(´・ω・`)「ウィルス・・・」 - START OF CHANGE
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#120.5' #121' #122' #123' #124' #125' #126'


―――――――
 #120.5' START OF CHANGE
――――――――――――――――――――――――――――――

(なんでこうなっちゃったのかな……)
 ベッドに身を沈め、暗く染まった天井を見つめながら思考する。
 初めは成り行きに任せていただけだった。断ることができず、ただただ彼の勢いに流されていただけ。
 それが、気がつくと携帯のメールボックスの中に彼の名前を求め、目の前を横切る彼の姿を追ってしまうようになった。端々の雑音から聞こえる彼の噂に耳を澄ましてしまうようになった。
 周囲に対する誤解も、最初は強く否定できなかっただけのものが、いつの間にか消極的な肯定へと摩り替わっている。
 流されていることは意識しても、それを変えようとは思わない。否、変えたくない。
(……でも、あの人はそうじゃないから)
 彼は誤解を解きたがっている。でもそれに積極的に協力する気にはなれない。
 不思議な関係だった。
 他者から見て仲が良さそうなカップルと言われる自分たちだが、実際は秘密を共有するだけの酷く脆い関係。仲が良いと見えるのは、そのまま彼の漫画に対する情熱を表しているだけで、彼の気持ちは最初からこちらへと向かってはいない。彼の心が視えないことからもそれは自明だ。むしろ、最近は姉の方を見ているのではないかと勘ぐってもいる。
 彼が漫画を描かなくなれば、おそらくこの関係も自然消滅してしまうだろう。そして自分もそれに抗うほどの気概はなく。
(播磨さん……)
 なんとなく気が昂ぶって眠れなかった。漫画の手伝いが長引き彼の部屋に泊まるのは、今日が初めてではない。以前にも同じことがあり、それなりに慣れているつもりだ。
 八雲はベッドの下で熟睡している彼へと目を向ける。
 この部屋の主は、夜の安息の居場所を明け渡し、硬い床の上で毛布に包まれながらイビキをかいていた。薄手の毛布は彼の体躯には小さいらしい。縮こまりながらその身を押し込んでいるようだが、秋の夜の冷たい隙間風に晒されて肩を震わせている。
(私がベッドを使っているから、寝る場所どころか布団さえもろくにないんだ。なんだか寒そう……)
 だが八雲には、星明りに照らされた彼の背中が何よりも大きく、そして温もりを放っているように感じられた。
(……そうだ)
 八雲はこの静止した時間を壊さぬよう、そっとベッドから降り、播磨の顔を覗き込む。
 寝るときすら外されないサングラス。なにか幸せそうに寝言を言っているが、呟きは小さく、内容までは伝わってこない。心の読み取れぬ彼のことを少しでも理解できるよう、頬に触れんばかりに顔を近づけて耳を澄ましてみたが、結局は変わらなかった。
 それよりも――と、八雲は播磨の背後に身を横たえ、ベッドから掛け布団を引きずりおろす。次いで、そのまま自分たち二人の上へと覆い被せていく。俗に言う、添い寝。
 他意はない。ないつもりだ。
(こうすれば二人とも寒くないから)
 目を覚ましたとき、彼はきっと狼狽しながら詫びを入れてくるだろう。彼には非がないにもかかわらず、挙句、どうしてこんな状況になったのか探るそぶりすら見せず、どこまでも自分自身を責め立てる。
 そういう人なのだ。漫画の相談で何度も顔を合わせているうちに、少しだけ彼の心の中を読み取れるようになってきた。他の男性のように直接思考を視れるのではなく、なんとなく理解できてしまう。
 前者が読心術と呼べるものならば、播磨に対するそれは――そう、信頼だ。彼を信頼しているからこそ、苦手なはずの男性でも傍に居られた。下心を持ちえない故に触れることもできた。
(播磨さんは私の厚意に甘えていると言うけれど、実は私の方が甘えているのかな……)
 最初こそ戸惑ってはいたが、今は打ち合わせで会うことを心待ちしている自分がいる。会話することで心を弾ませている自分がいる。
(明日も文化祭なのに、それをサボってまで播磨さんのお手伝い……。でも、おかげであと少しで完成だから……)
 一度は筆を置いた彼だが、急に昨日になってやる気を取り戻したらしい。気力の充実に比例して急ピッチで作品を仕上げるつもりのようで、自然、相談役の自分も彼に付き合うことになった。
 多分明日も、互いの空いた時間を利用して会うことになる。そして彼の傍で出来上がった原稿に目を通すことになる。
 他者の混じりえない二人だけの空間は何物にも変えがたい安らぎだった。この布団に包まれているような穏やかな空気を想像すると、胸の奥に甘い鈍痛が広がってくる。
 それがどんな形を持ち、どんな言葉で表されるかは八雲には分からなかった。
 おそらくは、自分だけが本当の彼を知っているという優越。あるいは、彼の手助けをできる唯一の人間だという独占欲。とりあえずはそう思い込んでいる。いや、そう思い込もうと意識している。本当の答えを知ってしまうと、きっと大切ななにかが壊れてしまう気がするから。
 思考が乱れ、ふと周囲を見回してみる。
(いけない。早く寝ないと文化祭の最中に眠くなっちゃう)
 もともと夜遅くまで彼の手伝いは続いていた。それなのに考え事をしていたおかげで、脇に置かれた時計は既に早朝に近い時間を指している。思考の海に沈むのも潮時だ。
「……改めておやすみなさい、播磨さん」
 残りわずかな眠りの時間だが、しかし充足した眠りになるだろうことは疑いない。
 明日こそが本番。明日こそなにかが回り始める。
 彼の匂いに包まれ、八雲はゆっくりと意識を閉ざしていった。朝起きたときの彼の慌てぶりを夢想しながら。そんな想像の彼にひたすら平伏しながら。



―――――――
 #121' IT COULD HAPPEN TO YOU
――――――――――――――――――――――――――――――

 背後では様々な指示が飛び交う怒声。さらにその裏からは軽快な音楽、活気溢れる歓声、拍手。壁を一枚隔てたここは、外の喧騒とはまるで別の世界だった。いわゆる楽屋裏と呼ばれる場所。
 大道具担当の播磨は演劇の準備では色々と忙しくしていたが、本番の最中はほとんどやることがなくなる。空いた時間、空いた場所を有効活用し、彼はこの誰からも忘れられた静かな場所で執筆の続きをしていたのだった。そしてその作業も終え、今はメールで呼び出された八雲が最後の試読をしている。
「すまねえな、妹さん。文化祭で色々と忙しいだろうに、一晩中手伝ってもらったばかりか、今日も時間を取ってもらっちまって……」
「いえ、そんな……」
 ひたすら下手に出る播磨に対し、それ以上に謙遜する八雲。文化祭ということで八雲は魔女のコスプレをしているが、中身はいつものやり取りだった。当然、播磨からの服装に関するコメントはない。社交辞令は一切省き、本題の漫画の話に入っている。
(でも、それだけ早く私に読んでもらいたいってことなんだろうな……)
 期待していたわけではなかった。むしろ、他の男性のように容姿を褒めて機嫌を伺ってこようものなら失望を感じていただろう。純粋に彼に必要とされている事実こそ、薄っぺらな賛辞よりも心の奥に染み渡る。
「今回は特に自信があんだよな。それもこれも妹さんのおかげだ。感謝するぜ」
「わ、私は簡単な作業をしていただけですから……」
「いやいや、謙遜するこたーねぇ! もう妹さんなしじゃ描けないってくらい助かってんだからよ」
「……そ、そうですか」
 一枚、そして一枚。
 枚数が進むたび、八雲は播磨の顔をちらちら窺う。最初の頃は彼の方が八雲の一挙手一投足を凝視していたのだが、今ではすっかり立場が逆転してしまった。
 気になる。自分の挙動のすべてが彼に反映されてしまうのだから。少しだけ表情を綻ばせてみれば彼はガッツポーズをとって喜ぶし、難しい表情を見せれば好きな女性に振られた直後のような沈んだ顔になる。迂闊な行動はとれず、しかしなんの反応も見せないと逆に彼は落ち込んでしまう。
 なるべくなら彼を喜ばせるようにしたい。それが八雲の中にある揺るがない意思だった。
 百ページ超――それはあまりにも長い対峙。互いの視線が交錯する。沈黙が続く。
「ふぁ〜〜〜〜!」
 と、突然播磨が立ち上がった。無言で見下ろされ、威圧される格好となった八雲。
「あの……どうされたんですか?」
 多少怯えつつも、彼を理解しようと努める。彼の不測の行動は今回に限ったことではない。内心を視れない分、その奇抜な思考方法にはいつも驚かされてばかりだった。
「さすがに疲れたから、ちょっとそこらで休んでくるわ。ワリィが妹さん、全部読んだら感想を聞かせてくれねーか?」
「は、はい……」
 覚束ない足取りでこの場を離れていく播磨。寝不足の上、朝の騒動でよほど疲れが溜まったと見える。
(悪いことをしちゃったな……)
 予想していたとおりだった。彼は目を覚ました直後、布団を同じくする自分を見て石化したまま動かなくなってしまった。そして突如の土下座。「お姉さんになんとお詫びすればいいか!」「俺も男だ! 煮るなり焼くなり好きにしてくれ!」。羞恥で顔を真っ赤にしながら、身に覚えのない不祥事に顔を蒼白にさせながら、必死に侘びを入れてくれた。
(本当は私のせいなのにな……)
 遅まきながら、大胆な行いに恥じ入ってしまう。結局は自分の寝相が悪かったということにして彼を無理やり納得させたが、その裏では本当に信じているかどうか。
「あ……」
 考え事をしているうちにも、物語は順調に進んでいく。今は姫と王子が出会うシーン。
(そういえば――)
 逢引き。体育館に来る前、親友のサラからはそう言って冷やかされた。彼からのメールを何度も何度も読み返していたのも、余計に誤解をさせる原因となったのかもしれない。その内容は色気のあるものには程遠く、漫画が完成した旨と待ち合わせる場所と時間を指定しただけであったのに。
(もう……、サラったら違うって言っても信じてくれないんだから)
 今朝は間が悪いことに播磨のバイクに乗って一緒に登校しているところを目撃されてしまった。確かにハタから見れば付き合っているように見えなくはない。自覚はしている。
 しかし注意深く見ればそうではないことが分かるはずだ。
 二人の距離感は恋人のそれとは決定的に違った。播磨はたまにこちらを女性として見ていない節がある。無造作に近づきすぎ、結果として二人の距離が縮まっているように見えるだけ。実際は、その狭い空間が空虚なもので満たされているのではないか。
 この漫画の主人公二人のようには行かない。彼は決してこの王子のようにこちらの気を引こうとはしないだろう。
「このヒロイン、やっぱり姉さんに似てる……」
 なぜだろう、そう理解した瞬間から物語の内容が頭に入ってこなかった。一晩中手伝ったおかげでコマの隅から隅まで絵柄を記憶しているというのに。台詞の一言一言を暗唱できるというのに。
 実体のない喪失感。訳も分からず原稿を持つ手から力が抜けていく。
(偶然かもしれない。でも私にそっくりな人も登場しているから)
 魔女。魔法を使って播磨似の王子を補佐するのがその少女の役割だった。あまりに現実に則した配役は、余計なことまで勘ぐらせてくれる。
 現実からパーツを寄せ集めるのは構わない。人間の想像力とは、基本的に模倣と発展を交互に繰り返していくものだから。だが、もう少しひねりを入れてもいいのではないか。
(うん、例えば――)
 ヒロインの名前を、こっそり自分のものに代えてみる。
「塚本、八雲」
 一瞬だけ心が満たされた気がした。だが、本当に一瞬だけだ。今はむしろ、呟く前よりも虚しさにあふれ、キリキリと胸の奥を締めつけられる。
「……播磨さんには悪いけど、今日はここで読むのをやめよう」
 彼はきっと落ち込む。それでもこれ以上先を読み進めることが出来なかった。
 八雲は長いため息をつく。
「とにかく謝っておかないと……」
 原稿をこのまま放置するわけにはいかない。彼は漫画を描いていることを周囲に隠しているのだから。自分と付き合っていると誤解されようが、それだけは徹底している。
「どこにいるのかな」
 悩むまでもなく行く先は知れた。屋上か、保健室、あとはこの近くで誰にも邪魔されずに休める場所。彼の行動範囲や行動原理はある程度掴んでいる。この学校にいる誰よりも彼については詳しいはずだ。おそらくは彼と同居している従姉、刑部絃子よりも。
 案の定。
 彼は演劇の舞台で使われたと思われる豪奢なベッドに身を横たえていた。よほど疲れが溜まっていたのか、身じろぎすらしていない。その様は、姉たちのクラスの劇でやる眠り姫や、彼の漫画のヒロインである眠り姫を連想させるのに充分だった。
(じゃあ、私が王子役? って、そ……それは困る……)
 頬に朱が入る。この先のありえない展開を想像し、一人狼狽する。
 それでも不思議と悪い気はしなかった。抗いようのないなにかに身を掴まれ、彼の傍へと引きずり込まれても、他の男性のときのような嫌悪感は湧いてこない。
(こんな近くから顔を見たのは初めて……。昨日は暗かったから……)
 至近から彼の顔を覗く。強面だがそれなりに整った顔立ち。ヒゲが剃られたせいか、以前より若干丸くなった印象を受ける。
 ふとサングラスの下がどうなっているか気になった。だが、寝ているときに無理に外そうとするのはフェアではない。
 代わりに八雲はさらに顔を近づけ、その奥を透かし見ようとした。
(やっぱり見えないな)
 彼の心と同じ。こちらが望んでも、決して応えてくれることはない。せいぜい、たまに見せる隙から偶発的に見えるだけだった。
 しばらく見ていると――
(そういえば、私もあまり寝てないから眠いかも……)
 一度意識してしまえば、布団から発せられる甘美な誘惑を振り切れない。もともと睡眠欲にはめっぽう弱い。
 あの夜の再現だった。ベッドはそれなりに広く、彼の横で寝るくらいのスペースはある。八雲は憑かれたように布団の中へと吸い寄せられていった。
 なぜこんなことをしているのか分からない。ただそうすることが自然だと思っただけ。昨日と同じように彼の隣に身を横たえ、布団を頭まですっぽりと被り、目を瞑る。
 今回は彼の匂いがあまりしない。演劇のために新調した布団は太陽の香りすらせず、無機質な感触を与えてきた。昨日の暖かな感じもしてこない。
 と、今まで微動だにせず眠りについていた播磨が、不意に動きを見せる。
(えっ!? ひょっとして起きてる……?)
 突然抱きかかえられた。普段の彼からはありえないほど強引に、そして見かけどおりに力強く。か細く抗っても一顧だにせず、彼の胸元に顔を埋めさせられた。
 分からない。分からない。分からない。なぜ彼がこんなことをするのか分からない。
「は、播磨さん。なんで……」
「……うぅ、ん……」
 返ってきたのは意味のないうめき声だった。聞き、ようやく八雲も現状を把握する。
 無意識のうちに近くのものを手繰り寄せただけなのだろう。彼が起きていれば、こんな真似をするはずがないのだ。昨日も無実の罪なのに平謝りしたくらい、彼は硬派を貫いている。一時の気の迷いで女性をどうこうするような人間ではないのだと自分はよく知っていた。
「……良かった」
 疑いが晴れて安堵する。ただ、それを知っても今の状況を素直に受け入れることはできなかった。いくら信頼を寄せる人間とはいえ、男性の腕に包まれて眠るのには抵抗がある。
 なのに。
 彼を振り払う力はもう残されていない。いつものように状況に流されているのではなく、この状態を心の底では望んでいたというわけでもない。多分。
 ひたすらに眠かった。
 もともと強烈な眠気に耐えていたのだ。緊張が解けたおかげで、それがさらに加速した。
「もう駄目……」
 ゆっくりと目を閉じていく。先ほどよりも――そして昨日よりも強く感じる彼の匂いを胸に吸い込みながら。
「おーい。そろそろベッドのシーンだぞー」
 知らない声。意識が落ちる寸前、浮遊感と共にそんな声を聞いた気がした。



―――――――
 #122' AWAKENINGS
――――――――――――――――――――――――――――――

「…………!」
「…………!」
 誰かがすぐ傍で言い争っている。小声で、しかし激情を孕んだ強い口調で。
 高低二つの音程が互いにリズムよく左右の耳に飛び込んでくるのは中々に心地良かった。振り子時計のような、メトロノームのような、調和の取れた綺麗な波。
(なんだろう、騒がしいな……)
 急速に意識が覚醒してくるのを感じた。強制的なせいか、頭にモヤはかかったままだ。
 八雲は頭を振り、身を起こそうとする。
(あ、あれ?)
 動かない。なにかで身体を縛られているようで――いや、そういえば寝ぼけた播磨に抱きしめられて眠りに就いたのだった。今も眠る前と同じく彼の体温を感じているのだから、きっと体勢はほとんど変わっていないだろう。唯一変化が見られるとすれば、彼の腕に力がこもっていて少し痛いことくらい。
「――だいたいなんでヒゲがお姫様のベッドで寝てんのよ! 美琴はどうしたの!?」
「し、知らねぇよ。最初から見てねぇ! ちょっと借りてただけだろ? 俺だっていきなりこんなところに放り込まれて訳わかんねぇよ!」
「言い訳なんて聞きたくないわ! それより早く演技をしないと劇が台無しじゃない!」
(……やっぱり)
 起き上がることを諦めて布団の外に意識を向けると、聞こえていたのは播磨と愛理のじゃれあいのような口げんかだったことに気づく。道理で耳にすんなりと入ってくるわけだ。彼の傍に居るとよくこんな風景に巻き込まれる。愛理と出会った頃から彼女は播磨に敵意を向けていた。それは今も変わらず、むしろあの頃よりも激しさを増している。
「――だからといって、このまま続けるわけにもいかんだろ! そんなことしたら、お……俺とお嬢が……というか、今俺が起きるのはヤバイ!」
「いいから黙りなさい! そんでおとなしく私の言うことを――」
「……あ」
 彼らの痴話げんかが途切れた間隙を縫って、別の音が紛れ込んできた。
 穏やかなクラシック。無秩序な喧騒。
 それらはどこかで聞いたことがあった。いや、そんな曖昧なものではなく、はっきりと場所を覚えている。楽屋裏だ。そこで他人事のように聞いていたバックグラウンドが、今は臨場感たっぷりにごくごく間近に感じられた。例えるなら、自分がその中心に紛れているような。
「――!!」
 果てしなく嫌な予感がする。八雲は急ぎ播磨の腕から逃れようと試みた。彼に胸を押し付けるような格好になろうが構っていられない。
「ま、待て! 今出てきたら……」
「あん? 待てるわけないでしょ? 状況をよく見なさいよ」
「いや、おめぇじゃなくてだな」
 播磨がより強く自分を押さえつけようとする中、恐る恐る顔を布団から出してみる――と、白タキシードを着ている王子役の愛理と目が合った。
「あ、あんたは八雲!?」
 彼女らしからぬ素っ頓狂な声。客席まで響いてしまい、ざわめきが大きくなる。
 しかし、先ほどまで舞台を成功させようと躍起になっていた愛理は、今度は意にも介さなかった。舞台用ではない憮然とした顔を浮かべ、じっとこちらの瞳の奥を覗いてくる。物語の進行など関係ない。いつまでも終わることなく沈黙を押しつけてくる。
「……なに、抱き合ってんのよ……」
 ぼそり、と。
 身が凍りついた。一切の負の感情がこもった、あからさまな敵意。
「……なんであんたがここにいるの?」
「そ、それは……」
 答えられないのは、漫画のことを知られたくないからではない。非は確かに自分たち側にあったから。なにを語ろうとも彼女たち――特に愛理にとっては反感の元になるだろう。いや、たとえ仕方のない事情があろうとも理不尽に踏み潰してやろうという気概が窺える。そして彼女はそれが許される立場だ。
「あの……」
 知り合いだから許してもらうという理屈は通用しない。愛理の眼は赤の他人へ向けるものと変わりがなかった。
 平坦な瞳、平坦な声音で語りかけてくる。
「どうする気? 劇を台無しにしてくれちゃって……。もちろん責任を取ってくれるんでしょうね」
 絶対に逃がすつもりはないらしい。捕食されるウサギのように彼女の視線に射すくめられてしまった。
(ど、どうしよう……どうすれば……)
 思考が空回りする。訳も分からず身を震わせる。その動揺は彼にも伝わっているらしく、居心地悪そうに身をよじっている。
 すると。
(あ……播磨さんの漫画が……)
 一枚だけベッドから零れ落ちた。愛理とは反対側へ落ちたのは不幸中の幸いだろう、彼女を含めて演劇の観客全員が気づいていない。
 こっそり視線を送ると、彼の今作の漫画の中で一番印象深かったシーンが飛び込んできた。即ち、王子の播磨に魔女の八雲が楽しそうに笑いかけているシーン。気に入っていた絵柄だからこそ、そのページを一番上に置いておいたのだ。
「ちょっと、どこ向いてるのよ」
「……分かりました」
「え?」
 虚構で彩られた彼の暖かな抱擁から抜け出し、ベッドの脇に降り立つ。
 そして王子エリーとの対峙。
(沢近先輩、綺麗……なんだか羨ましいな。でも――)
 この芝居の王子役は自分ではなかった。だから目の前の華やかな男装の麗人に取って代わることはできない。配役だけ入れ替えても、きっと後悔するだけだろう。
 自分は自分。己の身の丈にあった役割を演じるしかない。その中で足掻くしかない。
「私は悪い魔法使いです」
 一度だけ目を閉じ、イメージしてみる。
 姫を独占し続ける悪い魔法使い。姫と他の男性の逢瀬を邪魔する意地の悪い魔法使い。他人の迷惑、姫の迷惑すらも省みず、自分のエゴのためだけに動く。たとえ周囲から非難を受けようが、たった一つだけ大切なものが手元にあれば微笑んでいられる。そんな魔法使い。
 目を開ける。杖を構え、愛理と視線を合わせる。
「そう、私は悪い魔法使い……」
 きっとこの役ならこなせるだろう。アドリブでも――否、アドリブだからこそ自信があった。
「私は知っています。この人は今とても疲れています。だから今は静かに休ませてあげるべきなのです」
 愛理の顔がさらに険しくなる。だが、途中で投げ出すことはしたくなかった。これを乗り越えられれば、きっとなにかが変わり始める。昨日寝る前に感じた予感は、この時のことだと思いたい。
「この人の眠りを妨げるのは……王子エリー、たとえあなたでも許しません!」
 聞き、愛理はうつむいてしまった。それきり動かない。ブツブツと口元で呟くだけで、劇のことも観客のことも置き去りにしてしまっている。
 そんな彼女に対して、不思議と罪悪感は湧いてこなかった。今だけは彼女と対等な立場にいる。それだけははっきりと理解できたから。
「……エリー王子……?」
「……邪魔なのよ」
 低く唸るような慟哭。声量こそ小さかったが、込められた意思は物理的な圧迫を持って身に圧し掛かってきた。
 本当の彼女が目を醒ます。
「姫は私が叩き起こすわ! そこをどきなさい!!」



―――――――
 #123' THE NEVERENDING STORY
――――――――――――――――――――――――――――――

「ほらほら、どうしたのよ! 許さないんじゃなかったの!?」
(こ、怖い……)
 この人は本気だ。躊躇うことなく剣を突いてくる。
 逃げるのに必死だった。どうすれば演劇が成り立つか、どうすれば物語が淀みなく進行していくかなどと考える余裕はまったくない。
 フェンシングでもやっていたのだろうか、一突き一突きが洗練されていて切り返す隙が見当たらなかった。それのみならず、たまに怒りに任せて剣を振り回してくるのだからたまらない。痣となって残るだけならいい方で、下手をすれば血を流す羽目になるだろう。
 劇を邪魔されて怒っているのは理解できる。しかしここまで見境がなくなるものだろうか。
(自分のやったことを正当化するつもりはないけど……)
 斬撃の一つ一つが彼女の心を表しているかのように重く腕に圧し掛かる。精神を削り取ってくる。
 愛理の心は元より視えない。が、少なくとも好かれているのではないとは分かっていた。自分に対し、彼女は他と比べても特に冷たい。たまに向けられる笑顔も、どこか目が笑っていない。姉の天満がいるから仕方なく相手をしている感じで、その仲介が無くなってしまえばきっと彼女はこちらの存在を無視してくるだろう。
(最初の頃は普通にお話できていたのにな……)
「ちょっと、いつまでがんばるつもり!?」
 今も完全に邪魔者扱いだ。彼女の剣戟からかろうじて身を守れているのは、彼女自身が焦りと興奮で精度を欠いているからに他ならなかった。こうして攻撃を繰り返してくる間にも、こちらと播磨の間を等分に窺っている。眼光は鋭く、皆の羨望を集める王子役には相応しくない。どこか醜く、物悲しさを孕んだものだった。
 愛理の攻撃は未だ止まない。
「知っているでしょ!? 台本じゃ、最後に残るのは王子なのよ!!」
「でも……」
 殺傷力のある攻撃に無防備にも身を晒すほどの勇気はない。悪い魔法使いになったときに覚悟を決めたつもりだが、怪我を負うのとはまた別次元のものである。
 いや、心のどこかでは負けたくないという想いがあったのかもしれない。他のどんなこともいい、しかしこの戦いだけは。
「じれったいわね!!」
 間合いを取る愛理。一度深く深呼吸する。
 おそらくこれが最後となるだろう。彼女の瞳からはある種の覚悟が漂っていた。それがどんな類のものか分からないが、今まで以上に苛烈な意志をぶつけてくることは疑いようもない。
「しっ!!」
「――!!」
 技巧もなにもない力任せの一撃。それを愛理は持ちうる最大限の速度でもって叩きつけてきた。杖で受け止めてツバぜり合いとなったはいいが、痺れが全身に広がり、一切の自由を奪われる。
 だが、これだけでは終わらない。未だ彼女の眼光は失われていなかった。
「答えよ、魔法使い!! 貴様はいったい何のためにこの私の前に立ちはだかるのか!!」
「私は――」
 突然の詰問に頭の中が真っ白になる。即興で作りあげた対立ゆえ、それに対する答えなどあるはずがないのだ。姉から借りて読んだ台本にも、そんな設定は含まれていない。
 なのに口では勝手に答えを言っていた。
「私と姫はあなたが知らない百年という時を共に過ごしてきました。それがあなたの前に立ちはだかる理由です……」
 無意識の返答だが、おそらくは正解。愛理は王子として質問しているのではなかったのだろう。一人の女性としてこの塚本八雲に問うてきたのだ。ならば心の赴くままに返事をすればいい。
「……その言葉に嘘偽りはないと誓うか?」
 逡巡する。とっさに答えたはいいが、本当にこれでいいのか。自分の出した答えは、「播磨と自分の中にあなたの立ち入る隙はない」と言っているに等しい。
 撤回する気はないが、改めて念を押されると迷いが生じる。はたして、あやふやな感情のまま彼女の真摯な意思を邪魔だてして良いのか。彼女の感情より上回るものを、自分は持っているのか。
 八雲は助けを請うように播磨の姿を目で追った。
 彼は脂汗を浮かべ、表情を引きつらせ、この先の顛末に戦々恐々としている。どんな展開になろうが望まない結末になることが確約されているのだ。身持ちの固い彼が成り行きで女性の唇を奪えることに喜ぶはずがなかった。
 そして、さらにその奥も見る。そこには零れ落ちたままの漫画。魔女の自分は、相も変わらず嬉しそうに播磨王子に笑いかけていた。
 なんだか悔しい。
 彼に拒絶されていることもそうだが、漫画の自分が等身大に描かれていないことが特に悔しかった。自分はあんな聖人君子ではありえない。気になる男性の恋路を無条件で応援できるほどのいじらしさは持ちえていない。
(播磨さんには悪いけど、私は決していい魔女なんかじゃないから)
 覚悟は決まった。愛理と再び視線を合わせる。
「……はい」
 その誓いの言葉を合図に杖に掛かる力が抜け、前にたたらを踏まされる。気がついたときには既に愛理は剣を投げ捨て、舞台の袖に引き返そうとしているところだった。その際に肩越しに睨みつけられるが、先ほどの鋭さは消え失せている。
「……ふぅ……」
 一息つき、初めて観客席の方を仰ぎ見た。と、そこで新たな動揺が走る。
 割れんばかりのキスコールだった。皆が播磨と自分を見比べ、先の展開に興奮している。中には悲鳴も混じっているようだが、興奮して騒然となっている点については同じだ。
 自分と愛理の剥き出しの感情のぶつかり合いに触発されでもしたのか、観客たちも退路を塞いでくる。
「だから言ったじゃない」
 去り際に、愛理がぼそりと呟いた。
「でも、同じ布団の中で抱き合ってるくらいだもの。キスくらい訳ないわよね?」
「そ、そんな……私は別に……」
 痛烈な皮肉だ。しかも誤解されている。付き合っているというだけならまだしも、既に肉体関係まであると勘違いしているようなのだ。
 無理もない。文化祭という格好のイベントでこっそり密会し、見つかるかもしれない校内でベッドを共にして抱き合っている。挙句、昼間なのに二人ともぐっすり寝ていたということは、よほど疲れるような行為をした後だったのか。普段から自分たちが逢っていることを知っている愛理からすれば、常習的に事に及んでいると疑われても仕方がないだろう。
 だが、今は弁解している余裕も時間もない。
「播磨さん」
「い、妹さん。早まっちゃいけねぇ」
 播磨に助けを求めてみたが、彼も打開策を見つけられないでいる。それどころか、彼に近づいたのはキスをするためだと勘違いしている。
 するしかなかった。
「あの……フリ、だけですから……」
 観客からは見えないように懐から播磨の漫画を取り出す。そして一枚だけ抜き取り、こっそりと互いの唇の間に差し込んだ。
「ま、待ってく――」
「……ん……」
 硬質の感触の裏にある柔らかさと温もりが脳内に甘く広がっていく。紙を通して二人の熱い呼吸が絡み合う。潤んだ瞳が互いに瞳の中に映り合う。
 沸きあがる歓声、しかし気にはならなかった。彼の吐息にすべてを支配され、頭の中が真っ白に染められていく。
「……無理にしてしまってすみませんでした」
 名残惜しいが、ずっとこのままでいるわけにはいかなかった。芝居は未だ続いており、最後のシーンを自分たちの手で終わらせなければいけない。
 八雲は播磨に起きてもらうよう、手を差し伸べて終わりを促した。が――
「あ、あの……播磨さん?」
 播磨が茫然自失となっているせいで動かないのである。眠り姫が最後に起きなければ、物語は閉塞しない。今までの姉のクラスメイトたちの努力や愛理の想いが、自分たちのせいで無駄になってしまう。
(こうなったら……)
 おもむろにベッドの中に入り、播磨に抱きついて目を瞑る。呆気にとられる周囲だが、ナレーションを担当している人が収拾を図ってくれると踏んだ上での行動だ。
「――と、というわけで、王子を退けた魔法使いは姫に今一度眠りのキスを施し、誰からも邪魔されることなく永遠に二人で眠り続けたのでしたー」
 俄かに歓声に包まれる。

          ◆◇◆◇◆

「なぁ妹さん、ちょっと聞きてぇんだが、なんであんなことを……?」
 播磨と並んでベッドに腰掛けている。すぐ近くでは金づちの音や木をへし折る音、ダンボールを裂く音や乱雑な喧騒などが聞こえるが、見えない壁でもあるように自分と彼の二人だけが周囲から取り残されてしまった感じ。
 別に無視されているというわけではない。むしろ愛理以外の皆には、本来の姫役である美琴の不在をよく穴埋めしてくれたと感謝されたくらいだ。
 よそのクラスが持つ独特の雰囲気に踏み込めず、結果として取り残されてしまっているだけ。忙しなく片付けに走る先輩たちの邪魔にならないよう、部屋の隅でおとなしく座っているしかなかった。いや、ひょっとすると播磨と二人きりでいられるように余計な配慮をしてくれたのかもしれないが。
「妹さん?」
 八雲は播磨の質問にあえて答えない。今はこの穏やかな沈黙だけが欲しかったのだ。代わりに、懐にしまっていた漫画の中から一枚だけ抜き取って彼に差し出すことにする。
 天満似の眠り姫に播磨似の王子がキスをしているシーン。そのページは二人の湿った吐息によってヨレヨレとなり、使い物になりそうにない。
 彼は気づいていないようだが、実はそのページを選ぶにあたって一つの願いを込めていた。漫画の中の播磨王子と結ばれるのは姉ではなく、自分似の魔女であるべきだと。彼に対してストーリーの変更を要求し、姉との架空のキスシーンを自分の本物のそれで上書きしたのだった。
「私は悪い魔女になると決めましたから」



―――――――
 #124' INVITATION TO THE DANCE
――――――――――――――――――――――――――――――

「あ、八雲! ここに居たんだ」
「姉さん……」
 文化祭のフィナーレを飾るのは、姉のクラスメイトたちが演奏するバンドミュージックだった。教師の演説を突如遮り、校風に見合った奔放な曲を披露している。
 周囲も触発されたか、この体育館は一瞬にして即席ダンスホールへと様変わりしていた。友人同士で踊りを楽しむ者、恋人同士で愛を語らう者、ナンパに明け暮れる者、勇気を出して告白に乗り出す者。すべてが混沌としていて、静寂を好む人間からすれば逃げたしたくなるような活気に包まれている。
 八雲は居場所を見つけられずに辺りを彷徨っていたのだが、壁の華となっていた天満と高野に発見されて呼び寄せられてしまったという次第だ。彼女たちの顔が妙にニヤけていて嫌な予感がするが、演劇の件もあって無視するわけにはいかない。
「むっふっふー。見ちゃったよぉ? 八雲が播磨君にキスするとこ」
「あ、あれは……」
 また姉の誤解。アングルの関係から観客には本当にしているように見えただろうが、舞台袖からは紙を一枚挟んだものだったことが分かったはずだ。純真なところが姉の美点とはいえ、ここまで疑うことを知らないと少しだけ将来が心配になってくる。芯はしっかりしていて頼りになるのだが、それが高じて散々に振り回されるような事態を作り出すのだから苦労が絶えることはない。
 特に最近は播磨関係のことで暴走し、周囲の人間関係を一変させてしまった。そしてその筆頭は、妹である自分だ。
「八雲も大胆だね。でもそれだけ播磨君のことを想ってたってことかな」
「そうだね。特等席で見させてもらったけど、中々にいい雰囲気だったわ」
「だ、だから本当はしてな――」
「照れない照れない! も〜、わが妹ながら可愛いぞ〜」
 か細い否定は無視される。
 それに姉のテンションは最高潮のようで、いつも以上に笑顔に満ちていた。この分では、頑と否定したところで取り合ってくれることはないだろう。長年培ってきた経験則だ。
「そういえば晶ちゃん? 特等席って、なんで天井からワイヤーでぶら下がってたの?」
「いえ、二人の邪魔するのも無粋かなって……」
 なぜぶら下がっていることが邪魔にならないことに繋がるのか分からないが、まあ彼女のことだから突飛な計画でも企てていたのだろう。気まぐれで不発に終わらせたことには感謝しなければならない。
 しかし姉が高野の隠された企みに気づくはずもなく。あっさりとその話題を忘れて話を再開し始めた。
「でもね、八雲。私たちはまだ学生なんだし、ちゃんと節度あるお付き合いをしなくちゃ駄目だよ」
「う、うん……」
 いつぞやの再現か、急に真面目な顔になり、こちらの両肩を掴んで瞳の奥を覗きこんでくる。あの時は播磨が乱入してきてよく分からないうちに話が収束してしまったが、今度はその時の約束を踏まえた上での今があった。ましてや、布団で一緒に眠っているところを目撃されてしまっては心配にもなろうというものだ。鈍感な天満はその意味を明確には理解していないようだが、漠然とした不安くらいは持っているだろう。
「播磨君はちゃんと私に約束してくれたし大丈夫だとは思うけど、前にも言ったとおり、言うべきことはきちんと言わなければ駄目だからね? お猿さんは駄目だからね?」
「うん、大丈夫。播磨さんはそんな人じゃないから」
「や、八雲……?」
 それは、姉が思うような間柄ではないからという意味で言ったつもりだったが。
「ふぇ〜ん。晶ちゃん、八雲に惚気られちゃったよ〜」
「よしよし、一人身は辛いところよね?」
 晶の胸に顔をうずめて泣きはらす天満。周りの男たちが羨ましそうに見ているのはきっと気のせいだ。
「はぁ……すっかり妹に先を越されちゃったなー」
 負けてられないなー、と顔を真っ赤にしながら幸せそうに呟く姉を見ていると、誤解を解く気力も無くなってくる。
 姉はいつも妹の自分のことを考え、その労力を厭わないでくれた。それが見当違いのものであっても、彼女の愛情は文字通り目に視える形で伝わってくる。恩を返すというわけではないが、水を差すようなことはしたくない。
(姉さんには笑ったままでいてもらいたいから)
 それに、今回に限ってはそれよりも重要なことがあった。
「ところで、あの……劇のほうはごめんなさい」
 一通りは謝ったつもりだが、念を押してもう一度。許してもらえたのは分かっているが、どうしても気がかりなことが一つだけあったのだ。
「ううん、私たちは別に気にしてないから。でも――」
 分かっている。あの人があれだけで済ますはずがない。播磨との仮初めのキスをした後に垣間見た彼女の瞳は、あらゆる感情を排した冷たさを持っていた。あの瞳の前では、どんな免罪符でも効力を失うだろう。
「――でも愛理ちゃんには一言言っておいたほうがいいよ」
「……うん」
 言ってはおきたいが、具体的になんと言えばいいか。暗鬱な気分のまま身動きが取れなくなる。助けを求めたいが、それをすると愛理はきっと自分を受け入れてくれないだろう。
(播磨さんと一緒ならいいんだけど……)
 本当なら彼も呼んで三人で話し合えばいいのだ。彼も当事者だし、自分も彼がいれば少しは気が和らぐ。だが、彼を連れ立って愛理の前に現れるのは絶対に逆効果にしかならない。ゆえに独力で彼女と向かい合うべき。
「仕方ないなー。よし! お姉ちゃんに任せなさい!」
 こちらの迷いを見て取ったか、姉は自身の胸を強く叩いた後、周囲を巡らせる。
「あ、愛理ちゃーん! 八雲が話があるって!」
「ね……姉さん」
 こんなときだけ姉は素早く目的の人物を探し出してくれた。
 あまりに唐突過ぎる。心の準備なんてできるはずもない。彼女なりの気遣いだろうが、いくらなんでもこれはあんまりだ。
 しどろもどろになる八雲だが、しかし相手の愛理は堂々としたものだった。
「そうね。私も聞きたいことがあったからちょうどいいわ」
「……沢近先輩」
 少し前までの険が取れているどころか、柔らかな笑みまで浮かべながら手を差し出してくる。本来なら喜ばしいはずだが、むしろ不気味だ。
(なんだか剣で切りつけられていたときよりも凄みがあるような……)
 ただ、一応は向こうから歩み寄っているのだから断るわけにはいかなかった。この機会を逃せば、一生拭えない禍根となる。相手は捕食を待つ蛇だとしても、既に毒は仕込まれた後であり、是が非でも彼女から血清を手に入れなければいけない。
「せっかくお互いにこんな格好をしてるんだし、ダンスでもしながら話をしましょうか。その方が話も弾むでしょう?」
「は、はい」
 それは逃がさないための口実なのか。背中に冷たいものを感じながら、八雲は愛理の手を取った。

「……あ、あの……お芝居のほうを邪魔してしまって、どうもすみませんでした……」
 いったい何分踊り続けていただろうか、愛理は今まで沈黙を崩すことがなかった。こちらがダンスで息を荒くしても、額から汗を流しても――ほとんどは冷や汗と油汗だったが――、黙々と身体を動かし続ける。目的が果たされることはなく、無味無臭の重苦しい気配を周囲に振りまきながら。
 だから自分から切り出すしかなかった。頭の中で何十回となく唱えた謝罪の言葉。
「ああ、それはもういいのよ。もう済んだことだし、私も少し大人気なかったし。気にしてないから安心なさい」
「そ、そうですか……」
 では、なぜこうしてダンスを踊り続ける必要があるのだろう。なぜ彼女は未だプレッシャーを与え続けてくるのだろう。
 傍にいて彼女が不機嫌であることはすぐに気づいた。こちらの顔をじっと睨みつけたかと思えば、すぐに視線をそらして顔を険しくさせる。ステップについていけなくても強引に引っ張られ、痛みと共に本来の動きを覚えさせられる。
 愛理は安心しろと言ったが、額面どおりに受け取るわけにはいかなかった。彼女は明らかになにかを気にかけ、そのことについてこちらに敵意を抱いている。
「ねぇ」
 ダンスの中に紛れる、弱々しい声。
「あんたとヒゲ……本当に付き合ってるの?」
(あ……)
 一瞬だけ立場が逆転した気がした。そして、そこに愛理の素顔を見た気がした。
 だがそれもほんの刹那の時間で、すぐさま仮面を取り繕い、こちらを威圧してくる。
「どうなの?」
「いえ、別に私は……」
 これこそが彼女の本来の目的なのだろう。ようやく合点がいく。
 今まで散々求めていた誤解を解くチャンスだった。ここではっきりと否定しておけば、自分と播磨が本当は付き合っているのではないと皆に周知させることができる。昼休みによく密会していることや、放課後に喫茶店で話をしていること、彼の部屋に泊まったことなどは、恋人同士ゆえではなく、もう少し違った角度から見られることになるだろう。
 なのに、なぜか言葉がのどに引っかかって出てこなかった。体が勝手に拒絶しているようで、一言一言発するたびに全身が悲鳴を上げている。
「私はただ……播磨さんにお手伝いを頼まれていただけで……」
 無理やり言葉を絞り出す。
 誰かが頭の中でそれ以上言ってはいけないと叫んでいた。今ならまだ引き返せると叫んでいた。だが、彼女の素顔を見てしまった後では虚しい抵抗に過ぎない。
「付き合っては……いません」
 口に出してしまった後で激しい後悔に襲われる。なにか大切なものを失ってしまったような、今まで積み上げてきたものが根元から崩れ去ってしまったような、そんな喪失感。
 胸の裡に広がる苦痛に耐えかね、愛理から目を背ける。
「……そっか」
 逆に彼女は少しだけ嬉しそうに。だが、やはりすぐに取り繕って険しい顔つきに戻る。
「じゃあ、あの時はなんで一緒の布団に? 付き合ってもないのに、ちょっとおかしくないかしら」
「そ、それは……」
 確かにそうだ。あの行為は漫画の手伝いと一切関係ない。色々と理由をつけて彼の傍に近づいていたが、どう考えても正当性はなかった。もし彼が起きていたならば、必死にこちらを説得しながら阻止してきただろう。
 つまり、自分の行動は周囲から見て明らかに異常だったと言える。なるほど、姉が心配するわけだ。
「私が勝手に……あの、播磨さんは悪くなくて……」
「でもヒゲだってあんたを拒絶しなかったんでしょ?」
「それは、その……私が無理やり……」
 言い訳をしていて虚しくなってきた。みじめになってきた。なぜこんなことを説明しなければいけないのか、そして自分が播磨に一線を置かれていることをまざまざと認識させられているようで。
「ふーん。おとなしい娘だと思ってたんだけど、実際は随分積極的なのね」
「い、いえ、そうじゃなくて……」
 不意に。急にダンスのステップを止められる。たたらを踏まされ何事かと顔を上げてみれば、侮蔑交じりの視線。
 言葉が足りなかったと思ったときにはもう遅かった。彼女は、自分が播磨に対して無理やり肉体関係を迫ったと思い込んでしまっている。劇が始まる前ならいざ知らず、終わった今では弁解することは不可能だろう。劇中にて困惑する播磨に無理にキスしてしまったという前科があるのだから。いや、厳密には本当にキスしたわけではないのだが、愛理にとっては些細な違いでしかない。
「なら、私もやりたいようにやらせてもらうだけだから」
 握っていた手を離されると、残ったのは冷たい感触だけだった。八雲は呆然と自分の手を見つめる。
「やっぱりあなたと踊るのは止めにしておくわ」
 それは決別の合図。宣戦布告の合図。
 愛理は振り返ることなく背後に声をかける。
「ヒゲ、そこに居るんでしょ? 踊るわよ」
「がっ……!? な、なんで……」
 体躯が大きいせいでちっとも隠せていなかったが、こっそりこちらを窺っていたつもりらしい。自分は今の今まで気づかなかったが、愛理は随分前から目ざとく見つけていたようだった。踊っている最中によく視線を逸らしていたのは、彼の姿を視界に収めるためだったのか。
「なによ、ヒゲ。文句ある?」
「くっ……! ねぇよ……」
 彼も愛理には強く出られないらしい。二人の口げんかは何度も見ているが今までに一度も勝てた試しがないし、特に今回は演劇の件もある。
 代わりに自分が盾となって出て行こうかとも考えた。しかし、愛理に彼の姿を見つけられて、自分は見つけられなかったというショックが尾を引いていて出来ない。その時点で彼に干渉する資格を失った気がしたのだ。
「ほら、体育祭の時を覚えてる? あの時もこうして踊ったわよね」
 愛理はわざわざこちらに言い聞かせるように、そして見せつけるように播磨の腕を取る。
(そうか……そういうことなんだ……)
 その先はよく覚えていない。ただ姉に優しく抱きとめられたことだけが頭に残っていた。

 きっかけは文化祭の最中に彼の部屋に泊まったこと。そこからなにかが少しずつ変わり始める。



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 #125' PLUNDERING LOVE
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「……ふぅ」
 胸の奥に溜まっていたものをすべて吐き出すように八雲がため息をつく。
 ここ一週間、ネームの打ち合わせはまったく行われていなかった。播磨が漫画に対しての情熱を失ったわけではない。彼が毎日他の事で忙しそうにしているだけ。逢瀬を求めるメールがぱったりと止んでしまっただけだ。
 いつもなら昼休みは屋上で彼と顔を合わせているはずが、今はこうして親友のサラと二人で食事をしている。それ自体に不満はないはずだが、溢れてくるため息を止められないのはなぜだろう。
「元気ないね、八雲」
「うん……」
 気遣わしげに声をかけてくるサラに対しても適当な返事しか返せない。悪いなとは思っていても、行動で示すことがひどく億劫に感じられた。
「最近は播磨先輩と一緒にいるところを見ないけど、なにかあったの?」
 相変わらず核心を突いてくる。彼女はいつもそうだった。
 面倒見がよく、快活で、男性とも気軽に話せて、自分にないものを数多く持っている。こちらが聞きにくいようなことでも彼女は構わずそこへと踏み込み、且つ、邪険に思われないように邪気のなさそうな笑顔で包み込んでしまうのだ。
「私で良かったら話を聞くけど」
「……ううん、なにもない」
 そう、なにもない。だからこそ憂鬱になる。不安になる。
 彼のアシスタントとしての地位はもう無くなってしまったのか。本当は彼に嫌われてしまっているのではないか。
 漠然とした不安だけだったらまだいい。心当たりがあるからこそ際限のない思考の渦に捕らわれてしまう。
「文化祭のときはキスまでしてラブラブだと思ったんだけどなー」
「それは……」
 それこそが原因。
 皆には恋仲と周知されていようが、自分たちの間でそんな甘い空気が流れたことなど一度もなかった。
 自分は彼に明確な恋愛感情を抱いたことなど一度もない。こちらを邪な目で見ようとしない唯一の男性として彼の傍にいることを心地よく感じ、他の男性のように心を読み取れないからこそその内側を知りたいという欲求に駆られているだけ。そんな彼の信頼をずっと独占していたかったのは事実だが、この気持ちを好きと定義するには躊躇いがある。
 そしてそれは彼も同じ。こちらを一友人として扱ってくれるだけで、男性として好意を向けてくることはなかった。彼の漫画の良き理解者として他の人たちよりも覚えはいいが、彼にとっての唯一の存在と言えるほどには自分は認められていないと感じている。
 互いにそんな気持ちを持ち合わせていないのに一足飛びで恋人に等しいような接し方をしてしまっては、彼も対応に困ってしまっただろう。それが転じて邪険に扱われても文句は言えない。
 何より彼には好きな人がいるのだ。これは間違いない。そしてその相手が自分でないことも。
 なのに皆の前で恋人の真似事を見せ付けてしまっては、好きな女性に決定的な誤解を与えることになる。彼の側からすれば由々しき事態だろう。
(最初はそれでいいと思ったんだけどな……)
 笑い話だった。彼が傍に居れば、彼自身に迷惑がかかろうとも周囲から嫌われようとも笑っていられるつもりだったのだ。だが、肝心の彼が遠くに離れていってしまっては意味がない。醜い自分の姿だけが残ってしまう。
(私はお芝居のように魔法は使えないから)
 例えば、女性としての魅力で彼を振り向かせる魔法。例えば、家事能力で彼のすさんだ生活を補佐する魔法。
 自分の元に繋ぎとめておくための魔法は、どれもこれも効力が弱そうで自信がない。眠り姫のように何十年となく手元から離さないなど不可能だ。
『悪い』魔女としてなら、いくつかストックはあった。
 例えば、女として誘惑してから弱みにつけこむ魔法。例えば、恋人を気取って他の女性を近づけさせないようにする魔法。
 だがそのためだった演劇のキスは空振りに終わり、他の方法でやろうにも、彼に距離を置かれてしまったかもしれない今では実行することすらできそうにない。
 第一、そんな悪い魔法を無効化できる女性が一人だけ存在する。
 沢近愛理。
 彼女だけが自分と播磨が恋人同士でないことを知っていた。否、教えてしまった。
(あの人はきっと播磨さんのことが好き)
 思えば、播磨と付き合っていると勘違いされた辺りから彼女は辛く当たってくるようになった。
 最初は彼のジャージの名札を繕っていた時。きっかけは分からないが、あの辺りから自分たち三人の関係が壊れ始めた気がする。
(でも、私と播磨さんが付き合っているって言い始めたのもあの時のあの人だから……)
 彼女の心が分からない。何を想い、何を考え、何を為そうというのか。矛盾に満ちたその行動は、彼女の本質をあやふやなものにさせてくれた。
(本当のあの人はどこにいるのかな……)
 ふと浮かんだのは、ダンスの合間に見せた弱々しい愛理の姿だった。怯えたような、こちらに媚びるような、そんな脆くて儚い印象は今も鮮明に覚えている。あれが本当の彼女なのだとしたら――
「八雲。じっとしているだけじゃ駄目だよ。たまにはこっちから行動してあげなきゃ。きっと播磨先輩もそれを待ってるよ!」
 雑考を心痛の沈黙と勘違いしたか、サラが極力明るく話しかけてくる。顔を上げてみると、視界いっぱいに広がった彼女の笑顔。
 未だ播磨と付き合っているのだと誤解したままなのだから、彼女のアドバイスは見当違いでしかないだろう。彼が自分と逢いたがっているなどありえなかった。それどころか、逢いに行っても無視される可能性のほうが遥かに高いと思われる。
 だが、不思議と誘惑に駆られたのも事実だ。これがサラの持つ魔法なのかもしれない。
「……そうかな」
「うん、そうだよ!」
 他の人なら口だけの励ましにしか聞こえなかった。でも、おそらくサラは信じている。自分の考えに絶対の信頼を寄せ、まったく揺らぎを見せることがないから自信を持って断言できるのだろう。だから自分も彼女の言葉を信じることができた。
「……私、播磨さんに逢いに行ってもいいのかな……」
「うん、絶対にいいに決まってる!」

          ◆◇◆◇◆

 今日のような晴れた日には風の踊る姿がよく見える。
 暖かな陽光と乾燥した空気、穏やかな大気の揺らめき、そんな様々な条件が重なって初めて現れる幻想的な光景。グラウンドから舞い上がった砂埃は、太陽に照らされて自己の存在を主張し、移ろう大気の中で乱反射を繰り返しながら一刻ごとにその姿を変えていた。
 彼はそういった風景を見るのが好きだったようだ。ネームの打ち合わせが終わった後も、屋上のフェンスに寄りかかってぼうっと遠くを眺めていることが多い。自分もその隣に座って無為な時間を一緒に過ごすのだが、放っておくといつまでも終わることなく沈黙が続いてしまう。
(今日はいい天気だから、播磨さんがいるとすれば多分あそこ……)
 サラに励まされた翌日の昼休み、八雲は屋上へと繋がる階段を上っていた。
 ここを使うのは何日ぶりになるのだろうか。一週間程度しか経ってはいないはずなのに、もはや遠い過去のこととなってしまったような気がする。大切なはずの播磨との思い出は、たったそれだけの間で色あせてしまっていた。
(これからこの階段をあと何回使うことになるのかな)
 白い壁についた上靴の跡、ペンキの剥げかかった手すり、切れかけた蛍光灯、そんな中を通り過ぎながら八雲は思う。
 再びここを毎日通うようになるか、それとも禁忌の場所として二度と近づかなくなってしまうのか。今日の播磨との対峙次第ですべてが決められてしまう可能性が高く、できることなら今すぐ引き返して運命の裁断を引き延ばしたかった。
(でも、それ以上にこのままでいることが辛くもあるから)
 進まぬ足を無理やり前へと押し出し、己を奮い立たせる。
 やがて見えてくる冷たく重い扉。無機質で飾り気のないそれは、人を排斥する魔力がこもっているかのように目の前に立ちはだかっていた。
(この先に播磨さんが……)
 足が震える。動悸が激しくなる。顔からは血の気が引き、目の前が真っ白になる。
 この扉を開けて彼が振り返ったとき、いったいどんな顔をこちらへ向けてくるだろう。笑顔なんて望んでいないから、せめて無視だけはしてほしくない。冷たい眼差しで射抜かれたくはない。
(お願い、姉さん!)
 八雲は心の中で救いを求めながら、意を決してドアのノブを回す。錆びた音色と匂いが不快に身体に纏わりついてくるが、なんとか振り落として外界の空気を招き入れた。
 しかし、その必死の思いも途中で止まる。
 別に今更怖気づいてしまったわけではない。扉の先からはいつもと違う空気を感じていたからだった。厚い鉄板一枚を挟んでも、はっきりと分かる不自然な気配。
 漠然とした不安を抱かせるそれの正体を探るべく、わずかに開いた隙間からそっと覗き込んでみた。
(やっぱりここに居たんだ)
 決して外されないサングラスと、日に焼けた端正な顔立ち、着崩した制服から垣間見える筋肉質な体。頭に記憶していた彼と寸分違わぬその姿に、思わず顔が綻んでくる。
 だがそれもわずかの間のことだった。確かに居たのだが、彼の様子がどこかおかしい。本来ならばフェンスに寄りかかって貴重な時間の浪費を満喫しているはずなのに、彼はなぜか屋上の真ん中に佇立し、扉で死角となっている方向へ渋った顔を向けている。
(誰かと話をしているのかな)
 自分の知る限り、彼と対等に話ができる人間はこの学校にはほとんど存在しない。皆が彼を恐れて距離を置こうとするため、まともに話ができるのはせいぜい姉とその友人たちくらいしかいなかった。
(姉さんの友達……それってもしかして……)
 嫌な予感がし、もう少しだけ扉を開けてみることにする。
 ギチギチと大きな音を立てるのがもどかしかった。扉の向こう側にもこちらの気配が伝わってしまい、いつ感づかれてしまうのか気が気ではない。細心の注意を払って丁寧に丁寧に扉を押していく。
「えっ……!?」
 やがて全容が知れたとき、八雲は思わず己の身体を掻き抱いてしまった。
(どうして沢近先輩がここに……)
 二人はこちらに気づいた様子もなく何かを怒鳴り合っている。
 そう、気づくはずがなかったのだ。一方的に愛理がまくし立て、播磨がそれを必死で防戦するという構図だが、調和の取れた掛け合いは完全に彼らだけの世界が出来上がっている。割って入り込む余地などありそうにない。
 甘い気配が漂っていないのが唯一の救いだった。が、二人が人目のないところで会っているという事実に変わりはないだろう。それも、今までの自分の居場所を愛理に奪われるという最悪な形で。
(もう私は必要なくなっちゃったのかな。それに、偶然私が漫画のことを知って相談役になっただけだから、別の人を探すことだってできるんだし)
 例えそうだとしても諦めきれない。
 万が一にでも悟られぬよう、開きかけた扉の裏に隠れて二人の会話を盗み聞くことにした。格好が悪いとは思わない。どんな羞恥を振り捨ててでも、彼らの密会の詳細を知りたかった。
「――い加減に観念なさい。今日も私の買い物に付き合ってもらうからね」
「だから、なんでそうなるんだよ! 昨日も散々買いまくってたじゃねーか! 今更買うもんなんてねーだろ!」
「うっさいわね。劇の件、忘れたの?」
「クッ……!! おめぇも大概しつこすぎんぞ」
 図らずも、この一週間の彼の変化の原因を特定できたようだ。忙しそうにしていた訳は、毎日愛理に引きずり回されていただけだった。強引に時間を奪われ、従順に飼いならされていただけだったのだ。この分では、漫画を描く余裕すらなかったに違いない。
 もちろんそれは、自分が避けられていない証明にはならないのだが。
(ずるいです、沢近先輩)
 劇を邪魔したのは播磨だけではない。自分も含まれるはずなのに、なぜか責任を押し付けられるのは彼一人。何より、彼女自身の口からもう気にしていないと言ってくれたではないか。負い目を笠に着て束縛するようなやり方は、断じて納得がいかなかった。
「なあ、いつになったら俺はお嬢から解放されるんだ!? 毎日毎日、馬車馬のようにこき使いやがって! 俺だってそれなりに忙しいんだからよ!」
 それは播磨も感じていたようだ。身振り手振りを交えて不満を表現し、飼い主の手に噛み付こうと躍起になっている。
 対する愛理は静かなものだった。刹那だけ見え隠れする痛みに耐えた顔が気になるが、高みから見下ろす視線に容赦はない。
「へー? 忙しいって、例えば何に?」
「そりゃ何って、おめぇ……漫――」
 とっさに自分の口を塞ぐ播磨。彼の最重要機密は迂闊に喋るわけにはいかない。いや、自分としてもできることなら喋って欲しくはなかった。
「まん?」
「マ、マンデリン!!」
 それはかつて姉が引っかかった貧相な話題逸らしなのだが。
「ふーん。そんなにコーヒーが飲みたければ、今日の放課後にでもおいしい店に連れてってあげるわよ。で、何? 本当はなんて言おうとしたの?」
 普通の人間が騙されるはずもなく、むしろ余計に猜疑心を上乗せさせる結果となってしまった。さらに放課後のデートの約束まで抜け目なく取り付けられてしまっては、目も当てられない。
 もどかしさのあまり、自分の身体を抱く手に力が入る。
「だ、だからだな――」
(は、早く何とかしなきゃ)
 駄目だ。これ以上彼女に好きに問い詰めさせたら、きっと秘密がばれてしまう。彼のすべてを奪われてしまう。
 他ならまだしも、漫画の件だけは絶対に譲れなかった。今まで自分たち二人だけの空間だったのに、途中から入ってきた彼女にそれを壊されたくない。彼と自分を繋ぐ細い糸を、他人の手で無造作にいじられたくなどない。
「播磨さん!」
 気がつくと扉から飛び出し大声を上げていた。自分の声が自分のものではない感じ。
 突然現れた意外な人物に播磨と愛理は驚きを見せていたようだが、自分はそれ以上に驚倒していた。頭の中が混乱でひっくり返り、二の句を続けられない。
「お、おう……妹さんか」
 鼻白んだ播磨が語りかけてくれ、ようやく我に返る。そして不自然に凍りついた時間も再び流れ始めた。
「播磨さん……」
「あー、なんか久しぶりだな。どうした?」
 劇の一件を引きずっているせいかやや顔が赤らんでいるが、彼の顔には紛れもない笑顔。それを見ていると、自分でも知らぬうちに釣られて笑顔を返していた。
(よかった……避けられてたわけじゃないみたい)
 涙があふれそうになる。たったこれだけの会話なのに、心の底から歓喜に打ち震えている自分がいる。この一週間の空白は愛理が彼を束縛していただけで、キスのことに負い目を感じる必要などまったくなかったのだ。これからも変わらず普通に彼の手伝いができるなど、こんな嬉しいことはない。
 八雲は気づかれないようにそっと目元を拭い、播磨の顔を見上げた。
「その、また播磨さんとあのことで話をしたいと思いまして」
「ああ、あれか。俺もいい加減にやりてぇなとは思ってたんだがよ」
 言いながら、ちらりと愛理の顔を窺う。
「ちょっ……そ、それってどういう……」
 彼女の前では漫画という単語を決して口に出してはいけない。播磨にとっても、自分にとっても。
 だが、意味深な会話は余計に神経を逆なでさせるだけだ。彼女にとっては、まるで二人の仲をわざと当てつけられていたように感じられただろう。排斥感と嘲弄感に汚染されたのか、体全体を細かく震わせている。頭の処理が追いついていないのか、口を開閉させて声にならない声を上げている。
 やがてそれらも治まったとき、彼女は静かにこちらの襟元に腕を伸ばしてきた。
「八雲……なんであなたは――」
 それは行き場のない衝動が無意識のうちに発露しただけ。元より彼女に害意などなく、事実、あいだに入った播磨によって簡単にせき止められてしまった。
 愛理は痛みをこらえるように、止められた手を胸に抱き寄せる。
「お嬢。そんなわけだから、今日からはもう荷物持ちには付き合えねぇ!」
「播磨さん……」
 ここで自惚れてはいけない。彼は決して自分を選んでくれたわけではないのだ。理不尽な待遇を突っぱねただけで、最初から比べる天秤など存在していなかった。利害が一致したに過ぎず、状況によっては愛理の側につく可能性だってあるかもしれない。
 それでも込み上げてくる嬉しさは止まらなかった。これからも彼の傍にいていいことの証しには違いがなく、先に続く二人だけの時間の共有を思うと、弾む心を抑えきれない。
(でも、沢近先輩はどう思ってるのかな)
 彼女には本当に悪いことをした。ただ彼と時間を共有したいと思っていただけなのに横から略奪するような形になってしまい、彼女の切なる想いを駆逐する結果となってしまったのだから。
(あれは本当に悲しかったから……)
 ダンスのときに彼女に同じことをされたからよく分かる。こんなことは、たとえ仕返しだろうが決してやっていい類のものではない。
 おそらくは愛理にもどうにもならなかったのだろう。他人を傷つけながら、己を傷つけながらも、その行動を選びとるしかなかった。心と体の乖離に懊悩しつつ、しかしそれを矯正する術を持っていない。
 結局は彼女も必死なのだ。播磨との希薄な繋がりを断ち切られないため、もがき苦しんでいる。周囲の人間に迷惑がかかろうが、彼自身に迷惑がかかろうが、構ってなどいられなかった。たった一言傍に居たいんだと言えればいいのだが、そんな簡単なことが言えないから、代わりに悪い魔女でいることを自分に言い聞かせてそのように振舞うのだ。その過程は自分も同じだったからよく理解できる。違いといえば、彼女の持っているものが恋愛感情で、自分が子供じみた独占欲というだけ。
(私と沢近先輩……全然違うと思ってたけど、すごく似ているんだ)
 愛理の目から見れば、きっと自分は無慈悲な略奪者と感じたに違いない。自分には奇しくも漫画という繋がりを得られたのだが、彼女にはそれに該当するようなものが一つもない。なにかの理由を強引に作らなければ、彼と話をする機会さえもないのだ。
「じゃ、行こうぜ妹さん!」
「は、はい!」
 愛理の様子は気になったが、彼に背中を押されて促されては足を進めぬわけにはいかなかった。痛々しい沈黙に身を削られる中、彼と並んで屋上の出入口へと向かう。
 そして陽が天井に隠れだした頃。
「……なんで……いつもこうなのよ……」
「――!!」
 背後からの潰れてかすれた声に、心臓を鷲掴みにされる。去り際、扉を閉めようとしたときに愛理の口から漏れた弱々しい呟きは、演劇で垣間見せたものと寸分違わぬ響きを持っていた。まるで捨てられた子犬。虚飾を排した彼女の脆弱な心が、この場から立ち去ることを許してくれない。
(一言、謝っておいたほうがいいのかな……)
 八雲は振り返り――そして後悔した。
 そこに立って見えているはずなのに、彼女の気配がまるで感じられない。現実感に乏しく、目を凝らしても彼女の輪郭すら掴めそうになかった。幽鬼のごとく――そんな言葉がしっくりと来てしまい、ある種の不気味さまで漂ってくる。
 そして、そんな状態にしてしまったのは紛れもなく自分だった。
(あの人は私なんだ)
 一週間前の自分。
 姉に抱きとめられながら感じていた喪失を、今度は彼女が体の髄まで味わっている。因果応報といえばそれまでだが、あの辛さを知っている身としては、他の誰にも同じ思いをしてもらいたくなかった。
 愛理にとって救われないのは、姉のように包み込んでくれる存在がないことだろう。自分たちがここから離れてしまえば、彼女は一切の孤独の中に放り込まれることになる。凍えを共有してくれる者はなく、温もりを分け与えてくれる者もなく、残るのは播磨に無体な仕打ちをしてしまったという事実のみ。
(ど、どうしよう。本当にあのままにしていいのかな……)
 彼女の様子に気づかぬ播磨と共に階段を下りていくが、立ち去る際には扉を閉められなかった。自分なら、きっと一縷の望みを託して彼が戻ってきてくれるのを待つだろうから。期待を裏切られることは分かっていても、何かに縋りついていないと耐えられそうにないのだ。ここで意地悪くも閉めようものなら、彼女は二度と屋上から降りてこないような気がする。
(……あ、そういうことなんだ)
 突如ひらめいてしまった。このやるせない気持ちを解決させるたった一つの方法を。
「あ、あの……播磨さん!」
「うぉっ! ど、どうしたんだ、いきなりでけえ声を出して……」
 普段はありえない人間から耳元で叫ばれたおかげで、飛びすさって壁にへばりつく播磨。その挙動の可笑しさに場の空気が少しだけ和みかけるが、しかし八雲はばっさり切り捨てて真面目な顔を取り繕う。
「沢近先輩のところに戻ってあげてくれませんか?」
「あぁ?」
 簡潔な要求だった。あまりに簡潔すぎて、彼は意図するところをまったく掴めていない。
 当然だろう。彼と同じ時間を過ごすためにわざわざここへ来たのに、いざその機会が訪れるとあっさり約束を撤回してしまったのだから。挙句、愛理に付き合う義理も消失してようやく自由の身となったのに、また理不尽な檻の中へ放り込もうとしている。
 ともすれば、唯一の味方に裏切られたとでも思っているのかもしれない。
「今日一日だけでいいんです。あの人の言ったとおり、今日だけは買い物に付き合っていただけませんか?」
 自分にとって何の益もないお願いだ。むしろ、欲求するところと対極に位置する願いでもある。なのに、泣きそうになりながらも必死になって彼に頼み込んでいた。
 彼女は自分だった。外見はともかく、内面に関してはどこまでも自分と似通っていて、違う部分がほとんど見当たらない。同じ人のことを考え、同じことで悩み、同じ方法で解決を図っていく。だから考えていることはよく分かるつもりだ。今日になってようやくあの人を理解できた。
 この上ではおそらく愛理が待っているはず。決して訪れることのない展開を頭の中でグルグルと妄想しながら、現実の虚しさを噛み締めているはずだ。
「お願いします。今日だけは沢近先輩と……」
「ま、まあ妹さんがそこまで言うんだったら……」
 正体の掴めぬ迫力に押されたか、明らかに不服そうな顔ではあるが播磨が承諾してくれる。それを聞きホッと息をつく八雲だが、しかしすべてが終わったわけではない。
 彼が気の利くような人間であるはずもなく、迂闊にぼろを出されるとより事態が悪化してしまいかねなかった。念を押し、自分の思惑を彼に浸透させる必要がある。
「あと、漫画の件はできるなら播磨さんのほうから中止にしたことにしてくれませんか?」
「えっとよ……。もう何がなんだかさっぱり分からんが、とにかく俺からお嬢を誘えばいいんだよな?」
「は、はい。突然こんなことを言ってすみませんでした」
 彼の言葉に萎縮する。
 正直、こちらのほうこそ訳が分からなくなっていた。なぜこんなに必死になっているのか、なぜ自分を追いつめるような真似をするのか、感情というものがまるで制御できていない。愛理の中に自分の姿を見出してからは、暴走の連続だった。
「しゃーねぇな。んじゃ、行ってくるわ」
(やっぱり私は悪い魔女にはなりきれないのかな……)
 乗り気でない播磨に手を振って見送りながら考える。
 彼の漫画に描かれていた塚本八雲像は、実はしっかりと等身大に描かれていたのかもしれない。心の中でどんな自分勝手な思考を巡らせようとも、最後には相手に譲ってしまい、ハッピーエンドの手助けをしてしまうのだ。
 思えば、漫画の中の自分は心理描写に乏しかったように感じられる。彼女が本当は何を思っていたのかは読者の手に委ねられ、その解釈の幅を広く生み出してしまっていた。自分はただの親友の一人としてそのキャラを捉えたが、中には彼女の裡に王子に対する恋心を感じ取る人もいるだろう。
(播磨さんはどんな気持ちを込めて私を描いたのかな)
 いや、それについては考えまい。何となくだが、今はまだ時期尚早のような気がする。
「はぁ……」
 そしてため息で一区切り。
 今日は色々ありすぎて考えることに疲れてしまった。もうこれ以上はなにもしたくない。立っていることすら億劫に感じられた。
 壁に寄りかかり、目を瞑る。そろそろ彼も屋上に辿り着く時間だ。
「は、播磨君!? どうしてあなたがここにいるの!?」
「ああ、やっぱ中止にしたんだわ。暇になっちまったから今日くらいまでなら付き合ってやるよ。コーヒーのおいしい店に連れてってくれるんだろ?」
「えっ!? う、うん! あ、あのね、前にナカムラに教えてもらったんだけど――」
 風に乗って聞こえる二人の会話を上の空で聞き流す。
 涙は流れなかった。この寂しさはきっと彼女と共有できるものに違いないから。

          ◆◇◆◇◆

「どうぞ、八雲。今回もおいしくできたよ?」
「ありがとう、姉さん」
 今日の夕食もカレーだった。これで七日連続となるのだろうか、彼女の唯一のレパートリーである甘口マグロカレーが食卓に二つ並べられる。意外とおいしいし気持ちもありがたいのだが、毎日毎食こればかりではさすがに辛い。
(でもこれは、姉さんが私を心配してくれてる証しだから)
 カレーを一さじ口に含み、彼女の心遣いを噛み締める。
 文化祭が終わってからというもの、姉は積極的に家事に関わるようになってくれた。至らぬところが多く、自分一人でやったほうが早いことも多々あったが、彼女から感じられる温もりは増えた労力分以上のものをこちらに与えてくれる。
 播磨のことで沈んでいた気持ちが、姉によってわずかにでも癒されていたのは事実だ。なるべく彼の話題を出さないような気遣いを見せてくれたし、あれだけ毎日話をしてくれた烏丸のことも一切口にしなくなった。心が視えるおかげでほとんど意味を成さなかったが、随所に彼女の思いやりを感じられ、家の中でだけは彼のことを忘れたままでいられた。
 しかし――
 そんな不自然な安らぎももう終わりだ。姉とはいつでも気兼ねなく話をしていたい。彼女の心の中に、たった一つだろうと曇った影を作らせたくはない。
「姉さん? ちょっとだけいいかな」
「ほへ?」
 スプーンを口に咥えて小首を傾げる彼女に、一枚の手紙を差し出す。
「明日、これを播磨さんに渡してもらいたいんだけど」
 丸一日悩み続けてようやく決心がついた。この手紙に込められた願いは、きっと自分を含めた周囲の環境を一変させてしまうものだ。良くなるのか悪くなるのかは全然見通しがついていないが、この先自分が笑っていられるためには絶対に必要なことだと感じている。
「それって……」
 天満の目が輝きだす。部屋の中が明るい空気に満たされ始める。思えばこの一週間、彼女はずっとこの瞬間だけを待ち望み続けていたのかもしれない。
「うんうん、やっと八雲が元気になってくれて私も嬉しいよ。播磨君には私がちゃんと責任を持って届けてあげるからね。どうしたいのかはお姉ちゃんにはまだ分からないけど、八雲のこと応援してるから」
「うん……本当にありがとう」
 播磨との関係。愛理との関係。少しだけ前に進めそうな、そんな予感がした。



―――――――
 #126' THE TIME WHEN IT SHARES
――――――――――――――――――――――――――――――

「す、すみません……ここで人と待ち合わせを……」
 これで何度目になるだろうか、回数も忘れるほど使いすぎた言葉を目の前の見知らぬ男性へと投げ送る。
(……失敗、しちゃったかな)
 ここはバイト先のメルカドではなく、初めて訪れてみた喫茶店だった。二人用のテーブルで、片方を空席にしたまま八雲は紅茶を嗜んでいる。
 待ち合わせをしているというのは本当だ。約束の時間は午後一時。まだ十五分ほど余裕はあるが、長針一周分をゆうに越えるほどここで待ち続けていた。
 だが、あまりに待ちすぎたせいか周囲に誤解を与えてしまったらしい。彼氏に約束をすっぽかされたが認めたがらず、わずかな可能性にすがっている哀れな少女――そう思われている。おかげで隙を狙っている男性たちがひっきりなしに声を掛けてきて、困惑の連続だった。
(早く来ても良いことなんかなかったのに……)
 自分でもどうしてこんなに早く来たのか分からない。
 姉の手伝いによってむしろ増えてしまった家事、いつもより丁寧な身だしなみの整え、友人と遊びに行くという姉の見送り、それらすべてが終わったときに居間でお茶を飲んでいたはずだが、時計をちらちらと眺めているうちにいつの間にかここに来ていたことに気がついた。
 最初は五分だった。次は三分おき。そして一分、三十秒、十五秒、時計に視線を送る間隔がどんどん短くなって、やがて秒針から目が離せなくなったところで記憶が途絶えている。
(あのままあそこに居ても、することがなくて暇だったから)
 いや、言い訳はやめよう。
 約束の時間まで待ちきれなかったのだ。期待と不安、それぞれが等分に交じり合い、じっとしていることが苦痛になっていた。一人で居ると見えない何かに押しつぶされてしまいそうで耐えられなかった。
 今もそれは続いていて、窓の外の人ごみを眺めることによって何とか気を紛らわせている。
(あの手紙、播磨さんはどう思ったかな。急にあんなことをしたから驚いたとは思うけど)
 あと十五分ほどでここに来るはずの人のことを考える。
 彼と連絡を取り合うのに、普段はメールという手段を使っていた。それも、こちらからは一度も送ったことがなく、いつも彼から打ち合わせの連絡が来るのを待つだけ。互いに色気のあるやり取りは存在せず、すべてが事務的内容で占められている。
 今回もある意味同じで、この喫茶店に午後一時に来てくれとだけ簡単に伝えておいた。違うのは、こちら側から意思疎通の行動を起こしたことと、古風にも手紙という方法でその意思を伝えたこと。
 メールではなく手紙にしたのには訳がある。
 たった数行の味気ない内容とはいえ、そこに込めた願いは自分にとって最重要とすら言えるものだった。簡単にやり取りができるメールでは、それゆえに中身も軽いものになってしまう印象がして、出来るなら使用は避けたい。形に残すことによって、自分の強い意思を再確認したかったのだ。それが一つ目の理由。
 二つ目は、播磨からの返事を聞くのが怖かったから。だからすぐに返信できるメールではなく、一方通行で意思を伝えられる手紙を選んだ。手紙を姉に託したときから念のために携帯の電源は切っているため、今は向こうから連絡を取ることすら不可能だろう。彼にできる選択は、ここへ来るか来ないかの二つだけ。
(……つまり、来てくれないかもしれない。手紙のことは私の独りよがりで、本当は播磨さんにとって来る価値も来る意味もないし……)
 先ほどから、携帯へと何度手が伸びそうになったことか。連絡を取れないようにしたことが、逆に底のない不安を誘ってくる。
 姉は渡したと言ってくれたが本当に届いているのか、彼は中身をちゃんと読んでくれたのか、何か来られない事情でも出来ていないか。考えるたびに来てくれない要素が湧き出てしまう。
(もし今日も沢近先輩に付き合ってデートしていたらどうしよう。あの時はあれで最後って言ってたはずだけど、もしかしたら今頃は……)
 考えうる最悪の結果だった。漫画の手伝いの時間を誰にも邪魔されたくないのと同様、今だけは自分の居場所を他の女性に削られたくない。
(だって――)
「こんにちは。さっきからここでジッとしているようだけど、どうしたの?」
「いえ、あの……」
 またナンパ。言葉遣いは丁寧で、親身になってこちらの心配をしているように見せかけているが、心の中が視えてしまってはすべてが台無しだった。
 何を考え、何をしようとしているか透けて視えてしまうのは、便利な反面ひどく物悲しいものがある。相手に何も期待を掛けられず、逆に相手の期待に応えなければいけないという負い目も生まれる。己を束縛するばかりで、ただ目の前のものを受け入れているだけの人生が虚しかった。
「なんか落ち込んでいるみたいだし、俺で良かったら話を聞くけど。どうかな」
(でも、播磨さんはこの人たちとは違うから)
 数ある男性の中で、彼の心だけが唯一分からない。突然機嫌が良くなったり、逆にひどく落ち込んだり、何かに悶えてみたり。心が視えない分、彼の行動には掴みどころがなかった。
 そして、そんな彼と共に居ることを楽しみに感じている自分がいる。義務ではなく、初めて男性に対して能動的に動けるから。男としての欲望を向けられることで男性全般に苦手意識を覚えてしまったが、彼に限ってはそれがなく、安心して近づくことができた。
「ねぇ、聞いてる? せめてこっちくらい見てくれないかな」
 しかし、実際播磨のためと思って色々行動しても、大抵が裏目に出て困らせる羽目になる。
 今までが人の心を読めるということに慣れすぎていたのだ。視えるからその人が望むように行動し、いつしか当たり前だと思うようになってしまった。それ以外の方法で男性と接しようと思っても、どう動いていいのか分からない。過去から培ってきた処世術が彼にだけは通用せず、暗闇の中をすべて手探りで探っていくしかなかった。
(視えないせいで怖いことも多かったけど、今はそれ以上に楽しいかな……)
 どれほど苦労しても見つけられるのはほんのわずかな断片のみ。しかし、少しずつ彼のことを理解できるのは嬉しくてたまらなかった。まるでパズルのように一つ一つのピースがはめ込まれていくのを見ると、心が躍る。達成感というのもあるが、まだ見えぬ全体像を想像して期待に胸を膨らませていくのだ。
(いつか一枚の絵を完成させてみたいな。播磨さんのこと、全部知ってみたい)
「――ねぇ、聞いてる? 落ち込んでるのも分かるけどさ。人と話すことで気が楽になることもあるだろう?」
「えっ、あ……すみません、ここで人と待ち合わせを……」
 前の人に声を掛けられた時と一字一句違わず言葉を返す。何度も声を掛けられすぎて暗唱してしまったし、大事な考え事の最中なのに他の事へと思考を割くのも煩わしかった。
 しかして、その男はこちらのように心が視えるわけではなく。自分の欲求を優先させて、独り言のように続けて語りかけてきた。
「それって、女の子? 男? でもずっと待ってても来ないと思うよ。それじゃあ時間の無駄だろう? だから俺と――」
「いえ……きっと来てくれると思います」
 控えめに、しかしはっきりとした口調で男の繰り言を遮る。この店の人たちはすっぽかされたと思っているようだが、まだ約束の時間まで五分もあるのだから。
 なのに男の言葉が耳の奥から離れてくれない。過程は違うが、播磨が来てくれない可能性は確かに感じていて、具体的に言葉に出されたことにより不安はさらに増大されてしまった。
 八雲はうつむき、自分の膝をじっと見つめる。そうしていれば、いつか嫌な事がすべて過ぎ去ってくれるとでもいうように。
「まあまあ。何なら、来るまでの間の暇つぶしでいいからさ。じゃ、立ち話もなんだからここに座らせてもらうよ?」
 現実はそれほど甘くはない。
 返事が出来ないのを了承と受け取ったか、男は向かい側の椅子へ腰掛けようとしていた。それどころか、回り込む際に心配するふりをしてこちらの肩を触ってくる。
(やっぱり男の人は怖い……)
 増幅された下心が透けて見え、恐怖で体が動いてくれない。肩に置かれた手を払いのけようにも、その際に手が触れ合ってしまうのは避けたかった。
「あ、あの……私……」
 何とか勇気を振り絞り、拒絶の意思を表すため顔を上げる。
(えっ?)
 が、そこには予想に反して男の怯えた顔があった。先ほどまでの欺瞞に満ちた馴れ馴れしい笑顔ではなく、恐怖のために引きつってしまった歪な笑顔。
 怖いのはむしろこちら側なのに。
 訳が分からない。顔を伏せている間にいったい何が起こったのか。
 そんな疑問を持ったときには、既に答えが目の前に示された後だった。
「播拳蹴《ハリケーン・キーーーーク》!!」
 男の顔にめり込む厚底の革靴。不快の大元は、何か嫌な汁を空中に飛散させながら店内の観葉植物へと頭をめり込ませる。その際に気を失ってしまったらしく、手足は力なくぶら下がったままだ。
 一方、危害を加えた男は未だ怒りが覚めやらぬようで、こちらに背を向けたままストンピングを繰り返して追い討ちをかけ続けていた。
「おい! てめぇ……俺様の大事な人に手ぇ出したらどうなるか、分かっててやってんだろうな! あぁ!? おら、聞いてんのか、てめえ!」
 聞き覚えのある声。ずっと待ち望んでいた声。怒気が混じっていて怖くもあるが、こちらを案じてのものだ。怯えるものでもない。
 気がつくと八雲は席から腰を浮かせ、衝撃的な現れ方をした男に声をかけていた。
「……播磨さん」
「時間通りに来たつもりが待たせちまったようだな。あの男に変なことでもされなかったか、塚も……あ、あれ?」
 格好をつけていたつもりなのか、なぜか芝居がかった仕草で振り返る播磨だったが、こちらの姿を捉えた瞬間にその仕草はかなぐり捨て、怪訝そうな顔を向けてくる。
 前に姉が播磨と出かけたときに褒められたという服を借りてまで着飾った自分の格好は、確かに見慣れなくはあると思うのだが。
(姉さんはバッチリだってニヤけた顔をしながら言ってくれたけど、何かおかしなところでもあったのかな。でもここで鏡を取り出して見直すわけにはいかないし……)
 パタパタと自分の髪や服をはたいてみても、出てくるのはわずかな埃のみだった。
「な、なあ妹さん? つかぬ事をお伺いしますが、お姉さんのほうはどちらに……」
「えっと……いつもの友達と遊びに行ってます」
 姉のことはこの場に一切関係ないはずだが、訳も分からず素直に答えてみる。
 が――
「なにぃいいいい!! じゃあ俺は天満ちゃんに約束をすっぽかされちまったってことか!?」
「い、いえ……そうじゃなくて……」
 答えた内容にショックを受けたようで、店内で人目を気にせず絶叫を上げる播磨。何か誤解をしているのは分かったが、訂正しようにも一人熱くなっていて聞いてくれそうにない。
 どうしていいか分からず、とりあえず八雲は他の迷惑そうにしている客に頭を下げてみた。何回も、何十回も、ただひたすらに。
 しかしてその甲斐はなく、播磨の魂の咆哮は相変わらず続いている。
「そりゃないぜ天満ちゃん!! 『この中の気持ち、ちゃんと受け取ってね?』なんてあんだけ期待させておきながらドタキャンなんてよぉ……。いやいや、待てよ? ひょっとしたら天満ちゃんは、呼び出したことが今更恥ずかしくなって、来るに来られなかったって……」
「あ、あの!」
「くっ!! そうか、そういうことだったのか! まさか俺ともあろうものが、天満ちゃんを疑っちまうようなこと――」
「播磨さん、お願いしますからまずはお話を……」
 これ以上の注目はさすがに辛い。彼の服の裾を引っ張り、こちらへと注意を引きつける。何度か根気よく続けていると、ようやく落ち着きを取り戻してくれた。
「ああ、取り乱して悪かったな。お姉さんが来れないってことをわざわざ俺に言いに来てくれたんだろ? なんか手間を取らせちまったようだな」
「その……あれは姉さんじゃなくて私の……」
「へ?」
 手紙に名前を書かなかった自分も悪いが、いったい姉はどう言って手渡したのだろう。よほど彼を誤解させる言い回しをしたのか、彼自身が誤解しやすい人なのか、その両方なのか。
 今日だけは姉のことが恨めしく感じられた。
「で、ですから、あの手紙は私が書いたもので……」
「ああ、そうなんだ――って、なにぃいいいいいいいいいい!?」
「……ご、ごめんなさい」
 また突然の咆哮だ。驚きのあまり萎縮し、とっさに謝ってしまう。
 だが本当に驚愕するのはこれからだった。
「するってぇと、まさか妹さんが俺に愛の告白を?」
「えっ? い、いえ……それは違……」
 慌てて手を振り、必死に否定する。どうしてそんな論理展開をしたのか分からない。あの手紙は極々簡素なもので、ラブレターとは縁遠いはずだ。
 ひょっとすると今後はその展開もありうるが、現状でするつもりは一切ない。そうだと答えて彼の返事を聞きたい誘惑にも駆られるが、それをすれば自分の気持ちを確認する機会は失われることになる。何より、断られて距離を置かれてしまうことが怖かった。
「私は別に告白がしたくて……その、播磨さんを呼んだわけじゃなくて……」
「そ、そうだよな。まさか妹さんが俺を好きだなんて、そんなのあるはずもねぇか」
 いや、実は思い当たる節があったはずだ。播磨は自身の唇に手を当てているのだから。彼の頭の中では、文化祭の演劇で交わした間接的なキスが思い起こされているに違いない。
(まだ意識してくれてるんだ)
 自分も唇に指を当てる。薄く紅の引かれたそこは、あの時の感触そのままに艶っぽく湿っていた。試しに舐め取ってみると、多少の苦味と共に広がる甘い口紅の味。
「でも……あれってファーストキスにカウントされちゃうのかな」
「ぐはっ!! や、やっぱり妹さん、心が読めるんじゃ……」
 迂闊にも漏らしてしまったその言葉に、播磨が顔を真っ赤にさせて必死に首を振る。
 なんだか面白い。心苦しくもあるが、もう少しだけ困らせてみたかった。
「ところで……さっき言ってくれた大事な人というのは」
「くっ! こ、心を読めるばかりか、なんて勘の良さだ。あ、あれはだな……」
「はい、何でしょうか」
 聞いた直後は聞き流してしまったが、今思い出すと意味深な発言だった。確かに彼はこちらを大切な友人と思ってくれているようだが、今回の『大事』は意味合いが違う。少なくとも、友人の枠から一歩はみ出たニュアンスで語ってくれたように思えたのだが。
「そ、そりゃ漫画の相談を出来るのは妹さんだけだし、アドバイス自体も的確で本当にいつも助かっている。大事なのは当然だ」
 サングラスの奥は覗けないが、彼の目は確実に逸らされていた。
 ならば真の答えは別にあると読むべきだろう。ひょっとすると漫画による交流以外で――例えば女性として――彼の心の重要な位置に住まわせてもらっているのかもしれない。
(今日はきっといい日になりそう)
 勘違いかもしれないが、今だけはその余韻に浸っていたかった。

「で、急に呼び出したりして今日はどうしたんだ?」
 気まずさを意識的に追い出そうというのか、播磨が妙にかしこまって聞いてくる。
 あれから色々なことがあった。播磨がナンパ男を店の外に放り捨て、始終を見ていた店員が壊れた内装の賠償を求めてきて、筋違いだと暴れた播磨を自分が懸命になだめ、結局ナンパ男の懐から財布を取り出した播磨が店員に中身を全部渡して示談が成立。そして今、二人用テーブルで向かい合って話をするところまで何とか漕ぎつけたという次第だった。
「なあ、妹さん。学校じゃなくて、休日のここを指定して呼び出したくらいだ。きっと何か大事な用事でもあるんだろ?」
「その……特に用事というわけでもなくて……」
「ん? どういうことだ?」
 自分のこの気持ちをはっきりさせたかったのだ。彼のことが男として好きなのか、彼が与えてくれる環境が好きなだけなのか。今日一日一緒にいて、話をして、結論を出したいと思っていた。
 愛理を見ていると自分が重なって映ることが多い。播磨に対して求めるもの、接し方、その他細かな部分の数々。自分は、そんな彼女が播磨に対して恋愛感情を持っていると認識している。もし愛理と似ているならば、この気持ちも彼女と同じものではないかと疑念を持ったのだ。
 それを確かめたい――のだが。
「えと……あの……」
「どうした? わざわざ俺を頼ってくるなんて、よっぽど切羽詰ってたんだろ。遠慮はいらねえから何でも俺に言ってくれって! さあ!」
 迂闊だった。正直、何も考えていない。自分の気持ちに決着をつけることばかり考え、一緒にいるための口実までには意識が行かなかったようだ。
 これが愛理なら色々と機転が利くのだろう。自分たちが似ているのは播磨限定のことで、生来の要領の良さは絶望的な開きがあるのだから。劇の後の一件も、手段は褒められないが確かに彼女の思惑通りに事が運んでいた。
 もし彼女がこの状態に陥れば、どう切り抜けるつもりなのか。少しだけ興味がある。
「そ、そうだ……買い物は……」
「なんだ、買い物に行きてぇのか。つまりは荷物持ちか何かか?」
「は、はい。それでお願いします」
 それで、とはおかしな言い回しだが、この際背に腹は変えられない。どうせ播磨も些事には気にしない性質だろうし、成り行きに任せることにする。
「突然こんなことを頼むなんて迷惑かもしれませんが……」
「お嬢だったらお断りだけど、妹さんには世話になってるしな。よっしゃ! そういうことなら荷物持ちでも何でも、妹さんの気の済むまでやってやるぜ!」
 勢いよく立ち上がりレジへと突き進んでいく播磨と、その後を慌てて追いかける自分。この先の展開が何となく読めた気がした。

          ◆◇◆◇◆

 緊張した。
 播磨がどう思っているかは分からないが、一般的に言えばこれはデートだ。ウィンドウショッピングをしながら街を歩き、疲れを感じてきたら喫茶店で一休み。たまに公園などで動物たちと戯れ、彼の動物談義に耳を傾ける。ベンチでうたた寝すれば、上着を掛けてこちらが起きるまで待っていてくれる。いつも使う表通りから一本逸れた道へと入り、どんな店があるか探検したりもした。
 姉が語ってくれた烏丸とのデートとはかけ離れたものだったが、それでも男女二人で時間を共有しあったことに違いはない。友人たちと気軽に遊びに行くようなコースに終始していても、二人で楽しめればそれでいいのだ。
(今日は疲れたけど、まだ終わりにしたくなかったな……)
 帰り際、播磨の手には画材屋とスーパーのビニール袋が握られていた。
 結局買ったものは、播磨の漫画に使われる小道具数点と今日の夕食の食材、その他いくつかの雑貨だけ。買い物は口実でしかなかったのだから当然だが、終わってみれば普段と同じ結果なのが少し寂しい。特別なことをしたはずなのに、手元に残ったものはいつもと変わらぬ日常のみ。挙句、長い間一緒にいたのに、緊張でほとんど記憶が飛んでしまっている始末だ。
 そんな状態では彼への気持ちを再確認する余裕などなく。ずるずると先延ばしをしていくうちに、すっかり日は暮れてしまっていた。
(せめて私の気持ちを確認するまでは一緒に……)
 デートそのものは終わったが、タイムリミットになったわけではない。彼のほうから延長戦の申し入れがあった。だからこそ夕食の買い物をしたのであるし、こうして並んで播磨の家に上がりこもうとしているのである。
「すまねえな、妹さん。俺の暇ができた途端、早速手伝ってもらおうとしちまってよ」
「いえ、私も買い物に付き合ってもらいましたし、せめてこれくらいは……」
「くーーーーーっ、さすがは塚本の妹さんだ! さあ、遠慮なく上がってくれ! さっき絃子に連絡入れといたけど、あいつはダチんところで酒でも飲んでるって言ってたしな」
 徹夜で漫画の手伝いをするときは大抵絃子が留守にしているのが気になるが、いつものことだ。そして自分が慣れたように上がりこんで台所の前に立つのも、いつものこと。
「では、台所をお借りします」
 どこに何があるかはすべて把握していた。それどころか自宅から持ち込んだ調理器具や調味料などもいくつか並べ、他人の家の台所を私物化している。
 元々この家の住人たちはほとんど料理をしない。たまにここへ訪れると、流し台には洗い物がうず高く積まれていて、退廃した生活の名残を見せつけられることになる。片付けても効果はなく、次の日にはまったく変わらぬ状態になってしまうほど。だから自分がここに居場所を見出し、彼らも許容してくれる運びとなったのだが、現在は少しずつ自分の色に染め上げている最中なのだった。
 もちろん他意はない。使いやすくするため以外にどんな理由があるというのか。
(さて、と)
 冷蔵庫の脇に掛けてあるエプロンをつけ、そのポケットに入れてある輪ゴムで髪を縛る。
「今日の夕食はどれくらい食べられますか?」
「もち、大盛りで! 妹さんのメシは格別にうまいからな」
 茶碗と箸を与えればチンチンと鳴らして催促しそうなほどの飢えっぷりに、八雲がかすかに相好を崩す。
 自分が愛理と似ているなら、播磨は姉に似ていた。思い込みが激しく、何事にも一直線に突き進み、自分の欲求に素直で、底抜けに無邪気。困っている人を見たらまず見捨てられないほどのお人よしだし、たまに突然理解不能な行動を起こすところまでそっくりだ。
(だからかな。播磨さんと一緒にいたいって思うのは)
 邪な目でこちらを見ないからというだけでなく、他にも理由があったことに嬉しさが込み上げる。段々とはっきりした形になっていく自分の気持ちに、もうそろそろ名前が付けられてもいいはずだった。
(今日……答えが出るといいな)
 こっそり振り返り、播磨の部屋を隔てるドアを窺ってみる。今日は漫画を書くための物を色々買ったから、分厚い木板の向こうでは彼が熱心に整頓しているはずだが――
「あ……」
「あ……」
 なぜか本人と目が合った。ドアが半開きになっていて、播磨はひょっこりと顔だけを覗かせてこちらを見ている。その顔に普段の精悍さはなく、だらしなく緩んだ頬やヒクヒクと動く鼻の穴が少々情けない。
 料理をしている姿をずっと眺めていたのだろうか、ちょっとだけ顔を出したという雰囲気ではなく、明らかに最初からそこに留まっている感じ。
 別に不快ではなかった。驚きと気恥ずかしさは感じているが、彼に注目されるのは悪いことではないだろう。
 それよりも。
(さっき心が視えたような……)
 ドアで隠れてわずかしか視えなかったが、決して見間違いなどではない。『――に毎日こんな風にメシを作ってもらえたら幸せ――』。具体的に言葉にするとこんなものだろうか。桁違いに強烈な意思だったため、はっきりと読み取ることができた。
(どうして? 何であの一瞬だけ心が視えたのかな)
 今日のデートで彼の心が自分へ傾いたとは到底思えない。それらしい兆候は何もなかったし、今は再び視えなくなっているのが何よりの証拠だ。
(やっぱり謎だ……)
 無意識のうちに胸へと置かれた手に力をこめると、姉から借りた服にシワができる。
「わ、悪りぃな……。腹が減りすぎて我慢できなくなっちまってよ」
「いえ……別に……」
 気まずい沈黙は、その会話を境に流れ落ちてくれた。言い訳であることは分かっているが、追及するのは野暮というもの。実際に空腹であるのに違いはないのだから。
「ではすぐに作りますから」
 手早く、しかし丁寧に。懸命に目の前のものに集中することによって、知りたいという欲求を何とか封じ込めていくことにした。知れば、必ずその先も求めたくなってしまう。せめて彼の前でだけは、自分の持つ忌まわしい能力を忘れていたい。
(毎日は作れないけど、今日は予定してたよりも一品多く作ってみよう……)
 きっと彼は喜んでくれる。どんなに作りすぎても残さず食べ尽くしてくれる。料理がおいしく出来たときの喜びを、そんな彼と一緒に味わいたかった。願わくば、これから先何度でも。
 また一つ、心の形がはっきりしてきたような気がする。
 八雲は、この気持ちに付けるべき名前へと期待を膨らませているのを感じていた。
「あ、姉さんに泊まるって連絡入れなきゃ……」

          ◆◇◆◇◆

「よっしゃぁぁあああああ!! ようやくこれでひと段落着いたぜ!」
 窓の外を見上げると、藍色の空がゆっくりと白に侵食されていく様子が見て取れる。時刻はおよそ朝五時半、新聞配達のバイクが静寂の中に一点の模様を付けている頃だ。
「ホントにありがとな、妹さん。おかげでいい作品に仕上がりそうだ」
「いえ、私も完成した播磨さんの原稿を早く見たかったですから」
 髪はほつれ、目は充血し、服の至る所にスクリーントーンの屑を張り付かせている八雲。憔悴しきった顔だが、そこには充足した笑顔が浮かんでいた。
 播磨との関係が進展したわけではない。作業に没頭している間は手持ち無沙汰的に雑談を交わしてはいるが、もっぱら内容のない場つなぎ程度の会話のみ。真剣に考え事をすると原稿が乱れてしまい、彼へと向けられたこの感情が何なのかは分からずじまいのままである。
 それどころか、もう少しすれば学校へ行く時間になる上、一通りの手伝いを終えてしまったからしばらくは漫画の手伝いに呼ばれることもない。播磨の熱心さを見ていると手を抜けず、そんな彼のために一生懸命やったことが裏目に出てしまった格好で、大切な時間をほとんど消費し尽くしてしまっていた。
 だが、これでいい。
(確かめるなら、あれしかないと思ったから……)
 これからが最後のチャンスになる。逃せば、当分の間は機会が巡ってこないだろう。
 それでも自信があった。自分の気持ちを定義する決定的な瞬間は、間違いなく半時間ほどで訪れてくれる。
「あの、少しだけ外に出かけませんか?」
「こんな朝っぱらにか? 徹夜したんだし、無理しないほうがいいと思うんだが」
「少し……行ってみたい――というか、見てみたいものがあるんです」
 心の形を決める、最後の一欠けら。それはいつか聞いた彼の話の中に転がっていた。

「この時間じゃ、さすがに寒くて仕方ねーな」
「……す、すみません、無理を言ってしまって……」
「いんや、余計な愚痴だったわ。付き合うって言ったのは俺だし、あんまし気にすんな」
 リクエストした場所は海岸線だった。路肩にバイクを停め、何もない砂浜の真ん中に二人揃ってポツリと座る。
 周囲を遮るものは何もない。右も左も鈍い銀色の絨毯が敷き詰められ、遠く背後には深い緑で描かれた稜線、そして目の前には無限遠へ続くと思わせる藍色の水平線。そんな広大な自然の中に晒された寂寥が、直接胸の中へと滲みこむような寒さを運んでくる。
 底冷えはするが、幸いなことに風はなかった。というより、この時間帯は朝凪だ。陸風が海風に変わる一瞬の間隙が、夜から朝への変化をより顕著に感じさせてくれる。
 陽が昇るのはもうすぐだった。
(初めて泊まったときに言ってくれた言葉……それを覚えてたから私はここにいるんだ……)
 例えば、朝の海岸線をバイクでかっ飛ばしているとき、一瞬海から昇る朝陽がすげえ綺麗に見える。めちゃ美味いモン喰ったときとか、おもしれー映画なんかを観たとき、そういう瞬間を一緒に感じたい。お互いにそう思える人がいる。そういう時間を積み重ねていくことが、つきあうってことだったりするんじゃねーのかな。
(多分播磨さんは言ったこと自体を忘れてると思うけど、私はその言葉を信じたいな。そしてあやふやなままの自分のこの気持ちに決着をつけたい)
 何より、彼へと向けた感情だから。それを計る物差しは、彼自身の定義によって決めてもらいたい。
 だからここで朝陽が昇るのを待っている。その時に感じるだろう自分の心に耳を澄ましながら。隣にいる播磨の息遣いを感じながら。彼の語ってくれた至言を胸の内で反芻しながら。
「……もうすぐですね」
「……ああ」
 水平線の上下はやがて鮮度を増していき、本来の蒼を取り戻しつつある。揺らぐ大気の中、楕円に形作られた道しるべがゆっくりと確実に自分たちを照らし始めてくれた。
 その瞬間ごとに何を感じていたかは覚えていない。何もかもを忘れ、ひたすらに目の前の光景に吸い込まれていった。秋の朝の肌寒さを穏やかな光が包み込んでくれ、朝陽から流れ込んでくる湿った潮風が心のどこかにあったわだかまりを洗い落としてくれ、隣にいる彼から放たれる静かな気配がこの寂寥とした砂浜に色を与えてくれる。
 ただ見とれていた。
「なんか徹夜明けだから朝陽が黄色く見えるな」
「でも……綺麗です……」
 自然に漏れ出たその言葉。八雲は己の声によってようやく我に返る。そして今更ながらに理解した。
 こうして二人で見に来ようとした時点で、答えは既に決まっていたのかもしれない。
(やっぱり私は……)
 隣へと控えめに視線を送ってみると、播磨は未だ遠くを見つめたままだった。朝露と朝陽によって輝いて見えるその顔は、いつもよりも精悍な顔つきを浮き上がらせている。
 サングラスを外すとどうなるのだろうか。
 彼の見ている先のものを知りたい。その目の奥に何を宿しているのか知ってみたい。自分の前では何もかもをさらけ出して欲しかった。
「あ、あの――」
 ほんの少しでもいい、この気持ちが彼に伝わってくれれば――
「こうやって誰かと一緒の時間を過ごすってのも結構いいもんだな。俺は今まで独りでやってきたから、何かを共有できるダチってのが出来てホントにありがたく感じてんだ。感謝してるぜ、妹さん。これからもよろしくな」
「……あ」
 だが、必死の想いは播磨の言葉によって無慈悲にも上書きされてしまう。
 昨日までの自分だったら、きっと素直に喜んでいたはずだった。一緒に居られる口実に縋りつかなくても、彼は自らその場を提供してくれたのだから。
 なのに今では、徹底的な物足りなさを感じている。自分で恋だと思ったこの感情は、その定義を与えてくれた彼自身によって否定されてしまった。恋人同士でなく、友人同士でも一緒に居たいと思うこともあるのだと。
「わ、私……私は……」
 振られたわけではない。それ以前の問題だ。
 この感情は恋慕ではなかった。いや、恋慕とすら認めてもらえなかった。
(友達……これが私が欲しかった答えなの……?)
 今まで求めていたものをようやく手に入れられたのに、溢れる失望をこらえきれない。これですべてが終わったはずなのに、何かがガラガラと音を立てて崩れていく。
 本当は友人として彼を見ているのではないと分かってはいるのだ。だが恋愛感情ではないと含まされた時点で、彼からもらった基準を失った時点で、自分の想いがどんな形をしているのか再び分からなくなってしまった。
 もう一度振り出しへ。
 行き場のない衝動が涙として現われ、自らの感情の堰を決壊から遠ざけようとする。
「ど、どうした!? 俺、何か不味いことでも言っちゃったか!?」
「……いえ、徹夜で……それで、朝陽を見たから眩しくて……」
「そ、そうかぁ?」
 むろん嘘だ。だが、鈍感な彼が気づくはずがない。こちらの気持ちをまるで理解していない彼が気づくはずもなかった。
 案の定、彼は言葉を額面どおりに受け止めるのだが――
「じゃあこのサングラス使うか? 一晩付き合ってもらった侘びってわけじゃないが、多少はマシになんだろ」
「……えっ!?」
 意外だった。突き放されたと思った矢先、播磨から救いの手を伸ばされている。冷徹だったはずの彼の顔が笑顔に変わっている。
(ううん……本当は意外でも何でもない。勝手に期待を寄せて、勝手に裏切られて、結局は全部私の一人相撲だったんだ……)
 急ぎすぎたのかもしれない。自分を追いつめ、早くこの気持ちに結論を出そうとしたから、周りが見えていなかった。他の男性のように心が視えないから距離感が掴めていなかった。
「ほい。ちっとばかしサイズが合わないかもしれんが我慢してくれよ」
「あ、ありがとうございます……」
 受け取ったサングラスを大事に胸へと抱き寄せ、播磨の顔を見上げてみる。
 初めて自分の前で晒される彼の素顔。それは、先に見た朝陽以上に衝撃を受けたのかもしれない。知ってみたいと思ったことの一つが、いま目の前にある。彼は何を見ているのか、その瞳の奥に何を宿しているのか。
 少なくとも播磨の目は、こちらの姿を確実に捉えている。そしてこちらへと微笑んでくれている。
 ささやかなものではあったが、望んだものを手に入れた瞬間だった。
(先のことは分からないけど、今はこれでいいのかな……)
 胸の奥で疼くこの感情が何なのか。もう一度答えが出るその時まで、彼と一緒に時間を積み重ねていきたかった。
「あの……眠くなってきたので、少しだけ寄りかかってもいいでしょうか」
「お、おう」




―― Fin? ――