―――― 【 創作文章 ： ＰＥＲＳＯＮＡ３ 】 （ ０７／４／２６ ）
指名を受けて、
二度と口走る事も無いであろう或る特定の人物に関する三桁の数字を解答。
例によって――毎度の如く、ささやかな感嘆と厳かな納得はさながら波紋のように同心円状に広がり、教室内の乾いた空気にくまなく染み入った。彼が放った解答に半分は感嘆、もう半分は苦渋の表情を閃かせつつ、壇上の先生が深々と被っていた兜の緒を解いて机上へと安置すると教室内の小波は瞬く間に波濤へと急変し、ざわめきの成分は完全な感嘆で独占される。【さっすが学年トップ】、【小野センセって噂通り髪の毛アレだったから兜で隠してたんだァ】、【つーか政宗って意外とおチビさん？】等と言った言葉が跳ね回る中、解答した当の本人だけは寒凪の面持ちを崩さずに淡々と着席した。
右脇腹に点描されるのは、微かな痛み。右隣へと振り向くと、シャープペンシルを指先に抱えた順平が無言のまま小テストの答案をこっそりと翳し、次の問題の解答を要求して来ていた。確かに今日の流れから行くと、次は順平が指名される順番となる。そこで彼は兜を脱いで居心地の悪そうな――今更言うのも何だが、【この問題を正解した生徒がもし居たなら潔く兜を脱いで降参しよう】等と迂闊な宣言をするべきではなかったのだ――小野先生の視線が枯木立ち並ぶ窓外へと外れた一瞬を見計らい、順平の差し出したほぼ白紙の小テスト答案を受け取る。解答欄に【××××】と急ぎ足で漢字四文字を綴って返却すると、順平は親指をぐぐっと突き立てて感謝の意を表した。
自分の解答順は問題無くやり過ごしたのでもうこの時限中は怠惰に過ごしても大丈夫だろう、と判断。速やかにうつ伏せに移行しようとした時、マナーモードに保ったままの携帯がポケットの中で微動する。学校の中で稼動したのは今月に入って初めてだと思いつつ取り出すと、それは右隣の誰かさんからのメール着信だった。再度そちらへと振り向くと――指名を受けて屹立した順平が、自分自身の答案をじっと凝視しつつ時間を浪費している。だらんとぶら下げ机の下に隠した片腕には、携帯が握られていた。変換の暇も隙も無かったのだろう、【よみかた、しらねー！】と記された簡潔極まりない文面が、問題の本質を余す所無く抉っている。
とは言え、小野先生の視線は既に順平に固定されている。その隣に座っている自分もしっかり視界の範囲内で返信出来る状況ではない。その致命的な配置を認識した順平はやがて覚悟を決めたようで、滅多に見せた事の無い”漢”の面持ちと共に、閉ざしていた口を開いた。
程無く、
【……なんつーかさ、市町村合併で消えたどっかの町っぽくない？】と、前の席のゆかりからメール着信が入る。これ以上削り落としようの無い簡潔な同意だけを打って返信し、彼は残り十数分の授業時間から速やかに撤退した。
脳裏に点灯する、”しくらじょう町”の文字。
成る程、確かに【有り得なくは無い】かも知れないと感じつつ――意識は緩やかに暗転する。
液晶に染み付いた指紋の痕を照らす蛍光灯の光芒は、突如被さった影に追い立てられて退散した。
午前と午後に挟み込まれている昼休みの休憩時間――購買で入手した昼食を食べ終え、特に用事も無かったので午後の授業の予習を行っていた彼は、操作していた電子辞書を横合いから伸びた手に奪われる。口の周りに焼きソバの断片を張り付かせたままの順平の単独犯。【お前が一番努力してんじゃ俺達の追い付く可能性ナッシングじゃねーか】、と愚痴とも感心とも断じ難い台詞が、その口から新たに零れ落ちた。
そのまま興味を無くし返却する、と考えていた彼だが、順平は意外にも興味深くしげしげと細部まで眺め回している。理由を聞いてみるとそれは単純で、どうやら二年次からの中途転入だった彼の電子辞書――学校から全員に費用一部負担の上で配布される支給品――は、高等部入学時に配布された順平達のそれよりも新型らしい。メーカーもシリーズ種類も同じだが、型番の数字が少しだけ加算されているようだ。順平が自分の電子辞書をポケットから抜き出し、渡して来る。いっそ清々しい位に使い込まれた痕跡が見当たらない佇まいは、どちらが新品かの判別すら危うくさせる。
二つ折りを開き、起動。内蔵されている辞書・辞典類が整列するメニュー画面から取り敢えず最も一般的である広辞苑を選ぶと、彼は【ヒストリー】と題されたボタンを押してその履歴を呼び出した。一画面にも満たないスクロール不要の履歴は、確かに外装の有り様と一致している。と、【……え、そんな便利な機能アンの？】と順平が驚きを漏らす。履歴機能の存在そのものを今の今まで知覚していなかったらしい当人はまず驚嘆し感心した上で、丁度今持っている”彼”の電子辞書の履歴を調べ始めた。同じく広辞苑を呼び出し、中央下部に漢字検索用の小型液晶パネルが配置された所為で自分のそれよりもほんの少し位置がずれ小型化されたヒストリー・ボタンを押してみる。
瞬時に呼び出された、過去の検索履歴。
膨大且つ雑多なジャンルの単語が、スクロール必須の大行列を上下に形成していた。
矢印のボタンを操作し暫く履歴の行列に見入っていた順平は、やはりと言うか何と言うか、【つまんねーなー、青春時代真っ只中の高二にもなってそっち系の単語一つ調べてねーなんて、人生の半分以上損してんぞ？ マジ大損】と言い述べる。どうやら本気で落胆しているらしい順平に対し生温い苦笑を差し出しつつ、彼は一瞬だけ、履歴に残さずに”それらしき”単語群を調べる方法が存在する事を教えるかどうか迷った。そして当然ながら、その迷いは一瞬で消し飛んで自分の中に住まう”天使”に駆逐、殲滅される。
と、順平は立ち並ぶ単語群の中から、一つ気になる単語を見つけたらしかった。液晶を眺めつつ、【へー、英語じゃあのブランドの事こー発音すんのか】と妙に根深く納得している。
彼はそれがどの単語の事を示すか、知っていた。
余す所無く、余り有る程に理解していたが、その話題に食い付いて無理やり発展させるような真似はしなかった。順平がその単語を暫しの間凝視し、やがて興味を無くしてページを新たにスクロールさせる様子を――ただ、着席したままじっと眺め上げ続ける。
そして電子辞書は閉じられ、彼の手へと返された。
程好く弛緩した教室の空気は、波紋の予兆を丸ごと飲み込んでたゆたい続ける。そこに換気の為に開け放たれている窓から如月を体現するような涸れた風が断続的に吹き込み、攪拌されて行った。
――別に、自らその話題に食い付いて発展させても良かったのかも知れない。
そもそも、こうして”辞書の履歴をうっかり閲覧される”可能性を考えていたからこそ、わざわざ履歴に、しかも小難しい漢字や表現の行列の中でこのカタカナ四文字が一際目立つよう、調べる順番を念入りに調整していたのだ。そして予想、否、願望通り、順平はこの単語を見付けてくれた。
だから、
そこで自分のそれ以上の干渉を押し止めたのは、悪魔の誘惑にも似た願望を捻じ伏せる、天使の鉄槌を模した理性だったのだろう。”その方法で気付かせてもフェアではない”と断言する天使は、”お前が今動けばみんな目を覚ますぞ”と囁き掛ける悪魔を容易く手痛く打ちのめし、追い払った。
自分の席に座って恒例の昼寝に突入した順平から目を離し、受け取った自らの電子辞書を開く。延々と足跡を重ねる履歴の中に散りばめられた、一般の学生には無縁のカタカナ単語。その一つ一つに内包された特別な意味。 ”本人”を目の前にすれば無意識の内に口ずさみたくなってしまう甘味が、電子の文面に漂っている。
だが、悪魔は何度でも来訪し、その度に天使に追い払われて来た。全員で再会を誓い合った”約束の日”まで、決して自分からはその事柄に関しては切り出さない――そう自らに約し、自らを律し、彼はその日が来るのを待っている。
辞書を閉じて自習も切り上げ、彼は教室内を見渡した。
昼休みと言う事もあり空席が目立つ中、彼の視線は自分の左斜め前の一席へと結ばれる。今は誰も座っていない、午後からも誰も座る予定の無い空席。椅子が限界まで机に密着したその空席を眺めながら、ふと、自分の中には嘗て天使と悪魔の他にも”誰か”が住んでいた事を思い出す。何とも窮屈そうな三世帯同居だと思い掛けたが、脳内に描かれたその想像図をすぐに修正した。
むしろ、
当の”彼”自身が天使と悪魔を兼備していた――と言う方が正しいように思えたから、だった。
それは十年来の”同居人”からしてみれば、酷く存外で心外な回答かも知れない。
頬を膨らませた少年の不満と目尻を緩ませた青年の苦笑は脳裏で重ね合わされ、やがて泡沫の如く弾け、消えた。
”あの日”以来、
身体を蝕む疲弊感は――日に日にその重量感を増して行く。
特に重要な事案が存在しない事もあり、生徒会の仕事も途中で切り上げ、彼は帰路へと着く。同じ寮住まいの”生徒会長”から疲労の蓄積を見抜かれ、下校を勧められたのだ。その疲弊の理由に関してあれこれ聞かれなかったのを喜ぶべきか悲しむべきかは、今は考えず一先ず先送りにする事にした。
いつにも増して緩やかな足取りで、ポートアイランド駅へと辿り着く。
一日毎に斜度を増して行くような――無論、不変――階段を登って行く。その真ん中の踊り場に到達した所で、彼の爪先が何かと接触し前方へと蹴飛ばした。そのまま歩を進めて該当するそれを拾い上げる。掌サイズの長方形の薄紙。それはこのポートアイランド駅と巌戸台駅を結ぶモノレールの定期券だった。紙にうっすらと月光館の校章がデザインされているので、恐らくは学校が発行した生徒用の定期だろう。自分も同じデザインの物を利用しているのだから、間違い無い。
流石に、誰の定期かまでは分からない。
が、誰かが落としたからこうして自分が拾っている。
彼は特に迷う事も無く、改札の前に立っている駅員に落とし物としてそれを手渡した。物が物なだけに、落とし主も落としたまま忘れて帰る事は無いだろう――別に持ち主から御礼を言われる為に拾った訳でも無いので、駅員から自分の所属クラスと名前を聞かれてもやんわりと受け流し、改札を通過した。
そこで運の悪い事にＭＰ３のバッテリーが絶え、耳朶を癒していた音楽が途切れる。途端に、構内を行き交う人々からこの季節にそぐう程々に控えられた雑談と電子音のノイズが押し寄せた――が、何故か不快にはならない。これまではイヤフォンの防壁の外で気にも留めなかったそれらの雑音に、何故か、愛おしさすら感じる。【何故だろう？】、と、疑問符を尾びれとして帯びた疑念が、脳内をくるくると廻る。
その解答は、今日解いた日本史の小テストよりは、多分難しい。
難しいけれど、解こうと思えば解けない事は無いレベルの設問。
ただ、それを口に出して説明するのが作業として難解なだけだ。
愛おしくも鬱陶しいノイズの只中を貫き、彼の足は停車中のモノレールへと進む。発車直前と言う事もあり既に席は占領されていたので、ドアの傍の棒に片手を絡めて一息吐く。長く長く、一息がその尻尾を伸ばす。それは昨日よりは絶対に長く、明日よりはきっと短い。
ドアはまだ閉まりそうに無い。
今掴んでいる棒を軸に身体を翻し、彼は通路の方へと視線を向ける。
視界の彼方、改札の向こう側の駅前に、彼の視線は縫い付けられた。
ついさっき落とし物の定期を手渡した駅員が、その向こう側にいるらしい誰かと会話している。駅員の身体が上手い具合に覆い隠しているが、ちらちらと見える衣服の形状からして月光館の女子生徒である事は間違い無い――きっとあの定期の持ち主で、駅員に御礼を言っているのだろう。
二人の位置が微動し、女子生徒の輪郭が少しだけ精度を増す。きちんと調律された斜め四十五度の見事なお辞儀が見え、沢の水で丁寧に洗い磨かれた砂金を想起させる頭髪と成長過剰の天道虫にも似た巨大な耳当てが、彼の視界に飛び込んで来た。
駅員が振り返り、こちらの方へと人差し指を向ける。
ついさっき通過した”拾い主”を、的確に、指し示す。
そこで発車のアナウンスが構内を跳ね渡り、地を這うノイズを真上から覆い隠した。聞き慣れた電子音を合図として、車体のドアが一斉に閉じられる。
――さん、――――――――
寸前でドアを潜り駆け込み乗車したその音響は、ノイズでも、アナウンスでも無い。
肉厚の硝子越しに見える、右方へと推移し始めた駅構内。同じく右方へ推移する奥向こうの女子生徒は、彼の視界からゆっくりと消えて行く。余り言い慣れていない感じで隣席のクラスメートの苗字をなぞり、こちらに向かって御礼を言い述べたそのかんばせに浮かび上がった微笑が余りにも清澄で澱みと無縁の面持ちだった為、ではないが――彼は外界を映す硝子から視界を剥がし、混雑する車内へと向き直ってドアへと背中を預けた。
もう一度、
長く長く、
吐息を吐き落とす。
今度は尻尾の代わりに、何処か別の場所が伸びたような気がする。
それが何処なのかについては考えを巡らせぬまま、彼は真っ直ぐ伸ばしていた両足を力無く撓ませた。真向かいの硝子からは海面と夕暮れと夕陽が窺え、それを眺める自分自身の表情も幽かに映り込んでいる。
その映像から言える事は一つ。
少なくとも――口と鼻の間の間隔は、一ミリたりとも変わってはいなかった。
ただ、一ミリに満たない程度には伸びていたのかと問われれば、正確な回答は出来なかっただろう。
二月の影が伸びて行く。
三月はその軽やかな足音を巧みに殺しながら、もう、すぐそこまで、迫って来ている。
” そこでは全てが猶予されている ”
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