―――― 【 創作文章 ： ＰＥＲＳＯＮＡ３ 】 （ １０．５．１４ ）
十分だけ待ってくれるかな、と。
いつでも登校できる服装に既に着替えていた彼は、それでもまだ大事な何かを準備し終えていなかったのか――部屋に入ってきた彼女に向けてそんな頼みを差し出す。何が足りないのかを視覚で把握しようとした所で、少女の視線は部屋の窓際の机上へと吸い寄せられた。起動中のＰＣの傍らで、パソコン本体とＵＳＢ接続されている“あの物体”が、規則正しい明滅を繰り返している。
そこから導出できる誰何は一つだった。
「――充電中なんですか？」
「うん」
昨日の晩にうっかり充電し忘れちゃってね、と、少年は色彩の淡い苦笑を顔に塗り付ける。
そして充電は三分に短縮された。
学園に登校するモノレールの発着時間の都合を鑑みた、合理的な判断だ――彼女のその提案に対し、他の事例よりも心持ち長めの逡巡を見せたのは、何処から見ても何処まで行っても彼らしかったと言えるのだけれど。
学生たちの本来の登校時間からは外れている所為か、通りを行き交う質素な人波の中に自分たちのような制服姿は殆ど見当たらない。生命の生える春の到来を祝うにはいささか手厳しい体温を備えた涼風が、開店前のパチンコ店の前に立ち並ぶ宣伝旗を揺さぶっている。主婦達が開いている路傍のサミット――生ゴミの日に限って夫が急ぎ足で出勤する謎、ですらない怠慢について――の横を、野良猫が実に興味なさげにひょこひょこと素通りして行った。
昨日までの世界とさほど変わりはない。
明日以降の世界とも、そんなには違わないだろう。
それでも、“約束”を思い出したアイギスにとって、視界一面に広がるその景色は全てが鮮やかな配色の妙として見えている。視覚の画質設定に不備が生じた形跡はないし、そもそも最初からその部分の故障を疑ってすらいない。これは紛れもなく、自らの意識が能動的に獲得した変化なのだ。
周囲の光景の一つ一つを感慨と共にブックマークしながら、通学路を歩き行く。やがて交差点に差し掛かり、赤信号を視認して立ち止まった所で、彼女は真横にいる筈の誰かさんが自らの視界に入っていない事に気付いた。
真後ろへと振り返る。当の“彼”は、十メートル程後方――アイギスのそれよりも一回り二回り落とした緩い回転の歩幅で、歩いていた。
充電したての音楽を聴きながらのんびり歩いているからだろうか、との第一次の誰何は早々と斬って捨てられる。寮を、いや部屋を出たその時点で、イヤフォンは耳には被さっていなかった。当然、今も被せてはいない。視界が方々に浮気している訳でもなく、真っ直ぐ、彼女の方に視線を向けている。
第二次の誰何には、そこそこの自信があった。彼が追い付いた所で、尋ねる。
「……もしかして、具合が悪いんですか？」
「いいや」
今度は自分が斬って捨てられた。ちょっと考え事をしてただけ、と、毒薬以外の全てになり得る実に模範的な回答を返される。そこで信号が赤から青へと切り替わった――二人は歩調を揃えて、白い塗装が白髪の白さに負けているくたびれた横断歩道を渡り始める。
アイギスの隣で淡く弾けたくしゃみの音が、信号が鳴らすＢＧＭに押し退けられ、吹き飛んだ。
巌戸台駅前の一帯は、良く言えば自由奔放、悪く言えば無計画の模範例と言って差し支えない程度には乱雑な道路網だ。車の往来はそれほどの量でもないのに、数多くの交差点と信号機が集い、契って、巣食っている。
だから、“それ”が四度、五度連続したにも関わらず、相変わらず駅までの距離は残っていた。そして恐らくは、それは駅に到着するまで連続し続けるだろう。気になる、と言わなければその違和感は膿になり、気にならないと言えばはっきりと嘘になる。
「あの」
次の交差点まではまだ少し距離のある路上で、アイギスは彼にその違和感をぶつけてみた。
「もしかして……“計って”、歩いているんですか？」
彼女の指先が、次の交差点の信号機へと向けられる。ＬＥＤ仕立てに新装された交通制御の番人は、瑞々しい緑色を春先の世界に存分に振り撒いていた。指先の軌跡に従ってその光景を眺め見た彼は、アイギスに向き直ると、こくりと頷く。
歩行者用の信号機には、信号が切り替わるまでの時間がバーの増減で表示されている。どうやら、【彼が信号機に到達するとほぼ同時に信号が赤から青に切り替わる】偶然のからくりは、ただ単に表示を意識しながら意図的に歩行ペースを調整していただけのようだった。
「そうだったんですか。……そうですね。確かに、あれを確認しながらスピードを調節して行けば、交差点で無為な時間を過ごさなくてもいいですし」
そんな感想を呟く。
と同時に、意識の何処かから、今の言葉――今の文字列に対する“既視感”が浮き上がるのを感じた。
「…………」
その沈黙は、既視感の正体を掴みあぐねている事だけが理由ではない。
掴みあぐねている事に軽い困惑を感じている自分を、彼がじっと見つめている事も――いや、むしろそちらの方こそが沈黙の主原因だ。“わたし”を見つめているその視線が、先程までの、常日頃のささやかに凪いだ無感情の棺桶から片足と両腕を突き出した、“何とも興味深げに眺めている”属性を備えていたからだ。
やがて、観察し続けていた彼の口が開く。
「そうだね」
はっきりとした微苦笑（矛盾している気もするけれど）を見せながら、言葉を繋げる。
「確かに、あれを確認しながらスピードを調節すれば、交差点でぼうっと立ち止まらなくてもいいから」
「……、――あ、ッ？」
既視感の根っこを見付け、根こそぎ引き抜いた。そこに記されている記憶の日付は、まだ冬が始まる前の、とある日。
うん、
――元々は僕が言った台詞だから、と彼は口の端をもう一巻き緩める。
アイギスは引き抜いたそれに関連する周辺記憶も収集し、“その時”の記憶を詳細に想起した。そう、確かにあの日も、今日と同じように二人で通学していた。そしてその時は“先を行く” 彼の後姿を眺めながら、自分は信号機のバー表示と体内時計とその他諸々の観測・計測機能を駆使して交差点での無駄な待ち時間が生じない、なるべく立ち止まらずにこの機体を円滑運用できるよう試行していたのだ。そんな彼女の行動に疑問を感じたらしい彼が“さっきの自分”と同じように信号機を指し示しながら理由を尋ねてきたので、自分はそれを肯定した。
「――『あの交通制御設備を参考にしているであります』……です、か？」
「そうだね。うん、そんな調子だった」
思い出し笑いには程遠いが、それでも思い出しながら笑んではいるのだろう。彼は頷いた。
そして話題が唐突に切り替わる。
「自転車に乗った事はある？」
「……え？ 自転車、ですか？ ええと――」
予想外の単語の登場に思考回路がうろたえる。回答自体はすぐに用意できたが、質問の真意は分からない。
「“乗れた”事はありません。一度、真田さんが普段トレーニング用に使っている自転車に乗ってみようと試みた事はあるんですが、あのですね、その……自転車の積載限界が、わたしの、総重」
「あ――ごめん。その先は言わなくていい。その話は先輩から聞いて、知ってる」
何故かとても申し訳なさそうにアイギスの言葉を遮った彼は、自らが切り出した話の続きを始めた。
それは平たく言えば、彼の過去の思い出の開示だ。
そして際立った特徴がある特異な代物でもない。強いて特徴を挙げるなら――それは、【なるべく立ち止まらずにその機体を円滑運用できるよう試行していた】、という事だろう。小学校に上がりたての頃、親から初めて買ってもらった自転車で、“赤信号に引っ掛からずに何処まで遠くに行けるか”に挑んでいた――ただそれだけの微笑ましく、愚かしく、そして微笑ましい思い出話。
ただ、その思い出話には肝心な箇所が抜け落ちているように思えた。その部分を問う。
「……ええと、それで」
「何？」
「結局、“何処まで行けた”んですか？ 何回挑んでも、何個目かの信号で引っ掛かってアウトになるって所まででお話が終わってしまっているので、気になります」
「気になるかな」
「気になります」
――それは特に奇抜な結末じゃあないんだけど、と呟きながらも、彼は結果を教えてくれた。
「“何処までも行ける”事に気付いたから、そこで止めた」
「え？」
彼は行く先の信号機を指差した。
「その頃は勿論、あんな表示バーなんてなかったけど。諦めずに挑戦している内に信号の間隔が大体分かってきて、途中でスピードを調整しさえすればどの信号にも引っ掛からずに進める、って事が子供の頭でも分かってしまったら、急に熱が冷めたんだ。……まあ、実際に何処までも行った訳じゃあないんだけど、ね」
その独白に対して、アイギスは、自分でも不思議に思うほど滑らかに反応する事ができた。
「……つまらなかったですか？」
「うん」
とてもつまらなかった、と彼は即答し――「勿論、君の存在意義を否定している訳じゃあない」と彼女“そのもの”に対するフォローを文末に継ぎ足した。その配慮がある意味で彼“らしくなかった”から、アイギスは表情を緩和させて遠慮の控えめな、割と明確な笑みを浮かべる。
「良かった。わたしも」
一定の間隔で一つずつバーを減らして行く信号機を眺め、彼女は呟く。
「わたしも――“今のわたし”も、それは、とてもつまらない事だと、思いましたから」
対シャドウ兵器としての自身の役割は、あの対決の日で終息した。
そして今この瞬間を“生きて”いる、生きる事を目的としている自身にとって、立ち止まる事無くひたすら前に進み続けるという事は、実はさほど重要な事項ではないのだろうと、今更ながら思う。だからこそ、あの記憶の日のような合理的な速度調整を行わずに――【一秒でも早く“約束の場所”に着きたい】衝動に従順に、知らず知らず歩みを速めていたのだ。
（……ありがとうございます）
感謝の言葉が、自然と、意識の胎内に染み渡る。
彼はきっと、それを気付かせるためにわざとあの日と逆の立場を演じてくれたのだろうと感じた。尤も、直接それを尋ねて感謝したなら、当たっているにせよ外れているにせよ彼はやんわりと全て受け流すのだろうけど。
そんな事を考えながら、アイギスは真横に向き直った。
誰もいない真横から、後方へと更に向き直る。ついさっきまで真横にいた筈の彼は、いつの間にか数メートル後方へとその位置をスライドさせていた。「あの、もう大丈夫です。わたしはちゃんと理――」まで繋いだ言葉は、後方の彼が発した言葉によって遮断される。
「ごめん。……ちょっとだけ、嘘吐いてた」
「え？」
先程よりも更にゆったりゆっくりな歩幅で彼女に追い付きながら、彼は苦笑した。
「生活のリズムを最近は乱してて、実は今、ちょっとだけ具合が良くない」
「………………」
思考と言葉が一蓮托生的に同時停止する。
正常復帰した思考が、彼の言葉の意味をよく咀嚼した上で、結論を予測する。
「――じゃあ、わたしよりも遅れて歩いている一番の理由は」
「うん。ただの、体調不良」
予測通りの結論がパンドラの箱から飛び出した。希望も一緒に飛び出して、その行方は杳として知れない。
この状況に対してどのように不満の意を示すかを熟考した結果が【口腔内の左右の空洞部にありったけの空気を溜め込む】だった事について、違和感や後悔は何一つない。恐らくあの記憶の日でもそうだったろうし、遥か未来のいつかにそれが起こるとしても、そうなっているだろう。
青の時間のバー表示が残り少なくなり、次の交差点の信号が点滅を始めた。
「……あ」
それに気付いたアイギスが、声を上げる。全般的に待ち時間は短いこの近辺の信号群の中で、あの信号は特殊だ。真横に交差している道が大通りのため、一度赤になると二、三分は待たないといけない。所謂【開かずの信号】だった。
「あの信号に捉まると、次のモノレールに間に合わないかも。急ぎましょう」
「そうだね」
駆け足に意識を切り替えたアイギスは、一歩目を踏み出そうとして――後ろへと振り向いた。
鞄を持っていない方の手を、彼の手が、やんわりと握り締めている。
やんわりからぎっちりに握力のギアを切り替えた彼が、こう呟いた。
「転がって引き摺られない程度に引っ張っていってくれると、とても助かるんだけど」
彼女は微笑みながら応答する。
同じだけの握力でしっかと握り返しながら、応答した。
「――引っ張っていくより、わたしが直接抱き上げるのが、一番確実な方法だと思いますよ？」
――――――――そのどちらにせよ、
スピードは
際限なく
高まっ て
” Ａｅｏｎ Ｔｒａｎｓｆｅｒ Ｐｒｏｔｏｃｏｌ ”
↑ 【 Ｓｉｔｅ Ｔｏｐ 】 ↑
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