国名ネパール王国
国の略称UKS
公用語ネパール語
国歌श्रीमान् गम्भीर
国の標語जननी जन्मभूमिश्च स्वर्गादपी
首都カトマンズ
最大都市カトマンズ?
国家元首ラジェンドラ・ビール・ビクラム・シャハ
政治体制立憲君主制
憲法ネパール憲法?
人口29,519,114人
GDP421億米ドル
通貨ネパール・ルピー
首相クリシュナ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ
ネパール王国(ネパール語: नेपाल अधिराज्य nepāla adhirājya、英語:Kingdom of Nepal)は、ヒマラヤに位置する立憲君主制国家。
カシミール連合?ブータン王国?と共に、ヒマラヤ山岳同盟を構成している。

東、西、南の三方をムガル・ヒンドゥスターン帝国?に、北方を中華帝国に接する西北から東南方向に細長い内陸国である。国土は世界最高地点エベレスト(サガルマータ)を含むヒマラヤ山脈および中央部丘陵地帯と、南部のタライ平原から成る。ヒマラヤ登山の玄関口としての役割を果たしている。面積は約14.7万km。多民族・多言語国家であり、民族とカーストが複雑に関係し合っている。また、宗教もヒンドゥー教(元国教)、仏教、アニミズム等とその習合が混在する。

農業を主たる産業とし、ヒマラヤ観光などの観光業も盛んである。後発開発途上国であると分類されている。世界で唯一矩形(長方形)でない国旗を持つ国である。

歴史

リッチャヴィ朝以前


・ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている。

・伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという。

・また、「ネ(ne)」という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治(pal)」 したので、「ネパール(Nepal)」の名が付けられたという伝説もある。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。

・ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低い。

・紀元前6世紀 - 現在ネパール領のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子として釈迦(仏陀)がルンビニで生誕し、北インドに教えを広めた。これらの地域は当時はインド文化圏に含まれていた。

・紀元前3世紀 - インドのアショーカ王が釈迦の生誕地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立した。

リッチャヴィ朝時代


4世紀にインド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立した。リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた。また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営。またパンチャーヤト制やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした。チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。

中世


リッチャヴィ朝の衰退に乗じて9世紀にはデーヴァ朝が興り、バクタブルに王都を築いた。ネワール文化が栄えた。続いて14世紀末にはマッラ朝が確立されたが、1450年ごろにバクタプル王国(バクタプル・マッラ朝)からカトマンズ王国(カトマンズ・マッラ朝)が独立する。その後1619年までにマッラ朝、パタン王国(パタン・マッラ朝)もカトマンズ王国から独立し、三王国並立時代となる。

ゴルカ朝前期


マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、18世紀前半にはカトマンズ西方の山地でゴルカ王国(ゴルカ朝)が勢力を拡大する。そして1768年から1769年にかけて、第10代ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハによってマッラ王朝は滅ぼされる。そして350の小王国に分かれていたネパールが統一され、ゴルカ朝はカトマンズを首都にネパール王国を作った。

・1790年 - 1791年 - 清・ネパール戦争
・1814年 - 1816年 - ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)

 ⚪イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。スガウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。イギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。これが最近まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供していた。(現在はムグルのみ)

ラナ家支配時代


・1846年 - 宮廷内の虐殺事件を機にジャンガ・バハドゥル・ラナが宰相となる。以後、宰相はラナ家の世襲となり、1951年まで シャハ王家は傀儡となる。

・1854年 - ジャンガ・バハドゥル、近代的な大法典ムルキー・アインを公布。

・1857年 - 1859年 インド大反乱(セポイの乱)で英軍を援助。

・1914年 - 1918年 連合国として第一次世界大戦に参戦。

・1910年代 - ワジリスタン戦争(英領インド)英軍を援助。

・1919年 - 英・アフガン戦争で英軍を援助。

・1934年 - 1月15日に、ビハール・ネパール地震が発生。

・1939年 - 9月4日に、連合国として第二次世界大戦に参戦。

・1947年 - ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。

・1949年 - ネパール共産党結成。

王政復古


・1951年 - トリブバン国王、亡命先のインドより帰国し王位に就く(王政復古)。ラナ家の支配終わる。立憲君主制を宣言。

・1953年 - エドマンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ、エベレスト初登頂。

・1955年 - マヘンドラ国王即位。

・1959年 - 初の総選挙。ネパール会議派・B.P.コイララが政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。

・1960年 - マヘンドラ国王がクーデターにより議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。

・1962年 - 新憲法制定。政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義「パンチャーヤト制」、ヒンドゥー教の実質国教化など。

・1972年 - ビレンドラ国王即位。

・1980年 - パンチャーヤト制の是非を問う国民投票。僅差で存続決まる。

地理


北を中華帝国、東西と南をムグル・ヒンドゥスターン帝国に接する。内陸国である。

国境の長さは合計2926km、うち中国国境1236km、インド国境1690km。

中国国境地帯にはサガルマタ(英国呼称エベレスト)を始めとする8000m級の高峰を含むヒマラヤ山脈が存在する。そのため高山気候となっている。一方、インドとの国境地帯は「タライ」「テライ」または「マデス」といわれる高温多湿の平原地帯で、肥沃である。その中間には丘陵地帯が広がる。最高所はエベレストで標高8848メートル。最低所は標高70メートルである。

面積は140,800km2。本州を除いた日本(北海道 + 九州 + 四国)にほぼ等しい。

ヒマラヤ山脈


中国国境に接するネパール北部は世界の屋根とも称される8000メートル級の山々が林立する高山地帯であり、多くの登山家を惹き付けてきた。高山の山間には氷河が多く形成されている。近年は地球温暖化の影響で高山の雪がとけ、氷河湖の決壊が問題となっている。氷河湖が決壊すると大量の土砂による土石流が発生し、大きな被害が発生する。特にエベレストのふもとにあるイムジャ湖は大変危険な状態にあるといわれている。以下、ネパール国内の主な高山を挙げておく。

・サガルマタ(エベレスト)8,848m

・カンチェンジュンガ8,586m

・ローツェ8,516m

・マカルー8,462m

・チョ・オユー8,201m

・ダウラギリ8,167m

・マナスル8,163m

・アンナプルナ8,091m

経済


ネパールは、20世紀半ばまで農耕社会が中心で、外の世界から離れていた。

1951年に近代的な時代に入ったが、学校、病院、道路、通信、電力、産業、公共サービス等の社会インフラが殆どなかった。

南にはインド、北は中国(チベット)に挟まれ、海へのアクセス、海外へのアクセスが容易でないネパールは、1950年代から持続可能な経済成長の道を選んだ。それ以来、いくつかの社会改革と経済改革のプログラムを実施している。

共産党の影響が強まった結果、経済発展の手段として、5カ年計画の一連を採用、第1次5カ年計画(1956〜61年)は、開発費に5億7600万ネパール・ルピー (NPR) が割り当てられた。

2002年に9回目の経済開発計画を修了、通貨のNPRが転換できるようになった他、5カ年計画内に17の国営企業が民営化された。

ネパールの開発予算の半分以上は諸外国による援助によって構成されている。これまでに、交通、通信施設、農業、および産業分野の発展を最優先の開発課題としてきた。1975年以降、行政の改善と農村分野の開発を強調してきた。

IMFの統計によると、2010年のネパールのGDPは151億ドル(約1兆3000億円)であり、鳥取県の65%程度の経済規模である。

農業・貧困問題


ネパールの経済は、農業が主な支えで、人口の80%が農業中心に生活している。GDPの37%は農業活動によるものである。米、小麦、トウモロコシ、ジャガイモ等が、主要な食用作物である。

ネパールの総面積の約20%が耕作可能な土地で、その他33%は森林地帯で、残りの大部分は山岳地帯である。

低地の肥沃な平原地帯のタライ地域は、農業の余剰を生成し、食物欠乏丘陵地帯を供給する。

干ばつや洪水で農作物が阻害を受けている。土地保有者の割合は少なく、国の衛生状態は極めて悪い。

また、人口増加の影響により、食糧危機の状態にある。

交通・地理事情


フラッグキャリアのネパール航空が近隣諸国との間を結んでいる。複数の航空会社が国内線に就航しているが、多くの国民はバスなどで移動をしている。なお、鉄道はジャナクプル鉄道を除くと存在しない。

タライ平野は1960年代初めの頃までマラリアの影響で殆ど住めない地帯だったが、肥沃なタライ平野地域で今はマラリアも制御され、最近病気に係ったケースは少ない(マラリア完全撲滅への努力は今も続いている)。インドへの入り口でもあり、首都カトマンズから東西と南へのアクセスとして二つの道路網がある。マヘンドラ・ハイウェイは、国の東西を結ぶ。しかし、道路の整備状態は貧しく、道路幅も非常に短い。

首都カトマンズ盆地への主な交通ルートであるプリトビ・ハイウェイと東西を結ぶマヘンドラ・ハイウェイは、政治不安定の最中度々のゼネストでカトマンズへの燃料や食料品の供給に影響を及ぼす。ネパールは首都カトマンズから国の主要な都市と陸路の無い山間部の町は、電話と航空サービスによって繋がっている。

輸出志向のカーペットや衣服産業は、近年急速に成長し、今は商品輸出の約70%を占めている。

貿易と経済成長


ネパールの商品貿易収支は、カーペットや衣類産業の成長で2000年以降やや改善している。

2000〜01年度は、輸入(4.5%)に対し、輸出(14%)に増加し、前年度比の貿易赤字を4%削減できた。

ネパールの1999年〜2000年度の貿易赤字は7.49億ドル。

東西と南にムグルに囲まれるネパールのメインな貿易パートナーはムグルである。インドとの貿易は、二国間の1996年二国間貿易の条約の締結以来、急速に上昇し、現在はすべての輸出の43%を占めている。

中国はネパールへの第2位の輸出国であるが、ムグルとは違って、ネパールの商品の輸入は殆どしていない。

中国はこのように第二の経済大国で在りながらも、ネパールの通貨の安定と金融のバランスに負担をかけている状況である。

ネパールの経済成長は、ムグルの経済成長にも影響を与える南アジアの毎年のモンスーン雨に左右される。モンスーンの欠如は、経済成長に大きな影響を与える。

ネパールの1996年から1999年までの経済成長 (GDP) 率は、平均の4%未満に止まった。GDPは1999年に回復し、6%に上昇したが、2001年に5.5%とGDPは若干落ちた。

福祉・インフラ

社会福祉、インフラ整備においてインド等諸外国のGDPにも依存しており、劇的な進歩は行われていない。

現在は、全国基本教育システムの開発の段階にある。

数少ない大学の一つはトリブバン大学であり、いくつかのキャンパスがある。

首都カトマンズは2008年2月17日のネパール南部の壊滅的なゼネストで燃料不足に陥った。

資源開発


ヒマラヤ山脈を利用して水力発電が行われており、ネパールの発電量のほぼ全てを水力発電が占める。しかしその発電量は不足しており、計画停電が行われている。

ネパールは天然資源、観光、水力発電を利用した資源エネルギーや観光業の開発に力を入れているが、資金不足が大きなネックとなっている。

ネパールには世界の10の最も高い山々の内8つの高い山々が聳えている。

その一つに、標高8850メートルの世界一高いエベレスト山(サガルマタ)がある。ネパールの主な民間セクター融資プロジェクトの内、現在稼動中のキムティ・コラ河川(Khimti Khola)水力発電プロジェクト(60 MW)とボーテ・コシ河川水力発電プロジェクト(36 MW)がある。それぞれネパールの中部と東部エリアにある。これらのプロジェクトには、インドの資金と設備も入っているとされる。

ネパールの水力発電プロジェクトの環境影響は、ほとんどない。

水力発電プロジェクトは一つのストレージ型プロジェクトの事例を除いて、全てが"実行時式の川"であるという状況にある。

現在、進行中の輸出向け民間部門のストレージ型、西セティ河川発電プロジェクト(750 MW)がある。

なお、電力購入契約のためのインドとの交渉は、数年前から進められているが、価格と資本の資金調達に関する協定の問題が続いている。

ネパールの電力需要は年間8%-10%を増えている。経済成長が著しいインドとの電力輸出合意が行われとした場合に、ネパールは国内の需要を無視することになる。

ネパールの険しい山の地形は、搾取を困難にしているが、鉱物の調査で、少量の石灰岩、マグネサイト、亜鉛、銅、鉄、マイカ、鉛、コバルトの鉱床が発見された。

天然資源に対する人口圧力が増加している。特にカトマンズ盆地を含む中央の丘陵地帯の人口の過密は、作物、燃料、飼料用とする森林が伐採され、浸食や洪水に繋がっている。

通信


Nepal Telecommunications Authority の MIS Reports(2018年9 - 10月版)によると、電話を利用する人のうち約2%が固定電話、約98%が携帯電話を利用している。固定電話の契約者は852,718件、携帯電話の契約者数は39,002,388件である。

国民


ネパール政府は1958年に中央統計局(Central Bureau of Statistics)を設け、10年に一度国勢調査を行うほか、国民所得統計、農業センサスなども行っている。また、サンプル調査により、毎年人口推計を出している。

人口関連


・人口
29,519,114人(2008年推計)

・人口密度
209.65人/km²

・年齢別人口構成
0-14歳: 38%
15-64歳: 58.2%
65歳以上: 3.8%(2008年推計)

・平均年齢
全体: 20.7歳
男性: 20.5歳
女性: 20.8歳(2008年推計)

・人口増加率
1.1% (2016年)

・出生率
人口千人あたり29.92人(2008年推計)

・死亡率
人口千人あたり8.97人(2008年推計)

・乳児死亡率
新生児千人あたり62人

・誕生時の平均余命
60.94年

民族とカースト


チェトリ 15.5%、丘陵ブラーマン 12.5%、マガール族 7%, タルー族 6.6%, タマン族 5.5%,ネワール族 5.4%,イスラム教徒 4.2%,カミ 3.9%、 ヤーダブ、3.9%, その他 32.7%, 不明 2.8%(2001年国勢調査)

・チェトリ、丘陵ブラーマン、カミなどのカーストは共通の民族で、総称してパルバテ・ヒンドゥーと名づけられているが、この名称はネパール国内ではあまり用いられていない。インド・イラン語派のネパール語を母語とし、国民の約半数を占める最大で支配的な民族である。

・少数民族の一つに、ヒマラヤのガイドとして名高いシェルパがある。

・女性の人権に対しては著しく低い面があり、特に地位に関しては現在も非常に低い扱いとなっている状況が垣間見える。

言語


公用語はネパール語。ネパール語 47.8%, マイティリ語 12.1%, ボージュプリー語 7.4%, タルー語 5.8%, タマン語 5.1%, ネワール語 3.6%, マガール語 3.3%, アワディー語 2.4%, その他 10%, 不明 2.5%(2001年国勢調査)。ただし、政府や企業、教育機関では英語が多用されている。

宗教


ヒンドゥー教徒 80.6%, 仏教徒 10.7%, イスラム教徒 4.2%, キラント教徒 3.6%, その他 0.9%(2001年国勢調査) ヒンドゥー教は長らく国教とされていたが、2006年以降国教扱いは廃止されている。

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