仙人掌の花
初夏の陽光は力強く、下界をさんさんと照りつけている。
グリーンは容赦ない光のささやかな抵抗として手に持った本を目元にかざしながら、げんなりとした思いを味わっていた。
光はさえぎられたとしても陽光で暖められた熱量は足元からじりじりと這い登ってきており、歩いても歩いても逃れる術がない苛立ちが、それをぶつける相手がいないのと相まってさらに気をめいらせる。
こんな気候を歓迎するのはせいぜい草ポケモンぐらいのもので、そこここでラフレシアやキレイハナが陽だまりの中にこじんまりとたむろっていた。
対照的に他のポケモンはどこにも見当たらない。
察するに、どこかの木陰か水辺にでも逃げ込んでいるのだろう。
それにしても今日は夏の日中かと紛うばかりの暑さであった。
わずかばかりに頬をなでる春の名残の冷風がなければ、誰もどこかに出かけようとは思わない、それほどの。
通り過ぎる人影もまばらで、そのうちの一人が視界に入ったとき、彼は、はたと気付いた。
つばの広い麦藁帽子をかぶった老人は、グリーンと視線を交わすことなく自転車に乗ったまま通りすぎていった。
古びた銀色の残光が、視界に名残として浮かぶ。
ほの暗い暗褐色に変わる黒点に目をしばたかせながら、小さく舌打ちをもらした。
そうというのもつまり、帽子を持って来れば良かったということを思い至ったためである。
そうすればわざわざ本で光をさえぎりながらじりじりと歩む労力を、少しは軽減できたというのに。
珍しく起こった失念を、彼は肩をすくませるだけで不問にした。
いまさら気付いてもしかながないことを追求する気力もなえていたためである。
気を取り直して見る周りの光景は、コンクリートの黒、木々の緑、幹の灰かかった茶、空の抜けるような青とわずかの色彩である。
特に緑は視界の半分を埋め尽くさんばかりに広がっている。
立春と初夏の違いはここであろう。
立春は冬の間に押さえ込まれていた芽が静かに力強く花開く。
殺風景な風景の中から芽生える多彩な色彩とかすかな芳香は、生けるものの心を和ます不思議な力がある。
それは遺伝子に刻まれた喜びの記憶だ。
しかし初夏となれば話は別である。
春の間に息づいた草木が、先を競うように成長を行う。
どこもかしこも新緑なのは、緑がいかに人の心を和ます色であろうとも何だか物足りなさを覚えずにはいられない。
立春の芽吹きが『萌え上がる』というのであれば、初夏のこれは『萌え盛る』だ。
秋の備えのためだろうが冬の備えのためだろうが、分かっていても納得できないのが人間の性分というもの、というか。
少なければ物足りず、多ければ飽きるのは性なのだろう。
なんとなく憂鬱になりそうな気持ちを奮い立たせ、グリーンは視界を上げた。
―――やっと目的の家が見えてきた。
隣家からわずかばかり離れた所に―――マサラでは珍しいことでもなんでもないのだが―――ぽんと建った一軒屋。
家主の性格を反映してか、一人身であるゆえか、玄関はあまり清掃された様子がなく、案の定、植物の著しい成長に半端に埋没していた。
横の立て看板はもはや完全に緑の中に埋もれており、そこに書かれている名は見えるはずもない。
なんとなく呆れてその様子を眺めていると、おりしもその玄関から家主が出てきた。
家主は何かを大事そうに抱えながら、玄関先を右往左往している。
見守っているとその人物はこちらを見ている彼に気付いたようだ―――手を上げ、人付きする笑顔を向けてくる。
「よお、グリーン」
グリーンは片手を挙げてそれに応えた。
家主、レッドは上機嫌な様子で彼を出迎える。
グリーンはその異様なまでの笑顔に、むしろ体を引く。
わずかばかりたたらを踏み、小さく息を吸い込み尋ねた。
「―――きもちわるいぞ。どうしたんだ?」
「あ、ひでー」
そうは言いつつも、待ってましたとばかりに彼は微笑んだ。
事実図っていたかのような演技くさい動作で、彼の顔面に何かを差し出す。
その勢いに二、三歩後ずさりしながら彼はその姿を拝見した。
―――それはサボテンだった。
一般教養程度の植物に関する知識はあるが、いかんせんサボテンの種類ともなると教養範囲外。
そのサボテンがどういった種類であるかは断ずることができない。
朱じみた土焼きの鉢の上で緑色の茎が枝分かれしたサボテンが樹木のようにそこにたたずんでいる。
一見すると海草の仲間に似ているそれは、サボテンとは見受けられなかった。
が、それでもこれがサボテンだと分かったのは、ひとえに彼がコレを与えた張本人のためである。
いつかの折で植物園へ行った時の手土産として渡したものだ。
他人にはおせっかいのくせに自分には無頓着なこの少年に、手のかかる植物を与えることは無謀と判断し、手のかからない代表格を選択したわけだ。
案の定、そのサボテンはくたびれた感が漂っている。
彼に渡したときはもうちょっとメリハリがあったはずなのだが。
そして手渡したときとは明らかに違う点はもう一つあった。
「―――花だな」
レッドは、うん、と屈託なく微笑む。
幾多に枝分かれした一つに、黄色い花が一輪咲いていた。
花弁の少ない黄花はそれ自体が枝の延長であるように空へ向かって咲いている。
グリーンはレッドとサボテンを交互に見やり、この場で一番適切な感想を率直に述べた。
「よかったな」
「ああ。
―――あまり水とかやってなかったのにな。・・・植物って偉大だなぁ」
しみじみと言いながら彼はサボテンを雑草の中のぽんと開けたひだまり―――よく見ると敷居だった―――の中へ置く。
煩雑な手入れにもめげずにこつこつ成長してきたサボテンへの褒美、という意味らしい。
グリーンの記憶によると、このサボテンはレッドの自室の出窓に飾られていたはずである。
温暖な気候と日光を好むサボテン―――前置に比べれば破格の転置だろう。
「で、どうしたんだ、グリーン。今日は何かあったか?」
「いや」
グリーンはついさっきまで日にかざしていた本をレッドの前に差し出す。
ソフトカバーの厚い本は荒波にまみれる帆船の絵が描かれている。
見るものにとっては繊細とも、幼稚とも取れる絵の上にはこった字が描かれていた。
『ハーク・マルデンの冒険』
漁船で下働きをしていた少年が、やがて海賊の統領となるまでの勇気と冒険の物語である。
本を持つことがあまりないレッドが持っている、数少ない書籍の一つであった。
「お、わるいな。今度で良かったのに」
「暇があいたんでな」
レッドは得心してその本を受け取り、そのページを軽くめくった。
目に止まった挿絵で指をとめる。
「意外に面白かっただろ?」
グリーンはうなづく。
本当に意外に面白かった。
だろ、とレッドは満足げにうなづくと、自宅の扉に手をかけた。
「ま、あがっていけよ。お茶ぐらい出すぜ」
「―――言葉に甘えさせてもらおう」
日差しはさんさんと照り、さわやかな風は大地を一巡する。
草々は、夏の訪れをにぎやかに祝っている―――。