商品が輸送中である時、それらが輸送の「途中」にあり、私たちのところへ向って「通過している」のです。このことを知れば、もっとゾクゾクしてくるのです。このつかの間の(通過中の)世の中で、それらが私たちのところを通過する時まで、私たちの興味は何かのものに奪われてしまっているかもしれません。
ある動詞が「他動詞*1」である時はいつでも、その行為は、前置きは除きますが、その「目的語」へと渡されるという意味になります。すなわち、それを「被害者(被行為者)」、つまり動詞の行為過程の中で直接的に向かう「もの」や「人」のことです。それが、「直接目的語」と言われる所以です。良い例があります。「犬が人を噛む*2」の中で『犬』が主語、『噛む』が動詞、『人を』が「直接目的語」すなわち、その行為の「犠牲者」です。
英語では、このような短い文は、「語順」に依存しています。語順がなければ、誰が誰を噛むのかが明らかになりません。しかし、ヴォラピュクではそうではありません。この短い文をヴォラピュクでは「Dog äbeiton mani」「 Mani äbeiton dog」「 Äbeiton mani dog」はいずれも同じ意味です。もはや"in"という単語のつながりの助けがなくても、「直接目的語」へとまっすぐに渡すことができるのです。
ある動詞が他動詞(渡すことができるもの)なのか、「自動詞(助けなくして渡すことができない)」を知るのは辞書です。辞書の中に省略記号" v.i.*3”と、" v.t.*4”が示してくれます。ヴォラピュクでは、他動詞lov. (= loveädik)と 自動詞nel. (= neloveädik)となります。
さて特記事項です。"-ikön"という語尾がつく動詞ですが、これは常に「自動詞」(一般的には「〜になる」という意味を持つ)となります。これに対して、語尾"^ükön"の動詞は「他動詞」となり、「〜の原因となる」「〜することを強制する」「〜をさせる」という意味になります。つまり、
自動詞(v.i.) | 他動詞(v.t.) |
---|---|
Finikön = to come to an end | Finükön = to bring something to an end |
Lifikön = to revive | Lifükön = to revive (someone) |
「〜である」とか「〜になる」という意味の動詞は実際にその意味になる語幹として、とても便利なヴォラピュクの「単語成分」として利用されるかもしれません。
「どこから?」と「どこへ?」に関して言えば、ヴォラピュクの表現は、簡単かつ理論的で、語尾の"-ao"(どこから?)と"-io"(どこへ?)を使います。例えば、"domao"(家から)、"domio"(家へ)となります。
最終セクションでは、もうすこし「接頭辞」と「接尾辞」を扱います。これらは前に「ついでに」に触れていましたが、願わくは学習中に「通りすぎてしまった」道にならないようにしてほしいものですね。
けれども、学習中にはとてもおもしろい練習問題がありますよ、そう思うでしょ。
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