「話を聞いていますか?」

 その人物…橋本と名乗った厚生省の若い役人はやや疲れた表情をしてそう言った。
 無理もない、この人は今日一日だけで28人の少年に同じ事を言っているのだ、そして俺はその29人目なんだろう。
 なにか酷く悪い夢でも見ているような…いや、むしろそう信じたいのだろうけど、何となく今現在俺の耳に入ってくるのは絶望的な現実を実感する言葉ばかりだった。

 「あの すいません… あの なんかよく理解できなくなってきました」

 担当している橋本さんは極めて事務的に振る舞っていたはずだ、しかし、そこで初めて背もたれに体を預けるように椅子を座り直すと左手でおでこをさすりながら視線を俺から切って何かを考えていた。
 無理もない話だ、年端の行かない少年達…僅か15歳の中学校を卒業したばかりの子供たちに日本が抱える絶望的な現実を「教育」して、そしてさらには嘆かわしいその身に掛かる運命を納得させなければならないのだ。
 悪名高きTS法が成立したのは西暦にして2050年のこと、21世紀の初頭、日本では人口構成の歪さが問題になり始めていた、少子高齢化問題を解決する省庁横断型大臣が任命され、主に厚生省と総務省が様々な問題へ取り組んだ。
 しかし、税制上の優遇措置や契約結婚制度の整備などをした所で夫婦は増えても子供が増えない現実は重くのし掛かっていた、そして日本が最も恐れていた事が現実になる。
 2015年には人口の自然減少が始まり2049年、日本の人口は遂に1億を切った、僅か50年足らずで人口が1/3に減ってしまった原因は色々と取り沙汰された。
 鳥インフルエンザに始まった新種の感染症問題、少子高齢化より景気回復を優先したデフレ脱出を目標とする労働時間規制緩和措置、男女雇用機会均等法とジェンダーフリー法による女性労働者の労働強化による出産環境の悪化。
 結婚しない、結婚できない、子供を産めない、3無い時代と呼ばれた40年が2050年の時点で未成年者人口1000万人割れを招いた、GDP=国民総生産が世界ランキング50位を下回った時点で、国内は騒然となった。
 その結果、子供やその親の意志を全て無視するTS法が生まれた、15歳の時点で同年代人口における性別比を男性1に大して女性2にする措置、そして16歳から20歳までに最低2人の出産が義務付けられる措置、TS法。
 人権団体も無視できなくなった現実が掲げる理想を引っ込めざるを得なくなってしまった、そして今、俺はこのホテルのサロンのような部屋で黒ずくめの大柄な男二人が背後に立つ環境下で橋本さんの話を聞いている。




 「確かに… いや、そもそも納得しろなどと言う事自体無理なのは良く判っているよ」

 橋本さんは初めて事務的ではなく生きた人の言葉として俺に語りかけ始めた。

 「今まで君は男として生きてきたし、ここまで大きくなった、将来の夢はサッカー日本代表だったそうだね、君のことは全部調べさせて貰ったよ・・・」

 おでこをさする手が止まって、まるで彫像のように固まった橋本さんはフゥと一つ息を吐いて一気に喋り始めた。

 「今君が置かれている状況は絶望的なものだよ、極めて平等な選出法によって選ばれた君には申し訳ないけど、とにかく運が悪かったとしか言えないんだ」
 「今の君には逃げる権利も方法も無いし、それに、もしそれが成功したとしても君の親族、そう、お父さんやお母さんや弟さん、家族みんなが酷い目に遭う事になる」
 「もう受け入れるしかない状況なんだよ、まぁ、これから言おうと思ったんだけど…、最後の最後でたった一つだけ逃れる方法があるけど、それは後で話をしよう」
 「でもね、とにかく絶望とか落胆とか、酷い言葉ばかり使ってきたけど、悪いことばかりじゃないんだよ…」

 いつの間にか俺は橋本さんの目をジッと見て話に聞き入っていた。

 「僕は今33歳になるが、毎月の給料から差し引かれる税金の額は支給額の35%に及ぶんだ、そしてそれ以外に、お金を使えば消費税として13%を請求されるんだ」
 「でも、TS法によって女性になって25歳までに4人以上の子供を産むとどうなると思う?、基本的に税金は全部免除になるんだよ、買い物をするときだってTSカードを提示すると消費税は国庫負担と言ってね、要するに君は払わなくて良いんだ」
 「それだけじゃないよ、まぁ、今の君にはどうでも良いことかも知れない、飛行機だって電車だって普通の人より大幅安い値段で使えるんだ、もちろん君の大好きなサッカーだってスタジアムはフリーパスだよ」
 「そう言えば今度のワールドカップにもTS招待席が設置されるそうだ、今じゃチケットを巡って暗殺や買収まで行われる有様だけど、君がこの運命を受け入れたらフリーパスだよ」

 橋本さんはここまで言うと寂しそうな笑顔を作って両手を左右に広げ肩をすくめた。

 「だからと言って、それがどうした?って話なのは良く判っている、君の人生が大きく変わってしまうことになるんだからね」

 その言葉の後、重苦しい沈黙が3分位続いた、3分というのは感覚的な物だ、この部屋のどこにも時計は無いし窓も無い所だから時間の経過を知る術もない、もしかしたらホンの10秒程度の沈黙だったのかも知れない。
 橋本さんは何か意を決したように胸のポケットから銀色のケースを取り出した、音もなく蓋が開いたそのケースには飴みたいな物が2つ入っていた、赤と青の飴、それを左右の手に一つづつ持ち直して橋本さんはまじめな顔になった。

 「良いかい?、良く聞いて欲しい、僕の右手にある薬は運命を受け入れる赤の薬だ、これを飲んでしまうとすぐに眠くなる、そして次に目が覚めた時、君は新しい自分に出会うだろう、誰もがうらやむような美しい女性になっているはずだ」

 そう言って右手をゆっくりと開いてよく見ろと言わんばかりにやや手を持ち上げた、そして今度は左手を広げて、また、よく見ろと言わんばかりにやや手を持ち上げた。

 「こっちの薬は全てを拒絶する青の薬だ、君の運命は過酷で残酷でそして理不尽だ、しかし、この薬を飲むと全てから逃れられる、すぐに眠くなって…」

 俺は思わず言葉を繋いだ、多分言うことはこれしかないだろう、そんな予感が頭にあった、死だ、きっと毒なんだろう、それを確かめるようにやや強い口調になった。

 「眠くなって、どうなるんですか!」

 橋本さんはゆっくりと目をつぶり答えた

 「永遠の眠りにつくことになる… そうだよ…死ぬ薬だ… 死んでしまえば全て忘れてしまえるよ」

 


ゆっくりと目を開いた橋本さんはいつの間にか涙目になっていた、唇がワナワナを震えている、そして固く口を結んだ後、絞り出すようにこういった。

 「生きていれば良い事もあるだろう、死んでしまえば楽になるだろう、僅か15歳の君に選択を迫る不甲斐ない大人を許して欲しい… さぁ… 選んでくれ…」

 そこまで言って橋本さんの右目から一筋の涙が流れた、真剣さだけが伝わってくる、あぁ、きっと俺は良い担当に出会ったんだ、そう心から思えた。
 ゆっくりと延ばした俺の右手は空中を泳ぐようにゆっくりと橋本さんの右手へと伸びていった、しかし、毒々しいほどに赤い飴玉の直前で右手が止まった。
 ホンの一瞬、そう、ホンの一瞬だ、瞬間的に俺の15年分の人生がフラッシュバックしたような気がした、小学校の卒業式が生々しく思い出された、中学校の修学旅行が蘇った、幼稚園のあの下手くそな歌が思い出された。
 そして、とても大きく優しい目を思い出した、天井を見上げる俺の顔を覗き込んで微笑む大きな優しい目、お母さんの目だと気が付いた時に橋本さんは口を開いた。

 「本当に良いんだね?」

 気が付けば俺は赤い飴玉を右手にとってシゲシゲと眺めていた、手の上に乗る赤い飴玉、いや、その薬は細長くやや曲がっていた、本当に毒々しいまでの赤だ。
 後に立っていた大男が大きなグラスにたっぷりと水を注いで俺に差し出した、全く無言で表情のない顔だけが不気味だった。
 少し水を口に含んで、大きく息を吐いた、知らずに涙が溢れてくる、グラスを持つ手が震える、体中がこわばって小刻みに震えていた。
 ふと顔を上げたら橋本さんは涙をハンカチで拭っていた、そして両手で顔を覆い何かを呟いていた、唇だけが見える状況で呟いていた、申し訳ない…申し訳ない…

 意を決して薬を勢いよく口に放り込み一気に水を飲んだ、グラスにたっぷり500ccは注がれていた水を全部飲み干した。
 空になったグラスを眺めながら、ふと俺は我に返って思った、これからどうなるんだろう?俺はどこへ行くんだろう?
 急に後へ引っぱられるような睡魔が来た、世界がグワーンと歪んでいく感じがした、目の前の椅子に座っているはずの橋本さんが急激に遠くに行ってしまうような錯覚に陥った。
 そして椅子へ倒れ込んだ、最後の力を振り絞って目を開いたそこにはあの黒ずくめの大男が立っていた、薄笑いを浮かべていたような気がしたけど、薄れ行く意識の中でその理由が解らなかった…







 「名演でしたね橋本主任、最短記録の18分ですよ」

 大男はグラスを片づけながらそう言った、もう一人の男は眠りに落ちた少年の足を揃えキャスターベットに乗せる用意をしながら相槌を打った。

 「このガキ、主任の演技信じ切ってましたよ、まぁ、年端の行かないガキを騙すなんて簡単なもんですけどね」

 そう言って大男は二人して笑った、顔を覆っていた橋本は肺の中の空気を全部吐き出すように息を付くとハンカチで額の汗を拭った。

 「いやいや、途中で危なかったよ、最後は笑いを堪えるのに必死だったね、まさかこの少年が泣き出すとはねぇ、まぁ、感動の中で新たな人生に踏み出すんだ、良い事じゃないか」

 せせら笑いを浮かべながら橋本は携帯電話を取り出してどこかにダイヤルした

 「あぁ、俺だ橋本だ、お疲れさん、29人目の候補者、たった今説得を完了したよ、うん、今回も赤玉だ、今月はまだノーミスだぞ!インセンティブボーナス頂きだ!」

 大男二人は少年をキャスターベットに乗せて上から毛布をかぶせ、更にその上からベルトで固定した。

 「たった今固縛を完了した、国家の為に犠牲になった可哀想な少年に新しい人生をプレゼントしてやってくれ、あぁ、そうだ、とびきりの人生だ」

 くっくっく…、失笑を漏らす黒ずくめの男二人と共に橋本は出ていった。
 たった今15年間の男としての人生を終えた少年と共に・・・
 ”俺”の意識が全くない状況で、俺は全ての権利を剥奪され新たな人生へと歩みだした。


 ピピピピッ!ピピピピッ!ピピピピッ!ピピピピッ!
 酷く耳障りな電子音で"私"は目を覚ました、まだ何となく眠っているような気がする。
 ボーっとしていて頭が上手く廻らない、状況も良く分からない、何でここに居るのかすら理解できない。
 そもそも…
 私は…
 だれ?


 段々と意識がはっきりしてくる、視界の中には見覚えのない世界があった、沢山のライトがこっちを照らしてユラユラとしている。
 仰向けのまま体を投げ出した姿勢で水中を漂っているのが分かった時、ゴポッっと音がして水位が下がり始めた、背中が固い物に触れている。
 やがてユラユラしていた物が目の前に迫ってきてそれが水面だと気が付いた、顔が水面から外の世界に出る、空気を吸い込もうとしたとき口の中にも鼻の中にも、そして体内にも水が入っているのに気がついた。
 肺の中が濡れている感覚は酷く気持ち悪い物だ、まるで息を吐き出すかのように液体を吐き出した私はゲホゲホと噎せながら繰り返し水を吐き出す。
 ヒューヒューとのどを鳴らしながら肩で息をしてるが一向に楽にならない、少しでも楽な体性になりたいとゆっくり体を起こした時、両胸にあり得ない重力を感じて視界を下に向けた。
 形のいい膨らみが2つ、両胸にぶら下がっている、そしてその下、今まで男性器の…チンチンの有った場所が妙にスッキリしていて、まるで鈴の割れ目のような線があった。

 なかば呆然とした状態で今は自分の一部となっている乳房を眺める、不思議と疑問や疑念が沸く事は無く、むしろその形の良さに自分で惚れ惚れしてしまいそうだった。
 へその辺りには20桁位の数字が2段書かれていて、2次元バーコードが3つ書き添えられていた、あぁ、そうだ…
 "私"はTS法の対象に選ばれて女の子になったんだっけ…、不思議な感情が心を埋めていった、両手、両腕の順に視界を動かしていって、次は両足の太股からすね、足の甲へ、そして足の指先へ。
 男だった頃の、見慣れていた筈の体を思い出そうとして思い出せなかった。
 今見ている新しいからだが、さもそれが当然の事のように見つめたあと、棺桶状になっているカプセルから出ようとして頭の周囲や首筋、そして両足の間の…女の子にしかない穴の中からもケーブルが繋がっているのに気が付いた。
 なんだろう?これは何?、え?なんなのよ!、そう心の中で叫んで気が付いた、声が出ない…
 半ばパニックになりかけた所でこのカプセルのある部屋に唯一有るドアがスッと開いた、入ってきたのは背の高い白衣を着た女性2人だった、右手で待て待てのジェスチャーをしながら近づいてくる。

 「おはよう香織さん、気分はどう?、まだちょっと動かないでね、これからモニターケーブルを外すから」

 そう言って私は再び仰向けに寝かされた、白衣を着た女性が2人で頭や首に付けられているケーブルを外していく。
 何か専門的な会話をしながら二人は手早く処理をして、そして下半身側へ廻り無造作に股間のケーブルをまさぐった。
 あぁ!
 ゾクッとする感触が背骨を駆け抜けて頭を貫いた、一瞬視界が白くなって、体が弓なりにしなった。

 「あ、ゴメンナサイね、まだひどく敏感なんだっけ…」

 そう言ってはいるものの片方の女性は容赦なく指を敏感な部分へと滑り込ませて優しく微笑んだ、ゆっくりと体から引き抜かれていくケーブル、視界がチカチカとするような衝撃に包まれながら眺めざるを得なかった。
 私の胎内から引き抜かれたケーブルがかなり長い事に気が付いたけど、それ以上に驚いたのは…巻き取られていくケーブルからヌラヌラとした糸を引く液体が垂れていることだった。
 これは何だろう??私の体はどこかおかしいのかな?、色々な考えが頭の中をグルグルと回った、それだけでまたパニック状態だった。


 「お待ちどうさま! 香織さん 立てる? ゆっくり体を起こしてね」

 そう言ってもう一人の女性が背中を抱きかかえて体を起こしにかかる、白衣で擦れる背中の皮膚がゾクゾクという感触を伝える。

 「さぁ 新しい自分に出会いましょうね まだゆっくりよ 焦らないで」

 そういってその女性は私を抱き抱えるようにカプセルから持ち上げた後でそっと地面に下ろしてくれた、目の前の壁は全部が鏡になっていて、そこに映る自分の背景がこの部屋を妙に広く感じさせてくれる。
 ゆっくりと視線を動かして私は正面の鏡に映っている自分の姿を初めて見た、身長は160cmちょっとだろうか、ウェストのくびれが見事な…、そう、グラビアアイドルみたいなスレンダーな体。
 しかも、重そうにぶら下がった丸い桃のような乳房、股間にぶら下がっていた筈のチンチンが姿を消して妙にスッキリとしていた。

 「さぁ、新しい人生ね、隣の部屋にシャワー室があるから体に入っているマーキングを消してくると良いですよ」
 「着る物もそこに置いておくからゆっくりしてきてね」

 そう言って微笑んだ女性に促されてとなりの部屋へとドアを開けて移動した、さっきここからあの女の人は出てきたけど…
 まだ何となくポワーンとしながらも段々と頭が冴えてくるのが自分で分かり始めた、乳白色のビニールカーテンを開くと、そこにはプールサイドのシャワー室のような蛇口が上の方にあった。
 壁に埋め込まれたダイヤルを回してお湯が勢いよく噴き出した時、初めて体に浴びた瞬間に全身をゾクゾクするほどの快感が駆け抜けた、全身の感覚が鋭くなっていて、僅かな水圧でも鳥肌が立つほどだった。

 これが女の子の感覚なのかな?
 そんな事を漠然と考えながらボディーシャンプーを手にとって体を洗い始めた、どこにも体を擦るタオルの類が無いのは自殺防止かな?、ふとそんな事を思いつつも自分の手で自分の体を触ることが最初の快感になった。
 両腕からお腹へ、そして両胸へ…乳首がピンと立ち上がっているのは感覚が鋭くなっている証拠なのだが、そんな事を考える余裕はなかった。
 良く判らない花の香りに包まれて私は自分の乳房を揉みしだいていた…ああ…あぁぁぁ…、体中に快感の波が流れていく、シャワーのお湯が当たるだけで意識が遠くなったような気がした。
 そして、両の手が乳房を弄ぶのに疲れた頃、左の手が意識せずに下腹部を伝って股間へと移動していった、無意識に快感を求める衝動が精神を埋めていき、後は無意識に自分の体をまさぐり続けた。
 初めての感触で全身がとろける程の快感…全ては計算し尽くされた、目覚めて最初の30分、これから性の奴隷となって子供を産ませる為の第一歩。
 シャワールームのマジックミラー越しに設置された監視カメラは一部始終を見続ける、モニター室の中の女性二人が底意地の悪そうな笑みを浮かべて呟く

 「第一段階完了ですね香織さん、丈夫な子供を産んで下さいね、フフフ…」

 私はシャワー室の中で女の子になって初めてのオナニーを楽しみ続けた。


 …大きな部屋の中で食事をしている…向かいの席には弟が何か不機嫌そうに座って半分寝ぼけた眼で干物をかじっている。
 …隣にはお母さんが向かいのお父さんに文句を言っている、また新聞読みながら食事をしているのをたしなめたのだろう。
 …私は茶碗の中のご飯をモソモソと食べながら箸を小皿の海苔へと伸ばした、しかし、ふと気が変わって漬物に箸を寄せる。
 …すると隣のお母さんが怒った、迷い箸をするんじゃありません!行儀の悪い女は嫌われますよ!…


 ふと眼を覚ますと私はバスローブを着て椅子に座っていた、気の効いた喫茶店の片隅に置いてあるような背摺りの高い椅子だ。
 先ほどの女性が横を向いて座っている、何かの書類に眼を通しながら、大きなファイルに何かを書き写していた。
 何となく火照った体がだるい、そして意識もやや混濁している、まるでまだ夢の中のようだった、夢…、夢の中の私は女の子だったなぁ…
 無意識に右手を上げて胸を触った、間違いなく乳房の感覚が手の中にある、そして左の乳房を触っている感覚もあった。

 その女性は手を止めて椅子の向きを代え、改まった表情でしゃべり始めた、鈴を転がすような、カラカラとした甲高い澄みきった声だ、綺麗な声だなぁ…

 「ちゃんと聞いていますか?」

 やや強い口調に変わっているが笑顔になっている、仕方がないなぁ…とでも良いたそうな顔だ、何か手を煩わせているのが申し訳なくなってきた。

 「はい、ちゃんと聞こえています… あれ?」

 今度はちゃんと声が出た、胸を触っていた手が喉に触れる、そして初めて気がついた、見事な喉仏と褒められていた首から喉仏が消えている、そして柔らかくて極めの細かい肌に覆われた細い首があった。
 自然と手が喉から離れ、自分の右手をシゲシゲと眺める、小さな手のひら、細長いく繊細な指、手を返し甲を見ればほとんど毛が生えていない上に、やや伸びた爪が生えていた。
 ふと顔を上げると女性はまた何かをファイルに書き写している、何を書いているんだろう?と思ったのだけど、日本語ではない言葉で書かれているかのように思えるほど漢字が多くて瞬間的には読めなかった。



 「私の名前は宮里と言います、覚えてくださいね、あなたの担当になりました」
 「あなたの名前は香織さんです、あなたのご両親があなたに新しい名前をプレゼントしてくれました」
 「今すぐには会えませんが、やがてこの施設から出て現実社会に復帰すれば家へ帰れます、まずはその新しい体に慣れてください」
 「そして、これからあなたが成すべき義務とそれに伴う責任、そして、それを行う上での重要なあなたの権利を説明します」
 「いいですか?よく理解してください、あなたは不幸なのではありません、他の人よりちょっと変わった人生になるだけです、そして、他の人には無いいくつもの権利を有しています」

 そう言って宮里さん…と、そう名乗った女性は右手の人差し指をピント伸ばして顔をかしげ、右目を軽くウィンクしながら言葉を続ける。

 「その人が幸せだったか、それとも不幸だったかは死ぬまで分かりません」
 「でも、不幸だと思って生きるより幸せだと思って生きたほうが良いでしょ?」

 宮里さんはそういって笑いながら右手をポケットに入れて鍵を差し出した、鍵には小さなナンバータグが取り付けられている。

 「今から言う番号は片時も忘れてはいけません、良いですね? 番号は2040640です、もう一度言います、2040640です、復唱してください」

 「番号は…」そこまで言って今度は自分の声にびっくりした、ソプラノ歌手のような透き通ったやさしい声が自分の喉から出ていた、しかし、素早く言葉をつなげる。

 「番号は2040640…ですね」

 「はい、その通りです、その番号はあなたの認識番号です、TSナンバーと言います、あなたがその人生を終えるときまで付いて回ります」
 「その番号はあなたの権利を保障する担保になります、意味が分からないでしょうけど、今は理解しなくても良いです、ただ、絶対に忘れないでください」
 「あと、もう一つ、これはあなたの番号が書いてある紙ですが…」

 そういって宮里さんは一枚の小さな紙を取り出した、そしておもむろに取り出した小さな火炎放射器で(それはライターと言うらしい、映画の中で口に銜えた物に火を点ける仕草の時に良く出てくるものだ)で紙に火をつけた。
 ほぼ紙に火が回り全部燃え尽きたのを確認してから言葉をつなげた。

 「たった今、あなたの認識番号を示した紙はこの世の中から姿を消しました、もはやあなたの認識番号を外部から知るには厚生労働省のデータベースに侵入するか、それともあなたを徹底的に調べるしかありません」
 「あなたの体の一部に暗号化した認識番号を入れてあります、それは専用の機械で読み取らない限り、ただの模様にしか見えないものです、いずれ時が来ればどこにあるか分かりますが…」

 宮里さんはニコっと笑って言った「今はまだ知らないほうが良いですよ」

 自分の体に自分でも知らない部分がある、そう思うとなんだか酷く気持ちが悪くなった、おそらくそれが表情に出たのだと思う、宮里さんはすかさずフォローしてくれる。

 「たとえば、香織さん、あなたは自分の背中を自分で見たことがありますか?、耳の裏側は?うなじの部分の…」

 そういって宮里さんは自分の首筋に手を伸ばす「世の中の男性達が眺めて喜ぶ私たち女のうなじは…自分じゃ見えませんよね」と言って微笑む。
 何か酷く違和感を感じてそれが"私たち女の…"と言った部分である事に気がつくと、何か自分が急に女なんだと思えるようになってきた。


 「さぁ、とりあえず部屋へ行きましょう、その鍵を忘れないで持ってきてね」

 そう言って宮里さんは立ち上がった、私は渡された鍵を握り締めてあとに続いた、自分の足で立ち上がって部屋を出る、するとそこは大きな学校のような病院のような、コンクリートで出来た大きな建物だった。
 窓の外には雄大な山並みが見える、窓の下には学校のようなグラウンドがある、体操着を着た女の子が沢山居て笑顔で走り回っていた。
 まぐれも無く学校と言い切っていい施設だった、しかし、唯一学校に似つかわしくない所は…施設の周りを10m近い壁が取り囲み、等間隔で監視小屋のような施設が並んでいる事だった。
 壁の上には有刺鉄線が張られ、それは内側にせり出した形状だった、逃げられない…、ふと、そう思った。

 「香織さん、早く来て」そういって宮里さんは私をせかす、「は〜い」と声をつなげ後を付いて行く、廊下を歩き階段で2階下のフロアに降りた。
 するとそこは左右に等間隔でドアが並んだ廊下だった、宮里さんは壁の番号を読みながら歩いていく、私はそれについていく、やがて24-38と書かれたドアの前に立ち止まった。
 宮里さんは微笑みながら空中で鍵を開ける仕草をする、あぁ、そうか、さっき渡された鍵はこの部屋の…そう思って鍵を見るとナンバータグには24-38と書いてあった。
 鍵穴に差し込み時計回りにまわすとドアノブごと回ってドアが開いた、入ってすぐに小さなキッチンがあり、その奥には組みつけのやや大きめなベットが一つ、その隣にはクローゼットが二つ。

 「個々が私の部屋ですね」私は無意識にそう言った、しかし、意外な答えがすぐに返ってきた、「いいえ、それは違います香織さん"が"生活する部屋ではなく、香織さん"も"生活する部屋です」

 え?っと思ったけど、その意味がすぐに分かった、再びドアが開いてもう一人の女性…自分と同じかやや年齢の上と思しき人が入ってきた。

 「あ!新しいルームメイトですね!宮里先生! わ〜うれしぃ! 一人でつまらなかったの!」

 そう言って嬌声を上げる女性は私の手をとってこう言った「私は沙織よ、橘沙織、あなたの名前は?」相当嬉しいらしくハイテンションだった、何となく気圧される感じがしながら自己紹介する「香織…です、川口、香織…」
 香織と名乗るのに酷く違和感を覚えた、そして自分の本当の名前を…男だったときの名前を思い出そうとしたのだけど何故か出てこなかった、どんなに考えても出てこなかった。
 しかし、何でだろう?と考え込むより早く沙織さんがさらにハイテンションで声を続けた「香織って言うの?ほんと!私は沙織なの、織だけ一緒だね!妹が出来たみたい! 宮里先生本当にありがとう!」




 この女(ひと)のテンションにはなかなか付いていけない…、ふとそう思った、共同生活するのかな?どうして?、そんな疑問が頭の中をぐるぐると回る。
 しかし、結論など出る筈も無く、また考えるのが無駄だと気が付きもしなかった、そして宮里さんは「じゃぁ、とりあえず身の回りのことは香織さんに教えてあげてね沙織さん、お願いね」とそういって部屋を出て言ってしまった。

 「あ、あの…」そういって宮里さんのあとを追おうとしたのだけど、私の意志とは関係なく沙織さんがテンション高く話をリードする。

 「今日出てきたんでしょ!カプセルから!、最初はびっくりするよね、私も凄くびっくりした、でもすぐ慣れるよ、だって自分は自分だもん!」
 「さぁ、こっちに来て、そんなバスローブ脱いじゃってさぁ!」そういって一思いに服を剥かれてしまった、キャ!っと声を上げて右手で胸を隠した、なんで咄嗟にその仕草が出たのか自分でも分からない。
 しかし沙織さんは一気に「うぁ〜オッパイ形良いじゃん!羨ましいなぁ〜もぉ〜」とか言いつつクローゼットから女物の下着を取り出した。

 「こっちがショーツでこっちはブラジャー、わかるよね?、とりあえず下を履こうね、何となく落ち着かないでしょ?、ブラはね、こうやって…」そういって沙織さんが私の胸を触る、それだけでゾクっと来る、まだ何か敏感になっている。
 しかしそんな事をお構いなしに沙織さんは続ける「肩ひもの長さをちゃんと調整しないと肩が凝るからね、あとでつらいわよ、肩こりが酷くなると頭痛がするからちゃんと調整して」
 「そしたらね、これはフロントホックって言うタイプで前でロックするの、本当は後ろのほうが付けていて楽なんだけど、私は前でも変わらない気がするの、オッパイにカップを被せるんじゃなくて、カップに落としてから持ち上げる感じでホックを絞めてみて?」

 言われるがままに自分の胸を収めて見る、ホックをパチンと絞めて見るとなるほど、肩から首筋の引っ張られる感じがずいぶん楽になった。
 さて、下着姿で女がウロウロすると危ないからね、何か着ようか…と独り言のように沙織さんは言うとクローゼットをあさり始めた、出てきたのはライムグリーンのワンピースだった。

 「うん、これが良いよ、ワンピースって女っぽいよね、これは背中にジッパーがあるから、これ押したまで下ろして足から入ってみて」
 そういって幼い子に服を着せるように沙織さんは私の前でしゃがみ服を広げた、されるがままに足を両方通したら服を持ち上げて腕を通した。
 背中でジッパーを絞める音がする、そして腰にあるひもをギュッと絞めて結ぶと嫌でも胸の膨らみとウェストの細さが強調された、肩を押されて鏡の前に立たされると、そこには少しだけ髪の伸びたワンピース姿の女の子が立っていた、これは今の私…

 「わ〜かわいい!お人形さんみたい!、ねぇ!中を案内するわ!外に行こう!」そういって沙織さんはドアまで言って早く早くと手招きした、素足で出歩いても良いものだろうか?と思ったけど沙織さんも素足だったのでそのまま部屋を出て行った。

 そして、この日の長い一日が始まった。




 早く!早く!
 沙織はそう言って香織を促す、いきなり外界に放り出された香織は段々と体が重くなっているはずだが、今は興味の方が勝っているのだろうか、沙織に付いていく。

 「あそこの扉が大浴場入り口、その奥は大きなパウダールーム、エチケットルームも一緒ね」
 「こっちの階段を上がるとライフフロア、生活に必要な物が一式有るわよ、食堂とか大きなリビングサロンとか」
 「反対にある階段を上がるとスクールフロア、ここから出るまでに色々と学ぶことが多いでしょ?、そういう事はこっちね」
 「ここの大きくて厳重な扉は…」よっこいしょと言わんばかりに力を入れて沙織さんは扉を開いた「女一人で空けるにはちょっと重すぎるのよね、このハッチ…」
 
 そう言って扉を開けると香織の瞳に眩いばかりの光が目に飛び込んでくる。

 「はい、どう?久しぶりでしょ、太陽の光!、あんまり日に当たってると色黒になっちゃうからね♪」

 沙織は太陽の下へと歩き出した、香織もフラフラと後を付いていく、陰の部分から日向へ出る直前で足が止まった。
 このまま出て平気なのかな?、香織は一瞬そう思った、でも、太陽ならいつも見ていたから…、ボールを追い掛けてグランドを走り回っていた日々を香織は思い出して一歩踏み出した。
 降り注ぐ陽光、肌を撫でる風、砂埃の臭い、あぁ、これが外の世界!

 「沙織さん ありがとう…」

 香織の不意に口を突いた言葉が沙織を更に喜ばせたようだ、喜色満面と言った笑みを浮かべ嬌声を上げている。

 「さぁ、次いこ!、こんどは…」そう言って沙織は香織の手を引いて建物の中へと小走りに歩いていく、しかし、建物に入ってすぐにアクシデントが起きた。
 まるで操り人形の糸が切れるように、香織は意識を失って倒れ込んだ、沙織の顔から血の気が引いていく。

 「香織!香織!しっかりして!! 誰か来て!」

 すぐ近くの扉が開いて白衣の女性達が集まってきた、沙織は涙目になって立ち尽くしている。
 やがてそこに宮里もやってきた、香織のそばにしゃがむとハンディー型の機械を香織の額へとかざす…

 「軽い眩暈ね… 沙織さん 香織さんを外へ出した?」

 無言で頷く沙織、宮里はやおら立ち上がって沙織に近付くと右の頬を目がけて平手を入れた、勢いで吹っ飛ぶ沙織。

 「あなた 何をしたか分かっていますか? 香織さんはまだ外界との接触を避ける段階ですよ この子に何かあったら…」

 今にも泣き出しそうな沙織は消え入るような声で「ごめんなさい ごめんんさい … 」と呟いている、宮里はため息を一つ付いて周囲の白衣をまとう女性達に指示を出し香織をメディカルルームへと運んだ。

 「間に合うと良いのですが… 」宮里の顔には明らかに動揺の色があった。


 2時間ほど経って香織は目を覚ました、すぐ隣には右頬を赤黒く変色させた沙織が座っている、反対側には安堵の表情の宮里。
 そしてその隣には老いた男性の医師が立っていた。

 「香織さん…だね 気分はどうじゃ? 顔色も戻ったし 心配なかろう」
 「沙織さんも気を付けないさいね、あなたは明るく行動的なのが取り柄だけど、時々軽弾みな事をする、女性は男性に比べ繊細で弱い部分があるから、次から気を付けなさいね」

 沙織は目にいっぱいの涙をためて震えていた、香織は段々状況が掴めてきた。
 私が外に出て倒れたこと、沙織がひどく叱られたこと、そして…、小刻みに震える宮里が明らかに隣の老医師を恐れていること。
 老いた医師は隣の宮里を見上げ何か小声で話をしている、宮里が軽く頷いて胸のポケットから何かを取り出した。

 「香織さん 良く聞いてね あなたは今朝生まれた赤ちゃんと一緒なのよ あなたの体はまだ外の世界に出るには弱すぎるの」
 「初めて外の世界に出る時は外界の様々な… そう、ばい菌とか紫外線とか そう言う強い刺激に対抗出来ないと死んでしまいますからね」
 「今は少し落ち着いてますが、もし急に気分が悪くなったり立ち眩みしたり… 」そう言って老医師に視線を移すと、その医師は宮里に立ち替わり言葉を続ける。
 「急にお腹が痛くなって下血を始めたら… 女の子にしかない穴があるじゃろ そこから下血を始めたらこのボタンを押しなさい」

 そう言って宮里から何かを受け取ると香織の前に手を出した、小さなコイン状の円盤だった、真ん中にはボタンを示す赤い○が描かれている。

 「この真ん中の赤い○を強く押すと、この施設のどこにいてもあなたの所へ2分以内に誰かが駆けつけます」

 そう言って老医師はコインを香織へ手渡した、香織はじーっとコインを見つめる。

 「あなたにはまだ使命があります、大事な使命です、自分の命は大切にして下さい、まだ見ぬ子にその命を分け与える使命を果たすまで…」

 そう言って宮里は香織の頭を撫でた、まるで我が子を大切にする母親のように。向かい側の沙織はばつの悪そうな笑みを浮かべてそれを眺めていた。
 「さて…」そう言って老医師はベットサイドを離れた、宮里もそれに続いた、木製のドアが閉まると部屋の中は静寂に包まれる…、香織は沙織へと向き直って言葉を選ぶように話し始めた。

 「沙織さん 叩かれちゃったの? 」無言で頷く沙織、「もしかして、私のせいで?」今度は沙織は首を横に振った、そして両手で口を隠すように覆って泣き声混じりに喋り始める。
 「違うの 私が悪いの あなたの…」そこまで言葉を繋いで一気に涙が溢れた。
 「 香織の体がまだ無理だって忘れてたの まだ… アレが無いから… ごめんなさい…」そう言ってボロボロと泣き始めた、香織はアレって何だろう?と疑問に思ったのだけど沙織に聞ける状況でもなく、ただ、どうして良い変わらなかった。

 しばらく涙を流していた沙織だが、何かを思いだしたように立ち上がって香織の手を取った「香織 立てる? 部屋に戻ろう?」
 香織はゆっくりと体を動かしてベットサイドへ立ち上がった、まだ軽くフラフラする、沙織は香織を後から抱きかかえるように歩き始めた。
 ドアを開けて廊下へと出る、そこには知らない女の子達が心配そうに眺めていた、遠巻きに見ていた女の子の中から明らかに年上の女性が…既に女の子ではなく女性と言った容貌の子が近付いて来て香織の手を取った「大丈夫?」
 沙織はまるで叱られるのを恐れる子供のような顔で女性の顔を見上げている、女性は軽く笑みを浮かべると沙織の頭をげんこつで軽く叩き「もっと気を付けなさいね」と言って笑った。
 「香織さんね? 今日来たばかりの川口さん」そう言って笑みを浮かべる 「はじめまして…ですよね、私は野沢 野沢雅美よ 24号棟の棟長なの よろしくね」
 香織は食い入るように雅美を見ている、均整の取れた顔立ち、腰まで伸びた美しく長い黒髪、こぼれ落ちそうな黒い瞳に吸い込まれそうなほどだ。
 そしてハッと気が付いた、この施設のここに居ると言う事は… この人も男だったんだ…


 「さぁ、ここで立ち話しても仕方ないわ 部屋へ行きましょうね 沙織さん よろしくね」そう言って先導するように歩き始めた。
 沙織は香織の肩を抱きながら耳元で囁く「24号棟一番の美人よね 雅美姉さま 素敵だわ… 」
 うっとりするように見つめる沙織の視線は男が女の見つめるそれとは全く違う類の物であることに香織は気が付いた。

 エレベーターでフロアを下りていく、メディカルルームは随分上にあるらしい、階数表示3Fで止まってドアが開いた、雅美は廊下を歩きながら沙織に確かめる。
 「たしか8号室だったよね 」そう言って24-38の前に立ち止まると肩から下げた小さな鞄の中の鍵を取り出す、ガチャリと音がしてドアが開いた
 何の躊躇もなく部屋に入る雅美、不思議な違和感を感じていた物の、それを言い出せぬまま香織は部屋に入った、沙織に背中を抱かれたまま。
 「この部屋が多分一番良い景色よね、出世部屋って呼ばれてる位だから良い所へきっと行けるわよ 」意味深な言葉と射抜くような視線の笑顔を残して雅美は部屋を出ていった。
 香織はベットに座って深く息を吐いた、沙織はクローゼットを空けて中を整理している、さっきまで、ここからワンピースを出した時までは綺麗に整理されていた中がゴチャゴチャになっていた。
 不思議に思ってその様子を香織は眺めていた、沙織はそれに気が付き作業を続けながら香織に話しかける。

 「ごめんね すぐに片づけるから」
 「一日4回 雅美姉さまが各部屋を巡回するの」
 「それで 少しでも整理整頓が出来ていなかったり掃除が出来ていないとね…」

 沙織は中身を抱えて外に放りだしそれを乱雑にまとめてクローゼットに押し込んだ

 「この状態で残されるの 次に見回りが来るまでに綺麗に片づけが出来て無いと大変よ」

 視線を天井へと泳がせながら肩をすくめてアヒルみたいな表情になる

 「クローゼットなら衣装止め キッチンなら水止め そして…」

 沙織は香織の座っているベットを指さして

 「ベットが整理できてないと寝床止めってお仕置きなのよ」

 香織の顔から血の気が一気に失せていく、自慢では無いが物を片づけると言った類のセンスは香織の男時代には全く欠如していた
 片づけるより捨てる方が早いという父親の影響が強いのだろう、恐れの色を目に浮かべて沙織に聞いた。
 「沙織さん お仕置きで止められちゃったら どうなる… の… ??」
 最後は消え入りそうな声だ、沙織はう〜ん…という表情で答える
 「衣装止めなら身につけて良いのは着衣は無し 水止めはキッチン使用禁止 寝床止めだと床で寝るようね」

 フワッと意識を失いそうになる香織は必死で意識を繋ぎ止めた、そしてその経験があるか沙織に尋ねる
 「私?私は…一回だけ有るけど…寝床止めだったけど…」そう言って沙織はペロっと舌を出して笑った。
 「雅美姉さまに一晩ご奉仕で許してもらえたわ 」
 そう言ってあっけらかんと笑った、ご奉仕って…やっぱり… 、上手く考えがまとまらずイメージだけがグルグルと頭の中を廻り始める。
 クローゼットを片づけながら沙織は話し続ける
 「やっぱりね、片づける、整理整頓するって女の仕事なのよね だから徹底的に躾けられるんだって それが当たり前だって体に教え込むんだってさ」
 そう言いながらさっきまでゴチャゴチャだったクローゼットが綺麗に片づいた。


 


 「これでよし!」パンパンと両手をはたいた沙織は鏡を見て腫れが引いている頬を確かめるとおもむろに着替え始めた、今まで着ていたブラウスを脱いで下着姿になった沙織を香織は足元から舐めるように見つめた。
 自分に負けず劣らずスレンダーな体、香織よりもやや小振りながらバランスの良い胸、そして何より肩のラインが綺麗な後ろ姿… 香織の口から無意識に言葉が漏れる「沙織さん 凄く綺麗・・・」
 沙織はビックリして振り返ると困惑したような表情を浮かべた、Tシャツで隠していた胸回りを露わにして微笑んだ
 「ホントに? 香織はホントにそう思う?」香織はその笑みの意味が判らず同じように笑みを浮かべて頷いた。

 「うれしぃ…」沙織は実は泣き虫らしい、香織はやっとそれに気が付いた、沙織はショーツだけの姿で香織に近付いて、横に座った
 「ねぇ おねがい さおり って呼んで お願いだから」そう言って沙織は香織の肩を抱いた、香織は黙って頷いた、沙織は嬉しいそうに額を香織にくっつけて言った「仲良くしようね」

 "ナカヨクシヨウネ"香織はまだ言葉の意味を理解できていなかった、しかし立ち上がった沙織はTシャツを着ると引き出しからエプロンを出してドアへと歩いていった。
 「どこへ行くの?」香織は脅えたような声で聞く「大丈夫、夕食当番だから行ってくるね、まだ少し休んでいて」そう言って嬉しそうに部屋を出ていった。
 香織は言われるがままにベットに横になって毛布を被った、カプセルから出てきて…部屋に案内されて…倒れて目を覚まして…、そして沙織を見つめてしまった。
 順番に出来事を整理していたが段々眠くなっていった、窓の外は夕暮れ時の空が赤く光っている今日はもうすぐ終わるのだろう、香織は漠然とそう思っていた。
 しかし、沙織の残り香があるベットで眠りに落ちる寸前に香織は気が付いた、沙織はどこで寝るんだろう・・・・
 その答えが出る前に香織は眠りに落ちた。


 カラ〜ン カラ〜ン カラ〜ン ・・・・・
 遠くで澄んだ鐘の音が聞こえる…
 しばらくしてガッシャっとドアの鍵を開ける音が響いた、スサスサスサ・・・
 衣擦れの音と静かな足音、誰だろう?
 そーっと毛布を降ろしたら沙織が立っていた。

 「あ ごめんね 起こしちゃった?」
 「うん 大丈夫 先の鐘の音で目が覚めていたから」

 そう言って香織は身を起こした、眩暈の症状は全く感じなかった。

 「もう大丈夫なの?」沙織は香織の顔を覗き込むように見つめる、香織はにっこり微笑んで頷いた。

 「そう! よかったぁ〜 ず〜っと心配してたんだよ!」

 沙織は急に声のトーンがあがって元気になった、そして部屋の灯りをつけた。

 「あ ホントだ 顔に赤みが差している」

 沙織は鞄の中から小さな包みを幾つか取り出してベットの隣の小さなテーブルに並べた。

 「香織 食欲はある? 喉は渇いてない? 朝から何も口にしてないでしょ」

 そう言われて香織は気が付いた、今日一日飲まず食わずで過ごしていた、そして同時に今日一日全く…
 トイレに行っていない… そう、体内から何も出してすらいないことに気が付いた。

 「食欲は… 無いなぁ…」自分でも不思議だった、しかし、沙織はにっこり笑うと包みの封を開けて中から紙パックの食品を幾つか取り出した。
 グレープフルーツの画の描いてあるドリンクだろうか、別のパックには桃の絵が描いてある。

 沙織は桃のパックにストローを指して香織に差し出した、鼻が敏感になっているのだろうか、香織はすぐに桃の香りを識別できた。
 「はい 飲んでみる? 少しずつだよ 少しずつ口に含んで味を感じるか試して見て」沙織は柔らかな微笑を添えた。
 香織はそっと手に受けてストローを口へと運ぶ、沙織は心配そうにそれを見ている、カプセルから出てきた赤子の食い初めと同じだ。
 彼女の体がそれを受け付けるかどうか、実は凄く深刻な問題なのだけど沙織はなるべく表情には出さないように見つめていた、勿論、香織は既にそれに気が付いているのだが…
 ストローをそーっと吸い込んでみる、たったそれだけの行動が酷くもどかしく感じた、何年も食事をしていない人間はこんな状態なのかもしれない。
 香織の口の中に液体の感触があったやや生ぬるい液体、味は…そう思って飲み込んだ。


 「あ… 桃の味がする! 香りもする! おいしいよ!! 沙織 おいしい!」

 香織は無意識に沙織と呼んでいた、沙織は涙目になって見ている、今日何回目の涙目だろう、香織はにっこり微笑んで桃のドリンクを飲み干した、胃の中に液体の感触があった。
 そして文字通り呼び水状態のなった胃袋がグーっと音を立てる。

 「香織のおなかの音、おならみたーい」きゃっきゃ言って沙織は笑っている、香織は恥ずかしそうに顔を赤くしてはにかんでいる。
 「今度はこれを食べてみる? これは赤ちゃんの離乳食にも使われるんだって 宇宙飛行士が食べるものも基本的に同じだそうよ」
 そういって取り出したのはペースト状になったチキンと豆のパックだった、香織はそれを受け取るとパッケージをシゲシゲと眺める、赤ちゃんを抱えた女性宇宙飛行士がスプーンですくって食べている絵だ。
 香織はそっとパッケージの蓋を開ける、中には茶色と肌色の中間色になっているペースト状の物が入っている、本当に赤ちゃんの離乳食そのものだ。
 パッケージの裏側に張り付いているプラスティックのスプーンを取ってすくってみた、ヨーグルトのような柔らかさだ、口の前まで運んできたらローストチキンの良い匂いがした、思わず口の中によだれが出てくる。

 「良い匂いだね」そういって香織は一気に口へと運んだ、チキンと豆のフレーバーが口内一杯に広がる、噛むことも無く下の上で自然にとろけて行くペースト食品の食感が新鮮だった。
 沙織は嬉しいそうに一部始終を眺めている、香織はそんな事を気にするそぶりもなく一気に全部食べてしまった、スプーンを口に咥えたままで沙織に眼をやる、もっと欲しいと眼が訴えている。
 しかし、沙織は意地悪そうに笑って言った、「今日はここまでね いっぺんにあんまり食べると体が受け付けないから」そういってゴミをゴミ箱へと片付けて部屋を整理し始めた、香織は立ち上がって部屋を見回す、自分が出来る仕事を探すために。
 

 手際よくテキパキと片付けていく沙織を見ながら自分がここまでになるだろうかと段々心配になっていった香織だった、しかし、思案するまもなく沙織は作業を終えて服を脱ぎ始める。
 Tシャツとショートパンツを脱いで下着姿になった、つんと突き出たお尻がセクシーだ、ブラジャーを外してクローゼットからパジャマを取り出すと頭から被ってお着替え終了、香織は呆然と眺めていた。

 「あ そうだね 香織ちょっと来て」そういってクローゼットの扉を全部開けた、「ここは下着とソックス」「こっちはブラウスとかパンツ類 あと スカート」「こっちは上着と…」「あと正装用のブレザーね」
 香織はあっけに取られた、自分の分が支給されると思っていたらそれが一切無かった、それどころか沙織と共用にされているのだった、そういえば体のサイズもスリーサイズもバスと以外は大して変わらないのに気が付いた。
 沙織は見透かしたようにコケティッシュな表情で言う「香織びっくりしてるでしょ 私も最初びっくりしたよ! でも、すぐ慣れるよ」「ほら 着てるもの脱いで あ ブラ付けっぱなしで寝てたの?苦しくなかった?楽になって 」
 そういって沙織は香織を剥き始めた、今日2回目の皮剥きだ、既に手馴れた手つきだと思ったけどされるがままにした、沙織はクローゼットから新しい下着とパジャマを取り出した。
 「はい、ショーツは変えようね 気持ち悪いでしょ? パジャマは… グリーンね さっきまでのワンピース姿 緑で似合ってたもの!」
 はいっと渡されて香織はどうしようかモジモジしていた、沙織は半分笑いながら小声で言う「女の子同士だから遠慮しないで着替えちゃって」、そう言われて香織は着替え始めた。
 ブラジャーのホックを外しショーツを下ろす、うっすらと緑色の染みがショーツに残っていた、おしっこを漏らしたのかと驚いたが沙織は素早くショーツを取ると染みをじっと見ている
 顔から火が出るほど恥ずかしかったので素早くパジャマを着て沙織からショーツを奪い取った
 「駄目だよ 恥ずかしいじゃん… 沙織ちゃんのいじわる!」香織は軽く半べそ状態になっていた、沙織は少しびっくりしたものの香織の隣に立って方をそっと抱き寄せてやさしく諭すように話し始める。

 


「香織ちゃん 落ち着いて聞いてね そのショーツに残ってるのはオリモノって言うの おなかの中の状態を知るのに最適なのよ お漏らしした訳じゃないから安心して…」そういって香織の頭に自分の頭をくっつけた。
 「私たちのお腹には新しい臓器が出来たの わかるでしょ 子供を宿すための臓器 そこはね 実を言うとカプセルの中では造りきれないの」沙織の手はそっと香織の手を包んでいた、そしてやさしく力を入れて隠しているショーツを広げてしまった。
 真ん中部分のやや緑がかった粘っこい物が付いている、なんともいえない生臭いにおいがする、しかし、不思議と嫌だとは思わなかった。
 「お腹の中にケーブルが沢山入っていたでしょ アレはお腹の中の新しい臓器がちゃんと出来たか監視していたのよ そして ある程度出来上がったら余計な物を吸いだしていたの」
 「カプセルから出て空気に触れて今日一日過ごして、そしてまだ少し残っていた物が出てきただけだから 心配しないで 」

 香織は目を閉じて沙織の言葉に聞き入っている。

 「たぶんだけど もう少ししたら今度は生理が来るよ…」その言葉で香織はビクッとした、生理…、生々しい響きだった、自分が女性に変わった事を嫌でも認識する物がもうすぐ始まる…
 後戻りできないところまで来てしまったんだ…そう思うと涙が自然に溢れた、沙織は優しく抱きしめて言葉を続ける「私もそう 雅美姉さまもそう 宮里先生もそう」「そしてあなたも… 香織ちゃんも 女の子だよ」

 「そういえば… さっき香織ちゃん じゃん!って言ったよね」香織は意味が分からない、沙織は一気に続けた「香織ちゃん 関東地方南側の出身なの?」「横浜とかのほうでしょ なんとかじゃん!って話をするのって」
 そういって沙織は笑う、話題を変えるのに必死なんだろう、香織は空気を察して返す言葉を捜す、こういう部分で相手の仕草や態度から空気を読む能力は香織のほうが上のようだった。

 「沙織ちゃんするどい 私は関東南岸の…」そこまで言ってそこから先がなぜか出てこなかった、必死で自分の育った家を思い出そうとして、家も住所も街の景色も思い出せなかった、それどころか生まれ育った地域の情報が全く思い出せなくなっていた。
 あれ…?おかしいな… なんでだろう… 香織はうつむいて考え込みだした、沙織は言葉を待っている、しばらく沈黙して香織が割きに口を開いた「ごめん そこから先は… 思い出せない」
 沙織はなぜか何ら疑問を挟む事が無かった、それどころか驚くべきことに沙織も自分の記憶の一部がすっぱり無くなっていると話し始めた、それはある意味で香織より深刻だった。

 「やっぱり香織ちゃんもそうなんだ 実は私も生まれ育った家とか街とか全然思い出せないの それどころか… お父さんお母さんの顔も思い出せないの 家族が全然出てこないの」「ただ一つだけ覚えてるのは黒い大きな犬が一緒に部屋の中に居た事だけ」
 そういって沙織は言葉を飲み込んでしまった、重苦しい空気が流れる、ずいぶんと二人で肩を寄せ合ったまま黙り込んでいた、沈黙の中で沢山の会話をしているようだった、何となく沈黙の中に不思議な一体感を感じていた。

 沙織はやっと言葉のきっかけを探し出したかのように口を開いた「香織ちゃん もう寝ようよ 明日は大変だよ」そういって沙織は香織の手から下着を取ると床において方を抱いたままベットに横になって毛布を引き上げた。
 香織は沙織に抱きしめられたまま一緒に横になった、毛布とベットから沙織の匂いが漂う、そして目の前には沙織本人が横たわっているのだ、はたから見れば狭いセミダブルのベットに女の子が二人で抱き合って寝ている、なんとも贅沢な光景だった。



 しばらくして沙織は香織の僅かな異変に気が付いた、香織が段々息苦しそうにし始めたのだ、何となく表情がトローンとしている、眼が虚ろだ、もしかして…と思ったけど、どうやらマズイ状態のようだ、原因は…勿論そそっかしい沙織にあるのだけど…

 「香織ちゃん 大丈夫? ごめんね 汗をかいたままだった…」香織は既に虚ろな目を潤ませて微笑んでいる、そして…香織は自らの意思とは関係なく体中が火照り始めてるのに耐えられなくなってきていた、股間の…女性器がヒクヒクと動いている。
 「大丈夫じゃないよね… 苦しいでしょ…」沙織は片方の手を毛布の中へと突っ込んで…既に虚ろな表情の香織のヴァキナへと伸ばした、香織は目を閉じて甘い吐息を搾り出す、なにか理性のタガが飛んだような放心状態にも近かった。
 沙織の指が一番敏感な部分に滑り込んでいく、香織は自分の胎内への入り口をもてあそぶ沙織の指がもどかしかった、そして背骨を突き抜けて脳に襲い掛かってくる快感の波に包まれていた。

 「さっ… 沙織ちゃん おねがい お願いだから もっと… もっと… もっと… して…」そこまで言って香織の背中が弓なりに曲がった、声にならない声で甘い吐息と一緒にワナワナと震えている。

 沙織はショーツに突っ込んだ手の指で香織の敏感な割れ目部分を行ったり来たりして弄っている、時々指先が小陰唇の内側にヌルっと滑り込んで香織はビクン!と体を伸ばしながらもすぐに腰を動かして一番気持ちのいい部分を自ら探し始めた。

 「ごめんね香織ちゃん 私たちはね 汗の中のフェロモンに凄く敏感に反応するの 男の子でも女の子でも 汗の中のフェロモンを敏感に感じ取って… 理性を失うような生き物にされちゃったの だから …」

 沙織の指も既に理性の押さえが効かない状態になり始めた、快感の波に包まれる香織の体から催淫物質を沢山含んだ汗が滲み始めていた、世の男を捕まえて理性を失わせ…効率よく子種を吐き出すように…
 少しでも人口を増やすために効率よく新しい命を作るために、そのために自らの意思とは関係なく女性化されてしまった子供達の体に与えられた強烈な武器、匂いは鼻の粘膜からダイレクトに脳へと作用する唯一のものなのだ。
 香織のもっとも敏感になった部分を沙織が愛撫する事によって、二人は深い深い奈落のそこに落ちていくように快感の波に包まれていった。

 カプセルから出てきて最初の夜にTSレディの生涯が決まると言われているが…
 38号室を監視するカメラ越しに二人の少女の戯れを眺めていた宮里は満足そうな笑みを浮かべてゆっくりとコーヒーを飲んでいた…
 催淫成分を唯一阻害するコーヒーカフェインのたっぷりと入ったレギュラーコーヒーを飲みながら大きなファイルを開いて初日と書かれたページに何かを書き始めた。

 …香織さん もう 引き返せませんよ 沙織さんの部屋に入れたのは正解でしたね フフフ…

 コーヒーカップの中身を飲み干して宮里は席を立った、拍子に川口香織と書かれたファイルを小脇に抱えモニター室の明かりを落として部屋を出る。
 38号室の二人は毛布の中で相手の体をまさぐり続けていた、共に汗の中の催淫物質分泌が止まるまで、絶頂を越えて満足するまで、満足して眠りに落ちて、長かった一日が終わるまで…


 −了−




 『年齢偏差解消 および 総人口維持を目指す暫定無期限特別立法』

 講義室のホワイトボードにそう書いて講師はこっち側に向き直った、チョークの粉が付いた指先を白衣の裾で拭き講義室を見回す。
 全員お揃いのセーラー服に身を包んだ女の子が真剣なまなざしでそれを見ている。
 講師は指示棒でホワイトボードを指しながら解説を始めた。

 「一般にTS法と呼ばれている法律の正式名称はこうなります、長ったらしいものですからTS法と呼ばれますがね…」
 「暫定無期限としている通り、本来は目的を達成したあとで効力を失う時限立法です」
 「ただし この法による大幅な人権侵害を伴った特別措置」
 「つまり あなた方のように性転換を強制してまで出生率を上げる措置をとる以上は最後まで面倒を見る必要があります」

 講師はそこで再びホワイトボードへと向きを代え綺麗な字でさらさらと書き始めた。

 1:特別立法における被験者の義務と責任と権利の保障
 2:特別立法による被験者の生涯にわたる保護
 3:特別立法での税制上および福利厚生における優遇措置

 「ここから先は非常に重要な問題になります」
 「そしてこれはあなた達被験者の義務でもあり権利でもある選択権行使の担保になります」

 「いいですか? 非常に重要です 間違った使い方をするとあなた達が選んだ相手…」
 「つまり この法律における交配行為対象の人権をも奪い取る危険性があります」

 そう言って再び黒板にホワイトボードの黒い文字が増えていく。

 1:被験者は交渉対象となる人物に対し明確に性行為の同意を伝えなければならない。
 2:被験者の選択した交渉対象の拒否は可能な限り尊重しなければならない
 3:被験者の交渉対象に関する要望は交渉対象より被験者の要望を無制限に優先とするが、授産の目的を失ってはならない。

 「表現が分かりにくいですね 分かりやすく説明するには相手の立場から見た表現が手っ取り早いです」
 「要するに あなた達の交配相手 性行為の相手はあなた達が直接指名する権利を持っています 指名された側は拒否できません」
 「そして 行為自体は徹頭徹尾 あなた達の要望が優先されます 何時どこでどうやって です 好きなように出来ます」
 「ただし それは… あなた達は子供を生む事が義務なのです ですから避妊の要望などあってはならないのです」
 「それらが管理官によって摘発された場合 非常に残念ながら… あなた達の選んだ相手が一方的に断罪されてしまいます」



 講師はもう一度講義室を見回したあとで薄笑いを浮かべながら言葉を続けた、今まで無表情だった講師の表情あまり気持ちの良いものではなかった。

 「人間関係と言うものは不思議なものです 水と油などと表現するように どうしても無意識に避けてしまう人が世の中にはいるのです」
 「しかし だからと言って その人が嫌いだからと言って管理官の眼を上手くごまかして相手を罠に嵌めたらどうなるでしょう?」
 「自分には苦手なその人物も自分以外の誰かには相性の良い人物かもしれません」
 「ここに居るあなた達はみんな家族です 特別法によって過酷な義務を負ってしまった特別な人たちです」
 「言いたい事も快く思わない事も いろんな事を思うでしょう でも 自分以外のTS法被験者を大事にしてあげてください」
 「そうすれば自分以外のTS法被験者から自分が大切にされます 思いやりの心を持ってください」

 講師はホワイトボードを裏返し真っ白な面を用意した、講演台のスイッチを押すと天井からプロジェクターが下りてくる、まばゆい光がホワイトボードに注がれ画像が浮かび上がった。

 「これは過去実際にあったケースです TS法は最初から完成された法律ではありませんでした」
 
 そういって講師は画像を次々と変えながら一気にしゃべり続ける。
 TS法初期段階では24時間で性転換が行われ生理受胎能力が安定しないままに学園へ送り込まれた事、性行為の直前に薬剤を母体へ投与して強制的に排卵させ受胎させた事。
 それに伴う先天性異常児の誕生が相次いだ事、また、母体の負担が大きくTS法被験者の義務達成後平均寿命が15年程度だった事。

 あまりに過酷な運命がTS法の改正論議を白熱させ、それに伴いこのような施設が全国に数箇所設置され自然排卵が出来るようになるまで時間を掛けるようになったこと。
 また、TS法の影の部分が嫌でも取り上げられた、25歳までに4児を設けるためアングラの受胎産業が横行した事や、TS不能者と呼ばれる女性に興味を示さなくなってしまった男性の誕生などだ。
 そして被験者の交渉対象となる子供達も精神が未熟故に自制が効かず暴走し、強姦行為に及んでしまった結果がどうなったのか…などなど。

 講義室は静まり返っていた、たった数時間の間に法律上の知識を覚えろと言ってもなかなか難しい事だ、弁護士でも目指すような秀才ならともかく、彼女達は女性に生まれ変わって1年も経ってないごく普通の子供達なのだ。
 しかし、そうは言っても時代の要請は切羽詰っている、2050年から始まったTS法による特別措置も既に30年を経過している、彼女達は法整備の進んだ現代で被験者となった事を感謝するだろうか…
 講師は講義室の椅子に座る彼女達を見ながら複雑な感情にかられていた、なぜなら、講師の女性自身が2073年度のTS法被験者なのだから。


 「さて、義務と権利に関する部分はひとまず終わります 次はあなた達の人生についてです」

 講師は再びスイッチを操作した、ピクチャーサインを使った分かりやすい図が表示される。

 「いいですか? TS法によりあなた達は20歳までに2児を出産しなければいけません」
 「そして出来るなら25歳までにあと2児、つまり10年で4児を出産する事が望ましいです」
 「2045年度のデータですが、この時点で女性一人当たりの出産率は0.5を割り込み0.48になりました、つまり女性4人をもってして二人しか子供が生まれなかったのです」
 
 「あなた達の先輩方の身を削る努力によって2075年度では出生率が2.24になりました、速報値で正確ではありませんが2079年では3を越えました。
 「TS被験者の平均出産数は昨年度までの平均で4を越えています いうなれば… 目標達成は案外簡単と言うことですね」

 「4児以上を設けた場合 あなた達はTS法における褒章的最恵待遇措置と言う扱いになります」
 「税金を納める義務がなくなります これは一部の受益者負担税を除きすべての税金が免除になります」
 「国公立機関や施設の利用料もすべて無料になります また 一部の例外を除いて多くの企業で優先就職措置が受けられます」
 「希望すればTS法に関連する機関や施設への就職も出来ますし 育児機関での保母さんも出来ますよ」

 「そしてこれ以外にも多くの特別な権利が生まれますが… まぁ段々そのありがたみが実感出来るようになります まずは目標達成を目指しましょうね」

 そこまで言うと講師はホワイトボード脇のスイッチを押して文字を消し去ってしまった、講義室の中に外からの光が入り込む。

 「はい 今日の講義はここまで さぁ 食事にしましょう」

 生徒となっていたTS法被験者の女の子達が外へと歩いていく、どこにでもあるような学校の一シーンだが、その中身は大きく違っていた。
 疲れきった表情の香織はボーっとしたまま椅子に座っていた、講義室の中がほとんど居なくなっても立ち上がれなかった、ある意味であまりにショッキングな講義だっただからだろうか…
 心配そうに沙織が覗き込む「香織 だいじょうぶ? 疲れた? メディカルルーム行く?」心配そうに見つめる沙織へ微笑みを返し香織は立ち上がった。
 「大丈夫だよ ちょっと疲れただけ だって…」そういって恥ずかしそうに下を向いたままボソッと言葉をつなげる「昨日の夜の沙織 凄かったんだもん…」
 沙織は満足そうに微笑みを浮かべつつ意地悪に言葉を返す「だって香織は…全部分かっていて階段2往復もしてからベットに飛び込んできたでしょ 自業自得じゃない…」
 二人は無言で笑ったあと食堂へと歩いていった、長い長い一日を終えてから既に2週間、時計もカレンダーも無いこの施設の中では日付の感覚が希薄になるように細工されている。
 自立的に生理サイクルを安定させるための措置らしいが、効果のほどは担当者も実際良く分かっていないらしい。


 二人が食堂に着くと既に他の女の子で溢れかえっていた、今日のメニューはチーズたっぷりのシーザーサラダに黒ゴマの風味が効いたパストラミサンド、ドリンクは絞りたての新鮮なオレンジジュースか朝搾乳された牛乳。
 デザートパックはサワークリームとドライフルーツの乗ったクラッカーにイチゴ風味のシャーベットか餡子のたっぷり入った栗ぜんざい。
 食堂の中は既に甘い匂いで充満している、すっぱい匂いが紛れているのは大きな皿に載せられた半分割りされているグレープフルーツの匂いだろうか。

 沙織は香織と一緒にトレーを持ってテイクゾーンを歩いていく、供食担当の女の子がかわいいアップリケの付いたエプロンをしてサラダを取り分けてくれる。
 パストラミサンドのオニオンが苦手な沙織は受け取ったサンドを空けてオニオンを抜いてしまう、それを見て香織は笑っていた。
 「好き嫌いする女は嫌われるんだってよ!」香織の鋭い舌鋒が沙織に襲い掛かる、沙織はアカンベーをしながら応える「たまねぎだけは人間が食べるものじゃ無いわね」
 「そんな事言って せっかく作ってくれた人に悪いじゃん!」「あ! またジャン言葉が出た!」「仕方ないでしょ 染み付いてるんだから…」「染みが付いてるの?」「…沙織の馬鹿!」
 文字にすると険悪なムードだが当人達は笑っている、それどころか周りの女の子も貰い笑いしている、なんとも言えず幸せな光景がそこにあった。

 「沙織!香織!こっちこっち!!」5列ほど向こうのテーブルから手招きする集団が居る、同じ24号煉の女の子達だ、隣の部屋の岬&早百合ペアに向かいの部屋の瑞穂と飛鳥のペア、そして雅美が隣で微笑んでいる。
 沙織と香織は笑いながら小走りで移動する、およそ200人が同時に食事をする食堂なので作りは広く大きい、なるべく埃を立てないように、傍目に美しく立ち振る舞えるように。
 ここの施設ではすべてに女性らしさを求める教育が施される、それはとにもかくにも、当人達が自然に女性であると認識するようにするためだ。
 そして、世に出て行った時にも女性として扱われることに何の疑問も持たなくなるまで徹底して行われる、15年を男として育ってきた彼女達だったが、沢山の女性に囲まれて女性としての扱いを受ける内に感覚が切り替わっていくらしい。
 事実この時、トレーを持って走る沙織を香織はたしなめている、「さおりぃ〜 ダメじゃん! トレー持っていたら走ると変だよ」そういって静々と歩く姿は十分さまになっている。
 二人の会話は下手な立会い漫才よりよほど面白いらしい、岬が椅子を引いて二人を座らせると人差し指で沙織のほほをツンツンする、「香織にまたしかられてるねぇ〜 先輩の威厳ないなぁ〜」周りがどっと笑う。
 香織は笑いながら沙織の耳元に唇を寄せてそっと舌で沙織の耳たぶを舐めた、沙織はゾクっとしたような表情を浮かべて香織の手を握る「香織 だめ!」周りは笑っている。
 眼を細めた香織は沙織にも聞こえるように岬に言う「いえいえ 私は愛する沙織先輩の隅々までご奉仕させていただきましたから…」周りはキャ〜っと嬌声を上げて口々に言う「ねぇ こんどルームパートナーをスワップしようよ!」
 どうする?って表情で沙織を見つめる香織、沙織は意地悪な笑顔を見せながら回りに言う「私の香織はダメです! 私だけだから!」「代わりに私が行ってあげるけど どう?」

 一部始終を端から眺めていた雅美は会話の流れが一瞬切れたところで言葉を挟む「早く食事を済ませなさいね そうしないと…」周りはいっせいに雅美を見る。
 「そうしないと 香織は今晩私の部屋にお泊りよ…」雅美はゆっくり舌なめずりしながら香織を見た、それだけでゾクゾクして香織は動きが固まってしまう、沙織は隣から肘で突っつく。
 「もうだめね ロックオンよ とっととご飯たべて午後の講義聞きに行こうね 今夜は香織無しかぁ…」周りに囃し立てられる沙織だったが香織は沙織の心からの寂しそうな表情だけで体が熱くなっているのに気が付いた。

 …沙織は私が好きなんだ




 午後の光が大きな窓から射し込む大講堂の中は思っている以上に暑くはない。
 寒冷地帯に立地する施設であること、周囲の森を抜けてくる風が天然のクーラーで冷やされていること。
 そして何より、汗ばむような陽気になると彼女たちの精神が短時間の安定ですら保てない事などを考慮した作りになっているせいだろう。
 眩しく輝く太陽は明らかに天頂を通り過ぎ遠くの山並みへ向かって高度を下げつつあった。
 日没前の時間を使って大講堂の中に施設内のTSレディが全て集められ午後の講義が行われている。

 「…ですから、女性にしかない器官である子宮や卵巣といった部分の入り口は清潔に保たないといけません」
 「膣内衛生環境の悪化は子宮内環境の悪化です そして様々な女性特有の病気を引き起こします 非常に危険な子宮筋腫や内膜症といった物も感染症からの発展がありえます」

 そこまで言って衛生学の講師は講堂の中を見回したあとで続ける、女性同士の同性愛行為は女性特有感染症の拡大を招く事、そしていとも容易く死を招く危険がある事。
 性行為に及ぶ際の膣内衛生は攻撃的組成の分泌液成分となる、それが相手の胎内に入るとどうなるのか、脅すような言葉が延々と続けられた。

 「女性にはペニスが有りません 当たり前ですね ですから手や指やその他の物で快感を得ようと頑張りますが それを共有すると危険だと言うことです」

 水を打ったように静まり返る講堂の中で香織は沙織の横顔を見ながら考えていた、沙織は私の事を本当に好きなんだろうか、本当に?本当に?本当に?
 二人して狭いベットの中で戯れる夜が沙織を酷い目に合わせてしまうかもしれない、感染症で羅病するとどうなってしまうのか、それを聞いて見たかった。
 でも、沙織に聞いたら怒られるかな…、私が沙織から伝染して羅病したら困るから聞いてるんだって思われたら嫌だな…、絶対嫌だな…、そう思われたらどうしよう…

 どうしよう…
 どうしよう…
 どうしよう…
 そしたら…

 香織は今にも泣きそうな顔で沙織を見つめていた。

 「川口さん! 話を聞いていますか!」講師の鋭い言葉が飛ぶ。
 香織は心臓が止まるんじゃないかと思うほどドキッとして裏返った声で答える
 「はい!勿論です…」周りの女の子がどっと笑う、沙織も笑っている、恥ずかしそうにモジモジする香織を見て講師は言葉を続ける。

 「ではもう一度確認します 非常に重要ですから良く聞いて下さい」

 香織は一言一句聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けた、講師の女性は鋭い視線を香織に向けた後で講義を再開した。




 「まず もっともポピュラーな感染症である性病4種は施設から隔離されます そして 場合によっては廃棄処分となります」
 「いいですか? あなた達一人当たり1000万円以上の経費が掛かるのです そのTSレディが廃棄処分された場合 その費用は親族負担となります」

 「次に危険レベルが比較的高い特定伝染病類のうち 粘膜感染がありえる5種の場合はルームパートナーまで廃棄処分となります」
 「そして 最も危険性が高い重大特定伝染病3種 エボラ出血熱などですね この場合はこの生活棟ごと焼き払われます 中にすべてのスタッフを閉じ込めたままです」

 「皆さん 自分の身と ルームパートナーと そしてここで生活するすべての家族の為に 物事は良く考えてくださいね 」

 講堂を埋めたTSレディ達が無言で頷く、講師はそれを見ながら満足そうに笑顔を浮かべて講義の資料を整理し最後にこう言った。

 「レズ行為に及ぶのは義務を果たした後でも大丈夫ですよ 今のあなた体は大事な仕事前なんですからね はい 今日はここまで!」

 そういって講師は講堂を出て行った、感染症と衛生学の講義はつまり、レズ行為への嫌悪感と背徳感を植えつけるための授業だった。
 そうすれば、彼女達が体の疼きを覚えても自然に女より男を選ぶだろうと言う心理学上の緊急退避経路を作る事に他ならなかった。
 こうしてTS法により望まぬ性転換を行われた男の子達の思考パターンが、出来る限り女の子に切り替わっていくのを本人達に気付かせないように配慮されているのだった。
 思春期の精神構造変革において第一段階で顕著に見られる同性愛傾向を早めに体験させ、初潮が来る前にレズ行為を終わらせ、そしてその後に同性愛を嫌悪するように仕向ける。
 言葉で言い表せば簡単なようだが、実際は監督官を勤めるこの施設の白衣の女性にとって四六時中監視を続けなければならない激務である。

 そして何より、その監督官の多くがTS法により性転換した多くの先達である事を収容されている女の子達は教えられていない、各棟の棟長ですらそうである事も…

 香織は自分のノートをまとめロッカーへと歩いていった、この講義に沙織も出席していたが、すでに受講してあるので半分は聞き流していたようだ。
 眠そうな顔をしている沙織と一緒に歩きながら香織は同じことをずーっと考えていた。
 沙織は私のことが好きなのかな…




 ロッカールームでセーラー服からジャージに着替えて施設内の掃除時間となった、食堂の調理室から良い匂いが漏れてくるのもこれ位の時間帯だ。
 施設の作りは入り組んでいて、施設の処理能力拡大に併せ増築されていった事を物語っている。
 しかし、実際にはTSレディを狙った侵入者、つまり男性陣の落伍者が破れかぶれになって破天荒な行動に及んでも彼女たちを守り抜く構造になっていること、彼女たちが気が付いてないのだ。
 新しく選出されたTS被験者がここへ眠った状態で運ばれてくる時も厳重な警備と偽装によって守られている、この施設は絶望的な現状を打破するための重要な施設でもある。
 しかし、その中に入っているTS被験者達の心の内側だけは…、システムや設備を設計した人間でも伺い知る事は出来ない。

 竹箒で玄関を掃除中での沙織を香織は見つめていた、バケツで濯いだ雑巾を絞りながらその仕草をいちいち観察していた。
 沙織の動きの合間合間に見せる些細な仕草が完全に男の子の仕草ではなく女の子の仕草になっている、振り返り様に髪を抑える仕草も、体の向きを変えるステップの最初は片足が後に下がる様も。
 そして何より、一緒に掃除をしている女の子と視線を合わせる時の首の傾げ方も…
 私の知らない女の子とあんなに楽しそうに話をしてるのに…
 沙織は私のこと好きなのかな…

 沙織の心の内を思って自分の心が震えるのをまだ香織は気付いていない、しかし、男ではなく女としての思考になっている事を本人が意識してしまうと、脳と体から男性傾向が抜けきらないと言うデータがある。
 女性だけの環境で外界適応させてやるとその副産物で男だった頃の記憶を思い出しにくい、政府関係者たちがそう気が付いたのは施設が誕生してからなのだという。
 人口増加プログラムに組み込まれた彼女たちが全寮制の学校に送り込まれ年頃の男達に囲まれたとき、彼女たちが男だった頃の記憶を取り戻してしまうと計画達成が困難になるのだと過去のデータは物語っている。
 理性を飛ばす催淫薬物の投与を行って受胎を行うことは非人道的行為の限界を超える、そう問題提起した善良な一般市民という名の世論が作ったこの施設は、15年分の時間を掛けて作った人格を完全破壊してしまうある意味で恐ろしい収容所だった。
 そこに収容された彼女たちは監督官や施術スタッフ達から工業製品程度の認識でしか扱われていない、そんな酷い現実がその実体である…と、世の善良な一般市民は理解しているのだろうか…

 香織は固く絞った雑巾で窓を拭きながら、透明なガラス越しに沙織を眺めていた。
 私は沙織が好き、優しいから、教えてくれるから、心配してくれるから、大事にしてくれるから…
 沙織は私の事をどう思っているんだろう…




 掃除を終えた香織は一人で棟長である雅美の部屋を訪れた、書架が幾つも並ぶ雅美の部屋は香織と沙織の暮らす部屋より大きくて広々として、そしてちょっとだけ寂しそうな雰囲気だった。
 突然の訪問に驚いた雅美だったが香織の表情を見て、それが心と体の渇きを癒す為では無く、むしろその正反対の理由だとすぐに見抜いた。
 雅美は書きかけのファイルを閉じて書架に収め扉を閉めた、首から下げたネックレスに付いている小さなペンダントトップをキーボックスにかざすと小さな赤いランプが点滅してえガチャリと鍵が閉まる。
 自分の名前が書いてあるファイルがここにある事を香織は初めて知った、しかし、それを疑問に思う心の余裕は香織にはなかった。

 「香織さん コーヒー飲めるよね 私もちょうど喉が渇いたところだからコーヒーを入れようとしていたの 飲んでいかない?」

 そう言って香織はコーヒーメーカーにコーヒー豆を一掴み入れてスイッチを入れた、甲高いモーターの音が響いてコーヒーの強烈な匂いが部屋に充満する、雅美は大きく吸い込むと言った。

 「コーヒーって良い香りよね フフフ」小さく可愛いコーヒーカップに落としたてのコーヒーを注いで香織に差し出しながら雅美は言葉を選ぶように切り出した。

 そろそろ来ると思っていたわよ…、その一言が香織をより不安にしてしまう、良くあることなんだろうか?、恋いに恋する年頃の乙女が抱く感情を昨日今日女性化した彼女たちが理解できるわけがない。
 小さなウェハースのビスケットを二人でモソモソと食べながら黙ってコーヒーを飲んでいた。

 「あの… 雅美姉さま… 私…」「分かってるわ 沙織さんの事でしょ?どう思ってるか知りたいんでしょ?」「そうなんです…」
 香織はうっすらと涙目だった、息苦しいくらいに思っている事を図星で当てられて、しかもそれが事前に予測できていた事に愕然としていた。
 雅美はテーブルに飲み干したコーヒーカップを置いて香織の隣に座った、香織のカップは既に空だった.

 雅美のしなやかで優しい手が香織の頭を抱きしめる、香織は雅美の胸を顔を埋めながら震えていた、雅美の体から"女"の匂いがしているのだけど、それが何であるかを香織はまだ分からない。

 「香織さん あのね…」そういって雅美は抱きしめた香織の頭に頬擦りしながら言葉を紡いでいく。
 「人が人を好きになるのは2種類あるの それは片思いと両思い 片思いはつらいわよ どんなに思っても相手は応えてくれないから」
 「でも 片思いは大切なの あなたが沙織さんを思っているなら 沙織さんはあなたの事をちゃんと思っていますよ」
 「だってあなたを嫌いな人は自然にあなたを避けるでしょう? あなたを避けないどころか同じベットで寝てくれて そして…」
 雅美は抱きしめた香織の額に軽くキスしてから言った「そして… 夜の戯れも一緒に喜びを分かち合ってくれる人があなたを思っていないなんて ありえないでしょ」
 香織はボロボロと泣き始めた、微笑みながら雅美はそれを見ている、優しい微笑みに気が付いた香織はさらに泣いてしまう、声を上げないように嗚咽する香織を抱きしめながら雅美は続ける。

 「誰かは誰かの事をいつも気にしているの 誰かの誰かの誰かを辿って行くと必ず自分に帰ってくるの だって誰からも思われなくなったら その人の存在を誰も気がつかなくなるでしょ」
 「あなたはあなたの周りの人にいつも思われているよ 大丈夫 あなたを見つめている人は必ず居るから 身近にも遠くにも居るから あなたを思う人の思いに応えてあげてね…」

 香織は泣きながら頷いた、雅美は香織のほほを伝う涙を指でぬぐってささやく。
 「さぁ 食事の時間よ 早く行きなさい あなたを思っている誰かが… 沙織さんが心配しているから」

 香織はハッとして立ち上がって駆け出した、ドアの前まで行って振り返り深々とお辞儀をするとかわいらしい笑顔を残して部屋を飛び出していった。

 雅美はゆっくりと立ち上がるとコーヒーカップを片付けながらつぶやく

 「危なかったわね… でも 嬉しくて泣き出すなんて… 精神的にちょっと不安定かしら… もうそろそろ… 立派な女の子の仲間入りね…」

 ニヤリと笑う雅美の笑顔には優しさの類ではない表情の相があった。


 遠い山並みの向こうへ太陽が沈もうとしている時間帯、食堂は既に閑散となりつつあった。
 今宵のメニューだった胡椒のしっかり聞いたペペロンチーノと生ハムの皿からは湯気が失われていた。
 カボチャと生クリームのスープはすっかり冷めてしまい、氷が浮いていた筈のマンゴージュースからは氷のブロックが消えている。
 食堂の入り口で沙織は香織を待っていた、二人分のトレーを並べて先に帰るほかの部屋の女の子を見送って、水が入っていた空っぽのコップを眺めながら、その淵を指で撫でたり小突いてみたり…
 掃除が終わって気が付くと香織は居なかった、雅美姉さまが本当に連れて行ってしまったんだろうか?
 私の大切なルームパートナーの香織を雅美姉さまが…、私のパートナーの…、私の大切な…
 ドス黒い情念にも似た物が沙織の心の内側に溜まり始めていた、私の大切な存在を奪う人は誰だって許さない…、たとえ雅美姉さまだって…

 思いつめたような表情になった沙織はふと入り口に眼をやる、そこには眼を真っ赤にした香織がそこに立っていた、沙織の心は散々に乱れた…

 「香織! どうしたの!! 眼が… 真っ赤だよ」そういって無意識に立ち上がった沙織は走って言って香織を抱きしめた、香織はどうしようか一瞬迷った。
 正直に雅美のところへ行ったと言うべきか、それとも昼間の講義でボーっとしていたので呼び出されて叱られたと言うべきか、それともいっそ転んで頭でも打ったと言うのが言いか…

 「香織… 怪我でもしたの?」沙織は心配そうな顔で見ている、香織は明らかに動揺の表情を浮かべてシドロモドロしている。
 沙織は一瞬で見抜いてしまった、雅美姉さまの所に行ったのが分かった。
 体中から汗ではなくコーヒーの匂いがしているのにも沙織は気が付いた、「…雅美姉さまに相談だったの?」、香織は何か観念したように頷いた。

 「いいよ! 先に食べようよ!冷めちゃったけど香織と食べるとおいしいもの!!」

 沙織は明らかに気丈に振舞っている、きっと傷つけちゃった…
 香織はそう思った、しかし、それを聞くのも何か気が引けたので黙って席に座った。

 「ごめんね… 遅くなって… どうしても相談に乗って欲しい事があって… それで…」
 泣き出しそうな表情で香織はしゃべり始めた、沙織は冷えたスパゲティをフォークでまきながら切り返す。
 「誰だって心配事の一つや二つあるわよ 私だって香織が突然居なくなったらどうしようって思うもの…」
 そう言うと沙織は口一杯にスパゲティを頬張ってモグモグしている。
 その仕草がさっき掃除中に見た女らしい仕草の沙織とあまりにかけ離れていて香織は泣きながら笑ってしまった。
 「香織 早くしないとお風呂が大変な事になっちゃうよ! 早く早く!」
 そういって沙織は食べるピッチを上げた、香織の表情から一気に笑みが消えた
 「そうだ!お風呂!!」
 なにか競争でもしているかのように二人は一心不乱に食べていた、キッチンの中のおばちゃんが笑いながらそれを見ていた。
 勿論このおば様達も…過酷な運命を受け入れ義務を果たし自由となった初期のTS被験者だ。


 ごちそうさまー! 遅くなってすいませんでしたぁー!

 二人はハモッて声を上げて食堂を出て行った、最後のお客になっていた二人が食堂から出て行ってガランとした食堂の明かりが消えた。
 階段を駆け抜けお風呂に到達した時、既に沙織の顔からヤバイ!ヤバイ!の危険信号が出ている、いつもより瞬きが多くなった。
 それはそうだ、汗の中の成分に嫌でも反応してしまう彼女達にとって多数のTSレディが浸かった後のお湯は危険な媚薬そのものだ。
 更衣室で服を脱ぎながら既に沙織の顔は上気し始めていた、香織はさっき飲んだコーヒーの成分が効いているのでまだ多少影響が少ない。
 二人が大浴場に入った時、既に浴室内は精神の安定を保てなくなったTSレディ達の乱交パーティー会場になっていた。

 うわぁ… 香織は一瞬意識が遠くなりかけた、催淫物質を多量に含んだお湯から湯気が上がっている。
 その濃度たるや凄いものだ、隣の沙織は既に甘い吐息になりかけている。
 香織は思わず沙織を抱きしめた、沙織…ここじゃダメだよ…、無意識に出た言葉が沙織の頭の中で響く…、香織は…香織は…香織は…、私を拒絶したの?
 抱きしめた香織の手を握ってその指を口に運ぶ沙織、滑らかな舌使いが香織の心をくすぐる、しかし、香織の指には僅かに雅美の入れたコーヒーの味が残っていた。
 一瞬だけ鼻腔に広がるコーヒーの香り、沙織はそれだけで理性の糸を何とか繋ぎ止めた。
 「香織…シャワーだけ浴びて部屋に行こうよ…」
 そういってフラフラ歩く二人、隣並んでシャワーブロックに入りシャワーを浴びると沙織は体の中が熱くなって行くのに耐え切れなくなりつつあった。
 しかし隣のブロックで香織が使ったボディシャンプーの香り…アロエと抹茶の成分が入ったその匂いには微量ながらカフェインが含まれている。
 乱交パーティーに参加したくないTSレディ達の最後の切り札で沙織はギリギリを保っている。
 どこを見回してもコーヒーの無い環境で雅美の部屋にだけコーヒーがあった事を香織はまだ気が付かなかった。

 風呂場から脱出して更衣室に戻ると沙織の乳首がピンと立っていた、ややフラフラしながら表情は夢見るようだ。
 ブラ無しでTシャツを着ると摺れて痛いから嫌だなぁ、でも、風呂上りでブラ付きは蒸れて嫌だなぁ…、沙織の頭の中はグルグルと回っていた。
 多少マシな状態の香織は沙織を抱き寄せて体にバスタオルを巻き、その上からジャージの上を着せた、トローンとした表情で沙織はされるがままだ。
 「沙織 部屋に行こ!」そう言って香織は歩き出す、バスタオルのワサワサとする肌触りだけで沙織は行きそうだった。
 途中何度も立ち止まって肩で息をしている、すれ違うTSレディ達がご愁傷様とでも言いたげな顔で見ている。
 一日の終わりの風呂が一番のトラップだなんて、なんて洒落た罠なんだろう、そう思いながら香織は沙織の肩を抱いて部屋に戻った。

 ベットサイドで沙織はフラフラしながら服を脱ぎ始めた、トローンとした表情で香織を誘っている、潤んだ瞳で見つめられると香織はドキドキが止まらなくなった。
 しかし、雅美の入れたコーヒーの成分がまだまだ香織の心をつなぎとめている、多少の波風は立つものの理性が引き止めている、越えるに越えられない理性の一線が香織はもどかしかった。
 既に生まれたままの姿になった沙織は香織に抱きついている、戸惑う香織の服を脱がし始めると右の乳房にキスをした。
 「沙織… 沙織… 大丈夫?」香織はシラフに近い状態だった、沙織はそれが段々許せなくなってきている、どうしたんだろう?私の好きな香織は私が嫌いになったの?
 モヤモヤとした思考だが、こういう時の思い込みは非常に危険な結末をもたらす事がある、TSレディの発作的な自殺などはこんなシチュエーションが多いそうだ。
 香織はどうしたらいいのか分からないまま沙織を抱きしめてベットに入った、沙織は何かをブツブツとつぶやいている、香織の心がやっとピンク色に染まってきた頃、沙織の心のモヤが晴れ始めていた。
 今宵も狭いベットの上で二人の少女の戯れが始まった、しかし、その中身はきわめて事務的な気配の漂うものだった…
 沙織の脳裏に染み付いた真っ黒な影、香織は…私が嫌いになったの?、共に力尽きて抱き合ったまま眠りに落ちた二人の心は微妙なボタンの掛け違いを始めていた。



 翌朝、日の出の鐘が朝を告げる。何となく後ろめたい部分を抱えて沙織は目を覚ました、香織は壁を向いて寝ている、いつもは私のほうを見て眠っているのに…
 一度灯った疑念の炎は心の中の平穏な部分まで焼き払ってしまう、出来る限り優しく手を伸ばしたつもりだったのだけど、沙織が香織の肩を揺らした時に香織は無意識のうちに肩を払った。
 香織…香織…香織… どうして? 
 寝起きの沙織は既にパニック状態になっていた、「どうして!」金切り声に近い声で沙織は叫んでしまった。
 香織はびっくりして目を覚ました「沙織…どうしたの?」
 のっそりと起き上がった寝起きの香織が酷く不機嫌そうな表情に見えた沙織はもう何がなんだか理解不能になってしまっていた。
 どうして?どうして?どうして? 
 涙目になった沙織はありあわせの服を着て部屋を飛び出していった。
 事情が良く飲み込めない香織は呆然とそれを見送るしかなかった。

 香織がカプセルから出てきて16日目の朝は波乱含みのスタートになった。


 昨日までの快晴の空はどこかへ旅立ってしまったようだ。
 どんよりと低く曇った空は重そうな雲に覆われて今にも降ってきそうな状態だった。
 こんな日は鐘の音もキツク響くらしい、沙織は一人サロンで外を眺めていた。
 私の大切な香織、どこへ行ってしまったの…

 雅美の管理しているファイルには24号棟のTSレディ全員を観察した分析が書き込まれている。
 TSレディの監督官資格を持つ雅美が見立てた沙織の精神安定性はB1クラスだった。
 最高の3Aから順に2A、A、B1、B2と下がっていき、問題のある子にはCが、きわめて不安定な子はD、精神疾患を患っていると判断されるEから下は廃棄の対象となる。
 女性である以上は避けられない生理前の情緒不安定に対する耐久性というのが精神安定性を評価する基準となっている。
 普段と変わらないレベルで精神の安定を保っていればB1以上の評価になる筈だ。しかし、今現在の沙織を雅美が見立てたらDのしかもマイナスレベルだろう。
 人前でも大声で喚いたり泣いたり平気でしてしまうDクラスだが、沙織は勢い余って香織の首でも絞めてしまいそうだ。
 他のTSレディに直接的脅威となりうる場合は施設から出されて処分される可能性が高い、きわめて"高価な存在"になった彼女達を守るためとはいえ、その運命は過酷過ぎる部分も多い。

 香織は部屋を綺麗に片付けてクローゼットを整理し、キッチンを掃除してベットを綺麗にメイクしなおした。
 いつもなら沙織と二人で仲良く笑いながら行う作業が今日は酷く孤独だった。
 雅美の見立てた香織の情報分析力は3A++、IQ換算で軽く200を越える子がおよそ2Aレベルなのだから3Aたるや探偵か刑事にでもすれば現場で役に立つレベルだ。
 しかも香織はその3Aに+が2つ付く、3Aクラス3人分と評価される彼女の分析力は自分以外のことになると素晴らしい能力を遺憾なく発揮する。
 そう、自分以外と断りが入る最大の理由、それは香織が折り紙つきの天然系だということだ、自分が勘定に入った状況分析は5ランク落ちというのが定説らしい。

 事実、香織は沙織の不安定になっている要因を生理前症候群(PMS)による気分の落ち込みと精神的不安定ではないかと判断した。
 朝食をとるためにジャージへ着替えてサロンへと移動する途中で香織は考えた、PMSであれば…ハーブティね、チェストツリーのお茶を淹れて持っていこうかしら…
 ブツブツとつぶやきながらサロンへ行ったら沙織は呆然と外を眺めていた。

 「沙織 風邪引くよ そんな格好で座っていたら良い女が台無しよ」香織は柔らかく微笑んだ。
 「香織… いいよ 私は… 良い女でなくて…」沙織はうつむいて震えている。

 香織は持ってきたカーディガンを沙織の肩に掛けて立ち上がるように促した、沙織はよろけながらも立ち上がる、香織の差し出した手を打ち払って一人歩きだした。
 その仕草を見ながら香織は内心ちょっとムッとしている、でも、彼女はPMSなんだと思って食堂に入り二人分の朝食を用意して沙織へと持っていった。
 今朝のメニューはホワイトアスパラの乗ったグリーンサラダにゆで卵、トーストとボイルウィンナー。
 ビタミンの不足は女性にとって良い事では無いので、100%トマトジュースかカボスジュースが添えられている。
 香織はキッチンのおばちゃんにお願いしてチェストツリーのハーブティを貰ってきた、沙織のトレーにそれを乗せて運んでいく。
 いつもと違う席で沙織は膝を抱えてうずくまっていた、小刻みに揺れる肩が寒々しいほどだ。
 香織は精一杯の笑顔で沙織にトレーを差し出す、沙織は香織の顔を見ないでトレーを受け取った。


 憔悴しきった表情の沙織を見て香織はただ事ではないと思い始めていた、まさか自分の立ち振る舞いが沙織を苦しめているなどと露にも思わぬ香織の分析はあらぬ方向へ動き出す。
 チェストツリーの独特な匂いが食堂に流れていく、PMSでおかしくなり始めていた何人かのTSレディが同じお茶を飲み始めた。
 精神安定効果の強い成分で幾分か沙織は冷静さを取り戻している、香織は自らの分析が当たったのだと内心ほくそえんだ。
 少しずつ赤みの戻ってきた表情を浮かべる沙織はやはり外を見ていた、香織はその横顔を見ている、沙織の目が何かを追っていると気付いて外を見たら遠くに見た事の無い電車が走っていた。
 段々とその列車が近づいてきて森の中のトンネルに消えていく、二人は食事の手を止めてそれを見ている、アレが何か沙織は知ってるだろうか?
 香織は沙織のほうに視線を向ける、沙織の目には涙が溜まっていた、なんだろう?でも、今は聞かないほうが良い、沙織は不安定だから。
 初潮の来ていない香織は知識の上だけで沙織を気遣っている、沙織は知っている、あの列車が何であるか、それが何を意味するのか、近いうちに起こる出来事も…

 食事を終えた頃、施設の中に放送が響く。
 ピンポ〜ン… こちらは管理課です これより放送する指示に従ってください。
 21号棟の先住者は4号棟検査室へ、21号棟新人は5号棟検査室へ移動してください…
 22号棟、23号棟は各部屋、およびサロンで待機してください…
 24号棟の先住者は11号棟第2検査室へ、24号棟新人は17号棟精密検査室へ移動してください…
 25号棟の・・・・・・・・

 24号棟3階8号室の先住者は沙織、新人は香織、今日は二人分かれて検査になった。
 今日は何の検査だろう?前回は病原菌抗体検査、その前は術後検査だった、今日は?
 何となく不安になって沙織に聞こうとしたら、沙織はスッと立ち上がって歩いて行ってしまった…
 香織はこれ以上なく不安になりながらトレーを片付けて指示通り17号棟へと歩いていく。
 魔の17号棟と噂されるここは何の設備があるのか、新人には絶対知らされない暗黙の了解があるらしい。
 一番最初に施設内を教えてくれた時も、風呂上りに施設内を歩いて涼んだときも、沙織はここだけは教えてくれなかった。
 その時が来たら嫌でも分かるよ…フフフ! 内緒!と言って結局教えてくれなかった。


 香織の足取りは重かった、不安に押しつぶされそうになりながら気丈に歩いたつもりだった。
 しかし、渡り廊下を越えて見上げた17号棟は見るものを不安にさせるだけの威容を誇っている。
 ガラス張りや白系のペイントが施された施設の建物群にあって、唯一黒系の仕上げとなっている17号棟は遠めに見たら黒い墓標にも見える。
 事実、この中で適応するべくトレーニングしているTSレディがここに入ってから出てこなくなったという話は沢山聞いている。
 新人を脅かす為の見え透いた嘘だったと信じたいが、いざ自分の番となるとやはり怖いのだろう。
 社会に出て最初の一人目を指定する時の恐怖に負けないように、精神安定性を確かめる意味もあるのだと香織は考えた。

 17号棟入り口の受付で24-38の川口です…とチェックインを行う、大きな扉が少しだけ開いて中に入った。
 建物の中も黒を貴重とした冷たいイメージのデザインになっていて、受付奥の小部屋には更衣室が設置されていた。

 香織さ〜ん 川口香織さ〜ん 入ってくださ〜い 

 受付から案内をするべく付いてきた女性に呼ばれて中に入ってみると、そこには担当の宮里が白衣姿で立っていた。
 約2週間ぶりの再会だったが、懐かしむ間も無く隣の女性に薄緑色の大きなポンチョを渡された、今着ている物を全部脱いでこれを着てください。
 きわめて事務的な口調で指示されて香織は着替えた、周囲には宮里とその助手が2名、案内の女性が一名、4人の女性に監視されている状態で裸にされポンチョを頭から被った。
 この服には首を通す穴以外の穴が一つも付いていない、自分が何をされるのか不安で香織は今にも泣き出しそうだ。
 宮里はにっこり笑って言う、緊張する必要は無いですから安心して、今からあなたの体が外界に出られるか検査するだけです。
 そういって案内の女性を促して検査室に香織を運び込んだ。

 検査室の中を見た香織は凍りついた…、女性診察台がそこに鎮座していたのだった。
 宮里は笑顔で指差した、その笑顔に優しさはカケラも感じられない、余計な手間を取らせるなとでも言いたげな雰囲気。
 意を決して香織は診察台へ上がった、案内の女性が香織の手足を診察台に拘束し腰にベルトを掛けた。
 この時点でやっと香織はすべてを理解した、自分の置かれている立場が何であるかを痛いほどに理解した。
 私はただの道具なんだ…子供を生んで人口を増やすための道具なんだ…
 政府の関係者にしてみれば、私は人形と一緒…

 一筋の涙が香織のほほを伝って落ちる、これ以上無いくらい惨めな気分になってされるがままに任せざるを得ない自分に絶望した…

 準備良し!と案内の女性が言う、宮里は隣に立っていた助手に何かを指示する。
 助手は隣の部屋からキャスター付きテーブルを押してきた、手術道具のような物が沢山並んでいる、なにをされるんだろう?
 香織の不安がピークに達した頃、タオルで手を吹きながら白衣を着た別の女性が部屋に入ってきた。

 「はい 香織さんね いい名前ね 香織 うん 素敵な名前だよね さぁ ちゃっちゃと済ませて次に行こうね!」

 そういってその女性は私の前に座りボタンを押す、診察台は高くなったり向きを代えたりしながら女の子にしかない穴を…
 膣口を女性に向けて止まった、女性が指に液体を掛けている、糸を引くような粘性の高い液体、そしてそのまま…香織の膣内に指を突っ込んだ。
 香織の背中がビクンと反応する、どんなに頑張っても口を閉じる事が出来ず、中を弄り回されると甘い吐息を漏らした。
 白衣の女性は産婦人科医のネームプレートをつけていた、もしかして、ここで体外受精でもされるのか…
 香織は膣内を弄繰り回される快感の波にもてあそばれながらも恐怖を感じていた…



 膣内鏡が香織の中に突っ込まれ無造作にグイっと広げられる、いまだペニスを挿入された経験のない香りにとってその感触は最悪な違和感だった。
 快感を通り越して疼痛を感じるほどにクスコで弄り回される香織、女医は何かを確認すると満足そうにクスコを引き抜いた。

 ハァハァと荒い吐息でされるがままを絶えていた香織が我に帰ると拘束具はすべて取り外されていた…

 「香織さん お待ちどうさま もういいですよ」そういって女医はファイルに何かを書き込んでサインした。
 診察台からやっとの思いで降りた香織を女医は支えて抱きしめた、周りの女性達も笑顔でそれを見ている、香織は意味が分からなかった。

 「香織さん 落ち着いて聞いてね もうすぐ生理が来ますよ あなたも立派に女の仲間入りです!」
 周囲の女性達からおめでとう!と祝福され拍手された、香織はやっと意味が分かった、建物の中身を教えてくれなかった理由のすべてを理解した。
 こうやって周囲から拍手されて歓迎されれば誰だって嬉しい、それを最大限味わうためにみんな内緒にするんだろう…

 香織はやっとの思いで微笑むと目を閉じて沙織を思った、…沙織、私も女になるみたい。

 その時沙織は別の検査棟で生理経過検査中だった、きわめて安定しています、あなたは完全に女性になりました、もう大丈夫です…
 社会に出て義務を果たしてください、あなたの双肩に日本の未来が掛かっています、丈夫な子供を生んでくださいね。

 香織、お別れの時が来たみたいよ… でも良いよね… 香織は私を嫌いになったんでしょ…

 それ以外の検査を終えて香織が部屋に戻った時、沙織はすでにベットに横になっていた、たった一人で寂しそうに壁側を向いて…
 無理もない、卵巣検査、子宮口検査、受胎能力検査、子宮内膜検査、そしてホルモンバランス測定などを繰り返した結果、香織が17号棟を出たのは既に日没後だった。

 香織はそっと沙織に寄り添うようにベットへ入る、沙織はそれだけで目を覚ます。
 後ろを振り返らないでいたが何をしているのか全部分かっている、着替えている事も、衣服を綺麗にたたんでいる事も、そして乱雑に椅子へと脱ぎ散らかした沙織の服も一緒にたたんでいる事も。
 香織がたたむのを終えて顔を上げたら沙織はベットの上に座っていた、ドキッとする二人、重い空気が流れる。
 沙織の表情が泣きそうなのに香織は気が付いた、「どうしたの?」香織は尋ねる、沙織はついに泣き出した、両手で顔を押さえて嗚咽している。
 香織は沙織に寄り添って座り肩から毛布を被った、沙織は泣きながら言う「香織は私の事嫌いでしょ 嫌いなんでしょ…」
 
 香織は言葉が出てこなかった、呆然となって彫像のように固まってしまった、沙織はつぶやく「やっぱり嫌いなのね そうよね 私は嫌われものだからね うるさいからね…」
 沙織は涙でグズグズになった顔を上げた、そこには沙織以上に涙でグズグズになった香織が居た「なんで?」それだけやっとつぶやいてただ涙を流していた。
 そんな事無いから 絶対無いから 本当に無いから 嘘じゃないから お願いだから信じて…
 二人して同じような事を言いながら泣いていた、窓の外はいつの間にか本降りの雨になっていた。
 



 遠くで鐘の音が聞こえる…、水に浮いているような漂流感の中から香織の意識は浮かび上がってきた。
 昨日の夜、泣きながら会話した事を少しずつ反芻する。最後の言葉は「合わせる顔がないよ…」だった。

 香織の意識がはっきりとしてくる。眠る前、最後に見た光景のままの視界。
 二人とも壁を向いて、沙織を後から抱きしめたまま、沙織は香織の腕に手を添えたまま。
 二人とも一糸まとわぬ生まれたままの姿で、裸の会話をしていた。

 「沙織… ごめんね…」

 香織はそっと呟く、意識の戻った香織の腕が沙織をギュッと抱きしめる。
 沙織の意識は香織の言葉で現世へと帰ってきた。

 「香織… ごめんね…」

 香織は更にギュッと力を入れて沙織を抱きしめる、「沙織… 大好きだよ…」と、心からの言葉を添えて。
 だが、その時香織は気付いた、毛布の中から漂ってくる有らぬはずの臭い。
 抱きしめられた沙織はウゥッと唸って小刻みに震えている、香織はまだ理由が分からない、沙織は何かに耐えている。
 「沙織… どうしたの?」香織の言葉に緊張感が混る、どうしたんだろう…、私また沙織に…大好きな沙織に…、香織の頭に罪悪感が浮かんだ。

 「香織… ゴメン… やっちゃったみたい…」沙織は恥ずかしそうに呟く。
 「どうしたの沙織!」香織にはまだ理由が分からない。

 …天然系もここまで行くと漫才だな。
 一部始終をモニターで見ている雅美は意地悪そうに笑っている。

 「香織 ゴメン そーっと毛布を剥いでくれる あと ティッシュ持ってきて」

 香織は言われるがままにティッシュボックスを引き寄せ毛布を少しずつ剥いでいった。香織の鼻にムッとするような臭いが届く。
 生臭い臭い、そして、サビ鉄の臭い…、血の臭いだ。香織はまだ分からない、無意識に沙織の足でもへし折ったのか?とビクビクしている。
 おっかなびっくり毛布を全部剥いだ時、全裸の沙織が横を向いて寝たまま股間から血を流していた、生々しい赤い物がヌルリと垂れている。
 香織はやっと理解した「沙織… 生理なのね…」 香織の体から一気に力が抜けへたり込む、そしてティッシュを数枚抜くと沙織の股間へ手を伸ばした。
 後ろ側に垂れている部分を香織は拭きながら生臭い血の臭いを吸い込んで気分が悪くなりかけた。でも、大好きな沙織だから…。
 丁寧にふき取った後で新しいティッシュを数枚抜き取り、今度は前側へと腰を越えて手を伸ばす、沙織は恥ずかしそうにしながらもされるままだった。




 「香織… ごめんね… 」「うん 気にしないで すぐ綺麗になるから」そう言って香織は沙織の足に手を掛けた。
 右足を浮かせて外陰唇を新しいティッシュで撫でる、いつも戯れている沙織のデリケートな部分がいつもと違って腫れぼったいような感じだ。
 沙織の左手がシーツを握りしめる、大好きな香織が私の世話をしている、よりにもよって生理の世話を…、そして…気持ち良い…
 自らの意志とは関係なく垂れてくる経血に混じって愛液が滲みだす、香織はそれに気が付きつつも丁寧にふき取った後小声で訊ねる。
 「沙織 ナプキンどこだっけ」「クローゼットの下の引き出しに入ってる ごめんね」「ちょっと待って」
 香織がベットの上で体の向きを変え立ち上がりかけたその刹那、香織の下腹部はギリっと痛んだ。
 まるでお腹の中を直接握られるような痛み。立ち上がった香織は下腹部を押さえ唸る「あ゙ぁぁぁ…」、香織の異変に気が付いた沙織は慌てて振り返る「香織どうしたの!」
 香織の股に一筋の赤い物が垂れ始める、「あらら 香織もなのね…」沙織はそーっと立ち上がってティッシュを取りだし香織の股に手を入れた「沙織… ごめん…」
 沙織は柔らかく香織に微笑んだ後、そっと新しいティッシュを当てて垂れるのを抑えつつ生理ナプキンを二人分取り出して一つを香織に渡し隣に並んでレクチャーを始める。

 「ここが左右の横漏れ防止なの ちゃんと広げないとショーツからはみ出して床上に赤いシミが出来ちゃうよ こうやって広げてここが真ん中になるように…」
 香織は股を抑えながらそれを見ている、沙織は自らに生理ナプキンを当てて生理ショーツを履いた、股間の出っ張りが生理中ですと自己アピールする看板のようだ。
 沙織は場所を確かめて"安全"を確認すると香織の前に膝立ちになった、ティッシュボックスを小脇に抱えた沙織はニコッと笑って言う「はい 香織の番ね」
 香織は両手で口を押さえてされるがままになっている、内股に垂れた赤い筋をぬぐい外陰唇と小陰唇を綺麗にふき取って処置終わり。

 沙織に促されて香織は生理ナプキンを自分に当てる、下腹部の疼痛は続いている、生理ショーツを引き上げた時、再び香織のデリケートな部分にヌルっとした物を感じた。
 昨日までの不安さや焦燥感が消えているのに香織は気付いた、ホルモンバランスの変化がもたらす女性的な心の揺れ。
 ブラを当てて服を着る仕草を見ながら沙織も気が付いた、香織も女の子の仕草になってるね…
 沙織の精神は安定を保っているが、こみ上げてくる切なさだけは埋めようがなかった、昨日見た列車を思い出してうつむく。
 私の次は…どんな子が来るんだろう…香織は仲良くやれるかな…

 「沙織 どうしたの? ご飯食べ行こうよ」香織はニコッと元気良く笑って言った、その笑顔が沙織をより切なくさせる、息苦しい程に切ないなんて…
 どうしようもない喪失感を感じる沙織の表情に香織は大きな変化の可能性を感じ取った…




 生理中の女性は歩き方が変わるらしい…、香織は沙織の歩く姿を見てそう思った。自分も同じ様な動きになっているのには気が付かないのだが。
 食堂へと入ると香りは驚いた、各自のトレーにはお茶碗に盛られたお赤飯に蛤のお吸い物、小鯛の尾頭付きと御祝い三点セットが並んでいる。
 沙織は笑って言った「私は2回目だけどね!」、香織がなにより驚いたのはこれだけの量を朝から用意した手際の良さだ、事前に分かっていた…としか考えようがない。
 昨日の検査で生理が来ると言われて…、あぁ、そうか…、私達はただの道具なんだっけ…

 香織は自分の身に降りかかっている境遇を改めて確認する、もう逃げようがない…絶望的な現実。
 しかし、何となくワクワクしている自分を同時に感じ取っている、早く外へ出て、早く格好良い交配相手を作って…、そして早く義務を負えて…
 ネガティブよりポジティブな思考はこの2週間の間に彼女たち"道具"が植え付けられた基礎思考パターンになっている、普通に考えて学校に子供を作りに行くなんて考える方がそもそもおかしい。
 そんな矛盾や疑念を抱かない用に"教育"されてきた香織は無邪気に今朝のメニューを喜んでいた…、すぐ隣で深刻な表情を浮かべている沙織に気付くことなく…

 昨日と同じ外のよく見える席に着いた二人は箸を手にとって食事を始める「いただきま〜す」挨拶を徹底的に仕込まれる彼女たちの動きは画一的だ。
 蛤のお吸い物を啜りながら香織は昨日と同じ列車がやってきたことに気が付いた、沙織はその香織の動きで気が付いて窓の外を見る。
 やや弱くなったとは言え雨の降り続く施設に向かって列車はやってきた。

 「沙織 あの電車は… なに?」香織はお茶碗を持ったまま箸で列車を指さした。
 「香織 それ行儀悪いよ〜」沙織はたしなめるように言うとお茶碗を置いて香織をジッと見つめる、香織はその様子にちょっと驚いた。

 「あれはね 新人さんをここへ運んでくる電車なんだって 香織もあの中に乗っていたはずよ」
 「でも 目を覚ましたときは部屋の中だったよ それにカプセルに浮いていたもん」
 
 二人はトンネルに吸い込まれていく列車を黙って見つめていた。

 「あの列車はこの施設へ新しいTS法被験者を運んでくるのよ ここではなく別の施設で性転換処理が行われてほぼ完了の状態になってから運ばれるの」

 二人が振り返るとそこには雅美が立っていた、雅美のトレーは普通のメニューだ。
 「香織さん 初潮おめでとう あなたは女性になったのよ」そう言って雅美は微笑んだ、トレーの上には香り立つコーヒーが置いてある。

 「雅美姉さま コーヒー好きなんですね…」香織は何の疑問を挟まずそう言った、沙織は沈んだ表情で言う「私達の夕食に出るのも時間の問題ね」

 香織は不思議そうに沙織を見る、沙織は黙って食事再開した、雅美は笑いながら香織に言った「もうすぐ意味が判りますよ 順番なの」そう言って二人から離れていった。
 
 …順番なの
 香織の頭名の中で雅美の言葉が何回もリフレインしていた。


 食後は22号棟23号棟の女の子達が検査室に送り込まれていった、24号棟の沙織と香織は部屋待機となって一日自由となった。
 生理でなければプールで泳ぐとか体育館で卓球に興じるとかそんな暇つぶしもできるのだけど、今日は二人とも動きたくない一日だ。
 二人して図書室の中に立て篭もる事にした、施設の図書館は純愛小説の宝庫、夢に夢見る乙女達の心をくすぐるお話のオンパレード。全てが有る一点の目標に向かって整備されている施設内では、ある意味で予想範囲のうちなのだろう。
 香織がタイトルに惹かれて手に取った小説には2065年度乱歩賞受賞の文字がある、TS法で性転換対象となった女性の数奇な生涯と第2の人生の活躍が描かれている、もちろん、TSレディにとっての"第2の人生"とは、義務を果たした後の事なのだが…
 沙織の選んだ本はTS法の無い2100年を書いた架空歴史小説、共にTS法の存在意義とその重要性、そしてTS法被験者達が自らを誇りに思うようにする巧妙な心理操作なのだろう。
 分析力の鋭い香織もそれには気が付いていないようだ、しかし、もし気が付いていたとしても自らの境遇を悲観する事はないだろう、彼女は自分が社会に必要とされているのだ…と、別の意味で理解していたからだ。

 シトシトと降り続く雨が霧になって施設を包み込む、昼食時間も忘れて読書に没頭する二人、連作物の小説は読み始めると終わりまで止まれない罠。
 慢性活字中毒と呼ばれ小説禁断症状に苦しむとされる人達がこの世にいることを二人は知る由もない。ただ…

 「ねぇ沙織 ご飯どうする?」
 「うん でも今良いところだから」
 「実は私も良いところだったの」

 そう言って再び読書に没頭する二人は立派な活字中毒患者になってしまったようだ…
 そのまま憂鬱な雨の午後も図書室の虫になっていた二人だが、ある時から香織はそわそわし始めていた。
 「ねぇ 香織… あのね…」「どうしたの?」「あのね… 痒いの…」「どこが?」「ほら… あの…」
 沙織はニコッと笑って言った「実は私もさっきからちょっと痒かったの」そう言って立ち上がると香織とトイレに向かった。
 トイレの入り口に小さな無地の白箱が置いてある、沙織はその箱を無造作に開けると新しいナプキンを2つ取り出した。
 「アレの間だけ全部のトイレにこの箱が置いてあるよ」そう言ってトイレの個室に収まる、壁越しに沙織は話しかける。
 「ちゃんとウォッシュレットで洗った方が良いよ ビデって方のボタンを押してね」

 香織は生理ナプキンを外すと畳んでトイレ脇の小箱に捨てた、ムッとする血の臭いが辺りに漂う、香織はそれが恥ずかしくて臭い消しのスプレーを撒いた。
 お湯を吹き出すウォシュレットのモーター音が響いた、股間をきれいに洗ってティッシュで拭き取ると香織は新しいナプキンを当ててショーツを上げる。
 その一連の動きに些かの逡巡もなかった、今や香織は身も心も女になっていた、男だった記憶はどこへ行ったのだろうか?、環境が人を変える、心を変える。
 この施設の中で川口香織という新しい人格が形成されていった。本人は全く意識することの無いままに…


 香織と沙織の生理が始まって4日目、生理用品の扱いにも慣れた香織はランチタイムの食堂で本日のメニューであるキツネうどんを沈んだ表情のまま啜っている沙織を眺めていた。
 「ねぇ沙織 ここのところなんか変よ なんでも言って 遠慮なく…」香織はニコッと笑う、沙織はその表情までもが愛しくてしょうがない、しかし「うん… あのね… 」そこまで言っていつも黙ってしまう。
 香織の言葉には万全の信頼が込められている、沙織にはそれすらも重荷になっていた。香織が目覚めてから早くも3週間を過ぎた、沙織が目覚めてから既に約8週間が経過している。
 約2ヶ月間、ここの施設で目を覚ましたTSレディ達は社会へ出て目的を果たすために徹底した教育を施される。その間に出会いと別れも経験する。全ては社会に出て子供を産むために。
 沙織は意を決したように話し始めた…

 「香織… あのね…  」

 沙織が24-38に入ったとき、そこには志織という女の子が待っていた。ひどい泣き虫ですぐに泣き出す子だった。
 非常に他者依存傾向の強い子で、先住であるにも関わらずいちいち香織に同意を求めてくる子だった。
 沙織の逆性他者依存傾向は志織の影響と言って良いかも知れない。自分を求めてくれる人がいないと折れてしまう。
 自分を必要としてくれる人、自分を頼ってくれる人が居ないと極度のストレスを感じる精神構造。
 志織も沙織も方向性は180度違うがTSレディとしては理想的な状態だった。

 その志織が9週間目前の夜に部屋を出ていった。 社会適合トレーニングが終了したTSレディ達の"出荷日"だった。
 その日の事を沙織はゆっくりと香織に話し始めた、精一杯の我慢で泣き出さないようにしながら、涙をボロボロとこぼしながら。
 話を聞きながらイメージを作っていく香織の心にいつも泣き出しそうな女の子が姿を現した…。

 「そしてね… 朝来た電車がその夜ここを出ていくの 寂しそうなラッパの音を残して出ていくの 隣の部屋も向かいの部屋も泣き声しか聞こえなかったよ…」

 沙織は延びきったうどんの浮いている丼に箸を置いて顔を手で覆ってしまった、香織は立ち上がって沙織の側に廻り隣へと腰を下ろす。
 そっと肩を抱いて一緒になって震えた、そうなんだ…、それで沙織は寂しそうだったのか…、香織も心が震えだした。
 食堂の中から段々と人が消えていき沙織と香織は立ち上がった、午後の講義を聞きに行かなくちゃ…そう言って歩き出す物の二人は肩を寄せ合って歩く。




 寂しそうな後ろ姿を見ながらキッチンのおばちゃん達が会話している、ある意味で…こっちの方が余程酷いわよねぇ…、私達は問答無用で男に抱かれたけど…男の記憶をしっかり持ったままだったけど。
 私達の頃は少なくとも自己責任で全てを決定しなければならなかったからね、覚悟が決意に変わっていったものよねぇ、初めての子を産んだら、あとはもう止まらなかったわ…フフフ…。
 でも、産んだ子を手放す時の寂しさは…、身を切られるようだったわ…、あの子達はその為のトレーニングもきっとしてるのね…。
 酸いも甘いも乗り越えてきたベテランが二人を見つめる眼差しには憐憫の情が溢れていた。

 午後の講義は、いくつもの講義の中で女の子達に特別人気のある物だった、色相学と服飾センス講座、メイクアップ講座にヘアスタイル講座。女性の嗜み・身だしなみ。いわゆる"化けかた"の講義となる。
 香織と沙織は二人して眉山を揃えたりマスカラを引いたりしてメイクアップしていく、ファンデーションの扱い方一つでその後の仕上がりがガラリと変わるのを何度もメイクアップしながら実体験していく。
 近年の流行である緑青色系のメイクをしてすっかり出来上がって別人のように綺麗になった二人はお互いに驚く、女性の大事な能力ですからね…、しっかり学んでね。
 講師となったプロのメイキャッパーは一人ずつ女の子を見て廻ってメイクアップ指南をしていく、それを終えると服の色合わせや組み合わせの善し悪しとヘアスタイルの仕上げ方を学ぶ。
 講義の最後になってドレスアップした女の子が50人以上も講堂に出現した、なかなか凄い光景なのだが一般にこれを知られる事はない。施設の中にいる人間しか知らない、いわば、秘密の花園であった。

 綺麗に出来上がった彼女たちをカメラマンが一人ずつ撮影していく、彼女達の写真はカタログ状に整理されてデータベースへ蓄積されていくのだ。
 完全に管理された遺伝子情報を持つ彼女達が子を成した時、その子の遺伝子情報を調べれば遺伝学の実証にもなるのだと言う。大手製薬会社や遺伝子治療を専門に行う医学会の要請はスポンサーの意向でもある。
 彼女たちは道具であり、そして、商品にもなりうるのだった。

 夢のようなひと時が終わり彼女たちは現実世界へ帰ってきた、メイクを落としてジャージに着替えるとどこにでも居る15歳の少女に戻る。
 楽しかった講義を笑いながら話ている、彼女達の多くは実際に迫っている別れを感じ取っているのだ、香織と沙織のように深い友情と信頼で結ばれたパートナーばかりでは無いかもしれない。
 しかし、わずかな時間を共有した一体感はそれぞれのパートナーの心に暖かい光を燈している。

 夕方の清掃時間、香織は沙織と食堂清掃を担当した、大きな部屋のテーブルをいったん片付けて床と壁を綺麗に拭きテーブルを戻す。
 大きな黄色のクロスを一枚ずつテーブルに掛けて、その上から斜にもう一枚、浅葱色のクロスを被せた。
 テーブルの真ん中には可憐な花を生けた小さな花瓶と調味料のお盆を乗せて出来上がり。二人して30卓はある大きなテーブルを仕上げていくのは単に二人の息が合っていてこそだ。



 綺麗に出来上がった夕食会場を見ながら二人は満足そうに顔を見合わせる、他の場所を掃除し終えた女の子達が集まり始めると夕食の提供が始まる。
 勿論、最初にトレーを取る権利があるのは会場を作った香織と沙織のペアだった。

 朝はパン、お昼は麺類、夕食は何だろう?二人はドキドキして食堂とキッチンの間の窓に掛かるカーテンが開くのを待っている。
 中からおばちゃんたちの声が聞こえる、「そっちは出来た?」「いいよ!できあがり」「じゃぁカーテン開けて!」「は〜い」
 ロールアップするカーテンが開くとそこに出てきたのは大きな鍋一杯に煮込まれたシチューと新鮮なグリーンサラダ、そして炊き立ての匂いを撒き散らすご飯だった。

 沙織と香織の後ろに並んでいた女の子達からもおいしそー!っと声が飛ぶ、提供担当の女の子がエプロン姿で一人ずつ取り分けていくのを受け取って二人は席に座った。
 「あと何回一緒に食べられるかな…」「そんな事言うのやめようよ 悲しいじゃん」「あ やっぱり香織はジャンって言うね」「もういいじゃん!」二人の寂しそうな笑顔がシチューの湯気越しに浮かぶ。
 火の通ったブロッコリの甘さを感じながら香織は思った、ずーっとこのままだと良いなぁ…
 特定の目的を持って作られた彼女達にそんな事が許される訳ない事を、理解していないはずの無い香織ですら、そんな儚い夢をみるのだった…



 生理5日目、香織が目を覚ますと沙織はベットの中でモジモジしていた。
 「どうしたの?」「うん? あ おはよう」「うん おはよう どうしたの?」「え? あ いや… 終わったかな?と思って」
 香織はのっそりとベットが起き上がって無造作にパジャマのズボンを下ろした、沙織も起き上がって下を全部足元まで下ろしてしまった。
 「止まってるね」「そうだね」
 二人の生理リズムがシンクロしている事に初めて香織は気が付いた、ただ、この二人だけではなく他の部屋の女の子もシンクロしている事に気が付いて理解した。
 管理する側には、彼女たちの体の変化がシンクロしている方が楽なんだろうな…、だって私達は道具だから…
 もはやそんな事を考えても落胆や消沈する事はなくなっていた、自らの運命を受け入れた潔いまでの覚悟、この時点で既に"出荷準備完了"なのだった。

 朝食を済ませた二人が部屋に帰ってきたら雅美が部屋の中に立っていた、二人とも瞬時に極限の緊張状態となる。
 クローゼットは…綺麗にしたよね、キッチンもさっき綺麗に拭いて蛇口も片方に寄せたよね、ベットは二人でシーツを掛けなおして毛布を綺麗にたたんで枕もカバーを掛けなおして揃えて…
 何が悪かったんだろう?カーテンも綺麗に揃えたし、引き出しの中は昨日の夜きれいにしてから使ってないし、椅子はキチンとテーブルの下に入れたし…
 瞳孔が全開になるような緊張感の中で沙織が先に口を開いた。「雅美姉さま… どこか… 至らないところが… あります… か… 」最後のほうは消えそうな声だった。

 雅美は無表情のまま部屋を見回してから一瞬間をとって口を開いた。「これで良し と言うのは永遠にありません これで良しと思ったところから次の目標が生まれます」
 二人は何を使用止めにされるのか…怯え切っていた。しかし、次の雅美の一言は意外なものだった。「私の予想以上に綺麗になっているのでビックリしていました 十分合格ね」
 そういってやっと雅美は笑った、二人の表情から安堵の色がもれる、それを見て雅美は続ける「ただ ナプキンを使ったら補充しておきなさい 次に必要な時に困るでしょ」
 沙織はペロッと舌を出してしまった!の表情を浮かべる、香織はホッとした表情になる、それを見て雅美は笑う、「いつも綺麗にしていないとダメよ 部屋も 人間もね 」
 雅美の巡検が隣の部屋に行ったのを見届けて二人はベットに腰を下ろした、「ビックリしたね〜」「うん 今日はダメかとおもった」「沙織はホントに心配性ね」
 屈託の無い会話が続く、雅美が部屋にいたのは見回りだけが目的ではなかった事を二人は知らなかった。「お風呂行こうか」二人が部屋を出ていったあと再び雅美が一人部屋に入る。

 えぇっと… あったあった… このマイク壊れてるのよね… 雅美が部屋に居た理由は監視用機材の調整なのだった。

 まだほとんど人の居ない風呂場でゆっくりと湯に浸かり部屋へと帰ってきた二人、生理が終わってエチケットルームとよばれる専用風呂場へ行かなくてもよくなった二人。
 風呂上りの火照った体からは彼女達にとって危険な成分を含んだ汗が噴き出している、互いの体に鼻をつけてクンクン匂いを嗅ぎ合う二人。
 部屋の明かりを落として互いの体を弄り合いはじめる…、お互いに心の隙間を埋めるかのような戯れが狭いベットの中で行われていた。



 24号棟一番奥にある棟長の部屋で雅美は高感度カメラの映像を見ながら音声を聞いていた、甘く激しい吐息と淫らな声が漏れ聞こえてくる。
 モニター越しに二人を見ながらファイルに何かを書き始める雅美、ペンをテーブルに置きモニターを食い入るように見つめている。
 沙織の指と舌が香織の繊細な蜜壷の中を行ったり来たりしている、香織の背中が弓のようにしなり、そして股間に位置する沙織の頭を大切そうに抱えている。
 真っ白な光に包まれるような快感を求め香織は腰を動かして沙織に甘える、その姿を見ながら沙織はつぶやく、男達もあなたの腰使いは喜ぶでしょうね…フフフ…
 香織の体から力が抜けて糸の切れた人形のようにベットへうずくまった、沙織は香織の顔をそっと抱きしめて自分の胸へと運ぶ、香織は絶頂まで自分を運んでくれた沙織の胸をもみながら乳首を舐め始めた。
 あらあら 香織ちゃんはテクニシャンね… 雅美は少しずつ自分の行きが荒くなっている事に気が付いた、ダメだって今日は… コーヒー淹れてこなきゃ…
 モニターの向こうで二人の少女が再び優しく激しく絶頂を目指し始めたとき、雅美は濃い目のコーヒーを飲みながら呟いていた「早く沙織を出荷したいな… もぉ… 主任の意地悪… 」

 事務テーブルの上に載る一枚の紙切れ、TS法によるリロケーション部門から送られてきたメールを出力した指示書だった。
 『母体配置計画に関する計画変更通知 第4322号の補足22-4』 新規コンセプトで新設される全寮制学校への母体配置計画が事細かに指示されていた。
 きわめて仲の良いルームパートナーを最低2組選出し送り込む事、内ひと組は観察力と洞察力に優れ安定性の高い母体とする事。
 それ以外の母体のうち、安定性の高い母体を集中配置する事。
 人口増加プログラムに組み込まれたもう一つの目的、天才創造計画が動き出したのだった。
 雅美は忌々しげにその指示書を見ていた。沙織と香織を一緒に…いじり倒してみたかったなぁ…

 力尽きて眠りに落ちた少女二人は自分達が雅美に狙われている事を知る筈も無かった。




 香織がその"異変"に気付いたのは夕暮れの清掃を終えた頃だった。生理が終わって二人で何度も戯れて…昼も夜も戯れてそんな事に飽き始めていた。
 香織がどんなに求めても沙織の反応は薄くなっていったのだ、所詮彼女たちはTSレディ、最終的には男と交わって子を産み落とすのが使命であり役目だ。
 沙織は…、無性に男の事を考えている、かつて自分がそうだったはずの男をイメージしている、よがり狂ってなお肉棒に掻き回される自分の姿をイメージしている。
 香織と抱き合って小さな寝床で夢の中を泳ぎながら…。その夢はまだ見ぬ…背が高かくてハンサムで弾ける肉体美の…いいおとこ。

 沙織の変化に悶々としながら香織は食堂へと入っていった、沙織は窓際に座って遠くを見ている、今日もあの列車が施設へとやってきた…。

 「はい 沙織の分も貰ってきたよ 」
 「あ! 香織 ごめんね… ありがとう 」

 沙織の表情が何となく機械的な…記号的なモノになっていることを香織は気が付いた、しかし、沙織と香織の関係を分析する時には度々エラーを起こす類い希な分析能力が初めて正しく発揮された。

 「沙織… もう心は外なんだね」
 香織の表情は寂しさを押し隠す笑顔で塗り固められていた。

 「香織… ごめんね… やっぱり私も… ただの道具みたい…」
 沙織の自然な微笑みに香織は胸が痛んだ。

 過酷な運命を背負わされてここで目を覚ました彼女たちが2ヶ月ほどで完全に新しい人格を植え付けられて出荷されていく、思春期と反抗期のど真ん中にある世代故にそれが出来るのかも知れない。
 この世代より下で有れば人格形成が始まる前に作業を開始した方が効率的だろうし、上の世代で有れば本人に納得させれば良いのだろう。どうにも微妙な世代故の面倒な儀式と言ったところか。

 今宵のメニューは鯖の一夜干しに大根とワカメのおみそ汁、根菜類の煮物といつもおいしい炊き立てのご飯、脂の乗った鯖の味がご飯に良く合う日本人なら誰でも幸せになれる最強の夕食だろう。
 ポリポリと沢庵漬けをつまみながら余韻を味わうようにしているとキッチンのおばちゃんが大きなテーブルワゴンを押してきた「はい 二人とも受け取ってね 和食の後はコーヒーよ」そう言って二人の前にはコーヒーカップが並んだ。
 今宵のメニューにはデザートドリンクではなくホットコーヒーが付いた、やや大きめのコーヒーカップに並々と注がれた濃いめのコーヒー。隣にはバニラクリームを挟んだビスケットが2つ。
 香織はコーヒーを一口飲んでから沙織を見て固まった、沙織はコーヒーを見ながらボロボロと泣き出した、周りのペアも片方がポロポロと泣き始める、ついには飲み込むような嗚咽がこぼれ始めた。
 食堂中にコーヒーの匂いが立ちこめる、おばちゃん達は出来る限り女の子を見ないようにキッチンへ引き上げていってカーテンを降ろしてしまった。

 「さ… 沙織… どうしたの?」
 「香織… お別れみたい…」
 「え?」
 「ねぇ香織… コーヒーだけど… 乾杯して… 」

 二人はコーヒーカップで乾杯した。
 実に滑稽な光景だろう、笑い出してしまうだろう、泣き顔の女の子と状況の飲み込めない女の子が二人でコーヒーで乾杯だ。

 ボロボロと泣きながらコーヒーを飲み干してビスケットをお腹に収めた、沙織は涙も拭かずに立ち上がって香織の手を取った、「ねぇお風呂に行こう 最後だからゆっくり…」
 大浴場に入ったとき、香織は初めてコーヒーの"意味"を理解した、沢山の女の子がお湯に浸かっているにも関わらず皆平然としてる、それどころか二人で洗い合っているにも関わらず花の戯れるさまは一つもなかった。
 コーヒーを飲んだときだけ私達は冷静を保っていられるんだ…、だからいつも雅美姉さまや宮里さんはコーヒーを飲んでるんだ…。

 今までそれぞれ独立していた幾つもの情報が初めて繋がった、自分の心と体が自分の与り知らないうちに作り替えられて、そして鼻を突く臭いひとつでコントロールされてしまう事を理解した。
 いくら何でも酷すぎるよ…、香織は初めて自分の境遇で泣きそうだった、この施設で目を覚ましてから色々あったけど、自分がいつの間にか男から女になってしまった事を初めて泣いている。
 隣には…大好きな沙織が同じく泣いている、この涙は私と違う意味だろうな…、そう言えば…、私の前にいた志織さんも…、やっぱり泣いたのかな…。大きな湯船の中で肩を寄せて二人は泣いた。

 「香織… 背中流してあげる」「うん 沙織もね」そういって二人はボディソープをスポンジに落とす、向き合った女の子が二人でお互いの体を洗う。
 泣き顔の中の笑顔、僅かな時間だけ二人の運命が重なり合った時間を体に刻み込むように…

 風呂上りの沙織は部屋に帰るとクローゼットの一番奥から濃紺のブレザーを出した、中には純白のブラウスとスカートが入っている。
 パジャマ姿になった香織の見ている前で沙織は身だしなみを整え髪を梳かした。出荷準備良し。沙織はベットに座る香織の横に座った。

 「香織 今までありがとう 毎日楽しかったよ」
 「沙織… もう…」
 「仕方が無いのよ 私たちは… そう言う生き物なんだもの」
 「…うん」
 「 私たちは… そう言う目的でここに来たんだもの…」
 「でも… でも…」
 「香織 お願いだから泣かないで お願いだから」
 「沙織…」
 「私がどこに行くのか分からないけど… どこへ連れて行かれるのか分からないけど」
 「…うん」
 「私のこと 忘れないでね きっと忘れないでね…」
 「…うん」
 「約束だよ」
 「…うん」
 「私が義務を果たしたら… 必ず義務を果たすから…」
 「うん… 」
 「香織を探すよ 日本中探すよ 世界中探すよ 絶対探すよ 必ず見つけるよ…」
 「…さ・・・・・ 沙織…」

 そこまで…やっと二人は会話して涙を流した、声を出さず涙だけを流した、身を切られても傷は癒えるだろう、でも心の傷は・・・なかなか癒えない。

 涙を流しながらも精一杯の笑顔を浮かべた沙織はクローゼットの前に立った。
 「香織 私があなたに伝えなきゃいけない最後の事 良く聞いて」
 「うん…」
 「私が出て行ったら雅美姉さまのところへ行って今私が着ているセットをもう一つ貰ってきてね」
 「うん…わかった」
 「私が着て行っちゃうと残り一着でしょ 私の次にここへ来る人がそれに気が付くとかわいそうだから お…」そこまで言って沙織は泣き崩れた、わんわんと声を上げて泣いた、最後はお願いと言いたかったのだろうけど、言葉になっていなかった。
 香織はそっと沙織に寄り添って肩を抱いた、慟哭の震えは香織の心をも揺らした、つらい別れの夜はこれから何度もやってくる、血肉を分け与えた子供と別れる為の心の準備なのかもしれない。
 悲しみの激情が少し収まった頃、廊下から冷たい音が響いてきた、静かに歩く足音と鍵の束がぶつかり合う音。ガシャ…ガシャ…。沙織は遠くの一点を見るようにドアを見た、香織もそれを見てドアに目が釘付けになった。
 足音は二人の部屋を通り過ぎて行った、全く音の伝わらない筈の部屋だが、今宵ばかりはドアの外が手に取るように分かる、この足音は聞き覚えがある、そう、雅美姉さまだ…、香織は雅美のつらい仕事に思いをはせた。

 隣の部屋のドアをノックする音が聞こえる、ガチャッと鍵が開かれ声が聞こえた 『…早百合 旅立ちの日よ さぁ こっちへ』 シクシクとかみ殺した泣き声が聞こえた、バタっとドアが閉まる、その途端、隣の部屋から残された岬の泣き声が聞こえた。
 廊下の足音は遠ざかっていった、奥の部屋を一つずつ回りながら…同じ事が繰り返される。やがて足音が廊下の奥から戻ってきた、スサ…スサ…スサ…。
 沙織は唇を紫色にして振るえている、香織は沙織の頭を抱きしめたままで目を閉じた、廊下の足音は二人の部屋の前で止まった…

 コンコン・・・・・・

 沙織の体がビクッと震えた、鼓動が聞こえるくらい心臓がバクバクしている。しかし、ドアの開く音は向かいの部屋だった…、はっきりと声が聞こえる「瑞穂… さぁ 行きましょう」
 叱られる子供の様に沙織は震え続けた、呼吸困難になったのでは?と思うほどの息遣いで震えた、次は… 私… 次は私… 次は… 、あぁ、ドアよ鳴らないで、ノックの音がしませんように…、体中の筋肉がぎゅーっと締め上げられる緊張が続く。
 しかし…無情の足音は部屋から離れていった…、沙織は瞬きをしながらまだ震えている、香織は不思議そうに顔を上げてドアを見ている。
 瑞穂の足音と一緒に奥へと消えて言った足音が戻ってくる事は無かった、極限の緊張が少しずつ解けて行く。「沙織… どうしたんだろう?」香織はやっと言葉を搾り出した。
 沙織はまだ震えている、震えながら「わからない… わからない…」とうわ言のように繰り返すだけだった。

 ドアを向いて固まっている二人の背中に月の光がこぼれ始める、雲が晴れてきたようだ、狭い部屋に二人の影が落ちる、香織はそれが素晴らしく綺麗だと思った、なにか物語りのページがそこで止まったような錯覚だった。
 やがて遠くから物悲しい汽笛の音が聞こえてきた、大きな鳥の鳴き声のような音が長く長く響いた、惜別の情を掻き立てるように…

 沙織は初めて顔を上げた、その顔には悲しみではなく焦りがあった、動転しているのが香織にも分かった。
 「なんで? なんで私は置いていかれたの? 私って… もしかして… 不良品扱いなの???」
 胸の前でギュッと手を握り締めて沙織は外を見た、あの列車が施設からゆっくりと離れていく、窓から明かりがこぼれているのを始めて見た。遠すぎて窓の中までは見えなかったけど、車内の様子は容易に想像が付いた。

 香織は呆然と立っている沙織に寄り添って一緒に窓の外を見る、すでに列車が遠くに離れてしまっている、やがて丘の影に消えて行って光が見えなくなった。
 「どうしたんだろう?」香織は何て言葉を掛けて良いのか分からず、やっとそれだけ言って言葉を紡げずにいた、沙織はただ呆然と立っているだけだった。

 二人の脳裏にいつぞや講堂で聞いた言葉がリフレインしてくる、「この施設を離れる方法は2種類です 立派に旅立っていくか 不良品として捨てられるか それだけです」
 沙織は再び体の震えが止まらなくなりだした、まさか…うそ…、信じたくはない現実…、自分が不良品である可能性…、沙織の体から力が抜けて倒れこむように蹲った、香織は沙織を抱き上げようとしたが全く動かない。
 やっとの思いで二人がベットに座ったとき、突然二人の部屋を誰かがノックした。

 コンコン・・・・

 ガチャっとドアが開いて入ってきたのは二人の担当だった宮里と雅美だった。
 「沙織さん 香織さん あなた達は今すぐこの部屋を出てもらいます」これ以上ない位事務的な言葉で宮里は言った。
 「さぁ 二人とも… あ 沙織は良いわね 香織は何が服を着て出てきなさいね」そう言って雅美は部屋から出て行った、訳が分からずジャージを着た香織は沙織の肩を抱いて部屋を出た、見知らぬ白衣の女性が何人も立っていた。

 さぁ、行きますよ… それだけ言って宮里は歩き出した、雅美に背中を押され二人は歩き出す、不安が全身を駆け抜け鳥肌が立った。
 廊下の一番奥にある雅美の部屋へと入っていった二人は雅美に座るよう促され用意された椅子に座った、宮里が目配せすると雅美以外の女性は部屋から出て行った。

 「さて… 二人とも驚いているでしょうけど…」そういって宮里は話を切り出した、二人は息を飲んで話を聞いている、目を大きく見開いて話を聞く二人を見て雅美は今すぐにでも押し倒したい衝動に駆られた。
 今ここで"事"に及べば処分は免れない、不幸な事故だったとはいえ裁判の結果を受け入れ女性になってここへ来た雅美は分別が無くなるほど子供ではない。

 「要するに… あなた達は再び選ばれたのです 優秀な人材を育てるための母体としてね なぜなら あなた達二人は他より優れた人間だったから」

 宮里はそういって一枚の紙を取り出した、配置転換指示書と書かれた紙を二人は見つめている、あなた達二人は明日の朝、新設された施設へ移動してもらいます、勿論二人でです、そこでもう少し講義を聞いてから…、義務を果たしてもらいます。
 事務的な冷たい口調で言い終えた後、宮里はポケットからペンダントケースを取り出した、2つの箱がテーブルに並べられ二人は一つずつ箱を選んだ。

 沙織は宮里の顔を見てからそっと蓋を開ける、それを見て香織は蓋を開ける、中は金色に輝く細いチェーンネックレスが入っていた、ペンダントトップには1円硬貨サイズの金色に輝く円盤がぶら下がっている、裏側にはそれぞれの名前が入っていた。

 「あ こっちが沙織のだ」そういって香織は箱を渡す。
 「ほんとだ こっちに香織って入ってる」沙織は笑顔で箱を渡した。

 宮里が始めて笑顔を見せて優しく語り掛ける。

 「そのペンダントは純金よ そして 優秀な人材を意味する身分証明書ね」

 雅美が言葉を続ける。

 「これから移動する先であなた達二人を待ち受ける施設は…」雅美はそこで言葉をいったん切ったあとで壁を指差して笑顔を見せた。

 「全く新しいコンセプトで作られた施設 あなた達二人は有名人になるかもね」

 意味の分からない二人がキョトンとした表情で居ると宮里は笑いながら立ち上がって手を叩いた、「はい お話終わり びっくりも終わり さぁ移動するよ」

 二人も立ち上がって顔を見合わせる、やっと表情から緊張の色が抜けた。
 雅美は二人の背中を押してドアに向かい歩いていく、宮里が書架から二人のファイルを取り出して後ろを付いていく、見慣れた廊下を歩いてエレベーターに乗り込みスーッと落ちていく、地下3階で止まったエレベーターはガクンと揺れたあと横に移動したようだ。
 しばらくして再びゴンドラが持ち上げられる感触を感じエレベーターはグングンと高度を上げているようだ。
 やがてドアが開いたとき、そこは新しい建物の匂いがする絨毯敷きの建物だった。

 さて、行きましょうか… 宮里は躊躇せず廊下を歩いていく、二人がきょろきょろしながら付いていくと宮里は重厚なドアの前で立ち止まった。

 「さて 二人ともさっきのペンダントを出して」二人がペンダントを取り出す、それを宮里は受け取ってドアの錠前部に接触させた、ガチャッと音がして鍵が開く。
 自動開錠しているのは15秒だけだからね、早く入って…、そういって宮里は雅美と一緒に二人を部屋に入れた、さっきまで二人が過ごした24号棟の部屋とは比べ物にならない広さの部屋だ、大きなベットルームに独立したリビング、キッチンはダイニングと一体になっていて、24号棟では共用だったトイレと風呂までこの部屋には完備されている、ランドリールーム付きのその部屋はまさに郊外の高級マンションクラスと同じ作りになっていた。

 新しい施設ではこれと同じ部屋にそれぞれ一人ずつ住む事になります、明日の朝までだけど、ゆっくりしていってね…、そういって宮里は部屋を出て行った。
 雅美は二人の肩を抱いてそれぞれの頭にキスをした後でドアに歩いていきそこで振り返った、二人と戯れてみたかったけど…出来なかったね…、義務を果たしたらここを調べてたずねてきてね、歓迎するから…、そういって部屋から出て行った。

 沙織は香織の手を引いて新しい部屋をもう一度一つずつ見て回る、今までとは違い、あまりにも広くゆったりと作られた生活空間。

 「なんか広すぎて落ち着かないね」
 「うん 一人でなんて… なんか嫌だな…」

 二人が最後に入った部屋はベットルームだった、昨夜まで二人で寝ていたシングルのベットではなくキングサイズのベットがそこにあった。
 あまりにも大きなベットで二人はあっけに取られたが、沙織は香織を見つめてペロッと舌を出すいつもの表情で行った「香織… 寝ようよ…」
 香織は言葉の意味を理解するより早く着ている物を全部脱いでしまった、沙織もすぐに一糸まとわぬ姿になった、二人で飛び込むようにベットへ飛び乗ると二人の戯れが始まった…

 二人とも…始めちゃいましたよ?雅美は残念そうにモニターを見ている、宮里はニヤッとしながらモニターを見て呟く、若いって良いわね、希望に溢れてるわ。雅美は宮里の背中に抱きついて何かを囁く、宮里は立ち上がって雅美を抱きしめると熱いキスをした、二人がモニター室の隣にある仮眠室で大人の戯れをしている頃、新しい部屋で香織と沙織の戯れも続いていた。

 新しい施設で同じく選ばれた男達と寄宿生活を始めるとき、このだだっ広い部屋に何日一人で過ごせるのだろう、いつも狭い部屋に二人で押し込まれていた彼女達が広い部屋に一人ぼっち。
 自ら相手を選んで部屋に引き入れる行為は、誰かの心を自らの心に引き入れる事と同義なのだろう、巧妙に仕組まれた心理的な隙間を作るプログラムに香織ですら気が付かなかった。




 「香織! 香織! 起きて!! はやく!!」

 抽象画のような夢を見ていた香織は沙織の手荒な目覚ましで意識を取り戻した、さっき
まで窓の外は一面の白い大地と蒼黒い空だったのだが…

 「どうしたの? 沙織テンション高いよ」

 何となくぼんやりする頭はまだ上手く回転していないらしい、それを見てクスッと笑っ
た沙織は窓の外を指差した。

 「良く見てよ! 海だよ! 海が! み!え!る!の! 」

 ハッとした表情の香織はあわてて窓の外を見る、窓の外は一面の真っ青な海と晴れ渡っ
た空。今、沙織と香りを乗せた飛行機はゆっくりと高度を下げつつあった、前夜突然の部
屋変え後、二人して眠ってしまった部屋へ宮里が再び現れたのは日の出直前の時間帯だっ
た。

 「二人ともおきなさ〜い! 出かけますよ!」

 そういって二人を起こした宮里の手にはハンガーが2つ、真新しい制服のさがったそれ
は沙織が旅立ち用にと身に纏った濃紺のブレザーではなく深い群青色のセーラー服だった、
施設で教育中の時に着ていた白いセーラー服とは違う上質な仕立てのものだ。
 操帆夫を意味するセーラー服だからか、襟すみに小さく碇のマークが入っていて、もっ
とも伝統的なデザインのプリーツスカートと共に上品なイメージをかもし出していた。

 素っ裸だった二人がセーラー服に着替えると宮里は二人を連れて歩き出した、昨日とは
別のエレベーターで1階に下りると大きな正面玄関へと出た、ここ初めて見る…、二人の
知らない施設内の玄関、正面の曇りドアが開くといい年のおばさんが運転席に座っている
大型高級車が停車していた。
 さぁ、行きますよ、付いてきなさい。そういってスタスタと宮里は歩いていく、朝食を
とる間もなく車に押し込められた二人は施設の外へと初めて出る事が出来た。
 窓の外は一面の森、原始の植生を今に伝えるかのような深い森だった、時々広い草原の
中を横切り車は走ってく、道路の脇には崩れ落ちた民家の残骸と干草ロールを収めるサイ
ロが朽ち果てた様子で残っていた。

 宮里は窓の外を見ながら語りかける、昔はね…と言っても200年位前だけど、この辺に
も入植して来た人が居てね、拓殖の夢を持って開墾したんだけど…結局みんな出て行った
わ。 あなた達の子孫がもう一度ここを拓くかもしれないわね…

 しばらく走って行くとかつて商店街だった思われる廃墟の中を抜けた、宮里は言う、現
在このエリアは極度の過疎進行地域であり、日本屈指の低人口密度地帯らしい。
 窓の外は右も左も廃墟だらけなのだ、人の気配が全くしないのも頷けると言うものだろ
うか。
 やがて車は大きな町の中に入っていった、道路の脇を人々が行きかう、老若男女の生活
がガラス一枚隔てた向こう側に存在した、沙織も香織も窓の外に釘付けになっている。
 信号を曲がり長い直線の一本道に入る頃、道路の脇の歩道を高校生の男女が自転車を押
して歩いているのが見えた、二人はなんともアンニュイな表情でそれをジーっと凝視して
いる、やがて私もああやって…二人はそう思っていた、ただ、この時、二人の脳裏に浮か
んだのは笑いながら自転車を押している格好良い男の子と歩いている自分の姿だった。


 小さな格納庫が二つあるだけの空港には小型ジェットがエンジンを温めて待機していた、
宮里は車から降りると二人を連れて飛行機に乗り込む、完全に油断していた二人だったが
シートベルトをつけるよう言いに来た機内のスタッフに声を掛けられ凍り付いた…

 「2人ともしっかりシートベルトを締めてくれ 何かあったら俺が処分される」

 そう言って微笑みを残し離れていったのは若い空軍兵士だった…
 二人はまだ固まっている、筋骨隆々の背中を翼マークの入ったブルゾンで包んだ惚れ惚
れするような格好いい男…、ワッと声を掛けた宮里が笑っている、男が珍しいの?…だよ
ねぇ、やっぱり…、いままで女だらけの環境だったから。
 そう言って笑いながら通路を挟みとなりの席に腰を下ろした宮里は資料の束を鞄から取
り出してページを捲り始めた、ややあって席の後ろから来た背の高い男が小声で何かを言
ってハードボックスの資料入れを置いていく、蓋には部外秘の文字があった。

 僅か50人乗り程度の小型機だったが乗っているのは政府関係者など20人程度だろう、滑
走路へ移動すると止まることなくそそくさと離陸した、上昇を続ける機内で後ろ側から歩
いてきた男が宮里の隣に座った、上昇中の移動は危険だとたしなめる宮里を心配性だと笑
っている男は彫りの深い端正な顔の中年男性、沙織はその男性をジッと見つめた。

 「俺の顔に何か付いてるか? あんまり見つめないでくれよ 恥ずかしいから」

 そう言って笑っている、その笑い声に男らしさを感じた香織も目を向けた。
 年頃の花のような娘二人に見つめられて男は苦笑している、宮里はひとしきり資料に目
を通すと左手で資料を突き渡してシッシッと蝿でも追い払うかのように右手で追い払って
しまった。

 「宮里さん 今の方は…」沙織の目が輝いている、香織はそれを茶化す。
 鈴の転がる笑い声が三つ、機体は大きく旋回して水平飛行に移った。

 しばらく飛んでいたら先ほどの若い兵士が小さな包みを3つ持ってやってきた。

 「朝飯まだなんだって?戦闘食だからあんまり美味くないけど腹ぺこよりは良いよな」
 そう言って笑顔と一緒にランチボックスをドサッと置くと、そのまま機体後部へ歩いて
いった、通る男全部に目を輝かせる沙織は完全に舞い上がっている、香織はそれを見てい
るのが楽しいらしい、二人を見ながら宮里は思う、あの子達、完全に発情期ね…フフフ…

 香織は若い兵士の置いていったランチパックを開けてみた、完全真空パックの施された
レトルトの袋にはやや濃い味付けのチキンライスが入っている、隣のパックはやや酸味の
ある甘いジュースだった。
 香りは一口含んで考え込む、これ、昔飲んだ覚えがある…、しばらく考える、隣で沙織
が止まることなく食事していると言うに考えている…「香織?どうしたの?」沙織は明ら
かに香織のチキンライスを狙っていた「いや 何でもないよ あげないからね」そう言っ
て香織は笑った、沙織はいつもの舌を出す表情で物欲しそうに狙っている。
 残りのチキンライスを沙織に食べられる前に食べきった香織は残っていたジュースを飲
みきって気が付いた"あぁそうだ、ピッチサイドに幾つも投げてあったスポーツドリンク
の味だ"、窓の外を見てキャッキャと声を上げている沙織を見ながら香織はふと自分では
ない誰かの過去を疑似体験したような感覚になった。
 あの頃…まだ男の子だった頃にボールを追い掛けて一心不乱にピッチを走り回っていた
頃の記憶がふと蘇ってきた… あ…   ズキン!

 香織は突然頭を抱え込んで蹲った、沙織が異変に気付く「どうしたの!」香織は何かを
うわごとのように繰り返しているが良く聞き取れない、宮里が立ち上がって香織の首筋を
ギュッと押しながらシートバックへ体を起こした。

 「香織 忘れていた方が楽なこともありますよ 落ち着いて」

 そう言って胸のポケットから小さなケースを取り出すと蓋を開けた、一つずつラップで
包まれたキャンディーが入っている、宮里は氷の画が描いてある包みを開けて香織の口に
押し込んだ、口の中にクールミントの爽快感が広がっていく。

 「なにか とても懐かしいモノを思い出したんですけど… 急に頭が痛くなって」

 やがて香織は意識を失うように眠ってしまった、沙織は最初だけ心配そうだったがすぐ
に興味の対象は窓の外に移った、自分たちTSレディの扱いに関しては宮里達の方が遙かに
良く分かっているはずと言う迷信じみた思い込みが有ったからだ。


 ♪ピンポンパ〜ン
 軽快なチャイム音の後で着陸態勢となり小さな機体は滑走路に滑り降りる、旅客ターミ
ナルを通り過ぎて機体が止まった所は小さな格納庫の中だった、格納庫の中に大きなバス
が横付けされていた。

 「さて いよいよ新居ね」そう言って宮里は二人をバスへと移動させる、バスの中には
静かに会話している女の子が4人ほど乗っていた、同じく首元に金色の細いチェーンが見
える、同じなんだ…と香織は思った、なんて声を掛けようかと思案していたが、それはす
ぐに馬鹿馬鹿しい心配であると気が付いた。

 「あ! ごめんね! 私達待っていてくれたの? 私達が一番遠かったのかな?」

 既に沙織はこぼれそうな笑顔で声を掛けていた…、そうなんだよね、沙織はこうだよね
…、香織は笑うしかなかった、全く無防備な笑顔は相手を安心させる最も良い手段なのだ
ろう、後から入ってきた沙織と香織のペアを見て一瞬だけ身構えた先着の4人が同じよう
に笑顔になった。

 「初めまして 川口香織です こっちのうるさいのが…」
 「あ!香織 それはひどいなぁ! ずるいじゃん!」
 
 香織はにやっと笑って続ける「今 沙織はじゃん言葉使ったでしょ」沙織のしまったと
いう表情が更に車内を笑わせる、ぺろっと舌を出したあとで沙織は改めて先着4人に向き
直り「橘沙織です よろしくね!」と言って笑った。

 先に乗っていた4人はそれぞれのペアで顔を見合わせた後で自己紹介が始まった。

 「えぇっと… 天羽です 天羽恵美です 相方は…」そう言って恵美は隣を見る、隣は
大袈裟な笑顔を浮かべて口を開く「私は真美 笹田真美です よろしく!」、香織はふと
思う、私より沙織と馬が合うタイプっぽいなぁ…と。
 残りの二人も顔を見合わせてから口を開いた、「ウチは光子って言います 西園寺光子
 多分関西人"でした"」そこまで言って光子の相方が大笑いした、沙織も香織も自然と笑
顔がこぼれる、イントネーションの全く違う言葉を聞き光子の相方もひとしきり笑ってか
ら自己紹介する、「私は望 飛田望です 飛田だと語呂が悪いからのぞみって呼んでね」
そう言い終えるまもなく光子が話を割り込ませる「そりゃ "のびた"て呼んだら変やろし
ねぇ どらえもんやないしね」「違う違う! 私は"とびた" でものぞみなの」車内がド
ッと笑う、テンションが違うとかではなく根本的に何かが違う人間がそこにいることを香
織は心から楽しいと思った。
 バスの外では宮里が知らない女性二人とアレコレ話し込んでいる、深刻そうな表情と無
防備な笑顔が交互に見えた、何を話してるんだろう?香織はジッと外を見た、やがて宮里
が他の2人とバスに入ってくる。

 「あと4人乗るはずだったけど天気が悪くて飛行機が来ないみたいだから…」そこまで
言ってから沙織と香織以外を順番にジッと見て言う「担当の宮里よ よろしくね 恵美さ
ん 真美さん 光子さん のぞみさん あとは 沙織と香織ね」
 バスは既に走り始めた、空港のビルを抜けて高速道路を走りバスは海を跨ぐ橋を走って
いく、今まで見ていた世界とは全く違うゴミゴミとした町並みを抜ける。その景色を見な
がら香織は懐かしいと感じた、しかし、それが何を意味するのか考えている余裕は全くな
かった、すぐ隣の沙織が他の4人とノンストップで話を続けている、今までここまで楽し
そうに喋り続ける沙織を見たことがなかった、心が既に外へ向かっていた沙織には夢のよ
うな環境なんだね…、香織は少しだけ寂しくなった。
 しかし、その時香織は気が付いてしまった、自分と沙織の決定的な変化なのだが全く意
識していなかった事だ、昨夜二人で大きなベットの上で戯れた時は…全くのシラフの状態
であったことに…
 理性の範囲内で精一杯の快感を求めて相手の体を求めた自分が何だか酷くミジメに思え
た、沙織とは違う意味で出荷準備が出来ていた自分の状態に気が付いたとき、ふと、沙織
と楽しそうに喋り続ける真美の隣で窓の外、遠くを見ている恵美に親近感を感じた。

 やがてバスは厳重なゲートのあるチェックポイントを過ぎて真新しい道路を走り始めた、
道路の周りは完全に有刺鉄線で覆われている、ほとんど車のいない真新しい道をしばらく
走るとトンネルに入り2つ目のチェックポイントを過ぎた。
 長いトンネルを走っていき前方に光輝く出口が見えた、車内の人間が目を細める、トン
ネルを飛び出したバスはほとんど間髪入れずに海を跨ぐ吊り橋を走っている、橋の途中に
3つ目のチェックポイントが有った、ここでバスは始めて止まりバスの床下やトランクな
どを細かくチェックされた、車内へも婦警が入ってきて顔写真入りの資料を見ながら全員
がチェックされる、ここまで運転してきたバスの運転手が降りて別の運転手が乗り込みバ
スは出発した、物々しい警備に女の子6人はいささか不安になった。

 橋を渡り終えるとそこは周囲を海に囲まれた小島であった、島に渡ったバスはそのまま
島中央の高台へと上っていく、道沿いには真新しい野球グラウンドが3面、美しい青芝の
光るピッチが4面、テニスコートの区画が遠くに見える、島の裏側には陸上トラックが有
るらしく、陸上競技のピクチャーサインが矢印と一緒に掲示されていた。
 高台の上には大きな体育館が2つとプールが見える、その向こうには大きな校舎が6棟
立っている、その隣は高層アパート状の居住施設、そしてその奥は2つのタワー型高層マ
ンション、この島だけで一つの学校と町を作っていた。

 バスは島を一周するように走ると高層マンションの前で停車した、6人がバスから降り
ると初老の男性一人と品の良いおばさま3人が立って女の子達を出迎えた。

 「やぁ やっと来たね ここが君たちの新居だ」そう言って背後の高層タワーマンショ
ンを指さす、隣のおばさまが口を開く「今はまだあなた達だけだからどこでも行って良い
わよ、他の生徒が入ってくるのは3日後だから」そう言って微笑む。
 「とりあえず中に入ろう、ここは日なただから色々と困るだろ? 色々と…ね」
 そう言って初老の男性はみなを中へと案内した、大きなホテルのエントランスロビー状
になっている辺りで男性は小さな箱を出した「さて では部屋を決めますかね みんなペ
ンダントを出してこの中に入れて」そう言って黒塗りの箱を差し出した、香織は首からペ
ンダントを外して箱に入れる、他の5人もそうしたようだ。

 「では… 宮里君 君がひきたまえ まずは15階…」宮里は箱の中からペンダントを引
き抜く「15階… 恵美ね」「では 次はその上16階」「16階は光子ね」
 そうやって15階から24階までの部屋を部屋のうち6部屋をそれぞれ割り当てられた、空
いてるところは後から来る4人に振り分けられると言う、香織は21階を割り当てられ、上
下は現状空き家になった。
 沙織が24階に割り当てられたのを確かめて全員でエレベーターに入る、ゴンドラが上昇
していき15階で止まる、ゴンドラ奥に居た宮里が入ったのとは反対側のドア部分にある小
さな銀の箱に持っていた恵美のペンダントを当てるとドアが開いた。
 宮里はペンダントを恵美に渡すと言った「後は自分で部屋を見なさいね」そう言ってド
アが閉まった、そうやって順番に降りていく、16階に光子が、17階は真美がそれぞれ降り
た。
 18階から20階は空室で21階の部屋前へ香織が降りた、音もなくエレベーターのドアが閉
まり香織はエレベータードアと割り当てられたまだ見ぬ自室の前に取り残された、どう頑
張っても人間が2人以上は入れ無い小さな空間でしかない。
 香織は持っていたペンダントをドアの施錠機に接触させる、ガチャッと音がして鍵が開
く、ドアを押して中にはいると昨夜沙織と二人で過ごしたのと全く同じ部屋があった。
 部屋の構造は大体分かっているものの一通り見て回る、キッチンには2人分の食器があ
り、ベットルームには二人分の枕が並んでいた、クローゼットの中には綺麗に整理された
服がギッシリと入っている。
 ベットサイドのモノ入れには生理用品と見慣れぬ銀のケースに入った薬、バスルームは
とにかく大きな作りになっていて沙織と一緒に風呂に入ってもまだ余るサイズだった。

 部屋を一通り見た香織は所在なげにソファーへと座った、目に付くところに掃除道具一
式が置いてある。

 ここが… 私の… 仕事場… なのね…

 香織はなにやら急激に不安に駆られ始めた、自然と涙目になる。
 全く知らない環境に放り出されて4週間、小さな部屋で過ごした香織が広い部屋でポツ
ンと一人膝を抱いている。
 香織の心を支えてくれる存在はここにはまだ居ない、誰でも良いから…来て…と呟いて
所在なげに小さくなって香織はまだ見ぬ誰かを思っていた。



-なんだお前ら! もう降参か! 諦めた者は前へ出て敗北の鐘を鳴らしていいぞ!

 誰が見ても堅気に見えない大男の教官は黒ずんだ竹刀を肩に掛けて怒鳴っている。その
前には大きなハンモックの包みを抱えた少年達が玉の汗を浮かべて肩で息をしていた、全
身から汗を噴出しヒューヒューと喉が鳴り胃液を吐き出している者も居る。
-全国選抜の特待生だと聞いていたが… ただのゴミ屑どもだったか! -苦しいだろ?つらいだろ? ここへ来て敗北者の鐘を鳴らせ! -そしてこう言うんだ!私は間抜けな敗北者です!脱落します許してください!

 ニヤニヤと笑う男の胸には教官を示すネームプレートが付いている、その男は倒れこん
だ少年を蹴り上げながらより一層大きな声で怒鳴った。
-全員!寝所設営!かかれ!  ぼやぼやするな! 

 およそ80人程の少年達は死力を振り絞るようにハンモックを抱えて教室へと走っていっ
た、足がもつれて転んだ者も起き上がって走る、蹲っている少年がグシャリと崩れるよう
に倒れこんで気絶した…。

 ここでは寝る事ですら競争を要求されるのだ、過酷な環境がいかに人を鍛えるのか?そ
の問いを出す為に少年達は今日も過酷な競争を強いられている。

 …約2週間程前、少年達は大きなバス20台に分乗してやって来た、全国の男子校や共学
校、TS法管理下にあるTSチルドレン学校などから特別に選抜された彼らは香織らと同じく
特定の目的を持ってここに集められている。
 人口減少が続く日本で才能と身体能力に優れた子供達を作り出すこと、すぐ近くの大き
な国が人口抑制を狙って一人っ子政策を推し進めた結果、100年ほどの間で人口は狙い通
りの数字には収まったものの人間性に問題のある大人ばかりの社会となってしまい非常に
問題となった。
 それを受けて政府が考えた次の世代の創造計画はまさに悪魔の法なのかもしれない。
 より速い馬を誕生させるべく計画的に掛け合わせを行ってきたサラブレットの様に、身
体能力と才能に溢れていると思われる人間だけが子孫を作れるシステム。学校の名を借り
た人間栽培工場。それがこの学校の実態だった。

 大きな教室に10人ずつ分かれた少年達は壁のハンモック掛けを使って人数分の吊床を展
開しその横に立っている。教官は教室を一つずつ見ながら少しでも吊り下げ方が悪かった
り整列が出来ていなければ容赦なく竹刀で張り倒してやり直しを命じていた。
-いいか貴様ら! -お前らはここで特別扱いを受けてチヤホヤしてくれると思っただろ! -それどころか良い女を選り取りでやりまくれると思ったろ! -適当にやっていても何とかなるとおもっていただろ!

 教官はビクビクしている少年達の顔を睨みながら続ける。
-なぜライオンは強いかわかるか? -なぜライオンはサバンナの王者であるかわかるか? -それはな ライオンは生まれつき強いからだ

 教官はニヤリとして続ける。
-ライオンはな 弱いオスは子孫を残せないんだ! -お前らのようなボンクラにも理解出来るように教えてやる! -間抜けで無能で弱いオスは強いオスに食い殺されて糞になって終わりだからだ! -弱者は強者に食われて糞になって蝿にたかられるんだ -弱者は何も残せない! 強者のみが生きていけるのだ!

 開け広げられた廊下を歩きながら教官は怒鳴り続ける。
-お前らの様な穀潰しを240人も集めたが ここで子孫を残せるのは約100人だ! -半分以上は脱落する 良く覚えておけ ダメ人間は子孫を残せない -優れたものだけがここでは生きて行く権利を持っている! -脱落が嫌なら努力しろ 他人より努力しろ! -誰かを出し抜いて生き残った者だけが勝者と呼ばれるのだ!覚えておけ!

 教官はいつの間にか廊下の終点に立っていた。
-4号棟 消灯! 就寝!

 少年達の吊床が下がる教室の明かりが一斉に消えた、たっぷりと汗をかいた少年達はそ
のままハンモックの中へ倒れこんでしまう、あまりのつらさに泣きだす者、静かにハンモ
ックから下りて涼む者、そのまま眠ってしまう者もいた。


 同じ頃、香織たちは高層タワー2号の10階、大食堂で食事をしながら授業をしていた、
品の良いおばさま3人はそれぞれが英語ラテン語ドイツ語の講師だった。
 今日の食事責任者はドイツ語だ、すべてドイツ語で語りかけられる。

 優れた人間は優れた業績を遺します
 優れた人間は優れた子孫を残します
 真実は何時も一つです
 あなた達は優れた人間です
 優れた人間の義務を果たしなさい

 沙織はフォークの変わりにペンを持ってメモをしながらソーセージをかじっている、真
美は講師のドイツ語を復唱しながら発音の練習をしていた、香織は…既にほぼドイツ語を
マスターしてしまい食堂の設営などでドイツ語講師にあれこれやらされる不利なポジショ
ンに収まっていた。
 「香織… weil ってなんだっけ?」
 「because に近いでしょ なぜなら〜 って感じの単語」
 「それで良いんだっけ?」
 「…たぶん そんなような使い方だよね 後ろに言葉が…」

 そう香織はテーブルの上においてある辞書に手を伸ばした、講師はその手を上からぺチ
ンと叩いて笑いながら言う。

 「意味が分からないときは前後の文脈から判断しなさい 何事もセンスです」

 高層タワー組みの6人は連日様々な授業に取り組んでいた、後から来る筈だった4人はな
ぜか姿を現さなかった、しかしそれを考える余裕は香織たちに与えられなかった。
 子供を孕み出産する間は勉強時間も減っていくのでやむを得ない措置かもしれない、し
かし、絶妙に面白いメソッドと飽きさせないカリキュラムは理解力や分析力に優れた香織
たちにとって実力を伸ばす良いシステムでもある。

 「はい 今日はここまで 明日はラテン語なので頭を切り替えてね」

 そういって講師のおば様は出て行った、香織たちは分担して食器を洗い片付けた後、14
階のサロンへおしゃべりをしにいった、女同士ってのは何でこんなにしゃべれるんだろ
う?、そんな事を思いながらも話題は男達の話になる。

:) 昼間外を走っていたでしょ 見た?
:) うん!見た見た!すごい数で居たよね 200人くらいかな?
:) どやろ? もっとぎょうさんおったんやないか?
:) 私達は6人でしょ? 他に女の子はいるのかな?
:) あっちの低い居住棟に結構居るらしいけど…
:) 見たの?
:) 私は見てないけど 恵美が見たって
:) うん いたよ すごい数で… でも100人位じゃないかな
:) 根拠は?
:) 4列横隊で30段とちょっとだった様に見えたから
:) 瞬間でカウントしたん?さっすがやな!
:) いや 5段ずつ6グループだったから それくらいかなって感じ

 たわいも無い会話のラリーが続きひと段落した頃、突然ドアが宮里が入ってきた、一同
を見回し口を開く、「再来週頃を目処に全体授業に切り替わります」、えぇ〜!っと驚く
一同、さらに言葉は続く「まずはアパート組みの女子生徒のみだけど、その後で男子生徒
も入ってきます」タワー住人達の目がキラキラと輝きだす。

 しかし、それと同時に注意を幾つか受けた。

 まず、他の女子生徒は下のアパートで施設の部屋より多少広いワンルームの部屋に一人
で居る事、男子生徒はプライバシーの無いハンモック生活なので仲良くなると部屋に来る
ようになる事、部屋に招きいれる行為はあなた達も含めて女子生徒の任意であり認可であ
る事、つまり、女子生徒の選択が男子生徒の住環境を大きく改善する事になる事、そして
部屋に招きいれた男子生徒はペアリング対象として記録される事などであった。
 3ヶ月の間に妊娠が無ければペアリングは強制解消となる…、だからあなた達、頑張り
なさいね、男の子達はそれまでに少々じゃ諦めないよう徹底的にしごかれるから…

 消灯時間になって自室へと戻った香織は無駄に広いベットルームでふと思った、ここに
来る人は…どんな人だろう…、下のアパートはワンルームか…、私達は特別な人間だもの


 負けられないわね…

 タワーの住人はみな同じ事を考えていた、タワー住人同士の横の繋がりは強力だが、そ
れぞれにライバルである事もまた良く理解していた。

 そしてそれから2週間後の朝、香織は2回目の生理を終えていた、再度の受胎検査を受け
問題ない事が分かると準備良しの頃合となった。
 その日から4号棟の講義室には薄紫色のセーラー服を着るアパート住まいの女子生徒に
群青色のタワー組みが混じり始めた、4号棟から6号棟までの学習煉内に女子生徒は約120
人、そこにたった6人の特別待遇を受けるタワー組みが混じる、嫌でも周囲から好奇の目
で見られるタワーの6人はそれぞれが破格の能力を持った人間だと徐々に証明されていっ
た。
 タワーとアパートの垣根を越えて交流を作り出すのはいつも沙織や光子たちの様に明る
く朗らかで誰とでも元気に話をする少女達だ、逆にアパート組みからとっつき難いと評判
になったのは香織と恵美だった、アパート組みの住人達にすれば最初に何て言葉を掛けれ
ば良いのか分からず、香織と恵美は沙織達タワー組みから話を振られて応える程度だ。
 アパート組みの女子達からはミステリアスな存在だと思われつつあったが香織はそれを
理解していながらとり合う事は無かった、何故かは分からないが不思議な自信が香織には
有った、ペンダントの存在も大きいのかもしれない、しかし、それ以上に言える事はア
パート組みと講義を聞いていると、なんでこんな簡単な事が分からないのか香織には不思
議でならなかった。

 「ちょっと頭の運動をしましょう」
 講師はホワイトボードにバケツの絵を描いて話を始めた。

 「ここに3リットルと5リットルのバケツがあります これで4リットル作りなさい」

 香織は見た瞬間に計算する、あぁ2回水をこぼすのね…

 しかし、周りのアパート組みは考え込む、沙織はアホくさと言う顔でノートに何か書い
ている、光子は「やっぱ水を4リットルも飲んでまうと苦しいやろなぁ」とか言いつつの
ぞみと掛け合い漫才に興じている。
 近くのアパート組みが声をかける「香織さん わかりますか?」、香織は不思議そうな
顔をしながら一気に話を始める。
 5リットルから3リットル引いたら2リットルでしょ、それを3リットルのバケツに入れて
から5リットルに水を汲んで3リットルのバケツが一杯になるまで水を移せば残りは4リッ
トルじゃん…簡単でしょ?

 なんでこんな簡単な事が…、それこそ理解できない香織の頭にはアパート組みの存在が
ほぼ消え去っていた、相手にするだけ時間の無駄、それより…いい男捜さなきゃ…

 香織がそんな事を思い始めて1週間後の夜、海岸で例の教官が再び怒鳴り声を上げてい
た、既に少年達の数は50人程度になっている、1ヶ月持たずに約30人が脱落した。
-貴様らだいぶ良い顔になってきたな! ギラギラした男の顔だ! -いよいよ明日から共同授業となるが…その前にもう一度言っておく 全員良く聞け!

 教官は竹刀でそれぞれの頭をタンタンと軽く叩きつつ歩きながら怒鳴る。
-相手が認めない限り事に及ぶな!SEXするな!押し倒すな!顔も見るな! -決まりを守れない馬鹿なオスは大事な金玉を握りつぶされてサメの餌だ! -わかったな!ここではすべてが24時間監視されているのを忘れるなよ! -禁則を破った者は脱落者以下の扱いだ 復活はない!

 少年達の顔が途端に青ざめる、今までに脱落した少年達がどこへ行ったのかを知ってい
るものは非常に少ない、ただ、ごく僅かに脱落組みから奮起して復帰した少年達は同じ事
を口にしていた…、小部屋の中で教官から赤と青の薬を選ぶよう指示されて…死か性転換
を選ばされた…と。
-明朝より隣の3号棟で講義を受け始める -それぞれに目標があるだろうから まずはそれに努力しろ -そして 他の者より早く交配相手を見つけるんだ -5号棟6号棟の連中に負けるなよ!敗者には糞の価値もないゴミ以下だ!

 そして教官は最後にこう付け加えた。
-お前達が全国から選りすぐりで集められた事は良く分かった -しかしお前らの隣に居る者もまた選ばれた者だ -全員がいい方向に進めるよう祈っているぞ -我が4号棟のゴミ屑どもが全員生き残れる事を俺は祈っている!
-寝所設営!かかれ! 

 少年達が大声を上げて教室へ駆けて行った、転んだり蹲ったりする者は居なくなった。
 全国から集められた知力と体力に優れた子供達からさらに選りすぐった約150人は人生
の伴侶となりえるまだ見ぬ女を思って眠りに付いた。

 明朝、香織はいつもどおり6時過ぎに起床しシャワーを浴びて身だしなみを整え10階へ
と行った、タワー組6人が並んでトーストとベーコンエッグの食事をとる、飲み物はカッ
プたっぷりのコーヒーだった、6人はその意味が嫌と言うほど分かっているので5杯も6杯
も胃に収めてタワーを降りていった、タワーの玄関で宮里がみんなにキャンディーを配る、
コーヒーフレーバーのキャンディーをいくつも受け取って香織は3号棟へ歩いていった。

 薄紫のセーラー服姿がいくつも見える、その隣には漆黒の学ランを着込んだ男子学生が
アチコチで女子生徒をナンパしていた。朝からプールで1000mほど泳がされジャブジャブ
とシャワーを浴びせられた男子学生だが、若い男の旺盛な新陳代謝は日中の屋外であれば
嫌でも汗をかいてしまう、その臭いに吸い寄せられて薄紫のセーラー服達は笑顔を浮かべ
ている。

 「沙織… アパート組みはコーヒー飲んできたのかな?」
 「多分飲んだでしょ って言うか飲んでないとああやって平然と…」
 「してられる訳無いわなぁ とっくにアカン事になってるわ」

 光子が横から口を挟んできた、のぞみも相槌を打つ

 「なんか嫌ね ああ言うの… 欲望の塊みたい」
 「しゃーないやろ あの男ども ハンモックで寝てるんやて」
 「ホンマに!」

 沙織は無意識に関西弁で応えてしまった、タワー組み5人がいっせいに沙織を茶化す、
舌をペロッと出した沙織は言う「関西弁に汚染されちゃった!」、すかさず光子が反撃す
る「汚染いうのは失礼や! せめて染まったとか言うたらええやん!」香織はそれに突っ
込む「染まるって汚れに染まるの?」「…もぉ!なにゆーてんねん!」キャハハ!と笑う
鈴の音が6つ、学ランとセーラー服のコロニーを押し分けて特別な6人が歩いていく。

 ふと香織は海のほうを見た、下のほうに青芝のピッチが見える。
 早速女子生徒を口説く男達がいる一方でモクモクとリフティングにいそしむ少年がそこ
に居た、ピッチにコーンを並べリフティングしながらコーンを交わしていた、香織は立ち
止まってそれを眺めた、あの彼 上手いなぁ…

 「香織!どうしたの?」恵美が呼びかけて香織は再び歩き出す、目的意識と明確な目標
を持ってここに来た男子生徒もここには居るのだろうと香織は理解した。やがてこの少年
が香織を巡って2人の男と死闘を繰り広げる事になるとは…、香織ですら夢にも思ってい
なかった。




 共学化がスタートして1週間、最初の事件はその日の夕暮れに発覚した。
 アパート住まいの女子生徒が夕方の時点で行方不明になった。
 島の出入り口は封鎖され生徒は全員自室へ戻るよう指示が出た、ありえない筈の侵入者
を探すマニュアル通りの対応だった。

 姿を消した女子生徒の部屋に居た男子生徒が重要参考人として教務課ではなく事務課の
スタッフに連れて行かれたようだ、しかし、翌朝になっても自室待機は解除されない。
 昼になって食堂へ集まったタワー組み6人は宮里から意外な説明を受けた。

 「行方不明になっていた子ですが…」宮里は明らかに口篭っている。
 その内容は容易に想像が付いていた、ただ、実際に説明を受ける段になってやはり身構
えてしまうのは致し方ないだろう。
 共学化から1週間、既に気の早い男女でペアリングが成立し押しかけ亭主に納まった男
子生徒が部屋主の女子生徒と激しく口論になり…カッとなって殴り殺してしまった。
 遺体を袋に入れて海に投げ込んだと供述した男子生徒の証言どおり、岩場の海底から袋
に詰め込まれた女子生徒の遺体が発見された。

 男子生徒の言い分は単純だ、求めたが拒否された、それでついカッとなって…
 子を生む事が求められるTS法の管理下において、男女どちらの言い分を尊重するかは非
常に重要かつデリケートな問題である、男子側の言い分を通せばただの管理売春となって
しまい、女子側の言い分を通せばミニチュア女王様の誕生でしかない。
 若いカップルの性欲をどうコントロールしていくのかは管理側の腕の見せ所であるが、
実際の話として精神論や根性論で抑制していくしか方法が思いつかないのであった。

 TS法の管理下で起きた事件ゆえに一般へ情報が漏れる事はめったに無い、ただ、法律を
管理する側にとって数字をコントロールし事実をもみ消さなければならない現実は残って
しまう。
 裁判所を通さずに現場でスピーディーに事が運ぶよう一定の司法権を持たされたTS法管
理部門の下した裁定は加害者男子生徒に対する強制性転換だった、自らがあけた穴を自ら
埋めるよう厳罰が下された。

 後日、その手の話は生徒達の間で燎原の火の如く広まっていく、男子側には厳しいモラ
ルとセルフコントロールが求められた、そして女子側には…

 「TS法においては 事に及ぶ場合あなた達の決断が必要になります」
 「しかし 勿体ぶって焦らし過ぎると相手は暴走しかねません」
 「時には素直に身を委ねましょう 自らの身を守るためです」

 教育現場の恐るべき実態と言う無かれ。
 特定の目的を持った制度と人員ゆえに結論へ至るのは早かった。

 共学化から1ヶ月、タワー組みがサロンであれこれ会話する内容は勉強よりも男子側の
話題だらけだった、どこの誰がアパート何号室の誰々とペアになった…。
 そんな話が怒涛のように続く時期だ、手と口の早い男子は女子を口説き落としてハンモ
ック暮らしから脱出し始めている、女子側も狭いながら楽しいマイルームとなってルーム
パートナーにすべてを委ねていた。
 ある意味で非常に大らかな同棲生活状態となるペアリングだが、いまだタワーの玄関を
突破した男子生徒は居ない。
 ハンモック生活を続ける男子生徒の中にはプロスポーツ業界や各種勝負師の世界で名の
通った人間も居るのだが、その手の男子達は安易にアパートへ入り浸るような安い存在で
はなかった。
 絶妙な距離感を保つ売れ残り男子とブロックの硬いタワー組みの間で不思議な達引きが
始まっていたのは、ちょうどこの時期だった…。


 ある日、沙織は3号棟の食堂で昼食後、アパート組みの女子生徒とオセロに興じていた、
沙織の安定した精神力はピンチに動じずチャンスで浮かれる事は無かった、そして、その
すぐ隣には作戦参謀よろしく分析力のやたらと強い香織が立っている。
 アパート組み女子生徒の中でも指折りの強さを持つ生徒が難なくひねり倒されている、
既に沙織の常勝街道は60連勝に迫る勢いだった。
 この日も…既に盤上は沙織の白が埋めつつあった、アパート組み女子生徒の戦況は芳し
くないのではなく絶望的な状況へと悪化の一途をたどっている、4隅の一角を失うか否か
の状況になり次の一手を思案していた。
 何かを決意したアパート住まいの女子生徒が一手指さんと手を伸ばしたその刹那、やや
距離を置いたところから男子生徒が口を挟んだ。

 「そこだと…7手先で右手前の角を取られる」

 フレームレスのメガネをかけたその男子生徒は眉一つ動かすことなく言い放ってじっと
腕を組んだまま盤上を見ていた、沙織はゆっくりと顔を動かして男子生徒を見る、その仕
草を香織も見ている。
 何かを見つけた男子生徒はゆっくり近づくとアパート住まいの女子生徒からオセロのメ
ダルを取り上げ一手指した。

 「ここが最善手だろうね 改善するには遠いがこれ以上の悪化を防げる」

 そう言ってどこかへ消えて行った、その後姿を沙織は見ていた。
 今日のゲームはこの一手から流れが変わり楽勝ムードが一変する力勝負になった、沙織
は次の一手を逡巡している、香織も同時に思案して最善手を探す、ここが…と思うマスへ
白を打った、沙織の一手は香織と一致した、結局この一手が流れを引き戻す打ち手になり
沙織の連勝はまた一つ伸びた。
 苦笑いしながら消えていくアパート組みの女子生徒が居なくなって、沙織は香織とオセ
ロを始めた、頭の回転が速い上に相手の手の内を知り尽くしている二人、盤上のマスがど
んどんと埋まっていく。
 しばらくして沙織はさっきの男子生徒がまた見ているのに気が付いた。

 「遠めに見てないでこっちに来たらどう?」沙織は明らかに誘っている、香織は察して
席を立った、男子生徒は頭をかきながら近寄ってきて席へついた。

 「誘われたら断れないんだったっけ…」そういってメガネを取り盤上のメダルを片付け
た。

 「私は沙織よ 橘…」
 「橘沙織だろ タワー組み24階の住人」
 「私を知っているの?」
 「知らない男はいないよ 隣は川口だろ 川口香織」
 
 沙織は香織の顔を見る、香織は笑っている。

 「さて ダダ話をしに来た訳じゃない 一局指そうじゃないか」

 そういって男子生徒は黒メダルを盤上へ置いた。

 「タワー組みの才女様に敬意を表して黒で指すよ これでも本因坊を目指す最年少新人
王候補なんだぜ」そういって少年は屈託無く笑った。

 「相手にとって不足は無いわね」沙織もニヤリと笑って白を盤上に置いた、香織はそれ
を離れて見ている。

 「制限時間はつけるのか?」少年の言葉には遠慮や配慮の類が一切無かった、しかし、
沙織はそれがなぜか心地よかった、今までタワー組み以外の人間からは色々と配慮がされ
ていた部分があったので息苦しかったのかもしれない。

 「オセロにも時間制限つけるの? まぁいいけど それより名乗ったら?」
 「あぁそうだな、4号棟住人 ハンモックナンバー5番 志賀英才だ よろしくな」
 「英才? すごい名前ね…」

 そういって沙織はじっと志賀を見る、しかし、その目は男を誘う女の目ではなかった。
 勝負が始まったのは午後の講義が始まる10分前だった、午後の授業は全国から集められ
た特待生たちの専門強化に当てられている。
 運動系はそのトレーニングへ、文科系はその研究へ、しかし、今日に限って言えば棋界
新人王を目指す少年の午後がオセロに費やされている…

 …勝負は2時間に及んだ、次の一手を沙織は真剣に考えた、その一手を見て英才は真剣
に考えた、それを繰り返した結果、4隅のうち3つは沙織が占めた、しかし64マスのうち
白が埋めたのは僅か28マスだった。

 「4マス差で俺の勝ちだな 面白かったぜ」そういって英才は立ち上がって4号棟へ歩
いていった、沙織はその後姿を見つめていた…、実力で負けた、力ずくでねじ伏せられた
感があった、ただ、それは爽快な負けだった。

 「負けちゃった… あ〜ぁ 60連勝ならず…」
 「でも 嬉しそうじゃん 結構いい男だったよ」
 「強かったよね 間違いなく強かったよね ここで…ここになかなか打てないよ」

 そういって沙織は盤上の黒いメダルを指で撫でている、その仕草が香織には酷くエロテ
ィックな物に見えた、愛しむ様にメダルを撫でていた沙織はそのメダルを拾ってポケット
に入れると立ち上がった。

 「次は絶対勝ってやるからね…」沙織の顔には笑みがこぼれていた…

 その夜、タワーのサロンで談笑する6人の中で沙織だけが浮いていた、ポケットから取
り出したメダルを無表情に眺めながら戦略を考えていた。

 「さ〜おり! どないしたん? なんや思い詰めとるやん」
 「え? あ…そう?」
 「沙織ね 今日の午後にオセロで負けたの 4号棟の男の子に」
 「え゙〜! ホンマに! 沙織が負けるってよっぽどやな」

 タワー組みの目が沙織に集まる、沙織は苦笑いして黙っている。
 間を持つように香織が口を開いた。

 「あの後で調べたんだけど… 彼は永世名人を生んだ志賀一門の跡取りなんだって」
 「志賀ってあの碁打ちの志賀一門?」
 「そうみたいね…」

 沙織の狙っている少年は碁の天才か…。 タワー組みの誰もがそう思った、本人は彼を
打ち負かすのが目標なのだけど周囲はそうは思っていない。おそらく、本人も彼を気にな
り始めた事にすら気がついていない…、どこか対等なライバルの様に思っているのかもし
れない。

 消灯時間になって自室へ戻った香織は外が明るいのに気がついた、部屋の明かりを落と
してベランダに出てみると野球場越しのサッカーコートであの時の少年が黙々とシュート
練習をしているのが見えた。
 ふと時計に目をやると既に11時を回っている、こんな時間まで一人で練習するなんて…
彼はまだハンモックかしら…、なぜそれが気になったのか香織は気がついていた、彼が気
になっていた、その練習を遠くからじっと見つめていた、やや離れたところから見えない
ディフェンス陣をイメージしてフェイントをかけながら切り込んで行きシュートを打つ姿
に見とれていた。

 11時半、少年はピッチサイドに投げてあった水を一気に3本飲んで引き上げていった、
シャワーを浴びるには既に遅い時間だろう、汗だくのまま寝るのかな…、それをイメージ
したら香織は体中が熱くなってしまった…
 私…恋してるの? その答えは自分では導き出されない。
 サッカーコートのナイター照明が落とされ月明かりに光る海が見えた時、香織の頭に少
年が水をがぶ飲みする理由が浮かんだ。きっと、お腹が空いていたんだ…

 育ち盛りの少年が夕食の後で黙々と3時間も練習すれば腹が減るのは道理だろう。
 どうやってご飯を用意しようか考えている自分が妙におかしかったのだけど、その理由
はなるべく考えないようにして手を考えていた。

 翌日、昼食時の食堂で沙織はオセロ盤を広げたまま英才を待っていた、沙織にリターン
マッチを申し込んでくるアパート組みの女子生徒に「ごめん! 人を待っているんだ…」
とだけ言ってサンドイッチを頬張りながら待っていた。
 しばらく待っていたら何人かの友人を連れて英才が食堂へやってきた、盤上を見てあれ
これ考えている沙織を見て苦笑いしながら英才がよっていく。

 「お嬢さん どなたか人待ちですか?」そういわれて沙織は口から心臓が飛び出しそう
なほど驚いた。
 「あなたに勝つ方法一晩考えて来たんだけど… 試させてくれる?」沙織はニコッと笑
いながら事も無げにそう言った、英才はもう笑うしかない。

 「んじゃ… チャッチャと勝負しちゃいますか 橘と勝負すると時間掛かるから…」

 そういって英才は上着を脱いだ、Tシャツ越しに筋骨隆々とした上半身が見える。

 「なんで碁打ちがそんなに鍛えてるの?」沙織の屈託無い質問は容赦が無い。
 英才の回答はこれまた絶妙だった「趣味だな 橘には関係ないだろ」

 双方引き下がる事が無くなった、プライドの高い人間同士、五寸で渡り合う前哨戦は引
き分けだった。

 案の定、英才は昼飯を食べ損なった、それどころか英才の打ち手を考えてきた沙織は押
し続けていた、危険なエリアは早めに手当てして有利な場所では細心の注意を払って…
 言葉で言えば簡単だが内容は厳しかった、碁打ちにとってオセロは決して簡単なゲーム
ではない、定石展開に持っていく勝負をしやすいか否かで判断できる問題ではなくなって
いた。
 前日の2時間勝負から1時間伸びて3時間勝負になった、今日は最後の一手を英才が打っ
て32対32のイーブンになって引き分けた。沙織がそれを狙った部分も有るのだけど、英才
が途中でそれに気がついて引き分け狙いに切り替えた部分も大きいようだ。

 沙織はオセロ盤を片付けながら英才に言葉を掛ける「囲碁って難しい?」、英才はしば
らく考えてから答えた「物心つく前から碁石を触っていたから分からない」と。

 「オセロと囲碁はどっちが面白い?」
 「そうだな 気楽なオセロも捨てがたいけど碁は別の楽しさがある」
 「それってどんなの?」
 「う〜ん 碁を打てるなら話が早いんだけどなぁ」
 「打てればね… 私は碁の打ち方を知らないからなぁ…」
 「覚えれば簡単だよ 将棋と違って駒の動きに差が無いから」
 「ふ〜ん…」
 「良かったら…」
 「良かったら… なに?」

 ここまで言って沙織は笑っている、次の一言をどうしても英才に言わせたい…
 彼女のプライドが頭を下げて彼を呼ぶことを拒否している、しかし、それを分かってい
ない英才ではない、彼もまた沙織に頭を下げさせる事を狙っている。

 「良かったら… 碁打ちの教科書あげようか?」
 「え? あ… うん… そう…」

 危なかった…とでも言いたげな表情で英才は笑っている、もう一押しだったのに…と沙
織は悔しがる。

 後に最強の碁打ち夫婦と呼ばれるようになる英才と沙織の達引きは一筋縄でいかない心
理戦の様相を呈し始めていた。

 そして香織は…
 食後にグラウンドでボールを磨いているサッカー少年を遠くから見ていた、ピッチのネ
ット越しにキャーキャー言うアパート組み女子生徒とそれを狙う男子生徒の間でワイワイ
と盛り上がるなか、ボールを磨いてそれをリフティングし離れたボールバスケットへ蹴り
込む練習をしている少年はネットの遠くで一人それを行っていた。
 彼は孤独なのかな…孤独が空きなのかな?
 香織の狙いがほぼ一人に絞られたようだけど、声をかける術が無かった、そしてその光
景を見て香織に狙いを定めた男子生徒が一名、黙々とピッチ周りを走りながら香織を見て
いた。

 施設から移り住んできて既に2ヶ月が経過しようとしている。
 香織達タワー組みの誰が最初に男を招き入れるのか?

 アパート組みのチェックも段々と厳しくなっていった。




 「7目差で俺の勝ちだな」

 英才の笑顔に充実感があふれている、沙織はまだ盤上を見ている。
 どこが悪かったんだろう?分析力に於いて沙織を凌駕する香織ですら囲碁の勝ち負けを
考えて戦略を立てることは難しかった。

 「ねぇ そもそも ここの石が死んだ一番のポイントはなに?」

 沙織の目は真剣その物だ。オセロ対決で3回続けて引き分けとなった後、英才は沙織に
囲碁の参考書を渡した、それはつまり英才のメッセージなのだが沙織は承知の上で囲碁の
勉強をしていた。

 「そうだな 布石の段階で目外しをキチンと読まないと… 手が先細りだ」
 「ルールは簡単だけど戦略性が難しすぎるわね…」
 「まぁ… それ故に1000年以上も楽しまれてる単純なゲームだからな」
 「もっと研究してくる…」

 そう言って沙織は立ち上がった、英才はそれを見ながら言う。

 「明日は全日本のトーナメントでいないから打てないよ 明後日な」

 良い勝負をしたという満足感が笑顔に溢れている、それが沙織には悔しくてたまらない、
絶対勝ってやるんだとタワーに帰ってひたすら研究し続けていた、そもそもの目的が何で
あったか、それですら沙織の頭からは消えていた。

 翌日の夕暮れ時、沙織はプリプリと怒りながらタワーに帰ってくるなりロビーで立ち話
していた香織と恵美に怒鳴った。

 「あの馬鹿! ぼろ負けよ! 信じられない!」

 二人は何がなんだか全く理解できない、しかし、それを意に介さず沙織は一気にまくし
立てる、中身は良く分からないが言いたい事は十分伝わった、どうやら志賀英才は今日の
勝負で全くいい所が無かったらしい…
 どうやら沙織は自分より強い英才が誰かにぼろ負けしたのが悔しいらしい、英才が負け
たのではなく自分より強い英才を打ち負かす存在が気に入らない様子なのだった。

 喚くだけ喚いて興奮したまま沙織は自分の部屋に閉じこもってしまった、香織は沙織を
呼びに行く事すら憚られるような沙織の興奮状態が羨ましかった、誰かの為にあんなに一
生懸命になれるなんて…、どっか違うぞ!って突っ込みを入れてくれる存在がいれば、ま
た違う展開になるのだろうけど…。

 その夜、香織は人気の全く無くグラウンドへ歩いていった、いつもは明るい光の溢れる
ピッチで"彼"が練習している筈だが今宵は漆黒の闇、ピッチに立って周囲を見ると何かを
思い出しそうな気がした。
 足元にボールをイメージしてピッチの上を右へ左へ…、女性物の可愛い革靴ではピッチ
の上で滑りやすい。それを計算に入れてボールを右へけり出しながら重心を移動して…
 突然ピッチが照明塔の光に包まれた、香織はその場で立ち竦むほどに驚く、しかし、ピ
ッチの向こうで更に驚いている少年が一人…

 「なにやってんだ? って言うか なんで女がここにいんだよ」

 ぶっきらぼうな物言いで少年は香織を見た。

 「ごめん… な… なんとなく… 懐かしかったから…」
 「なにがだよ…」
 「え? あ… うん… その…   …サッカーが」
 「はぁ?」

 少年はボールをピッチにばらまくと香織を無視して走り始めた、鋭くダッシュして急ブ
レーキ、また鋭くダッシュして今度は急カーブ。ややあって足元のボールを蹴り上げ頭で
リフティングしながらピッチを横に走り膝でトラップしてゴールにシュートした。
 香織はピッチの上でそれを見ている、流れるような動きを見ながらボールを扱う少年の
仕草に見とれている。

 「なぁ 気が散るんだ どっか行ってくれないか」

 香織は小さく「ごめんなさい」とだけ言ってピッチから出てタワーへ歩き始めた。
 少年は香織が居なくなったのを良いことにドリブルからフェイントの練習を始める、し
かし、ホンの一瞬だけ香織に目が行って足元のボールから目を切った瞬間、別のボールに
足が当たりそのボールは跳ね上がった、ボールはこれ以上ない位の角度で香織に飛んでい
く…、少年は瞬間的に思った。

 くだらない漫画の1シーンじゃ有るまいし…

 しかし、ボールはふわりと上がって香織へと飛んでいく、少年は香織を呼ぼうとしたが、
彼は香織の名前を知らなかった、少年の興味はサッカーだけだ。

 「おい! ボール行ったぞ!」どう声を掛けて良いのか分からず少年が咄嗟に口にした
言葉はそれだけだった。しかし、次の瞬間、少年は目を見開いて驚くことになる。
 ボールが行ったと呼び止められた香織が振り返るとボールは目の前だった、香織は咄嗟
に1歩下がって頭を引きながらボールを受けると胸でトラップして足元に落とす、ブラジ
ャーの上からボールで乳房を叩かれてゾクっとした物の、咄嗟の動きにしては上出来だっ
た。

 「わりぃ! 悪気はなかったんだ… 」一瞬間をおいて少年は香織にそう言った。
 香織はジッと少年を見据えて何かを言おうとしたのだが、先に口を開いたのは少年だっ
た…

 「すまない ホントに悪気はないんだ… 良かったら… ボール蹴ってくれないか」

 香織はボールを拾い上げると数歩ダッシュして蹴り上げた、振り抜いた右足がスカート
を蹴り上げ中身が丸見えだった…、ボールは空中を散歩して少年の足元へポトリと落ちる、
なかなかこれだけのスルーパスを貰うことはない…あの女、何者だろう?、少年は香織を
ジッと見ている、香織はトボトボと寂しそうにタワーへと帰っていった。香織のファース
トコンタクトはそれだけだった。

 翌朝、沙織は目を真っ赤にして食堂へ降りてきた、手にはびっしりと文字で埋まったレ
ポート用紙が握られていた、のぞみはそれを見るなり直ぐに察して茶化す

 「一晩中研究したんでしょ〜 愛しちゃって!」

 沙織は一瞬だけムッとした表情になったが、直ぐに耳まで真っ赤にして恥ずかしがった、
どうやら初めて自分の行為に気がついたようだ、真美がトーストを手に持ったまま笑って
言う「徹夜はお肌の大敵よね」、沙織はもう顔から火が出そうな位に恥ずかしそうだ。
 食堂でタワー組みが沙織を茶化してるとき、英才は4号棟の教室でハンモックを片付け
ながら考えていた、今日は絶対橘と顔を合わせない様にしよう、何を言われるか…

 しかし、そう入っても狭い学校の中だ、嫌でも二人は顔を合わせることになる、昼食時
の食堂で二人は遭遇した、英才はそそくさと脱出を図ったが、それを見た沙織の光速の寄
せで進路を阻まれた。

 「なにやってるのよ! 無様じゃないの!」
 「うるせーなぁ!いきなりそれかよ!」
 「そうよ!ずっとテレビで見てたんだからね!」
 「それはごくろーさんだったな!」
 「あんな間抜けな碁を打つなんて らしくないじゃない!」
 「あ゙んだって? 言いやがったな!」
 「当たり前でしょ! 棋譜を書いて研究したわよ 一晩中! なによあれは!」

 英才の目が怒気を帯び始める、沙織はさらにテンションが上がった。

 「だいたい 中盤で厚みが欲しい時に…」そう言ってレポート用紙を英才に押し付ける
 「自分の石の息を殺すなんてなに考えてんのよ!」沙織の声は叫びに近かった。

 「勝負のあやだよ! 元男なら分かるだろうが!」そう怒鳴った英才だったが、直後に
この一手がとんでもない悪手だった事を思い知った。両目に涙を一杯貯めて沙織は怒鳴っ
た。

 「英才のバカ!」

 そう言って泣きながら沙織は食堂を飛び出した、周囲の女子生徒や男子生徒がいっせい
にヒソヒソモードに入る、しかし、英才はそれに気がつくどころか呆気に取られ驚いた。
 自分を英才と呼んだ沙織の表情、それはまさしく恋する乙女だった…

 皿一杯のカレーを食べつつも英才の表情は虚ろだった、さっきの…橘の顔は…一体なん
だ?、この罪悪感は一体なんだ?
 ふと見れば食堂のカウンターに沙織の用意しかけていた昼食が残っている、トレーの上
に乗せられたサンドイッチと小さなパックのグレープフルーツジュース。

 英才はカレーを食べきるとそれを持って食堂を出た、出口付近で香織とすれ違った英才
は香織に尋ねる「なぁ 橘って一人で落ち込むとしたらどこへ行く?」、香織はそれだけ
で英才と沙織が緊急事態だと察した、しばらく考えてみたが思い浮かばなかったけど黙っ
ているのもどうかと思って咄嗟に言う

 「たぶんだけど… 景色のいい高いところね 沙織は24階だから」

 香織もそれがどこを指すのかはわからなかった、しかし、英才は何かを思いついたらし
くどこかへ走っていった。英才が足を止めたのは3号棟屋上だった、ここから見る景色は
タワー以外では最も高いところだ。

 ドアを開けて屋上に出た時、沙織はフェンスのそばに立って海を見ていた。

 「橘… 」さっきは言いすぎた、ごめん!とそう言えば話は済むと英才も分かっている、
ただ、やはりプライドがそれを許さない、しかし、ここまで来て帰るのもどうかと思うの
で沙織のところへ歩いていった。

 「橘… 飯食わないと体に悪いぞ」

 沙織はゆっくり振り向くが途中で止まって再び海のほうを向いた。
 咄嗟に英才と叫んだ自分が恥ずかしくなった、そして…、泣き顔を見られるのが嫌だっ
た。
 しかし、英才は意に介さず沙織の真後ろに立って口を開いた。

 「応援してもらったのに…悪かったな 前の晩は暑くて全然寝てなかったんだよ…」

 沙織はゆっくり振り向いた、涙はまだ止まっていない。

 「…ごめん 言い過ぎた」英才は何かを観念したようにそう言った。
 沙織は泣きながら笑みを浮かべる 「私の勝ちね」

 英才は何かを言おうとしてるのだけど、上手く言葉がまとまっていないようだった。
 沙織はそれがなんだか瞬間的に理解した。

 「サンドイッチ持ってきてくれたの?」
 「あぁ これも要るだろ?」
 「うん グレープ大好きなの」

 沙織に手渡そうとして英才がもう一歩踏み出そうとした時、沙織の表情が一瞬こわばっ
た、ここまで全力疾走してきた沙織は汗を掻いていた、そしてそれを追って来た英才も汗
だくだった。

 沙織の表情がこわばった理由を英才は理解した、沙織は必死になって理性の糸を握り締
めている、飛んだら負け…飛んだら負け…、負けたくない

 「なんで寝てなかったの?」
 「だから… 暑かったんだって…」
 「ハンモックルームにクーラーとか付けてないの?」
 「そんなもんある訳ないだろ 涼みたけりゃ女の所へ転がり込めって奴さ」
 「じゃぁ 今までずっと?」
 「あぁ そうだ それがどうした?」

 沙織が必死で握り締めていた理性の糸は切れ掛かっている、汗だくになって寝る英才を
イメージしただけで沙織の秘裂に恥蜜が垂れ始めた、もう…、我慢できない…

 「あ… 明日も… 碁を打つんでしょ…」
 「うん…」

 英才も素直になっていた、ある意味で沙織が陥落寸前なのに気がついていた。
 しかし、ここで沙織側から求められて…と言う形にすると、後々になっても色々と言わ
れかねないな…と、そう思っていた。

 「なぁ橘… 俺を一晩泊めてくれないか? 今夜も暑そうだし…」

 英才はすべて観念したようにさわやかな笑顔を浮かべた、男らしい良い笑みだ。
 それが沙織を陥落させてしまった。

 「うん いいよ… むしろ… 今すぐ来て… 今すぐ…」

 沙織の手が英才に伸びる、英才はその手を受け止めた、沙織の手が英才を抱きしめる、
沙織の鼻に英才の汗の臭いが充満した…

 「今すぐ… 私を抱いて…」

 英才は優しく微笑んで沙織を抱きしめた、それだけで沙織は意識が遠くなる、TS法で作
り上げられた子作り人形のスイッチが入ってしまった…
 3号棟の屋上出口扉付近で一部始終を見ていた香織は何も言わずドアを閉めて鍵を掛け
た、ドアの向こうで沙織と英才が事に及ぶのを見届けたのだった、なにかそれを見ている
のが凄く無粋な行為に感じて香織はドアを閉めたのかもしれない。この学校のこの屋上は
タワー以外からだと完全な死角になる場所だった。

 沙織… 良かったね…

 香織は無意識に涙を流していた、あの日から折り重なっていた沙織と香織の人生が切り
離された瞬間を香織は感じ取っていた。

 ドアの向こう、屋上の片隅で英才と沙織が最初の交わりをしている間、香織は門番よろ
しくそこで泣き続けていた…

 二人とも肩で息をしている状態で英才は沙織を抱きしめた、催淫効果のピークは越えた
が沙織の神経は昂ったままだ、沙織の幸せそうな表情が英才も幸せにしていた。
 「ねぇ… キスして…」熱いキスを交わす二人、英才は子種を全部沙織に注いでいた。

 乱れた衣服を直して歩き始めた二人、香織はそれに気がついてそっと鍵を開けて走り去
った、泣き顔を沙織に見せると心配するだろうな…、沙織は幸せ一杯なんだから…
 そう思って香織はいつの間にか3号棟のシャワールームへ来ていた、恐るべき事にここ
のシャワールームは男女兼用だ、午後の各自研究となっていたので誰も居ないだろうと思
い香織はシャワールームに入って熱い湯を被った、とにかく泣き顔を見られたくは無かっ
たのだろう。

 ひとしきりシャワーを浴びて脱衣所へ歩き出したとき、香織は湯気の中に人影を見つけ
た。それが男子生徒だと分かった瞬間にその人影は香織を押し倒した。
 シャワールームで倒れる香織、世界が前方へ流れていって天井が見えそうになった時、
後頭部にグシャッと言う音が響いた、押し倒した男の大きな手が香織の頭を守ったのだっ
た…。

 「なぁ 頼む 俺を求めてくれ… お願いだ…」

 そういって男子生徒は笑顔を見せた。香織は何て言って良いか分からなかったが、とり
あえず物の順序として思いつくままに声を出した。

 「その前にまずは名乗って欲しいものね」
 「…すまない」
 「私が誰だかわかって押し倒したの?」
 「もちろんだ タワー21階の川口だろ」
 「うん 正解」
 「俺は… ラグビー部のナンバーエイト 真田英雄だ」
 「では真田君 まずは私に乗っかるのをやめてもらえる?」
 「俺じゃ… やっぱ釣り合わないかな タワー住まいのエリートさんには…」

 そういって真田は体を起こした、いきり立った真田のペニスを見て香織は言う。
 「私を狙っていたの?」真田は何かを観念したように座り込んで言った。

 「しばらく前 サッカーコートの所で武田を見ていたろ」
 「武田って… 毎晩練習してる彼?」
 「そうだ」

 ふーん… 彼は武田って言うんだ…
 武田といえば千葉の名門市立船橋へ行く筈だったような気が…

 「川口… 俺の話聞いてる?」
 「あ ごめん 聞いてなかった」

 微妙な空気が流れた、しかし、香織は自分が素っ裸でいることに気がついてタオルを取
り体に巻いた、一部始終を真田は見ていたがいきり立っていた筈のペニスは萎えている。

 「俺… ずっと川口を見ていたんだ 最初に共学になった時からずっと…」
 「そう言ってくれるのは嬉しいけど… 私が認めないとあなたは処分されるよ」
 「わかっている でも 諦めたくなかったんだ 」
 「なにを?」
 「お前に決まってるだろ 」
 「なんで?」
 「昨日の夜 サッカーコートで武田と話をしていたろ アレを見て焦ったんだ」
 「何も話なんてしなかったよ」

 真田は一瞬ホッとした表情を浮かべたが、その後で酷く落ち込んだ。
 もはや処分は免れない…、覚悟を極めた表情だった。

 「さぁ 人を呼んでくれ 覚悟は出来ている」

 香織はしばらく考えてから真田に手を伸ばした、真田はその手を取った。

 「さぁ立って そして行って 今日は何も無かった そうよね さぁ行って」
 「え? おい それって…」

 香織はよそを向いて言った「私の気が変わらないうちに早く行って!」

 真田はうしろを向いて歩いていった、香織は小刻みに震えている。
 シャワー室の出口まで行って真田は香織に聞こえるように言った。

 「ラガーマンは最後まで諦めないように教えられるんだ おれは諦めない」

 沙織が幸せな初日を迎えた日、香織は危うくの強姦未遂だった。
 まだまだ波乱がありそうな予感に香織は震え続けていた…

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