―――― 【 創作文章 ： ＰＥＲＳＯＮＡ３ 】 （ ０８．２．４ ）
⇒⇒ ＜ 【ｇｒ】：杵島月莉さんへ ＞
湖底から一直線に水面を突き抜けるように、意識は前触れも無く覚醒する。
顎の上まで被さっていた布団をやんわりと押し退けて半身を起こした彼は、まず机の上の時計に視線を向けた。短針と長針がほぼ零度の角度で重なっている――午前一時を少しだけ回った時間である事を認識して、そのまま二度寝へと潜水しようと身体をベッドへと戻し掛ける。少しだけ小腹が空いていたので一階へと下りて冷蔵庫を物色すると言う選択肢もあったのだが、今は速やかに寝直したい。何だかとても、心地良く懐かしい夢を見ていたような気がするのだ。たった今起きたばかりで、ミルクを垂らした直後の珈琲のように意識がなだらかな渦を巻いて混濁しているので、どんな夢までははっきり思い出せないが、それは確かに心地良く懐かしい夢。
身体をベッドへと戻し、腰の所まで押し退けていた布団へと手を伸ばす。
だが、
そこで――部屋の扉をささやかにノックする音が、一度、二度、耳朶へと届いた。
この時間帯を考えれば、部屋の中に居る人間はとうに寝付いていると考えるのが普通の感覚だろう。なのに、そのノック音は酷くささやかで控え目な、明らかに”寝ている人間を起こさないような”配慮が拳の表面にコーティングされた音質だったから、彼はベッドから降りて扉へと向かう。もしかするとこの密やかなノック音を聞き取ったから目を覚ましたのかも、と考えつつ扉を開けると、そこで、一際大きなノック音が響き渡った。
「あッ」
一拍の猶予を経て、開いた扉の向こうから声が届く。
扉を完全に開けると、そこには、拳を握り締めたまま一歩後退し、水色の双眸を常日頃より少しだけ大きめに見開いている制服姿のアイギスが立っていた。もう一度ノックしようと拳を振るった所で突然扉が開いたので、あのような音が発生したのだろう。その騒音に対してなのか、こんな時間に部屋を訪れた事そのものに対してなのかは判りかねるが――彼女は咄嗟に目を斜め下に逸らしつつ、謝罪する。
「……ご、ごめんなさい。こんな時間に部屋を訪れるなんて……その、迷惑でした、よね」
迷惑だったかどうかを彼に思案させる暇も与えず、アイギスは言葉を続ける。
「あの、特に緊急の用件ではないので、これで失礼します。起こしてしまって済みませんでした、おやすみなさい」
そう言って速やかに踵を返す彼女の背中に向け、彼もまた、咄嗟に事実とは違う言葉を繋げた。
「いや」
「え？」
「ずっと起きてたから。迷惑は、してない」
その言葉を聞いて足を止め、振り返って来たアイギスに向け、彼は寝癖が頑強に自己主張している後ろ髪をさりげなく手で撫で付けながら用件を尋ねる。彼女の視線が明らかにそのさりげなくない手付きに注がれている事は、取り敢えず意識しない事にした。
アイギスは己が用件を話すべきかどうかを暫し逡巡していたようだったが、やがて、その口を開く。
「その……あの、借り、に」
「借りに？」
「あの、もし良ければ、各教科のノートを朝までお借りしても宜しいでしょうか――あ、いえ、今お使いになっているのなら勿論お断りして下さって結構ですから！ ごめんなさい、やっぱり失礼します」
そうして再び立ち去り掛けた彼女に、今度はしっかり大地に根を生やした意識と共に「どうぞ」と許可を出す。自分の机の上に整然と積み上げられている各教科の筆記ノートを取り上げ、そこで漸く、来月の中旬に二学期の期末試験が控えている事を思い出した。
学生としての重大事項を、このように忘れてしまっていたのも無理は無い事のように思える――この一ヶ月間は、それだけ、海馬に待機させておくべき種々の試練に”恵まされた”一月だったから。そして事態は解決どころか、糸口も糸の端も見えない停滞の一途を辿っている事も、今更ながら思い知る。
そのような状況だったから、彼女が学校での授業に集中出来ていなかったのも無理は無く、むしろそれが当然の事のように思えてくる。
「本当に、ありがとうございます。朝、出撃……いえ登校する前にはちゃんとお返ししますね」
主要教科のノートを受け取ったアイギスが、深々と丁寧な辞儀で謝意を表す。
「熱心だね」
「はい、その、鳥海先生から【前回の試験の結果に関しては目を瞑ってあげるから、今回はノルマ全教科７割以上目指して頑張るのよー。幾ら転校生大増殖で個性が薄まる事を危惧してるからって、試験の点数で自分の個性を際立たせるなんてのは御法度だから】と厳命されてますから」
「…………」
確かにあの人ならそれ位の発破を掛けかねない、と、彼は納得する。
そしてその場でアイギスは、「もしも明日提出の課題プリント等が挟まっていたら大変ですから」と、それぞれのノートをぱらぱらとめくり始めた。現代文や数学、物理に化学、それぞれに記された彼の筆跡を目で追いながら間に挟まっているかもしれない夾雑物の有無を確認して行くが――その目と手の動きが【英語】のノートの所で格段に鈍くなったので、彼はその理由にふと興味を湧かせて、問い掛けてみた。
「――英語、苦手？」
「え？ あ、いえ、本来ならわたしの論理プログラムを構成している既述言語はアルファベット記号がベースなのでこの言語には違和感を生じない筈なんですが……その、わたしは、あくまでも対シャドウ非常制圧兵装としての存在ですから」
自嘲とも自噴とも取れる、いつもより音質を劣化させた言葉が続く。
「授業で教わるような”非戦闘用”の言語は、どうしても認識の速度と精度が鈍ってしまうんです。これが、例えば【古文】のような、わたし本来の既述言語と異なる全く未知の言語なら、先入観を持たずに一から覚えられるんですが」
「そう」
彼女の言葉に軽い相槌を打って、彼は脳裏に幾つかの英単語を招聘した。
「ＡＷＡＣＳ」
「空中早期警戒管制システム」
「ＧＨＱ」
「総司令部」
「ＳＡＭ」
「地対空ミサイル」
「ＡＧＭ」
「空対地ミサイル」
「Ｈｅａｒｔｂｒｅａｋ Ｏｎｅ」
「”大尉”の事でありますね。無事で良かったであります」
全ての単語を正確に解答したアイギスに対し、彼は閉ざした唇の裏側で舌を巻いた。特に最後の単語は、自分がつい最近プレイした空戦ゲームに出て来たある種”架空”の単語なのだが――兎も角、自身で言っている通り、軍事関係の単語は完璧に近い精度で記憶している事は間違いない。
そして今度は幾つかの”非戦闘用”、つまりは通常一般の英単語を出題してみたが、こちらもまた自身で言った通りの何ともぱっとしない正解率となった。
そこで、彼はある物の存在を思い出した。
部屋の中へと戻り、机の上を漁ってそれを見付け出す。キーホルダーのような金属製の環に、掌にすっぽり収まる程度の長方形の紙が大量に通されている。表側に日本語、裏側にそれを表す英単語が記されているお手製の【単語帳】をアイギスに渡すと、彼女は再び謝礼を述べた。
「あ、ありがとうございます。……手作りなんですね、これ」
当人の印象と違わぬ線の細い文字が綴られている単語帳を、彼女は一枚一枚興味深げにめくって行く。
そして単語帳の中程、とある日本語へと差し掛かった所で、淡々とした面持ちでそれを眺めていた彼の表情に微細な小波が生じた。その僅かな違和を目敏く認識したアイギスはそこで紙をめくる手を止め、「――あの、どうかしましたか？」と問い掛けてくる。
首を緩やかに左右に散らし、”どうもしていない”と言う意思を表示はしたものの、流石に彼女はその意思表示を額面通りには受け取らなかったようだ。二つの湖面を僅かに狭め、こちらをじっと見据えるアイギスに向け、彼は微苦笑の理由を――告げる、その前に、問い掛けた。
「分かる？」
「あ、この日本語を表す英単語、ですか？ ええと――」
十秒と少しの時間を経て、解答される。
「……グ、【ｇｒａｎｄｃｈｉｌｄ’ｓ ｈａｎｄ】、でしょうか」
その解答に対し、彼は先程よりも少しだけ速く首を左右に振った。つまり、不正解と言う事だ。
正解の英単語を求めているであろうアイギスに対し、その解答を告げる、その前に、先程の微苦笑の理由を語る。
「昼間の事を、つい、思い出したから」
「……え？」
彼の脳裏に浮かぶのは、学校、月光館学園での、何とも他愛無い休憩時間のある光景。
次の授業の教科書とノートを取り出して簡単な予習をしていた所に、二人のクラスメートが寄ってきて根も葉も身も世も見受けられない与太話が始まり、その中で片方の青年が机上の単語帳を取り上げ、たまたま見付けた日本語を自信たっぷりに英訳した――その光景を思い浮かべつつ、微苦笑が蘇生した。
「望月も今のと同じ回答をしたな、って」
「……綾時さんと同じ、回答、ですか？」
疑問符へと近付くにつれ、加速度的にアイギスの表情と口調から色彩が失われる。
それは嫌悪と言う単語で片付けるには余りにも安直過ぎる複雑な構造を成していたが、彼には今でもその理由は分からない。初対面からずっと続いている緊張関係（尤も、あちらの方はノルマ以上の好意を抱いているようだが）を解消させる手掛りは、なかなか見付からないのが実情だった。
「それは偶然です。わたしと、あの人には、何の共通項も存在しません」
きっぱりとそう言い切り、彼女は話題を本線へ戻す。
紙の裏側へと目を向けて、正解の英単語を確認した。自身が先程答えたそれとは似ても似つかぬアルファベットの並びである事に多少の落胆を覚えたようではあったが、それよりもこの日本語と英単語との間に横たわる意味の齟齬への興味が、落胆を上回ったらしい。「互いの利益を計り合い癒着する事が、どうしてこのような表現になるんでしょう……奥深い言語ですね」と、結構真剣な感心と共に考え込んでいる。
そうだね、と相槌を打った彼に対し、アイギスは表情の険を幾分和らげて頷いた。
そして彼の肩越しに見える室内の時計から、自分が随分この場に長居をしてしまった事に気付いたらしい。朝早くに帰しに来ます、と告げ、慌しく場を辞して三階へと上がって行った。
その去り際に、
「偶然ですから。わたしと綾時さんには、何の共通項も存在しませんから――信じて下さいね。お願いします」
と言い残したのは、何とも彼女らしいと言うべきだろうか。
それとも、”らしくない”と、首を捻るべきだっただろうか。
そこに明確な解答を見出すその前に、階段を上る重厚な足音はぱったりと立ち消え、やがて深夜にそぐう静謐が場へと舞い戻ってきた。彼はそんな思索を廊下へと放り出し、部屋の扉を閉める。
（――――どちらかと言えば）
そこで頭の中が泡立って、ふわりと言葉が浮き立った。
（猫の方が、いいな）
彼はそんな言葉を脳裏に浮かばせながら、二度寝する為にベッドへと潜り込む。
あの二人の間に横たわっている、この日本語と英単語のような決定的な食い違いを無くす為には、そちらの”手”の方がより適切なように思えたのだった。
” 場合に応じた、手の借り方 ”
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