(´・ω・`)「ウィルス・・・」 - WORLD WAR I

#127' #128-1' #128-2'


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 #127' WORLD WAR I
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(姉さんにお弁当作ってきたのはいいけど、なんて声を掛けたらいいんだろ)
 今は昼休み。そして登校してから経った時間は十五分あまり。
 大幅な遅刻だった。浜辺で播磨にもたれかかりながら眠ってしまったせいで、結局寝過ごしてしまったわけだ。安らかなまどろみに包まれていたためか、姉が学校に行く時間までに目覚めることが適わず。おかげで遅刻も確定し、開き直って二人分の弁当を作ってから登校する始末である。
 本当は、先に家を出てしまった姉の弁当まで作る必要はなかったのかもしれない。だが、八雲としては今日登校するに当たって絶対に必要なことだと認識していた。
 理由はご機嫌取り。播磨にかまけて姉をほったらかしてしまったことと、嘘ではないが真実のすべてを伝えていなかった詫びの意味を込めて、このいつもより豪勢な弁当を携えて姉のいる教室まで来ている。
 今回も姉には播磨の家に泊まったとは言っていない。代わりに、刑部絃子の家に泊まるとだけ連絡を入れておいただけで。
 元々播磨と絃子は同居しているのだ。嘘はついておらず、事実の一部を隠したにすぎない。
 ただ、アリバイ工作じみた行為が罪悪感として強く残っていた。わざわざ姉に連絡帳を引っ張り出させ、絃子の家の電話に掛けてきたところを自分が取って播磨の家ではないことを証明してみせたのだ。余計な心配を掛けさせないという判断からの行動ではあったが、それが正しい選択だったかは未だに自信を持てていない。
(前みたいにすぐに分かっちゃうのにな)
 以前もそうだった。あの時も口篭り、代わりに出た言葉が取りとめもない連絡事項のみ。後ろ暗いことはないはずなのに、口に出すことがどうしても躊躇われてしまった。
(それに、こうして今から急に渡したら余計に怪しまれそうな気もするけど……)
 教室のドアに手を掛ける。
 未だ決心はついていない。しかし、弁当が冷めれば謝罪の気持ちも薄れる気がして気は焦っていた。しょせんは自己満足、自己弁護にすぎないと分かっていても、姉のためとなることなら自分の事情は切り捨ててしまえる――いや、切り捨てられると思っていたかった。
(姉さんがお昼ごはんを食べに行かないで、ここに居ますように)
 だが。開けようと力を込める前に、勝手に扉が横にスライドしてしまう。
「あれ? あなたは塚本さんの妹の……」
「あ……はい」
 木板を引いて現れたのは、眼鏡に三つ編みのいかにも真面目そうな少女。こちらと同じく、鉢合わせたことによる動揺で目をキョトキョトさせている。
 違うのは、自分が心を乱したままなのに対して彼女はすぐに我を取り戻したことだった。こちらの反応を見ることなく、すぐに背後を振り向くと、勝手に用事を推察して代弁してくれる。
「おーい、塚本さーん。妹さんが来てるよー」
「ほえっ、八雲が?」
 名も知らぬ連絡役に釣られて教室中を覗くと、空腹のせいか机に突っ伏している姉、その姉の鼻先でオカズを踊らせて遊んでいる美琴、我関せずで黙々と本を読みながらパンをかじっている高野晶の三人の姿を見つけることができた。
 愛理はいないらしい。欠席したのか、たまたま席を外していたのか、どちらにせよ冷戦状態の関係となっている今では幸いと言える。
(花井先輩もちょうど居ないみたいだし……)
 ホッと息をついた八雲は、案内に促されて三人の元へ寄っていった。この教室には何度も訪れているため、遠慮は必要ない。
「あっ! おはよう、八雲。今朝はどうしたの? 携帯に掛けても繋がらないし、先生の家に電話しても誰も出なかったから、お姉ちゃん心配したんだぞ?」
「……うん、姉さん」
 顔を合わせるのはちょうど一日ぶりになるだろうか。真っ直ぐな視線を向けてくる姉へと顔を上げられず、手に持つ弁当へと視線を落とす。まだ温もりを保ったままのそれは、しかしこちらへ何も語りかけてはくれなかった。静かにそこへ在り続け、灰色の願いが成就される瞬間を待っている。
「あの……これを、姉さんに渡そうと思って」
 弁当箱に添えて差し出した背徳と懺悔の念。姉はきっと気づかない。そのことが余計に八雲の心に重苦しい感情を上乗せさせてくれる。
 勘ぐることを知らないのは、蒙昧なのではなく美徳だ。少なくとも、姉を見ているときの自分はそう思っている。彼女の純粋さを守るためなら、こちらがどれだけ汚れて苦痛を感じようが平気でいられたし、むしろ率先して痛みを肩代わりする役を務めるだろう。
 しかし今回は、姉が病むのを回避するという名目で彼女自身を裏切ってしまった。
 故にぎこちなく笑う。そして姉は、それすらもきっと気づかない。
「今日、学校に来る前に作ってきたんだけど、どうかな……」
「おおっ!! それはまさしく私のお弁当箱! 良かったぁ。一応私もおにぎり作ってきたんだけど、失敗しちゃったんだよね。ちょっとは自信あったんだけどなぁ」
「ご、ごめん、姉さん。私が作る予定だったのに帰って来れなくて……」
「いいって、いいって! ありがとね、八雲! これで美コちゃんに苛められないで済むよ!」
「おいおい、酷いぜ塚本。確かにからかいはしたけど、メシも分けてやってただろ?」
 楽しげな会話の中に播磨の名前は出てこなかった。少しだけ気が楽になる。
 昨日は播磨とのデートを随分気にしていたみたいだが、挙句、外泊した上に帰宅時間すら守らなかったのだが、目の前のご馳走に夢中で質問することを忘れているようだ。
(……本当にごめん、姉さん……)
 用事は済み、確認したいことも無くなった。ならばここに留まっている理由はない。
 いつ姉が播磨とのことを聞いてくるかも知れず、さらにいつ愛理が帰ってくるかも知れず、好んで茨の道を選択する必要は無いだろう。室内を見渡し、愛理が居ないことを何度も丁寧に確かめる。
(……今ならまだ大丈夫だ)
 だが、その挙動不審な様は、姉に余計な誤解を招いてしまったらしい。即ち、恋人である播磨に逢うために姉の弁当を口実に使った、と。
「ははーん、誰か探してるのかなー? 昨日も逢っていたのに今日も待ちきれずに逢いに来るなんて……最後まで見届けられなかったけど、その様子だとデートはうまくいったみたいだね。でも残念だけど、播磨君は今日休みなんだよねー」
「うん、知ってる。今朝、疲れたから休むって……」
 前半の不可解な台詞は聞き流し、普通に返事ができそうな後半にだけ反応する八雲。
 播磨の欠席については直接聞いていた。
 浜辺でもたれかかって寝ていた最中、彼は緊張のあまりずっと硬直したままだったらしい。全身から汗を噴き出し、彫像のように不動を貫き続け、当然睡眠はとれずに疲労が蓄積していく。徹夜明けと重なって、相当に負担がかかったはずだ。休みたくなるのも頷ける。
 こちらのわがままを押し付けて浜辺へ釘付けにしたのだから、彼には悪いことをしてしまった。もっとも、自分も薄着のまま寒空で眠っていたせいで風邪っぽいのだから、それなりの報いは受けたと言えるのだが。
「私が播磨さんに無理させちゃったから」
 誰に向けたわけでもない、後悔交じりの独白。しかしそれが周囲に溶け込んだ瞬間、ピシリと何かがひび割れる音がした。
 不穏な気配を感じて顔を上げると、姉たちの視線がこちらへ向いていることに気づく。失言だったと気づいた時にはもう遅い。彼女たちは目を見開いて、驚愕の姿勢のまま固まっていた。いや、姉だけは不思議そうに辺りを見渡すばかりで何も分かっていないようだったが。
「お、おい!! あたしたち、播磨と塚本の妹が昨日デートしてたとこを目撃したんだぞ!?」
「えっ……?」
「そうね。実はいつもの四人で街を歩いてたら、喫茶店で八雲と播磨君が楽しそうにお茶を飲んでいるのを偶然見ちゃったのよ」
「……そ、それは」
 恥ずかしさを覚える前に呆然としてしまった。心配性の姉が尾行してくるのを防ぐために行き先を告げなかったのだが、結果は大して変わらなかったというのか。むしろ美琴や晶にも知られてしまった分だけ状況は悪化している。
 しかし彼女たちにとって問題はそこではないらしい。前提として語っただけで、さらに話は続いていった。
「で、塚本は妹におはようって言ったよな。それって、昨日から今朝にかけて家には帰らなかったってことだろ?」
「そう。そして八雲は、播磨君が休むと朝方に本人から聞いている。確か、播磨君を疲れさせたのは自分のせいとも言ってたわね」
 つまりはデートの流れでそのまま播磨と共に一夜を明かしたということ。それのみならず、体力馬鹿の播磨が疲れて学校に来られないほど、八雲が彼に何かをせがんだということ。
「おおおおおお、おまえらいったい何やってたんだよ! 噂のことはよく聞いていたけど、さすがにそれは不味いんじゃないのか!?」
「落ち着きなさいって、美琴さん。あんまり早合点しすぎると、勘違いだった場合に自分が恥ずかしい思いをするだけよ」
「だ、だけどなぁ。こりゃどう考えたって……それに文化祭のときも……」
 美琴は頬を染めてうろたえている。こちらを遠慮しながら覗いていることから察するに、頭の中も桃色な妄想でいっぱいになっているのだろう。彼女の中で自分がどんな痴態を繰り広げているかは知らないが、聞けば後悔するような内容に違いない。
 対する晶は平静そのものだった。その様から、余計な邪推はしていないことが窺える。不可思議な言動が目立つ彼女だが、類まれな洞察力ゆえに周囲が理解できないだけで、今回もこちらのわずかな反応を察して、誤解だけは防いでくれたのかもしれない。
 ただし味方になってくれる気はないようだ。傍観――というより、事態が複雑になるのを楽しんでいる気配さえ見せているのでは、たった今暴走している美琴よりもある意味厄介な存在だった。
「まあ、余所様の恋愛事情に口を出すのは筋違いかもしれないが、やっぱり……なぁ……」
「ち、違……その……私と播磨さんはそういう関係じゃなくて……」
 播磨が休むことは電話で確認した、という言い訳は使えなかった。聞けば、姉は朝から何度もこちらの携帯や刑部絃子の家へ連絡を取ろうとしていたらしい。電池切れで通じなかったはずなのに播磨へはしっかりと電話をしていたのでは、矛盾が生じるのだから。
(駄目だ……誤魔化しようがないよ)
 手詰まりだった。身体を重ねていたという疑惑はともかく、播磨と一緒にいたことは確定事項として扱われている。そして事実だからこそ覆しようがない。
 今まで会話の内容を理解できずに右往左往する姉だったが、今度こそすべてを了解してしまっただろう。
「塚本の妹も色々言いたいことがあるだろうけど、姉貴が心配するだろうし、家へ帰らないほど男に溺れるのはどうかと思うぞ?」
「そうだね。真実がどうであれ、誤解を招きかねないことは避けたほうが無難」
「ってことは、ええっ!? そ、そんなぁ。八雲、昨日は刑部先生の家に泊まるって言ってたんだよ? お姉ちゃんには隠し事をしないって約束してくれたばっかりだったのに……」
「ご、ごめんなさい」
 回を重ねるたびに播磨の家へ泊まることに抵抗がなくなるのは問題だった。互いが男女という間柄を意識していないから、気軽に頼めるし請け負ってしまう。形式上は先生が同居しているため、保護者付きという安心材料もある。
 主観の違いでここまで認識がずれるとは想像もしていなかった。なるほど、自分たちの仲が徹底的に誤解されるわけだ。
(全部説明できればいいんだけど、それだと播磨さんに迷惑がかかるし……)
 当然ながら漫画のことは堅く口止めされている。さらに、播磨と絃子が血縁関係であることも、二人は校内で隠したがっている。限定された条件の中で説明するのは難しく、だから姉には沈黙で答えるしかなかった。いや、そもそも嘘をつくことになった理由こそその二つに由来するのだから、結果と原因が逆なのか。
 姉と播磨を天秤にかけたようなものだ。相反する約束事を、どちらがより重要か判断して片方を切り捨てる。姉がショックを受けるのも当然だった。
「よーし! こうなったら今度播磨君を家に呼んで、きちんと説明してもらわないと!」
「だ、だからそれは違っ――」
「八雲も! 今回は許してあげるけど、当分は外泊禁止だからね! 遅くなるのも駄目!」
 瞬間、目の前が暗く染まる八雲。風邪気味で脱力している身体から、更に力が抜けていく。
 心配してくれる気持ちは嬉しいが、そればかりは困るのだ。播磨の手伝いは一段落したが、いつまた彼の呼び出しがあるかは分からない。『当分』という不明瞭な区切りでは、これから何回彼の誘いを袖にしなければならないのか。
 他のどんなペナルティだろうと受ける覚悟はあるが、唯一の急所に釘を刺されてしまっては従順なままでいられなかった。
「あの、姉さん? できれば、その……」
「ふふっ、分かってるって! 私も鬼じゃないからね。どうしても播磨君と一緒に居たいって言うなら、家に連れて来ればいいよ。それなら私も安心できるしね」
 だが、姉はやはり姉。勘違いさえ除けば、どこまでもこちらの気持ちを理解してくれる。
 こんなことなら最初から正直に言っておけば良かった。姉ならば強く念を押してくる程度で、きっと笑って許してくれただろう。
「……ありがとう、姉さん」
 矮小な考えを持った自分に嫌気が差す。なぜもっと姉を信じられなかったのか。なぜ自分は想いのすべてを吐き出せなかったのか。
 しかしそんな後悔も、姉の笑顔によってすべて洗い流されていった。得意げに親指を立てている彼女に、同じように笑みを返す。
「飴と鞭、ね。無意識とはいえ――いいえ、無意識だからこそ、塚本さんもなかなかお姉さんらしいところを見せてくれるわね」
「ああ。しかし愛理の奴が休みでホント良かったよ。喫茶店で二人を見つけた後、あいつ何も言わずに帰っちまったしな。もし今日来てたら、今頃は血ぃ見てんじゃねーか?」
(あ……そういえば沢近先輩も!!)
 世界が反転した。
 しみじみと漏らす美琴だったが、それを聞いた瞬間に身が凍りつく。
 彼女たちは四人で行動していたのだ。当然その中には愛理も含まれる。先ほどまでは目の前のことでいっぱいになり、大事なところにまで考えが行ってくれなかった。
 愛理はあの時の自分たちを見てどう思ったのだろう。姉たちを置いて帰ってしまったくらいだから、相当なもののはずだ。
 例えば自分と置き換えてみればよく分かる。
 昨日喫茶店で播磨を待ち呆けていたとき、ひょっとしたら彼が来てくれないのではと鬱になっていた。連絡がきちんと伝わっているか、用事があったのではないか、そして愛理とデートをしているのではないか。特に最後の想像などはこれ以上ない責め苦である。
 だが、それが現実になるというのだ。それだけではない。テーブルで独り寂しく待っているとき、窓の外で二人が楽しそうに歩いているのを発見してしまったら――。
 自分と彼ら二人を阻む冷たく硬いガラスの窓が、互いの距離を如実にあらわしているように見え、きっと現実を直視しきれずにその場を逃げ出したであろう。
 今回置かれた愛理の状況が、まさにそれだった。
(でも、私と沢近先輩は少し違うから……)
 彼女は播磨のことが好きだ。しかし自分はそうだと言い切れない。つまり想いの強さでは明らかに愛理が上で、だから感じる辛さも、自分の想像した以上になるはず。
(あの人になんて説明すればいいのかな)
 早急に対策を立てねばならない。彼女は間違いなく傷ついている。たとえ意図したものではなくとも、こちらの取った行動が彼女を追いつめてしまった。
 もし昨日のデートで自分の気持ちが恋慕と確信したならば、きっと引け目なく愛理と対峙できただろう。互いの想いは平等で、ゆえにぶつかり合って怪我を負うこともあるのだから。
 今の自分は、彼女の恋路を邪魔しているだけの道化にすぎない。こちらにも譲れない一線はあるが、今回の件は一方的に彼女のそれを踏み越えてしまった気がする。
(……次は私が譲る、のかな。いやだな……)
 胸が痛い。それが正しいと頭では判断しているのに、行動に移す気にはなれなかった。
「あれ? どしたの、八雲。嬉しくないの?」
 そんなこちらの様子に、姉は訝りながら顔を覗きこんでくる。
 彼女なりの英断が不発に終わったのだから当然の反応だが、取り繕う気にはなれなかった。確かに播磨の手伝いを阻害されないのは嬉しいが、その分だけ愛理との溝を深めるのかもしれないのだから。
「……ううん、なんでもないよ」
 自らの沈んだ声を聞き、また沈む。
 しかし、得てして悪い出来事は重なってやってくるものだ。今回の場合もそうだった。
「ん? ちょっと待って。愛理からメールが来たみたい」
「――!!」
 携帯をポケットから取り出した晶は、早速内容を確かめる。軽やかな操作音が鳴り響くのだが、やがてそれはこちらの心音とリンクし始めていった。
 まるで死刑執行の判決を待つ罪人の心境だ。答えは既に分かっているのに、わずかな希望にすがって、かりそめの夢を見る。
 ひょっとしたら愛理からのメールは、雑談程度の意味のない内容なのかもしれない。昨日の話題でも、自分へと向けられたものではないのかもしれない。たとえこちらへと向けられたメールであっても、昨日の出来事とは関係ないのかもしれない。しかしその実、自分へと向けられた宣戦布告の合図だと確信している。
(沢近先輩は嬉しくないだろうけど、ある意味信頼しているってことかな……)
 自分と彼女はあまりに似ている。だから、時にはその行動原理すら理解できた。
 昨日の昼から今までの間、愛理はずっと悶々と悩み続けていたのだろう。この場に居ないのも多分そのため。
 喫茶店の窓越しに見た光景が頭の中で何度も再生され、ジッとしていられないのだ。必死に封じ込めようとしても、それを上書きするようにさらに過激な妄想に取り付かれ、際限のない焦燥を生み出してしまう。休日に逢瀬を重ねる二人の関係はどんなものなのか、あの後二人はどこへ行きどんなことをしたのか。本当は何でもないことを信じているのに、わずかな可能性を見過ごせなかった。
 だから愛理はこうしてメールをしてきているのではないか。こちらへと問い質そうとしているのではないか。
 本来なら昨日に問うことも可能だったはずだが、今になってしまったのには理由がある。
 放課後に事を起こすとなると、ちょうど今がこちらへ連絡が取れる限界時間だった。たまたま晶の近くにいたからすぐに知ることができるが、伝言することを考えると、昼休みが終わりそうな今にメールをしないと間に合ってくれない。
 もし携帯の向こう側を透かし見れたなら、送信するかしないかで悩み、延々と画面を睨み続けている愛理の姿が映っていただろう。昨日のことを聞き出したく、しかし臆病風に吹かされてなかなか聞く気にはなれない。そんな自分に不甲斐なさを覚えて頭を掻き毟る。
 このメールは、愛理が発する音のない慟哭だった。
(こんなによく分かるのに、どうしてすれ違っちゃうのかな……)
 原因は当然ながら播磨のはずだ。が、無意識のうちに候補から外して答えを求める。
 と――
「ふぅ……それが愛理の出した答えか」
 晶のため息で現実へと戻される。彼女は携帯をパチリと折りたたみ、何事もなかったかのようにポケットへ滑り込ませているところだった。そして一度だけ目を瞑る。
 溜めを作る晶だが、そんな姿を見ても緊張はしなかった。なぜなら、彼女がこれからどこを見て何を言おうとしているのか知っているから。
 案の定、彼女は再び目を開けるとこちらへ向き直り、視線を合わせてくる。
「八雲に。愛理が放課後に喫茶店で待ってるって」
 落ち着き払った晶の言葉は、予鈴の音にかき消され、ひどく儚いものに感じられた。

          ◆◇◆◇◆

 どうして再びこの店に来てしまったのだろう。目の前でコーヒーを飲んでいる愛理を、こっそりと窺いながら考える。
 自分はいま、昨日播磨と待ち合わせに使った喫茶店でお茶を飲んでいる。前回と同じテーブル、同じ椅子、同じ銘柄の紅茶、すべてがあの時の再現。陽の高さが違う窓の外さえ見なければ、昨日へと逆行したと思わせるほどだった。
 すべては愛理の差し金だ。彼女は昨日の待ち合わせの現場を目撃していたのだし、放課後にここへ来たときには既に今の席でコーヒーを啜っていたのだから。紅茶の種類もそう。わざわざこちらから聞き出し、奢りだからと言って同じものを注文させている。
 そんな用意周到なこの環境だが、しかし一つだけ決定的に違うこともあった。それは、引っ切り無しに訪れていたナンパが今回まったく来ようとしないこと。
 いや、来られるはずがない。独りではないからという理由もあるが、純粋に愛理の存在がナンパを遠ざけている。
 穏やかに微笑んで見せているはずなのに、彼女の放つ気配は鋭い刃を持っていた。まるでカマイタチ。一定の領域に入ったものを無差別に切り刻むその威力は、最接近している自分が一番よく知っている。
 もしそんな危険を顧みず声をかけようとすれば、その勇者に対して彼女は笑顔を投げかけてくれたことだろう。ただし、手の中に納まっているコーヒーカップの中身と共に。
 それが分かっているから誰も声をかけられない。結構な数の客が入っているこの店なのに、自分たちのテーブルの周りには緩衝地帯のごとく空白の席で埋められていた。
 そういえば自分が愛理へと話しかけたとき、店内がどよめいていたのを思い出す。
(昨日に続いて今日も営業妨害……もう当分の間は来れないかな……)
 何度も訪れる気はなかったが、たまに寂寥に包まれたときはフラリとここへ寄るだろうとは予感していた。昨日初めて訪れた店だったが、それなりに思い入れはあるのだ。
 特にすぐ脇にある枝葉がボロボロになった観葉植物は、一日中眺めても飽きない自信はある。いずれ撤去されて置き換えられるだろうことが心残りだが。
(これがメルカドだったら融通は利くんだけど……)
 そう、メルカド。ため息をつき、八雲は思考の矛先を変える。
 愛理からの呼び出しは、最初はバイト先のメルカドのことかと思っていたのだ。だが実際に行ってみると愛理はおらず、代わりに待っていたのは、あらかじめ店長に託されていた彼女からの伝言だった。
 ここじゃなくて、もう一つ思い当たる店があるでしょう?
 聞いたときの衝撃は計り知れない。まるですべてを見透かされているような、手の平で踊らされているような――いや、本当の衝撃はそこではなかった。今日の愛理は、全戦力をぶつけてくるだろうことに気づいてしまったから。
「……あの、今日はどうして……」
 沈黙が怖くなって問いかけてみたが、我ながら白々しいものだった。実際は、なぜここへ呼び出されたのか正確に理解している。播磨のこと以外に何があるというのか。
 主導権を掴みたかったのだ。このまま延々と先延ばしにされてしまえば、やがて疲弊し押し潰されてしまう。持ち駒の少ない自分は、短期決戦に挑まない限り敗戦を逃れる道筋が見えてこない。
 しかし彼女は、どこまでもこちらより上手だった。
「そんなに慌てなくてもいいでしょ? ここのコーヒー、せっかく美味しいんだから」
「……す、すみません」
 その笑顔が怖い。頭がクラクラしてくるのは、決して風邪が悪化しているせいだけではないだろう。
「あなたも次に『一人』で来るときはコーヒーを頼んだらどうかしらね?」
 何か強烈な皮肉を投げかけられたような――いや、気のせいと思いたい。
 自分はまだ飲んだことはないが、確かに味はいいらしい。
 この店を播磨との待ち合わせに選んだ理由も、サラにいい店だと紹介されたからだった。コーヒー党の彼が少しでも気に入ればと考え、紅茶を好む自分はそれに合わせてみたのだが。
 それに、この緊張下ではどうせ味など分からない。既に二杯目なのだが、渇いた喉を潤す以上の興味をこの紅茶から感じることはなかった。ファイネスト・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジペコ――いっそ呪文かと思わせるような大層な等級の茶葉らしいが、今の自分には過分な代物だ。
(せめてこの場にサラが居てくれたら、沢近先輩も毒気が抜かれただろうにな)
 紅茶の味を教えてくれた友人に助けを求めるも、想像の中の彼女は笑っているだけで何も語ってくれることがなかった。
 代わりに応えたのは、四杯目のおかわりに入ろうかとしている愛理。涼しげな笑顔をこちらに見せながらスプーンをかき回している。カップが魔女の大釜を連想させてくれるのだが、それは彼女の纏っている雰囲気のせいなのかもしれない。
「どうせ私のおごりなんだから、遠慮しなくてもいいわよ。何だったらケーキも頼んであげましょうか?」
「あ……い、いえ、そこまでは……」
 つまりお金がないのを理由に逃げるのは許さないということか。
 否、それはただの被害妄想。物事を悪く考えるのは自分の悪い癖だった。さすがにそこまで底意地が悪い女性ではないと知っているし、呼び出した彼女がお金を払おうとするのも自然な流れだ。
 しかし結果だけ見れば、悪意をぶつけられるのと何ら変わりはしない。
(晩御飯を作る頃までに帰れるのかな……姉さんが心配だ……)
 的外れな思考が、刹那だけ現実を忘れさせてくれた。

「あれ、あなたの差し金だったんでしょ?」
「え?」
 およそ一時間の沈黙が唐突に破られる。
 愛理と向かい合ってお茶を飲むのも慣れ始めたころだった。顔色を窺うことを忘れ、ひたすらに目の前のティーカップだけに執着する。窓の外の陽の傾きも意識に留めず、周囲の雑音も消し去り、とどまるところを知らない喉の渇きを潤す瞬間の連続。
 現実へと引き戻された八雲は、ハッとなって愛理の顔を上目遣いに見る。
「ったく……人の話くらいちゃんと聞きなさいよ」
 いや。突然話しかけられたのには驚いたが、内容はきちんと聞いていた。しっかりと噛み砕いて理解していた。
 差し金とは何なのかが分からなかったのだ。嫌味を込められたその言葉は、突然すぎて関連付けられるものが浮かんでこない。播磨をこの店に呼び出したのは自分だから、それを差し金かと問われればその通りなのだろう。だが、彼女が言っているのは全く別のことのように思える。
「あの、何のことでしょうか……」
「屋上でのことよ。あの時私の買い物に付き合うようヒゲをそそのかしたのは、あなただったんでしょう?」
 瞬間、静止してしまった時間。思考も、呼吸も、心音すらも、何もかもが凍りつく。
「あ……ち、違……!」
 真実だった。数日前、播磨に愛理とデートするように頼み込んだのは間違いなく自分だ。あのまま放置していたら、彼女は独り屋上に取り残されることになる。その姿が自分と重なって見えてしまい、どうしても捨て置くことができなかった。
「はん! 一応口止めしていたみたいだけど、あいつが嘘つくの下手だってことくらい分かっているでしょ? 面白いくらいボロボロとこぼしてくれたわよ」
 今思い返すと、播磨にしっかり念を押しきれていなかったかもしれない。彼は言われたままに行動しただけで、理由まではきちんと把握していなかった。すべてを話すわけにはいかなかったのだから仕方がないが、あのまま行かせてしまったのは確かに迂闊なのだろう。
 良かれと思ってした行動は、愛理が気づいてしまった時点で意味が反転する。だから播磨には注意してもらいたかったのだが。
「あらあらあら。播磨君は自分のものだけど、可哀想な私のために少しだけなら貸してあげてもいいわよってことかしら。随分と余裕なのね?」
「い、いえ、私はそんな……」
 違う、違う、違う。八雲は心の中で必死に頭を振って、自らの驕った考えを否定する。
 愛理にこの気持ちを語っても、きっと理解してもらえない。あれはすべて自分のためだった。彼女の中に写る自分の顔に、笑みを宿してあげたかっただけ。結果として愛理自身にも還元されただけなのだ。
 播磨を愛理に譲ったときの心痛は、彼女が屋上に残されていた時のそれより凌駕する。絶対の自信を持って断言できた。なのに――
「どうかしらね。案外、後でヒゲと二人で私を嘲笑ってたんじゃないの?」
「…………」
 それが彼女の出した答えなのだろうか。もはや八雲には、語る言葉も浮かばなかった。
 背もたれに身体を押し付け、絶望のあえぎを吐き出す。気力、生命力、感情、すべてが同時に抜け出てしまう感覚。
 愛理もそんなこちらに気づいたのだろうか、徐々に高まっていた暴圧的な雰囲気を一度霧散させてくれた。
「……分かってるわよ、あなたがそんな人じゃないことくらい。悪かったわね。冗談よ」
 だが、本当に冗談だとは思えなかった。笑顔は浮かべていないし、視線を合わせてくることもしていない。嫌々吐き捨てているように見え、そこに彼女の本心が垣間見えた気がする。
(もう、手遅れ……なのかな)
 とはいえ、こちらへとほとんど聞こえないように呟いた言葉『ま、それなりに楽しませてもらったけどね』というのも、本心の一端には違いないのだろうが。

「ところで昨日、あなたとヒゲ、ここで待ち合わせしていたらしいわね」
「は、はい……そうですけど……」
 仕切り直しの二戦目は、ティーカップ一杯分の時間を置いてから始まった。
「あなたたち、別に付き合ってるわけじゃないんでしょう? あなたの口からは確かにそう聞いたような気がするんだけど」
 随分と迂遠な聞き方。こういう時の彼女は注意しなければならない。
 先ほど学んだばかりだった。退路を断ち、じわじわと包囲を狭めて呼吸を圧迫してくるのが彼女のやり方だ。丁寧に、丁寧に、真綿で包み込むように。最後の一刺しだけは見逃してもらったが、次もそうだとは限らない。むしろ、追いつめられる恐怖を再び味わわせるために手心を加えたのではないか。
(なんて答えればいいんだろ……正直に答えたら、多分いけない気がする)
 自分の気持ちを再確認するために播磨をデートへと呼び出し、そして愛理たち四人はその瞬間を目撃した。その後すぐに愛理はどこかへ行ってしまったらしいのだが、尾行されてないという保障もなく、彼女がどこまで真実を掴んでいるかは分からない。
 暗中を手探りで爆弾処理している感覚が八雲の上に圧し掛かる。
「あの、どうして急にそんなことを……」
「さあ。付き合ってもいないのに、休日にヒゲと逢っているあなたに疑問を感じただけよ。特に深い意味はないわ」
 それを聞いて確信した。今まで押され気味だったせいで錯覚していたが、彼女もこちらのことをそれほど把握しているわけではない。昨日の昼過ぎから今日の朝までの空白は、自分と播磨の二人だけのものだった。
 ならば場を乱さないための嘘も、時には必要になっていいはずだ。結局無意味と化した昨日の秘め事は、部外者である彼女にあえて言う必要はないのだから。余計な心配事を作らせないためにも、ここは誤魔化しきった方が無難なのかもしれない。
 八雲は慎重に答えを選び、口にした。
「あれは……その……播磨さんのお手伝いをするために……」
「嘘ね」
 しかしあっさりと断言されてしまう。そして向けられる凍てついた視線。
 笑顔さえ浮かべてみせるが、あれは嗜虐で作られた笑みだ。嬉しそうに、本当に嬉しそうに彼女は種明かしをしてみせた。
「この前教室で、天満がわいわい騒ぎながら播磨君に手紙を渡してたわよ? あの時は何のことだか分からなかったけど、今思えばあなたが手紙で呼び出したと考えた方が自然よね」
 言いつつ、わずかに残ったコーヒーを一息に煽る。まるで勝者の余韻を味わうかのように。
「おかしいわね、なぜ嘘をつく必要があったのかしら。ねぇ、あなたもそう思わない?」
 今度こそは無条件に萎縮するしかなかった。侮蔑の篭った彼女の視線が、ただただ痛い。
(もう……帰りたいよ、姉さん)
 なぜ自分はここへ来てしまったのだろう。この場は一方的な糾弾会場と化している。いっそ、約束をすっぽかした上でそのことを責められた方がまだマシだった。
 だが、愛理はこのままで済ませるつもりはないらしい。彼女の懐には、未だ隠されたままのナイフがひしめいている。今までよりも数段鋭利で、数段殺傷力を持つフォルム。
 いよいよそれが抜かれるときだ。
「そうそう。また屋上でのことだけどさ……コーヒーのおいしい店にヒゲを連れてってやるって言ってたの、あなたも扉の裏で聞いてたんじゃないかしら?」
「は、はい。すみませんけど……」
 少し間を置く愛理。こちらが内容を噛み砕く時間を待っているのか、効果的に核を投下するタイミングを狙っているのか。不気味な静けさが辺りを包んだ。
 自然、身体に力が入る。そして前傾し、彼女の一挙一動に注目する。
「……あれ、この店だったのよ」
「……え!?」
「屋上で会った日! あんたにそそのかされた播磨君を連れてきたのが、この店だって言ったよの!!」
 ――ダン!!
 力任せにテーブルを打ち付けられ、カップを取り落とす八雲。指先は震えが止まらない。
「そ、そんな……私は全然……」
 純粋に知らなかった。ここはサラからお薦めの店として紹介されただけなのだから。
 知っていれば待ち合わせ場所から除外していたはず。そんな皮肉な真似までして、どうして彼女を貶めなければいけないのか。何もかも歯車がずれてしまっている。
 偶然――というよりは蓋然だった。より良い店を選べば、自然とここへ辿り着く選択肢もある。確率的にも充分ありえる話だろう。
 だが疑心に駆られた彼女にとって、これは用意された必然なのだ。
「私への当てつけのつもりだったの? ううん、最初から仕組んでいたことだったのかしらね。ヒゲに私を誘うようにけしかけたあなたが、それと知らずに喜んでいる私を嘲笑う。そして、あなたとヒゲが同じ店で同じ行為をしているところを後で私に見せ付けて、こっそりと笑い合うのよ。なかなか良くできたシナリオよね。すっかり引っかかっちゃったみたい」
 理解した。今までの幾重もの重圧は、すべてこの台詞のための布石にすぎなかったことを。
 長々と時間をかけ、多くの精神力を消耗させ、ようやく辿り着いた最後のひと時は、蠱毒のようにあらゆる負の感情が凝縮されていた。
「ふふっ……くっくっく……あははははは……!」
 突然愛理が笑い出す。しかし、釣られて愛想笑いを浮かべるわけにはいかなかった。ここで能天気に笑顔を見せようものなら、きっと彼女はこう言うだろう。何笑ってんのよ、と。拍子もなく笑うことをやめ、一切の感情を失した抑揚のない声でこちらを威圧してくるはずだった。
 だからここは耐え忍ぶしかない。目を瞑り、耳を塞ぎ、心を閉ざし、ただただ嵐が過ぎるのを待っている。
(本当にいつか止んでくれるのかな……もしこのまま終わりがなかったら……)
 だが、その瞬間は思いのほか早く訪れてくれた。
「……冗談よ。いちいち同じことに何度も引っかかってんじゃないわよ」
 吐き捨てるように。
 身体が強張りかける自分だったが、しかしそのようにはならなかった。彼女の言葉はなぜかこちらの胸を透過してしまい、痛痒を感じさせられることなく宙へと消えてしまったから。
 自虐の響きを含んでいたからと気づくのに、さほどの時間はかからなかった。彼女の瞳には憔悴と諦念の感情が窺える。憑き物の落ちた直後のような、力のない視線。背もたれに身を投げ出し、透明色の吐息を天井へと撒き散らしているから、こうして彼女を真っ直ぐ見つめられるようになったのだろう。
「はぁ……一通り言いたいことを言ったら、案外すっきりしちゃったわね。とりあえずは八つ当たりみたいなものだったし」
 先までの暴威は既に存在しない。愛理が身の内に巣食わせていた悪意は、あの鬱屈とした笑いと共に洗い流されてくれたのだ。勝手な願望とはいえ、今はそう信じていたかった。
「あなた、顔色が悪いようね?」
「は、はい……どうやら風邪をひいたみたいで……」
 あなたを前にしているから。そちらこそ良くないようだが。そんな言葉を飲み込み、思い出したように原因の一つだけを口にした。
 すると――
「そう。それなのに呼び出したりして悪かったわね」
「あっ……」
 一瞬だけ愛理がフッと柔らかい笑みを見せる。
 今日はじめての心からの謝罪に、耳を疑う八雲。錯覚なのかもしれないが、少しだけ愛理との距離が縮まった気がした。

 三戦目は、いわば和平交渉と呼ばれるものだ。互いが歩み寄りあい、妥協点を見つけ出していく地道な作業。もちろん攻撃的な駆け引きもあるが、概ね物事は円滑に進行していく。軋轢とした関係にならないのは、ある種戦友めいた共感が互いの中にあるからだろう。
「何だか長居しちゃったわね。出来ればあと少しだけ付き合ってもらいたいんだけど……」
 もう愛理は敵意を抱いていない。落ち着いた声音がこちらの心臓を穏やかに包み込んでくれ、心音の乱れを矯正させてくれる。緩衝地帯となっていたテーブルも、席がすべて埋まり、激しい爆雷の跡を消失させている。
「あなた、ヒゲと付き合ってないって言ったわよね」
「は、はい」
 だからだろうか、先刻も同じ質問をされたのにすんなりと返事ができたのは。
「じゃあ、ヒゲのことは好き?」
「えっと……それは……」
 しかし、直後の問いには言葉が詰まってしまう。というより、答えようがないのだ。質問には真摯に答えたいつもりなのに、播磨のことを想うこの感情が何なのか分からない。
 思い出すのは、昨日の昼から今日の朝までにかけて播磨と一緒に過ごした時間だった。徐々に恋慕だという確信を込めていき、最後の最後で崩壊してしまう一連の流れ。それによって、さらに自分の感情に混乱を来たし、今現在も進行形で答えを求めている最中だ。
 かと言って、愛理にそのままを伝えるわけにはいかない。彼女にとっては重要なことなのだ。答え次第で敵が一人増えるのかもしれないのだから。
 だが、言葉を吟味するのに時間が掛かりすぎてしまった。
「早く答えて!」
 急変した強い口調に身体がビクつく。八雲の脳裏に先ほどの恐怖が頭をよぎってしまった。
 しょせんは錯覚なのだ。彼女は未だにこちらを許してくれる気配はない。一時的に矛を収めただけで、何かの拍子に暴発しかねないことを、まざまざと見せつけられてしまった。
「で?」
「……分かりません。他の男の子たちとは違って、一緒にいて安心できる――というか、一緒にいたいなとは思っていますが……。それと、播磨さんの心がよく分からないから、どんなことを考えているか知ってみたいです」
 急かされ、整理をすることなく思いつくままに語ってみたのだが。
「はぁ……」
 愛理はわざとらしくため息をつき、首を振る。黒い気配は消えたが、代わりに現れたのは気だるさを伴った湿性の空気。無気力な感情を周囲の全方向に撒き散らす。
 もはや怒りをぶつける価値すらないと思われているような、そんな喪失を彼女に感じた。
「あんた、本気で言ってる? それが好きってことじゃないの?」
「わ、分かりません……」
 本当に分からない。そう思おうと――思い込もうとしたこともあるが、彼自身に想いを否定されてしまい、行き場を失ってしまったから。
(……そういえば沢近先輩なら)
 ふと思う。目の前の愛理はどうなのだろうかと。こちらの目から見て、彼女が播磨のことを好きなのは確かだった。自分と彼女は似ているが、だからこそ彼女が播磨に対してどう思っているか分かれば、おのずとわずかな違いを見出せ、この気持ちが恋愛感情なのかどうか判断できるはずだ。
 今の彼女に聞くのは多大な勇気が必要だが、きっと見合った答えも得られる。それは八雲の中に強く根付いていた、確信だった。
「でも、沢近先輩は播磨さんのことが好きなんですよね」
「はぁ!? 私が!? 何で!?」
 意外な答えが返ってくる。はぐらかしているわけでも、とぼけているわけでもなさそうだ。
「え……だって……」
「そんなわけないじゃない。あの男のどこにそんな魅力があるって言うのよ」
 そう言われると、かすかに胸が締めつけられる。あまり人のことを悪く言うのは好きではない。ましてや、自分により近しい存在に対しては。
 ただ、それほど嫌悪感が湧いてこないのは、愛理が本気で言っているわけではないと気づいていたから。面白くなさそうに播磨をけなす彼女は、その裏でどこか微笑んでいるようにも感じられた。
「ヒゲはね……ただ気になるだけよ。それ以上でもそれ以下でもない。他の男どもとは違うって感じてはいるけど……まっ、悪い意味で違うんじゃないのかしらね。でも、あまりに変でバカすぎるから興味はある。ちょっと知ってみたいから近づく。それだけよ」
 違和感。愛理の答えにはなぜか既視を覚える。
 そして気づいてしまった。彼女の言葉は、先に自分が語った考えをそのままなぞっているにすぎないことに。
 他の男性と違って特別。一緒にいたい。彼のことをもっとよく知ってみたい。愛理の想いはすべて自分と同じもの。寸分の狂いすらなかった。
「あ、あの……でも、それが好きってことなんですよね」
 自分らしくはないと分かっているが、ここで食い下がってみる。
 どうしても答えを知りたいのだ。今までどれだけ悩もうと解けなかった問題の解答手順を、彼女はその胸の奥に隠し持っているはず。愛理自身は気づいていなくとも、他人だからこそ見えることもある。間違いなかった。いや、そう信じたい。
「ちょっ……な、何でそうなるのよ」
「えと……さっき、私に言ってくれました……一緒にいて安らぐ、播磨さんの事をもっと知りたいと言ったとき、沢近先輩はそれが好きってことなんじゃないかって」
 言い、愛理の瞳をジッと見つめる八雲。
 彼女の奥に眠る獅子が怖いからといって、目を逸らしてはいけない。その恐怖を乗り越えてでも――否、乗り越えないと、彼女の真の姿を探し当てることができないから。
 対する愛理も、こちらの瞳の奥をジッと覗いてきた。だがその視線に力はなく、本当にこちらの姿を意識に捉えているかも分からない。
「…………」
「…………」
 続く沈黙。続く緊張。
 最初に破ったのは愛理の方だった。拍子もなく、ついと視線を外し、窓の外に投げやりな感情を送る。そして、そこにある景色を目に映るに任せ、ただただ時間の流れを追っていく。
 こちらも彼女に倣って視線を外し、緊張を解いた。眺めやるのは、テーブルの上。
 自分の手元には、ティーカップと冷や水の入ったグラスがある。反対の愛理の側には、コーヒーカップと、やはり冷や水の入ったグラス。隅には伝票も伏せて置かれているが、あれは愛理の領分の物だ。
 中でも、一番手前にある自分用の冷や水に注目してみる。
 ほんの数分前に店員が中身を入れ替えてくれたおかげか、器の中には大きめの氷がいくつも残っていた。キチキチと音を立てて急速に萎んでいる最中だったが、ゆえにグラスの表面には水滴がこびりつき、半透明な白でゆっくりと塗り潰していく。
 試しにコップについた水滴を指でなぞってみた。そして、いくつもの線を繋ぎ合わせていく。思いつくまま、気の向くまま、奔放に。
 すると、いつの間にかデフォルメされた播磨の顔が出来上がっていった。カチューシャとそれによって纏められた髪、飢えた狼を連想させる頬の線、文化祭での濡れた質感が忘れられない唇、そして強い意志が宿っている双眸。
 サングラスは掛けていない。今朝見たばかりの彼の素顔が、頭の片隅にしっかりと根付いて離れてくれなかったから。つまり自分は、あの時に感じた頼もしさと優しさと温もりを、この無機質で冷えたグラスの上にて再現させたかったのだろう。
(……うん、私にしては結構うまく描けたかな)
 また水滴が付着してすぐに消えてしまうのが少し残念だ。名残惜しさを感じ、付き始めた水滴をもう一度指でなぞって拭い落とす。
 それだけではまだ足りない。もう一度、もう一度――飽きることなく何度も同じ作業を繰り返していった。
 やがて氷は融けきってしまう。そうなれば自然とグラスにも水滴が付かなくなる。
 やることを失ってしまった八雲は、仕方なしに窓の外へと目を向けてみた。
 寂寥の赤ですべてを包み込まれてしまった街並み。人々は足早に行き交い、幻想に包まれた一瞬の中を精一杯に生きている。ぴっしりとスーツを着込んだ会社員、買い物袋を両手いっぱいに抱えた主婦、手を繋ぎ合って歩く男女の高校生、夕ご飯を楽しみに家路を急ぐ小さな男の子――
 と、順を追って見ていたその子供が、足をもつれさせて転んでしまった。下がコンクリートのために、打ち付けた膝や肘が擦り切れて血が滲み出る。見ているだけでも痛そうだ。
 その場に立ち上がった男の子だが、そこで限界が来たらしい。ボロボロと涙をこぼし始めてしまう。声を上げなかったのは、その子なりの矜持だったのか。
 腰が浮きかける――が、しかし必要はなかったようだ。お節介な人はどこにでもいるようで、散歩中らしい青年が膝を折って、あやしながら男の子の頭を撫でていった。
 しばらくすると、痛みも引いたのか泣き止む男の子。青年はそんな子供ににっこり微笑むと、ポケットから飴玉を取り出す。次いで、ぼんやりと開いている子供の口へと放り込んだ。
 その後二、三の言葉が交わされ、青年は静かに去っていく。男の子も逆方向へと走り出す。
(あ、また転んだ……)
 今度は泣かなかった。飴玉を噛み締め、溢れる情動を堪えきる。勢いよく走ることで転嫁させる。
 そこまで見て、椅子の背もたれに深く体を預けていく八雲。どうやら気づかぬうちに緊張で前傾姿勢になっていたらしい。
 今度こそ、街の様子に当てもなく視線を送ることにする。
「……そうね。私もあなたも別に播磨君のことが好きじゃないわ」
「……そうですか」
 そして二人で一緒に夕暮れに染まった街並みを眺めるのだった。



―――――――
 #128' TEMPORARY REST (前)
――――――――――――――――――――――――――――――

「……ふぅ」
 雨は嫌いではない。
 心の奥まで染み入るように静かに降る秋雨、刹那ゆえにその姿を強く刻み込んでくる群雨、細かな水滴の向こう側に幻想世界を見せてくれる霧雨、そして光を含めたすべての時間を内側へと閉じ込めてしまう黒雨。同じ雨なのに、様々な形を持つそれ。
 特に今日のような地雨は世界を小さくしてくれる。空間を薄く扁平に覆い続けるレースのカーテンは、遠くの景色をぼんやりと形のないものへ変えてしまい、同じく一定の強さで地面を叩く扁平なノイズは、遠くの雑音の一切を消し去ってしまう。知覚できる世界はわずか自分の周辺だけで、自身を苛む煩わしいものも比例して数が少なくなってくれるのだ。
 だから雨は嫌いではなかった。なのに心の中には、終わることを知らない憂鬱が降りしきっているのはなぜだろう。
(熱、なかなか下がらないな)
 ベッドの上で半身を起こし、窓の外の半透明などん帳を見つめる八雲。
 風邪の原因は分かっている。播磨と共に朝焼けを見て、そのまま寝過ごしてしまったのが前兆の始まりだった。そして体調がおかしいことに気づきながらも、身体を休めることなく弁当作りに勤しみ、午後からとはいえ登校までしてしまった。
 それだけではない。ここまで悪化させる要因となったのは、二日前の愛理との長時間にわたる対峙である。精神を磨耗させ、緊張で脂汗を流し、そんな時間を延々と続けていれば自律神経に失調を来たしたとしても不思議ではなかった。
 彼女と向かい合っていたときは気づかなかったが、すべてが終わったときには妙な浮遊感を覚えていた気がする。重圧から開放されたゆえではなく、自分の周りを淡い色の膜で覆われてしまったような涅槃の抱擁。自らを構成する重く大事なものを置き忘れたような喪失。
 事実、愛理と喫茶店で別れた後にどう行動したかは、今では朧にしか思い出せない。
 街を歩きながら、白くライトアップされた店頭の商品をガラス越しに何となく眺めていた。公園のベンチに座り、緋から紺へと染まる空を飽きることなく見上げていた。海岸まで出向き、漆黒に揺れるさざ波を眼を凝らして見つめていた。何かが欠けた世界の中で、その欠けたものを求めるようにあちこちを彷徨い歩いていたのだった。
 そして断片の記憶だったそれらの最後には、自宅の玄関で姉が出迎えてくれたわけだが。
(あの姉さんがご飯のことを忘れるくらい心配するなんて……)
 それほど自分は酷い顔をしていたようだ。夜遅くに帰宅したことはもちろんだが、特に心配されたのは蛍光灯の冷たい光に浮かび上がる青白い肌である。生気は失せ、眼の周りが窪み落ち、後で鏡を覗いたときには誰の姿か判らなかったほど。試しに鏡面に手の平を乗せても自分を写したものという実感はなく、冷たいガラスを隔てた向こうの世界から余所の人間が無感動な視線を向けてきているような感覚を覚えてしまった。
 その時の印象が強いからか、ある程度は大丈夫になった今でも姉はベッドに縛りつけようとしてくる。当然学校には行けず、掃除も洗濯も姉任せ。保身から料理くらいは自分でとも思ったが、それすらも認めてもらえない。喉が渇いたりトイレに行こうとしてベッドを降りるだけで、かすかな音を聞きつけてわざわざ部屋へ様子を見に来る始末だった。
 姉が学校に行っている間も過保護ぶりは変わらない。ゆっくり養生させたいからか、休み時間ごとに電話を掛けてくることはなかったが、彼女の友人たちにこちらの病状を知らせ、放課後に見舞いに来ないかと誘いをかけている。
 その成果か、昨日はサラと晶が退屈な時間にしばらく付き合ってくれた。直接顔を合わせることはなかったが、美琴と花井も足を運んでくれた。さらに今日に至っては、未だ気まずい関係にある愛理までもが看病の真似事をしてくれた。
 一日中、姉の気配が消えてしまうことはない。常にこちらを案じてくれ、温かな空気を運び続けてくれる。風邪の症状は辛くもあるが、それを和らげてくれるように全身を包み込む満ち足りた時間たち。
「……ふぅ」
 しかし、そんな想いとは裏腹に八雲の口から溜息が零れる。
 既に何度目になるか判らない。最初は暇つぶしにと回数を数えていたが、三桁の大台に乗った時点で虚しくなって止めてしまった。少なくとも、部屋の容積分程度には肺から重苦しい気体が吐き出されているはずだ。
 鬱屈した気分になっているのは、もっと別の要因からだった。姉を核として周囲から温情の目を向けられるのは充分に心を満たしてくれるのだが、上回るように内側から表現不能な感情があふれ出す。姉の気遣いが風邪を忘れさせてくれるのと同様、それによって姉の気遣いも塗り潰されてしまっていた。
(私は播磨さんのことが好きじゃない、か……)
 未だに頭に残っている愛理の言葉が、頭からこびりついて離れてくれない。振り払っても、いや、振り払った分だけより強固にしがみついてきて、脳内の一角に居座ってしまう。
 聞いた瞬間には納得していたのだ。あまりに淡々とした彼女の口調のせいか、抵抗なく耳朶の奥へと刷り込まれてしまった。だが、時間が経つほどに彼女の声音が違和感を伴って心に重く圧し掛ってくる。街のあちこちを巡るたびにやがて足にも纏わりついてきたし、今もベッドから覗く雨の量が増えるたびに両肩を強く押さえつけられていた。
「あの言葉、本当にそうだったのかな」
 愛理が信じられないわけではない。が、彼女自身、己の発言を信じていない可能性はある。何かを諦めたような気持ちの篭っていない呟きといい、答えを出すまでになぜあれほどの時間が掛かってしまったのか。
 悩んでいた様子はなかった。覚悟を決めるための時間を作っていたのでもなかった。愛理の想いとは関係ないところで答えは最初から決まっていて、しかし彼女の想いが言葉に乗せることを無意識に抵抗していたようにも思える。
 実際、口にした後の彼女は抜け殻だったのだ。播磨との繋がりを自ら断ち切ってしまった愛理は、コーヒーを飲むでもなく、こちらに話しかけるでもなく、ただ逢魔の時間を見つめていたのみ。店員に話しかけられても、ナンパに誘われても、一切反応することはなかった。
 もっとも、それは自分にも言えたことだろう。彼女の言葉を深く吟味することなく、表面だけで受け流してしまい、無為の時間に付き合ってしまったのだから。
「私は播磨さんのことが好きじゃ……ない」
 もう一度、今度は声に出して確認してみる。
 本来ならば保留のはずだった。朝焼けの砂浜での一件は、この気持ちが恋愛感情なのかどうかを計る基準にはなりえなかっただけ。決して恋慕を持っていないという結論が出てしまったわけではない。播磨が与えてくれた定義は彼自身が取り消してしまい、今は胸の奥を燻らせ続けている。
 そして愛理は、無くなってしまった定義を彼に代わってもう一度与えてくれたのだった。
「あの人もそう言ったんだから、これでいいはずだよね……」
 言い聞かせるように。実はまるで納得していないのだが、八雲は自分の出した結論に縋りつく。
 きっと他人に自分の気持ちを勝手に決め付けられたから嫌がっているだけだ。愛理は安易に答えを出したのではない。自身と照らし合わせた上で、解答を導き出していた。答えるまでに時間が掛かったのは、自分が考えすぎなだけで、取り立てて意味はなかったのだろう。こちらの感情を否定したと同時に彼女自身の感情も否定して見せたのだから、ライバルを減らすために嘘をついたのではないことは判っている。だからこそ彼女の出した答えには従うべきなのだ。
「これで……いいんだ」
 しかし重苦しい空気は洗い流れされてくれない。風邪で臥せっていたこの二日間、自分に言い聞かせることは何度もやっているし、それくらいで決着がつくような悩みなら、病気もここまで長引かなかっただろう。
「……ふぅ」
 もはやルーチンワークとなった溜息をもう一度。無理やりに気持ちを切り替える。
「何だか最近は気が重いことばかりだな。どうしてだろう……」
 演劇での愛理との戦い、その後の一週間に渡る播磨に対する懊悩、屋上で播磨を挟んでの愛理との対峙、朝の浜辺で感じた失望と涙、喫茶店で愛理に強要された針のムシロ、彼女から与えられた播磨への気持ち、そして最後に――
(駄目っ)
 そこで思考を打ち切る八雲。先刻までは喫茶店での愛理とのやり取りに関して心を沈ませていたのだが、実はそれ以上に胸を締め付ける苦悩がある。臥せっている間に出来た新たな悩みにはなるべく意識が行かないように努力していたのだから、今はそのことを引っ張り出したくはなかった。
「それより、いま何時かな」
 逃げるように時計を見る。
 時刻は午後九時。こんな時分に訪問客が来るはずもなく、部屋は至って静かなものだった。雨音だけが支配し、肌寒さと共に心細い寂寥を植え込んでくる。
 呼べばすぐに来てくれる姉は、入浴している最中だ。あと半時間もしないと話し相手にはなってくれないだろう。
 退屈な時間、しかし昼間に存分に睡眠を取ったせいで眠気は全くない。
 心痛を忘れたい八雲は、窓に映る雨を即席のスクリーンとして、そこに昨日からの出来事を映し出して回想していった。

          ◆◇◆◇◆

「たっだいまー! 八雲、具合の方はどう?」
「えっと、まだ少しきついかな」
 普段なら、茶道部に顔を出して晶やサラとのんびりお茶会をしている頃。放課後になってからまだ間もない時間。憂鬱な雨の午後を、八雲はベッドの中で目を瞑りながら静かに過ごしていた。
 周囲に手を伸ばしても、誰もそれを掴んでくれる人はいない。声を出しても耳を傾けてくれる人はいない。一切の孤独の中、剥き出しになった自らの心の中だけを見続けている。
 そんな時に姉が寄り道をせずに真っ先に家へ帰ってきてくれたのは、素直にありがたかった。この切り取られた小さな世界でずっと一人のままなのかと怯えていたところだったから。帰宅早々、ノックもせずにいきなり扉を開けてきたことはこの際どうでもよく、姉の無邪気な笑顔に釣られている自分がいる。
「うん。きついけど……だいぶマシになった気はする」
「熱は? 計ってみた?」
「さっき計ったけど、三十七度八分だったよ。昨日の夜よりは良くなったんだけど」
 昨夜の時点では三十八度以上。愛理と別れた後のその日の夜は、家に帰るなり早速熱が出てしまい、ベッドへと直行することになった。ふらつく自分の足取りより、動転した姉の方がよほど廊下を蛇行していたくらいだ。自覚はなかったが相当に症状は重かったのだろう。
 当然次の日――つまり今日は学校には行けず、今の時間まで自室でゆっくり養生していた。起き上がるのも億劫で、大半を睡眠に費やしながら待つ復調の時。そのためか、最悪の目覚めを味わった今朝よりは身体に力が戻っている。上体を起こして姉に笑いかけるくらいの余裕はできていた。
「そっかー。まだ熱があるんじゃあ、お見舞いに来てもらった人たちはどうしよう」
「えっ? お見舞いって……」
「うん、学校が終わった後にみんなを誘ってみたんだ。急に押しかけると八雲がビックリすると思って、居間で待っててもらってるんだよ?」
「あ……そういうことなら」
 確かに今は身体がだるくて寝ていたい。頭は痛むし、喉もしわ枯れているし、悪寒や鼻づまりや咳など、一通りの風邪の症状に苦しめられている。
 しかし、せっかく来てくれたのに追い返すのは、薄情すぎる気がして躊躇われてしまった。何より、一日中寝ているのは退屈すぎる。相手にもよるだろうが、昼間に感じていた寂しさを紛らわせてくれるような存在が切実に欲しかった。
 はやる気持ちを抑えつつ、八雲はその面々に思いを寄せる。自分の交友範囲はそれほど広くはない。来てくれる人たちの顔なら大体想像がついた。
 まずは茶道部繋がりから、サラと晶と絃子。いつものこの時間は部室でお茶を飲んでいるだけだから、余程の用事がなければ来てくれるだろう。
 次は美琴か。ただ、彼女は姉を仲介しての知り合いなため、あまり義理を持たれていることはない。見舞ってくれるとしても、晶の付き添い程度のはず。
 花井。誘われなくとも勝手についてきそうだ。心配してくれるのは嬉しいのだが、どう受け止めたらいいのか判らず、出来れば遠慮したいというのが正直な気持ちだった。第一、彼が相手ではいったい何を話せば良いものやら。
 そして最後は播磨。一番来てくれそうで、一番来てくれなさそうでもある人。未だ彼との距離感を掴めていない状況ゆえ、こんな時に来てくれる間柄なのかすら判断できない。割と義理堅い人柄だから、今回の風邪を彼自身のせいだと考えていれば見舞ってくれるはずである。冷たい朝の海風に晒されていたのに、起こすこともせずに黙って横に座っていただけだから風邪を引いてしまったのかと考えれば。
「姉さん、それで誰が来てるの?」
「晶ちゃんとサラちゃん。他にも何人か誘ったんだけど、都合がつかなかったみたい」
「そう……」
 何人も思い浮かんだうちのたった二人だけというのは寂しさも感じたが、病人の身としてはあまり大人数で来られても対応しきれない。きっとこれでいいのだろう。風邪で弱っているから人が恋しくなっているだけだ。
 姉もそんなこちらに気づいたのか、それぞれが来られなかった理由を教えてくれた。
「美琴ちゃんはねぇ、花井君のことが気になるみたいなのよ。八雲のお見舞いに行かせたくないからって、泣きながら頼んでくる花井君をどこかに連れてっちゃったんだよね」
 なるほど、想像できる。美琴は気を遣ってくれたのだろう。花井が来れば、おそらく療養するどころではなくなるのだから。気合が空回りして周囲に迷惑をかけてしまうことは目に見えていた。そんな姿を過去に何度も見ているのだから、決して見当外れではないはずだ。
 それに、薄い青のパジャマを彼に見られてしまうのは心地良いものではない。自室の中に入られるのも同様で、好きでもない男に無防備な部分を凝視されるのは避けておきたかった。
 つまりは美琴の細やかな思いやり。
「八雲には播磨君がいるんだし、花井君にヤキモチなんか焼かなくてもいいのにね?」
「ね、姉さん、それ違うから」
「えー? なんでー?」
 しかし。こちらが美琴に対して深く感心していたのに、姉はあっさり別の答えを導き出してくれた。
 何もかもがおかしいのだ。どこから訂正すればいいか、考えることすら放棄したくなるほどに。自分と播磨は付き合ってはいないし、美琴が花井を好きなのかは未知数、当然美琴はヤキモチを焼く理由はなく、全ては姉の思い込みの産物である。
(はぁ……こんな感じで周防先輩や花井先輩も私たちみたいに既成事実化されてるのかな)
 もはや諦めの溜息しか出てこなかった。
 だが姉は、それすらも聞く耳を持たない。構わず続ける。
「ま、いっか。次は愛理ちゃんを誘ったんだけど、最後まで来るかどうか迷ってたみたい」
「……えっ!? 沢近先輩が?」
 呆れ顔を一転させ、姉をまじまじと見つめ直す八雲。
 あっさり断るとばかり思っていたのだ。自分は愛理にいい印象を持たれていない。播磨をあいだに挟んで、いつも彼女とは険悪な雰囲気になっている。だから特に姉と親しい三人組の中で彼女だけは予想から外しておいたのだし、来られても穏やかに談笑なんか出来るはずがないと思っていた。もう一度あの圧迫感をぶつけられたら、心身ともに弱っている今ではとても耐えられそうにない。
 なぜ愛理は躊躇ったりしたのだろう。わざわざ嫌っている相手の顔を見に来るような酔狂な人間ではあるまい。むしろ徹底的に無視し、冷たくあしらうような性格にも見える。
(……実はそれほど嫌われていないのかな)
 珍しく楽観的な思考をしてみたが、なぜかしっくりと来た。
(そうか。あの人とはいつも播磨さんとのことでギクシャクしてるから)
 自分が見ているのは彼女のほんの一面にしかすぎないのだろう。月が裏側の姿を地球に見せてくれないように、愛理も播磨に関係する全てのことに対して激昂した感情しか見せようとはしない。それが彼女の本質であれ、播磨の傍にいる限りは社交的な性質が必ず裏側へと引っ込んでしまうのではなかろうか。
「何だかんだ言って愛理ちゃんも心配してたみたい。もし明日も休むようなら、また誘ってちょうだいって言ってた。私のせいでもあるみたいだから、その時には寄らせてくれって」
「そう……なんだ」
 愕然とした。姉が笑って話を出来るような人に敵愾心を顕わにさせてしまっている自分に。なるべくなら来てほしくないと思ってしまった自分に。
「あ、あの……沢近先輩にありがとうって……」
「うん。ちゃんと伝えておくね」
 ささやかな罪滅ぼしの念は、きっと彼女のところまでは伝わることはないだろう。言葉だけが先行し、肝心の想いはこの部屋に置き去りにされたまま。
 だがそれでいい。全てを伝えてしまうのは野暮というものだ。これから先も彼女に遠慮して播磨から距離を置く気はないのだから。
「で、播磨君なんだけど……」
 と、こちらの思考をトレースしたように次の話題に持っていく姉だったが、そこで急に顔を曇らせる。目を逸らし、中空へと視線を泳がせたまま口をつぐんでしまった。
「どうしたの、姉さん。播磨さんが何か……」
 らしくない。こういったことは姉は割とはっきりと物を言う方だ。特に播磨関係のことは、聞きもしないのに積極的に色々な話を教えてくれる。なのに先の言葉を続けようとしないのはどういうことか。
 あまりいい予感はしない。というよりは、確信していた。
「……うん、播磨君は一番最初に誘ったんだけど断られちゃったの」
「やっぱり」
 今日の見舞いは晶とサラだけなのは姉から既に聞いている。当然播磨が来ているはずもなく、こちらもその事実はしかと受け止めたはずだ。だが、改めて聞かされると心が冷やされていく思いだった。
 それにしても気になるのは、断られただけにしては姉がひどくこちらを心配げに見ているということ。病人への労りとはまた違う、壊れ物を扱うような憂いがあった。
「理由が良く判らないのよねー。今日の放課後は暇なのって聞いたら、もの凄い勢いで暇だって言ってくれて……。でも、八雲のことを言ったらとっても驚いてたんだけど、その後すぐに何か考え込み始めちゃったの。で、ずっと悩んでから『いや……わりぃが用事が出来たわ。一緒に見舞いには行けねえんだ。すまねえな』って」
「……用事が出来た?」
 首をかしげ、疑問に思ったことを反芻する八雲。
 用事があったから来られないのならともかく、出来たとはどういうことか。しかもあっさり前言を翻して断りを入れている。姉が怪訝に思っているのと同様、腑に落ちなかった。不安が滲み出た表情で姉を見つめて続きを待つ。
「でもでも! 播磨君、凄く来たそうにはしてたんだよ! ホントだよ!」
 それは姉から見た話であろう。真実そうなのかは判断できなかった。美琴と花井の勘違いの件もあり、姉を疑うわけではないが、彼女の主観を鵜呑みにするわけにはいかない。
 ひょっとしたら、見舞いに来るのが面倒くさくなったのではなかろうか。こちらの病状を聞いた途端に突然用事が出来るなんておかしすぎる。彼が薄情な人間でないことは承知しているが、それ以外に理由は思いつかなかった。
 即ち自分は、播磨にとって都合のいい友人。それ以外では足枷。
(しょうがないよ。播磨さんとは別に付き合ってるわけじゃないから)
 そう、仕方がないのだ。元々彼が来る義務など欠片も存在しない。臥せっている女性の部屋まで見舞いに来るような間柄ではなく、自分たちの間にあるのは漫画を介しての交流のみ。
 先刻は花井に対して部屋の中やパジャマ姿を見られたくないと思ったばかりだった。付き合っているわけでもない男性を見舞いに来させるのは、少々無防備すぎるのではないか。姉はそういったことを気にしない性格だろうが、自分は壁を作ることを是としているのだから。
(……あれ? でも播磨さんは……)
 ふと矛盾に気がついた。花井には見られたくないのに、播磨に対してはさほど気にしていない。むしろ、来てくれたらとすら思っている。播磨に恋愛感情を持っていないのなら、この違いは何なのだろう。
(何度か泊まったりして、寝ているところも見られているから、かな)
 自分では確信のある事実であるはずなのに、どこか薄っぺらな言い訳のように感じられた。心に開いた穴に無理やり別の答えをはめ込んだような圧迫感。形が合わないせいか、体のあちこちが軋みを上げている。
「――八雲っ! 八雲っ! 気落ちしないでね! 明日は絶対に連れてきてあげるから!」
「……うん」
 深い思考に捕らわれていたことを、悲愁と勘違いしたらしい。いや、実際にその通りで、播磨に距離を置かれているかもしれないという焦燥と不安も同時に覚えていたのだが。
 姉に乱暴に肩を揺さぶられても全く反応できない。病人に対する扱いではないと抗議すべきだろうが、膝の上にある掛け布団を握り締めることに忙しかった。
「じゃあ、晶ちゃんとサラちゃんを呼んでくるね。ちょっと待ってて」
「……え? あ……」
 その意識して普段以上に努めた明るい声に、ようやく八雲は我に返る。気がつくと姉は部屋の入り口まで移動していて、軽く手を振っていてくれた。
 皆がこちらを案じてくれる以上、自分も同じように振舞うべきだ。始終気を遣わせてしまっている姉や、せっかく見舞いに来てくれた二人に暗い顔は見せられない。
 だから八雲は、何とか作りあげた笑みでこう言った。
「ありがとう」

 たった一日会わなかっただけなのに、随分久しく会っていないような気がする。病によって人恋しくなっているせいか、それとも愛理とのことで色々ありすぎたせいか、二人を見た瞬間にホッと息をついている自分がいた。
「サラ、高野先輩……」
 半身を起こしたベッドの上から部屋に招き入れ、二人の顔を等分に眺める。
 サラは姉と同種の笑顔を浮かべていた。わずかな憂慮と、それを覆い隠すような無邪気な明るさ。そこに居るだけなのにこちらに安堵の感情を与えてくれる。
 晶の方は普段どおりの無表情で、何を考えているのかは判らない。しかし、ここにいる以上は心配してくれたのだろう。多忙な彼女がこちらのために時間を割いて来てくれたのは、ただそれだけで嬉しかった。
「天満からかなりひどい風邪だって聞いたからね。調子はどう?」
 さりげなく部屋の様子を確認しながら聞いてくる晶。どこに何が配置されているのか、彼女の頭の中では抜け目なく記憶されていっているようだ。
 まずは一番奥まった場所に鎮座するこのベッド、すぐ隣の愛着のある机、使用頻度がそれほど高くはない姿見、剣客物の時代小説が詰まった本棚、等など。あまり物を置かない性格のせいか必要最低限のものだけで、至って質素で落ち着いた部屋だった。
 ただし、昨日は播磨の家に泊まったり、今日はベッドから起き上がれなかったりで、この二日間は全く掃除をしていない。最初から整頓されてはいるからそれほど目立たないが、埃が薄っすら積もっているだけでも部屋がだいぶ汚れてしまった気がする。まるで小姑にでもダメだしされているような視線には、居心地が悪そうに身じろぎするしかなかった。
 だが、それらについてはまだ許容範囲だ。特に見られたくないのは、部屋の隅にポツリと置かれた播磨の家へのお泊りセットと、机の上にある漫画練習用の道具たち、あとは丁寧に壁に飾られている播磨から貰った万石のサイン。なまじ部屋に物が置かれていないから、余計に目立っている。
(高野先輩、そういったことに鋭いから……)
 それらはパッと見では何を意味するのか判らないはずだが、もし悟られてしまったらと想像すると気が気ではない。姉が相手では絶対に気づかれないから隠す必要はなかったが、誰かが見舞いに来ることを事前に知っていれば、病身に鞭打ってでも真っ先に隠蔽したはずだった。今更ながらそれに対して注意が行かなかったことに後悔する。
(どうしよう。部屋を片付けるから少し出ていってもらうっていうのは、逆に不自然すぎるだろうし……。このまま黙っていた方が良さそうなのかな)
 秘匿したい二つの物をちらちらと眺めつつ、ともすれば消えてはくれないかと淡い期待を込める八雲。しかし眼力だけで物を動かせるような能力があるはずもなく、不自然な挙動だけが見舞い客二人の目に残る。
「どうしたの?」
 気がつくと晶はこちらの視線に自分のそれを重ねていた。
 慌てて首を振り、取り繕う。
「い、いえ、何でもありません! ちょっとぼうっとしてただけです!」
「ん。その様子だと割と大丈夫みたいね」
 薄く微笑んでみせる晶だったが、それが邪笑に見えて仕方がない。表情から考えを読み取るのはまず不可能で、推論を組み立てることすら適わなかった。
 こうなったら余計な刺激を与えない方が良いだろう。八雲は意識的にもう一人へと視界をずらし、逃げ場を求める。が。
「八雲は病人なんだから、そんなに暴れちゃダメでしょ! ちゃんと安静にしてないと!」
「サ、サラ?」
 サラには水面下でのやり取りは判らなかったらしい。いつの間にかずり落ちていた掛け布団を拾い、ふわりと膝に掛けてくれた。そして説教ついでにそのまま語りかけてくる。
「八雲のお姉さん、八雲が倒れてベッドから全く動けない状態だって言ってたんだから。今にも泣き崩れそうな勢いで……だから八雲はすっごく重たい病気にかかったんじゃあって、ホントに心配したんだよ?」
 あの姉なら言いそうだ。こんな調子で他の皆にも言いまわったのだろうか。明日辺りには意識不明の重態という噂でも広まっていることを考えると鬱憂だった。次に登校したときは、間違いなく質問攻めに遭うのだろう。
「あの……多分、姉さんが言ってたほど具合は悪くないと思うから……」
「それじゃ明日には学校に来られそう?」
「多分休むことになるかな。少しは良くなったんだけど、まだ身体が動いてくれないから」
 言い、実際に手を握って握力を確かめてみる。爪が手の平に食い込むくらいに力を込めたはずなのに、感覚に残っているのは汗と体温が混じり合って生まれた不快さのみ。日常生活を不便なく過ごせる気配などまるでない。
 顔を上げ、無言のままに首を振る。
「そう。じゃあ、八雲には申し訳ないけど、愛理の努力は無駄にはならないってわけか」
「へっ? 沢近先輩って、何か関係あるんですか?」
 会話の対象を急に晶に変えるサラだったが、八雲としても気にはなった。
 近頃は沢近愛理という名前に敏感になっている。彼女の考えや行動を把握していないと、不安に駆られて平静なままではいられなかった。播磨との距離が近づくほどに愛理の存在が大きくなり、重石となって心を抑えつけてくれるのだ。
 是が非でも知りたい。だが、晶が真相をただで教えてくれるはずもなく。
「失言だったわね。まあ、ちょっと相談に乗ってあげただけよ」
 言ったきり口を閉じ、更なる質問を封じ込めた。
 ただ、ヒントめいた言葉を残してくれたのは、彼女なりのサービスの証なのだろうか。それを頼りに推察すると、またこちらに対して何か行動を起こすのではないかという疑問が浮かんでくる。
 忘れられない夕焼けに染まった愛理の顔。静かな威圧と激しい弾圧は、ほんの昨日のことだ。あれをもう一度仕掛けてくるのかと考えると、風邪とは別のところから悪寒に襲われた。
 八雲は無意識のうちに布団を手繰り寄せ、胸に抱え込む。
「そんな顔をしなくても大丈夫。あなたにとっても悪い話じゃな――」
 時間が止まった。言いかけた晶だが、ふと何かに気を取られて思考し始める。
 言い知れぬ焦燥に駆られてサラと二人で耳をそばだてると、かすかに漏れる悔悟の溜息。
「いえ、どうかしら。ひょっとすると大惨事に……」
「あ、あの……大惨事ってどういう……」
 最初は聞こえないふりをして中身を吟味しようとしたのだが、あまりに聞き捨てならない台詞に思わず声が漏れてしまった。事が愛理に関するもののため、嫌な予感は倍化される。
「気のせいよ。聞き間違いじゃないかしら」
 毅然とした態度できっぱりと否定する晶。しかし、どれほど信用できるものなのか。
「え? でも、私も聞きましたよ? 確か、前科もあるからあまり信用できない、大惨事になるって」
「じゃあ私の言い間違いね」
「うーん……まあ、いいですけど」
「えっ……あ……」
 いや、サラは良くてもこちらは良くない。だが一度終えさせた話題を蒸し返せるほど八雲は我が強い方ではなかった。口を開きかけ、また閉じ、何度もそれを繰り返す。
 晶はその動作から何を言いたいか判っているはずなのだ。こちらと視線が絡み合った後、白々しくもあさっての方向へとそっぽを向いたのだから。知りつつも、絶対に語ってくれることはないらしい。口元には軽く笑みを浮かべているが、今度こそはっきり邪笑と呼べるものだと判断できた。
(よくは判らないけど、明日は注意しないと……)
 話が一度途切れ、警戒と胡乱と楽天の意思が等分に交じり合う。
 別段、膠着しているわけではない。ただ部屋の中を何か透明なものが通り過ぎていっただけ。気まずい空気が流れるでもなく、空白の間が空いただけだった。
 と、三つのうちの楽天が動く。
「そうそう。はい、これ」
 場を繋ぐようにサラから差し出されたのは、一冊の文庫本。新品の包装をめくってみると、好んで読んでいる時代小説物だと判る。
 自分ならともかく、シスターをしているサラが読むには少々不釣合いなのだが。
「えっと……これは?」
「お見舞いだしね。急だったから良いものかは判らないけど」
 暇つぶしになればいいねと続ける彼女の顔には、一点の翳りすらない笑顔が浮かんでいた。
「……ありがとう」
 感謝の気持ちの分だけ丁重に扱い、ベッドの脇へとそっと置く。今すぐに読みたいところだが、その葛藤を何とか封じ込めて。
「私からはこれよ。ちなみに返品は不可」
「えっと……これは?」
 サラのときと同じ受け答えになってしまったが、仕方がないことなのかもしれない。晶が差し出してきたのは、一枚の封筒だった。中身が入っているかも疑わしく、受け取ってみても全く重さを感じていない。光に透かして見ようと窓にかざしてみるが、生憎と雨なため、間の抜けた自分の行動だけ封筒に映っている。
「開けてごらんなさい。嬉しさのあまり、きっと言葉が出なくなるはずだから」
「は、はい。それでは……」
 よくは判らないが、前科があるのは愛理ではなく晶の方だろう。先ほどは軽く弄ばれたばかりだ。こんな言い方をする以上、まともな物であるはずがなかった。いったいどんな手を使ってこちらをからかうつもりなのか。
 正直開けたくない。でも晶が目を光らせている。笑顔の中で唯一形を変えていない目がこちらを捉えて離してくれないでいる。
(はぁ……多分、身構えるだけ無駄になるから)
 嫌々ながら開封して中を覗きこむと、一枚の光沢のある紙切れが入っていることが判った。ひらりと取り出し、覗いてみる。既に諦めているため、躊躇はない。
「――!!」
 が、それもすぐに悔恨へと変わった。
「どう? 中々よく撮れてると思うけど」
 握力を失しているせいもあり、八雲は驚きと共に布団の上へと取り落とす。
 確かに身構えても無駄だった。中身は、丁寧にラミ加工が施された播磨の顔写真が一枚。しかも、サングラスを外しているところを隠し撮りした、かなり貴重な品だ。
(私でもつい最近初めて播磨さんの素顔を見たばかりなのに……)
 いや違う。呆然とするのはそこではない。混乱したせいか、思考が纏まってくれなかった。
 もとい、なぜ晶はそんなものをこちらに寄越すのか。受け取ったところでどう扱えばいいのか判らない。これを所持していては、間違いなく播磨を好いていると勘違いされるだろう。
 うろたえながら晶を窺うと、企みが成功したせいか傍目にも判断が付くほど上機嫌な顔。
「あ、あの……これは……」
「枕の下に入れるも良し、財布の中に仕込むも良し、写真立てに飾ってベッド脇に置いておくも良し、好きなように使ってちょうだい」
「で、ですから私と播磨さんはそんな――」
 それを聞いて決意する。たとえ善意によるものだろうが悪意によるものだろうが、構わず晶に突き返すべきなのだ。
 が、拾い上げようと手を伸ばしたところで、いつの間にか布団の上から写真が消えていることに気づいた。見回してみると、サラが手に持ち、瞳を輝かせている。
「ひゃー! 写真立てをベッドの横に飾るってことは、朝はおはようのキスをしたり、夜にもおやすみのキスをしたりなんてことも!?」
「そうね。あと、ラミ加工も施したし、たとえ一緒にお風呂しても大丈夫になってるわ」
「いいね、いいね。写真の播磨先輩からの視線に恥らいつつ、湯船の中からこっそりと見つめ返す八雲。体を洗うときだけは、写真を裏向きになんかさせたりして」
 盛り上がるサラに、こちらを無視する形であえて答える晶。外堀を埋めていく作戦らしい。
「わ、判りましたから、もうその話は止めに……」
「あら、残念ね」
 あまりに勝手な妄想は聞くに堪えがたく、慌ててサラから写真を奪う。が、そんな行為までも独占欲の表れと勘違いされてしまい、始末に終えなかった。
「もうっ! さっきも言った通り、病人なんだからおとなしくしてなくちゃ!」
「で、でも……」
 最初は二人の見舞いによって寂しさを紛らわせると喜んでいたのが、こんな展開は望んでいない。こちらとて無理に身体を動かしたくはなかった。少しは精神的に元気を取り戻せたが、引き換えとして体力を失っては本末転倒だ。
 恨みがましく晶へと視界を移す。と、しかし意外なことに真面目な顔を取り繕っていた。
「……高野先輩?」
「あなたも最近少しずつ変わり始めたみたいだしね。ちょっとした餞別よ」
 判らなかった。その言葉がいったい何を意味しているのかまるで判らない。自分がどう変化しているのか。いや、本当に何かが変わっているのだろうか。餞別がなぜ播磨の写真に繋がるのか。そも、これから自分はどこへ旅立つのか。
 目だけで晶に問うが、彼女は全てを語ってくれることはなかった。静かにこちらを見つめ返しているのみ。
(え、と……せっかくだから、サラから貰った文庫本の栞として使えばいいのかな)
 とりあえず一切を忘れることにし、目の前の物の処理に専念する。
 ただし、断じて財布の中には入れないし、起き掛け寝掛けにキスをするつもりもない。風呂場にまで持っていくなど、もってのほかだ。かと言ってぞんざいな扱いにできるはずもなく、律儀に活用方法を見つけ出してしまうのは生来の生真面目さゆえか。ともあれ、この本は学校には持っていけなくなってしまったようではあった。
 そして一呼吸を置いた後。
「でも播磨先輩も、こんな八雲をほったらかしにするなんて酷いですよね」
「全くね。折角私たちが誘ってあげたっていうのに、あっさり袖に振るなんて」
 自然と話題については写真の人物へと移っていく。少なくとも、サラにとっては最も興味をそそられる事柄だ。彼女が見逃すはずもない。
「あのね、八雲。実は私たち、ここに来る前に播磨先輩と話して、一緒にお見舞いどうですかって誘ってみたのよ」
「……うん、それは姉さんに聞いたから」
 八雲はうつむき、心の中で耳を塞ごうとする。二人に悪気はないのは了解しているが、今だけはあまり思い出したくない。友人たちと談笑をしていることで忘れていられると思っていたし、実際に話題に出るまで意識に上ることがなかったのだ。姉から伝え聞いた播磨の不可解な見舞いの拒否は、出来ればこのまま記憶から風化させてしまいたかった。
 しかし、胸の内にわだかまりが存在している限り、避けては通れない道なのだろう。先延ばしにしたい気持ちは依然として強く残っているが、これからのことを考えると少しでも前に進む必要がある。友人を触媒として使えば、多少は足も軽くなってくれた。
「姉さん……播磨さんを誘ったけど、私の話を出した途端に断られたって言ってた」
「違うのよ。天満も誘ったらしいけど、それとは別にもう一度私たちも後から打診したの」
「えっ……?」
 八雲は勢いよく顔を上げる。
 わずかな光明に、晶を凝視するのだが――
「ああ、いえ、結果は同じだったから違わないのかもね。一応、明日まで長引きそうだったらまた誘ってくれとは言われたけど」
 それもぬか喜びにすぎないと判る。こちらの期待に応えられないと知っている晶は、珍しく慌てた様子で詳細を付け加えてきた。
 最初の口ぶりから、ひょっとしたらこれから播磨が遅れて来るのかもと考えたのだが、そんなに自分にとって都合のいい展開にはならないらしい。いったん気持ちが上向いた分だけ失望による落差はより深いものとなり、二人に聞こえてしまうのを承知の上で溜息が漏れ出てしまう。
(でも、また私の早とちりだって判ったから)
 残念に思っているのは相変わらずだが、それでも少しは気が楽になってくれた。
 播磨は社交辞令を言えるような性格ではない。誘ってくれと口にしたのなら、確かに本心からの言葉なのであろう。見舞いに来ることを嫌がったのではなく、どうしても外せない重要な用事があっただけなのだ。
 姉の打診の後に用事が出来たと答えたのは、ただの言い間違いだったのではなかろうか。自分が過敏に反応しすぎたのであって、彼にとっては重要な言い回しではなかったのかもしれない。何より姉からの情報では、フィルターを外す作業が欠かせないのだから。
「まあ、天満が誘った時点で駄目だったんだから、改めて私たちが誘っても来るわけがないって判っていたんだけどね」
 何か含みを持たせている晶の言い方も気になるが、考えはすまい。二人には悪いが、今は安堵の感情で占められ、どんな言葉も耳を通り過ぎてしまっていた。ただ感じるがままに己の胸を抱きしめる。

 気持ちを沈ませる事柄は数多く抱えていた。芳しくない体調、播磨や愛理との微妙な位置関係、喫茶店で言われた播磨への好意の否定、明日の愛理の見舞いによって起こる何か。そんな中で、用事もないはずの播磨に見舞いを拒否されたのは誤解の可能性が強いと判ったのはありがたかった。心労が一つ減った分、二人との雑談に素直に笑う余裕が生まれるから。
(色々気を遣ってもらったし、サラたちには本当に感謝しないと)
 落ち着きを取り戻し、今度こそ気兼ねなく束の間の歓談を楽しむ八雲。主にサラが一方的に話を振り、自分と晶が相槌を打っているだけだが、それだけでも十分に寂寥を忘れることが出来た。昼間の静寂が印象強かったせいか、自分以外の発する音というものが特に新鮮に感じられる。
 話の内容については覚えていない。他愛のない、口にした途端から忘れてしまうようなつくづくどうでもいいものばかりで、話題の中心も次々に別のことへと移ろっていく。話をするという行為こそが重要な意味を持っているのであり、会話とは時間の共有を図るための一つの手段であった。
 だが、その時間ももうすぐ終わり。世の中には無限のままで存在し続けるものなどありえないのだから。部屋が段々と暗がり始めたことを気にしたサラが、ふと窓の外に意識をずらした時に変化の契機は訪れた。
「あれ? 何か外の方が騒がしいんじゃありませんか?」
「ん? そう言えばそうね。しかもこの声……」
 雨のために窓を閉め切っているが、それでも屋外の音が二階に伝わってくるのは余程の大声なのだろう。間断なく地面を打ち付ける水滴の音すら掻き消し、耳へと纏わり付いてくる。かすかに不安を抱かせるのは、掠れて全容が掴めないせいだろうか。
「何だろう。ちょっと窓を開けるね?」
「あ、えっと……」
 承諾する理由も止める理由も明確には浮かんでこず、答えを返せないでいたのだが。
 幸か不幸か風はない。景色は雨滴によって垂直に切断され続け、飛沫程度に小さく砕けたそれがガラスに貼りついているだけだった。こちらの逡巡を無視する形でサラは窓辺に寄り、外の様子をガラス越しに覗き込む。
 嫌な予感がするのだ。音源らしきものがこの家に近づいてくるたびに、身体が硬直して動いてくれなくなる。出来るならサラをいったん制止させてからどうするか熟考したいのだが、咄嗟には声が出ず、彼女を思い留まらせそうもなかった。
 それに、晶が露骨に顔をしかめているのも気にはなる。以前どこかで見た稀有な表情は、自分にとってあまり良くなかった出来事と一緒に朧に記憶しているのだが。
「外で何かあったのかなぁ」
「サラ、悪いことは言わないから開けない方がいいわよ。きっと後悔することになるから」
「えー、何でですかー? ちょっと見るだけなんですから、別に何もありませんって」
 賛成と反対は一票ずつ、後の一票は自分が入れた棄権だ。本当なら反対票に上乗せさせたいところだったが、正当な理由を思いつかないのだから仕方がない。
 それに、サラにとって他人の意見などは瑣末なものにすぎないのだろう。好奇心が旺盛な彼女は、舌打ちする晶を尻目に、機嫌の良さそうな顔のまま一息に開けてしまった。当然こちらの不安げな表情も無視だ。
 ガラリと一音が鳴ると、途端にはっきり感じる雨足の気配。暗天の秋の冷気と共に、湿った空気を運んでくる。それが全身を薄く覆う汗に溶け込み、身震いを誘ってきた。
「んー……これといって何も――」
 窓枠から身を乗り出したサラは、雨に濡れるのもお構いなしで周囲を巡らせている。視界が悪いためか手でひさしを作りながら眼を細めている様子は、傍目で見ていても愛嬌があって微笑ましい。
 いや、微笑ましかったと言い換えるべきなのか。既に過去のことなのは、視線が玄関先の辺りを通り過ぎようとした辺りで凍りついてしまっていたから。顔は笑ったままだが、逆にそのことが彼女の驚愕の度合いを表している。
 サラから言葉を奪い、挙句に表情まで奪い去ってしまうなど余程のことなのだろう。聞くのは怖いが、身近で何かが起こっているのを把握していない方も切実に怖い。気は進まないが聞くしか選択肢はなかった。
「えっと……どうしたの、サラ?」
「……あらら、来ちゃったみたい」
 こちらの声に、ようやく再起動を果たしたサラが呟きを入れる。とはいえ、返事をしてくれたわけではなく、意識から漏れ出でただけのような呟き。失意の意味が込められているのに明るい口調のままなのは、驚きから完全には抜け出ていない証だった。もっとも、彼女が素に戻ったところで対応はほとんど同じだったのかもしれないが。
(ひょっとして、来ちゃったって……)
 もしかしなくとも、思い浮かんだ人物が一人だけいる。招かれざる客と言えば、彼は茶道部でも常にそんな扱いを受けていたし、来たがっていたことを一階で慣れない家事に勤しんでいるはずの姉が教えてくれたのだから。
 その人物に対して特に酷い仕打ちを与えている晶に改めて目を向ける。と、露骨に眉を顰めているのが何よりの証拠だった。
「早く顔を引っ込めなさい。でないと――」
「おお、サラ君ではないか! 見舞いに来たはずの君がそこに居るということは、八雲君もそこに一緒に居るのだな!?」
 ベッドからでは姿は見えないが、この声は間違いなく花井春樹のものだ。何事にも真っ直ぐで、故にこちらにも好意を隠すことなく全力でぶつけてくる。嫌いではないのだが、どう対応してよいか判らず、出来ることなら距離を置いたままでいたい人物。
 しかしここに逃げ場はない。あったとしてもこの身体では身動きが取れず、第一、彼も心配してくれているのだから、有無も言わさず姿を隠してしまうのは少々忍びなかろう。
「八雲くーーーーん!! 僕が来たからにはもう大丈夫だぞーーー!!」
「…………」
 いや、その言葉を聞いた途端に前言を撤回してクローゼットの中にでも引きこもりたい衝動に駆られてしまった。近所に響き渡っているであろうこの咆哮は、後でどう言い訳すれば良いのか。明日はおそらく家から出ないはずだからまだ安心だが。
「こらっ花井! おめえが行くと塚本の妹がゆっくり休めねえって言ってるだろ!」
「何を言うか。僕が八雲君のためにわざわざ調合した特製の薬を持ってきたというのに」
「届けたいってんなら、あたしが持ってってやるって言ったろ? というか、それ以前にそんな怪しげなものを飲ませられるか!」
 声の種類が一つでなかったことだけが唯一の救いであろう。美琴が必死に食い止めている様は、姿が見えなくとも良く判る。打撃音や花井の苦悶の声と共に聞こえてくる彼女の罵声によって、花井はこの家の敷地内には未だ進入は果たせていないようだ。
(でも、あんなに何かに一生懸命になれるのは少しだけ羨ましいかな……)
 自分はああいった一途な感情を持っていない。少なくとも自覚はしていない。いずれ彼のように何かをひたすらに追い求める自分の姿を想像すると、憧れる気持ちも確かに存在している。蹴られ、叩かれ、それでも目的のために懸命に足掻く花井は、十分に賞賛に値するものだった。
 ただし、こちらが関わらない場合に限り。
「……はぁ」
 自然に肺から重たい物が零れる。と――
(あれ?)
 ふとそれは自分のものだけではないことに気がついた。顔を上げてみると、晶もこめかみに手を当てて溜息をついているところ。
「美琴さんでも抑えきれなかったか。彼もしょうがないわね」
「うーん……八雲はどうしたい? 先輩を中に入れる? それとも追い返しちゃう?」
「あ、あの……」
 サラは悪気もなしに閉め出す案も提示してくるが、素直に賛同する気にはなれない。
 別に迷惑ではないのだ。ただ、サラたちが来たことによって生まれた穏やかな雰囲気を壊されたくないだけ。それさえなければ、花井と顔を合わせることになっても許容は出来る。
 いや、何度も似たような思考を繰り返している辺り、自分の本心は別のところにあると理解していたが。つまり追い出す案に消極的な賛成で、口実となるものをどこかで探している。
「酷な質問だったわね。じゃ、私の独断と偏見で決めさせてもらうわ」
「……あ」
 沈黙の意味を正確に解したらしい晶は言うが、こちらが別に構わないと返事したところで、自分の考えを曲げることはなかったはずだ。躊躇いを見逃さずにすぐさま隙を突いて言葉を挟んできたのだから。
 晶はあっさりとベッド脇から離れ、部屋の出口へと向かっていく。その際、サラに目配せするのも忘れない。
「サラ。花井君をどこかへ引っ張っていくから手伝ってちょうだい。じゃ、私たちはそろそろお暇するわ。次は部室ででも会いましょう」
「八雲、元気になったらまた学校でね」
「……うん、今日はありがとう」
 窓を閉め、挨拶もそこそこにそそくさと去っていく二人。その言葉を最後にパタリと扉が閉まると、途端に部屋には静寂が満ちる。正確には花井たちが言い争う声は未だ続いているのだが、それはもはや雨音と同じく雑音の一つに過ぎない。決して自分と交わることはなく、閉められた窓によって遠い世界の出来事となってしまったのだから。
 痛みを伴う沈黙が、身動きすら取れないほど神経を苛んでくる。全てが中途半端に終わってしまったような白々しい余韻と共に、切実な圧迫がじわじわと身に圧し掛かってきた。
(そういえば、忘れ物とかなかったのかな)
 もう一度扉を開けて二人が入ってくる予感する。が、絶対に当たることはないだろう。根拠が何もない期待とは、ただの妄想だ。当てにするだけ馬鹿げている。現に辺りを見回しても自分の私物ばかりで、彼女たちの残した痕跡は一冊の文庫本と写真しかなかったのだから。
 もしサラたちが普通に見舞いを終えて帰ったのなら、ここまでの苦しさは覚えなかったはずだ。花井によって起こされた小さな騒動との落差が、より顕著なものとなって感じられているのだろう。
「……えっと……」
 口にした言葉に意味はない。無音に支配された世界に、本当の主が誰なのかを主張したかっただけで。窓の外から侵食してくる雨音よりも強く響かせ、整然と並んだ空白を掻き乱す。
 しかし、ある種の懐かしさすら感じたあの騒がしい雰囲気は時間を追うごとにはっきりと薄れ消えていった。彼女たちが去っていったあの扉に手を伸ばしても、ここからでは決して届いてくれることはないだろう。
 手放したくない。昼間に一人で居たときよりも増幅された寂寥は、自分の持つ体温だけでは堪え切れそうもなかった。
 八雲は縋るようにベッド脇に置かれた時代小説の新刊へと手を伸ばしていく。

          ◆◇◆◇◆

「……あ」
 過去を映し出すスクリーンは、いつの間にか窓ガラスから手元の文庫本へと移っていた。ページ数を確認してみると三百と余、残りは十ページもない。どうやら無意識の内に繰っていたらしく、続きを読み直そうとも、どこからだったのか見当もつかなくなっている。
(また……最初から読み直すしかないのかな)
 時計を見ると針は九時半を指していた。懐古に耽っていたのはほんの三十分程度。その間に風邪が突然治るわけもなく、おそらく明日も学校を休むことになるだろう。三日連続になるということもあり、暇な時間だけは有り余っているようだった。
(いつもなら一日か二日ぐらいで治ってくれるんだけど)
 病気の治療には、心のケアもそれなりに考慮しなければならないらしい。病は気からという言葉はただの気休めではなく、精神状態によっても病状はある程度変化する。塞ぎこんでいれば自然に治癒するはずのものも悪化してしまう場合があり、ならばなかなか快方に向かってくれないこの身体にも納得は出来た。
(うん……もう一度始めから読んでみようかな)
 小説に没頭している間は何もかもを忘れていられる。神経を針で突付かれるような嫌な出来事も、どうしても知りたいのに答えが見つからない問いも、切ないまでの寂しさも。逃避していられるなら、たまには一心に無為の行動を繰り返すという酔狂な真似もいいだろう。
(本を読むのは嫌いじゃないし)
 表表紙へと再び舞い戻る前に、何となくページをぺらぺらとめくってみる。とはいえ、その行為に何を求めているでもない。読みかけの場所を探り当てられるかもと考えたわけではなく、純粋にただの時間潰しだった。新品の紙とインクの匂いを鼻先に送り、刺激の少ないベッド上の生活に変化を与える。
 三百ページから二百五十ページへ、二百五十ページから二百ページへ。指先を少しずらすだけで右から左へと逆行していく物語。
 それは懐古に似ていた。ある一点を懐かしみ、その記憶を頼りに更なる昔を思い出す。やがて連鎖は広がり、フィルムを逆回しにしたような一本の流れが作り上げられるのだ。
 無色に染まっていたはずの空白は、次第に自らの記憶の追体験に占められていった。愛理が見舞いに来てくれた今日の夕方、播磨にまつわる様々なことに思い悩んだ昼、怠惰に眠りを貪っていた朝、そんな情景がパラパラ漫画のように次々に流れ行く。
 しかし。
「あ、これは……」
 もう一度、今度は今日の朝から回想を始めようとした八雲だったが、思いもよらない物によって阻まれてしまった。百二十ページ辺りまで戻った時に、唐突に現れた播磨の顔。良く言えばニヒル、悪く言えば機嫌の悪そうな表情で、写真の外の遠く彼方を見つめている。
 栞として使用していたため、どこまで読み終えたかがはっきりと記憶に蘇ってくれた。過去の記憶はそれによって一時的に塗り潰される。
(そういえばここに挟んでいたんだったな)
 処置に困るかと思っていた晶からの見舞いの品は、一応は役に立ってくれたようだった。ただ、彼女に感謝する気持ちはさほどなく、むしろ歯がゆい思いすら感じているが。
 最初から読むしかなくなって時間を潰せるという後ろ向きな期待は断たれてしまったらしい。これから先を読んでしまえば、きっとすぐに読み終えてしまうだろう。そうなれば、今度は何に現実逃避していけばいいのか。娯楽に乏しいこの部屋では、己の心ぐらいしか動くものは存在しない。
 八雲は栞代わりに使っていた播磨の写真を本の間から抜き出し、顔に寄せて凝視する。
「どうやって撮ったのかな……いつもはサングラスだけは外さなかった気がするけど」
 これは本当に貴重な写真だった。彼と知り合って幾ばくかの時は流れたが、今までに素顔を見ることが出来たのはたった一度のみ。砂浜で日の出を眺めていた時だけである。しかもあれは事故のようなもので、普段は彼に頼んだところで外してくれるかどうか。怪訝な表情を浮かべて理由を問うてくるのは目に見えていた。
 ともあれ、自分の知らなかったことを他人が知っているのは歯がゆいものだ。ましてやそれが価値あるものなら、嫉妬に似た感情を覚えてしまっても不思議ではない。特に大切だった朝凪のあのひと時を、晶が後ろからこっそりと観察していたような錯覚を感じ、興ざめにさせられた気分だった。
(他にこの顔を知ってる人はどれくらい居るんだろう)
 晶は知っていた。自分も数日前に知った。親戚である刑部絃子も多分知っている。サラと愛理はこの写真を見て知ったが、直接は対面していない。自分の知る範囲ではこのくらいか。直に聞き回って確かめるわけにもいかないため確証はないが、おそらくそれで全てだろう。
 数少ない一人になれたのは光栄だ。が、身内以外では唯一と思っていたものが自分を経由せずに他人の手に渡っていたことには、僅かなりとも悔しさを感じてしまった。
(嫉妬、か……やっぱりそうなのかな……)
 一度姉から播磨に関して嫉妬深いと言われたことがある。誤解から生まれたその言葉だったが、実は真実の一端を突いていたのかもしれない。
 独り占めできたと思っていた彼の素顔が、晶によって周知させられたのが嫌だった。愛理に自分と播磨の関係を邪魔されるのが嫌だった。自分本位の傲慢な考え方だ。しかし、その傲慢こそが嫉妬の本質でもある。自分は確かに晶や愛理たちに嫉妬していた。
(でも、嫉妬は好きな男の人だけに感じるものじゃないと思うから。普通の友達にだってそういうことを思ってもいいんだし)
 八雲は播磨の写真を再びじっくりと観察する。
 色々思うことはあるが、これは喫茶店での待ち合わせから朝焼けのまどろみまでの一連のデートの流れを思い出すのに実に都合のいい品だった。彼の姿をまぶたの裏に焼き付けて深く深呼吸すれば、途端にあの日の情景が蘇ってくる。何を話していたか、どこを見ていたか、そしてその時の自分はどんな想いを抱いていたか。それらが鮮明に浮かび上がり、己の心を沸き立たせてくれた。
 やはり栞にしておくのはもったいない。財布の中に忍ばせるのは行き過ぎだが、せめて写真立てに飾るくらいは良いだろう。もちろん常に伏せたままにしておき、これ以上他の人間の目に触れさせるようなことは避けるつもりだが。
(特にこの部屋はいつ姉さんが入ってくるか判らないから)
 と――
「八っ雲ーー! お風呂上がったよー!」
「ね、姉さん!?」
 まさに今考えていた通り、明け透けのない声と共に扉が開けられ、姉が顔を出す。わずかに湿り気を残した髪と、こちらが着ている物と対になっている淡いピンクのパジャマ、手に持っているのはお湯の入った洗面器とタオル。
 八雲は咄嗟にサラから貰った本に写真を滑り込ませ、播磨の素顔を姉から隠した。
 不審に思われても関係ない。それより大事なのは、思い出の拡散を防ぐことである。この写真は、大事にしまって他人の目から遠ざけると誓ったばかり。普段から何事も共有してきた姉妹と言えど、記憶の原風景を直接見られるのは抵抗があった。
 それに、姉に見つかれば確実に冷やかされることになるだろう。ただでさえ付き合っていると誤解されているのだ。最近はこちらが強く否定しなくなったせいもあり、余計なお節介は前より強固なものとなっている。播磨と逢うと言った時にはわざわざ服を貸してくれたし、これからの彼との逢瀬の場所としてこの家を提供してくれもした。それを拒むどころか喜んでいる自分が泥沼の状況を作っているわけだが、今回の写真が発覚すれば、誤解を解く機会を永遠に失ってしまいかねない。
 決して播磨の素顔を姉に知られたくないからという理由だけではなかった。
「……どうしたの? そんなに慌てて」
「な、何でもないから」
 恐々としながら文庫本をベッド脇に置く八雲。
 なるべく本に刺激を与えてはならない。刺激を与えれば、即ち姉の心にまでそれが伝わってしまう可能性もある。自分自身の挙動の怪しさはともかく、文庫本の存在だけは見咎められぬように細心の注意を払って自然な行動を演技した。
 そして姉への秘密がまた一つ生まれる。
(播磨さんの家の泊まったのを嘘をついたばかりだったのにな)
 以前はこんなことはなかったのだ。姉の前では心の入れ物は常に透明色のままだった。曇りなきガラスで出来た純度の高いそれは、どれほど奥まった所にあるものでも細部まで明確に映し出す。たとえ遮るものがあっても逐一綺麗に取り除いていた。
 だが、自分が播磨を強く意識しだした辺りから二人の関係が崩れ始めている。つまり自分にとって大切なものが、姉ではなく播磨へと摩り替わり始めている。無論姉は前と同じく敬愛しているが、それ以上に形容しがたい何かを播磨に対して感じてきているのは確かだった。
(でも姉さんは私に隠し事をしないから。それどころか聞けば喜んで教えてくれると思う)
 姉は勘ぐることを知らない。いや、相手を心配して疑うことはあっても、猜疑心というものは存在していない。
 それが余計に身を苛んでくる。決して悪いことしているのではないはずなのに、まるで酷い裏切りでも犯しているような。彼女の心の中が視える限り、自責の念が縛鎖となって自らを蝕むのだろう。
「怪しいなー。八雲、何か隠してない?」
「ううん、何も。本当に何でもないから」
 ふと隣の文庫本に視線を落としそうになる。が、ここは我慢だ。昨日は目を向けたために晶に悟られ、危うく隠しておきたいことに勘づかれそうになったばかりだった。同じ轍は踏みたくない。
(……何だか段々ずるい人間になってるようで嫌だな……)
 自分はこうして次第に姉から離れていくのだろうか。そう思い至ると、無性に悲しさが込み上げる。独り立ちしていくという意味なら良いのだが、決してそうではないのだから。
「なーんか納得いかないんだけどなぁ……ま、それより八雲も汗をたくさん掻いただろうから、体拭いてあげるね?」
「い、いいよ。自分で出来るから」
「良いから良いから。たまにはお姉ちゃんらしいことさせてよね」
「でも……」
 依存。都合の良いときだけ姉に甘え、彼女の庇護を享受している。
 前までは互いに寄り添っていたはずだが、近頃ではこちらから一方的に負荷を掛けるだけなのだ。どれほど姉を想おうとも播磨のことが優先され、姉妹の繋がりが歪に、そして希薄になってしまった。
 姉が家事を手伝い始めたことに全ては象徴されているだろう。こちらが播磨のことで落ち込んでいたときに彼女は様々な雑務を肩代わりしてくれたわけで、精神的には既に自立していた姉が、今度は生活の面でもそれを果たそうとしている。
 確かに喜ばしいことだが、自分の居場所が姉の中から失われてしまったようで辛かった。いや、姉が居場所を提供してくれるのに、自分で勝手に居心地悪いものと認識してしまうことこそ辛かった。こちらの心の中からは、姉の居場所を次第に削り取っているというのに。
「どしたの、八雲? お姉ちゃんに裸見られるのが嫌だった?」
「あ……ううん……そうじゃなくて……」
 今の姉に触れられるのがたまらなく怖い。触れた指先から己の醜い思考が流れ込んでいきそうな妄想に取り付かれる。
 汗を拭くことくらい自分で出来ると言いたかった。せめてそんな無邪気な笑顔を向けないでくれと言いたかった。しかし同時に、拒絶によって自分たちの関係が崩れてしまうことを恐れ、口から先へと言葉が出てくれない。姉の好意にまたしても依存している自分が居る。
「それじゃあいいよね? 服を脱がすからジッとしててくれる?」
「……う、うん」
 八雲は従い、上体を起こしたままゆっくりと筋肉を弛緩させていった。胸元を覗きこんでくる姉の髪が頬をくすぐり、そこから甘いシャンプーの香りが漂ってくる。彼女の抱擁に包まれているようで、少々こそばゆい。
(同じシャンプーを使ってるのに全然違う匂い。私のよりもいい香りなのは何でかな)
 鼻腔をくすぐるラベンダーの名残に酔いしれている間にも、姉の手は動き続けている。パジャマのボタンに掛かり、プチリプチリと不器用ながらも丁寧に一つずつ外されていった。
 シルクゆえに脱がされている感触はない。元より通気性は良く、ブラを着けていないことも併せて、肌の上を滑る感覚はごく自然だった。目で追わなければ、きっと裸にされかけていることにも気づけなかっただろう。
 それなのに、まるで自分の心が曝け出されてしまったような錯覚を感じる。くつろがせていたはずの身体にかすかな緊張が走った。
「はぁ……八雲の胸、やっぱり私のより大きいよー。姉妹なのに……お姉ちゃんなのに……。こんなに違うなんておかしいよ。肌も真っ白で綺麗だし」
「ね、姉さん。そんなにじろじろ見られると……」
「あ、ごめんごめん。ちょっと羨ましくなっちゃって」
 だが、それも刹那のことだ。姉はいつもの通り。相も変わらず気ままに話しかけてくる。
(そうだよ。私と違って、姉さんは私の心が視えないんだから)
 自分だけ意識しているのが馬鹿らしかった。
 学校を休んでいる間に常々感じていたはずが、今は特に鬱の状態になっているらしい。体が動かない分、陰を含んだ感情が澱となって静かに堆積しているのを自覚する。
 自らの重みに耐えられず、自壊してしまいそうな不安定さを孕んだ己の心。この瞬間に救い上げてくれる唯一の存在を拒絶してしまうなど――
「じゃあ背中から拭くね?」
「えっ……? あ……うん」
 いつの間にかパジャマの上は全て剥ぎ取られ、タオルを持った姉が背後へと回っていた。
 顔は見えないが、きっと姉は上機嫌に微笑んでいるのだろう。気配や声の調子で判断するまでもなく、楽しそうにしているのが判る。
 そんな姉を想像すると笑みがこぼれた。そして姉も、見えていないはずのこの顔が笑みの形をしていると信じているに違いない。
(希薄にはなり始めたけど、繋がりは無くならないよね。姉さん……)
 二人の関係は少しずつ歪に変わり始めたが、決して変わらぬ部分もある。そんな希望に縋りながら、八雲はゆっくりと目を閉じていった。

 心地良かった。濡れたタオルで肌をくすぐられるたびに、汗と一緒に不安も拭い去られていくような気がして。
 八雲はまぶたを閉じたまま己の背後へと意識を向ける。
 姉がこちらの体に手を触れてからどれほどの時間が過ぎていったのだろう。背中や肩、首や腕、そして胸など、上半身は彼女が持つタオルによってくまなく愛撫されていた。
 その際に何度もタオルを濡らし直し、何度も同じ所を拭い直しているのが不器用な彼女らしい。気がつくともう一度振り出しに戻り、穏やかな時間の中から中へと逆行させられている。小さな変化の連続によって作られる無変化は、連環を思わせるような調和された永遠にも似て、揺りかごのような安らぎを与えてくれた。
 例えば好きな男性が出来たとして、その人からの愛撫を受けてもこれほどの恍惚は得られないだろう。肌に触れるその手には、純然たる好意だけで澱んだ欲望などは欠片も存在せず、だから自分は心を落ち着かせて身を任せることが出来る。心が視えずとも触れた部分から姉の気持ちが流れ込み、身体の奥深くまで清涼な気配が染み渡る。
(ずっとこうしていたいな)
 目を開けてみると時間は午後十時。既に三十分も身体を拭かれ続けていたようだ。
 会話もなく黙々と互いの意識を感じ合っているだけなのに、これほど時間を忘れていられるのは随分久しぶりのことだった。いつも騒がしくしている姉がこんなに静かな雰囲気を作っていること自体どこか不自然さが滲み出ているが、たまにはこんなことがあっても良いのかもしれない。姉と同じ時間や感情を共有することは、どちらにせよ好むところなのだから。
 しかし――
「……ふぅ」
(溜息……?)
 沈黙の意味は自分と姉とではまるで違っていたらしい。動き続けていた姉の手が唐突に止まる。そして寂寥を孕んだ彼女の言葉によって、この想いは一方通行のものでしかなかったことに気づかされた。
「……播磨君、今日も来なかったね」
「……うん」
 つまり姉は、心配事に意識が行くあまり手元がおろそかになっていただけなのだ。
 心が急速に冷やされるのを感じる。心臓は強く波打つのに、心だけが置き去りにされたような感触。緩んでいたはずの口元は瞬時にこわばり、膝の上の掛け布団も己の手によって深くシワが刻まれていく。
 出来ることなら思い出したくなかった。それを忘れ続けているために、先ほどから一体どれほどの気力を費やしていたことか。かすかな綻びさえあれば簡単に決壊してしまいそうな心を繋ぎ止めるために、今まで必死になって防波堤を築こうとしていたのだ。なのに、姉の不意打ちによって一息に粉みじんにされてしまった。辛い現実というものを突きつけられてしまった。
「今日は愛理ちゃんも来てくれたのになぁ……播磨君、学校にも来なかったみたいだし、どうしちゃったんだろ」
「……うん」
 生返事しか出来ない。が、それはお互い様なのだろう。姉も独り言だと承知しており、だからこそこちらの反応に構うことなく再び手を動かし始める。
 ゆったりとしたその動きは、先刻と全く変わりがないものだった。闇雲にこちらの身体を這い回り、肌の上を優しく滑っていく。壊れ物を扱うような、そんな丁寧な動き。
 しかし空虚さに気づいた今では、あの心地良さは欠片も感じてくれない。ぬるま湯に浸されたはずのタオルは貪欲にこちらの身体から体温を奪い、不安が増幅されていった。
「八雲、電話とかしてみた?」
「…………」
 無反応。そしてしばらくした後、無言のままに八雲は首を横に振る。
 出来るわけがない。というより、思いつきすらしなかった。播磨の番号が登録された携帯の電話は、彼からの漫画の打ち合わせを待つだけの存在だ。姉と共有していたはずの先の沈黙の意味が一方通行だったように、この携帯もこちらの感情を無視してくれる一方通行の連絡手段に過ぎない。
 播磨に対して能動的に接触しようとしたのは、茶道部の合宿で動物の話を聞こうとした時と数日前に喫茶店に呼び出した時のたった二回。そんな状態なのに、今更どうして電話など出来ようか。何を話したらいいのか、どんな声音で話したらいいのか、まるで判らなかった。
(それに、知っちゃうのが怖いから。色々理由を作ってみたけど、多分それが一番の原因だと思う……)
 出来るならこの事は全て忘れ、再び会った時には何事もなく挨拶を。多少のしこりが残ろうが、消極的だと謗られようが、無闇に傷を作りかねない行動は避けておきたい。
「昨日は誘ってくれって言ってたから、あの時はおとなしく引き下がったのに。期待させておいてやっぱり止めるなんて、これじゃあ八雲があんまりだよ」
 肩に置かれた姉の手が、タオル越しにきつく握り締められる。非力ゆえに痛みを覚えることはなかったが、彼女の感情が肌に食い込み、心に重い痛みを植えつけてきた。
「……でも、播磨さんも何か用事があったかもしれないし」
「それでも、だよ! 病気の彼女を放っておくなんて彼氏失格! 八雲にこんなに寂しい思いをさせるなんて彼氏失格!」
「で、でも……」
 何とか姉に反論しようとするが、決して播磨を庇っているわけではない。自分が傷つくのを恐れ、問題を大きくさせたくなかっただけだった。ここで話を打ち切ってしまえば、後はこちらの心の持ちようで如何様にも決着をつけることができ、最悪の状態だけは避けることができる。
 本当ならば姉の口を手で塞いででも話を遮りたかった。だが、それをすれば姉は余計に心配して色々とこちらを嗅ぎ回ってくるだろう。
 天災のようなものだ。それ自体には罪も悪意もなく、出来るのは早く過ぎ去ってくれと祈ることのみ。八雲も諦め、目の前の暴風をただただ受け入れる。
「この前の休みは楽しそうにデートしてたみたいだし、うまくいってるんだって思ったんだけどなぁ。あの後ケンカでもしちゃった?」
「あの……そうじゃなくて……」
「じゃあ愛理ちゃん? 一昨日呼ばれて、帰ってきたら酷い顔してたし、何かあったの?」
 ケンカではなく、うまくいっているという部分を否定したのだが。どちらにせよ、姉の思い込みの前では意味のない発言らしい。こちらの言葉を聞いて返事をしているようにも見えるが、実際にはこちらを置いてきぼりにして話を展開している。その証拠に、沈黙を保っていても彼女の話は際限なく続くのだから。
「まさか愛理ちゃんに呼び出された時、播磨君と別れるように言われたとか。文化祭の時も八雲たち三人の間で何かあったみたいだし……」
「…………」
「あの時は聞き辛かったからあえて尋ねなかったけど、やっぱりその事と関係あるのかな」
 姉には悪いが、これ以上聞く意味はないだろう。否、正確には聞きたくないのか。
 彼女なりに懸命に考えた推察はおよそ的外れだが、今現在感じている憂鬱の原因について想起させるには充分だったから。
 確かに愛理のことは色々と考えさせられている。後夜祭のダンスで決定的な溝を作ってからというもの、今まで幾度か大きな衝突をしていたのだ。屋上で彼女と播磨の逢瀬を邪魔したり、抜け駆けのように播磨をデートに誘った挙句朝帰りというものをしてしまったり――実際はお互い様の上、愛理に断りを入れる必要はないのだが――、それらがすべて愛理に露見したせいで陰の感情を喫茶店にてぶつけられたり。今も表面上は普通に相対しているはずなのに、要所要所でギクシャクした部分が生まれてしまう。
 そんな彼女からこちらの播磨への感情を定義付けられたのは、この上ない混乱をもたらしてくれた。数分ごとに繰り返し問答をして、袋小路の思考に追い込まれてしまうほどに。
(でも、今気落ちしていることとそれは全然関係がないから……)
 播磨が見舞いの約束を放置していたことに愛理が関わっていないことは、数時間前に彼女が来てくれたときのやり取りではっきりと判っている。
 つまり、播磨が来てくれない理由に全く心当たりがないことになるわけだ。逆を言えば、理由もなく約束を反故できるほど、播磨にとってこちらの存在はどうでもいいものという理屈が成り立つ。実は穴だらけの推論なのは判っているが、一度囚われてしまった考えからはそう簡単に抜け出せるものではなかった。
「あれ? でも愛理ちゃんと何かあったなら、今日はどうしてお見舞いに来たんだろ。八雲と楽しそうに話してたし、ケンカしてるようにも見えなかったけど……」
 あごに指を当てて小首を傾げる天満。
 こちらの思考から少し遅れ、彼女も同じところへと辿り着いたらしい。が、出発点から誤っていた姉では、寸分の狂いなく正確に同じ場所へと来ることなど不可能だ。一ヶ所、大きな誤りを犯している。
(あれは楽しく話してたわけじゃなかったと思う。沢近先輩は一生懸命にそうしようって頑張ってた感じだったけど、無理をしてたせいか、何となく泣きそうな顔になってた気がする。……多分、私も)
 今一番思い出したくないのは、播磨が見舞いに来てくれなかったこと。それを忘れるためなら、あえて他の苦痛も受け入れよう。八雲は今一度過去の出来事へと思いを馳せていった。愛理が見舞いに来てくれたほんの数時間前へと。

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