あの高みへ翔べ
イエローはふと空を見上げた。
肌に熱気を感じるようになってきた時分、空には一面雲がかっており、青というよりは白に近い。
短く伸びた影はそれが雨を呼ぶほどの程度ではないことを示していた。
その下に、イエローはいる。
静かな場であった。
近くを流れる川の水音と風がこずえを揺らす音しか聞こえない。
彼女の長い黄金色の髪が風に遊ばれてたなびく。
日に透かされた葉の深緑を眺め、彼女は目を細めた。
その生命力溢れた優しい色に自然心がなごむ。
初夏の植物に成長は素晴らしく、その緑は彼女の頭上わずかのところまで垂れ下がっていた。
こんなに葉が付いているのに枝がしなって折れることはない。
自身相応というものを分かっているのだ。
イエローはその緑を眺め、不意に子供心がわいた。
緑の葉、手を伸ばしても届きそうにないが、跳べば届くかもしれない。
まだ色彩鮮やかなその緑に、彼女は触れたくなった。
目算をつけて、三歩下がる。
余分を持って、あと二歩。
深呼吸して、駆けた。
足を踏み切って、弓なりに宙を舞う。
手を伸ばす、求めるものに向かって。
―――それは彼女の指先のはるか頭上でわずかになびいただけであった。
着地。
イエローは無言で、惜しげに宙を仰いだ。
無理だった。
ポケモンの力を借りれだ容易に届こうが、こういうことは自力でやらないと意味がない。
彼女は恨めしげな視線を天に向けて、頭をたれた。
「ムー」
うめく。
その場でジャンプする。
助走しても届かなかったものが、それで届くはずもなく。
彼女の頭上で若葉は悠々と風に揺らいでいた。
何となく後に引けない心地で悪あがきを続けていると、何処からか忍んだ笑い声が上がった。
「がんばるなぁ」
聞き覚えのあるその声に、彼女は身をひきつらせた。
木の陰から一人の少年が姿を現す。
黒髪、赤眼の少年は、こらえるような笑顔を作りながら彼女の前に現れた。
「レッドさん―――！？」
彼女は叫ぶ。
頬に血が上るのを必死に隠した。
バカみたいに跳んでいた場面を見られていたかと思うと何となく気恥ずかしい。
両頬に手を添えて、彼女は恨みがましく彼を睨み上げた。
「・・・いつから、見てました？」
「イエローが思いっきりジャンプした当たりから」
「・・・・・・」
始めからだった。
彼女は唇を尖らせて彼を見る。
「いるんなら、声をかけてくださいよぅ｣
彼は悪びれず笑った。
「なんとなく、かけづらくて」
彼は彼女の隣に立ち、頭上の緑を見上げた。
「あれが欲しいの？」
そうじゃないですけど、と彼女は首を振った。
触れようとしただけだ。
しかし彼はそれは構わないようだった。
二歩ほど下がる。
何をするつもりなのか悟って、彼女は唇を尖らせた。
不意打ちの声掛けを、未だに根に持っていた。
「レッドさんなら、簡単に届きますよ」
彼は彼女より頭一つ分は高い。
彼女にとってはすれすれで届かないその距離を、彼が届かないはずがない。
彼は曖昧に笑って、足を踏み切った。
助走もなし、力強く大地を踏みしめて彼の体は空を飛ぶ。
彼女が到達できなかった高みへあっさりと到達し、その先端にある緑を掠め取った。
細い枝がしなる。
ぱらぱらと葉が落ちてきて、イエローは慌てて木の下から離れた。
着地したレッドは降りかかる葉を振り払いながらイエローの元に歩んだ。
「はい」
差し出された緑の若葉を、彼女は微妙な気持ちで受け取った。
むずがゆい嬉しさがこみ上げてくるが、それよりも今は悔しさの方が勝っていた。
「・・・くやしいなぁ」
ぽそりとつぶやくと、彼は赤い瞳を彼女へ向けた。
その瞳を羨ましく見上げる。
彼にこの気持ちはわからないだろう。
「ぼくは、いつか絶対大きくなるんですから・・・！」
葉を持っていない手で握りこぶしを作る。
「目指せ、グリーンさん！」
レッドよりグリーンの方が背が高い、それは二、三センチの差なのだとしても。
レッドより背の低い彼女にとって、グリーンははるか高みだ。
レッドは苦笑をうかべて、彼女の頭に手を置いた。
「・・・たぶん、グリーンは無理なんじゃないかなぁ」
「・・・どうしてですか」
ともすれば頭の上に彼の手がのせられている、それだけで怒りがなえそうになる時分を鼓舞して彼女は言った。
人によっては成長期を過ぎても背が伸びることがあるのだ。
成長期、自分。
絶対負けない！
彼女の琥珀の瞳が決意で燃えた。
それを見て、彼はポツリと呟く。
「だって、女の子だし―――」
「えっ？」
彼にとっては独り言だろうが、彼女の耳は捉えた。
彼女の頬が朱に染まる。
女の子扱いされて嬉しかった、こんな場面でなければ。
女であることのコンプレックスを逆撫でるのは、このような場面のときである。
彼女は笑うべきか怒るべきか決めかけて、結局どちらも両立させた。
「分かりませんよ？ 女の子だってグリーンさんぐらい高い人はいます。ぼくだってそうなれるかも」
「いや、それはこまる」
「なんでです？」
「おれの、男の沽券にかかわる」
憮然と彼は言った。
その様子がおかしくて彼女は笑った。
むくれていた気持ちもそれで氷解した。
彼女は頭にのせられた広い手に、そっと手をかぶせた。
やんわりと解いて見上げる。
「それじゃあ、目指せブルーさん、で」
「それはやめてくれ」
すぐさま彼は答えた。
彼女は眼を瞬かせて。姉のような存在を思い浮かべる。
「・・・ブルーさんに知られたら、怒られちゃいますよ？」
「ばれなきゃいいんだよ、ばれなきゃ。ここにはメアリーもミミアリーもいないし。・・・イエローも、言わないでくれるよな？」
そう言ってウインク。
イエローの心臓が跳ね上がって、胸に心臓を押し当ててそれを押さえて早口で言った。
「じゃ、じゃあ、ナナミさん、で」
「ん、いいんじゃない？」
あっさりと同意された。
上がった熱が一気に氷点下まで下がった。
別に『イエローはイエローのままでいい』と言って欲しかったわけではない。
ただ―――。
彼女はにっこり笑った。
レッドもつられてへにゃりと笑う。
彼と彼女の手は重ねられたままであった。
イエローはその手に力を込める。
レッドは眼を見開いた。
イエローはその手を親指と人差し指で思いっきりひねっていた。
「―――っ！！？」
「あら、これ手作り？」
ブルーは細い指先でそれをつまみあげた。
プラパンで作られた簡易なしおりだ。
中には若葉が挟まれている。
イエローはうなづいて、手にした本を閉じた。
ブルーから借りた本、題名、『女のいろは』。
「これは、決意の証なんです」
「あかし？」
「はい」
イエローはうなずいて、ファイティングポーズをとった。
「打倒、ナナミさん！！」
「―――はい？」
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