を突き合わせる。
 軒先に吊るされた風鈴の涼しげな音が、時折耳へと届く。
「なかなか似合ってるよな、それ」
「……ホント、着るのに手間取ったんだぞ」
 ちゃぶ台の向こうで満面の笑みを浮かべる透矢に、あたしはうんざりした様子で答える。
 浅葱色の浴衣を着込んだあたしの姿が、透矢の眼鏡に映りこんでいるのが見て取れる。
「確かこれ、透矢の母さんのって聞いてたけど」
「ん?そうだけど」
「断りもなく着るのってなんか悪い気がするな」
「平気だって。どうせお袋さん、そういうのあんまり着ないし」
 そういう透矢の表情は相変わらずニコニコしたまま。
 でもその目に、わずかながら寂しさが宿っているようにも見えた。
「それに前から思ってたけど、みゆって着物とか似合う気がするし」
「前からって……こんな姿になってから会ったのは今日が初めてだぞ?」
「いやいやいや……もちろん女の子になる前の事。みゆだったら…着流しとか似合うんじゃないかって。
もちろん、その浴衣姿もぴったりだけどさ」
「……そうなのか?」
「あたりまえだろ!いやぁ、やっぱ俺の勘に狂いはなかったな」
「まぁたすぐ調子に乗りやがって」
「あいてっ」
 こうやって、調子に乗る透矢に突っ込みを入れるのも久しぶりの事だ。
「……でもさ、正直うれしいや。透矢にそういう風に言ってもらえてさ」
「どういたしまして」
 小突かれた額をさすりながらも、いたずらっぽい笑みだけは崩さずにいた。
「……っと。ちょっと遅くなっちまったけど、そろそろ朝飯とでもいきますか」
 チラリと時計を見遣った透矢が、おもむろに立ち上がる。
「………透矢、お前メシ作れるようになったっけ?」
「んっと……まぁ、なるようになるって事で」
 俺の向ける疑いの眼差しに、透矢は誤魔化すように応える。
「……ったく、俺も手伝ってやるから」
「だいじょぶだって。大体お前ふらふらだったのに…」
「おあいにくさま。俺だってそんなにやわじゃないんだから」
「……まぁな。負けず嫌いなのは雪乃と一緒だし」
「そういう事じゃねぇって。それに姉ちゃんと一緒にすんなって」
「はいはい」
 軽口を叩きあいながら、俺達は台所へと向かった。
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