俺は諦めない…
 諦めない…
 諦める…

 なんで?

 香織は昼間から同じ事を何百回も考えている。
 夕食時のタワー、沙織のいないテーブル、5人になったメンバー。
 皆は沙織の事で盛り上がっている。
 ただ一人、香織を除いて…

 「香織… 分かるけど… 落ち込んじゃダメよ」
 「そうよ! 沙織が人一倍元気なだけにね 香織は日影にいる美人よね」
 「ほんま真美は上手いこと言うなあ 沙織はひまわりやな 香織は… なんやろ?」
 「そうね 日影で美しく咲く朝顔って感じ?」
 「その心は… なんや?」

 「誰が見て無くても綺麗に咲いてる花」

 香織はジッと真美を見た、真美は静かに笑っている。

 「私が同じ立場だったら… 香織と同じ事をしたよ きっとね」

 「…見てたの?」

 真美は目を閉じて静かに頷いた、香織は全部理解した…
 「辛いよね…」真美の一言で香織は涙が止めどなく溢れた…

 「でも… その後も色々あったから…」

 色々の意味を4人は理解できないでいる、当たり前の話だし、香織は誰にも話をしてい
なかった。
 何となく同じ境遇にいる大切な友人としての4人には話しておいても良いかな?と考え
てはいるのだったが、24時間監視されているここでは不用意に声に出すと後で問題が大き
くなる事は容易に想像が付いた。
 どうやって伝えるかを考えて思案投首の香織なのであった。

 「実はね 昼間汗を掻いてマズイな〜って思ってシャワー室行ったの」
 「え゙? あの危険な3号棟の?」
 「うん… って そうなの?!」
 「良く平気やったなぁ〜 あそこでもう3人やられてんのやで…」
 「やられてるって?」
 「強姦や 強姦! 無理にされて3人おかしくなってるやさかいに…」
 「じゃぁ、私は危うく4人目だったわけね」

 4人が同時に声を出した 「え゙!」

 香織はカラカラと笑うしかなかった。話の流れとはいえ口に出して言ってしまった。
 どこかでこれを聞いている宮里がすっ飛んでくるのは時間の問題だと思った。
 もう…彼はダメかな…諦めないって言ってたのに…
 なんで彼のことが気になるんだろう…


 「香織… 平気やったん?」
 「うん 乗っかられちゃったけど… どいてって言ったら素直に…」
 「で、その男はどうしたの? 人を呼ばなかったの?」
 「うん… なんか… 動転しちゃって…」
 「あっぶないなぁ もぉ〜 ウチらは入れられたら終わりやで」

 香織はうつむいてしばらく考えた、なんで彼を逃がしたんだろう?
 あの時に人を呼ばなかった意味を何となく整理出来ていなかった。

 「多分だけど… 告白されちゃったからかも… しれない…」

 4人の目は香織へ集中する。4人は香織の次の一言が香織の運命大きく変えるだろうと予
感したのかもしれない。そして、香織もそう思っていた。

 「私のことをずっと見ていたんだって… でも… 私が見ているのは彼じゃないから…
 拒絶して…」香織はちょっとだけ涙目だった。

 4人の目は相変わらず炯々と香織を見ている。

 「香織の思い人って… だれなん?」

 光子は直球勝負を選んだ、光子は何かを感じ取ったのだろう、女の勘という物かも知れ
ない。しかし、元男が女の勘を持つのかどうか、それを考えている余裕はなかった。
 次に口を開いたのはほぼ沈黙を通していた恵美だった、恵美は不思議な胸騒ぎを感じて
いた。

 「私も知りたい… 香織の好きな人って だれ?」

 カードゲームなら相手の札の読み合いなのだろうけど、ここでは自分の将来が掛かった
大一番の勝負でもある。段々と真剣な声色に変わっていった。香織の口から誰の名前が飛
び出すのか…不思議な緊張感が溢れた。

 「あの… 名前が分からなかったんだけど… サッカー部の…」

 以外にも最初の反応をしたのはのぞみだった。

 「遠藤君? それとも 山田君?」

 「いや… 武田って言うんだって…」

 その一言で食堂が騒然となる「えぇぇぇぇぇ!」

 その理由が香織には理解できなかった…
 まさか… 誰かの部屋に既に… 香織の表情は曇った。
 しかし、その時に真美が口にした言葉は意外な言葉だった。

 「通称 地蔵の武田 でしょ 決して動かないって言うそうよ」

 なんでも真美が最近仲良くしているサッカー部の少年曰わく、武田はまるで地蔵のよう
なんだそうだ。練習から帰ってきても女の話はしない、ピッチサイドでキャーキャー言っ
てるアパート組の女子生徒に向かって堂々と"うるさい!"と言い放つ。それだけでなく、
今まで何度も女子生徒が彼に秋波を送ったけど、意に返えさぬどころか無視しきって練習
を続けるのだという。禁欲主義者とも場違いとも言われる不思議な存在…、それが武田ら
しい…、ちなみに武田の下の名前は誰も分からなかった。


 「…で なんでみんなそんなに詳しいの?」

 香織の疑問は素直な物だった、逆説的に自分が鈍いことを理解する…筈がなかった。
 天然系の本領を発揮している香織だったけど、誰も言葉を発しなかった…
 重苦しい空気が一瞬流れたが、その空気を破ったのは意外な人物だった。

 「突然ですが!」
 いきなりドアが開いて沙織が入ってきた、後ろには志賀英才その人が立っている…
 食堂の中にいた5人の視線が痛いほど英才を貫いた。

 「おいおい… ホントかよ…」英才は言葉を失った。

 男子生徒が未だに残っている4号棟だけでなくアパート組の女子生徒達とも次元の違う
場が目の前にあった、大きな食堂でたった5人が食事をしている光景。それはこの学校の
中の上流階級その物なのだろう…

 「知ってると思うけど 私の交配相手です!」そう言って沙織は笑った
 隣に立った英才は照れながら言葉を繋げる「交配相手ってなんだよ」
 沙織は幸せそうな笑顔で英才を見る、その表情があまりにコケティッシュだったので英
才は二の句をつけ損ねてしまった。
 「でもまぁ… うん、そんな訳で… 志賀英才です、よろしく」

 パチパチパチ…拍手に迎えられて二人は席に着く。食事は沙織の部屋で食べるかここで
皆と食べるかのどちらかなのだという。今宵はお披露目なので降りてきたけど、勝負の前
は集中したいから部屋に行くと英才は言った。

 香織の笑顔は寂しさに溢れていたが、それを気がつくものは無かった。
 次は私が… 暗黙のうちに始まった女同士の達引きだ。

 食後の談笑に香織は参加しなかった、沙織が英才の手を引いて談話室にやってきたのを
見てライバル心に火が付いたのかもしれない。

 自室に戻って外を見るとピッチを照らすライトの下、武田は黙々と練習に励んでいた。
 遠目に見ても肩で息をしているのが見える、ピッチサイドの水をがぶ飲みしたあとでま
た走り始めた。走って走って走り続けていた…

 次は私が…香織はふとそう思った、そして談笑し続ける談話室の4人も同じ事を思った。


 翌朝、香織が身支度を整えてタワーを降りると出口で真田が待っていた。
 どこか思いつめたような表情で真田は立っている、何となく気まずい空気がそこに
流れた。昨日の今日でこの熱意、香織の心を動かすには十分な熱意だろう。

 「川口… 昨日はすまなかった どうしても一言謝りたくて待っていたんだ」

 香織は下を向いて何かを考えている、はにかんだ笑みを浮かべて考えている。

 「謝って済む問題じゃないのは良くわかっているつもりなんだ… ただ、どうしても謝
りたかったんだ 自分にけじめを入れたかったんだ… 本当にすまなかった!」

 そういって頭を下げた真田はクルッと振り返ると全速力で走っていった、香織はその後
姿に見とれた。
 きっとゲーム中の真田はボールを受けるとこうやって風のように駆けていくんだろう、
襲い掛かる相手ディフェンダーのタックルをフェイントで交わしながら。

 「か〜お〜り〜 め〜っちゃええ〜おとこや〜ん!」
 「まさかラグビー部の真田君とはねぇ」
 「私だったらうんって言っちゃうかもなぁ〜」
 「香織はいったいどこが不満なんや?」
 「そうよそうよ、アレだけの男をそでにしたらもったいないよね」
 「どうせ生むのが義務なんだし搾り取っちゃえば?」

 気がつくと香織の背後に強力なオフェンス陣が構えていた、みな惚れ惚れするような真
田の後姿に見とれている。口さがないタワー組みの熱い視線が真田に注がれるなか、唐突
にタワーのドアが開いて沙織と英才のペアが顔を出した。
 その場の空気を読めない二人じゃないが、沙織のラブラブモードはとどまる所を知らな
いようだ。

 「はい、これ持って行って」
 「おい!、これないと沙織はタワーに入れないだろ?」
 「いいよ、帰ってくるの待ってるから… 今日負けたらたたき出すからね!」
 「おいおい…マジかよ…」

 英才は沙織からペンダントを受け取った、純金に輝くペンダントはタワーの鍵でもある
のだが…。

 「じゃぁ気をつけてね!」そういって沙織は英才を送り出した。
 タワー住人が皆それを見ている、沙織は振り返って香織に歩み寄った。

 「さ〜お〜り〜 早くしないとあの彼アパート女に取られるよぉ〜」

 沙織もどうやら真田を知っているらしい。


 何となく惨めに感じた香織は俯いて歩き出した、何がどう惨めなのかを表現するのは香
織にとっても苦痛だった。ただ、心の中にぽっかりと明いている大穴を埋めるだけの存在
を誰に求めればいいのか…、それだけは香織の中にはっきりと存在した。

 「私… なんかまずい事言ったかな?」
 「さっすが沙織やな、なんも分かってへん…」

 香織の足は自然にサッカーコートへ向かった、何がどうと言う訳ではないのだけど、多
分そこに行けば"彼"が居ると思っていたのだった、武田と言うらしい彼は…いつかどこか
であった事がある…、何となくそう思うのだけど、それが何時の事だったかは思い出せな
い香織だった。

 早朝練習で走り回っている少年達の中に香織は彼を見つけた、色とりどりのビブスをつ
けた少年達が3x3でフルコートのサッカーをしている、全身から汗がほとばしり声がか
すれ足は重そうだ。
 風下のネット側では半分飛んでいるアパート組みの女子生徒がキャーキャー言いながら
目当ての少年に声援を送っている。
 武田はそんな事に目も耳もくれずボールを奪い取ると一直線にゴールへ切り込んでいく、
やや離れた高台から香織はそれを見ていた。
 ああやって…私も彼に切り込んで…、しかし、香織がその時イメージしたのは自分が
ボールを持ってゴールへ切り込んでいく姿だった。
 風を受けて砂埃を舞い上げ大地を蹴って走っていく自分。

 ピッチの上では武田の放ったシュートがキーパーに弾かれ攻守交替し、武田は自陣へと
全力で走って戻っていった。ボールを持たないときの疾走はとにかく早かった、素早く自
陣のペナルティエリア付近まで走って戻った武田は踵を返すとボールをもって切り込んで
きた敵側の選手に猛然と襲い掛かった。右斜め前の角度から敢然とスライディングタック
ルを仕掛ける武田の姿にふとデジャヴを覚えた香織はその場にうずくまった…

 今のシーン、見たことある…
 何となく断片的な記憶のカケラが頭の中に散らばっているイメージだった。
 ただ、香織は確かに今のシーンを以前どこかで見ている、そしてそれが自分自身である
と思い出し始めている…

 記憶の封鎖と再合成がどれほど危険な事であるかは大脳生理学の現場で検証されつつあ
ったが、それよりも実利のほうが大きいと判断されTS法の被験者に退行催眠を施し記憶を
上書きしていく作業は行われていた。
 ただ、大脳ではない部分に強烈なプリンティングとして書き込まれた記憶は何かの拍子
に浮かび上がってくるらしい…、過去様々なTS法による被験者受胎の現場で問題になって
いる事がここでも発生しつつあった。


 浮かび上がってくる記憶がどれほどの危険性を及ぼすのかを横断的に統計した記録はま
だ無い、ただ、その多くが男女の交わりの中で出てきてしまう事に問題があるのだった。
 男性として生を受け記憶を紡いできた者が女性として性の記憶を紡ぐと言う記憶整合性
の乖離に脳が付いて行けなくなるのではないか?。そんな仮説が研究機関により立てられ
脳下垂体肥大などの実質的な影響が取り上げられていた。ただ、それよりも人口総数の維
持のほうがはるかに重要であり、記憶整合性の問題により廃人化して言ってしまう女性化
男性のメンタルケアを行っている機関は非常に少ない。

 うずくまった香織にいつの間にか寄り添って肩を抱いた沙織はそっと囁く。

 「香織… その一線を越えちゃうと… きっと今よりつらいよ…」
 「沙織…」
 「抱かれるって良いものよ、嬉しいのよ、気持ち良いんじゃなくてね」

 沙織の微笑みの理由をわからない香織ではない、二人の間の信頼関係は磐石なのだ。
 香織の胸に去来する思いを受け止めてくれるのが誰なのか?
 並んで歩く二人を見つめるアパート組み女子や未だフリーの男子達にとって非常に重要
な問題なのであった。

 「なんでおいつかねーんだよ! 走らねーと サッカーになんねーだろ!」

 大声を上げて自チームを鼓舞する武田だけがここで浮いていた。


 昼時、食堂で香織はたった一人の昼食をとっていた、沙織はと言うと食堂のテレビに向
かって「あぁ!馬鹿!」だの「そっちじゃないでしょ!」だのと英才を応援していた。
 それを虚ろに見ながら香織は思う「いいなぁ…」。

 「暇そうじゃん!」そう言っていきなり香織の目の前に座ったのは武田だった。
 香織の目が点になる、あまりの緊張に飲み込みかけたホットダージリンを噴出しそうに
なった。
 「おいおい…気をつけろよなぁ〜、いい女が台無しだぜ」
 武田の笑みに香織は溶けそうになる、すでに表情は土砂崩れ一歩前だ。

 「この間の夜は…邪魔して…ごめんなさい…」

 はにかみつつ搾り出すように声を出した香織に武田は容赦なく声を浴びせる。

 「え?あ、あれか、うん、はっきり言って……  邪魔だった」
 「でも、蹴り返してくれたボールは凄かったな、あんなパス受けたら…」

 香織の目が輝く「受けたら… どうなの??」
 「受けたらノントラップでシュートできるな…」ニヤリと笑う武田が一呼吸置いて話を
続ける。
 「たださぁ困るんだよ、スカートであんなキックされるとパンティ丸見えジャンか!」
 そういって屈託無く笑う武田の言葉を聴きながら香織はもう一つ、何か大切な物を思い
出しかけたような気がしてきた。しかし、それ以上に言える事は衆人環視のど真ん中だと
言うのにデリカシーの無い大声で女の子が嫌がるような言葉をペラペラとうたう武田の無
神経さだった。

 途中で段々と顔から火が出そうになっている香織を見ながら武田はなおも続ける。

 「おい!顔色悪いぞ、真っ赤になってるけど腹具合でも悪いのか?糞が出ないとか」

 もはや引っ叩くしかないと思い始めた香織だった、ここまで言われたい放題では沽券に
関わると思った。気が付かないのは本人だけで周囲は確かに香織の顔色が変わったのを見
抜いていた、そろそろ爆発する…、防爆退避!。ささっと人が少なくなる。

 「武田君… あのさぁ…」かなりきつい怒気を帯びた視線を受けた武田は平然と受け流
しつつ切り返す、「怒った顔の川口も素敵だな、俺を引っ叩いてくれるか?」と、そうい
って顔を突き出した。
 だが、香織は呆気に取られた、まさか武田が自分の名前を言うとは思わなかったからだ。

 「私の名前を何で知ってるの?」ネームプレートなど付けやしないこの学校で名前を知
る事はかなり難しい、しかし、武田は確実に香織の名前を呼んだ。

 「知るも知らないも… ライバル宣言しに来た奴に言われちゃ覚えるしかないじゃん」
 「ライバル宣言って… 真田君が来たの?」
 「え? だれだそれ? 俺んとこに来たのは… あいつだよ」
 そういって武田が指差したのは見事な逆三角形の上半身をした濡れた髪の少年だった。
 「あいつは水泳部の鈴木、平泳ぎで世界一速い男に挑戦中なんだとさ」
 「水泳部…」
 「水の中は飽きたから川口の上で泳ぎたいって言ってたぜ…」
 え?っと呆気に取られる表情を浮かべて香織は驚いている、それを見ながら武田は言葉
を続けた
 「まさか俺の名前を思い出してくれるとは思わなかったよ、じゃぁな!」

 そういって武田は笑いながら鈴木の方へ歩いていった、鈴木と少し言葉を交わすと豪快
に笑いながら食堂を出て行った。
 その後姿を香織は追いかける、思い人がこれじゃぁ…
 …って、その前に、名前を思い出すって…どういう意味?

 香織の波乱に満ちた恋は道のり厳しい物になりそうな予感がしていた…




 夕暮れの光線が雲の切れ間から校舎を染める時間帯、海からの風は湿り気を含んで肌を
べとつかせる。ギラギラと輝く太陽が水平線の向こう側へ落ちていくと蒼く染まる僅かな
時間帯を経て墨を流したような暗闇が島を包んだ。
 今日も武田はサッカーコートで居残り練習をしている、僅か数人のメンバーがそれに付
き合っていたけど途中でアパート女のどこかの部屋へ消えていったようだ。
 4号棟の教室にハンモックを張って寝ているのは、いつの間にか武田を含め両手に余る
ほどの人数になっていた。5号棟6号棟の男子生徒が集められて集約するらしいと発表があ
ったのは数日前だった。

 日没後のシャワータイムを経て男子棟の教室に夕食が運ばれてくる、調理室で集中調理
された今宵のメニューはガッチリ巨大なメンチカツ数枚に大量の飯とみそ汁だった。
 馬が顔を突っ込む飼い葉桶の様なバケツには大量に刻まれたキャベツなどの野菜類が入
っている、武田はまるで競争でもしているかのように飯を食っていた、向かいの席にはラ
グビー部主将を務める真田が武田に負けないサイズの丼でガツガツと飯を食っていた。

 教室内の男子生徒数は僅か15名、しかし、その15人で女子生徒なら50人分は食べてしま
うのではないか?と言う勢いがあった。

 「おい真田、お前タワーの女に俺の名前言ったか?」
 「あぁ、21階の川口には…言ったけど、まずかったか?」

 「…………いや、なんでもない」

 再び黙ってワシワシと飯を食い始める武田。
 数日前の食堂で何気なく口にした言葉を後悔していた。

   ……思い出してくれたのか?

 俺はもしかしてとんでも無い事を言っちまったのかな…
 後悔しても遅いけど…
 川口…
 あいつは…やっぱり…

 「武田、お前なんか隠してんだろ?」真田の目は真剣だった。
 「え? あ、いや、隠してるっていうか…」武田はどう言って良い物か悩んだ。
 自分が知っている川口の…、川口香織という人間の重要な事実。しかし、それを口にし
てしまうと、きっとあいつの事だから…
 「絶対負けねーからな、お前だけには負けねぇ!」真田の鋭い目はライバルを射抜く強
さを含んだ獣のような目だった。

 「ん…まぁ…   おれはサッカーだけ出来りゃ、それで良いんだけどなぁ」
 そう独り言を呟くと残っていた飯を麦茶で流し込んでグランドに出ていった。


 同じ頃、タワーの食堂で香織は沙織と久しぶりに差し向かいで食事をしていた、列車に
乗って対局に出掛けていった英才がまだ戻っていないのだった。
 大雨の影響で列車が止まってしまったらしい、島は降っていないが橋の反対側にある町
の辺りは夕立で相当降られたようだった。

 「英才…  大丈夫かなぁ…  ご飯食べたかなぁ…」
 「子供じゃないんだから平気でしょ」
 「うん…  でもさぁ…  電車止まってるって言うから缶詰になっていたら…」
 「夜食でも用意しておいてあげられると沙織も安心なんだけどねぇ…」

 そこまで会話して香織はハッと気が付いた、いつも最後に水をがぶ飲みして教室へ引き
上げる武田に夜食を用意して上げよう…、何で気が付かなかったんだろう…。

 「ねぇ沙織、調理室のおばちゃんに相談して夜食作ってもらおうか?おにぎりとか」
 そう言う香織の顔は何かを企む策士の顔になっていた、沙織は当然それを見抜く。
 「か〜お〜り〜 自分の分は…誰にあげるの? 自分じゃ食べないよねぇ〜」
 「う〜ん、内緒!」そう言って微笑む香織の表情に沙織は何かを感じたようだ。

 食後の二人は談話室へよらずタワー隣の集中調理室へと歩いていった、巨大な調理工場
となっている部屋の中でおばちゃん達がせっせと洗い物に勤しんでいる。

 「こんばんわぁ〜!」沙織はこう言うとき本当に役に立つ、どんな時も元気良く挨拶か
ら話に入れる沙織の性格は自然と誰からも好かれる物だった。
 実は…、かくかく…しかじか…と言うわけで…、沙織と香織の相談は簡単だった。
 おばちゃん達もある意味心得た物だった、「ただし…」、そう言っておばちゃんは笑い
ながら二人に答えた。

 「自分の手でつくって上げなさいね、その方が喜ぶから」

 セーラー服の上から前掛けをして調理帽を被りヘアピンで止めると二人は調理室へと入
った、巨大な炊飯釜やオーブン、幾つも並んだ蛇の目台、そして、壁一面の冷蔵庫。
 おばちゃん達が出してきたのは生米だった、数人のおばちゃんが笑いながらレクチャー
を始める。

 「これも女に必要な能力の一つだからね、実戦で覚えるのよ!愛のエプロンね」

 米を研いで圧力釜で炊きあげる、僅か10分で粒の揃った炊き立てご飯が出来上がる。
 塩と梅干しを用意して炊き立てアツアツのご飯でおばちゃんはおにぎりを握った。

 「不用意に持つと熱いわよ、炊き立てだからね、気を付けて… 火傷するよ」

 僅かな水を手に落とし塩を取ってから手早く握る、言葉にすれば簡単だが実際にやって
みると案外に難しい作業であった、そして何より、炊き立てで熱い事この上ない。

 「熱い熱い熱い! うわぁ!」などと大騒ぎしつつ不揃いの握り飯が幾つも出来上がっ
ていく、一帖の海苔を半割にして握り飯に巻けば出来上がり。
 自分の部屋から持ってきたタオルに包んで二人は調理室を出た。

 「ありがとうございました!」二人はお辞儀してその場を離れようとする。
 「ちょっと待ちなさい…」おばちゃんは空いているペットボトルに麦茶を入れて持たせ
てくれた、「これがないと困るでしょ?」「頑張りなさいね」「明日も来るんでしょ?」
 ここの人達はみんな味方なんだ…、そう思うと二人は心から嬉しかった。


 「香織はグランドへ行くんでしょ?」「…うん」「んじゃ、気を付けてね!」

 そう言って沙織はタワーへ消えていった、香織は街灯の灯る道をグラウンドへ走ってい
く、汗を掻いたらマズイかな…、いや、むしろ汗を掻いていれば…ウフフ…
 小悪魔のような微笑みを浮かべる香織がグラウンドに到着したとき、武田は無心にフェ
イントの練習中だった、近づくのも憚られるような集中力でボールを捌く練習だった。
 香織はやや離れた闇の中に腰を下ろした、武田が練習を終えるのを待つ事にした、明る
い光を浴びてたった一人のファンタジスタがボールと戯れている。

 「上手いなぁ…」

 無意識に香織は言葉を発した…
 目の前で繰り広げられるボールとの芸術、まるでボールが意志を持ったかのように武田
の周りを漂っている。
 右足の甲で蹴り上げ膝から踵、肩、腰、頭、膝…
 バウンドさせたボールの上を両足がヒラリと越え後ろ向きで足裏パスを出す、後ろの回
り込んでくるはずの味方に対して出したボールは香織の足元へ転がった、いつの間にか香
織はピッチに入っていたのだった。

 「川口… また来たのか?」
 「…うん」

 気まずい空気が流れる…

 「悪いけど俺は女と遊んでる暇はないんだ」
 「なんで?」

 武田はクルッと振り返って次のボールを蹴り上げると再びリフティングからフェイント
の練習に入った。

 「世界では今も裸足でボールを追っかけてる子供がいるんだ」
 「彼らは生きるためにサッカーをしてるんだ、サッカーが上手くなれば給料を沢山貰え
るし、良い生活が出来る、何よりヒーローになれる」
 「そんな奴らが目指すのはただ一つ… ワールドカップだ」
 「あの舞台で活躍すれば全く違う人生が待っているんだ」

 そう言って武田は短いダッシュを繰り返しながらボールを捌き続ける。

 「なんで…ワールドカップなの?」

 香織の脳裏に何かが浮かんだ、沢山の断片的なシーンのコラージュ、見覚えのある瞬間
の積層体、それは全てサッカーの一シーンだった。

 「なんで… か」

 武田は足を止めて背中を見せた、そのままダッシュしてピッチ中央まで走っていった。


 「俺には幼なじみがいたんだ、そいつといつもボールで遊んでた!」
 「俺はいつもそいつを抜くことを狙っていた、そいつはいつも俺をブロックした」
 「俺はそいつをパスする為だけにフェイントを練習してたんだ!」

 ボールを蹴った武田は全力ダッシュで香織に突進してくる、光速ドリブラーの異名を取
りU-15世界屈指のスピードスターと呼ばれた武田は香織の直前でクルッと廻って背中を見
せ、空中を散歩しながら香織のすぐ脇を抜け再びボールを蹴り始める。
 真横をすり抜ける武田に一瞬香織は反応した、ほぼ無意識だったけど足が出掛けて引っ
込めた、理由は分からないけど何となく直感で感じただけだった、これで止めると彼が転
ぶ…と。

 「やっぱり…一瞬反応したな」
 「…武田君」

 武田は再びピッチの方へ走っていった、香織は駆け抜ける武田の顔が一瞬だけど泣き顔
だったような気がした、その意味を何となく…香織は思い出し掛けていた…

 背中を見せたままの武田、肩がカクカクと震えている、両手をギュッと握りしめうなだ
れて何かに耐えている…

 「今のはマルセイユターン…よね、伝説の英雄、フランスのジダンが得意だった技」

 香織の脳裏に散らばる記憶のカケラが一つずつジグソーパズルのように組み合わさって
一枚の大きな画になりかけていた、それは香織の少年時代の記憶その物だった。

 「おれは約束したんだ!」
 「おれは最後に約束したんだ!」
 「おれは必ずワールドカップへ行くんだ!」
 「ワールドカップへ行って大声で名前を叫ぶんだって約束したんだ!」

 振り返った武田の顔は涙に濡れていた、海を挟んだ反対側の町に雨を降らせた雲が島に
掛かり始めている、ポツポツと降り出した雨の中、武田の涙は止まらなかった。

 「おれの事もサッカーの事も!みんな忘れちまうあいつの名前を叫ぶんだ!」
 「そしたら…   そしたら、思い出すかもしれないから…」

 そこまで叫んで武田は泣き崩れた、いつもクールに練習し続けている武田が男泣きに崩
れた、声を上げて泣きながら武田は叫ぶ。

 「おれはあいつとワールドカップへ行きたかったんだ!」


 普段ならすぐにもらい泣きする香織だったが不思議と冷静だった。
 何かを思いだした、間違いなく覚えているあのシーン・あの光景。
 全てが一本の線に繋がった気がした、封じられていた記憶が少しずつ繋がっていく…

 ふと足元に目を落とした香織はボールを見た、コロコロと転がっていくボールのイメー
ジが頭の中で続いている、香織はそのボールを甲で蹴り上げると頭でリフティングし始め
た、リズム良く垂直に打ち上げ背中に落とし踵で受ける、それを再び蹴り上げ膝で起こし
ながら右へ左へ動き続ける。
 泣き顔の武田が見とれている香織のステップ、まるでワルツを踊るように優雅に緩やか
にピッチを流れた香織は左スネでトラップすると叫んだ。

 「まさと! センタリング行くよ!」

 フワッと起こしたボールに鋭くダッシュしてボールを蹴り上げた。
 美しい放物線を描いたボールは武田の…勝人と呼ばれた男の目の前に落ちる。

 「おまえ…     」

 何かを言おうとした武田だったがその刹那に雷光が二人を照らし雷鳴が聴覚を奪った。
 立ち上がった武田はボールを拾うとインステップで香織にパスを出す、そのボールを香
織は胸で受けた、ブラ越しの感触が気持ち良いと香織は感じた。

 「川口、おまえ…」

 そう言って歩いてきた武田だったが良いタイミングで雨が降り始めた。
 バケツをひっくり返したような土砂降りの雨がピッチに降り注ぎ勝人は慌ててボールを
集めるとバスケットに放り込んだ、気が付くと香織も走りながらボールを集めている。
 二人してずぶ濡れになりながら集めたボールをピッチサイドへ置くと屋根のある所へ雨
宿りに入った、二人ともずぶ濡れだが笑っていた。

 「びしょ濡れになっちゃったね」
 「あぁひどい雨だ」
 「シャワーとか浴びる場所有るの?」
 「いや、そんなモン無いよ、別に平気さ、タオルで拭いて寝るよ」

 香織は静かに笑っている、勝人はそれを見ている。

 「川口…綺麗だよ、凄く綺麗だ…、ホントに…」

 「ねぇ…」
 「ホントに川口なのか?」
 「私の部屋に来て…くれる?」
 「え?」

 そう言うが早いか勝人の手を取って香織は走り始めた、いきなり走り出した香織に引っ
ぱられ勝人もダッシュする、雨の中を二人して走っていくシーンを筋力トレーニング室の
窓から鈴木は見ていた「おれは予選落ちか…」。


 タワーの玄関を突破しエレベーターに収まる二人、勝人は目を丸くしている。
 この学園にこんな場所があっただなんて…、目の前にいる香織の背中がかすかに震えて
るのを勝人は気が付いた、なんて声を掛ければ良いのか…頭の中を色んな言葉がグルグル
回って上手くまとまらない。
 21階のドアが開いて香織は玄関前に立った、勝人はまだエレベーターの中だ。
 振り返った香織は優しい微笑みで手を出した「お願い…来て…」。
 全てを覚悟した勝人はエレベーターを降りる、ドア前の狭い空間に男女二人が取り残さ
れてエレベーターのドアが閉まった、鍵を開けて部屋に入った香織はバスタオルを勝人へ
渡す。

 「とりあえず雨を拭こうよ、拭いたらソファーにでもかけて待ってて」

 そう言って香織は奥の部屋へ消えていった、勝人はびしょ濡れの顔や頭を拭きながらジ
ャージを脱いでTシャツ一枚になる。
 4号棟の教室は無駄に広く、そこにあり合わせのテーブルを並べ飯を食い、ハンモック
をつり下げ寝ていた勝人には想像も付かなかった恵まれた世界。
 窓の外には海が見える、21階ともなれば眺望は素晴らしい限りだ。

 「凄いな…」

 勝人にはそれ以上の言葉がなかった、俺の知ってる一緒になって走り回ったアイツがこ
こでこんな暮らしをしていただなんて…
 ふと部屋の隅の机を見れば英語ラテン語ドイツ語の辞書や教科書が並んでいる、反対側
の壁には群青色のセーラー服が2着ぶら下がっている。
 壁には大きな壁掛けテレビが下がっていてその下には名も知らぬ花が飾られていた。

 再び外を見た勝人は眼下遙かに走ってくる車を見た、タクシーの表記がある車から見覚
えのある生徒が下りてきた、志賀英才が対局を終えて帰ってきたのだった。

 おれは…どうすれば良いんだ…
 遙か遠くの空、雨を降らせた厚い雲が切れ始め大きな月が姿を現した。
 雨上がりの綺麗な空に浮かぶ蒼い月、その光が香織の部屋の中にこぼれている。


 突然パッと部屋の明かりが消えた、驚いて振り返る勝人。
 振り返るとそこにはブラウス姿の香織が立っていた、麦茶を入れたグラスを二つ持って
立っている。

 「座ったら?」そう言って香織はソファーに腰を下ろした、小さなテーブルを挟んだ反
対側に勝人が座る、麦茶を手渡して自分の分を飲み始める香織、会話のきっかけのその先
を取り合う状態だった。

 「月明かりに照らされるとなお綺麗だな…、どこかのお姫様みたいだ」

 勝人の口調はとても緩やかだった、日中の食堂で聞くような言葉は出てこない。
 それが勝人の配慮であると香織は気が付いた、前から分かっていたのかも知れない、そ
んな風に香織は思い始めていた。

 「月の光に照らされると正体がばれるのよね、映画なんかじゃ定番のパターン…」

 香織の切り返しには僅かな棘があった、勝人は何て言葉を掛ければ分からず、糸口です
ら失ったような状態になった…

 香織はうつむいて何かを考えている、勝人が何かを思いついた様に言う。

 「正体がばれるってなんだろうな?」

 顔を上げた香織は正面に勝人を見つめている、その目には何かの覚悟があった。
 おもむろに立ち上がった香織はブラウスのボタンを外し始めた、ゆっくりとブラウスを
脱ぐとブラジャーに支えられた大きな乳房が月の光に照らされ豊満な印象をより一層深く
した。
 スカートを下ろして下着姿になった香織は笑顔で勝人を見ている、勝人は目のやり場に
困っている様だった。

 「お願いだから…私を見て…、目を反らさないで私を見て…、私の正体を…」

 そう言うとブラジャーのホックを外してぽいと投げ捨てた、桃のような形の良い乳房が
露わになる、勝人は言われるがままにそれを見ている。
 香織はショーツに手を掛けてひと思いに下ろしてしまった、香織の秘裂からショーツに
ツーッと一筋の糸が繋がってプツリと切れた、勝人の頭の中で様々な想いがグルグルと駆
けめぐっている、靴下だけの姿になった香織は勝人の前に立っている。

 「綺麗だよ… とても…」勝人はそれ以上に言葉が繋がらない。


 21階の窓からそそぎ込む月の光のが蒼い滴になって部屋に貯まっているようだった。
 静かに佇む香織の一糸まとわぬ白い裸体がその中でぼんやりと光っていた。
 


 「見ているだけで良いの?」

 重苦しい空気を破ったのは香織の一言だった、勝人はまるで石像でも見ているかのよう
に固まっていた。

 「川口…」
 「誰にでも転機って言う物があると思うの」
 「でもそれは…」
 「私はあの時のくじ引きで黒を引いた時だったのよ」
 「不運と言うには不条理すぎるけどな…」
 「誰かがやらなきゃならない事をたまたま私が引き受けただけよ」
 「しかしそれは…」
 「それ以上言わないで…」
 「川口…」
 「それ以上言わないで…お願いだから」

 勝人はガックリとうなだれた、僅かな期待が胸に残っていたのかもしれない。
 何かの手違いで女性化されること無くあいつが生きてるんじゃないか、もしかしたらど
こか遠いところで順番待ち中に法律が変わるんじゃないか、薬を打たれて施術されても上
手く行かずに男のまま残ってるんじゃないか。
 そんな都合の良い話がこの世の中にあるわけが無いと理解出来ない年ではないのだが…

 気が付くと香織は勝人の前に膝立ちになっていた、ゆっくりと顔を起こす勝人、黙った
まま見つめあう二人、かつて男同士のアイコンタクトで何度もパス交換した二人が今は男
女になって何かを交換している、それはもしかしたら心からの愛情なのかもしれない。

 「勝人… Tシャツまで濡れてるよ…」

 そういって香織はゆっくりと勝人のTシャツを脱がした、鍛え上げられた勝人の上半身
が月明かりの中に姿を現す、ボクサーどころかプロのロートレーサー並みに体脂肪率の落
ちきった肉体、香織は思わず声に出した「無駄の無い体って綺麗よね…」

 「川口…」
 「お願い… かおりって… 呼んで…   お願いだから…」
 「でも…俺の知っているお前は川口ま  」

 そこまで言った勝人の口を香織の唇が塞いだ、柔らかくてフワフワで…なにか良い匂い
のする香織の口がまた近づいてくる、されるがままに2回目のキスをした。


 「お願い、その名前で呼ばないで… つらいから…   かおりって呼んで」

 至近距離で見詰め合う二人、互いの吐き出す息が鼻をくすぐるほどだ。

 「わかったよ… かおり… 香織… 香織!」

 そう言って勝人は香織を押し倒した、ソファーの横で香織は部屋の天井と勝人の顔を見
ている、両手を万歳状態で押さえられ身動きの出来ない香織は笑っている。

 「ありがとう…」
 「香織… 俺を男にしてくれるか?」
 「うん… 私も女にしてね…」
 「もう女じゃないか」
 「まだ女の子だから…」

 「女ってのは…  難しいな…  」
 「やさしくして… おねがい… 」

 身動きの取れないまま香織は勝人に唇を奪われた、不器用に重ねた唇を強く吸われた時
に香織は思った、勝人の子供が欲しい…、そのまま瞳を閉じた香織の体を勝人の手がまさ
ぐりだす。

 「まさと… 心臓の音が聞こえるよ… 私もドキドキしてる」
 「ホントか?」

 勝人の手が無造作に香織の乳房をつかんだ、既にピンとたっている乳首がグリグリとく
すぐられて痛いようなくすぐったいような、ゾワゾワとする波を伝えている。
 左の乳房をもみながら勝人の口と舌は右の乳房を攻略していた、舐めて吸って甘噛みし
て…舌先のザラつく部分がヤスリの様に乳首を攻める、薄暗い筈の視界が明るくなってい
くような錯覚、快感の波が寄せては返す海のようだった。

 「あんっあんっっっ ああんっ・・・・・」

 乳房をもみ続けていた勝人の左手は香織の秘裂を攻略し始めた、既に痴蜜をたっぷりと
噴き出している、勝人の両手は香織の両腕を解放したはずなのだが、自由になった香織の
手は部屋のカーペットを掻き毟るだけだった。

 「香織の中がすごい事になってるよ…」

 グチュッグチョッグチュッ…、これ以上無い淫猥な音が香織の耳に届く、それは自分の
体から出ている音なんだと思うだけで体の心が熱く火照った。
 勝人の中指が僅かな隙間から侵入を繰り返し、やがて深い穴の奥へ入っていく、かつて
施設で夜の戯れをした沙織の指とは違う太くて節くれだった指が香織の中をかき混ぜてい
た、香織の視界に星が飛び回るほどの刺激が濁流となって押し寄せる。

 「あ゙ぁ゙ぁ゙! だめ゙ぇ! あ゙ぁっ! まさと! いくぅぅぅぅぅ!」


 いつの間にか中指に薬指を添えた勝人の右手は強く激しく香織の女である部分を責め続
ける…、香織の背中が弓のようにしなり顔を左右に振り乱して声を上げている、とめどな
く溢れる痴蜜が白濁してきてピュッと噴き出した。

 「はぁはぁはぁ… まさと…」

 弱々しく呟いた香織の体を勝人は抱き上げてソファーの上へ座らせた、浅く腰掛けた香
織の両足を勝人はM字に持ち上げて秘裂に顔を近づける、香織は弱々しく息をしながら両
手で顔を抑えた。

 「恥ずかしいよ… まさと… 恥ずかしいよ… 恥ずか… あ゙ぁぁぁぁ!!」

 ぷっくりと膨らんだ陰核の周りを勝人のざらついた舌が嘗め回している、甘酸っぱい蜜
の匂いが勝人を刺激する、彼女達TSレディの体内分泌物がまともな女とおなじ成分の訳が
無かった、勝人の理性はほぼどこかへ吹き飛び、香織を攻める事しか頭に無かった。
 ざらついた舌は陰核を弄りつつ秘裂の奥を目指した、舌と一緒に指が侵入する、香織の
精神もほぼ限界だった、一心不乱に攻める勝人の体臭が香織の中の大事な何かをも一緒に
吹き飛ばしてしまった。

 「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!!!!」

 獣じみた喘ぎ声が部屋に響く、上下の部屋が空室である事のありがたみを翌日になって
香織は実感したのだけど、今はそんな事を感じている余裕がない。
 激流となって押し寄せてくる快感の波に翻弄されて、香織の意識は天の川を流れる笹舟
のように宙を漂っていた。
 執拗に陰核を攻め続けていると香織はもう既に全身どこを触られても快感しか感じない
状態になっていた、体重を預けてある筈の尻周りですらジンジンと快感を伝えている、全
身性感帯になっている香織の体が鳥肌状態になっていた。

 「香織… いくよ… いい?」
 「…うん …きて」

 いつの間にかパンツを脱いでいた勝人の強く硬くいきり立っているペニスが香織の膣口
にあてがわれた、熱を帯びてピクピクと動く勝人自身の動きに香織は反応してしまう、も
う自分で何を言っているのかわからなくなり始めている。
 勝人は腰を入れてグイッと香織を押し上げた、胎内のミリミリミリと言う感触が香織の
体の中を貫いて頭蓋骨の中で反響している、香織の体内に勝人が入ってきた!


 「はあぁぁぁぁぁぁ!! まあさとぉぉぉぉ!!!!」

 カクカクと腰を動かす勝人の下で香織もモゾモゾと腰をくねらせる、気持ち良い所を探
して緩やかに波打つ香織の胸にボヨンボヨンと乳房が揺れる。勝人の腰が強く激しく香織
を押し上げそのストロークが長くなりだした。

 「あぁっ! ひぎぃ゙! あうぁ! うぅ゙ぁ!」

 香織の意識が真っ白な光に包まれて空を舞い始めた、勝人のペニスを受け入れた香織の
女である部分がギュッギュとうごめいて勝人自身を締め上げている、子種を残らず搾り出
させるための女体が持つ動きだった。

 「香織の 中が 凄く…  熱いよ」
 「凄く熱いよ!」

 そういって勝人はリズミカルに腰を振り続けた、香織の足を持ち上げていた腕が疲れた
のかパッと手を離すと、香織の足は勝人の腰に巻きつけられて一番気持ちいい所を探して
一緒にゆれていた、手持ち無沙汰な両手で香りの乳房を揉みしだいている。

 「うぅ! ん! んはぁ! ふん…! !んはぁ…」

 勝人の吐息が香織の耳元で響く、いつの間にか香織の体を抱きしめ勝人も快感の絶頂へ
上りつつあった。

 「かおり! いくぞ!いくぞ!いくぞ! あぁぁぁ!」
 「まさと!中で出して!」
 「かおりぃ!」

 「んあぁぁぁあああぁぁぁぁあああ!!!!!」香織が叫んだ

 香織の胎内でうごめいていた何かがビクッと震えて大量に何かを吐き出した。
 潮が引いていくように真っ白の光が香織の心から消えていく。
 ピクピクと動く女唇が勝人のペニスから何かを吸い尽くそうとまだ動いていた。
 二人とも肩で息をして、余韻に浸っている…

 「香織… 気持ちよかったよ」
 「うん… わたしも… ありがとう…」

 勝人に抱きしめられて香織は立ち上がった、股間からヌルッとした物が降りそうな感触
を香織は感じて手で押さえた、その仕草がとてもエロティックな物に見えて勝人は引いて
いった波が帰ってくるのを感じていた。

 「かおり…」
 「せっかく貰ったものなのにこぼしたら勿体無いから…」

 「いつでも好きなだけ注いでやるから心配するなよ」

 そういって勝人は笑った、香織もそれを見て笑った。

 「ねぇシャワー浴びようよ」
 「そうだな…」


 二人でシャワールームに入って体を流し始めた、熱い湯を被ってお互いの体から何かを
綺麗に落としていく、香織の股間から白濁した勝人の子種がヌルッと流れ落ちた、それを
見て香織は呟いた。

 「あ〜ぁ もったいない…」
 「だから〜 そんなのいつでも…」
 「じゃぁ今から!」
 「え?」
 「私のアシストで2ゴール目ね」
 「はっはっは! んじゃハットトリック目指しますか!」

 バカみたいに広い風呂場で二人は立ったまま第2ラウンドを始めた、香織の指が勝人の
ペニスをしごいたらむっくりと起き上がってきた、今度は香織がひざまずいて勝人のペニ
スを眺めている。

 「ちょっと前まで私にもこれが付いてたのよねぇ〜」

 そう言うが速いか香織は勝人のペニスを口に含んだ、太いバナナみたいな感触のものを
口いっぱいに感じて根元まで咥えてから吸いあげた、僅かに残っていた精液とカウパー液
が香織の喉に流れ込む。

 ゴクッ!

 何かを飲み込んだ音を聞きながら勝人は風呂場の床を足の指で掻き毟った。

 「かおり! あぁ! かおり! うっ! うわ! おぉ!」

 勝人のペニスを咥えたまま勝人の顔を見上げる香織は笑っていた、その表情がとても幸
せそうだったので勝人も幸せを感じていた。

 「かおり ちょっとまった」
 「え?」

 勝人は湯船のヘリに腰を下ろした股間にはいきり立ったミサイルがそびえている。

 「座ってみ…」
 「…うん!」

 勝人をまたいだ香織は場所を確認しながら腰を下ろす、膣口にペニスが当たって一瞬動
きが止まった…、勝人はニヤッとしながら香織が腰を下ろすのを待っている。

 「どうした?」

 いじわる…そう言いたげな香織の表情がなんともコケティッシュで勝人は楽しかった。

 「まさと…」
 「どうした?」
 「…………………………だめ」
 「なにが?」

 座っている勝人に香織は上半身を預けて力を抜いた、重力に引っ張られて香織の体が沈
んでいく…

 「ま… さと… あぁぁ… 溶けてくみたい」
 「かおり…」


 力無く体を預ける姿がいとしくて優しく髪をなで上げる勝人、首に手を回して勝人の耳
元で甘い吐息を吐き出す香織、再び激情の波が押しよせてきて香織の意識は空高く舞い上
がっていった。

 「あなたの中に溶けていくみたい… 溶かして… 私を溶かして…」

 抱きついたまま香織は自分から腰を振り始めた、されるがままに見ている勝人。
 息も絶え絶えに再び絶頂を迎えつつある香織の体をつかんで、勝人は弾き上げるように
腰を動かし始めた、勝人の上で香織の体がポンポンと跳ねる、声にならない声で香織は行
きあげていた。

 「ああああっぁlっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁああああああ!」
 「それ!2点目! シュート!」

 弓なりに反り上がった香織の体がガックリとうなだれる…
 一瞬失神しかけて寸前で何とか意識を繋ぎ止めた、香織の胎内に再び熱い粘液の感触が
あった…

 「まさと…」

 もう息も絶え絶えになった二人は風呂から出てきた、香織の股間を流れる白濁液は無い
ようだ、今度は全部注ぎ込まれたのかもしれない。

 裸のまま二人はベットルームへを倒れこんだ、大きなベットのありがたみを香織は始め
て感じた。

 「ねぇ 腕枕してくれる?」
 「いいよ こっち来いよ」

 そういって香織は勝人に体を預けて腕の中で眠りに付いた。
 香織と勝人の幸せな初体験は形を変えた幼馴染の戯れあいなのだった。



 誰かが呼んでる…
 誰を呼んでるの?
 誰?
 わたし…?

 「・・・・・・・・・おり…」
 「・・・・か・・・おり!」
 「かおり!」

 香織はうっすらと目を開けた、ぼんやりする視界の左側に見覚えのある顔がある。

 「香織!大丈夫か?」
 勝人は香織の顔を覗き込んで心配している、香織の左頬から僅かな距離に勝人の顔があ
った。

 「えらくうなされてたけど…悪い夢でも見たか?」

 香織の頭の中に白いモヤのようなヴェールが掛かっていて、まだ目は虚ろなまま勝人の
顔を見上げていた。

 「幼馴染に抱かれる夢を見たみたい…」
 「おいおい、なんだそりゃ…」
 「私が女になって勝人に抱かれる…」
 「おい…大丈夫か?」

 香織の目に力が戻ってきた、それと同時に昨夜の熱いひとときを思い出す。
 胸まで駆けていた羽毛の薄掛けをガバッと持ち上げて顔まで隠した。

 「女にされて勝人に抱かれて正真正銘の女になった夢だったけど…」
 顔の上半分を布団から出して笑っている、優しい眼差しが勝人を見上げている。
 「どうやら現実みたい…ね」
 勝人の微笑には男らしい優しさがあった、大切な物を愛しむ眼差しが香織を包む。

 「夜中にえらくうなされてたから・・・何か病気かと思ってたよ」
 「うん…」
 「ほんとに大丈夫なのか?」
 「平気だよ、元気だもん」
 気丈に振舞ってるようにしか見えない勝人はとにかく心配だった。
 「なんか無理してるだろ」
 「たぶんだけど…ね」
 「多分?」
 「女がなる病気かも…」
 「え?なんだそれ…」
 「誰かを好きになる病…」

 香織は僅かに顔を持ち上げて勝人の右頬へキスをしたあと微笑んだ、静かに微笑む勝人
はお礼に香織の唇を塞いだ。緩やかな時間が流れる早朝のひととき、時計の針はあと10分
で6時になるところだった。


 香織の左側で肘枕に寝ている勝人の左手が布団の中からゆっくりと上がってきて無造作
に香織の左乳房に触れた、やや陥没気味の乳首周りに指で円を描き始める。
 乳首に触れず離れず速くなったり遅くなったり…、ピクッと乳首が震えて起き上がり始
めた。

 「女の体っておもしれーなぁ…」
 「まさと… 朝から… ダメよ…」

 勝人は無視して円を描き続ける、時々別の指で乳首の先端をクリクリと突付きながら。

 「まっ… まさと… だめ… かんじ…」

 そこまで言って香織は勝人に唇をふさがれた、勝人の唇と舌が香織の上唇を弄る、我慢
しきれず香織が舌を出すと勝人はその舌を甘噛みして強く吸った。

 「こっちだけじゃ不公平だよな」

 そういって勝人の指は左乳首から肌の上をなぞって右乳首へ移動する。
 指の通った後がチリチリと熱い。

 「まさと… あぁぁ… だめ! まさと…」
 「ダメって言ったって…体は正直だぜ」
 「でも… でも… でも…」
 「かおり…」

 ひとしきり乳首を苛めた勝人の左手はスーッと足元へ降りていく、何をされるか分かっ
ていながら香織は全く抵抗できないまま、されるがままを受け入れている。
 腹部を縦に横切った指がへその穴にポコンと収まって動きを止めた、へそは胎内と直接
つながっていた部分だけに、ここを刺激されると内臓全部を刺激されるような快感があっ
た。香織は目を閉じて甘い吐息を漏らす。
 グリグリとへそ穴を弄った指は再び下部を目指す、香織は勝人の気ままな戯れを受け入
れている、勝人の左手は香織の股間に到達した、中指が割れ目の上を上に下にと撫で始め
る、トロ〜リとした感触が香織を包んでいく。

 「まさっ… あぁ… はぁあぁぁぁぁ… だめ…」
 「なにが?」
 「だから… んはぁ! だ…! だめだって・・・・・ あぁぁぁ・・・・
 「んじゃ、やめようか?」

 意地悪そうな笑顔で勝人は香織を見下ろしている、既に恍惚の表情を浮かべた香織は笑
いなから呟く 「それもだめ…」

 「んじゃ… どうして欲しい?」
 
 そう言いながら指が秘裂を押し分けてスイートスポットを刺激し始めた、布団の中から
甘酸っぱい匂いが上がってくる。

 「香織、どうして欲しいか言ってみ、俺が出来る範囲なら何でもするから」

 羽毛布団のヘリを握り締めて恍惚の表情を浮かべていた香織は微笑んだまま勝人を見て
いるだけだ、もはや何も言葉にならないのかもしれない、香織の心は既にどこか遠く高い
空中をフワフワと漂っているようだ。


 「こんな俺でもエロ本とか見てたんだぜ」

 微笑しか浮かべない香織は既に何も理解できていないかもしれない…

 「この奥のほうの…、この辺りってすげー感じるらしいんだけど… どう?」

 そう言うと勝人の指は香織の蜜壷の最奥を目指した、一番長い中指が根元まで差し込ま
れてグイグイと奥を目指す、香織は体をよじって声を上げるだけだった。

 「んはぁ! あぁぁぁんんんんんんっっっっっっっはぁ! ああぁぁぁぁぁ・・・」

 膣内最奥の子宮口付近にあるボルチオ性感帯と呼ばれる部分、ここを開発されると女は
相当イクらしい…、そんな知識だけで勝人は香織を弄り続けるのだが…

 「ま…さと…もうダメ…まっ…まさと…  ぁんはぁっ!」

 香織の精神が持たないかもしれない…、勝人はそう思った。
 そして香織が無意識に愛撫していた勝人の剛直がハチ切れそうに起立していた。

 「ちょうだい… まさとの… これが欲しい… 」

 勝人は始めて体を起こして布団をはぐと香織の両足を肩に担いで正常位でグッと押し込
み始めた、ゆっくりゆっくり香織の反応を見ながら奥へ奥へ…
 非常にゆっくりとしたペースでピストンを続けていると香織の体が波打つように揺れて
いた、香織の意識は真っ白を通り越して無我の世界をフワフワと漂っているのだった。

 「あ゙ぁ… まさ… ゔぁんぁんっはぁん゙ゔんぐぁはぁ・・・・・・」

 「香織… 何語だそれ…」

 「ば… ばか… んはぁ! あぁぁぁぁっっっっっ!」
 「まさと… 届いてるよ 一番奥に… 感じるよ…」

 甘く激しい吐息しか漏らさなくなった香織はどこか壊れた人形になっていた。
 勝人の体に抱きついて快感を貪る壊れた人形…

 「かおり! いくよ! さぁ! いく… んんん!」

 抱きついていた香織の体から力がフッと抜けてベットに倒れこんだ、勝人のペニスが吐
き出した白い濁流を全部受け止めて香織はどこか遠いところへ行ってしまった。


 ペニスを引き抜いた勝人は自分のペニスの先端から根元まで赤く染まっているのに気が
付いた、あわててティッシュを取ろうと手を伸ばしたのだが、その手を香織が握り締め引
き寄せられてしまった…

 「おねがい… 行かないで… そばに居て… おねがい… 」

 息も絶え絶えな香織はそう言って勝人を引き寄せると、まるで意識を失うように眠って
しまった、恍惚の満足感に包まれて眠る香織の髪を勝人は撫で続けた。

 こういう時って男は損だな…
 そんな事を思いながら勝人も眠りに落ちた。

 ふと、どこか遠くの草原をほっつき歩いていた意識が返ってきたのは8時を回った頃だ
った。

 「おい!香織!時間がヤバイ!」
 「ん…え? ・・・・・・・・・・・あ゙!」

 汗にまみれた二人は飛び起きた、「シャワー!シャワー!」そういって二人してザブザ
ブとお湯を被る、風呂から出てきた勝人は昨夜投げ捨てたTシャツとパンツを手に取った
のだが、まだまだ雨に濡れていた。

 「あっちゃぁ〜 冷てーな…」
 「ちょっと貸して!直ぐに洗って乾燥機入れれば15分だから」
 「良いよ、着干しするから」
 「だめ!臭いでしょ!」

 そう言って香織は勝人から衣類一式を奪い取ると全自動洗濯機へ放り込んだ、素っ裸の
まま立ち尽くす勝人はモジモジしている。香織は新しいバスタオルを出すと勝人に放り投
げた、それ巻いて待ってて!、なんか順番待ちみたいだね…アハハ!

 そう笑って香織はテキパキと家事をこなす、素早く新しい下着に着替えてセーラー服に
身を包むとベットを綺麗に直した、甘酸っぱい匂いの残っているベットシーツと布団をま
とめてランドリールームに集め、今度は濡れ雑巾とモップを持って昨夜二人で戯れたリビ
ングの床とソファーを綺麗に拭いた、アチコチに色んな汁が飛び散って固まっていたが、
それが何であるかできる限り考えないようにしながら掃除を終えた。

 斜めドラムの洗濯機が洗い終えて乾燥モードに移りあと3分の表示が出ていた、それを
見ながら勝人は勝手にキッチンの冷蔵庫を開けて麦茶を飲んでいる。

 「香織! お前の分ここに置くぞ!」
 「ありがとー! もう終わるからねー!」

 共働き新婚夫婦の朝といった風情だが、彼らはまだ学生なのだった…


 「勝人!洗い終わったよ!」そういって香織は服を渡した、花の香りがする洗い立ての
服を勝人は受け取って袖を通す、汗と雨でひどい匂いだった服が洗い上がりでとても気持
ちよかった。

 8時半を回って二人は部屋を出た、出発前に部屋を綺麗に片付けるのは施設に居た頃か
らの癖になっている、物を片付ける事が苦手だった香織とは思えない手際の良さだ。
 エレベーターで下に降りながら勝人は思った、もう俺の知ってるあいつはどこにも居な
いんだな…、ここに居るのは香織なんだ…、どこか諦めをつけるだけの理由を見つけたよ
うな、そんな気がしていた。

 「すっかり遅くなっちゃったね」香織の笑顔が勝人には少し寂しかった。
 「あぁ〜そうだな…って、あ!いけね…」
 「どうしたの?」
 「早朝練習忘れてた…」勝人はそれを今更気が付いた。
 「良いじゃん、朝からしっかり運動したんだから…」香織の笑顔に小悪魔が宿る。

 「そうだな… 公約どおりハットトリック達成だし…」
 「でも3点目はダメね、オフサイドよ」
 「なんでだよぉ〜」
 「だって夜が明けてたもん、オフサイドライン割ったらダメね、幻の3点目」
 「厳しい審判だなぁ〜」

 そう言って二人は笑った、エレベーターのドアが開き10階に降り立つ、いつもは教室で
飯を食う勝人は腰を抜かさんばかりに驚く、広く豪華な食堂は既にもぬけの殻だった。
 しかし、なぜか2人分の朝食が用意されている、いつも香織の座る席とその隣に2つ並ん
だモーニングセット、小さな紙に沙織達の走り書きが置いてあった。

 − おはよう香織! おめでとうだね! −
 − 香織! めっちゃ良い男やん!−
 − 先を越されちゃったなぁ〜 −
 − 冷えてるだろうけど 二人で食べるとおいしいよね! −

 沙織…紙を握り締めて席に着いた香織。沙織の心遣いは涙が出るほど嬉しかった。
 勝人と並んで冷めてしまったパンを食べ、いつもより遅い朝食を済ませた。

 「冷えたトーストっていまいちだな、腹いっぱい食うには少ないし」
 「でも二人で食べるとおいしいじゃん!」
 「そうだな」

 香織はコーヒーをしっかり飲んでからタワーを出て3号棟の講堂へ急いだ、勝人はロッ
カーによって制服に着替えてから行くと言う。

 「今夜も部屋に来てね…」香織の笑顔が勝人には眩しいほどだった。
 「あぁ、わかった!」
 「着替えを全部もって着てね!」そういって授業に入っていった。
 朝からしっかり勝人の精を受けて香織は幸せだった。


 大講堂では本日の授業で「相対性理論における時間概念の速度変化を考察する」と題し
てよく眠れそうな話をしそうな博士が教壇に立ち、授業開始のベルを待っていた。
 ぎりぎりで講堂に入った香織は開いてる席を探したのだが、手招きしている沙織たちを
見つけて小走りに走っていった。

 「おはよう沙織! 朝食ありがとう!」
 「おはよう香織! どうだった?」
 「え? なにが?」

 後ろの席の光子たちも弄りに加わった。

 「な〜にゆーてんねん!、昨日の夜は目撃してたんやでぇ〜」
 「まさか香織が地蔵の武田君を攻略するとはねぇ」
 「で、早速搾り取ったんでしょ?」
 「そやねぇ、夜は長いしなぁ」

 言いたい放題のタワー組みだが恵美だけ様子がちょっと違った。

 「恵美はなんではにかんでるの?」

 香織の質問には優しい微笑みが添えられていた。
 恵美はモジモジしていたが、それに変わって光子が口を開いた。

 「あんなぁ〜 恵美も昨日の夜に男連れ込んでな…」

 そう言ってタワー組みはヒューヒューと囃し立てる。

 「もぉ〜凄かったで、ホンマすごい!、夜中まで獣が唸って眠れへんかった」

 ふと昨夜の事を思い出した香織もちょっと赤くなった、大声でよがり狂った自分の声が
誰かに聞かれたんじゃないか…
 それを考えるだけで恥ずかしくなった、しかし、それ以上に思った事は…

 「で、恵美の彼はだれなの?」

 「今夜紹介します…」恵美がボソッと呟くと真っ赤になって恥ずかしがった。

 そこ!静粛にしたまえ、授業を始める…
 無粋な指摘を行って博士は授業を始めた、勝人の事をあれこれ追及されなくて済んでち
ょっとホッとしたのだった。


 昼食時の食堂、沢山の学生でごった返す所だが、何時の頃からかVIP席と呼ばれるエリ
アが出来ている、通称タワー組みと呼ばれる女子生徒が固まって座る事の多い場所。
 今日は珍しく6人が全員そろって昼食を取っていた、今日の話題はまだ相手を見つけて
いない3人について…、そして…

 「川口…」

 そう呼ばれて振り返ると真田が立っていた。
 当然、タワー組み5人の目がいっせいに注がれる。

 「こういう事を聞くのは失礼だろうけど…」
 「うん、分かってる…ごめんなさい…」
 「いや、謝らないでくれ…」
 「勝人から… いや、武田君から話を聞いたの?」
 「いや、口もきいてないが…」

 香織は俯いてしばらく考えたあと、なにか吹っ切れたように口を開いた。

 「真田君…ごめんね… でも、彼は…幼馴染なのよ…」

 真田は大きく目を見開いて驚いている、しかし、それ以上にタワー組みが大きく驚いて
いた。

 「香織! だいじょうぶなんか!」
 「そうよ、平気なの?」

 香織はカラカラと鈴音で笑った、と言うより笑うしかなかった。

 「なんか記憶がスポンジみたいになってるけど平気みたいね…よくわからないけど」

 ガックリとうなだれる真田、大きな体を小さくして寂しそうにしている。
 香織は椅子から立ち上がって真田を抱きしめた。

 「真田君…ありがとう…女は好きって言われると嬉しいよ、ほんとに嬉しいのよ」

 そう言って笑った、それを真田は見下ろしている。

 「でも、私にはあなたの思いを受けるだけの部分が無かったの、ごめんなさい」

 そういってフッと離れた、数歩下がって真田は天井を見上げた。
 握り締めた拳がワナワナと震えている…

 「川口… 突き放してくれてありがとう… 幸せを祈るよ…」
 そういって食堂から飛び出していった、再び席に着いた香織の頬を涙が伝う。

 「もてる女はつらいわね…」香織はそう呟く。
 「嫌味にしか聞こえないわね」その一言に光子が反応する。
 「ちょー険悪なムード!」沙織が囃し立てる。
 「…いわゆる問題発言だった?」香織は相変わらずだ。

 「ウチもはよ良い男さがさんとアカンわなぁ〜」
 とほほ…と俯く光子がいまだ一人身の男衆から視線を集めている事に、誰も気が付いて
いなかった…




 容赦なく島を焦がした夏の日差しがどこかへ出掛けてしまうと、夕暮れの風が講堂の窓
からそっと入ってくる。何となく気怠い午後を過ぎて夕餉のメニューが頭の中にチラチラ
してくるそんな時間帯、講堂の中は自我を保つのに必死になっている一人身のTSレディと
それを狙う狼のような教室組み男子生徒の間で目に見えぬ小競り合いが始まる。
 コーヒーキャンディを口に入れて涼しい顔をしている香織の隣、上気しかけている光子
は素っ頓狂な声でハイテンションに何かを説明しようとしている、しかし、既にそれは文
法からして日本語を大きく逸脱した不思議な言語になっていて、聞いている側の香織です
ら段々と解読不能になりつつあった。

 「光子!タワー帰るよ」
 「ウチあかんねんて!あかんねんて!めっちゃおかしいねんアハハ!」
 「み!つ!こ!」
 「へいきやて!へいきや!なに怒ってんねんて、めっちゃ暑いわホンマ」
 「今日は何日だっけ?」
 「今日は夏やでしかし、どないしたん?香織?いけるか?」
 「・・・・・・・・・・・・・」

 訳の分からない言葉を毎分6500発(推定)もばら撒きながら光子は壊れたICレコーダー
のようになっていた、襟についた埃を払おうと伸ばした香織の手を捕まえてその指を口に
入れる光子、チロチロと絶妙の圧力で指の腹から先端へ滑らせていく光子の舌使いが、ゾ
クっとする感覚を香織の指先に伝え背中駆け抜ける。

 「みつこ…」
 「香織… うちアカンねん… もうアカン… 限界や…」
 「とりあえず指じゃなくてキャンディー舐めとく?」
 「ウチ めっちゃ苦しいんや ほんま おかしくなりそうやわ」

 そういって光子はフラフラと立ち上がって歩き始めた。
 男子生徒の目がいっせいに追いかける、香織はあわてて立ち上がると光子を追いかけて
抱きしめた、抱きしめられた光子は甘い吐息を吐き出しつつ夢遊病の様に廊下を歩きグラ
ウンドへ出て行く。
 今がチャンスとばかりに教室住まいの男子生徒は光子を追いかける、さならがウサギを
追いかける狼のように距離をとって逃げ場がなくなるように追い詰めるのだろうか?
 光子はそれに気がつくそぶりも無く歩いていく、香織はその後ろを追いかけた、これじ
ゃ鴨がネギ背負って歩いてるようなものね…、そう思うだけの色っぽい仕草が溢れる光子
を見ながら歩いていたらいつの間にかグラウンドの片隅、ささやかな観客席の所まで来て
いた。後ろについてきた烏合の衆が如き男子生徒に心からの敵意を込めた視線を放って追
い払った後、座り込んだ光子の隣へ腰を下ろす。

 「うち、あの彼好きやねん」
 「光子…」
 「でもな、彼、絶対タワー来ーへんと思わんか」
 「…うん」
 「せやから、ウチも色々考えてんのや、どうしたらええんやろって」
 「…うん」
 「さっきから うん しかゆーてへんやん!」
 「・・・・・・・・・・・・・・・」
 「あんな… 香織からウチ紹介してくれへんか?」
 「え? …なんで?」
 「だってぇ… 恥ずかしいやん…」




 うっすらと頬を赤らめる光子を見て案外内気なんだと香織は思った、しかし、それが実
は光子の気遣いであると気が付くまでにはまだ多少の時間を要した。先ほどからグラウン
ドで黙々と真田が走っている、光子の思い人はあの日香織に背を向けて走っていった真田
なのだった、きたる練習試合に向けて集中力を挙げるべく黙々と走る真田はまだそれを知
らない…

 観客席を通り抜ける風に当たって光子は少し正気を取り戻していた、セルフコントロー
ルを普段から意識している彼女達のその努力の結果なのだろう。
 既に20周はグラウンドを走っている真田が喉の渇きに耐え切れず足を止めて水道場で水
を飲んだ時、観客席で涼しげに座る彼女達を彼は見つけてしまった。全身汗だくのこの状
態で行くとマズイ…、真田もそれ位を理解できない訳じゃない、そして何より、香織がお
かしくなってしまったら、ここで俺を求めるかもしれない、そしたら武田になんて申し開
きしようか…、彼は、真田はそう考えた。

 「真田君! ちょっと下まで来て!」

 香織は唐突に声をかけた。
 真田はおもむろにグラウンドの芝をむしると空に放り投げる、風は観客席からグラウン
ドの方向へ吹き降ろしている、これなら問題ないと確かめて真田は歩き出した。

 「川口… 俺になにか用か?」
 「違うの… 変な期待させてごめんなさい」
 「いや、謝らないでくれ、かえって…」
 「ごめんなさい」
 「で、なんだ?」
 「いや、あのね、彼女が…」
 「西園寺だろ?」
 「ウチの事、知ってんか?」
 「あぁ、勿論だとも で、用ってなんだ?」
 「あ… あんな…」
 「・・・・・・・・・」
 「えっと… その… あの…」
 「どうした?」
 「つ… 次の試合も頑張って勝ってね!」
 「お… おぉよ!絶対勝つぜ!」
 「香織 いこ!」

 そういって光子は走って行ってしまった。
 香織は振り返りざまに真田を見て光子を指差しつつウィンクする、これで言いたい事が
通じるだろうか?、祈るような気持ちの香織だったが真田は全身が熱くなり今にも海の上
を走り出しそうな勢いだった。いよいよ俺にも運が巡ってきたかな?と変な勘違いをして
いる真田だった、好意の元は香織ではなく光子である事を彼は神に感謝した。
 おなじ頃、光子ってシャイだなぁ…と、そう思う香織の前で光子は恥ずかしそうにモジ
モジしながらタワーへと歩いていた、胸の前で揉手しながらアレコレ考えている。このタ
ワーに住む彼女達の中でも光子の頭の回転の速さは折り紙付で、幼い頃からボケと突っ込
みで鍛えられた関西人ならではの鋭く絶妙な切り返しは周囲から一定の評価を得ている。
 そんな光子が自分の事でモジモジとしながら思案を巡らせている、それが香織には何と
も言えず可愛く見えて仕方が無かった。


 グラウンドから歩いてきた二人がタワーに入るとロビーで勝人が英才とトランプに興じ
ていた、部屋の主たる相方が居なければ部屋にすら入れない押しかけ亭主たる彼らにとっ
て、このロビーはご主人様待ちする犬小屋のようなものだ。ただ、その隣に香織の見慣れ
ぬ男が一人座っていたのを除けば…

 「おう!香織!遅かったな」
 「あれ?練習は?」
 「いや、今日は休みだ、休み」
 「なんで?」
 「明日早起きして遠征なんだ、だから今日は休み」
 「ふ〜ん…」

 香織が一瞬浮かべた何ともコケティッシュな表情を英才は見逃さない、対局相手の僅か
な表情の変化ですら見逃さず何かを読みとらんとする彼ら盤上の格闘士にとって、表情と
は万の説明をもたらしてくれる物なのだろう。
 彼が見立てた香織の意識、期待と喜び、そして、決して僅かではない警戒。
 それは彼の、英才の隣に座る肩幅のでかい男に対しての物なのだろう、見るからに敏捷
性の高い勝人の隣にあって何かを封じるが如くに威圧感を見せるこの男は誰??
 見知らぬ相手をじっくり観察する女の眼差しではなく、その人物をじっくりと値踏みし
て度量を目利きする男の眼差しだと英才は感じた。

 「あんまり怖い顔で見ないでくれよ、これでも小心者なんだ」

 途端に勝人が爆ぜるような笑いを上げた、英才も釣られて笑った。

 「川口…香織…だよね?」
 「そうだけど…どなた?」

 普段なら居丈高の声色で誰?名乗りなさい!と言うのだろうけど、今日はすぐ隣に勝人
が居る手前、余りきつい口調はどうかと一瞬迷って香織なりに最大限の配慮を織り交ぜて
発したのだった。

 「俺は遠藤だ」
 「サッカー部の?」
 「そう、キーパーやってる」
 「で…相方は?」
 「今、後ろから入ってきた」

 そう言って遠藤は扉を指さした、そこには真美が立っていた。そして、やや遅れて恵美
が野球帽を被るがっしりとした小柄な少年と恥ずかしそうに手を繋いで入ってきた。
 ロビーに女5人男4人、溢れてるのは…光子だけ。激ヤバだなぁ…、香織の脳裏に光子の
取り乱すイメージが浮かんだ。しかし…

 「なんや、売れ残りはウチだけかいな…」

 そう言って自嘲気味に言う光子がそこにいた…、あれ?

 「売れ残りって…のぞみは?」
 「あ、のぞみな、吹奏楽部やってんねんて、ブラバンやブラバン」
 「ブラスバンドね」
 「そう、ほんでそこのペット吹きに夢中や」
 「トランペッター?」
 「そうやて、アホみたいに肺活量有るから腹筋が凄いんやて」
 「ふ〜ん」



 そう言って香織の視線はどこへ行くべきか迷い恵美の隣にいる男に注がれた。

 「で、恵美は?」
 「あ、紹介します…」

 そう言ってはにかんだまま言葉を飲み込んだ。

 「じゃぁ、自己紹介と言う事で、野球部の本田と言います、本田秀樹です、よろしく」

 そう言って野球帽を取ってお願いしますと頭を下げた、常に礼儀正しくあるべき野球人
がそこにいた。後にスモールトマホーク(小さな戦斧)と二の名を得て、ワールドシリーズ
で全米を熱狂させる逆転満塁サヨナラホーマーを放つ男の青春時代であった。

 ホンマに売れ残りやなぁ…

 光子はそう呟いてトボトボとエレベーターに吸い込まれていった、ロビーの8人が皆で
見送るのだが…、こればかりはどうしようもない。そして、光子の思い人は香織が袖に振
った男なのだ、とんでも無い波乱の予感がロビーを支配していた。


 各部屋に行くことなくロビーで談笑していた彼らだったが、夕食時になって食堂へ行っ
た時に驚くべき光景を見る事た、今までのタワーでは考えられない事態になっている。

 今までは大きなテーブルに3人ずつ向かい合って6人で食べていたのだが、今はそれぞれ
の"つがい"が差し向かいで座る形態になった。どこからとも無く運び込まれた巨大なテー
ブルには夕餉のメニューが整然と並んでいて、可愛いい保温ジャーは姿を消しどこの飯場
ですか?と言わんばかりの巨大な保温ジャーが片隅に鎮座している。
 重い蓋を開ければ、そこにはふんわり炊かれていたはずの米がたっぷり3升は入ってい
て、バケツ並の寸胴鍋にはみそ汁が収まっている、可愛いフィレカツの乗った「女性陣」
に対し男の方はどう見てもワラジです…とでも言うべきサイズのカツがどっかりと4枚乗
っている。

 そして…、女性陣がモグモグと可愛く晩ご飯を頂くそれぞれの向かいで、厳つい男衆が
ガツガツムシャムシャと何かを争うように餌にありつく。

 「おい!武田に本田に遠藤、俺のカツ一枚ずつやるから食え」
 「良いのか?」「マジか?」「わりーな」

 ひょいと箸で奪い取るようにカツを貰うとそれを口の中に押し込み更にペースアップし
て飯を食っている、それはもはや食事だとか夕餉だとか、そんな上等な物ではなく…、戦
争、そう、これは闘争なのだと言わんばかりに飯を食っている。
 それを見ている女性陣は途中で食べる気力を失いつつあった、気圧されるとでも言うの
だろうか、見ていて気持ち悪い…と言いたそうな雰囲気。
 ただ一人、光子だけが寂しそうに食事をしている、となりにはのぞみが座るはずなのだ
けど、まだ一緒に練習してるのか戻ってきていないのだった。



 「ところで西園寺は?」口の中の飯を味噌汁で流し込んだ勝人が口を開く。
 「それ最低に行儀が悪いよ」香織がたしなめる。
 「そうだな、西園寺の相方が興味深い」本田の目は興味深々だ。
 「西園寺が狙ってるのは誰なんだい?」遠藤も相槌を打つ。
 「おまえらほんとにデリカシーってもんが…」英才はあきれている。

 「ウチな…」光子はそこで口ごもってしまった。

 居た堪れない雰囲気を救ってくれたのは勝人だった、ただ、その方法は…

 「香織!、わりーけど飯をガツンと頼むわ」そういってどんぶりを差し出した。
 どっと笑いが起きる、なんとも絶妙なタイミングなのだが、勝人は狙ってやってる訳で
はない…

 「光子の思い人はね… 実は…」
 「あ゙〜 香織! 言わんといて!!!」
 「だって…」
 「だってもあさっても無い!」

 周囲の目が好奇を含んだ眼差しである事に光子は気が付いた、何となくだがここで言わ
ないと一生言えないんじゃないかと光子は思った。

 「ラグビー部の真田いうんやて、ウチも昼間に香織に聞いたんや…」

 ヒュ〜っと口笛が鳴る、さなだかぁ〜
 光子は耳まで真っ赤だった。

 ラグビー部の対外試合まで後3日。
 大きな波乱含みになりそうなゲームなのは、何となく皆予想が付いていたのだが…

 「おし!ホンじゃラグビー部必勝の為に勝利の女神様をつれて全員集合な」

 すでに勝人は仕切りモードに入った、背番号10を背負う男はこう言う時も早い、そして
それに相槌を打つのはキーパー役の遠藤だ。常に全体への気配りを忘れない男だけに…

 「西園寺の隣だけ一席空けて待つ、で、指定席と書いて全員で真田を指差す」

 それに英才が横から言葉を挟む。

 「ただし、負け犬お断りと書いておく」

 すかさず女性陣が反撃…と言うより光子に気を使う。

 「負け犬はダメ、絶対ダメ!」
 「なんで?」
 「なんでも何もない!絶対ダメ!」「うん、ダメなものはダメ!」「ダメです!」

 ポカンとしている男側の中で勝人が口を開く。

 「俺と真田で香織を争ってんだよなぁ…さすがに負け犬は…」

 しばらくの沈黙が食堂を支配した、次の一手を誰が打つのか、そんな先手読みの空気が
支配している。しかし、そこはさすがに英才である。

 「じゃぁ大きく書こうぜ、真田専用って」


 真っ赤になる光子をよそに満場一致の拍手で議案は可決された。
 どこどこのプリンターで大きく出力して…だとか場所の確保がどうだとか、そんな事は
光子がポカンとしているうちにドンドン先へと進んで決まっていく。
 もはやどうこう言っても後戻りできないんだと光子が気が付いたとき、観客席の席割ま
で決まっていた、汗臭い男が何人も走り回る関係で彼女達がおかしくならないようにコー
ヒーを入れたボトルを持って、お腹が空いた時用にサンドイッチも持って、そして大声張
り上げて応援できるようにメガホンも要るなぁ…
 なんだかんだで16歳の少年少女なのである、この手の事が楽しくて仕方が無いのは否定
できない事実なのだろう、気が付けば面白いほどに準備は完了し試合を待つだけとなった
のだった。

 食堂から自室に戻った香織は勝人の様子が少しおかしい事に気が付いた、何かを悩んで
いると言うか考え込んでいるといったふうだ。
 普段であれば食後はトレーニングに出て行って汗だくで帰って来て、臭いだの汚いだの
と香織に散々言われながらも鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅がれ、挙句に早くシャワー
浴びて綺麗にしてきて、ベットで待ってるから…となるのだが…

 「なぁ香織… 俺… 真田の応援に行っても良いのかな?」
 「いきなりどうしたの?」
 「いやほら… 仮にも俺と真田はさぁ、お前を巡って色々とまぁ…アレだろ?」
 「それはそうだけど、でも、それが何の関係が?」
 「いやほら、一応男のプライドって奴でさ…」
 「あ゙〜 なるほど、そういえば…そんなのもあったわね」
 「おまえ… 完全に女だな」
 「環境適応って言って欲しいわね、思い出すとつらいし」
 「そっか… う〜ん」
 「どうしたの?」

 勝人はまた何かを考え始めた、何となくだが香織はその理由が分かる。
 頭の中のどこかに男っぽい思考回路がまだまだ残っているのだろう、部分的とは言え物
の判断を男性よりに考える事もあるTSレディの中にあって、記憶を断片的に取り戻してい
る香織はさらにその傾向が強かった。
 う〜んと考え込む香織を勝人が後ろからそっと抱き締める、腰から回された勝人の腕に
香織は手を添えて考えている、後ろから香織の首筋にキスする勝人のそれは香織へのサイ
ンなのだけど、香織は勝人の手をつねって呟く。

 「まだダメ」
 「なんでだよ」
 「シャワー浴びてから」
 「後でもいいじゃん」
 「だって臭いし」
 「それが良いんだろ?」
 「・・・・・・・・・・・バカ」

 二人して寄り添ったまま窓辺まで歩く。
 眼下遠くに見えるピッチは夜間照明に照らされていて、その上でラグビー部の面々がパ
ス回し練習に励んでいた。真田を中心に速攻に次ぐ速攻で一気に距離を埋める作戦なんだ
ろうか…


 「なぁ…いいだろ?」
 「明日試合じゃないの?」
 「そうだけど…」
 「それじゃ我慢しなきゃ」
 「やだ」
 「子供じゃないんだから…」
 「まだ子供のつもりなんだけどな…」
 「我慢しなさい」
 「やだ」
 「もう…」

 そういって腕の中の香織は振り返る、勝人は香織の首に腕を回し逃げ場を封じてから唇
を奪った。

 「いいだろ?」
 「うん、いいよ…」

 明かりを消して二人だけの情事にふける香織と勝人、タワーの各部屋で同じような展開
になっているのだと香織は思った。
 自分を押し倒して体をまさぐる勝人を見ながら、快感に身をくねらせて甘い吐息を吐き
ながら、窓の下とおくを眺めている光子を思っていた。




 周囲を海に囲まれた島の朝は夏ともなると海霧によってモヤが掛かる不透明な朝を迎え
る事が多い。弱々しく登る太陽から赤みが失われる頃、学生ホール前付近にサッカー部15
人が勢揃いした。
 いまだ1学年のみしか居ないこの学校では生徒数の関係で少人数の部活運営が要求され
ている。まぁそれ故に、誰でも試合に出られる関係で嫌でも実力を伸ばす…、いや、伸ば
さざるを得ないシステムになっているのだが・・・・・。

 「じゃ、気をつけてね、勝ってきてよ」
 「おーけーおーけー、ま、軽くひねってくるよ」
 「油断すると足元すくわれるよ」
 「俺を信用してないな?」
 「志賀君だって負ける事もあるんだから」
 「わかってるよ、マジで」
 「負け犬は嫌いだからね」
 「・・・・・・・・・任せとけって、今日のゲームは日本代表になるための第一歩さ!」
 「ワールドカップへ!だよね」
 「そうだ」

 アパート組み女子生徒に見送られる男子生徒に混じって、香織は勝人を送り出した、そ
の隣には真美が心配そうな顔で遠藤を見送っている。
 バスの窓から投げキッスして笑顔で出て行くサッカー部を見ながら香織は思った、光子
はどんな気持ちでいるんだろう…と。

 退屈な午前中の授業が終わって食堂に生徒達が集まってくる時間帯、食堂のVIPエリア
では沙織が英才と碁盤を挟んで座っていた、サンドイッチをモシャモシャと食べる沙織の
向かいで英才が握り飯を頬張りながら石を打っている。
 盤上で押しつ押されつの攻防をしながら沙織は本を見ていた、どうやら英才が次に対戦
する相手を二人して研究中といった雰囲気だった。

 香織は光子と二人して昼食を取っている、沙織と英才のペアに気を使って、ちょっと離
れた位置から二人を見守っているといった感じだ。僅かに残ったハンモック暮らしの男子
生徒が何人も香織と光子の所へ来てはちょっかいを出していく。
 悪い虫が付くと困るから…と、そんな事を言いながら香織は光子を守っていたのだが、
そこに彼が現れて不躾なハンモック組みの男子生徒は蹴散らされてしまった。

 「西園寺…、あ、川口も一緒か」
 「真田君…」
 「真田…君… どっ…どないしたん?」
 「いや… まぁ… なんだ… その…」
 「ちょっと待って」

 そういってやおら香織は立ち上がった。

 「ちょっと図書室へ行ってくるから… ごゆっくり…」

 ニコっと笑って香織は行ってしまった、やたらと甘酸っぱい雰囲気に包まれて光子は真
田の真向かいに座っている、周囲から口下手でシャイと思われているな二人だが、はたし
て上手く行くのかどうか。
 沙織は向かいの英才に目配せして顎でそれとなくサインを送った、英才はチラッと見て
からニヤリと笑いウィンクする。やや遅れて食堂へ入ってきた恵美は本田と一緒だがラン
チセットを受け取ると食堂から出て行ってしまった。光子に助け舟を出せる存在はここに
は誰も居ない関係で自力での対処が求められるのだが…




 「あっ…あんな…」
 「おっ… おぉ… なんだ…」
 「いや… う〜ん…」
 「うん…    …うん」

 まったくと言って良い程会話になってない。

 「いつやったか… タワーの前に来た事あるやろ…」
 「あぁ…」
 「あん時な… ウチも見てたんや」
 「そうか…」
 「それでな… ウチ…」
 「俺も見たよ…」
 「ホンマ?」
 「あぁ 川口もそうだけどな、タワー組みは美人揃いだから…」
 「だから? なんねん?」
 「あ… いやまぁ… その…」
 「はっきり言ってや…」
 「だから… 俺も… その… 気になって…」
 「きになって… どうしたん?」
 「すっ… すっ… すっ… すっ…」
 「す?」
 「す・・・・・・・・・・・・#&%@*+…」

 真田は消え入りそうな声で何かボソボソと呟いた、それがちゃんと聞き取れなかった光
子だが言いたい事は伝わっている、でも、その良く聞き取れなかった一言にどれほどの魔
法が詰まっているのか、それは二人とも良く分かっている。
 あの日、本人の望まぬ悪魔の法によって大きく人生の舵を切った光子だったが、生まれ
ついた性格と育った環境による考え方の根本は、魂の器たる姿身がいかに変わろうと本質
が聊かも変化しない事を示していた。

 「お願いやから… はっきり言って」
 「いやだから… つまり…」
 「女は聞こえるようにゆーて欲しいんよ」
 「西園寺…」
 「どうせなら光子って呼んで欲しいねん」
 「・・・・・・・・・・良いのか?」
 「いいけど、それやったらその前にはっきり言ってからや」
 「・・・・・・・・・だから…俺は…」
 「あ゙〜 もう あかんねん!」
 「だから!おれは!」
 「ウチは! ウチはめちゃくちゃ好きやっちゅうてんねん!」
 「西園寺…」
 「好きなんや!なんで分かってくれへんの?」
 「すっ…」
 「アホ!ボケ!カス!」
 「・・・・・・・・・・・」
 「はっきり言えん男は嫌いや」
 「すまない…」
 「あんた… キタの街が絶対似合うねん… ウチ、あんたとキタの街を歩きたい」


 そこまで言って光子は顔を両手で隠してしまった、恥ずかしいと言うより情けないと言
うほうが正しい雰囲気だった。

 「俺も…」
 「ウチは好きやねん、めちゃくちゃ好きやねん」
 「俺も好きだ」
 「…ホンマに?」
 「あぁ、好きだ!」
 「・・・・・・・・夢見たいやわ 」
 「世界で一番好きだ!光子が好きだ!」
 「好きやから?」
 「だから俺を呼んでくれ!誘ってくれ! おれはお前のために尽くしたい!」

 両手で顔を隠す光子だが、僅かに開いた指のスリット越しに見えるその目にあやしい光
が灯っているのを沙織は見つけた。
 待ちに待っていたシチュエーションなのかもしれない、光子の精一杯の配慮、皆はそう
思っている、しかし、この場でその真実に気が付いたのは沙織だけだった。

 「呼ぶって… 誘うって… どないしたん?」
 「俺は光子の部屋に行きたいんだ… いいだろ?」

 そこまで真田が言った時、光子はゆっくりと両手を広げた。
 そして…、両手で隠していた光子の破顔一笑を見たとき…真田はやっと理解する事が出
来た…

 「やっと… やっと言わしたで…」
 「さっ 西園寺…」
 「あかんやん… み・つ・こ ってよばなぁ〜あかんでぇ〜」

 光子はニヤ〜っと悪魔の笑いを浮かべている、それを見て英才は沙織の耳に口を寄せて
呟く「女ってこえぇ〜」

 「ウチ、聞いたで、絶対聞いたで、今更前言撤回しーへんよな?」
 「あ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「いやぁ〜 ウチ〜 め〜っちゃ!嬉しいわぁ ホンマ嬉しいわぁ〜」
 「う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「あれやろ、お願いするよりされるほうがエエしなぁ〜」
 「いや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「ほな、今日の夕方、タワーの前で待ってるやさかいに…」
 「西園寺… いや… その… 光子… 狙ってたのか?」
 「当たりまえだのクラッカーやで! きーへんかったら…」
 「そしたら…」
 「ラグビー部の男は据え膳食えぬ甲斐性無しやったって言いふらしたるで…」
 「おれ… なにか根本的に間違えてた気がする…」
 「手遅れやな… ほな… ダーリン!ウチは待ってるでぇ〜」



 ニヤケっぱなしで見つめる沙織、呆れた表情で見つめる英才、男と女と達引きであった
筈なのだが、いつの間にか男同士の意地の張り合い状態になっていた。

 英才は盤上の死闘を忘れて呆然と見ている、何と言ってよいやら…と思いつつも、

 「あれだな、押しかけ亭主にさせてもらうって感じ」

 と、言うのが精一杯だった。
 ニヤリと笑いながら沙織は答える。

 「とーぜんじゃな〜い」

 英才は苦笑いするしかない。

 「光子も上手く行きそうな事だし…」
 「事だし… ?」
 「5勝1敗でタワー組みは女の勝ちね」
 「元男の勝ちって言うべきじゃ…」

 首を右に向けて光子を見ていた英才が正面の沙織を見たときスナップの効いた良い角度
で英才の左頬に沙織の右手が入った、ブワッチ〜ン!
 再び右方向へ強い力で首を回された後、呆然と沙織を見返す英才、沙織はニコッと笑い
ながら事も無げに言う。

 「それは私達には最も失礼な言葉!、次はハンモック暮らしへ強制送還ね」
 「はい、スイマセンでした…」

 尻尾を丸めておとなしくなる犬状態の英才なのだった。
 ところで…5勝1敗のその一つの負けは誰だ?って聞きそびれて、英才はそれが気になっ
て仕方が無い、しかし、これ以上アレコレ詮索すると命の危険があるかも…、彼はまじめ
にそれを心配した、やはり、元男と言うのは伊達ではないのかもしれない。
 ドアの裏側には香織も立っていた、全部上手く行ったかな?と、彼女(?)なりに心配し
ていたのだったが、それも杞憂だったようだ。

 ラグビー部全員のメンツと名誉に掛けて、真田はいかなる理由があるにしろタワーへ突
入しなければならなくなった。素晴らしく頭の回転が速い光子の徹底的に練られた作戦は
香織や勝人の名誉をも守る為の配慮だった…。

 食堂を三々五々出て行く生徒に混じって香織は食堂を離れた、彼女は今、生徒サロンの
大画面でリアルタイム中継されているサッカー部の試合を眺めている。周囲にはアパート
から選手を送り出した女子生徒やサッカー部に友人を送り出した他部の男子生徒も声援を
送っている、ふと風に乗って流れてきたブラスバンドの練習が嫌でもその雰囲気を掻き立
てていた。

 午後の課業を終えた夕暮れ時、もうすぐ夕食と言う時間になって光子はグラウンドへと
足を運んだ、何か狐に抓まれたような真田はせっせとグラウンドを走っている。
 観客席へと腰を下ろした光子の隣に香織はそっと座った、沈黙のまま二人でグラウンド
を見ている、無言の会話を二人で楽しんでいるような、そんな雰囲気がそこにあった。
 突然何かを思い出したように無線のスピーカーから夕食30分前の合図になっている音楽
が流れた、この音楽を聴いてシャワーを浴び食堂へ集合するのがこの学校では暗黙の了解
になっている、光子はスッと立ち上がって香織に手を差し出した、香織はその手を取って
立ち上がる、笑顔で互いの顔を見つめながら香織はやっと口を開いた。



 「ありがとうね、なんか…凄く救われた気がするよ、ほんとに」
 「作戦大成功やったね、これで香織も武田君も悩まないですむってもんや」
 「しかし、ここまでするとは思ってなかったよ」
 「まぁ、なんちゅうんや?、男の手を引いてお願いしたんは香織だけやで」
 「いいじゃん!それよりご飯食べに行こうよ!」
 「そやな」

 光子はグラウンドの真田に声をかける。

 「だーりーん! 晩飯やでぇ〜! シャワー浴びて食堂へ集合や! いくでぇ〜!」

 信頼しあえる大切な仲間を見つけた香織の安心感は何物にも変えがたい暖かな光となっ
てスポンジ状に歯抜けている記憶の隙間を埋めていく、タワーに住むほかの5人がそれぞ
れに一番心配していた記憶問題による人格崩壊を防ぐべく最大限の心遣いをしてくれてい
るのが嬉しかった。
 食事時、初めてフルハウスになったタワーの食堂、12人の男女がそろった始めての夜、
夕食の献立を運んできた食堂のおばちゃんはフルハウスとそう呼んだ。試合を終えて帰っ
てきた勝人も、トレーニングを終えてシャワーを浴びた真田も皆そろっている。
 他愛も無い話で盛り上がり、モグモグとかわいく食事する女性陣が向かいで闘争を繰り
広げる男性陣をアレコレ茶化して笑い、紛れも無く幸せな空間がそこにはあった、まだこ
の時には確かにあったのだが…。


 食後の歓談は食堂からサロンへ移動するのもここでの暗黙の了解、皆でサロンへ行きア
レコレ話をするのも楽しいひとときだ。そんな場にいつも突然入ってくるのはタワー担当
の宮里だった。政府の管理官である彼女の仕事はTS法に基づく交配計画その物と言ってい
いだろう、そのためにアレコレと策を弄する疲れるポジションなのだ。

 「歓談中にお邪魔するわね」いつもそう言って入って来る宮里、今日は手に6人分の封
筒を持っていた。

 「これは女の子宛てよ、夏休み2週間の間に5日間だけ一時帰宅できるから」

 そういって封筒を配り始める、それぞれの女子生徒が封筒を受け取り開封するのだが、
そこには恐ろしい内容が書かれていた。

 「そこに書いてある通りだけど、女子生徒の相方は女子生徒の家に同伴する事」

 えぇ〜!マジっすか!!
 男子生徒は文字通り石になっている、事も無げに言葉をつなげる宮里は笑って言う。

 「当たり前でしょ、ちゃんと相方の親御さんに挨拶してきなさい」

 封筒の中身は自宅までの地図と移動用の切符、そしてそれぞれに多少の路銀。
 あとは、一時帰宅の心構えについて書かれた小冊子、それまでの人生と一気に変わって
しまった自分を支える何かを見つけてきなさい…と言うカリキュラムの一環なのだろうけ
ど、要するに相方となった交配相手が人生の伴侶となるように差し向ける作戦でもあるの
だろう。男子生徒には非常に気の重い問題であるが、彼らもまたこれから途轍もなく重い
者を背負って歩いて行かねばならないのである。


 TSレディを嫁にとって生きて行く事の重さを理解させること。これが後に悲劇をもたら
す最後のトリガーになる事を、宮里も女子生徒も、そして男子生徒達もまったく理解して
いなかった…。

 あ、やっぱりウチは関西人やった…とか、私の出は予想通り静岡だった…など、そんな
事で盛り上がる光子やのぞみを横目に、自分の生まれ育った町を何となく思い出している
香織は気が重い所の騒ぎではなかった。

 サロンから自室に戻った香織は勝人に肩を抱かれて震えていた。
 とにかく怖かった、自分の正体が白日の下に晒されるのが怖かった。
 自分で諦めていた筈の様々な物事を思い出させるところへ。

 「そんなに震えるなよ… 俺が一緒に行くさ、心配するな」

 そう言って微笑む勝人、香織は知らずに泣き始めてしまう、その理由は勝人も分かって
いる、あまりに楽しかった幼い日々の記憶、二人の脳裏によみがえってくる一人の女性の
存在。

 運命の日は近づいていた。




 午後の日差しがふんだんに降り注ぐ島のグラウンドに一陣の風が吹き抜けていく。
 強い風はピッチの芝を揺らし目に見える波がグラウンドに風の刃先を作り出していた。
 目にも鮮やかな青いカーペットの上を大きな人の波が行ったり来たりしている。

 緑と黒のユニフォームで揃えられたラグビー部の男子学生が白とグレーのユニフォーム
を着込んだ対戦相手を蹴散らして津波のように襲いかかっていた。既に10トライをあげて
終始押し気味に試合を進めるラグビーの面々が風のように雄牛の様にグラウンドを所狭し
と走っていた、これでは対戦相手がたまらないだろうなぁ…

 観客席に陣取る生徒達の歓声がグラウンドを支配し、大きな声援は足の重くなる時間帯
ですら独走するフルバックのその背中を押している。そして、その観客席にタワーの11人
がそろっている。真田の為の席が一つ空いているが座るはずも無い事なのだ、団結と友情
とでも言った雰囲気だろうか。
 日差しを避けるべく日陰を探す女子生徒を横目に、タワー組みの女子生徒は涼しい顔を
して日向へ座っている。彼女達の口の中にはカフェインがたっぷり入ったキャンディーが
押し込まれている、そしてよく冷えたアイスコーヒーを飲みながら試合を観戦中だ。
 暑くて汗を流している彼女達だが理性の糸を飛ばすような事は無い、ただ、先ほどから
何となく内股を摺らせてモジモジしているだけなのだが…

 「沙織… どうしたの?」
 「香織は平気なの?」
 「なにが?」
 「いや…ほら…」
 「え?なに?」

 沙織と香織のヒソヒソ話に真美と恵美が割り込む。

 「私も実は先から大変…」
 「うん、私も…」
 「みんな酷いんか? なんやぁ ウチだけやなかったか…」
 「やっぱちょっと酷いね、メーカー変えてもらう?

 光子ものぞみも同じらしい。
 その話の輪から一人だけ香織は置いていかれている。
 話の内容がパッと思い浮かばないのは香織の意識の問題なのかもしれない…

 「あ〜 もう我慢できない! ちょっとトイレ行って来る」
 「ウチも行くやさかい…」
 「同じく…」

 そういって香織以外が立ち上がってトイレに行ってしまった。
 どうしたんだろう?男衆もいぶかしがっている、しかし、その理由を香織はまだ気が付
かない。いや、正確には気が付く訳が無かったのかもしれない。
 何故ならば…、香織だけが同じ症状を発する理由が無かったのである。


 しばらくしてトイレから戻ってきた沙織に香織は単刀直入に聞くしかなかった。

 「ねぇ、みんなどうしたの?」
 「香織は平気なの?」
 「だからなにが?」
 「いや…だから…」
 「うん」
 「痒くないの?」
 「どこが?」
 「・・・・・・・・・・」

 顔を見回す沙織、何かに気が付いたように恵美が口を開いた。

 「私達は皆同じタイミングの筈よね…」
 「え?」
 「で、ここにあるのは同じメーカー製」
 「だから…なにが?」
 「香織… もしかして…」
 「え?え?え?」

 真美も気が付いたようだ、間髪入れず沙織も気が付いた。

 「香織!もしかして!第1号かも!やったねぇ!!」
 「まだ気が付かないの?香織は最初からそうだったけど…」

 男衆は話が見えない様だったけど、やはりこう言う時、最初に気付くのは英才だった。

 「そうか、タンポポ第1号は武田だったか…」

 この一言で英才以外の男子生徒も気が付いたようだ、勝人はやおら立ち上がると香織の
手を取って引っ張りあげた。

 「武田勝人!これより相方と医務室へ行って参ります!」
 「勝人もどうしたの?」

 ニコッと笑った光子が香織の目を見て意地悪そうに言う。

 「か〜お〜り〜 生理来た?」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・あ゙!」

 吉報を待ってるよ!と皆に囃されて香織は勝人と医務室へ歩き出した、既にアパート組
みでは何人かがセーラー服からマタニティー仕様のゆったりしたドレススタイルに変わっ
ているものの、タワー組みは皆深い群青色のセーラー服のままだった。
 タワー組みはどうなるのか?それが一番興味をそそる内容なのかもしれない、観客席を
降りてタワーの医務室へとゆっくり歩いていく、まだ実感は沸かないものの、何となく自
分の胎内に新しい命が芽生えるイメージだけはあった。


 「ねぇ勝人…私… 本当に女になったのかな?」
 「どうしたいきなり」
 「いや、だから… 赤ちゃん出来たかもしれないでしょ」
 「あぁ、俺の子だよな…」
 「うん、だって勝人しか私を抱いてないから」
 「じゃぁ100%俺の子だな」
 「でも…」
 「でも…どうした?」
 「私は…男なのよ…」
 「だった… じゃないのか?」
 「そうだけど…」

 気が付くと香織は顔面蒼白だった。

 「私ね、前に聞いたの、出産って命がけなんだって」
 「そうらしいな」
 「しかもね、凄く痛いんだって」
 「俺には良く分からないけど」
 「私も良く分からない…」
 「・・・・・・・・・・・・・・・」
 「私… 私で平気なのかな? 我慢できるかな? 男にでも出来るかな…」
 「大丈夫だ 大丈夫だって! 俺が付いてるさ!!」
 「でも、生むのは私よ…生まれ付いて女だった訳ではない私なの」

 立ち止まって話をする二人、香織は俯き震えている。
 勝人は香織の肩を抱いて頭に頬擦りしながら語りかけるしかなかった。

 「かおり… こればかりは俺にはどうしようもない事だ」
 「うん」
 「でも、避けて通れない道なら頑張って欲しい」
 「そんな無責任な…」
 「そうかもしれない、だから俺は頑張ってお前とワールドカップへ行く」
 「え?」
 「関係ない話かもしれないけど…」
 「けど?」
 「おれはワールドカップの舞台でお前と子供の名を叫ぶよ」
 「まさと…」

 勝人は肩を抱いたまま歩き出した、香織は促されるように歩き始める。

 「俺を生んでくれた母さんも、香織の母さんも…」
 「うん」
 「世界中の全部の母さんは皆同じ気持ちだったと思うんだよ」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「最初はみんな不安だったと思うんだ」
 「そうね…」
 「こんなとき、男は何も出来ないんだ」
 「私も男だったよ」
 「でも今は女だろ」
 「…そうだけど」
 「世界にまた一人、新しい母親が生まれるんだよ」
 「…まさと」
 「香織…ありがとう、本当にありがとう」
 「・・・・・・・・・・・・・・」
 「さぁ、医務室行こうぜ」


 上手く表現できない感情を抱えて香織はタワーに吸い込まれて行った、これから未知の
戦いを強いられる恐怖に香織の緊張はピークに達している、強い孤独感に苛まれつつもタ
ワー6階の医務室に入ると宮里が待っていた。ちょっとした病院並みの設備を持った場所
になっているここで宮里は待機していたのだった。

 「今回は誰かしら来るかな?と思っていたけど…香織が1号なのね!」
 「宮里先生…」
 「私も鼻が高いわね!さぁ、診てもらいましょう!」
 「宮里先生は出産した事ありますか?」
 「私は無いわね…妊娠不能だし」
 「え?」
 「まぁ、それは今度話をするわね、さぁ、とにかく入った入った!」
 「はい」
 「あ、武田君はここで留守番よ」
 「まじっすか?」
 「ここから先は女の園なんで男子禁制なの!」

 そういって宮里はドアを閉めてしまった、医務室の入り口で所在無げにソワソワしなが
ら診察結果を待っている勝人、こんなとき、男は本当に無力だ。
 手持ち無沙汰な勝人はアレコレ思慮を巡らせる、それは自分の子種が香織の中の何かと
結びついて出来上がる奇跡の存在、生命の神秘とでも言うような物、コウノトリが運んで
くると聞かされた新しい命、自らに掛かる責任とでも言うのだろうか。

 小一時間程待たされて勝人は香織と再会した、医務室の面談ルームで宮里を交えて3者
会談になる、香織は顔面蒼白のまま笑顔だった。

 「武田君、ほぼ間違いないみたい」
 「そうですか…」
 「まさと… たぶん… 私でも大丈夫だと思う…」
 「思うって…」
 「あと2週間たったら再検査ね、そしたらちゃんと分かるから」
 「そうですか…」
 「まさと…ごめんね…ごめんね…」

 そういって香織は泣き始めてしまった、宮里は香織の肩を抱き寄せ頭を撫で始めた。

 「武田君、良く聞いてね」
 「…はい」
 「香織が無事に出産しても子供と一緒に過ごせるのは3ヶ月足らずだからね」
 「…そうなんですか!」
 「そうなの、こればかりはどうしようもないのよ」
 「・・・・・・・・・・・・何となりませんか?」
 「なりません」
 「そうですか…」

 カルテと資料を見ながら宮里は続けた。

 「もし手元においてあったとしても、子育てしながら学校生活できる?」
 「それは…」
 「それに、TS法の関係で乳幼児からの完全生育システムは万全よ」
 「そうですけど」
 「そして、最近はちゃんと定期的に子供に合える仕組みになっているから…」
 「そうなんですけどねぇ」

 勝人は何かを考えている、思いつめたような表情で何かを考えている。
 ふと、何かを思いついたように顔を上げた勝人はとんでもない事を切り出した。


 今まで宮里が担当してきた子供達とは一線を画す大人びた考え方なのかもしれない、早
い頃から全日本代表として大人の世界に揉まれて来た勝人ならではかもしれない。
 プロ契約して学校から独立して香織を引き受けて夫婦として暮らしたい、子供も育てた
い、ここに居れば人材育成の観点から自分には理想的な環境だけど、子供と母親を引き受
けて男の責任を果たすなら世の荒波に揉まれても良い。
 勝人は父親の覚悟を極めたようだ、その姿が香織には眩しかった、宮里も今まで経験の
無いパターンだけに驚いたり感動したり忙しいようだ。

 しかし、法の下の秩序を重んじる法治国家でそれが認められる可能性は非常に少ないと
説明するしか宮里には方法が無かった、上に聞いてみる…とは言えない部分も色々あるの
かもしれない。
 結局、勝人の願いはどうにもならないと言う事で納得するしかなかった、香織も同意す
るしかなかった。世の女性達が聞いたら本気で怒るどころかショックで流産もありえる内
容だ、お腹を痛めて産んだ子を問答無用で取り上げられてしまう世界に絶望しかねない。
 宮里の危惧はかつてそのような事がいくつもあった事の裏返しなのだろう、悲痛な表情
で話をし続けるしかない宮里の身を思えば、香織も無理を言えないな…と思い始めていた
のだった。

 「物事にはハレもケもあるのよ、やがて望む形に出来るから、今は我慢して…」

 そんな言葉しか言えない自分を宮里は呪うしかなかった…。
 悲痛な慟哭を抱いて香織は自室に戻った、力なくソファーに座り込んだ香織を勝人がお
姫様抱っこで抱えてベットに寝かせる、香織は本気で泣きだす5秒前状態だ。
 勝人はおもむろに香織のセーラー服をめくって香織のお腹に耳を付けた、香織の呼吸の
音と心拍音が聞こえる、胃腸の活動する音、骨の軋む音、そして、香織の心の音…。

 「香織… 上手く調整して… ついでに頑張って二人生んでくれないか?」
 「え?」
 「そして三人目がお前のここにいる状態で卒業しよう」
 「…ちょっと大変ね」
 「卒業したら俺はプロ契約する、結婚を条件に契約するんだ」
 「そんな事出来るの?」
 「あぁ、出来るさ、それが嫌なら契約しないって言い切るよ」
 「それが出来ない場合は」
 「そんな事は考えない!それまでにそれだけの男になるさ!」
 「出来るの?」
 「あぁ、香織と子供の為に頑張る、俺もまだ子供だけど」

 ポロポロと涙を流し始めた香織を抱き寄せ勝人もベットに横になった、二人で並んで寝
転がっている。

 「川の字で寝るって言うけど、こう言う事なんだろうな、初めてわかった」
 「うん」
 「香織、頑張ってくれ、俺も頑張る、プロ契約して取られた子供を取り返して…」
 「うん…」
 「そして4人生んでくれよ、税金ただって話だ、おれがガッツリ稼いで見せるから!」
 「まさと…」

 寝転がったまま手をつないで天井を見上げる二人、目を閉じて心を通わせる。

 「俺達の人生プラン出来たな!」
 「そうだね」
 「香織が4人目を生む頃、おれはヨーロッパのどこかのリーグで得点王になる」
 「そして…バンドロールを取ってね」 
 「あぁ!まかしとけ! そして、地中海を見下ろす高台に自宅を構えて…」
 「凄い話ね」
 「ほら、昔アルゼンチンにメッシって居たじゃん、2代目マラドーナといわれた」
 「今は孫がヨーロッパでプレイ中ね」
 「そうそう、で、あの人みたいに有名人になるよ」
 「うん…」


 二人の夢物語は広く大きな物だ、子供の夢を語り合ってる様な雰囲気とでも言うのだろ
うか。しかし、この時の香織はその輝くような未来がどうしてもイメージできなかった。
きっと誰でも同じだろうと香織は思うしかなかったのだが…
 しばらくひっくり返っていた二人だったがいつの間にか夕食時となってしまい食堂へ降
りて行く。香織の表情はまだ沈んだままだ。食堂へ入ると既にメンバー全員が揃っていて、
今日の試合に快勝した真田もシャワーを浴びてさっぱりした表情で光子と向かい合って座
っている。
 勝人は言葉を選ぶ事もなく単刀直入に皆に恐らく間違いないと報告した。
 食堂に沸き起こる拍手、そして祝福の声。食堂から来ていたおばちゃん達も祝福してく
れる。チラッと真田を見た香織だったが複雑な表情を浮かべている素振は見えなかった。

 「ありがとう… みんなありがとう…」

 そう言って涙を流す香織、出産まで約10ヶ月のドラマが始まった事を感じ始めていた。
 用意された晩ごはんにありつきながら、香織は出産経験があるおばちゃんたちにアレコ
レとレクチャーを受ける、それを他の5人も聞いている。やはりこういうものは場数なの
だろう、最年長でトータル7人生んだと言うおばちゃん曰く、気合と度胸と愛情だそうで
ある。
 食事の内容や基礎体温記録の重要性を懇々と説かれ香織はじっくりと聞いている、食事
中にマタニティ管理セクションの担当者が食堂へ来たものの、知識でしか話をしていない
とおばちゃんに見抜かれ「あんたは黙ってなさい」の一言で片付けられてしまった。

 「いいかい?1〜2ヶ月位は赤ちゃんも自力で大きくなるけどね…」
 「へその緒が繋がったらあなたが食べたものは赤ちゃんも食べてるんだからね」
 「好き嫌いなんかダメよ、体を作るのに必要なものをバランスよく食べて」
 「あとはしっかり寝る事ね、最初は大変だけど…」
 「気楽に行きなさい、一人生んだら楽になるから」

 ケラケラ笑うおばちゃん達は最後にこう付け加える。

 「こればかりは男は役に立たないんだから蹴っ飛ばすくらいで良いのよ」

 なかなか思い出せない自分の母親ではなく、ここに居るみんなが私を気遣ってくれる母
親のような存在だと香織は感じた、それは紛れも無く厳然と存在する絶望にまみれた自ら
の運命を呪う香織だけではない感情なのだろう。TS法で人生の舵を大きく切った元男の女
性達は同じ境遇の彼女達を温かく見守ってくれる存在だ、いうなれば戦友とも同志とも言
うべき存在、もっとベタな表現なら仲間。
 ここなら大丈夫、私はやっていける。男だったけど、男の心がどこかに残ってるけど、
男の頃の人格が戻ってきているけど…、それでも今は女だから、だからそれを演じてるだ
け、精一杯演じて自分の役を全うしよう。そうすれば、きっと良い方向へ行くはず…

 しかし、香織はどこかで分かっていた、ここの全てのスタッフが有る特定の目的のため
に作られた幻影であることを。期待とはただの願望であり、現実とは絶望である事も。
 そして、友情は裏切られるものであり、信用とは無意味なものでしかない。不安や迷い
や落胆といった不安定な自らを支えるつっかえ棒の如き何かを探したい…、それは自分の
向かいにいる存在だと、香織はそう思った。


 それから約1ヵ月後のある日…
 香織は勝人と一緒に宮里から呼び出しを受けた、自宅への一時帰宅に関する相談だ。
 妊娠6週目付近となって香織につわりの症状が現れ始める時期でもある。何かと不平不
満をこぼし始める上に些細な事でイライラしているのだが…、勝人はまだまだ平気なよう
だった、やはり妊娠判定直後の特別教育が効いてるのだろうか。
 役に立たない男で良いのか?と言われて発奮しなければ妊婦を支えることなど不可能な
んだろう、どう支えていくか?と徹底的にレクチャーされた勝人にとって自らの心をセル
フコントロールする良いトレーニングでもあった。
 しきりに眠い眠いと言う香織をなだめすかして連れてきた勝人だが、宮里の提案は安定
する20週目程度まで延期する案だった、その頃には流産の可能性もだいぶ減り安心して移
動できるとの診断だそうだ。
 香織にとってはあと3ヶ月ほど辛い症状と戦う事になるので、それだけでもブルーだと
言うのにお腹のふくらみを実感し始めてから外に出ると言うのはたまらなく嫌な感じが
していた。
 やはりジェンダー傾向が男性よりなのかもしれないと宮里は考えていたが、実際は女性
機能を持った男性だと考えている香織にとって妊婦姿での里帰りは耐えられない屈辱なの
かもしれない。

 しかし、自分の両親に会いたいと願う心もまた確かに存在しているのだった。
 香織の揺れる心を見透かすように宮里は追い打ちを掛ける。両親と安産祈願に行ってら
っしゃい…と。

 香織は悲壮なまでの覚悟を決めて一時帰宅に同意した、避けては通れぬ道なのかもしれないと考えたのだけど、その道に選択肢が用意されているとは限らない。
 人生とは行き止まりの道を終点へ歩いていくだけなのだとしたら、私の人生はなにかしら意味の有る物なのだろうか?、香織の抱えた回答の出ない疑問は日増しに大きくなっていくのだった。




 早朝と呼ぶには聊か語弊のある時間帯、通勤や出張のビジネスマンが居並ぶ駅の窓口へ
場違いな格好をした学生が二人並んでいた。

 「おはようございます!」

 そう元気に挨拶する駅員は香織の差し出した切符を見るなり分厚いマニュアルのページ
をめくり始める。

 「えぇっと… この切符は有効期限を過ぎていますが…」

 そういってページを捲りながら何かを見つけた駅員は小さな小箱を取り出すと中から海
苔巻き状の機械を取り出して改札の機械にケーブルを接続した。

 「川口さんですね、川口香織さん、識別番号をこの端末に打ち込んでください」

 そういってテンキーを差し出され香織は番号を叩いた、204…

 「これでいいですか?」
 「はい、結構です、あと、これで目をスキャンさせてください、ここを覗いて」

 そういって海苔巻き状の機械を渡された香織は言われるがままに機械の小さなレンズ部
を右目で覗き込む、ややあってピッと電子音が鳴り認識中と端末に表示が出た。

 「はい、確認が取れました、間違いなくご本人様ですね」
 「えぇ、そうですけど…」
 「こっちが新しい切符になります、お連れ様の分も一緒に出てます」
 「あ、ホントだ…」
 「次の列車は34番線から出ますのでお急ぎください」

 深い群青色のセーラー服に身を包んだ香織は手ぶらでホームへと歩いていく、その後ろ
をスポーツバック2つ担いだ勝人が続く。香織の妊娠発覚から既に20週を経過し、二人は
遅い夏休みで帰郷の途中だった。

 「なぁ香織、大丈夫か?」
 「なにが?」
 「気持ち悪くないか?」
 「うん、先週くらいからだいぶ良くなってるよ、平気平気!」
 「それならいいけど」
 「それよりさ、あっち行ってうどん食べようよ!」

 そういって香織はスタスタと歩いて行ってしまう、自信に満ちた笑顔に勝人は先週まで
の不安定な香織を思い出して笑ってしまった。つまらない事で怒鳴り声を上げて怒ったり、
ヒステリックになって急に泣き出してみたり。そして、自信が無いと言ってベランダから
飛び降りそうになってみたり…。

 「香織! 列車まであと10分だぞ!」
 「麺類なら3分で食べられるよ」
 「無茶するなよ…」

 そういってうどん屋の暖簾を潜る二人、湯気の向こう側には機械的な対応をするおばち
ゃんが立っていて無表情に注文を捌いている。久しぶりに見る世間一般の人々、自分達を
チヤホヤしない世界、懐かしくも疎ましくもある不思議な世界。
 今、私はこの国の為に子供を抱えてるんだぞ!と叫びだしたくなるのだが…、不思議と
腹が立つ事は無かった。きっと、いろんな意味で安定期に入っているんだろうと香織は思
っていた。


 小さなどんぶりに盛られたうどんを啜りながら二人は顔を見合わせる、不味い…、そう
顔に書いてある。島の食堂で食べる食事のレベルがどれほど高いものだったのかをこんな
形で実感するのだった。
 大して美味くも無いと言うのに値段だけは一人前を取られてなんとなく損したと感じつ
つも二人は列車に吸い込まれる、ややあって出発を告げるベルが鳴り列車は走り出した。
 新幹線の後を受けたリニアラインの列車はグングンと加速して行く、加速のGを感じつ
つ香織は喉の渇きに耐え切れなくなりつつあった、緊張感はピークに達している、自宅へ
帰ると言う事がこれほど緊張するものだとは…。ふと、そんな事も考えてしまう。

 「やっぱり、生んでからにすればよかったかも…」

 香織は無意識かつ無防備な言葉をポロリとこぼす、勝人はどう返していいものか分から
ず相槌を軽く打つ程度だった。

 「いきなり女のかっこをした息子が腹ボテで帰ってきたら卒倒するよね…」
 「そりゃ考えすぎだって」
 「でも、最後に家を出た朝は男だったのよ」
 「そのままだっけ?」
 「そう、学校でくじ引きして、私が黒を引いて」
 「一回も帰ってないのか?」
 「うん…」
 「でもまぁ…あれだな、担当が説明に行ってるだろ」
 「そうだけどさぁ…普通に考えるとイメージわかないでしょ、男の子だったんだから」
 「・・・・・・・・・・・・・・う〜ん」
 「男を産んだはずなのに女が家に来たら…、お母さんひっくり返るかも」
 「何でそう思う?」
 「だって、もうすぐ私が母親になりそうだから…かな、男だった私がね」
 「男でも女でも子供には変わりないだろ」
 「そもそも…、私を子供だって認識してくれるかな…」
 「え?」
 「だってさ… 」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「いきなり見ず知らずの人間が目の前に現れて…」
 「…あぁ」
 「この人は貴方の子供です…とか言われたらおかしいって思わない?」

 いわゆる不安定化は定期的にやってくる事が多い、医者の説明では妊娠によるホルモン
バランスの変化に脳が付いて行けないのだと言う。普通の女性の場合は出産後2週間程度
の間にマタニティブルーズと言う形で出るのだけど、香織の場合は新たに作られた女性化
人格が現状認識をきちんと出来ず男性時の状態で物を考えてしまう現象なのだそうだ。
 原因は良く分かっていないが、対応策は良く知られている。つまり『強くなるしかな
い』のだそうだ、自分の現状を受け入れて、その上で強く生きて行くしかない…。無責任
な話だがそれ以上の何を求めると言うのか?と言う話になってしまうらしい。



 疾走する列車の中、香織の心中に渦巻く不安の大渦は次々と禍々しいまでのイメージを
吐き出し続けている。自宅に帰っても自分を両親が認識してくれなかったらどうしよう…、
誰も自分を分かってくれなかったらどうしよう…、そもそも、自宅がどうだったかですら
余りよく覚えていない…、いったい…、私は誰なの?

 「私は… 川口… ま…」
 「香織… 俺がついてるから大丈夫だ」
 「まさと…」
 「俺はいつも一緒にいるから」

 普段なら泣き出しかねない香織なのだが、不思議とこの頃になると泣くような事はなく
なっていた。精神的な平衡を保つ事が上手くなっているのかも知れない。母親としての機
能を備えつつある自分の変化を香織自信が気が付いていない。

 他愛もない会話のラリーを続けていた二人だが下車が近付いてくると会話のペースも落
ち始める、なんとか間を埋めたい勝人だが香織の緊張は傍目に見ても痛々しいほどだ。
 ガチガチに成りつつある二人の所へ意外な人物が姿を現した。

 「川口香織さん…ですね?」
 「・・・・・・・・・・っあ!」

 香織は呆然とその人物を見るしかできなかった、緊張などどこかへ忘れた状態だ。

 「あの…どちら様ですか?」勝人もそう言うのが精一杯だ、突然現れた人物は勝人へ名
刺を差し出すと挨拶した。

 「厚生省少子高齢化対策チームTS法管理セクションの橋本と言います」
 「橋本さん…」勝人はまだ意味が判らない。

 「川口香織さん、つらいお勤めご苦労様です、大変ですが頑張って下さい」
 「・・・・・・はい」
 「私も御自宅まで同行します、川口さんのご実家でその後の窓口になっていました」
 「そうでしたか… あの、お母さんやお父さんは…」

 橋本はニコッと笑うと一枚の写真を取りだして香織に渡した、そこには懐かしい家族の
姿が映っていた。何度頑張っても思い出せなかった家族が笑顔で写真に収まる姿に香織は
不思議な安堵を覚える。

 「あなたの帰りを皆さん待っていますよ、今日帰宅されることは私の方で前もって連絡
しておきました、ご両親とも今日はお仕事をお休みされて待機されています、あと、弟さ
んも今日は特別休校で待機中です」

 勝人はここまで来て事情を飲み込めた、つまり、この橋本なる人物が香織の担当なのだ
ろうと言う事だ。

 「そして…武田君、君のご両親も待機中だ」
 「え?」
 「川口さん宅で君の帰りを待っている」
 「そうなんですか?」
 「何せご近所さんだからね、川口さんのお相手が貴方の息子さんですよと言ったらご両
親はテポドン級に驚いておられたよ」

 「・・・・・そうですか」



 二人の反応を見ながら橋本は続ける。

 「婚姻法が改正されてね、両親の同意が有れば15歳から婚姻届を出せるんだ」
 「武田君のお父さんが婚姻届を用意して待ってるよ、覚悟して帰りなさいね」
 「責任を取らせるって言って一人で盛り上がっているよ」

 ハッハッハ!と笑って武田の背中をドンと叩く橋本、"覚悟"の意味を考える香織、様々
なコントラストを見せながら列車は駅に到着、駅前のロータリーで黒塗りの大型高級車に
収まった二人は橋本と一緒に香織の自宅へ向かう。
 懐かしい町並みが窓の外に広がる、見覚えのある街角に香織は帰宅を実感する。既に随
分と遠くなったような感覚のあの日、いつものように『行ってきます!』と自宅を出た朝
を幾度も思い出す…
 子供の頃から何度も歩いた曲がり角を折れ細い路地を走る、幼い日の記憶が残る公園で
小さな子供がサッカーボールを蹴っていた、思わず勝人を見る香織、勝人は香織の肩を抱
いた。

 「さぁ、到着だ…」

 ドアを開けて降り立った香織は自宅を見るなり固まってしまう…

 ピンポ〜ン
 「あ!どうも!橋本です!」

 インターホン越しに橋本は呼び掛けた、ガチャリとドアが開いて…中年女性が姿を現す。

 「かおり… なんだね?」

 女性はそう言って裸足のまま玄関を飛び出しギュッと香織を抱きしめる、涙をボロボロ
と流し頭を撫でる母親…、香織は妙に冷静な自分が何ともおかしかった、何というか…、
安い映画のワンシーンに自分が紛れ込んだかのような錯覚…
 抱きしめて泣きじゃくる母親とそれを見て涙を流す父親の姿、香織はまだ整理が付いて
いない、弟も出てきて自分を見るなり呟く「ホントに兄貴なのか…?」と。

 「何から話をすればいいのか分からないけど…、私は私だから… ただいま!」

 そう言って香織は微笑むしかなかった、花のような優しい笑顔は女性化した証なのだけ
ど、それですらも自らの存在を証明するには至らない、なんとももどかしいのだが…

 「とりあえず中でお話しされては?」と橋本が提案し皆で川口邸へ入った。

 玄関をくぐった香織は靴を脱ぐと何も言わずに階段を上がり自室へと向かう、その仕草
に両親が目を細めているのだが香織は気が付かない。
 ドアを開け部屋に入ると…、見事なまでのガランとした部屋があった。自分の使ってい
た家財道具全てが片づけられている部屋、所在なげに立ち竦む香織…

 「あなたの机もベットも本棚も、全部橋本さんの指示で片づけたのよ…」

 そう言って母親は入ってきた、戻ってきたときに記憶がフラッシュオーバーして発作を
起こすことがあると言う説明だったそうだ。しかし、香織は事も無げに話を切り出す、そ
れを聞いている橋本も家族全員も段々青ざめてくる…



 ここに机があって…、こっちがベット、本棚はココとココ。
 こっち側にはマリノスのポスターを貼っておいたはず…、選手のサイン入りだったけど
捨てちゃったの?勿体無いなぁ…、こっちには衣装箪笥があったよね。
 で、えぇっと聞き難いんだけど…、ベットの下のエッチな本とかどうしたの?捨てちゃ
った?、今の私には要らないから佳介にあげようと思っていたのに…、そう言えば鍵付き
の小箱もなかった?ダイヤルキーの付いた小さな箱…

 楽しそうに記憶を辿る香織、橋本は今にもひっくり返りそうな程に青ざめている…

 「あの… 一応俺から説明するけど…」そう言って勝人は切り出した。

 あの日、サッカーの練習をしていた勝人の所に香織が来て、話をしながらゆっくりと思
い出して…。そして、全部承知した上で香織は第2の人生を受け入れて女性として歩みだ
した事、そして…、香織の処女も勝人が貰って双方同意で事に及んで…、そして今、香織
のお腹には新しい命が芽生えていることも…。

 一切の淀みなく躊躇無く、勝人は真っ直ぐに香織の母親の目を見つめて全部話をした。
 香織は勝人の手を握って呟く「ありがとう…」

 「…そうなの」それしか母親の言葉が出てこなかったのは意外な感じだった。
 父親はうつむいて何かを考え込んでいる、記憶の整合性が取れずおかしくなっていくTS
被験者が多い中で我が子はどうなってしまうのか?、父親の恐怖はその一点に尽きるのか
も知れない。

 そこに香織の弟…佳介が入ってきた。

 「えぇっと…兄貴…じゃなくて… ねえちゃん… で、良いのかな…」

 香織は笑顔で頷く、「うん それで良いよ 佳介は少し背が伸びたね」

 佳介は小箱を持っていた、ダイヤルキーの付いた小箱だ。

 「何度か開けようと思ったんだけど怖くて開けなかった…」
 「これの鍵は437よ 開けてみて」

 佳介は番号を回して鍵を開ける、カチャリと音がして小箱の蓋は開いた。

 「うわ…」佳介はそれしか言葉が出てこなかった。
 15歳の少年が大事に持っているはずの宝物、些細な物なのだがそれの意味する所を佳介
は子供ながらに理解した。

 「全部佳介にあげるよ、私には要らない物だから…」

 小さなサッカーボールの付いたキーホルダー、サッカー選手のブロマイド、そして、家
族で見に行ったサッカー試合の入場券の半割れ…

 感動的な家族の再開というには些かあっけなさ過ぎたのだが…
 「お取り込み中失礼します」と、そう言ってそこに入って来たのは勝人の父親だった。



 お話は全部伺いました、いやいや、何て言って良いやら困るんですが、ウチの勝人のし
でかした事ですから当然責任を取らせようと思います…、って堅苦しい話をしたい訳じゃ
ないんですがね・・・・・
 遂に川口と親戚に成っちゃったなぁ…そう言って勝人の父親は香織の父親と握手した、
この二人もまた幼なじみだった。

 「なぁ、今更だけど、お嬢さん…で良いんだよね?ウチに嫁にくれるかい?」
 「俺は良いが…女房と… あとは…」

 そう言って二人の父親は香織を見る、香織はカラカラと笑って勝人を見る、勝人は周り
を見回して覚悟を決めたようだ…「宜しくお願いします」そう言って頭を下げた。

 「下に行きましょう…」香織の母親は笑ってそう言うしかなかった。

 二つの家族と担当の橋本が居間でそれぞれの居場所を造って腰を下ろす、ここから重要
な話が始まる、香織の身分上の問題、戸籍管理の問題、TS法における義務の問題。そして、
さらに婚姻届けとそれにまつわる補償の問題である。

 「一般的な話ですが…」そう言って橋本は切り出した、女性化による補償金と慰謝料の
提示額は都心部でもそれなりの家が一括で買えるだけの数字だった、そして出産した子供
の処遇とその慰謝料もまた家が買えるほどの金額だ。
 よく問題になるのはお金の行き先なんだとか。婚姻届を出せば香織の戸籍上その権利を
持つのは川口家ではなく武田家へ行く、しかし、あくまで苦労を被るのは川口家の香織な
のだから、そのお金が川口へ来ないのはおかしい。
 しかし、一番の揉めた内容は香織の身分上の問題だった、川口香織として子供を生むの
か?それとも武田香織になるのか?、これはある意味でお金ではどうにもならない問題な
のかもしれない。

 「補償金も慰謝料も要らない!ただし、未婚女性の出産は認めない!」

 そう言って勝人の父親は強行に反対する、ウチのバカ息子と一緒になってから子供を産
んで欲しい。その子がどこへ行くのかを今の時点で与り知る事は出来ないが、いつか必ず
俺が草の根分けても探し出すから…。ウチのバカ息子の仕込んだ子種で未婚の女性が出産
したなどと言われれば世間体が悪すぎるし、それ以前にそもそも筋が通らない!
 一人勝手に熱くなっているのだが、その問題の核心に潜んでいるのは厳然と存在するTS
レディに対する差別・蔑視の問題だったのだろう。
 男だったのに女になって股を開いて、男を取っ替え引っ替えヤリまくって子供を作る奴
隷だそうだ…、そんな目で見られる香織が可哀想だし自分の息子がその片棒を担いでいる
というのは父親として情けない限りだ。
 親の愛情という物の価値を香織は初めて実感した、こればかりは自分が親になってみな
いと解らないことなのだろう…

 「あの… すいません… ちょっと外に出て良いですか?」

 そう言って香織は立ち上がった、勝人がスクッと立ち上がって傍らを固める。

 「ちょっと外の風に当たってきます」そう言って二人は部屋を出た、なぜだか香織は涙
が止まらない。両家の両親は黙ってそれを見ている、もはや言葉はこれ以上要らないじゃ
ないか、十分に夫婦としてやっていけると…この場にいた『大人達』はそう思った。



 「なんか…凄い話になってきたね」
 「あぁ、俺もなんかちょっと引きまくってる」
 「結婚するって大変なことなんだね」
 「そうだな…」

 勝人は真顔で香織を見る、香織は目を背けたくてもそれが出来ない。

 「俺が必ず幸せにするから、だから俺と結婚しよう」
 「うん、よろしく… よろしくお願いします」

 昼下がりの町並み、人通りの少ない公園の木陰で二人は誓いのキスをした。
 それを遠くから眺めている視線に気が付くこともなく…

 二人が自宅へ戻ると川口家だけが待っていた、ブラブラと2時間近くも歩いたようだが
不思議と疲れはなかった。

 「香織…大丈夫なの?妊娠中なんでしょ?」

 すでに母親は香織と呼ぶことに慣れたようだ、父親は微妙な距離感を保ったまま如何と
もし難いと言った感じでおどおどしている。弟…佳介は時々ジッと見つめるそぶりするも
のの現状の受け入れしか無いと悟ったのか、それを納得させる努力を続けているようだ。

 近所の寿司屋から特上寿司が人数分届けられ皆でそれを囲む夕食、久しぶりな家族との
団らん、食後の一時を過ごしていたら玄関の呼び鈴が鳴った、母親が出ていくと家具屋が
でかいベットを届けに来たのだった。

 「香織、あなたの部屋に入れるわね、床で寝るわけには行かないでしょ」

 そう言ってガランとした部屋にダブルサイズのベットが収められた、香織は手慣れた手
つきでベットメイクしていく、母親が洗ってくれたカーテンをカーテンレールに引っかけ
て掃除機で部屋を清掃する、佳介がどこからともなく大きな姿見の鏡を持ってきた、それ
を部屋に運び込むと少しずつ生活の臭いがし始める。
 テキパキと家事をこなしていく香織のその仕草が完全に女性化している事に、なにより
も父親は驚いて眺めている。その後ろにそっと立ち事情を説明する勝人、完全な同棲生活
で家事一切を引き受ける香織はすっかり俺の嫁さん状態なんですよ…

 振り返り勝人の襟倉を両手で掴む父親、勝人はグッと奥歯を噛み締めて目をつぶる…

 「まーくん… 娘を… かおり…を 頼むよ… よろしく頼むよ…」

 そう言って父親は泣き崩れた、どこかで拒否していた息子の女性化を納得したのかも知
れない。それを見て香織は微笑んだ、これで良いんだ…これで良いんだ…と。
 香織、お風呂を沸かすから入りなさいね、体を冷やしちゃダメよ、明日は犬の日だから
安産祈願の願掛けに行きましょう、まーくんも一緒にね…

 母親のウキウキするような表情の理由を香織は少しずつ実感し始めている、母さんは女
の子が欲しかったんだよ、男二人に成っちゃったからガッカリしていたけど…と父親は真
相を語り始める。



 「所で香織…」

 そう言って母親は真顔になったが、その直後に振り返って言う。

 「ハイハイ、男は出ていって、女の話だから! シッシッ!」

 そう言って父親と勝人を部屋から叩き出す、母と娘だけの部屋で母親は香織のお腹に手
を当てた。

 「20週目だっけ?」
 「…うん」
 「そろそろ胎動してる?」
 「時々だけど何かが当たる気がする」
 「そうなの…」
 「まだなんか良く分からなくて…」
 「そんな物よ」
 「怖くて仕方が無くて…私…」

 そう言って香織は涙目になる、母親は大きく香織を抱きしめると幼子をあやすようにゆ
っくりと語りかける。

 女はね、みんな同じ事を思うのよ、あなただけじゃないの、みんな怖いの、でもね、こ
れだけは男には解らないことだからね、自分で立ち向かうしかないのよ…、彼が好きなん
でしょ?じゃぁ大丈夫だよ、きっと大丈夫!、後はね、気合いと度胸よ!そして愛情!

 そう言えばタワーの食堂でおばちゃんにも同じ事を言われたよなぁ…と香織は思い出し
た。やっぱりそれが真実なのだろうか?、何となく釈然としないのだけど、出産経験のあ
る女性達が皆そう言うのならそれは真実なんだろうと納得するしかなかった。
 部屋の扉をコンコンと誰かがノックする、誰?と香織が聞けばガチャリとドアが開いて
勝人が入ってきた。

 「これを俺の母さんが持ってきた 香織にって」

 そう言って袋を差し出す、なんだろう?と香織が袋を開けると犬印の妊娠帯だった、そ
して妊婦用のマタニティナイティと産褥ショーツ、いわゆる妊婦セット。

 「さすがねぇ、気が付くのが早いわ…」

 そう言って香織の母親は中身を取り出すとアレコレ説明し始める、そそくさと退散しか
けた勝人を呼びつけ座らせ香織と一緒に教えだす。旦那の協力無しには妊婦は大変なんだ
と勝人は嫌でも理解した、女は弱い生き物だが母は強し。
 今夜はウチに泊まっていってね…そう言って母親は部屋を出ていった、香織は勝人と見
つめ合ったまま微笑んでいる、風呂に入ってさっぱりして、そのまま二人して眠ってしま
ったようだ…。

 父親は居間で一人、手酌酒で飲んでいる。きっと今夜の酒は苦いだろう…
 母親ではないもう一人の親の辛さを父親は味わっていた。




 カーテン越しの光が螺旋を描いて部屋に落ちる朝、香織は懐かしい我が家の懐かしい自
室で目を覚ました、素っ裸のまま…勝人に抱きしめられて。

 ダブつき気味で寝にくいと脱いでしまったマタニティナイティもじきに慣れるだろう、
張り出し始めたお腹もやがては抱えるようになるだろう。
 そして…、いつかはウェディングドレスを着て、この人と…、勝人とヴァージンロード
を歩くのだろう。儚い夢のようなアヤフヤなイメージで香織は幸せを感じていた。

 ややあって目を覚ました勝人と共に居間へ降りていく、タワーでの生活では朝型の生活
だった関係で6時には既に通常活動モードになっている。香織の家族は7時から動き始める
のだろうか?いまだ寝息がドア越しに漏れ聞こえていた。

 「散歩に行こうよ」

 そういって香織はジャージに着替えた、普段着を何も持ってきていない上に、自宅では
そのような物が一切無い関係でそれしか着る物が無かった、勝人もジャージに着替えて二
人で家を出る。早朝の空気を浴びながら二人はボチボチと散歩モードに入った。
 昔、よく二人でボールを追いかけた公園を横切り、小学校へ続く坂道を歩き、高台の中
学校から町を見下ろし、下り坂沿いの商店街を抜け、いつか二人のどちらかが…と話した
協会の前へと到着した。

 「勝人…覚えてる?」
 「言わなくても分かるよ…高橋だろ」
 「うん…」
 「あいつはお前が好きだったはずなんだよなぁ…」
 「そうなんだ…」
 「俺の勘違いでなければ」
 「じゃぁ…」

 そこまで言って言葉に詰まった。
 二人の前にセーラー服の女子高生が姿を現したからだ。

 「おはよう…」
 「あぁ、おはよう」
 「久しぶり…ね…」
 「うん」

 ジャージ姿の二人を見るセーラー服姿の女子高生。
 泣きそうな笑い出しそうな、複雑な表情で立ち尽くしている。

 「高橋…」勝人は精一杯の声を出した。
 「川口…さん…よね、おめでとう…」高橋と呼ばれた女子高生はそれだけ言って走り去
ってしまった。香織の悲痛な表情が勝人には痛いほどだった。

 「勝人!彼女を追いかけて!最悪に嫌な予感がする…」
 「わかった!」

 そういって勝人は高橋と呼ばれた女子高生を追いかける、香織も走りたかったのだが、
足が思うように前に出なかった。
 油断していたとは言え俊足のスピードスターだ、風のように走っていく勝人は少し走っ
て難なく高橋を捕らえた「ちょっと待ってくれ」



 「私は邪魔でしょ、邪魔なんでしょ」
 「なにがだよ」
 「だって川口…さんは…」
 「高橋…」
 「彼は大変な役目を背負ったの」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「私達だけではまかないきれない事をやっているのよ!」
 「だからなんだって言うんだ!」
 「女の数が足りないんじゃなくて女しか出来ない事を出来る人が足りないの」
 「俺だけじゃない、みんなの問題なんだ!」
 「だからお願い、あなたが彼を支えてあげて、お願い…」
 「お前はどうするんだよ」
 「私の事は忘れて…」
 「忘れられるか!バカな事言うなよ!」
 「私がいると彼が傷つくのよ、私は役に立たない生まれながらの女だから」
 「そんな事無いだろ…」
 「だって子供なんか生みたくないもの!」
 「え?」
 「遊んでいたいし働きたいし広い世界を見たい!子供に構ってる暇なんか無いのよ」
 「高橋…」
 「なんで女だけがそんな思いしなくちゃいけないのよ!」
 「女しか生めないんだから仕方ないだろ!」
 「だから彼はああなったの!私が変わってあげられれば…彼は…彼は…」

 そこに香織が追いついた、息を切らせる事は無いものの、やや荒い息だ。

 「ダメよ妊婦が走ったら」
 「そんな事無いよ、それより…」
 「良いの、私の事は忘れて!そして役目を果たして…」
 「…高橋」
 「私の好きだった人はもうどこにも居ないの!、だから忘れて!」

 そう叫んで高橋は再び走り出した、勝人が精一杯伸ばした手を振り解いて走り出す。
 香織が何かに気が付いて「あ゙っ!」と叫んだが既に手遅れだった。高橋と呼ばれた女
子高生が走り出した先にはたまたま通りかかった車が良い速度でやって来ていた…

 ドガン!

 鈍い音と共にセーラー服の女子高生が空を舞う、ポカンと口を開けて見るしか出来なか
った香織、勝人もワナワナしていたが直ぐに駆け寄って体を抱きかかえる。

 「高橋!しっかりしろ!誰か!誰か救急車呼んでください!」
 「嘘でしょ…美夏…嘘でしょ…」駆け寄った香織も青ざめて立ちすくんでいる。

 うっすらと目を開けた美夏…、香織から美夏と呼ばれた女子高生は何かを言おうとして
口を開いたが出てくるのは真っ赤な鮮血だった、内臓へのダメージが相当大きいようだ。

 「勝人!上半身起こしちゃダメ、内臓がやられてる、口に指を入れて気道を確保!」

 そういって香織は何かを思い出したようにポケットをまさぐった、出てきたのは小さな
ポケットティッシュだった。

 「これで口の中の血を吸い出して!」そういってティッシュを数枚抜き去り勝人に渡す
のだが…、「香織…ダメみたいだよ…」そういって勝人は首を横に振った。
 「嘘…美夏…嘘って言って…」香織は泣き出してしまう。女子高生をはねた若いドライ
バーは茫然自失で立ち尽くしていたのだが…ややあって各方面へ電話を入れ始めた。曰く、
女子高生をはねてしまった、多分死んでる…、俺も…ダメだと思う…、今までお世話にな
りました…と。


 この時代、女性の存在がどれほど貴重であるかは言うまでも無い事なのだろう、新たな
生命の誕生を導けるのは女性だけなのだから。
 未婚のしかも未出産の女性をいかなる理由が有るにしろ殺してしまった場合…、加害者
側に降りかかる容赦の無い社会的制裁は恐ろしいほどの物がある。この場合、ドライバー
の被る責任は…、かつて香織や沙織が暮らした施設の内部に居た女性化男性達を思い出せ
ば分かるかと思う。

 10分ほど待たされて救急車が到着した時、既に美夏は自立呼吸が止まり心停止状態だっ
た、救急隊員の懸命な心臓マッサージと強心剤の投与により心臓の活動は再開したが自立
呼吸は行えず、そのまま救急救命センターへと運ばれていった。警察官が到着し現場検証
を始めるのだが、そこへ橋本も駆けつけた。
 警察官の尋問が香織に及びそうになり橋本がそれを遮る、TS法における母体保護最優先
の原則条項第3項によりTSインスペクターによる黙秘権の代行発動を宣言します…そうい
って香織を車に押し込んでしまった、ねちっこく嫌がる警察官に対し橋本は言う、母体不
良となって出産に障害が及んだ場合、あなた達の両方ともが出産を代行する義務を負いま
すが、それでもよければドアを開けます、どうしますか?と。

 調書作成のため簡単な尋問を受けたあと勝人も車に押し込まれた、二人は押し黙ったま
ま言葉を発する余力すらないようだ。

 「早朝の散歩がとんだ事態になってしまったが… 彼女は助かるよ、大丈夫だ」

 橋本はそういって笑った、その笑顔から嘘にしか聞こえないのだけど、頷くしかなかっ
た。ふと何かを思い出したように携帯を取り出した橋本はどこかに電話をかけている、話
が繋がらないようで何度も同じフレーズを繰り返しながら各方面へ事実確認を繰り返して
いたのだが…。

 「予想通りだ、彼女は一命を取りとめたよ、内臓全損で全治1年だが心配ない」

 内臓全損で生きてるモンなんですか?、勝人の質問は至極真っ当なものなのだろうけど
も橋本の回答は実に単純なものだ、曰く「隣を見たまえ」と。
 TSレディを作り出す人工子宮の中に収めて遺伝子情報から体を再構築すれば、最悪の場
合、脳さえ大丈夫ならその人は死なないよ…だそうだ。脳さえ無事なら…、その言葉の意
味する所が何となく不気味な現実を漂わせていた。
 橋本の車に乗せられて自宅へ帰ってきた香織達、どこからどう連絡が行ったのか家族が
心配そうに待っていた、父親はうろたえているが母親は平然としている。血を見てギャー
ギャー言うようじゃ母親業は務まりません!だそうだ。その姿に香織は少しだけ救われた
気がした。

 朝食を済ませ弟が行って来ますと元気良く家を出て行った、その後姿を香織は複雑な表
情で見ている。肩をポンポンと叩かれて香織は我に帰った、今更思い返しても仕方が無い
事なんだし…と、そんなところだろうか。
 食後は母親と並んで台所を片付ける、その仕草を眺める父親と勝人の二人。見事な連携
で次々と皿が片づけられていく。
 「あの片づけの苦手だった子がねぇ…」そう言って母親は笑った、その笑顔で家族みん
ながまた癒される。母親とは家族にとってそう言う存在なのだろう。単に性転換して女性
化しただけでは無い何かを香織が身につけ始めていた。



 午前中の煩事が一段落すると総出で買い出しへ出掛けることになった。着の身着のまま
で出ていって人生が大きく変わった香織の身の回りの品を買い揃える。下着類、普段着、
よそ行き。女性用に設えられた可愛いハンケチや小さなトートバッグ、女性として生きて
いくのに必要な物が揃った。母親は心から楽しそうな笑顔だ。
 そして最後に向かったのは衣装レンタルのお店。香織と勝人二人分の晴れ着を用意して
近所の神社へと向かう。

 「香織、あなたの安産祈願もここだったのよ」
 「そうなんだ…」

 犬のお産は軽いから…と、それにあやかる安産祈願。何時の時代も変わらない光景なの
だろう、後から勝人の一家もやってきて皆で並んで香織の安産を祈る。橋本の説明したTS
チルドレン達の将来を二つの家族が知らないわけが無いが、しかし、それとこれは違う事
であってお産をする香織の身の安全を願うことでもあるからだ。
 ウチの嫁が丈夫で有りますように…、皆に聞こえる声で勝人の父親は玉串を奉じる。
 その声が香織にも届いてまた癒されている、順調過ぎて困る事はないだろうが、それで
も一波乱有りそうな気配を何となく感じている…

 家族総出の安産祈願が終わり自宅へ帰る道すがら、香織の父親が運転する車の後ろの席
で勝人と詰まらない話をしていた時、入りの悪いラジオのニュースから気になる声が聞こ
えてきた。

 今朝早く…ザザザザ…市の路上で通学…ザザザザ…女子高…ザザザザ…に跳ねられ重体
となって…ザザザザ…緊急搬送先の病院で再生処理に…ザザザザ…急変し死亡しま…ザザ
ザザ…

 うそでしょ…、香織は息を呑む、勝人も顔が引きつっている。車内の雰囲気が一気に重
苦しい物に変わった。母親が顔色一つ変えずに携帯を取りだしどこかに電話している、ど
うやら相手は橋本の様だ…。

 「橋本さんの話ではどうやら高橋さんじゃ無いみたいね」
 「緊急措置室からそのまま再生処理室へ移行したそうよ、順調なんだって」

 その言葉が嘘か真実かを確かめる術は無い、ただ、ここまで全幅の信頼を置いてきた橋
本の言葉を信じるしか方法が無いのも事実だった。彼女が…美夏がどうなってしまうのか
…、それを案じている香織は小さく震えている、1年経って体を再生しあのカプセルから
出てきたらTSレディの学校だったりして…、ふと、そんな事を想像し怖くなる。

 安産祈願の帰り道、まだ晴れ着姿の二人と両家族は皆で写真館に入った。
 両家族が揃った状態で記念の一枚を撮影する、さすがプロと唸るだけの一枚が仕上がっ
てきて2組額装してもらうと両家が持ち帰る事になった。未成年の子供が二人揃って安産
祈願なら間違いなくTSだろう。写真館の親父も分かっている筈だが追求はしない。
 にこやかに笑う顔が印象的なのだけど香織の後ろの影だけが不自然に薄いのを勝人は気
が付いた、多分ライティングの関係だろうと最初は思ったのだけど、段々とそれが気にな
り始める。写真をじっと見ている勝人に香織が声をかける「どうしたの?」

 「え、あ、いや… う〜ん」
 「ねぇ、気になるじゃん」
 「いや… 改めて見ると… 綺麗だなぁ…って」
 「…ばか」

 そう言って香織は赤くなって恥ずかしがっている。その仕草をみて勝人は笑いながら考
えるのをやめる事にした。考えても結果が出るものじゃないし…、そんな風に思っていた
のかもしれない。


 遅くなったけどお昼にしましょうよ…、勝人の母親がそう提案し写真館を出て国道沿い
のファミレスに皆で入った。この時期になると妊婦も食欲が回復し大体なんでも食べられ
るようになる。ただ、生臭い物と無駄に甘い物は避ける傾向にあるようだ。
 肉類魚類は無意識に避けてしまう香織の事も皆が配慮してヘルシーなメニューがテーブ
ルに並んでいる、その事実ですらも香織には嬉しい配慮なのだが…

 「二人はこれからどうするの?」誰とも無くそんな言葉が出てくる。
 香織は勝人を見つめる、勝人は何かを思い出したように答える。

 「まずはヨーロッパに行こうと思います、それまでに実績を積んで実力を磨きます。そ
して向こうでプロ契約して香織と暮らそうと思います。日本じゃ色々と変な目で見られる
し…それに、そう言う部分での多様性は向こうの方が寛容だと思うんですよ」

 皆は黙って聞いている。

 「そして…、今のこの子も次の子もTS学校に取られますけど、最終的には取り返して、
3人目4人目も香織に頑張ってもらって、そして向こうで子供が一段落したらこっちに帰っ
てきます。その頃には僕も引退してるだろうし、指導者になってるかもしれないし…先の
長い話ですけど、いまはそんなイメージで居ます」

 香織の父親が吹っ切れたような表情でそれを聞いていたのだけど、何かを思いついて言
葉を選び話し出した。

 「まーくんもいつの間にか…男になったようだねぇ…、なぁタケ…、俺が思うに、香織
の分の補償金やら何やらは全部手を付けずに置いといて、この子達の支度金にしようと思
うんだ、どうだろうね?」
 「あぁ、グチがそう言うなら俺も賛成だ、母さんもそれでいいだろ」
 「そうね、川口さんはどう思います?」
 「私も香織やまーくんが良いと言うなら異論は無いですよ…ただ…」

 香織はちょっとだけ不安そうに言う「ただ…なに?」

 「ただね、凄い金額だからね、財布の紐はしっかり絞めておきなさいね」

 そういって笑った、皆もつられて笑う。子供が出来たり夫婦ごっこしたりと少しずつ大
人へのステップを踏む二人だけど、お金の管理だけは場数でしかないのだろうから…、母
親らしい視点での忠告が香織には耳の痛いほどだった。
 そんな話をダバダバと3時間近くもファミレスでおしゃべりして解散となった安産祈願
の日、香織と勝人は衣装を返却して楽な格好に戻ると今度は勝人の実家へと歩いていった。

 ある意味で香織の嫁としてのデビューでもあるのだが…

 「香織さんなら第2の我が家みたいなものよね」

 そういって勝人の母親は笑った、父親もつられて笑う。子供の頃から遊びに来ていた武
田の実家、それ故にどこがどうなっているのか知らない訳が無い。

 「まだまだ女性らしい挨拶とかを学んでませんから…」そういって香織はどうして良い
物か迷ってしまうものの、紋切り型の挨拶だけはドラマの1シーンなどで見てるし、そう
言う挨拶でいいんだろうと思って座敷に正座すると三つ指付いて挨拶する。

 「まだまだ修行中の身故に不束者ですが、よろしくお願いいたします」
 「ウチのバカ息子をよろしくね」母親は笑顔でそう答える。
 「だれだって最初はレベル1なんだからな、よろしく頼むよ」父親もそう答える。

 16歳の少女が悲壮なまでの覚悟を極めて帰宅した故郷の地、ここで香織は第2の人生を
歩みだした…筈だった…。


 さて、夕食は何にしましょうかね、主婦はこれが大問題なのよ!
 一人っ子で育った勝人の母親は急に娘が出来たみたいで楽しくて仕方が無い、それを分
からない訳ではない香織だからこそうまく相槌を打って楽しそうに振舞う事も重要なのだ
と理解している。

 「妊婦が食べられるものって限られるのよねぇ」
 「かあちゃん、俺トンカツ食いてぇ」
 「香織さん… ウチのバカ息子許してね…」
 「なんだよいきなり…」

 クルっと振り返った母親が悪魔も裸足で逃げ出すような鬼の形相になっている。

 「このバカ!妊婦は脂っこいものダメなの!あんたは本当にデリカシーってもんが…」

 母親は今にも俎板で息子の頭をぶっ飛ばしそうな勢いだ、父親も相槌を打つ。

 「このドラ息子!とーちゃん情けなくて涙出てくら!」

 ポカーンとするしかない香織だが…

 「ほら、食べたいもの言ってもらったほうが楽だし、それに…」

 勝人の両親が香織を見る、香織は一瞬怯んだけど気を取り直して言う。

 「学校では試合の前日はゲンを担いでトンカツでしたから…」

 明日は大安吉日の良日と言う事で婚姻届を出す予定になっている、それを勝負と香織は
見立てたのかもしれない、さすがに小さい頃から頭の回転が素晴らしく早い子だったから
ねぇ…、両親はそうおもった。旦那の顔を立てる理想的な女房じゃないか…、ウチのバカ
息子にはもったいないなぁ…

 「じゃぁ香織さんもそう言ってるし、今夜は揚げましょうかね」

 そういって母親は父親に財布を渡して買い物を頼んでいる「勝人!あんたも行ってきな
さい」とそういってたたき出した。

 「じゃぁ、今のうちに今夜の寝床を支度しますね」

 香織は笑顔で母親に断わるが母親は間髪入れず切り返す。

 「あの子の部屋は妊婦が寝る環境じゃないわね、実家に行って寝なさい」
 「じゃぁ彼は今夜はこっちで…」
 「あ、いやいや、妊婦は大変だからつれてって夜中でも何でもこき使って良いわよ」

 「…でも」
 「平気よ!ドラ息子はいつか家を出る運命なんだし…」

 そういう母親の笑顔が香織には眩しかった。母親の強さとはこう言う所なんだろうなぁ
と思うのだった、そして、そういう部分を見てそう感じるかどうかも現実的に女性化の尺
度なのかもしれない。



 勝人が父親と買い物から帰ってきたとき、勝人の母親が香織と味噌汁の味でアレコレ相
談しているところだった、勝人がふらりとやってきて味見する「お!我が家の味!」何時
の世も変わらないおふくろの味を伝承する大切な儀式かもしれない。

 パリっとトンカツを上げるコツは薄力粉を薄くし衣のパン粉は柔らかめ、つなぎの卵は
白身を半分捨ててから良く溶いてやる、そして油は何と言っても紅花油100%じゃないとダ
メね、そうしないと口の中をパン粉で切るから…母親のレシピは愛情の味、熱を持った油
の熱気に負けず香織は衣をまぶした肉を油に滑らせる。じゅわぁ〜と音を立てて狐色に染
まっていくトンカツを見ながら香織は自分の子供に食べさせる夕食をイメージしていた。

 テーブルの上に載ってる漬物をポリポリかじりながらビールを飲んで子供の話を聞く勝
人が後ろに居て香織はエプロンを掛けてガス台の前に立っている…、そんな幸せな家庭の
イメージ。

 「香織さん そろそろお肉上げて」
 「はい」
 「こら!バカ息子!キャベツくらい刻みなさい!嫁は身重なのよ!」
 「んだよぉ…」
 「男がガタガタ言わないの!少しは手伝え!」
 「マジかよ…」
 「あ、香織さんお肉あと2枚入れてね」
 「はい、じゃぁ入れますね」
 「油の温度に注意して!」
 「え〜っと170度くらいです」
 「うん、ばっちり…って、こら!バカ息子!キャベツはもっと細く!」
 「…息子は損だ」
 「お〜い母さん ビールまだあったっけ」
 「おとうさん、ビールはあと!」
 「…はい」

 狭いテーブルに夕食が並び皆が揃って箸を持つ。日本社会伝統の夕食スタイルがここに
はあった。皆で囲む食卓の長辺方向にはまだ余裕がある。そこにまだ見ぬ小さな我が子が
必死に茶碗を持って夕食を頬張る可愛い姿を香織はイメージする…。

 「香織さん 大変だけど…頑張ってね」
 「はい 頑張ります」
 「おし!じゃぁ食うぞ!いただきま〜す!」
 「このバカ息子!少しは嫁に感謝しろ!とーちゃん情けねーぞ…」
 「私はお父さんに感謝してもらった事ってあまり思い出せませんけどねぇ〜」
 「かあさんそれは言わないでくれよ…」

 笑いながら食卓を囲む幸せ。
 こんな時が何時までも続くなら、それはとても幸せな事なのだろうけど…


 油臭さのまったく無いカツを食べ終わって食後のお茶を飲んで居る頃、香織の両親が訪
ねてきた。勝人の母親が前もって電話して迎えを頼んでおいたのだった。
 香織が何かに気が付いて全員分のお茶を淹れて配る、その立ち振る舞いはすっかり武田
家の嫁になっていた。それを見て目を細める母親二人…。
 何となくそれで良いと思っていた香織だったけど、急に動きを止めてお腹に手を当てて
何かを探している…

 「…あ!」

 みなの視線が一斉に香織へと注がれる、香織はそれを気にせずお腹を触っている。

 「…また」

 母親二人はそれがなんだか既に分かっている、勝人の母親が香織の手を取ってソファー
に座らせた。香織の母親も優しい眼差しを送る。

 「香織…」勝人もなんだか分かったようだ。

 「いま… 蹴ったよ! 間違いなく! うわぁ〜…」

 幸せそうな表情の香織はお腹をさすって何かの感触を確かめているようだ。

 「20週ならそろそろありそうよね」
 「そうね、しかもウチのドラ息子のだからねぇ」
 「まーくんがどうかはともかくウチは上も下も18週位から蹴ってたわ」
 「あらそう…香織さんは元がアレだから…って関係ないかな?」
 「う〜ん、どうでしょうねぇ〜」
 「あ、私、軽く問題発言しましたね… 香織さん ごめんなさいね」
 「あ、平気です、慣れましたから」

 "3人の"父親が顔を見合わせて言う。

 「こればかりは男には出来ない事だな…」と。

 お茶を飲みながら香織はついに話し始めた、学校でくじを引いたときの事、橋本に説明
されて薬を飲んだ事、目を覚ましたら施設に居て女性化していた事。そしてさらに…、沙
織や光子や多くの出会いと別れを経験した事も。
 ここまで僅かな間にとても多くの事を経験したジェットコースターの様な日々の事。
 全部話をして何となく楽になっているのに香織は気が付いた、何となく心の中に溜まっ
ていた滓の様な感情の残骸を全部整理して、新しい人生のスタートラインに立った気がし
ている。

 輝く未来をイメージ出来ている限り、人生とは素晴らしいものなのだろう…
 香織の胎内で芽生えた新しい命の為にも…と、勝人は自らの未来に奮い立っている。
 しかし、香織の心中に輝く未来のイメージが沸いて来ない事を誰も知る由も無かった。




 夜空に丸く満ちた月がカンと冴える晩、秋の夜長を歌い続ける虫たちのリートに二人の
笑い声がシンクロしたりしなかったり…
 香織は勝人と手を繋いで家路を歩いている、実家で寝ることを勝人の両親に勧められ香
織の両親が迎えに来たのだけど、香織は自ら歩いて帰りたいと言いだした。

 今の彼女にとって『帰宅する』とは特別な意味を持つ事になったのかも知れない。
 それが女性化によるものなのか、それとも母親になる事か、はたまた他人の妻となり実
家へ帰ることなのか…、真相は誰も知らないし香織自信も分かっていない。
 ただ、もしそれがこの静かな夜の特別な雰囲気を味わっていたいだけだとしても、それ
は誰をも責めるべき事ではなく、むしろ上等なディナーを味わった後の余韻を楽しむが如
き贅沢な時間を感じている物なのだろう。

 かつてほぼ同じだった歩幅はいつの間にか香織の歩幅が小さくなっている、背筋と膝を
伸ばし美しく歩けば自然と同じ程度の歩幅に収まることを勝人は見つけた。些細なことで
笑って会話が弾んでただ幸せな夜が更けていく。

 生まれてくる子供の名前はどうしようか?、あんな名前こんな名前、二人でアレコレ考
えては候補の名前が消えていく…、そんな夢事をしながらボチボチと歩いて香織の実家に
到着した二人が見た物は見覚えのない車が停車している光景だった。
 即座に緊張する二人だが何事もなかったかのように香織は玄関を開けた、玄関には大き
な革靴が一足と女性物のパンプス一足が鎮座し主を待っている。一体誰が来てるのか?と
訝しがる香織だったが居間に入って驚いた、橋本と一緒に宮里が訪ねてきていたのだった。

 「あら、彼と一緒にお帰りなのね」
 「…宮里先生 …どうしたんですか?」

 香織の警戒は解かれていない、何か良く分からないけど頭の中で誰かが叫んでいる、悲
痛な叫び声で何かを訴えている、そう、嫌な予感がすると言う奴だ、それも飛び切り嫌な
目を背けたくなる程の予感…。
 無表情な橋本と並んで座る宮里のその笑顔は、今の香織にとって恐ろしい物と同義に見
えていた。

 「そう警戒しないでよ」
 「いえ、けっしてそんな事は…」
 「顔に書いてあるわよ、ウフフ」
 「そうですか…」

 アハハと笑って済ます宮里は香織と勝人に座るよう促した、向かいには香織の両親が座
っているが警戒する様子はない。

 「驚かしてごめんなさいね、帰りの切符を持ってきたのよ」
 「え?わざわざここまで?」
 「霞ヶ関で会議があったから帰りに立ち寄っただけ、まぁ、そのついでに切符もね」
 「霞ヶ関って…」
 「ここだけの話…TS法が更に改正されるのよ」
 「え?」
 「より柔軟に、より公平に、そして、より効率的に…ね」
 「それは…」
 「まぁ、既に女性転換しちゃった香織には余り有り難みが無いかも知れないけど…」
 「そうなんですか…」
 「でも、そう悲しい顔しないで」
 「・・・・・・・・」
 「まぁ…今はまだ関係無いかもね」
 「そうですか」


 「ま、そう言うことだから、あと2日間遊んで帰りましょうね」
 「え?どういうことですか?」
 「明後日の午前中に迎えに来るから」
 「え?… あの…」
 「いい?あなたは身重なのよ?行きも帰りも護衛付きよ」

 そういって宮里は笑った、隣の橋本も笑って時計を見て話を切り出す。

 「さぁ、そろそろ時間だ、遅くまですいませんでした」

 そういって橋本は立ち上がった、宮里も書類を整理し立ち上がる。

 「なんのお構いも出来ませんで…」香織の母親が玄関まで二人を送った。
 「いえいえ、お構いなく、明後日またお邪魔しますのでよろしくお願いします」
 「お待ちしております、今日はわざわざありがとうございました」

 居間では香織と勝人が顔を見合わせている、あの二人が切符の為だけにここまで来るな
んてありえないと思っていた。香織の両親が居間に戻ってきて二人を見るなり核心の話を
切り出した。

 「実はね…」
 「やっぱり…切符だけじゃないんだ」
 「そうなのよ…」
 「問題の核心はなんなの?」
 「高橋さんの事よ」
 「え゙?」
 「今朝の事故でひどい目にあって…」
 「やっぱり死んじゃったの?」

 香織は一気に涙目になっている、香織の手を握って勝人も話を聞いているが…、瞳孔が
開きっぱなしになるような緊張だ。

 「いや…死んではいないけどね…」
 「死んでないけど?」
 「脳が活動停止状態なんだって」
 「脳死?」
 「いや、脳波は生きてる状態だそうよ、ただ、意識が戻ってこないって事」
 「それって…」
 「いうなれば本人が生きるのを拒否してる状態ね」
 「美夏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「時間を掛けて脳波レベルでの呼びかけを続けるって話だったけど…」
 「もし呼びかけても返答が無い場合は?」
 「その時は…脳死判定だそうよ」
 「うそ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 「何でこんな事になってしまったのかしら…」

 沈痛な空気が居間を支配する、重苦しい空気に押しつぶされそうなほどだ。
 さっきまで香織の胎内を蹴っていた子供もまでもが眠っているかのように静かになって
いる。



 なんでこんな事に…。それしか思い浮かばない香織だったが勝人はもっと激しく自分を
責めていた。それを見て香織の父親が勝人をたしなめる。

 「あの時、あと半歩、いや、その更に半分踏み込んでいれば…」
 「…まーくん」
 「もっと踏み込めばしっかり捕まえられたのに!」
 「…手遅れだよ、あとは本人の問題だ」
 「判断ミスです、致命的な…」
 「仕方が無いんだよ、誰だってそんな時があるものさ」
 「…しかし」
 「時には割り切ると言うのも必要な能力の一つだ」
 「人が死んでしまうと言う事は割り切っても言い事なんですか?」
 「では寿命で死んでしまう人ですら諦めを付けないでいるとどうなってしまう?」
 「…それは」
 「世の中にはね、自分の意思や力ではどうしようも無い事もあるということだ」
 「はい」
 「だから…忘れろとは言わないよ…、ただ、不必要に自分を責めてはいけない」
 「しかし・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 その後でさらに重苦しい沈黙がしばらく続いた、しかし、何かを思い出したかのように
香織の母親が口を開く、曰く風呂を沸かしたから入りなさい…と。
 秋の夜長を歩いてきた身重の香織が冷えてきっているかもしれないと母親は心配したの
だった、その温かい配慮は母親の愛情に満ち溢れている。私もそうなれるかな…、TS法の
改正ってなんだろう?、そして。美夏は大丈夫だろうか?
 色んな事が頭の中をグルグルと回って心配事のメリーゴーランド状態になっている。
 これからもっと沢山の心配事を抱え込まなければならない母親と言うものへ変わってい
く香織の不安は大きくなるばかりだった…。

 モヤモヤとした不安を抱えたまま自室のベットへ横になっていた香織の所に風呂上りの
勝人が近づいてきた、香織は少し膨らみ始めているお腹をいたわって体の向きを代え勝人
に向き合う、トランクスにTシャツ姿の勝人が横に寝転がっている。
 「香織…」そう言って勝人は香織を抱き抱えた、ほのかに香る石鹸の成分と勝人の体臭
が香織に何かを思い出させる…、「勝人…」そう言って香織は勝人の胸に顔をうずめた、
小刻みに肩を震わせる香織のその仕草が勝人の中に妖しく燃える炎を燈す…

 「大丈夫だ、おれがいるよ、いつも一緒にいるよ、大丈夫だ」
 「美夏…大丈夫かな…」
 「それは… でも大丈夫だよ、きっとね…」

 そういってギュッと香織を抱きしめる、きつく抱きしめた時に香織の小刻みな震えが止
まった。もしかして…と思ったのだけど香織は平然としている、汗の臭いがしていないか
らおかしくなる事もあるまいと思っていたのだけど、どうやらそれだけでも無いらしい。
 
 香織の妊娠以来交わっていない二人故に勝人の性的ストレスは溜まりに溜まっている状
態だ、しかし、妊娠中期のセックスがもたらす危険性を知らない訳でもない。もうちょっ
と我慢しておくか…、島に帰って一人身のアパート組みを探して種付けしてやるといえば
喜んで股を開く女の一人や二人はいるかも知れないし…そう思って香織を抱きしめたまま
勝人は寝る事にした、このまま寝てしまえば…とそう思いつつも、やはり心のどこかに妖
しくうごめく激情の産物がむっくりと鎌首をもたげつつあった。


 「勝人… 我慢してるでしょ…」
 「え?」
 「ほら…」

 そういって香織は勝人のペニスをトランクス越しに撫で始めた、僅かな刺激でムクリと
屹立をし始める。ピクピクと僅かに痙攣し硬くそびえるその手触りに香織はうっとりして
いるような気がした。

 「あなたが私を守ってくれるなら…」
 「あぁ、神様に誓っていいよ、必ず守り続ける」
 「なら、私はあなたにこの身を捧げていいよ、あなたの妻になるんだから…」
 「香織…」
 「腕を解いてくれる?」
 「あぁ」

 そういって抱きしめていた腕を解くと香織は勝人のトランクスを下ろしてしまった、す
ぐさま小さな電球の光に照らされた屹立するペニスが姿を現す。香織はニコっと笑って勝
人を見た後でそのペニスを口に含んだ。チロチロと舌を滑らせてカリ裏から筋沿いを刺激
して強く吸ってみる。

 「あぁぁぁ… かおり… うぅぅぅ…」
 「我慢しなくていいよ いっぱい出しちゃって すっきりするでしょ」

 そういって香織は微笑んだ、その笑顔が愛しくて愛しくて勝人は香織の頭を撫でてやる
しか出来なかった…、しかし、ふと何かを思いついた勝人が声をかける。

 「かおり… どうせだからケツをこっちに向けてみなよ」
 「え?」
 「いいから」

 そういってペニスに咥え付いていた香織の下半身を勝人は引き寄せた、マタニティナイ
ティの裾を捲ってショーツを下ろしてやる、勝人の卑猥な予想通り香織のヴァキナはしと
どに濡れていた。

 「ほら、やっぱり…」
 「あぁぁ だめ…」
 「香織、口がお留守だよ」
 「あんあいっあ?」
 「ほれ」
 「あわわわ…」

 あい舐め状態の勝人は香織の女性器へ無造作に指を突っ込む、深くまで入れると感染症
の危険性が高まるしオルガムスの絶頂まで行くと膣内を収縮させるホルモンが分泌され子
宮の収縮作用が発生し早期流産の危険性を孕む。
 勝人は大胆に、しかし慎重に香織の変化を探りながら入り口付近を弄ってやる、すぐに
香織はガクガクと小刻みに震えながら快感にもまれて始めた。あまりやるとマズイな…と
思いつつも香織が勝人のペニスに愛を注ぐように、勝人も香織のクリ越しに愛を注いでい
るつもりだった。



 「まさと… だめ… 欲しくなっちゃった… おねがい…」
 「香織… 平気か?」
 「うん、 浅くね そっと…」
 「わかったよ」
 「優しくしてね この子がビックリするから」
 「あぁ」

 勝人は香織を抱きかかえて正上位からゆっくりと入れ始める、すぐに香織があられもな
い表情で喘ぎ始める、しかし、声はグッと押さえている。もう一度そっと入れてみる、そ
っと入れながら鎖骨のあたりを撫でてやる、ホントは乳首を攻めたいところだが、乳首を
攻めると赤子に授乳させる刺激と勘違いし乳腺分泌ホルモンが出てきて、それが子宮緊縮
と同じ効果を生み出すと知っているから我慢している。
 三度目の挿入で香織は「あっ…はぁぁ!」と声を上げた、まずいと思ってキスで唇を塞
いでやる、すると香織の舌が勝人の口内に入ってきた、4回目の押し込みと同時に舌を強
く吸ってやると香りの背骨がグーっと曲がって快感に揉まれている様だった。
 そして何度か小刻みに浅め浅めの挿入を繰り返し勝人の下半身から大きな熱い波が押し
寄せてきた…

 「かおり!中はまずいから上にな」
 「あぁぁぁ! …うん! あぁぁぁぁ!」
 「ゔ… あ゙ぁ… それ!」

 そういって勝人のペニスから爆発するようにザーメンが噴き出し香織の腹上に撒き散ら
される、ドクドクと溜まっていた白濁液が噴き出され鼻を突く臭いが充満する。

 「ハァハァ… やっぱり溜まってたね」
 「ハァハァ… うん、ごめんすっきりしちゃった」
 「アハハ!」

 そういって満足そうな香織が勝人の精子を指先で弄っている、ネッチョリと糸を引く様
をみて呟く「男も女もこれは変わらないね」。

 勝人は上半身を起こしてベットにすわりティッシュを数枚抜き取ると香織の上に溜まっ
ている白濁を綺麗にふき取った、そして新しいティッシュで香織の女性器も拭いてやる、
まだ敏感だった香織がビクッと体を震わせるけどされるに任している。さらに数枚抜き取
ったがそれを香織が奪い取った。

 「これは私の仕事」

 そういって香織は勝人のペニスを咥えて強く吸った、まだ少し残っていた物が吸いださ
れて勝人もビクッと体を振るわせる「香織…ありがとう」、香織は静かに笑いながらペニ
スを綺麗にふき取って言った「これは私専用よ」、勝人も笑って言う「当然だ一滴残らず
お前に注ぐよ」。
 そのとき、香織の胎内をトントンと子供が叩いた、お腹に手を当てて香織は笑っている
「ダメらしいよ、先客ですって」、勝人も笑う「アレだな、便所に立てこもっていて外か
らノックされてノックし返すやつ、入ってます!って感じで…」。
 なにか不健全に我慢していた部分が解消されて二人は眠りに落ちていった、この交わり
は恋人の戯れあいではなく夫婦の営みなのかもしれない、ギシミシと音のする天井を見上
げながら居間にいた両親も目を細めていた。


 翌朝、いつものように6時前の起床となる二人、今日は散歩はやめておこうと話が決ま
りベットの中でゴロゴロしている、窓の外はシトシトと雨が降っていた。
 窓を開けたいね…そんな事を言いながら香織はモソモソと着替えて窓をそっと開ける、
湿気を含んだ風が部屋に吹き込んできて昨夜の営みを思い起こさせる臭いが洗い流されて
いった。勝人も起き出して来て着替える、香織はベットシーツを剥がし布団を綺麗に畳ん
で重ねた。完全に身に付いた整理整頓意識の意味、それを今更ながらに香織は実感してい
る、つまり、それは主婦の動き…。

 7時前になって香織は台所へ下りて行った、やかんをガス台に掛けてお湯を沸かし冷蔵
庫を開けて朝食のメニューを考える、同じ頃になって母親が起きてきた、半分寝ぼけ眼だ
が主婦歴の差がもろに出てテキパキとメニューを考え準備していく。
 しばらくあって父親と弟が起きて来て家族が全員揃った、母親はニコニコしながら香織
と朝食を仕立てている。

 居間では父親が勝人とアレコレ話をしている、それをチラッと見た後で母親がニヤリと
笑い香織に囁く、妊娠中は程ほどにね…、ところで彼は上手なほうなの?、香織はちょっ
と赤くなりながら答える、多分普通じゃないかと、彼しか知らないし…。母親と娘でそん
なウェットな会話が出来るのも僅かなのかもしれない、その短い時間を最大限楽しんでお
きたいと言う雰囲気なのだった。
 朝食の準備が出来上がり皆で揃って幸せな食卓、これを大事に出来なかった故に壊れて
行ってしまう家族が余りに多い中、今、川口家の食卓には暖かな時間が流れている。

 いってきま〜す!と元気良く弟が出て行き家族は4人でゆっくりお茶を飲んでいる。
 今日は大安吉日だ。じゃぁ…行ってきなさい…と、そういって母親は香織を促す、香織
は母親をジッと見据えて涙を浮かべた。この時、初めて二人は母と息子ではなく母と娘に
なったのかもしれない。
 婚姻届がただの契約書ではなく二人の人間の契りだと言う事を両親は知っている、それ
は山あり谷ありの人生において終生変わらぬ誓いであると覚悟するからこそ出来る物なの
だと思っている。そしてそれを目の前の娘が誓おうとしている、母親は何時までも母親で
あり父親は何時までも父親だ、しかし、娘は嫁になり妻になるのだ、そして、母親へ…。

 「あなたの幸せを祈るからね…」母親は静かに眼を閉じて涙を流した。
 「お母さん…行ってきます」香織も涙を流す…。
 「香織…俺は父親として言っておかねばならない事がある…」父親の一番長い日。

 娘を持つ父親にとってそれは何年も掛けて少しずつ積み上げていく覚悟である筈なのだ
が、香織の父親は突然娘を持たされてそれを言わねばならないのだ、どれほどの心痛なの
かは誰にも実感できない…

 「香織 婚姻届を出して武田家の嫁になる以上は他家の人間になる」
 「…はい」
 「今後私の許し無く玄関の敷居を跨ぐ事は許さない」
 「…はい」
 「そして…、ただいまと帰ってこれるのは今日が最後だ」
 「…はい」
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・幸せを俺も…祈る…」

 そういって父親はまた泣き崩れた、香織の記憶に父親が泣く光景は一度も無い、しかし、
僅か4日の間に2回も父親は号泣しているのだった、誰憚ることなく男泣きに崩れるその姿
こそ夫となる勝人にとっては最高のプレッシャーだ。

 「終生全力で守りますからご安心ください」

 勝人は蒼白になりながらも笑顔で答えた、勝人の手を握り父親は言う、娘を頼む、娘を
頼む…と。香織は居たたまれなくなって立ち上がると2階へ上がっていった、ゴソゴソと
支度を整える音が聞こえる。
 やがて支度を整えて香織が降りてきて両親の前に立った、セーラー服でもジャージでも
なくありあわせの服でもない、綺麗に着飾った年頃の娘がそこに立っている。


 「お父さん、お母さん、行ってきます」
 「あぁ、気をつけてな…」
 「お父さんはあぁ言ったけど、いつでもここへ来なさいね」

 両親は香織を送り出す、勝人は深々と一礼し部屋を出た。

 「生涯僕がいつも傍らにいられるよう頑張ります」

 16才の少年とは思えない覚悟を決めた勝人は香織の手を握って自宅へと歩いていった、
玄関の前で二人を見送った両親は呟く、これでいいんだ…と。
 昨夜と同じ道をたどって勝人の家に入る香織、勝人の両親が用意して待っていた。

 「今日から…ウチの香織さんね」
 「未熟者ですがよろしくお願いします」

 違う形の母と娘になった二人が挨拶する脇で、別の形の親子の儀式が始まってた。

 「勝人!気合入ってるか?」
 「おう!大丈夫だ!」
 「何より嫁を大事にしろ!いいな!」
 「おう!まかせとけ!」
 「いくぞ!」
 「おぉ!」

 そのやり取りを母と娘がシラーっと見ている…、いや、この場合は微笑んでいるとして
おこうか・・・・・・
 市役所で婚姻届を出す二人、後ろには勝人の両親が立っている、香織はバックから自分
の両親の同意書を出して婚姻届に添えた。
 役所のスタッフが書類を確認し婚姻届が受領される、若い夫婦となった二人を見てスタ
ッフが微笑んだ「大変な役目を負ってしまいましたね、頑張ってください」と。
 なにかW杯の優勝決定PK戦並みに緊張していた勝人だったけど拍子抜けするようなあ
っけなさで届けは受理された、背後の両親も苦笑いするほどの緊張だったのだが、それ以
上に言える事は受理する側のスタッフから「おめでとうございます」だのといった言葉が
一切出なかった事だった。
 ま、公務員なんぞこんなもんね…母親の一言で緊張の解けた勝人は香織を抱きしめて香
織にだけ聞こえるように囁いた、初めて口にする心からの言葉…

 「愛してるよ 香織」

 香織はハッと気が付いた、これは今の今まで一度も聞いた事が無かった言葉だ。
 そして何となく妊娠しちゃったような気がしていた一番の理由なのかもしれない、輝く
ような未来をイメージできなかった核心なのかもしれない。『女性』にとって特別な意味
を持つその言葉を始めて勝人は口にした、それも自分にだけ聞こえるように…

 「うん、私も…愛してる…」

 勝人の腕の中で涙ぐむ香織、今ここに新たなる夫婦が誕生した瞬間だった。

 「さぁ行きますよ」そういって母親が歩き出した、父親も二人に声を掛けて歩き出す。

 普通、婚姻届を出した日と言えば午後は親戚周りで費やされるのだけど、勝人と香織の
夫婦にとって親戚デビューは後とされた、二人が未成年である事、香織が妊婦である事、
そしてなにより、勝人の妻がTSレディである事は親戚一同からアレコレ言われる原因にな
りかねないと両親が思ったからだった。


 香織が義務を果たして何の束縛も無くなったら、そのとき改めて結婚式でもやって親戚
一堂に披露すれば良いだろう、そう話がまとまっていた。
 だからこの日の午後はどこへも行かず…、ただ勝人の実家で一日ゴロゴロしながら色ん
な話をし続ける日になった。雨が降ったりやんだりを繰り返す不安定な一日だった事も理
由だろう、それに、明日には二人とも施設へ帰ってしまうのだ、勝人の両親だって子供た
ちと話をしたかった部分も大きい。これと行って昼食もとらず、母親と香織が果物の皮む
きをして皆で食べたり、お菓子をかじってお茶を飲んで、話はとめどなく溢れるように続
いている。
 サッカーの事、学校のクラスメートやタワーの仲間達の事、学校のシステム、供食体制
や医療の体制、そして、他のTSレディ達の人生。一般の目に触れにくい形へと移行してい
ったTS法の現場を両親は垣間見たのだった。

 その日の夜、新たな夫婦の誕生を祝うべく海を臨む高級ホテルのレストランで二つの家
族が全部揃っていた。皆のグラスにシャンパンが注がれる、乾杯の音頭をとるのは勝人の
父親、新たな夫婦に幸多からん事を願って…乾杯!

 コック長の丹誠込めたメニューが続々と運ばれてくる、おいしい…それ以上の言葉はな
い、しかし、この時の二人には料理の味などどうでも良い事なのかも知れない。きっと国
道から外れた裏街道沿いに深夜まで暖簾を出しているラーメン屋のカウンターで、二人し
てニラレバ定食と餃子でも食べながら話をしたとしても幸せいっぱいなんだろう。いやむ
しろ、そんな何でもない日常の光景の方が今の二人には幸せかも知れない。
 妙な先入観で色眼鏡の視線を浴びる事もある香織にとってその他多くの一般人と同じよ
うに見られて誰からも気が付かれない静かな夜は最高に幸せかなのも知れない…

 豪華なコースの締めくくりを飾るデザートを食べながら勝人の父親が二人に言う。

 「今日は二人用に部屋を取ってあるから泊まって行きなさい」

 え?と言う顔で二人してビックリするのだけど、そんなもんだよと言って勝人の父親は
笑っているのだった、香織の父親も笑っている、笑いながら言う、結婚式の夜はお泊まり
さんだよ、なんと言っても幸せな初夜だからな…と。
 誰にも遠慮する事なく二人で話をしておいで、もっとも、今まで散々話をしたかも知れ
ないけどね…、そんな言葉を母親が漏らしている。
 家族みんなが気を使ってくれている事に気が付いた勝人は食後のコーヒーを楽しみなが
ら香織の手を取って微笑んだ後、急にまじめな顔になってテーブルを見渡し宣言した。

 「今日は僕らのためにささやかな結婚式をありがとう御座いました、今日僕の妻になっ
てくれた人のために僕は生涯全力で守ることを誓います」
 テーブルを囲む者だけがささやかに拍手をして祝福する、続いて香織も口を開く。
 「不思議な巡り合わせで今日私は人の妻になりました、まだまだ未熟者ですから勉強の
毎日になります、これからもよろしくお願い致します」
 また小さな拍手が二人を包んだ、きっと幸せってこう言うことを言うんだろうなぁ…
 香織は今日この日までのジェットコースターみたいな半年を思った…

 「香織…」
 「なに?」
 「キスして良い?」
 「うん」

 二人のキスが幸せなディナーを締めくくる最後の出し物だった。皆で立ち上がってレス
トランを出る、ロビーで皆に見送られて香織と勝人は最も豪華な部屋へと案内された。島
のタワーにある香織の自室並に広いエクセレントスィート。海の見えるソファーに二人で
腰掛けて海を眺めている、言葉が無くても幸せな感情が溢れてくるようだった。


 「なぁ香織… ずーっと昔の話だけどさ」
 「うん」
 「小さな頃は良く女の子に間違えられていたろ」
 「そうね小学2年位までね」
 「その時俺が言ったこと覚えてるか?」
 「なんだっけ?」
 「女の子だったら俺が結婚するっていったんだよ」
 「…そうだっけ」
 「あぁ」
 「じゃぁ」
 「うん、予定どおりだな」
 「そうかもね…」
 「…愛してるよ」
 「うん、私も…」

 勝人はがさっと立ち上がって香織をお姫様だっこで連れていく、こうやって抱えられる
のは2回目だけど、今日はとても幸せだ…、ベットルームへ運ばれてそっと下ろされる。
 香織は何も言わず微笑んで勝人を見ている、勝人は香織の服に手を掛けて一つずつボタ
ンを外していく…

 「今夜も月が出てるな」
 「正体がばれちゃったからもう怖くないわ」
 「まだ何か隠してないかぁ〜?」
 「いいえ… 旦那様に隠し事はありません」
 「そうか…」

 すっかり裸にされてしまった香織は勝人が着ているYシャツのボタンを外していった。

 「ここ数日トレーニングしてないよね」
 「あぁ、だから島に帰ったらハードトレで鍛えるよ」
 「あんまり汗臭くしないでね、私が大変だから」
 「でも、今だって十分汗かいてるけどおまえ平気じゃん」
 「あ、ホントだ」

 勝人も裸にされてしまって二人でベットの上にいた。勝人はそっと香織を抱く、香織は
猫のように体を預けている、そのまま横になる二人、窓の外遠くにあの日と同じく月が出
ている。

 「あなた… 今夜はしますか?」
 「いや 今夜は… どうしようか?」
 「好きにして…」
 「じゃぁこのまま静かに…」
 「いいの?」
 「あぁ、昨日の夜したからいいよ」
 そう言って香織の後ろに廻って静かに抱きしめる、勝人の両手が香織の腹を触っている、
勝人の手にトントンという感触が伝わった…
 「この子も祝福してくれてるのかな…」
 「きっと『入ってます!』って言ってるよ」
 「参ったな…」
 「男の子かな女の子かな」
 「どっちでも良いよ」
 「そうだね」
 「今日は色々あって楽しかったなぁ…」
 「これから毎日楽しくなるね」
 「あぁ…きっとそうだな」
 そう言って二人して抱き合ったまま眠ってしまった、疲れていたわけではないけど、何
となく眠くなって寝てしまったという感じだろうか。窓の外、遙か38万キロ彼方にぼんや
りと輝く月が見えている、何となくぼんやりと見える二人の未来のように、朧気な姿で。



 明け方、ふと目を覚ました勝人は傍らに香織が居ないことに気が付いた、体を起こして
周囲を探すと香織は窓辺に立って外を見ていた、裸のままで。
 ゆっくりと起きあがって香織の隣に立つ勝人、香織はそれに気が付いて勝人の腰に抱き
ついた。

 「夜明けか…」
 「うん さっき気が付いて眺めていたの」
 「体を冷やすなよ…」

 そう言って勝人は香織の体ごと毛布を巻いた、二人して蓑虫になって外を眺めている。
 水平線の向こうから真っ赤な太陽がギラギラと輝いて昇り始める、一瞬、陽炎で形が歪
みハート型に見えたような気がした、それを見て二人で微笑む。

 「まだちょっと早いから2度寝する?」
 「ごろごろしてれば良いよ」
 「そうだね」

 二人でまたベットに横になって時計を眺めている、今日は島に帰る日だ、帰ったらみん
なに何て言おうかな…そんな事ばかり香織は考えている。

 実家へ行って結婚してきました、それで良いかな…、うん、そうしよう…それでいい。
 ふと気が付いたら勝人は寝息を立てている、香織は勝人の寝顔にキスして眠った。

 なにかあやふやなイメージの夢を見て香織が目を覚ますと、時計の針は8時を指してい
た、マズイ!そう思って勝人を揺り動かす、マズイよ8時だよ!。

 勝人も目を覚まして時計を見る、おぉっと!ヤバイぜ!、香織!シャワーだ!、そう言
って勝人は香織を抱きかかえてシャワールームへ行く、広々としたシャワールームで二人
してお湯を被り目を覚まして着替える、そういえばこんな朝が前にもあったな…そう言っ
て夫婦は笑いながら支度を整える。

 部屋を出てグランドフロアのカフェで朝食セットを食べチェックアウトした、ロビーの
スタッフが二人に封筒を渡す、勝人が中身を見るとタクシー券が入っていた、勝人の父親
が昨夜のうちに渡しておいたのだった。
 ホテル前の車寄せからタクシーに乗って勝人の自宅へと向かう、時計の針は既に10時近
くなっている。やや流れの悪い国道を走って勝人の家に到着したら香織の両親もそこに待
機していた、多分これ位の時間だろうねって話をしていたのよ…、そういって香織の母が
荷物を手渡した、既にまとめられている荷物を受け取り二人は玄関の前で並んだ。

 「行ってきます!」勝人はいつものように声を出す、香織はその隣で「行ってまいりま
す」と挨拶する、嫁の遠慮がそこにあった。「行ってらっしゃい…気をつけてね」家族は
そういって二人を送り出した、タクシーの窓を開けて勝人が大声を張り上げる

 「生まれる頃に連絡するよ!島へ来てくれ!二人で待ってるから!!」

 駅へと向かう道すがら、タクシーの窓から総合病院が見えた、あそこに美夏がいるのか
な…、そんな会話をしながら二人は駅に到着した。
 改札付近で宮里が橋本と待っていた、しばらく待ったのだろうか、ややイライラした様
子でもある…



 「スイマセン、遅くなりました!」勝人が先に声を出した、香織もすかさず相槌を入れ
るのを怠らない「支度に手間取って…すいません」。

 宮里はニコリと笑いながら二人の頭をコツンと叩く、「予定より30分遅れよ」
 そうは言って窓口に行くと指定券を受け取って二人に渡す、16号車の後ろより。
 エレベーターから遠いわねぇ…などと言いつつ皆でホームを歩いていく…、島式ホーム
の一番端し付近に目標とする号車札が見えた。
 ここで待っていてね、お弁当を買ってくるから…そう言って宮里は歩いていった、橋本
はどこかに電話した後で宮里を追いかける、ホームに二人だけ残されて列車を待っている
形になった。
 エレベーターに乗り込んだ宮里と橋本がスーッとしたに降りていくのと入れ違いにエス
カレーターでサラリーマン風の男達が数人上がってきたのが見える。この時間帯の西行き
はビジネス列車でもあるからひっきりなしに背広姿の男達がやってくるのだった。
 号車札付近で並ぶ二人の後ろにも何人かのサラリーマンが並んでいる、疲れきった雰囲
気の中年男性が深いため息を吐きながら沈痛な表情で立っている、隣には部下と思しき若
い男性が声を掛けている。
 何となく重い空気を感じながら二人は聞き耳を立ててしまった

 −ですから課長も気を落とさないで…
 −しかしな、そうは言ってもアレではもう…
 −奇跡は信じる人の所にしか来ないんですよ?
 −そうだけど…な…
 −課長が信じなくて誰が信じるんですか
 −塚本君…
 −とっとと出張終わらせて戻ってきましょうよ
 −そうだな
 −そうして娘さんのところへ付いててあげればいいじゃないですか
 −あぁ…
 −課長が生きる望みをなくしたら娘さんだって

 勝人はやや引きつった表情で香織を見る、香織も青ざめている。
 シゲシゲ眺めるのは失礼だと思っているもののその姿を確認したい勝人はチラッとその
中年男性を見た…、そのときちょうどその人物も勝人を見たのだった。

 「まさかとは思うが… 君は武田君かね?」
 「はい、そうです、僕もまさかとは思いましたが…高橋さんのお父さんですよね?」
 「そうだよ…こんなところで会うとはねぇ…」
 「あの、なんと申し上げてよいか…」
 「いやいや君が責任を感じる事じゃない」
 「しかし…」
 「隣にいる美人さんは…川口君かね?、あ、いや、今は川口さんだね」
 「あ、いえ…、あの…、昨日付けで私も武田になりました」
 「じゃぁ…入籍を?」
 「はい、お恥ずかしながら僕は未成年の分際で妻を娶りました」
 「そうか…」

 高橋美夏の父親がそこに立っている事に二人は強い衝撃を受けていた、父親がここに入
ると言う事は良くなったか改善の見込みがないか、それとも事実上死んだのかのどれかだ
ろう。
 先ほどの会話からして、とにかく絶望的な現状である事が垣間見える、香織は恐る恐る
尋ねるのだった。

 「あの…美夏さんは…」
 「美夏は…もうダメかもしれないね」
 「本当にダメなんですか?」
 「実は昨日の時点で大脳停止状態になっているんだ」
 「じゃぁ…」
 「うん、事実上の脳死だね」
 「なんてこと…」



 香織は両手で顔を塞いで泣き出してしまう、その肩を勝人が抱き寄せて一緒に涙ぐむ、
やはりあの時、もう少し手を伸ばせば…、どれほど後悔しても遅いのだろうけど、それで
も自責の念は勝人を攻めるのだった。

 ややあってホームに自動放送の案内が流れる…

 ♪ピン♪ポン♪パン♪ポ〜ン
 超特急ひかり号博多行きが16両編成で11番線に参ります
 黄色い線の内側に下がってお待ちください

 ♪チャラララ〜
  ♪びゅわ〜んびゅわ〜ん は・し・る〜
   ♪あお〜いひかりのちょうとっきゅ〜 ・・・・・・・・・

 はい、ご注意ください!11番線に列車が入りまーす!
 11番線はホームドアがありませんのでご注意ください!

 若い駅員がマイクを持って怒鳴っている、しかし、慟哭する二人にその声が届いていな
い状態だった。

 「塚本君、ちょっとカバンを持っていてくれたまえ」

 高橋の父親はカバンを部下に持たせると二人の肩を抱き寄せた。

 「悲しんでくれてありがとう、でも、どれほど泣いても人は生き返らない」

 沈痛な表情を浮かべて高橋の父親も泣きそうだった。

 「奇跡が起きるのを祈るだけだったけど、今日ここで君達に出会えたのも奇跡かもしれ
ないね、最後の最後で二人に会えてよかったよ、本当に良かった」

 ちょうどそのときエスカレーターで宮里と橋本がホームに上がってきた、上がってくる
なり宮里と橋本の二人が見たものは二人の背中に手を添える高橋の父親の姿だった…
 ホームの向こう、遠くに乗車する新幹線が見える、宮里の脳裏に嫌な予感が浮かび弁当
を投げ捨てて走り始めた…

 「今は武田夫妻と呼ぶべきだね、二人の門出を私からも祝うよ、これからずっと一緒に
居られるように祈っている、二人がいつまでも仲良く、共に過ごせるように…」

 香織と勝人は顔を上げた、高橋の父親は心からの笑顔で微笑んでいる。

 「夫婦は常に共に有るべきだ、夫も妻も常に傍らにあるべきなんだよ…。でも実際には
なかなかそうは行かないものだ、仕事も有るし、それに…武田君の妻は出産の義務を負っ
ているんだろう?大変な事だよ…」

 そこまで言うと父親はちらりとホームへ入ってくる新幹線を見やった

 「私には何も出来ないけれど、せめてこれ位はさせてくれ、美夏の分もね」

 そういって心からの笑顔になった…


 しかし…
 その笑顔が鬼気迫るものだと香織が気が付いた時…

 「かおり!逃げなさい!」そういって宮里が走ってきた。
 二人を守ろうと手を差し伸べる直前、高橋の父親が両腕を強く伸ばし二人をホームから
線路へ突き落とした…

 「え?」香織は一瞬何が起きたかわからなかったがすぐにホームから落とされた事に気
が付いた、勝人は落ちる途中で香織と体の位置を入れ替え自分が下敷きになったあとで強
引に立ち上がろうとしたが、下敷きになった右足が折れて力が入らない。
 勝人は死力を振り絞って左足一本で立ち上がると香織を抱えあげてホームに乗せようと
した、新幹線はホーム先端付近を100km近い速度で入ってきている。何とかホーム先端に
香織を抱え上げた時、高橋の父親の足が香織の頭を押し戻した、その直後にパンパンと鋭
い音がして高橋の父親のこめかみから血飛沫が舞った。橋本が護身用の拳銃で高橋を射殺
したのだった。

 宮里は必死になって手を伸ばし香織と勝人を引き上げようとしたのだけど…その手は香
織の手をつかむ事が無かった…


 ビュワ〜ン!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 新幹線の車両から警笛が鳴らされたけど…
 既に手遅れだった…

 そのときホームに居た人間は皆『ドガン!』と言う音を聞いた。
 ホーム付近に血飛沫が舞い便臭にも似た悪臭が漂った…

 自分の身に起きた事がまだ良く理解できていない香織だったけど、下半身の違和感に気
が付いて顔を起こす、腹が大きく裂けて子宮体が大きくはみ出していた、あぁ、これじゃ
…、勝人ごめんね、ダメだったみたい…、そう思って首を動かすと下半身の無くなった勝
人が口から血を流しながら手を伸ばしてきた、手首から先がなくなっているその手を香織
は握り締めた。

 声にならない声で勝人は言った…

 遠くまで旅に出よう…愛してるよ

 そう聞こえたような気がして香織も微笑を返してて口を動かした。
 しかし、声は出なかった…

 えぇ、あなた、もちろん…どこまでも…

 薄れゆく意識の中、香織は勝人とヴァージンロードを歩いた
 嬉しそうな子供たちが4人見守る中、長いヴェールを勝人が捲ってキスをした
 遠くに青く高い空が見える
 初めてカプセルから出た日にも聞いた、澄んだ鐘の音が聞こえた…



 −完−



TS法:川口香織@ハッピーエンド


 明け方、ふと目を覚ました勝人は傍らに香織が居ないことに気が付いた、体を起こして
周囲を探すと香織は窓辺に立って外を見ていた、裸のままで。
 ゆっくりと起きあがって香織の隣に立つ勝人、香織はそれに気が付いて勝人の腰に抱き
ついた。

 「夜明けか…」
 「うん さっき気が付いて眺めていたの」
 「体を冷やすなよ…」

 そう言って勝人は香織の体ごと毛布を巻いた、二人で蓑虫になって外を眺めている。
 水平線の向こうから真っ赤な太陽がギラギラと輝いて昇り始める。一瞬、陽炎で形が歪
みハート型に見えたような気がした、それを見て二人で微笑む。

 「まだちょっと早いから2度寝しようよ」
 「ごろごろしてりゃあっという間だな」
 「そうだね」

 二人でまたベットに横になって時計を眺めている。今日は島に帰る日だ、帰ったらみん
なに何て言おうかな…そんな事ばかり香織は考えている。

 実家へ行って結婚してきました、それで良いかな…、うん、そうしよう…それでいい。
 ふと気が付いたら勝人は寝息を立てている、香織は勝人の寝顔にそっとキスした。

 いつの間にか香織も眠りに落ちいて何かあやふやなイメージの夢を見ていたけど、何か
の物音で目を覚ました、時計の針は8時を指している。

 「マズイ! マズイよ8時だよ!」

 そういって勝人を揺り動かした、勝人は半分寝ぼけて香織をギュッと抱きしめた。
 しかし、その刹那に香織の手が勝人の頬をパチパチと叩く。

 「まさと!ルームサービスの時間!」
 「あ!いっけね!」

 バスローブを羽織って部屋のドアを開けるとボーイが二人分の朝食をワゴンに乗せて待
っていた。武田ご夫妻おはようございます、朝食でございます。
 ボーイはそう言って部屋に入ってくるなりリビングのテーブルをメイクし始めた、所在
無げな勝人だったがベッドルームの入り口が開いているのに気が付いて扉を閉める。素っ
裸でベットの中に隠れていた香織はやっと立ち上がれるようになり、ベッドガウンを羽織
って髪をとかし始めた。
 手持ち無沙汰感の強かった勝人はバスローブのままテレビのスイッチを入れた、ちょう
ど今日の天気予報が始まるところだった、南方海上に台風47号が発生しました…、これじ
ゃ島に帰ってからしばらくは風で練習出来ないなぁ…と、そんな事を考えていた。

 「おまたせいたしました、ごゆっくりどうぞ」

 黙々と準備していたボーイはそう言うとそそくさと立ち去った、素っ裸にバスローブ姿
の勝人を見れば寝起きなのはすぐに分かるし、旦那である勝人が裸なら妻は推して知るべ
しなのだろう。教育の行き届いたホテルならではの気遣いなのかもしれない。

 シャワー浴びようよ…、ベットルームから出てきた香織はそういって勝人を誘った。
 勝人もシャワールームへと入ってくる。香織は勢い良く出るシャワーを被りながら勝人
の目の前で自分の体に手を滑らせ艶かしい肢体を流していく。
 その仕草があまりにエロティックで勝人も多少ムラムラとしているようだが…、香織は
気にしていない。むしろ、襲うなら襲っても良いよ…とでも言わんばかりの笑顔で、時々
誘うように勝人を見るのだった。
 あまりに時間的な制約が大きく事に及ぶのは…と思う勝人だが、その心中は荒れ狂う大
海原の大波のようだ。



 大きなバスタオルに手を伸ばした香織は勝人の背中を拭いた、背中から両腕、そして肩
から腹、下半身へ…。されるがままの勝人がもう一本のバスタオルで香織の髪をそっとふ
きあげる。いつの間にか肩甲骨まで伸びた艶やかな黒髪にドキッとするのだった。

 「香織…」
 「…どうしたの?」

 小悪魔的な微笑を返す香織に勝人は我慢の限界だが…。

 「飯にしよう…」
 「…うん」

 ちょっとだけ残念そうな香織。勝人は膝立ちになってバスタオルで香織を優しく拭いて
いく、その感触だけで今の香織には十分満足だった。これから長い長い道のりを共に歩
むから…、いつでも…そう思えば二人には満足なのかもしれない。
 ただ一つ、半勃ちで所在無げな勝人のペニスを除いて…

 ボーイの運んできた朝食セットは実に豪華だった、朝からこんなに食べられない…
 そう思うほどの量でもあったのだが、食べ盛りの勝人が居るのでさほど心配は無いのか
もしれない。パリっと焼かれたトーストにボウル一杯のサラダ、ふんわり焼かれたスクラ
ンブルエッグとショルダーベーコンのスライス。新鮮なトマトジュースを飲みながら香織
はカロリーと成分計算している。

 「う〜ん、ちょっとカルシウムが足りないかなぁ…」

 そういってゆで卵に手を伸ばし殻をむいて半割りにすると、殻を少し手にとって粉々に
砕き黄身に掛けてしまった、吸収効率の悪いカルシウムをこれで摂取できるとは思えない
のだが…

 「あんまり変なもの食うと腹壊すぞ」
 「平気平気!昔は軟骨バリバリ食べたんだって、サメ軟骨とか」
 「え?サメって食えるの?」
 「昔のはんぺんはサメだったそうよ」
 「いまじゃ信じられないな…」

 価値観や考え方、常識と言った物は時代と共に変化していくものだが…、産まれてくる
子供へ親が注ぐ愛情は何時の時代も変わらないものなのだろう。

 果実を親子で食べるなら甘い所を子供に与え親は苦い所を食べる、夜の寝床に入るなら
乾いた所へ子供を寝かし親は濡れた床でも眠る、太古の昔から変わらない、親から子へ注
がれる愛のリレー。
 粉っぽい黄身に粉々の殻を掛けて食べる香織の心は産まれてくる子供の為に…、それし
か無いのかも知れない。

 いつの間にか二人にとって食後のコーヒーは大切な時間になった、アレだけあった朝食
のメニューもほとんど勝人の胃袋に収まり、香織は皿を重ねて綺麗に片付け始める。
 その仕草や立ち振る舞いに勝人は香織の母性を見た気がした、見るとは無しに眺めるだ
けなのだろうけど、今目の前で動いている女性が元男性だったとは…、もはや勝人にです
ら冗談にしか聞こえない話になっている。
 パウダールームで髪を乾かし綺麗にセットしてメイクしている香織、♪フンフ〜ンなど
と鼻歌交じりに鏡を見つめている表情は幸せそのものだ。既に着替えて歯を磨いている勝
人はそれを見ながら、また情念の波が押し寄せてくるのを感じている。
 なにか…凄い遊び道具を手に入れた子供がいつもそれをいじって居たい様な感覚。僅か
16才の少年の中に大人と子供が同居しているのだろう。反抗期真っ盛りになって背伸びし
たい年頃になろうとしているのだが…、それすら許されぬ重荷を背負った事を勝人はまだ
分かっていない。



 支度を整えてホテルからチェックアウトする時、フロントのスタッフが勝人に封筒を渡
した、お父様から預かりました…と言われたのだが、果たして中身はタクシー券だった。
 最後の最後まで親が気を使ってくれている、その事実に勝人は香織の肩を抱いて震えて
いた、こんなにしてもらって…。

 「勝人… 急がないと…」
 「そうだな…」

 二人は車寄せに待機しているタクシーで家路に就く、何気なく時計を見たら既に10時に
なっている、やや遅れ気味か…、香織はふとそう思った。

 勝人の実家でタクシーを降りると香織の両親も待機していた、それに驚く香織。
 そして、宮里と橋本もそこに一緒に待っていた、ある意味で凄い取り合わせなのだが。

 香織の父親は事も無げに言う、お前の家は既にこちらになったのだ…と。母親は香織に
カバンを渡した、中身は女性になった香織の必要なものばかりだ、勝人も母親からカバン
を受け取り橋本の運転する黒塗りの車に乗り込んだ。

 「じゃぁ行ってきます!」勝人が窓を開けて声を上げる。
 「行ってまいります」香織のしとやかな挨拶が続く。

 香織の母親が駆け寄って包みを窓から渡した。

 「日記帳を買ってきたからこれに日記をつけなさい、一杯になったら送ってね」

 勝人の母親もやってきた。

 「香織さん、ウチのバカ息子をよろしくね、何かあれば遠慮しないで言ってちょうだい
ね、代わりに叱り付けてあげるから」

 ちょっとウルウルしている香織だったけど、改まって言う。

 「お父さんお母さん、行ってきます、ありがとうございました」

 宮里が時計を見た後で助士席のドアを開けた。

 「そろそろ時間ですので… では、日本政府が責任もってお預かりいたします」

 そう言うと車に乗り込みドアを閉めた、二人の家族が出てきて手を振る、二人も振り返
って手を振る。辛い別れでもあるけど、二人にとっては遊びに行くようなものでもある。

 懐かしい町並みを抜けて車は再びリニアラインの駅へとやってきた、駅前に待っていた
省のスタッフへ車を預け、見知らぬ3人のガードと共に二人はホームへと上がる。なぜか
厳重な警備が続いているのだけど、その理由を二人は聞かされていない。

 ホームの上、列車を待つ二人は恐る恐る宮里に尋ねた、来る時は私達だけだったのに帰
りはなんでこんなに警備がついたんですか?と。
 宮里は一瞬口ごもり、それを見た橋本が代わりに答えた。

 「実はね…この夏の一時帰宅中にアパート組みの子がホームで襲われてね…」
 「え?マジっすか??どうして??」
 「人工的に作られた子供は神の摂理に反するとか言って強行に反対してる組織がね…」
 「そうな事が…あったんですか…」
 「その組織がまた古くてね、ナチ第三帝国の女性解放運動こそ根本とか言うんだよ」
 「はぁ?」二人はハモって答えた



 橋本は苦笑いして言う。

 「自立女性を支援するんだってさ」
 「・・・・・・・・・・・・・・で、それが何の関係あって」

 宮里も笑うしかないようだ、あまりに横暴な主義主張であるけど当人達は真面目なのだ
ろう。ただ、その主義主張は被害妄想と表裏一体でもある。

 「要するに彼らは自分達の主義主張の為なら何でもするんだよ、自分達の意見が通らな
いのは被害だと思ってるんだ、自分達は被害者なんだから最優先で救済されるべきだって
言うんだよ。そして自分達の意見とは違う意見は全部間違っていると勘違いしてる」

 「世の中にいるんですね、そういう偏った人たちって」

 「まぁ主義主張は自由だ、でも、他の意見を尊重出来なければただのファシズムだね」

 それっきりその場は静かになってしまった、橋本は遠くを見ながら言う。

 「大声を張り上げて主張して…それが通らなければ人の嫌がる事も平気でする…、もは
やまともな人間のする事じゃない…」

 香織はその横顔をじっと見ている、橋本はそれに気がついて香織に目をやり続ける。

 「嫌がっていても無理やり女性化してしまう組織も有るんだからな、世の中どこかおか
しいんだよ…、嫌がっても拒否しても…強制女性化なんだから…、私もどっかおかしい人
間だよ、きっとね」

 「そんな事は…」そこまで言って香織は言葉に詰まった。
 宮里がそっと香織の肩に手をかける、勝人もそっと香織の手を握った。
 国家の都合が国民を振り回す事は多々有るのだろうけど、その国家とは国民を包む袋で
しかない、どっちに転がっていくかは中身の問題なのだろう。そんな風に思った香織の脳
裏には世の中と言う得体の知れない巨大な圧力団体のイメージがあった。

 「今更遅いけど… 申し訳ないと心底思っているよ」

 そう言って橋本はやってきた流線型に輝くリニアに乗り込んだ、二人がそれに続きガー
ドも車内に入る、車両の両端部にある個室へと収まり列車は出発した。車窓を凄い速度で
景色が流れていく、ほとんどトンネルの中を滑るように走っていくリニアの景色は大して
面白くない。

 香織はふと思い立って母親が買ってきた日記帳の包みを開けた、中から重厚な表紙と装
丁のノートが出てきた、表紙を捲るとそこには母親の字で縦に一行書いてある。

     やがて母になる 愛する娘へ 母より

 「お母さん…」香織の心中に母親の笑顔が浮かぶ。一文をみて勝人は涙ぐんだ。
 「凄いよな、親って」香織は黙って頷く。



 列車がガクッと速度を落とした、浮上走行からレールに『着陸』したようだ。大きくカ
ーブを切ってトンネルから出て大きな駅へと入っていく、関西圏の玄関とも言うべき駅前
で二人は島からの迎えに収まった、ここから先、橋本は同行しないようだ。

 「じゃぁ、無事に産まれる事を祈っているよ」

 そう言って橋本はどこかへ消えていった、宮里とガード3人が二人と共に島を目指す。
 何時だったか渡った橋の第三チェックを超えて島に入りタワーへ…、香織と勝人の新し
い人生。タワーの前で車から降りるとちょうど島が昼食時になっていた。

 「お帰り香織! どうだった!」

 3号棟から戻ってきた沙織が香織を見つけて声をかける、英才と歩く沙織も心なしかお
腹が出始めている。

 「うん…入籍してきた」
 「え゙!ほんとに!!」
 「うん、そうしないと産んじゃダメって言うから… ね!」

 そういって香織は勝人を見る、勝人は頭を掻きながら言う。

 「親父が堅物でさ… でもまぁ… うん、幸せだ」
 「私も幸せだよ」

 二人で手をつないで見上げるタワー。
 その上には高く青い秋の空が広がっている。

 「今日からまた、よろしくな」
 「うん… よろしくね」

 島を抜ける潮風に秋の気配が漂い始める頃だった・・・・・・・


                 − 第一部 −
                 −  了  −

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