(´・ω・`)「ウィルス・・・」 - 【 読み方知らず 】







 ―――― 【 創作文章 : PERSONA3 】  ( 06/9/22 )












 下準備は完了。
 息継ぎも万全。
「となり、いいですか」
 読点を含めたその九文字を、腹腔から搾り出す。
 これまでに幾度と無く幾十幾百を連ねたお馴染みの台詞は、しかしそれなりに遥かな月日が経過した今現在でも”慣れ”を獲得したとは言い難い。発音の語尾を平坦なまま押し通すべきか疑問符調に引き上げるべきか――それは結局の所どちらでも良くどちらにも決め難い浮葉じみた問題であり、彼女は比較的真剣に思い悩んでいた。
 が、それはあくまでも彼女の問題。
 眼前と言うより眼下からこちらを見上げている彼には、無論、九文字の舞台袖に隠されたこの苦悩は分かる筈も無い。6mm幅の空間に数式を書き連ねていたペン先を止め、いつものように――それこそ常日頃と何一つ違和の無い声音で、いいよ、とだけ簡潔に了承の返事を放って来た。
 そこで彼女は件の苦悩を途中保存し、論理の奥底に収納する。”下準備”――両手に抱えていた多数の書籍群を机上に置き、彼の隣席へと座った。
 見渡す限り――見通す全てが、豊満な図書棚の隊列。
 アイギスの視覚に、幾万の書群と幾十の人影が映る。
 晩夏から初秋へと移行しつつある季節を反映するかのように、放課後の図書室内は最上級学年の生徒で多少の隙間を残しつつも全体としては隙が無く満たされていた。定期試験のプレッシャーとは無関係な時期ながらも、それぞれが各々の勉強を積み重ねている光景。受験対策の赤本が格納されたスペースには絶える事無く生徒が群がり、先日の模試の結果を嬉々或いは鬱々とした面持ちで語り合う姿が見られていた。
 目の前に積み重ねた書籍群から個人的興味のものだけを真横に濾過し、受験対策の問題集、参考書だけを手に取る。彼の方へちらりと視線を向けると、数式の回答を目前にペン先がゆらゆらと遊歩していた――順位欄に実にシンプルな数字を並べている定期試験の成績が示すように、決して不得意では無い、むしろ得意な分野の筈だが、回答の算出に苦労しているように見える。たった一日風邪で学校を休んだだけでこうも苦労するのかな、等と彼は仄かな苦笑を漏らしているが、横目で覗き見る限り、それはただ単純に問題の難易度の所為だろうとしか思えない。
「…………」
 アイギスは無言のまま、真紅の外装を割り開ける。彼が今解いているそれと、全く同じ書籍。
 問題を眺めて回答作業に入ろうとする前に、早くも自身の頭部がじんわりと熱を帯びる感覚が感じ取れた。【問題文と言う代物は何故こうも高圧的な文言で回答者に圧力を掛けるのでありますか】、と、自身の論理が懐かしの口調で言い放つ幻聴が聞こえて来る。とても自分の手に負えるレベルの問題で無い、と言う事実だけは、早々と認識出来た。
 とは言え、それが分かったからと言って易々と手を引く訳にも行かない事情が彼女には存在する。”彼”がこの進路を選択した以上、自分自身の希望として【わたしも同じ進路を進みたい】と考えたのは、彼女に取っては至極当然の流れだった。希望と言うよりは、渇望と言い替えた方が適切な、感情。
 だからこそ、
 ――――分からない所があったら教えようか、
 との提案を、彼女は即座に『自分で考えて解くから大丈夫です』と一刀両断する。予想外に強硬な否定に彼は目を瞬かせ面食らっていたが、やがてその意思をしっかりと汲み上げ、自分自身の勉強へと意識を戻した。今の言葉を吐き出すなり顔面を隠すように赤本を読み始めた彼女は、小声で問題文を読み進めつつ徐々に顔から引き剥がす。彼の表情を窺いつつ、特に気分を害している様子は無い事に心から安堵した。
 直後、問題文を読み進める自身の声が立ち止まる。
 数文節前から再度助走し直し、挑戦――再び失敗。
 同じ箇所を何度も読み直し口篭もる彼女の様子に気付き、彼が視線を振り向けて来た。が、アイギスは視線を合わせる事も出来ず、彼の視線を横頬に感じつつ問題文に意識を縫い付けた。解くべき問題を提示している文章の中に発生している、”問題”の箇所。
 読み上げる声そのものが立ち消えて、暫しの時間が過ぎて行く。不必要に張り詰める空気。意識の外縁でトリミングし遮断していた周辺の生徒達の声が、生温い質感を伴って聞こえて来た。
 彼女は視線を一度二度泳がせ、戦がせ、仕方なく白旗を上げる。
「…………この部分が」
 視線を直接合わせないように気を付けつつ、問題の箇所を指差す。僅かに身を乗り出してその文章部分を眺め落とした彼は、先程とはまた違った意味で目を瞬かせたようだ――無理も無い。アイギスが指し示した部分は数式問題の核心を示している箇所では無く、文章の要点と要点を繋いでいるごくごく普通の一文だったからだ。
 しかし幸いにも、彼はその”意味”を把握してくれたようだった。ああ、と相槌にも似た軽い感嘆を放ち、自身のノートのページを逆巻かせつつ問題文を独り言に交えて読み直す。つい先程解いたばかりらしいその問題の全文を読み上げた所で、彼女はすかさず『あ、もう大丈夫です。たった今解法が閃きました』と告げた――すると彼はまるでそれを予期していたかのように、あっさりと頷きを投じる。
 巻き戻していたページを元通りに早送りし、再び自身の勉強に集中して行く彼。
 アイギスは今度は己が視線を隠す事無く、じっと、彼の横顔を眺める。
 今のやり取りの中で何ともさり気無い”気遣い”をされた事は、重々承知していた。恐らくは、文章を読み上げた時点でこちらからストップを掛ける事も織り込み済みだったのだろう。彼女に”その後の言葉”を言わせない為の、絶妙な手腕。
(手を用いた訳では無いんですけどね)
 自分で編んだ表現に、自分でささやかな訂正を加える。
 数式問題を解く中で、『この部分の漢字の読みが分かりません』等とは、言える筈も無い。いや、別に分からない物は分からないのだから言っても間違いでは無いのだが――出来る事ならば、言いたくは無い。そんな彼女の心境を把握していたからこそ、今のような気遣いを見せてくれたのだろう。
 但し、
 その気遣いは即ち、彼に”分かられている”と言う事の裏返しでもあるのだが。
 上手く切り抜けた筈だけれど、よくよく考えてみれば、罠に嵌ったままと言えなくも無い複雑な感覚。アイギスはそのような感覚を的確に表現する日本語表現を脳裏で検索し、適切に感じられる表現を探り当てた。シャーペンの消しゴム部分を口元に添え――解法を思案する時にありがちな姿勢――問題への集中を装いつつ、独り言に混ぜ込んで放つ。
「試合に勝って勝負に負けた、とでも言えば、いいのかなー……」
 無意識の内に延ばした語尾。
 上がりそうで上がり切らなかった、語尾。
 疑問符がくっ付かなかった語尾は、図書室内の忙しい空気へと溶け込んで行く。その独り言を聞き止めたらしい彼は一瞬だけ視線を振って来たが、彼女は視線を合わせず、素知らぬ顔で数式問題との取っ組み合いを演じ続けた――不規則な凹凸に満ち満ちたこれまでのやり取りが嘘のように、そこからは暫しの間、静穏且つ精密なペン先の足音だけが連なって行く。
 机上の片隅に置かれ、マナーモードに保たれた彼の携帯が振動するまで、粛々と続いた。








 ――――試合でも勝負でも勝ちに拘る人、


 着信メールの内容に関して、彼はその一文のみで説明を終えた。
 とは言えその説明はこれ以上無く明解であり、故に彼女は速やかに納得する。卒業後は大学に進学し相変わらずボクシングを続けている彼の足跡は、高校からの連勝記録の更新の度に様々な媒体を通して学生寮の面々の元へと飛び込んで来ていた。紙面を華々しく飾る賛辞と期待の文面を皮肉るかのように、相も変わらず真剣真摯な無愛想を顔面に貼り付けた面持ち。”変わってない”と寮内の誰もが思い、誰からともなく苦笑が漏れるのは、毎回の事だ。
 そんな”先輩”が、珍しく寮に遊びに来ているらしい。本人曰く『ランニングの距離を延長したらたまたま近くを通り掛かったから立ち寄っただけだ』との談らしいが、練習の最中に寄り道をするような性格でない事は寮の誰もが知っている。ついでに言えば自分達、”私達”の知っている真田明彦先輩は、練習の合間に後輩達への”手土産”を用意するような人間でもない――そこまではアイギス自身の分析だったが、それは傍らを歩く彼も同じようだった。
 一足先に帰寮していた順平からのメールを受け、いつもは閉室時間ぎりぎりまでの受験勉強を早目に切り上げ、帰路を急ぐ。寮生活の中での単調な食事を心配した真田が、自腹で色々と出前を取ってくれたらしい――つまり急いで帰らなければその分だけ自分達の取り分が減ると言う、論理。急ぎ足は駆け足寸前の早足を維持している。
 ふと、齟齬に気付く。
「……この場合、手土産と言う表現は適切なのでしょうか?」
 今度は、明確な疑問符が語尾に引っ付いた。
 別に構わないと思うけど、と彼は返答して来たが、疑念は晴れない。
 帰寮したら、傍線と赤丸に塗れた辞書を引っ張り出して納得行くまで調べる必要が有りそうだ。
 頬を掠める涼風。
 秋風、と言うには少しだけ気の早い、夏の余熱を孕んだままの微風。
 それは日暮れの世界が奏でる生活の喧騒、散乱するノイズの隙間を縫うように帰路を吹き抜けて行く。月光館を出てからは常に青で切り抜け続けていた信号が初めて赤に行き当たり、二人は足を止めた。大通りを横断する形になる為に数分間は変貌する事の無い色彩。その間の暇を規則的で豊潤なノイズで埋めるべく、外していたイヤフォンを耳に添え付けようとした彼が――その手を、ふと止める。
 そう言えば、と切り出し。
 さっきは何を読んでたの?――と繋げる。
 疑問符はしっかりと語尾に結ばれている。
 自分がモノレールの中で熱心に読み耽っていた書籍の内容に関して聞かれている事を把握し、アイギスは自身の鞄から件の書籍を取り出した。それは図書室で今日借りてきたばかりの個人的趣味の本であり、”高校三年生”が趣味として読むにはいささか意外性に富んだ、むしろ富み過ぎた選択。
 それを手渡された彼は、中途半端に耳を覆ったイヤフォンはそのままにページを適当に捲りつつ中身に目を通す。大体の趣旨を理解した後、何とも言い難い微妙な面持ちを顔面に貼り付けた。
「何もこんな物を今の時期に読まなくても、なんて、思わないで下さいね」
 彼が言い出そうとする台詞を先読みし、先手を打ってアイギスが微苦笑する。その読みが何処まで正解だったかは分からないが、同調するように同様の笑みを浮かべたその様子から察するに、大体の言葉は正解していたようだ――こちらへと返された”こんな物”の表紙を眺め落とし、続ける。
「でも、今の時期だからこそ、あの記憶がまだ鮮明に刻み込まれている今だからこそ……しっかり学んでおきたいと思ったんです。わたしが、そう思ったんです」
 一人称を結び付け、最後の部分をより強調する。
 彼女の手に握られた新書本の題名には、普段の生活ではなかなか身近に寄ってこない剣呑な単語が混ざり込んでいた。それが一般で言う【死】に関しての文献である事は、一目瞭然。続けて鞄から取り出した他の書籍も、微妙なジャンルの違いこそあれ属性としては同様のものだった。人間社会の中で定義され定着している【死】と言う事象にまつわるあれこれ、諸々、その集合。
 彼の視線が、手中の書籍と自らの表情を往復するのを自覚する。
 そして、言葉としては何も吐き出しては来ない。ただ――緩やかな頷きだけを見せた。納得、得心、共感、感嘆、エトセトラエトセトラ。該当しそうな単語は数あれど、小難しい漢字を当て嵌める必要は特に感じない。読みこなせない幾多の漢字よりも使いこなせる一つの表現の方が、きっと、最適。
 ”それでいいんじゃないかな”――と、
 心からそう思ってくれているように感じる。見える。
 その素振りだけで充分なように、彼女には思えた。
 視線を道路に振り向けると、車道の信号機が丁度、青から黄色へと変色する所だった。そこでアイギスはそれらの書籍を鞄の中に詰め込もうとしたが、最後の一冊、即ち一番最初に取り出した一冊に視線を縫い止めつつ、彼がこのような言葉を呟くのを耳に留めた。
 ――――何て言う題名なのかな、
 疑問符がくっ付き損ねた、独り言とも質問とも判じ難い一言。
 しかし状況的に自分への質問だと判断し、アイギスはその書籍の題名へと目を落とした。口に出す前にまず脳裏で題名を一読しようとした彼女は、途中まで読み上げた所で痛烈な既視感を覚える。
 題名の一部、【死】に関する単語を視認しただけで反射的に棚から取り出し借りたその書籍。題名をはっきりと読もうとしたのは、今が初めてだった。そして懐かしの、否、忌まわしの既視感。
「………………」
 読み方の分からない単語が題名の最後の方に混じっていると言う、この現実。つい先程味わったばかりの、何とも湿度の高い居心地悪さが、半人前の秋風に紛れて舞い戻って来た。
 但し、今回は、白旗が比較的速やかに掲げられる。質問をされた時点でどう転んでも自分に勝ち目の無い状況である事を認識してしまった彼女は、逡巡による居心地の悪さを最小限に抑える為に、努めて平静な面持ちを保ちつつ『初めて見る漢字が混じっていますね、読めません』とだけ零し――彼の方に顔を向けた。視線で、解答を促す。
 それは彼女なりに自身のプライドを貫いた凛然たる敗北宣言、だったのだが。
 回答権を渡された当の彼は、題名を再度眺め落とし、さらりと言ってのけた。


 ――――確かに初めて見る漢字だね、


 それだけを言って、イヤフォンを深々と装着。
 赤から青へと変色した信号機を一瞥し、彼は一足先に横断歩道を渡り始める。
 それが彼に取っての遠回しの敗北宣言である事を、アイギスは数拍遅れて理解した。自分は隠さずに告げた言葉を、彼はひっそりと隠し通している。一番肝心な部分だけを曖昧に濁し、話を切り上げてしまった。イヤフォンを装備してこちらからの呼び掛けを封じ、一足先に歩き出す事で表情を悟られぬよう図っているのは、まあ間違いの無い所だろう。
 横断歩道を渡り終える。一旦離れた二人の距離は変わらない。
「……聞こえませんでした」
 彼女は数歩先を行く後姿に向け、呼び掛ける。
「もう一度、最後まで聞こえるように、言ってくれませんか?」
 ありったけの疑問符を、後姿へと投げ掛けた。
 すると彼は足を止めぬまま、首を左右に振って反応する。多分彼は【何を言っているのか聞こえない】とでも表現したかったのだろうが、その仕草を見せた時点で勝敗は既に決していた。携帯音楽プレイヤーの電源を入れてはいない事は、ちゃんと確認済なのだから。
「聞こえてますよね、わたしの、声」
 立て続けに浴びせた、看破の言葉。
 そこで彼はついに素知らぬ振りを断念したようで、立ち止まり振り返る。追い付いた彼女の真剣な表情を真正面から見据え、先程の言葉を正確に繰り返した――その最後に、”……読めない”、と付け加えつつ。
 アイギスはその言葉に満足し、たった今勝ち取ったこの”勝利”を噛み締める。自然と浮かぶ、爽涼な微笑。
 よくよく考えてみればこれは”引き分け”に過ぎないのだが、その事を暫し忘れてしまう位には、爽快だった。




 そして、
 明日からは漢字を重点的に学習すべきだと言う点で、既に、二人の意見は一致している。










” 読み方知らず ”
















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