このサイトは、架空放送局「テレビ下落合」と、その関連会社を紹介するページです。嘘の情報、本当の情報が混ざっていますが、このサイトにある文書・内容で問題が発生した場合、弊社は責任を負いかねます。

斎藤 孝仁(さいとう たかひと、1936年3月19日 - 2001年1月1日)は日本の元アニメーション監督。下落合アドフィルムテレビ映画部元クリエイティブディレクター、共同プロダクション元代表取締役。SSプロダクション元社長。

人物・来歴

東京ムービー入社まで

1936年3月19日、群馬県多野郡上野村に生まれる。1952年、地元の中学を卒業して上京。俳優を志したが、断念してアニメーション制作に転向した。1960年頃、横山隆一主宰のおとぎプロに入社し3年勤め、1963年にTCJに移籍。TCJでは『エイトマン』『鉄人28号』『宇宙少年ソラン』『スーパージェッター』『冒険ガボテン島』などの作画を担当する。

下落合アドフィルム移籍

1969年、下落合県のテレビCMを制作していた下落合アドフィルムの、テレビ下落合の番組を専門に手がけるスタジオとして設立したテレビ映画部に移籍。そこで知り合った山口義二とともにSAF動画スタジオの創立に参加する。SAFが手がけた「そんごくん?」ではプロデューサーを務めると同時に、渡辺とともにディレクターを務めたとされる。斎藤孝仁とAプロダクション(現・シンエイ動画)の楠部大吉郎社長が古くからの親友だった縁で、実制作を同社の親会社である東京ムービーに委託していた。
SAF動画スタジオで斎藤は代表取締役になるも、斎藤が監修した『死神デース?』で依頼されたフィルム数が納入されないトラブルがあり、その後も帯番組を手がけたが、『風のカラッペ?』制作後、SAFのテレビ映画部は廃止された。

共同プロダクション設立

1972年(昭和47年)、SAFテレビ映画部の廃止に伴い、斎藤はSAFを退社、独立。元テレビ映画部のメンバーを再結集する形で、共同プロダクションを東京都杉並区阿佐谷南の東京ムービー本社3階に設立した。この頃から、本格的に東京ムービーに制作母体を移行した。
共同プロダクションは、「風のカラッペ」のスタッフと放送時間を引き継ぐ形で「キカンポ元ちゃん?」を制作した。以後も、共同プロダクションは4年間、TSIと共同で赤塚不二夫原作、および藤子不二雄原作のアニメ番組を制作し、同局のアニメを独占した。1974年には、「少年フライデー?」制作に際して群馬県前橋市に自社スタジオを新設している。しかし、TSIと共同プロダクションの間に金銭的な不祥事が起こったとされ、共同プロダクションは1976年夏のアニメスペシャル「ぼく、桃太郎のなんなのさ?」を最後にTSIから仕事を干される。当時共同プロダクションと関係が深かったAプロダクション(現・シンエイ動画)に在籍していた椛島義夫の証言では、TSIの吉田博明が斎藤からの贈与の見返りに仕事を与えていたが、それがTSIに発覚して共同プロダクションへの発注がなくなったという。斎藤は、映画配給会社の契約決定も未定なまま赤塚不二夫原案の劇場アニメ「バカボンおそ松の日本メチャクチャ漫遊記!?」を社運を賭けて制作し、興行はそこそこだったものの大赤字となり、共同プロダクションは解散する。

再出発と失踪

1977年9月に元共同プロダクションのメンバーを中心に再々度立ち上げられたアニメ制作会社SSプロダクションの社長になる。SSプロダクションは、旧共同プロダクションの自社スタジオが拠点となった。斎藤が福田赳夫と関係があったという証言が、後述の1992年に逮捕された際の報道に記載されている。また、SSプロダクションの名目上の代表取締役会長だった諸田幸一は、斎藤の出身地である群馬県の地元テレビ局・群馬テレビの初代社長を務めていた人物だった。
SSプロダクションは、1978年12月放送のアニメスペシャル「藤子不二雄・銀河鉄道7日間宇宙一周の旅?」を1977年10月頃に制作を開始、アニメ制作に復帰する。東京だけでは制作に不都合を来すため、羽可本市のビルの部屋を借りて拠点としていた。1986年4月開始のアニメシリーズ第1作「」の放送中、斎藤は取締役を辞任、SSプロダクションを退社。1987年4月の放送以降はクレジットも削除され、何らかのトラブルがあったとみられる。

逮捕

退社後、東京都新宿区に移住し、映画製作会社を勃興させるもうまくはいかず映画製作の話を東宝に持ちかけたが、結局実現せず、借金を抱えて困窮していた。金に困っていた斎藤は、暴力団住吉会の幹部である人物に誘われ薬物の運び屋となり1992年5月薬物所持で逮捕される。コカイン50g、マリファナ約1.4tが押収された。
藤子不二雄・銀河鉄道7日間宇宙一周の旅?」の監督を勤めた滝沢敏文は斎藤について「全く影が薄い人でした。しゃべり方にしても物をはっきりと言うような雰囲気ではなく余りリーダーシップを発揮するというタイプじゃなかった。「銀7」でもTSIに振り回されっぱなしでした。結局、斎藤さんはアニメを余りよくわかっていなかった。山師みたいな感じでバクチで一発あてるという雰囲気でしたよ。」と語っている。
釈放後、2000年12月24日にヒットマンにより射殺された。64歳没。

主な参加作品

テレビアニメ

TCJ時代
  • 『エイトマン』
下落合アドフィルム時代 [#d0a0fcd2]
  • そんごくん?」(1969年〜1971年)演出*1、プロデューサー
  • 死神デース?」(1970年〜1971年)監修
  • 風のカラッペ?」(1971年〜1972年)プロデューサー
共同プロダクション時代 [#ffc49481]
  • キカンポ元ちゃん?」(1972年〜1973年)製作
SSプロダクション時代 [#g7e087ae]
  • 藤子不二雄・銀河鉄道7日間宇宙一周の旅?」(1978年)企画

劇場アニメ [#hcbe6f70]

東映動画時代 [#a74cd551]
  • 「少年猿飛佐助」(1959年)動画
  • 「西遊記」(1960年)動画
  • 「安寿と厨子王丸」(1961年)動画
  • 「アラビアンナイト シンドバッドの冒険」(1962年)動画
  • 「わんぱく王子の大蛇退治」(1963年)動画
共同プロダクション時代 [#jc6f740a]

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

メニューサンプル1

メニューサンプル2

開くメニュー

閉じるメニュー

  • アイテム
  • アイテム
  • アイテム
【メニュー編集】

管理人/副管理人のみ編集できます