okakuri 4

「……それじゃあ、この位相波の違いはどう説明するのよ」
「それは時間の経過による誤差だろう」
「じゃあこっちは？　これは同じ時間の経過でも誤差は許容範囲内よ」
「それは……わからん」
「媒質も気温も同じ。でも結果だけが違う。こうなると、条件設定からやり直しね」
「むう………どこで間違ったんだ」

　私、牧瀬紅莉栖は、今、日本にいる。
　拠点は変わらずアメリカだけど、脳科学研究の発展のためという名目で、姉妹校の大学と、国内の研究所に出向してきているのだ。
　出向期間は半年。今回は割と長い日本滞在になる。
　半年もの間、ママを一人アメリカに置いていくのもどうかと思ったけど、本人曰く、今の世の中、通信手段はいくらでもあるので必要になったら連絡をくれればいいとのこと。
　自分の子の進路に理解のある親に感謝である。
　でも最近は理解がありすぎるところが、悩みと言っては悩みなのだが…

「そもそも、この前提が違ってるんじゃない？　t=0じゃなくて、0.25じゃないの？」
「0.25？　それは刻みすぎだろう。　あ、いやしかし、それでもいいのか…」
「再計算してみなさいよ。結果が変わってくるはずよ」

　その悩みの元凶が、今目の前でレポートに四苦八苦している男、岡部倫太郎。
　大学４年生になって研究室に入った岡部は、最近、自分の研究内容について私に相談しにくる。
　岡部に会えるのが嬉しくて、頼られるのも嬉しくて、一石二鳥みたいな感じでいつもいるのだけれど、どうやらその岡部の存在がママにバレてしまったらしい。
　電話すると、いつも最後には
「紅莉栖のボーイフレンドのオカベさん。どんな人か、ママに会わせてね」
　などと言ってくる。

　岡部とつきあって、かれこれ３年は経つ。
　その間には、まあいろいろあったけれど、アメリカと日本という距離がありながらも、概ね順調にいっていると思う。もちろん、ほぼ毎日電話かメールでやり取りしているのだけど、どうやらそのうち何回かの電話を、私が不在のときにママが受け取っていたらしい。その時に岡部といろいろ話をして、すっかり気に入ってしまったらしく、ことあるごとに会わせてくれと言ってくるのだ。
　自分の彼氏を気に入ってくれるのは嬉しいけど、会わせるとなると、なんというか、その………何ともいえない恥ずかしさがある。
　だけど、そうも言ってられないので、そのうち会わせたいとは思っている。
　だから今度アメリカに一時帰国するときに会わせようかな、などと、レポートを見ながら、私はぼんやりと考えていた。

　そう、その時はあまりにもあたり前に思っていた。
　岡部と私と、２人でいることが当然だと。

「…………あってる」
「ほら見なさい。やっぱり条件設定よ。あ、お礼は“じゃんがら”でいいから」
「くそう、助手の分際で生意気な」
　
　そして、今日も私が、研究の問題点を指摘し、岡部の理論を論破した。

～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～～

　　悔恨と思慕の向こう側に　（前編）

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　付き合いが長くなって、いるのがあたりまえになると、不安になることがある。
　
　岡部は、私のどこが好きなんだろう？
　
　最初の１年は“好き”や“愛してる”の気持ちだけで十分だった。
　次の１年は、お互いの知らないところを探ったり、共通項を見つけたりして、理解を深め合うのが楽しくて嬉しかった。
　その次の１年で、ペアで行動することに違和感がなくなっていった。
　じゃあ、今は？
　ペア行動があたりまえになり、お互いの好き嫌いも分かり合い、“好き”も“愛してる”もあまり言わなくなると、冷静にお互いのことを考えられるようになってくる。
　最近では、自分の気持ちが客観的に判断できるようになってきた。
　
　私は、岡部が好き。
　今だに厨二病のケはあるけど、それはただの仮面だということは、百も承知している。
　本当に大事な時は、力強く、優しい言葉を投げかけてくれる。
　私がイライラしているときは、ムダ口は叩かずに見守ってくれるし、
　寂しさで震えているときは、大きく包み込んでくれる。
　普段は尊大な態度を取るくせに、優しくて、お人よしで、私のことを一番に思ってくれる。
　
　………頭の中で考えてるだけで恥ずかしくなってきた。
　これって、ただのノロケじゃないだろうか。
　
　でもとにかく、もう岡部のいない生活なんて考えられないだろう。
　じゃあそこでだ。
　岡部は私のことを、どう思ってくれてるんだろう？
　冷静に考えてみよう。

　私は、岡部の研究内容を一緒に見て、一緒に考えて　……いつも矛盾点を論破してた。
　ご飯を作ろうとしたら　……なぜか赤いドクペ色のご飯が炊けた。
　ちょっと虫の居所が悪くて　……汚い言葉で言い返した。
　ちょっと外に出ようと言って　……汚れた白衣のまま買い物に行った。

　………………………………私、終わってる？
　どう考えても、好きになる要素が見当たらない。
　女らしさがカケラもない。
　今考えれば考えるほど不思議である。

　また、もうひとつ、大きな不安要素がある。
　それは岡部自身。
　あいつは、あんなナリをしてて意外とモテる。
　理工系大学だから女の子は少ないけど、それでもバレンタインではチョコレートをもらっていた。
　義理チョコとは聞いていたが、私の目はごまかせない。隠れて見てたが相手の女の目は本気だった。
　それに、たまにフェイリスさんの頼みでバイトに入っている、メイクイーン・ニャンニャンのバイトの子たち。鳳凰院クロト（という設定の執事らしい）に恋焦がれているのは、お客の女の子（腐女子という人々のようだ）だけではないらしい。
　まあ、まゆりとフェイリスさんという２大巨頭がいるため、直接的な行動に出られることはないみたい、というところはまだ安心ではあるけど。

　岡部は私にいろいろなものをくれる。
　一緒にいると「愛されてる」という実感をくれる。
　議論や意見を思い切りぶつける居場所をくれる。
　私は岡部にこれ以上ないくらい甘えている。
　
　じゃあ私は、岡部に何かをあげられているだろうか。
　恋愛はギブアンドテイクじゃないし、岡部からそんな要求などないけれど、彼が喜ぶことをしてあげたいという気持ちは当然ある。
　方程式の存在しない問題ほど厄介なものはない。恋愛はその最たるものだ。
　岡部の言葉一つで、浮かれたり、落ち込んだり、また舞い上がったり、気持ちが制御しきれない自分がいる。こんな不安なんかも、岡部に相談すれば「気にするな」の一言で吹き飛ばしてくれると思う。彼はそういう男だ。
　それでも、やっぱり気になるものは気になる。客観的に判断して、私が女としての魅力に欠けているは事実なのだから。

　　　☆　　☆　　☆

　Ｃａｓｅ１　椎名まゆり　

　ある暑い夏の日。
　いつものとおり、ラボで岡部のレポートを見ていると、軽やかに階段を上がる足音が聞こえてきた。

「オカリン、クリスちゃん、おつかれさま。カキ氷買ってきたよ」
　まゆりは、両手にレジ袋を持って、ラボに現れた。
　右手はあの形状からすると、さっき言ったとおり、カキ氷だろう。
　では左手のレジ袋は？
　……この匂い、から揚げだ。
　どうやらから揚げは別腹みたいである。あれだけ食べてるのに、この体型。栄養が全部胸にいってるんだろうか？　実に謎だ。

「おお、すまんな、まゆり。助かる」
　そういいながら、袋の中からカキ氷（練乳）を取り出す。ちなみに私はいちごカキ氷をもらった。

「それよりもオカリン、たまには家に帰ったら？オカリンのママ、寂しがってたよ」
　まるで、岡部の母親のように、岡部のことを心配するまゆり。
　ああ、やっぱりこの子はやわらかくて、暖かいなあと、女の私でも思う。

「そうだなぁ。このレポートが片付いたら、一旦帰るか」
　そして、対する岡部も、それに当てられてかまゆりの言うことは素直に聞くのだ。
　幼馴染というのもあるが、まゆりの持つ独特の空気感のおかげだろう。彼女のふんわりした物言いは、どんなに頑なな心でも解きほぐしてくれる。

　私には出来ない。

　　　☆　　☆　　☆

　Ｃａｓｅ２　桐生萌郁

「こら、指圧師。極力メールはヤメろと言ったろう」
　最近の岡部は、桐生さんと話すとき、携帯を完全に無視する。
　たしかに、“自分の口で話すことがあたりまえのコミュニケーション方法だ”という意見は、私も賛成である。

「ゴ……ゴメンなさい」
　独特のかすれた声で謝る桐生さん。
　人間は発声をしないと、声が弱くなってくる。
　声帯は筋肉なので、使っていないとどんどんやせていってしまうからだ。
　私たちのような研究者にはありがちなことで、丸一日言葉を発しない人も中にはいる。次の日、声を出してみて、自分の声の変わりようにびっくりするのだ。

「あの…えっと…モデルの件…どうかな、って」
　眉毛を八の字にして上目遣いでたどたどしく話すその姿は計算だろうか。
　なんというか、私でも萌えてしまいそうだ。
「言っただろう、俺はやらないと」
「執事喫茶……結構…流行ってる。岡部君……似合ってた」
「あんな姿を人前にさらせるか！明日から大学に行けなくなるではないか」
「……………そう」
　しゅん、という音が聞こえそうなくらい、あからさまに落ち込んだ。その姿にとても庇護欲をくすぐられる。

「…………んぐ……ま、まあ、他のモデルを探して、全然見つからなくて、あてがなくて、どうしてもというのなら、また来い。その時は、まあ、考えてやる」
　岡部もその姿にはやられてしまった。あまりの“かわいそうオーラ”に、譲歩を意思を見せる。

「！…………あ…りがとう」
　何だその笑顔はっ！
　あんなはにかむような表情は反則だ。女の私ですら、ちょっとときめいてしまった。

　桐生さんは、コミュニケーション不全ぎみの女性だ。携帯電話がないと相手に上手く意思を伝えることが出来ない。
　だが、最近は岡部の言いつけを守ってか、何とか自分の口で話すように努力している。
　基本的に彼女は表情に乏しい。無愛想といってもいい。
　しかし、その無愛想が見せる笑顔の破壊力たるや、そのギャップは計り知れない
　彼女がもし今より社交的になったら、私なんかかなわないと思う。だって、それ以外は完璧だから。顔もスタイルも。

　私には足りない…………いろんな部分が。

　　　☆　　☆　　☆

　Ｃａｓｅ３　漆原るか

「凶真さん、こんにちは」
　お昼前にラボに来た岡部と私が昼ごはんをどうしようかと話していた時、漆原さんがやってきた。
　肌が白く、小顔で、大きく潤みがちな瞳を持つ彼女。これで長髪だったら日本的美人の代表例だろう。
　初めて会った時は巫女服を着ていたが、今日は襟と袖口に白いストリングのアクセントが入った黒いシャツと太もも丈のショートパンツという、割とボーイッシュなファッションだ。
　……………というか、彼女は“彼”なのだ。ボーイッシュどころか、正真正銘の“ボーイ”なのだから、こういう格好の方が普通なのだが………なんだろう、なぜか可愛く見えてしまう。

「あの、ウチで煮物作ったんですけど、作りすぎちゃって……良かったらみなさんでどうかなと思いまして」
　そう言って、漆原さんはレジ袋から大きめのタッパーを取り出した。
　彼の言うとおり、タッパーの中身は大根、人参、椎茸、タケノコなどの野菜類が茶褐色のとろみのある液体に浸かっている。どれも柔らかくて旨そうだ。

「そうか、それはすまないな。遠慮しないでいただこう」
　そう言って、岡部はタッパーから大根を一切れ、つまみ食いした。
　その行動に、漆原さんは「あっ」と声を出した。つまみ食いを注意しようとしたようだ。
　が、岡部の食べる姿を見て、“しょうがないなぁ”という顔をした。
　……なぜそこで顔を赤らめる。

「…………ん、うまい。相変わらず料理が上手いな」
「そんなことないですよ。煮物ですから、調味料の分量さえ気をつければあとは火をかけて待つだけですし、たいしたことじゃ……」
　岡部の褒め言葉に、素直な反応する漆原さん。認めたくないけど、やっぱりカワイイ。
　……だが、さっきから気遣わしげにこっちをチラチラ見る岡部は、一体何を言いたいんだ、おい。
　私が料理出来ないのはわかってるから、そんなに気を使わなくていい。ミジメになるでしょうが。

　しかし、彼がもし女になったら、完全に私の負けだろう。
　今の世の中、さまざまな技術が発達している。彼が本当に全身を工事したら、子供が産めないだけで、それ以外はそこいらの女には負けない完璧な女の子になるだろう。
　というか、彼の体は遺伝子欠損で女になれなかっただけだと思う。

　……………私にはない。あの女の子らしさが。

　　☆　　　☆　　　☆

　はぁ……
　もう溜息しか出ない。
　何であいつの周りには、あんなに可愛い子がいっぱいいるんだろうか。
　私が岡部だったら、あれだけ良い子が周りにいたら正直危ないんじゃないかと思う。
　岡部を信じてないわけじゃないけど、彼も人間だし、心身ともに弱ってる時にそばにいるのが、もし私じゃなくて彼女達だったら………
　しかもそれは、必ずしも妄想ではなくて現実に起こりうることだ。アメリカと日本を往復してる私には、常に岡部のそばにいてやることができない。

　私は岡部にとって、良い彼女なんだろうか。
　今まで考えたことが無いわけではなかった。
　ただ、一緒にいることの嬉しさでごまかしていただけだ。
　しかし、お互いのことを冷静に考えるようになってきて、マイナス要因が見つかると、思考がドンドンと悪い方へ傾いていくのがわかる。
　肯定と否定を繰り返して、思考が負のスパイラルに飲み込まれていく。
　そういう時の脳科学的な対処方も頭の中に入っているはずなのに、なぜかうまく実行できない。
　普段、岡部に対して偉そうに説教しているくせに、いざ当事者になると全然ダメだ。私の研究してることは、なんて薄っぺらいんだろう。
　体験のない理論は、どれだけもっともらしくても推定にすぎないのだろうか。ともすれば机上の空論になってしまうんじゃないか。
　科学の本質とは、実験と観察と記録を繰り返して事実を積み重ねていくことだ。私の中には知識はあっても事実の積み重ねが存在しなかった。

　　　☆　　☆　　☆

　そんなある日、私は出向している日本の研究所に顔を出し、自身の研究の途中経過を報告した。
　成果までいかない、途中経過なので、突っ込みどころがあるのは当然なのだが、ある研究員が、元となる理論に対して口出ししてきた。
　私自身が納得して積み上げてきたものなので、いつものとおり、即座に反論しようとした。
　しかし、なぜかその時、私はその場で考え込んでしまった。その研究員の言うことも間違いではないかもしれないと思ってしまったのだった。
　研究者は孤独だ。自分で自分を信じられなければ、続けることができない。
　だが今の私は、自身が積み重ねてきた事実に疑問を持ってしまっていた。
　結局、その日、私は満足に返答することができなかった。

　その出来事から数時間後。
　気がつくと、私はラボにいた。
　どこをどう歩いて戻ってきたのか記憶に無い。
　ショックだった。
　自分がこれまで研究してきたことが、一部とはいえ否定されたのだ。
「途中経過だからしかたない」と、彼らは言う。
　でもちがう。
　私は、たとえ途中でも自分の研究内容について他人から何か言われてブレるようなことはしていない。ある程度方針を立てて、基礎理論から組み立てていく。
　スタート地点が間違っていると方向がまったく異なるので、十分検討してから、発展系へとシフトするのが私のやり方だ。
　だが、今日はその基礎にケチをつけられた。
　そう、忠告や、指摘ではなく、“ケチ”なのだ。
　やっかみ半分の難癖に近い。
　そんなものは、適当な理由をつけて跳ね除けるのが、いつもの対応だった。
　だが、今日はそれができなかった。
　なぜか？
　理由はわかってる。
　私が、自分に自信を失いかけているからだ。仕事でもプライベートでも。

　一つひとつは些細なことの積み重ね。
　無視しても良いくらいの出来事。
　チリのようなものだ。
　だが、これが幾重にも重なると、これほど排除しづらいものはない。
　自分の心から取り除こうとしても、最初のチリは、心の奥底にへばりついて、全く取れそうにない。
　プラスチック製ボトルに油を入れると、分子レベルで浸透して、不可分になってしまうのと同じだ。

「はぁ」と、今日何度目になるかわからないため息をついて、天井を見上げた。
　…………私は、ここでいったい何をしてるんだろう。
　いつも岡部に会えるだけでわけもなく浮かれて、会ったら会ったで、優しい言葉をかけるわけじゃなくて、美味しい手作り料理を作ってあげるわけでもない。
　そして今や、自分の研究にも疑問を持ってしまっていて、果たしてなぜ日本に来ているのか。その理由すらもわからなくなってきた。
　ホント、何なんだ私は
　ここにいる意味って、なんだったんだろうか

「どうした？規制でもかけられたように元気がないな」
　コンビニから戻ってきた岡部は、開口一番、そんな軽口を叩いた。
　一体誰のせいだと思ってるんだ、コノヤロウ
　……と思ってみるが、決して岡部のせいでないのは頭の隅でわかってるので、口には出さない。
　要するに、たんなるやつあたりだ。

「疲れてるなら、今日はもうホテルに帰るか？　時間も遅いしな」
　と言って、帰り支度をはじめる岡部。アンタは今戻ってきたばかりだろうに。
　だが、それでも、岡部は私に合わせてくれる。
　日本にいる間はホテルまで一緒に帰るのがデフォルトだ。

「…………………いい」
「え？」
「今日は、………いい」
「いいって、なにがだ」
「ちょっと、１人になりたい気分なの」
　そう言って、岡部から顔を背ける。
　別に岡部と一緒に帰りたくないわけじゃない。
　ただ、今の自分の、情けない姿を見せたくないだけだ。
　自分で自分が嫌いになってる瞬間を、岡部に嫌われたくないだけだった。

「そうか。だが、最近は物騒だ。１人になりたいのはわかるが、せめて送るだけはさせてくれ」
　空気を読まない優しさが、このときはなぜかカンに触った。
　いつも頭をなでてくれる優しい手が、非常にウザく見えてしまった。

「だから！　１人になりたいって言ってるでしょ！」
「な………！」
　突然の大声に岡部は絶句する。
　私自身、こんなに大きな声が出ることに自分自身が驚いた。
　だが、そんな驚きは数瞬で消えていった。
　一度頭に血が上ると、その激情は止められない。

「そんなに誰かを送りたければ、まゆりでも桐生さんでも、漆原さんでも、他にもいっぱいいるじゃない！　私のことは放っておいてよ！」
「おい、どうしたんだ」
「私なんかにかまわないで！」
　止まらない。どんどんエスカレートしていくのが自分でわかる。

「私なんか、こんな私なんか、大事にしなくてもいいのよ！　大抵のことは自分でなんとかしちゃうんだから！　岡部には、他に守ってあげなきゃいけない子がいっぱいいるじゃない！！」
　これ以上はやめろと、私の中の冷静な部分が叫んでいる。でも止まらない。

「そうよ！私が日本に来なければ、岡部はそんな大怪我なんてしないですんだし、岡部はまゆりや漆原さん達と仲良くなって、今より楽しく過ごせてたハズよ！」

　あの可愛い幼馴染こそ、岡部にお似合いだ。
　私よりよっぽど岡部のことを分かってる。
　中に引きこもって、思考の海に沈みがちな研究者には、ああいう暖かい母性こそ必要なのだ。

「私なんて来なくてよかったのよ！　いない方が良かったのよ！　その方が岡部のためよ！」
　そうだ。
　私は岡部のそばにいたいけど、私がいなくても、岡部のそばには代わりがたくさんいる。
　私よりもよっぽどふさわしく、岡部を優しく包んでくれる人が。

「………紅莉栖」
　口調の変わった岡部の声を聞いて、ハッとなった私は、うつむき加減だった顔を上げた。
　そこにあった岡部の顔には、痛みを感じてそれでもがんばって耐えている子供のような、孤独と痛みと悲しみが浮かんでいた。

「お前………本気で言ってるのか」
　売り言葉に買い言葉。一度発言したことは取り消せない。
　いや、本当は、取り消せばいいのだ。
　ごめんなさい、言い過ぎたと謝ればいいのだ。
　でもできない。
　くだらないプライドが頭をもたげる。
　冷静な部分がビービーと警告音を鳴らしている。
　これ以上は限界だと。
　超えてはならない一線だと。

「そ、そうよ！　だから何よ！」
　心が悲鳴を上げている。
　それ以上口を開くなと叫んでる。

「そうか………わかった」
　そう言って、岡部はとても悲しそうな顔をした。
　その瞬間、激情に狂った私の頭は冷凍されたように冷えて固まった。
　岡部の表情に、心がズキンと痛む。
　私は言葉が出なかった。

　ワタシハイマナニヲイッタンダ？

　真っ白になった頭で、自分の言葉を反芻していると、岡部がきびすを返し、ラボの出口へ歩いていくのが見えた。

「ちょっ……まっ………」
　とっさに呼び止めようとしたが、声がうまく出ない。

「じゃあな。泊まるなら戸締りしろよ。帰るなら、歩きじゃなくてタクシーにしろ」
　そして最後まで気遣う言葉を残して、岡部は出て行ってしまった。

「……………え？」

　自分が取り返しのつかないことをしたことに気づいたのは、岡部の背中が視界からいなくなったときだった。

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　記憶には、短期記憶と長期記憶がある。
　短期記憶とは、文字を書き写したり、電話番号を覚えたりするときの記憶で、せいぜい長くても20分程度しか覚えていられない。
　長期記憶は、短期記憶の中から、強く覚えようと意識したものが取捨選択され、数十分から数年もの間保たれる記憶である。
　海馬に短期記憶された出来事は、海馬の近くにある扁桃体が快不快を判断し、その判断の大きさによって長期記憶へとシフトされる。
　つまり、情動を伴った記憶ほど、忘れることができない。
　だから、人を好きになった瞬間は忘れられない。
　人を傷つけた瞬間も忘れることができない。

「だから、私は正常なんだ」
　さっきから言い訳じみた考察をし、負け惜しみな言葉を吐いて、私は今の自分を正当化しようとした。
　
　岡部と別れたあの夜から3日。
　私はホテルの自室にずっと引きこもっていた。
　幸い、大学も研究所もスケジュールの自由は利くところだったので、急遽一週間ほど休みを取った。
　今の私の状態では、研究に対して何も手につかないのが目に見えていたから。

　さすがにベッドに横になるのも飽きてきたので、シャワーでも浴びようと、バスルームに入る。
　バスとトイレが同じユニットで組まれている、少し大きめのお風呂。壁一面にかけられた大きな鏡で自分の姿を見た。
　化粧を落とさずにいたので肌はボロボロで、泣きはらし過ぎて目の周りが真っ赤に腫れ、洗ってない髪の毛はいつものツヤがなくグチャグチャだ。それはもうひどい有様だった。
　知りたいということに貪欲だった研究者の目は、死んだ魚のように光を失い、空虚な心のうちを如実に表している。“目は口ほどにものを言う”とはよく言ったものだ。

「………………岡部…………会いたいよ」

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　　悔恨と思慕の向こう側に　（後編）

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　あの日、私は岡部の忠告も無視して、ホテルまで歩いて帰った。
　とてもじゃないが、ラボに泊まる気にならなかった。そのまま寝てしまったら、朝起きたときに岡部と顔を合わせてしまうからだ。
　ホテルの部屋に戻ると、虚脱感に任せて顔面からベッドにダイブ。
　防音設備が行き届いた部屋は、耳に痛いほどの沈黙に満ちている。
　外的刺激がなくなると、自然と今日あった出来事が空白の頭の中に思い出された。
　真っ先に思い出すのは、岡部のあの表情。
　自然と涙があふれた。
　鼻の奥がツンと痛い。
　次から次へと涙が止まらない。
　もう耐えられないと思った私は、そばにあった枕にガバっと顔を押し付けた。

「ひぐっ……ひぐっ…………おかべ………ひぐっ………ぐっ………おかべぇ………」
　明らかに、彼を傷つけた。
　彼は私を、それこそ命がけで助けてくれたのに、私はそれを“やらなくても良かった”と言った。“すべきことじゃなかった”と言ってしまった。
　彼の行為を否定したのだ。
　彼の善意を、好意を、愛情を、私が否定してしまった。
　無償の愛をくれた彼を、傷つけた。
　あきれさせて、失望させてしまった。
　だから、怒って帰ってしまったんだ。
　帰り際の言葉は最後に残った優しさだった。
　でも、その優しさが私に向けられることは、もう無いかも知れない。

「ひっぐ…ひっぐ………ごめん……なさい…………おかべ……ごめんなさ………ひっく」
　誰にも届かない懺悔の言葉を吐きながら泣き続けた。
　押し寄せる後悔に心が痛い。
　なぜすぐに謝れなかった。
　なぜ踏みとどまれなかった。
　なぜ悩みを打ち明けられなかった。
　どんなにくだらない悩みでも、彼は真剣に聞いてくれたハズだ。
　そして最後には高笑いとともに吹き飛ばしてくれたハズだ。

　なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ
　
　人生は一度きり。成功も失敗も、全てが今の私の糧になっている。
　かつて私は岡部にそう言い放った。
　もしタイムマシンがあったら、あの瞬間の私に言ってやりたい。
　頭を冷やせと。
　くだらないプライドを捨てろと。
　彼を信じて頼れと。
　そうでないと、取り返しがつかなくなると。

　私はそれから、比喩的表現ではなく、文字通り３日３晩泣き通した。

　　☆　　　☆　　　☆

　シャワーを浴びて、一応、体だけはさっぱりしたが、気持ちのレベルまでは回復しない。
　生乾きの髪の毛をそのままに、バスローブに身を包んで、ベッドに腰掛けた。
　さすがに３日も経つと、泣くことに疲れてきて、幾分か冷静さは取り戻せた気がする。
　私は沈んだ気持ちのまま、これからどうしようかを考えた。

　まずは、状況を整理しよう。
　岡部は本当に怒っているのかどうか。
　…それは恐らく間違いない。あれからメールも着信もない。そんなことは今まで一度もなかった。
　じゃあ今の状態が続くとどうなる。
　…ＮＯだ。今の私は岡部のいない生活など考えられない。
　ではどうすると、関係を修復できる。
　…この場合の有効な手段は、心から謝ること。

「はぁ………やっぱりそうなるか」
　でも、このままただ謝っても、しこりが残りそうな気がする。
　一度言ったことは相手の脳から取り除くことはできない。
　あのときの発言は、不安な心が発した妄想のようなもの。全く本心とはかけ離れた妄言だ。
　しかし、あれが本心と思われてしまったら、後々の関係に響くだろう。

　私はこれまで岡部と付き合ってきた時のことを思い出していた。

　初デートはプラネタリウムだった。
　ＨｏｗＴｏ本に載っているような、あまりにもベタな行き先だったけど、お互い初めての恋人だったので、それ以外の選択肢を思いつかなかった。
　アリゾナで見た本物の星空にはかなわないが、それでも雰囲気は十分感じられた。
　暗闇で握った岡部の手が暖かかったのを覚えている。

　初めての旅行は青森だった。
　深夜バスで片道11時間。行き帰りだけで疲労困憊してしまったが、知らない町を2人で歩くのがあんなに楽しいとは思わなかった。
　父と会おうか迷ったが、結局会わなかった。追い返されるだろう場面を想像できてしまったから。岡部も無理するなと言ってくれた。まだ和解するには時間が必要だろう。私もそう思った。

　ラボにいるときは、未来ガジェットの製作か、岡部のレポートを見ていた。
　岡部に頼られるのが嬉しくて、私の知識が少しでも岡部の役に立つのが嬉しくて、はりきってアドバイスをして……

「………あ」
　思い出しながら唐突に気づいた。
　岡部にアドバイス……どころか、毎度毎度、論破してたじゃないか。
　せっかく気合を入れてるところに冷静に突っ込んで、あれはダメこれもダメと。
　これはまずい。
　研究に身を置く者として、私はレポート内容の妥協は許せない性質だ。
　だから常にその時点での完璧を求めていた。
　でも、彼はまだ学生だ。まだ発展途上なのだ。
　多少の矛盾点などあってあたりまえ。
　それを私のペースにつき合わせてどうする。

「やだ……どうしよう……」
　それが彼の負担になっていないと、どうして言える？
　毎度毎度、論破されるたびに嫌な思いをしていないと何で言える？
　私はさっきから、どう切り出せばいいかということばかり気にしていた。
　だが、前提条件が違った。

　もし、許してくれなかったら？
　もう私のことが好きじゃなかったら？

　不安が一気に全身を駆け巡り、背筋が寒気を帯びた。
　フリーフォールのように体が急降下していくような感覚を覚える。
　十分考えられることだ。
　私は彼に全然優しくない。
　ただただ彼の優しさに甘えているだけだ。
　私から優しくしたことが何かあっただろうか。
　私の頭の中の岡部が、私に向かって言い放つ。

『紅莉栖、もういいよ。俺達、もう終わりにしよう』
　
「やだ…………そんな………いやだよぅ………」
　想像しただけで、涙があふれた。
　冷静になれたと思ったはずなのに、まるでダメだ。
　自分はこんなに弱い女だったんだろうか。
　父になじられた時でも、こんなに泣くことはなかった。
　今の私にとって、岡部は父以上に大きな存在になっている。
　私はそのことを改めて痛感した。

　プルルルルル――――――――――

　ビクンッ、と体が反応した。
　突然、静かな室内に電話のコール音が鳴った。
　ホテルの室内の電話はほとんどがフロントからの連絡だ。
　大抵は荷物が届いたか、お客が来たかである。
　私は涙でグショグショになった顔をタオルで拭き、咳払いをして涙声にならないよう注意して電話に出た。
「はい、なんでしょう」
「おはようございます牧瀬様。フロントです。今ですね、牧瀬様のご友人とおっしゃられる方がいらっしゃっているのですが、いかがいたしましょう」

　ドキン！　と心臓が跳ねた。
　私の友人？
　いったい誰だ、このタイミングでやってくるのは。
　まさかという思いと、いやいやありえないという思いが交差する。
　心拍数がどんどん上がっていくのがわかる。
　受話器を支える手が震えるのを、もう片方の手で抑えながら、先を促す。

「あ、あの…名前は？」
「椎名まゆり様です」
　まゆり？
　なぜまゆりがここを知ってる？
　………って、岡部に教えてもらったのか。
　さっきまでのドキドキはなりを潜め、代わりに「なんだろう？」という思いが頭をもたげる。
　なぐさめに来てくれたんだろうか。
　元気づけに来てくれたんだろうか。
　彼女には場の空気を暖かくする不思議な力がある。
　彼女自身が平和を望んでいる性格だから、彼女の想いがその場に伝播するのだ。

「わかりました。確かに私の友人です。通してください」
「かしこまりました」

　そして数分後、部屋にまゆりがやってきた。
「トゥットゥルー♪　クリスちゃん☆」
「…………いらっしゃい、まゆり」
　３日ぶりに会うまゆりは、相変わらず明るくて、可愛くて、暖かかった。
　やはり、私とは大違いだ。

「から揚げ買ってきたよ。あとポテトと、ドリンクとか」
「サンクス、まゆり」
　ポテトやドリンク類、からあげなどをレジ袋から出して、備え付けの小さなテーブルに置いていく。
　差し入れはテーブルを埋め尽くすほどの結構な量だった。
　そして、全部置くや否や、そのうちの一つを開けて、いきなりパクパクと食べ始めた。
　まゆり………ホントに食欲には素直な子ね。

「クリスちゃんが日本に来てから、まだ遊びに行ってないな～と思って。えへへ、いきなりでゴメンね」
「ううん、別にかまわないわ」
　かまわないどころか、正直言って救われた気分だった。
　あのまま一人だったら、また3日前の再現だっただろう。
　だれかと話すことで、思考のループに捕らわれずにすむ。
　ここにきて、余計なことに首を突っ込まないまゆりの存在は、すごく助かった。
　また、それを知ってか知らずか、まゆりも、余計なことは聞いてこなかった。
　私たちは、メイクイーンの事やコスプレ衣装の難しさなど、いろいろと他愛ない話をした。おかげで、少しばかり気持ちが回復した気がする。

「………よかった」
「え？」
「思ったより元気そうで」
「……………」
　会話が少し途切れたとき、まゆりがポツリとつぶやいた。
　たしかに、初日よりは元気になった。まゆりのおかげで気持ちも少し回復した。
　でも、こんなのは空元気だ。心のホントの部分は、今だに深く沈んでいる。

「本当はね、クリスちゃんを元気付けてあげようとしたんだ。もし落ち込んでたら、手をむぎゅーってしてあげて、いい子いい子してあげたいなって」
「まゆり…………」
　この子は本気で私のことを心配してくれている。
　勝手に嫉妬して、勝手に思いつめて、勝手に出て行った私を心配してくれる。
　私はまゆりに嫉妬した自分が恥ずかしくなった。
　こんなにいい子はアメリカにもいない。
　本当の友達はこんなにも暖かくて、かけがえのないものなのか。

「でね、オカリンがね、すごく落ち込んでるんだ」
「え！？」
「あんなオカリン、初めて見た」
　急に岡部の話になって、いきなり驚いた。
　どういうことだろう？
　私の理不尽な言葉に怒ってたんじゃないだろうか。
　あるいは、よっぽどひどい傷を与えてしまったのか。

「どうしたの？って聞いたら、紅莉栖ちゃんを傷つけたって、会わせる顔がないって、すっごく泣きそうな顔してた」
「な………！」
　なんでそうなる？
　傷つけたのは私だ。会わせる顔がないのは私だ。岡部自身は傷ついてないの？
　でもあのときの顔は、明らかに……

「ねえ、何があったのか、教えてくれないかな。まゆしぃに何かできるとは思えないけど、でも、2人には元気でいて欲しいな。だって、オカリンもクリスちゃんも大切な友達だもん」
「まゆり…………」
　私はまゆりの真摯な目に根負けして、話し始めた。
　私自身の勝手な想いを。心の恥部を。
　つまらない嫉妬と、仕事とプライベートをごっちゃにしたストレス。それを岡部にぶつけ、彼を傷つけたこと。
　途中、そのことを思い出して涙が出そうになったが、何とかこらえて、とにかく全部話した。
　10分位かかったと思う。
　話し終えた私が恐る恐るまゆりの顔を見ると、

「ごめんね、ごめんね、まゆしぃのせいで、クリスちゃん、ごめんね……ぐすっ」
「な、なに？」
　まゆりが涙を浮かべていた。
　なんで？
　なんでまゆりが泣くの？
　悪いのは私のはずなのに。
　まゆりのせいなんて、そんなことないのに。

「全然知らなかった。そんなにまゆしぃがクリスちゃんの負担になってるなんて、知らなかった」
「ちっ、違う違う！　まゆりのせいじゃない。これは私が勝手に思い込んで、勝手に落ち込んでることだから、まゆりは全然悪くないわよ」
「でも、原因の一つではあるでしょ？」
「それは……そうだけど」
　心優しいこの子は、私のつまらない嫉妬も何もかも全て、自分がそうさせたと言うのだ。
　なんて子だろう。
　わたしはますます自分がやってしまった行為が恥ずかしくなってきた。

　あまりの申し訳なさに、私が無言でいると、
「よし！　じゃあ、オカリンのところに行こう」
「ちょ、ちょっと！どうしてそうなるの！？」
　まゆりは、“いい事を思いついた”といわんばかりに、いきなり立ち上がった。
　そして私の手を引っ張り、同じように立たせようとする。
　待て待て待てっ！
　心の準備がまだできてない！

「そんなの決まってるのです。オカリンに謝らせるの。こんなに傷ついてるクリスちゃんを放っておくなんて、まゆしぃはプンプンなのです」
　そういって、怒ったような顔をするまゆり。
　はたから見ると、ちょっと不機嫌な子にしか見えないのだが。
　怒った顔がこれほど似合わない子もそうはいないと思う。

「………オカリンはね、紅莉栖ちゃんがいると、とても元気で明るいのです。そういうオカリンがまゆしぃは好きだから。でも、まゆしぃには、元気をあげることができないから」
　そう言ったまゆりの顔は、少し寂しそうだった。
　その顔を見たとき、私は“ああ、やっぱりそうだ”と思った。
　まゆりもやっぱり、岡部のことが好きなのだ。
　幼馴染として過ごしてきた時から、今に至るまでずっと、一人の男として好きなんだ。
　だけどそれを、急に現れた私が横から奪い取った。
　本当なら私は怒られてしかるべきなのに、それでもまゆりは、そんな私のことも好きだと言う。
　恋敵に好かれて、好きになった人と両思いになれて、私はなんて幸せものなんだ。

　改めて自分の愚かさを思い知った。
　思い知ったからには、このままでいるのは、私のキャラじゃない。
　牧瀬紅莉栖は、受け入れられない今を変えるんだ。

「だから行こう！　ラボに！」
「ええ、いきましょ」
　私はまゆりの手を取って、立ち上がった。

　　☆　　☆　　☆

「フゥーーハッハッハッハッハ！やっと戻ったか、我が助手よ！」
　ラボに入ると、案の定、岡部がいた。
　何を言われるだろうと内心ビクビクしていたら、開口一番、最近あまり聞いてなかった鳳凰院凶真の高笑いが待っていた。

　………突然の展開に、しばしの間、脳がついていかなかった。

「お前が休んでいた分、計画に10％程の遅れが出ている。その穴埋めはキッチリしてもらうぞ！　さあ、さっさと働くのだ」
　これは、怒ってないと判断していいのだろうか。
　あまりにもいつも通りな岡部の反応に、さっきまでビクついてた自分がバカバカしく感じてきた私は、いつものように強く出た。

「計画って、遅れてるのはあんたのレポートでしょうが」
「ぐっ…………、こ、こういう時こそ助手の腕の見せ所だろう！　さっさとこっちに来てサポートするのだ」
　本当にいつもどおりだ。いつもの日常に戻ってこれた。
　そのことに、私は心から安堵した。

「じゃ、まゆしぃはバイトに行ってくるね」
「ああ、じゃあな」
　役目を終えたと判断したまゆりは、気をつかってか、すぐに出て行ってしまった。
　すれ違いざま“がんばってね”と言ってくれた彼女。
　それにはちゃんと応えなければならない。

「ほら、何を突っ立っている。早くこっちに来い。お前がいないと進まないんだ」
　そういって、自分のそばソファをバンバンと叩く。
　私は「はいはい、わかったわよ」と言って、いつもの定位置に座り込んだ。

　　☆　　☆　　☆

　岡部のシャーペンが紙の上をカリカリと走る音と、扇風機のブーンという回転音が部屋に響いている。
　窓の外からは、表通りの喧騒がかすかに聞こえる。
　私たち2人は無言の時を過ごした
　いつもの位置に座ったからといって、いつもの通りに話すことはなかった。
　やはり、最初の鳳凰院凶真はいきおいだけの見せかけだ。
　本当は何も元に戻ってない。

　私の気持ちが再び沈もうとしたとき、

「…………すまなかったな」
「え？」
　岡部が声をかけてきた。
　前触れもなくいきなり言ってきたので危うく聞きそびれるところだった。
　だが、“すまない”とは、どういうことだろう

「お前が苦しんでいる時に、俺はその苦しみをわかってやれなかった」
「そ、それは……」
「いいから！　言わせてくれ」
　否定しようとした私の言葉を制して、岡部は自分の気持ちを話し始めた。

「お前が本気であんなことを言うわけないなんてこと、わかってた。ただ、ちょっとショックだったのは確かだ。おかげで、お前が普段とは違うことに気づけなかった」
「うん、ごめん」
　やっぱりわかってくれてた。
　謝罪の言葉を発しながら、そのことが少し嬉しかった。

「俺はあの時、お前がその場の勢いで言ってるとわかってたのに、つい頭にきてしまった。なぜかわかるか？」
「それは…………岡部が助けてくれたのに、その行為を私自身が否定したから……」
「そうじゃない。それも確かに関係してるが、厳密には違う」
「え？」
　違う？
　そうじゃないの？
　岡部の行為を、善意を、その傷を否定したのに、岡部はそうじゃないと言うの？

「俺が、頭にきたのはな」
　なんだというのだ。

「おまえがおまえ自身を否定したからだ」

「……………どういうこと？」
　言葉の意味がわからなかった。
　私が私の存在を否定したことを、岡部は許せないという。
　これは私の問題なのに、それが許せないというのだ。

「牧瀬紅莉栖という人間は、この世にただ一人、ここにしかいないんだろう？　だったら、自分自身にもっと誇りを持てよ。他人がなんと言おうと、自分の信じる道を突き進む信念が、お前にはあるじゃないか。俺が迷っていたら、手を取って一緒に道を歩いてくれる優しさがあるじゃないか。
俺が好きになった女は、そんなカッコイイ女だったはずだ」

「…………………」
　私は呆然となって岡部の言葉に聞き入っていた。
　岡部は私の存在を肯定してくれている。
　ここにいていいといってくれる。
　岡部はこんなにも私のことをわかってくれている。
　それでいて、なお私と一緒にいたいと言ってくれる。
　だから、私自身が自分を否定してはいけないのだ。
　そうだ。もはや、私の気持ちは私だけの問題ではない。
　私を想ってくれる、岡部と私の問題だ。

「でも、だけど、お腹の傷は私のせいで……」
「俺の傷なんてどうでもいい。お前のためならなんでもする。死ぬまで守ってやる」
「………………！！」
　その一言が涙が出るほど嬉しかった。
　実際、少し潤んでいたかもしれない。
　現実にこんなことを言ってくれるとは思ってなかった。ドラマかマンガの中だけだと思っていた。
　自分がこんなにも愛されているなんて、これほど幸せなことはない。
　
「私の方こそ、ごめん。岡部は私のことをすごく大事にしてくれてるのに、私はそれを信じきれてなかった。まゆりや桐生さん、漆原さんにつまらない嫉妬なんかして。同じラボメンなのにね。」
　だから、こんなに愛してくれる岡部だから、自分の行為がとても短慮で浅はかで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「自分で自分を追い詰めて、岡部を傷つけて……ホント、あのときは自分が嫌いだった」
「もういい。もうわかったよ」
　体ごと縮こまった私を、岡部は優しく許してくれた。
　それは、私の好きな岡部の眼差しだった。
　私たちは、ちゃんと元に戻れた。
　恋人同士に戻れたんだ。

　だから私は、嬉しさのあまり、いつもの調子で強く出ることにした。
「でも！　岡部も悪いんだぞ！」
「え？　は！？　俺？」
「そうよ！　岡部がヘラヘラしてるから、私が勘違いするんだぞ！」
「俺はヘラヘラなどしていない」
「この前、別の研究室の子にバレンタインチョコもらったじゃない」
「あれは日ごろお世話になってるお礼だと聞いたぞ」
「じゃ、メイクイーンで何人ものメイドさんにもらったのはどうなのよ」
「あれは単なる仕事仲間じゃないか」
「あんた、それ、本気でそう思ってるの？」
「？　どういうことだ？」
「…………………はぁ」
　なんだか本気でバカバカしくなってきた。
　私のこの3日間は一体なんだったんだ。
　この厨二病患者は、はっきり言葉にしてやらないと、相手の気持ちを察することもできないのか。

　だけど、待て。
　ということは、岡部の心には、今もずっと私だけがいるということで………

　ヤバい、ドキドキしてきた。

「ね、ねぇ」
「なんだ」
　ちょっと、上目遣いで言葉を投げかける。
　うまくできているだろうか。

「言ったよね。私のためならなんでもするって」
「俺にできることならな」
「じゃあ………今度、うちのママに会って」
「ああ、お前の母親か。何度か話したな」
「そ。どうやらずいぶん気に入ってるみたいだから、そんなに緊張しなくてもいいわよ」
「実物を見て幻滅させてしまうかもな」
「そう思うなら、そのときは身なりをキチっとしてね」
　無精ひげを剃って、身なりをきちんとすれば、かなりカッコ良くなるだろう。
　彼女の欲目じゃなくても、ママは一発で気に入るはずだ。
　これはこれで一安心。
　あとは…………

「あと、さ」
「なんだ」
「えと………仲直りの……証明というか…なんというか………安心が欲しいというか」
　そこで、私は目を閉じた。
　ええい、ここまで言わせるな！
　いくらアンタでもわかるでしょうが！

　わたしが心の中で恥ずかしさに悶えていると、
「あ………」
　岡部の手が、優しく私の頬に触れた。
　そして、唇に、やわらかくてあたたかい感触。

「ん………ふ…ん……くふ……」

　3日ぶりのふれあい。
　いや、1年にも10年にも感じた孤独と空虚さ。
　その穴を埋めるように、私たちは情熱的なキスを続けた。
　キスをすればするほど、心の穴が満ちていく。
　私の中が岡部で満たされていく。

　もうわかりきるぐらいわかってしまった。
　私の一部に岡部がいて、岡部の一部に私がいる。
　私たちは不可分なんだ。
　分子レベルで融合しているんだ。
　好きな気持ちを抑えなくていい。
　信じる気持ちを抑えなくていい。
　一緒にいたいと思ったら、一緒にいればそれでいいんだ。

　私たちはどちらともなく唇を離し、お互いを見詰め合う。

「改めて言う。好きだ紅莉栖、愛してる」

　その言葉を聞いた瞬間、私は岡部の胸に顔を埋めた。
　まるで付き合い始めた頃に戻ったようだ。
　恥ずかしすぎて岡部の顔を見られない。
　そしてそれ以上に嬉しすぎて、にやけ顔が止まらない。
　だから、それをごまかすように、ぶっきらぼうに言い放った。

「先に言うなバカ。……………私のほうこそ、大好きよ」

　　☆　　☆　　☆

「ねぇねぇダルくん、何見てるの？」
　メイクイーンでバイト中のまゆりは、客として来ていたダルに話しかける。
　今はピーク時を過ぎていて、お客もまばらだった。
　店内を見回す余裕ができたので、ふとダルを見ると、彼が何かを注視しているようで少し気になったのだ。

「あ、まゆ氏。いやね、最近物騒だから、防犯用の監視カメラをラボにセットしたんだお。で、ネットを通じてスマホでチェックできるようにしたんだけどさ、これ見てみ」
　そういってダルは、手持ちのスマートフォンの画面をまゆりに向けた。
　そこに写っていたのは、

「んーと…………………………………………ほわわぁぁ！」
　岡部と紅莉栖の濃厚なキスシーン。
　しかも現在進行形だ。

「ふーん、はぁぁー、なるほどー。でもでも、これでオカリンもクリスちゃんも、仲良しさんだね」
　まゆりは感嘆の声を上げた。
　心に一抹の寂しさが去来したが、それ以上に仲直りした２人が嬉しかった。
　だから、この笑顔は本当に嬉しいときの笑顔だ。まゆりは自分にそう言い聞かせた。

「つうか、さっさと終わってくれないとラボに帰れないんだお。まったく、リア充爆発しろって」
「まあまあ、もうちょっと２人だけにしてあげようよ。ほら、フェリスちゃんも今日は最後までいるし」
「そうなんだけどさ。最近、未来ガジェットの材料費で懐が厳しくて………。っつうか、もう今度は、オカリンにたかってやるお！」

　この映像の一部始終は、音声付で録画された。
　しかも、要所要所はキッチリ押さえ、携帯用に小さいサイズのムービーファイルに編集された。
　そして桐生萌郁の携帯電話に送信。
　ラボメンに出回ったのは、その数秒後だった。
　
　このネタで2人は長いことからかわれ続け、ついには2人の披露宴の映像素材にまで使われたのは、また別の話である。

「橋田ぁぁぁ！！　なんなのよこれわぁぁぁ！！」
「や、やめろ紅莉栖！　そんなに動くと、見えるぞ！！」
「大丈夫だお。ちゃんとあとでフルバージョンをあげるから」
「まあまあ、クリスちゃんってば、かわいいよ。まゆしぃはうらやましいのです」
「２人とも……かわいい」
「はぁ…………岡部さんと牧瀬さん、どきどきしました」
「ニャハハ、ホントお似合いの２人ニャン♪」

　まったく、橋田のＨＥＮＴＡＩめ！
　それに止めなかったみんなも同罪よ！
　あんた達のおかげで………こんなに幸せになっちゃったじゃない。

　本当にみんな………

　ありがと！！

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