(´・ω・`)「ウィルス・・・」 - okakuri 3



 

「岡部、ここ変」
「む、どこだ」
「前後が繋がってない。あんた、私に日本語指摘されるってどうなの?」
「う、うるさい。……すぐに書き直す」

 赤で印をつけて渡してやると、岡部はレポート用紙に目を通し始めた。すぐに岡部はラボに持ち込んだ自分のノートパソコンを起動させて、レポートとにらめっこしながらパチパチとキーボードを打って修正していく。

「ストップ」
「何だ」
「ここ、語尾は断定にした方が印象が引き締まる。文章としての体裁も大事にした方が良いわよ。たかがレポートかもしれないけど、将来的に論文書くつもりなら今から気を付けた方が良いんじゃない?」
「どこだ?」

 私は本を片手で開いたまま、岡部の膝の上に乗ったノートパソコンに人差し指を伸ばす。その勢いでバランスを崩し、ちょん、と岡部の肩に自分の肩が当たった。あ、と気付いたときには遅く、私は岡部に寄りかかるようにパソコンを覗き込む姿勢になった。

 あああしまった、ソファに並んで座るんじゃなかった。どくん、どくん、と、意識すれば一気にうるさくなる心臓の音を聞きながら、私はパソコンの画面を指差した。

「こ、ここよ」
「……あ、ああ」

 意識しちゃいけない、意識しない。そう自分に言い聞かせて、私は岡部に肩をぺたりとくっついたまま、バックスペースキーに指を添える。人差し指だけでキーを打つのは慣れなくて、ぎこちなく、パチ、パチ、と打鍵する音がラボに響いた。

 橋田もまゆりもアルバイトで、ラボには私と岡部しかいなかった。せっかく日本に帰って来たのに、と私がひっそりと気を落としているとき、レポートをやるからラボに来て手伝ってくれと言ったのは岡部だった。

 私は休暇を取って日本に来ているけれど、ラボメンみんながそうだとは限らない。それぞれバイトや学校の用事があるし、時期も、夏休み少し前の七月半ばというのが悪かった。出来る限り時間を作ろうとしてくれる彼らに、私もわがままは言えない。

「これで良し。目を通してみて」

 そしてラボメンの中でも、一番一緒に過ごす時間が長いのは岡部だった。別に意図してのことじゃない。こいつがレポート作成に四苦八苦してるから手伝ってやっているだけだ。私も、出会ってから大分印象は変わったものの、一応命の恩人であるこいつの頼みは断れない。それだけだ。本当に、それだけだ。それだけだってば!

「ふむ。確かに印象が変わるな。礼を言おう」
「……ん」

 私は岡部側に倒れていた姿勢を元に戻して、彼から離れた。彼の膝と、私の膝がある部分までは、ちょうど、げんこつふたつ分ほどだろうか。

 視線を本に戻すものの、うまく字を追えない。本の一ページが一枚の絵に見えてしまい、逆にじっと目をこらすと次は線の集まりにしか見えなくなる。ゲシュタルト崩壊。集中できてないな、と気付いて、軽く眉間を抑えた。

 そして不意に、視線を感じた。姿勢はそのままにして視線だけをちょっと横に向けると、岡部の顎がこちらを向いているのが見えた。岡部はすぐにパソコンに顔を戻して、またパチパチとキーボードを打ち始めた。

 何となく、顔を合わせにくい。横に座るんじゃなった、と少しだけ後悔した。けれど正面が良かったかと言われると、そうでもなかった。正面だと否応なしにお互いが視界に入ってしまう。

「もう少ししたら」
「……うん?」

 岡部は手を止めて、私を見た。私は身長差のせいで、ほんのちょっと岡部の方を向いても、彼の肩や、腕や、その薄い腹しか、視界に入らない。少し目線を上げれば、岡部の顔は見えるけれど、そうするのは癪だったから、しなかった。目が合ってしまうかもしれないし。

「お前の誕生日頃には、ラボメンは皆夏休みに入るはずだ。そうなったら、お前も退屈しないで済むだろう」

 それは暗に、今退屈させてしまってすまない、と言っているようなものだった。岡部がそんな気遣いをするなんて、何だかおかしかった。普段は尊大で、空気の読めない奴なのに。

 真剣な顔とか、やめてほしい。いつものあんたはどこ行ったのよ。そう思いながら、私はごく普通の、当たり障りのない言葉を返す。

「そうね。みんなと遊べるの、楽しみ」
「……ああ」

 そしてまた岡部はノートパソコンに向き合って、学生らしいこなれた感じの、けれどそれ程早くもないスピードで、文字を打ち始めた。私は何となく手持ち無沙汰で、ソファにそっと自分の足を引きあげて、膝を抱え込んだ。

 もぞもぞ。じわじわ。ちくちく。ぐるぐる。あらゆる擬音を引っ張り出して、私は今の自分の心境を語るにふさわしい言葉を探す。今は或る概念にラベリングした言葉を並べたてるよりも、そちらの方が合っているように思ったからだった。あいまいで、ふわふわと漂っているものから少しずつ要素を取り出して、一つのものを作り上げる。なかなかクリエイティブな作業だ。私らしくはないけれど。

 岡部がキーボードを叩く音が、鼓膜に響いてちりちりと耳をくすぐった。

 集中しているのだろう。それからしばらく、岡部はこちらを見なかった。時折横に積み上げた、参考文献らしい何冊かの本に手を伸ばして、顎をさすりながら、ふむ、と頷いたりしていた。

 私は膝を抱えたまま視線を上げて、岡部の横顔をななめ下から、じいっと、見つめていた。無精ひげ、剃ればいいのに。そう思っても口にはしなかった。そう言う物言いは、母親みたいで鬱陶しいかもしれないと思ったからだった。私は岡部の母親になりたいわけじゃない。

 ……じゃあ、何になりたいんだろう。

 いや別に、何、とか、そういうの違うから。全然そんなんじゃないから。

 私はじっと岡部を見ながら、ねえあんた、私に何か言うことないの、と視線で訴えかける。すると岡部はこちらを見て、何だ、と逆に問いかけた。

「さっきからじろじろ見ているが」
「な、べ、別に見てない! 自意識過剰乙」
「見てただろうが。穴が開くかと思ったぞ」
「見てない。見てないったら見てない」

 ぷい、と視線を逸らす。何だか喉が渇いた。もしかして、こいつと二人っきりで緊張してるんだろうか、いやいやまさか。これはただの生理現象だ。私は立ち上がり、冷えたドクペが用意されてあるであろう冷蔵庫へ向かう。

 ぐ、と腕が引かれたのは、私の二歩目が地面についたのと同じとき。

「帰るのか?」
「え」

 岡部が私の腕を引いて、私を見上げていた。何で帰るんだ、という責めるニュアンスと、まだ帰らないでくれ、という懇願のニュアンスがまざりあった一言に、私は動きを留めた。

 じわじわ。そわそわ。首の裏側がうずいて、うずいている。

「もう少し待っていろ、今やっているところが終わったら送ってやるから」
「ふぇっ、あ、お、岡部?」
「それまでは、ここにいろ」
「え、あ……」

 引きとめられて、私は目を丸くする。私を見上げる岡部の目を見ながら、私はかちんと自分が固まっているのを感じていた。

「……紅莉栖?」

 名前を呼ばれると、顔が熱くなっていく。かちかちに固くなっていた体が逆に赤くあつくなっていく。

 さっきの、こいつの、顔。私を見る目。

「の、飲み物取るだけだから。まだ帰らないから!」
「え? あ、ああ、そうなのか? 悪い」
「お、岡部は寂しん坊ねまったく。そんなに私に帰ってほしくないわけ?」
「な、何だと生意気な! ふん、自惚れるのも大概にしろ。お前はこの鳳凰院凶真の助手なのだから、俺が終わるまで大人しく待っているのが役目というものであろう」
「だから助手じゃないと言っておろう!」

 岡部の手の力が緩んで、私の腕が空中にふわっと浮かぶ。私はその浮遊感を振り切るように冷蔵庫へ向かった。そして手前にしゃがみ込んで、顔をそっと覆う。どくんどくんと、心臓の音がうるさかった。

 それは、自惚れ、勘違いにカテゴライズされるかもしれないもの。冷静な部分の私が、認識や思いこみの存在を理解した上で判断しなさいと訴えかける。

「ドクペ、一本もらうわよ」
「好きに飲め」

 さすがにこれは擬音のままにできない。岡部に腕を掴まれ、見つめられたとき、ふと浮かんだその問いを、きちんと言語化してみようか。

(もしかしたら、岡部は、私のことが好きかもしれない)

 そんな疑い――、期待? が、むくむくと、私の中に湧き上がってきていた。

 私には、それが疑いなのか期待なのか判別できない。何故ならこの疑問にはあまりにも判断材料が足りていないからだ。安易な思いこみは危険なのである。

 けれど、こんなことを考えるのは、これが初めてというわけでもなかった。

 ラボで二人きりのとき、来日時に空港まで迎えに来てくれるとき、みんなで出かけた際にふと目が合ったとき。もしかしたら、きっと、ひょっとすると。そういった副詞とともに浮かび上がる一つの問いかけ。

 ねえもしかして、あんた、私のこと好き?

「……聞けるわけないっつーの」

 ぽつりと、岡部には聞こえないように小さく言葉を漏らす。 

「おいクリスティーナ、暑いからって冷蔵庫を開けっぱなしにするんじゃない」
「あーはいはい悪かったわね!」

 こちらの葛藤に気付きもせず、岡部はすっかりいつもの調子に戻ってビシッと私を指さした。この野郎。またレポートに厳しい添削入れてやるからな。

 私はドクペを持って、元の場所に戻る。けれど少し考えてから、先ほどよりも少し左に、つまりは、岡部により近い位置に腰を下ろした。

 げんこつふたつ分だった距離が、げんこつひとつ分になる。前よりも近い場所に腰を下ろしても、「あんた、私のこと好きでしょう」なんて問いかけることはできず、私は黙ってドクペを口にしながら、読みさしの本を開くことになる。

 岡部は私が距離を詰めたことに気付いているのか、いないのか。体をほぐすように伸びをしてから、またパソコンに向き合った。その際に、ちょん、と岡部の肩が私に触れた。岡部は姿勢を正したり座り直したりしないで、そのままで作業を続けた。

 どきどき。そわそわ。上着越しに岡部にふれているせいで、私はいっそう落ち着かなくなってしまう。離れればいいのに、だなんて、そんな無粋なことは言わないお約束だ。私はそのまま本を読み続けた。姿勢を正したり、座り直したりは、しなかった。

(ねえ岡部、私のこと、好き?)

 これは疑いか、期待か。前者ならば、悪いのは好意が駄々漏れなくせに言いださない岡部だ。

 もしも、後者だったとしたら――

「……そんなわけあるか」
「ん? 何だいきなり」
「別に。ただの考え事」

 私は岡部から顔を逸らした。





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クリスティーナがおいしいアップルパイを作るSS

 事の始まりは……人間の脳の不思議とでも言うんだろうか。

 何気ない瞬間にふっと物事の本質が脳裏に浮かび上がってくる、
そんな経験はないだろうか。
わたしも研究のアイディアが浮かぶのは、実験から離れているときの方が多い。
人間の脳は意識の外でも思考を続けている証拠だと思う。

 ……実はわたしは料理がすごく下手なんじゃないか?

 ある日の午後、ソファーでくつろいでいると、天啓のように閃いた。
まさか……そんなはずは……でも……。
 続いて「異臭」「邪神」「最悪」と言った言葉が頭に浮かんできた。
そしてそれらの言葉には聞き覚えのある肉声が感じられた。
 ……もしかしてこれらの言葉はわたしの料理の感想なのでは?

 概念同士の新たな関連付けが行われた瞬間だった。

 わたしはそのときそばにいた岡部に聞いてみた。
「ねえ岡部」
「なんだ助手よ」
「わたしの料理って……どう思う?」
「げほっげほっ」
「どうなの?」
「尋問か……フッ……この鳳凰院凶真が容易く口を割るとでも」
「正直に答えて」
「あれだ。ラーメンでも食いに行くか。俺がおごってやる」
 やっぱり話を反らした。
「わたしがアップルパイ作ってあげる」
「いやいやいちいち天才少女の手を煩わせるには及ばん。今度の評議会の折にでもだな……」
 気づいてしまえば明白だった。他のみんなも話を反らそうとする。まゆりでさえ。
優しさだろうか? その夜わたしはホテルで少し泣いた。料理下手のどじっこだなんて、
わたしにそんなキャラ付けありえない。そんなふうに考えていた時期がわたしにも(ry

 そうこうしているうちにやはりアメリカに帰ることになった。寂しがってもいられない。
わたしはアメリカにいる間に料理を勉強することにした。
 アップルパイはアメリカの代表的な家庭料理だ。アップルパイを完璧に焼けることが
家庭的な主婦の条件だと言われた時代もあるらしい。まったく。余計なお世話だ。
家庭的な主婦になりたいとは思っていなかったが、アップルパイを練習することにした。
……本当に思ってないからな!

 その頃わたしはあるラボの同僚と仲良くなった。仮にシンディーとしておこう。
わたしの二つ上で、アーカンソーの農家出身ながら、クールなアイスブロンドの美人だ。
わたしは彼女を家に招いた。
 そう、犠牲者である。シンディーは犠牲になったのだ……。
彼女の泣き顔のNo thank youはわたしの心を折った。
 でも結局彼女は根気良く教えてくれた。友達、なのかな……。
ただ、シンディーは基本メリケンリア充で、時々キツい下ネタをかましてくるので嫌になる。
お前の彼氏のバナナ(仮)の味なんて知らんわ! 日本のHENTAIの奥ゆかしさを実感した。

 クリスマスは日本で過ごすことにした。ラボのパーティーに参加するためだ。
気恥ずかしいのでサプライズで参加しようかとも思ったが、どうしても出たかったので、
二十四日の夜にラボに行くと連絡しておいた。この前のお礼にラボメンにアップルパイを
ふるまうのだ。自分への挑戦でもある。


 というわけで、二十三日の夜、わたしは秋葉原にいた。ビニール袋を提げてラボへ向かう。
日にちを間違えたわけではない。事前にアップルパイを練習しておくためだ。
ラボのキッチンに慣れておく意味もある。料理に関してはわたしは
すっかりナーバスになっていた。もう遅いからいるとしても岡部ぐらいだろう。
失敗しても犠牲になるのは岡部だけで充分だ。
……真っ先に食べて欲しいなんて思ってないんだからな!

 暗い公園を横切ると、駅前の華やかなイルミネーションが遠ざかっていく。
公園の木はすっかり葉を落としていて、中央通りのサンタコスの彼女たちよりも
季節を感じさせた。
 人気の無い通りの向こうに、ラボのぼんやりした明かりが見えてきた。やっぱりいるんだ。
緊張してきた……。胸の鼓動が早くなるのが自分でも分かる。
交感神経が興奮してノルアドレナリンが心拍数を上げているのだ。
そうわかっていても、どうにもできない。暗い階段を登りながら震える手で
シンディーにメールを送る。すぐ返事が来た。
なになに……コンドー……のつけ方が書いてあった。Do your best!
 そこはアップルパイの作り方だろ! わたしは内心そう突っ込みつつ、変な想像をして
顔が熱くなるのがわかる。そんなんじゃない! べ、別にそんなHENTAIなことなんて
考えてないんだからな! ただ、わたしはあいつに手作りのアップルパイを真っ先に
食べて欲しいだけなんだからな! ……あれ? 
 ……わけが分からなくなってきたわたしは、なかばヤケクソでラボのドアを開け放った。

「岡部ぇぇぇぇーっ!」

 自称狂気のマッドサイエンティストはぎょっとした様子で部屋の真ん中に
つったっていた。
「なっ……クリスティーナだと」
「ひ、久しぶり……」
 さっきの自分の声の大きさに自分でびびってしまった。
「……ああ。久しぶりだな 」
 あれ、なんだろうこの空気。少しの間時間が止まる。何か喋らないと。
「ええと……あ、ティーナって言ったな!」
「しかしティーナよ。日にちを一日間違えてるのではないか? 
日本はまだ二十三日だぞ」
「いいでしょ、一日ぐらい。あとティーナをやめい! いや、そんなことより!
 その、あの」
 どう切り出せばいいんだろう。
「とりあえずドアを閉めろ。それと靴は脱げ」
「オゥ、ソーリー」
「これだからメリケンは困る」
「だからメリケンじゃないっつーの」

 ちょっと変になったけど、思ったより時間のギャップは感じ無かったな。
ブーツを脱ぎながらそんなことを思っていると、ふと恥ずかしい手紙を出したこと
を思い出した。あれは大げさ過ぎた。くぅぅ。悟られないようにゆっくり脱ごう。
 
 コートとマフラーも脱いでソファーに腰掛けた。
「機関の襲撃かと思ったぞ。あの形相と言い殺気がハンパなかったわけだが」
「わるかった」
「あと助手よ。なぜお前はいつもソファーを独占する」
「じゃあ、どうぞ」
 わたしは端につめて空いたところをたたいた。このかたさが好きなのだ。
「まったく……俺の指定席だったはずなのに」
 岡部はそうぼやきながら隣にすわった。
 岡部のいれてくれたコーヒーは温かった。
「これは何?」
 わたしは壁から垂れ下がっている折り紙でできた鎖のようなものを指した。
「邪神貪食(グレイプニル)の鎖だ」
「また始まった」
「儀式に必要なのだ。十二月二十四日深夜に人々の家を訪ねてまわる邪神を捕縛するための
……クククク」
「邪神じゃなくて聖人でしょうが」
 おどろおどろしい名前の割にカラフルでかわいい。
「誤解するな。作ろうと言ったのはまゆりなのだ」
「キュートでいいじゃない」
「だからまゆりだと言っているだろう! コミマのコス作りで疲れているようだから
帰らせたが……」
「あんたひとりでやることになったわけね」
 こたつテーブルの上には折り紙が山のように乗っている。
「何のために助手がいると思っている?」
「はいはい、手伝えばいいんでしょう」
 
「思ったより大変ね」
「口より手を動かせ。くっ、腰が」
「運動不足なんじゃない?」
「そもそもマッドサイエンティストに肉体労働など、くっ」
「はい、これお願いね」
 部屋中に張り巡らされた邪神貪食の鎖は何重にも異なるアーチを描いていてなかなか美しい。
明日来たらみんな驚くだろう。わたしも驚いたんだろうな、と思う。
「ふう。まあこんなものか」
 岡部はソファーに沈み込んだ。
「これなら橋田みたいなサンタが来ても大丈夫ね」
「さあな。時に助手よ。その抱えている袋はなんだ?」

「ふぇっ? こ、こ、こ、これは……」

 完全に不意打ちだった。
「ほう?」
「こ、こら覗くな」
「十八禁のものでも入っているのか? HENTAI助手よ」
 そんなわけあるか。
「……まあいい」
 あれ? 妙にあっさり引いたな。うう、逆に言い出しづらい……。

 そのあとわたしたちはいろいろな話をした。岡部は他のラボメンの近況を教えてくれた。
人それぞれに自分の生活があるんだな、とわたしは思った。夏休みが終われば、ラボメンと
言っても常に一緒にいるわけじゃない。岡部と橋田、まゆりだってそうだ。アメリカで
ひとりで勝手に寂しがっていたけど、日常生活というのはそういうものかもしれない。
 わたしはアメリカでのことを話した(アップルパイ関連は黙っておいた)。性分なのか
ついつい自分の研究のことを喋りたくなってしまう。専攻外だろうに
岡部の食い付きが良かったので、かなり突っ込んでべらべら喋ってしまった。
これまだ論文になってないけど……まあいいか。
「ん……ずいぶん話し込んでしまったな」
「あれ、もうこんな時間」
「今はどこに泊まっているのだ?」
「……やっぱり近くのホテルだけど」
「ちっ、このセレセブが」
「セブンティーンじゃないし。エイティーンになってもうずいぶん経った」
「……確かにな。もうずいぶん経った」
 なんだこの空気。ペースが乱れる。わたしが意識し過ぎか?
「セレエイ……うーん、もう少し待ってセレナイか? しかし……」
「イマイチ、みたいな顔をするな! どうでもいい、ほんとどぅおうでもいい」
 やっぱり考えすぎだった。
「送っていくぞ」
 岡部はそう言うと立ち上がった。
「え、でも……」
「本番は明日なのだからな。英気を養っておけ」
 どうしよう。岡部の言うことはもっともで、だだをこねるのは嫌だった。
でも、このまま帰ったら絶対に後悔する。わたしは覚悟を決めた。

「お、……おなか減ってない?」

「そうだな。どこかで食べていくか」
「こ、ここで食べてかない?」
「構わないがカップ麺でいいか? 確か塩味はここに……」

「わ、……わたしが作ってあげようか?」

 沈黙。絶対の沈黙。沈黙の神ヴィーダルはラグナロクで魔狼フェンリルを討ったと言う。
……沈黙が痛い。

「……本気なのだな?」
 わたしは黙ってうなずいた。岡部は赤いストレート型の携帯を取り出し、耳に当てた。
「……俺だ。ついに奴が動き出した。……そう、奴だ。これから作戦行動を……
何を言っている、俺は恐れてなど……ああ、わかっている……両親と妹を頼む……
フフ……おまえはうまくやれよ。……エル・プサイ・コングルゥ」
 最高に失礼だと思ったが、わたしは耐えた。
 携帯をしまった岡部は部屋の中心に躍り出ると、白衣をひるがえして演技を始めた。

「フゥーハハハハ! 何という巡り合わせ! これも運命石の扉(シュタインズゲート)
の選択……邪神貪食の鎖はこのためのものだったとはな。邪神クリスティーナよ……
覚悟するがいい。これは神々の黄昏(ラグナロク)だ! 破壊と再生、支配と混沌。
この鳳凰院凶真、身は業火の剣(レーヴァテイン)に燃え尽きようとも
新世界への意志は揺るがん! 新たな太陽を迎えてみせよう」

 わたしは耐えた。機関の設定がぶっとんで北欧神話に入り込んでいる辺り、
岡部の余裕の無さを感じた。

「紅莉栖」
 岡部はクロスさせた腕を下ろしてぽつりと言った。
「なに?」
「死なん程度に頼む」
 オーケイ。

「クリスティーナさん。今はなにをなさってるのですか?」

「エプロンつけてるの。見ればわかるでしょう?」
 ちなみに淡くて明るい赤地に白い花柄のエプロン。花が大きめなのが気に入っている。

「ティーナさん、今の物体は」

「どう見てもりんご! アップルパイを作るの!」

「……切って皮を剥いているだと」

「そんな驚かないでよ」

 りんごを煮込む頃になると、岡部は黙ってわたしの手つきを見ていた。
「ど、どう? 良い匂いじゃない?」
 わたしは鍋の中をかき混ぜながら尋ねた。
「あ、ああ」
 実家が実家だけにりんごに厳しいんだろうか。
「……誰かに習ったのか?」
「あ、うん、アメリカで友達に」
「いたのか?」
「できたの!」
「泣けてくるな……いや本当に泣きそうだ」
 お前も人のこと言えないだろ。いや言えないからこそ……?

 甘煮は焦げなかった。よし! あとはシナモンを入れて冷ましてパイシートに乗せて
卵黄を塗って……あっ。わたしは重大なミスに気付いた。オーブンは? 
ラボにオーブンはあるの? 良かった、事前に練習しておいて。
今のわたしの力ではその場では対応できなかったはずだ。
 ……でもわたしは今このアップルパイを成功させたかった。なぜかってそれは……
その……ご了承下さい。
「岡部、この部屋にオーブンか代わりになるものはない?」
「あ、ああ、電子レンジなら向こうに」
 岡部はアコーディオンカーテンの向こうを指した。
 
 でんしれんじ?

 その言葉が頭の中でゲシュタルト崩壊を起こし始めた。あれ、でんしれんじ、
でいいんだよな? あれ?

「紅莉栖? 大丈夫か?」
 岡部はわたしのことを心配していた。何かただならぬ感じがする。
「うん、大丈夫……」
「……」
 そんなシリアスな顔をして見つめられると何というか……その……困ってしまう。
なぜかはご了承下さい。
「一つ聞いていい? 電子レンジって前からラボにあった?」
「……壊れてしまったのでな、新しいのを買った」
 さすが電気街だけあって、その電子レンジはコンパクトに機能がまとまっていた。
予熱ののち、パイを中に入れた。
「中が気になるのか?」
「ちょっとね」
 わたしたちは加熱されたパイが回転するのをずっと眺めていた。

「はい、召し上がれ!」
 わたしは焼きあがったパイを切り分けた。切った感触がうまくいったことを告げている。
「どう? おいしそうでしょう?」
 ミトンを外しながらわたしは少し自信ありげに言ってみた。
「あ、ああ」
 ソファーに座っている岡部の歯切れは悪い。よっぽど悪夢だったらしい。
 わたしは一切れフォークでとって、テーブル越しに岡部に向かって突き出した。
「はい」
 岡部は戸惑っていたが、わたしからフォークを受け取ってパイを口に運んだ。
 自信はあったはずなのに、心臓がばくんと跳ね上がる。早く何か言って!

「あ、うまい……」

「でしょう? 当然の結果ね。統計学的にも味覚神経学的にも。鳳凰院さん的には
シュタインズゲート?の選択なのかもしれませんけど? どうでした、ラグナロクは? 
機関だか邪神だか知りませんけど。何とかの鎖は役に立ちました? ねえ、鳳凰院さん? 
あんな大見得切っておいて、ねぇねぇ今どんな気持ち?」
 自分でも何を言っているのかよくわからない。なんで煽り口調なんだろう。
「なるほど。助手がアメリカに行っていたのはこの日に備えアップルパイを
修得するためだったのだな」
「まあ……そういう見方もできるかもね」
 岡部はもう一切れ食べた。さらにもう一切れ。わたしは立ったままそれを見ていた。
岡部と目があった。わたしは岡部を押しのけるように急いでソファーに座ると
うーぱクッションを抱いた。あ、エプロン付けたままだった。でも、今顔を上げるのは無理だ。
ごめん、まゆり、ちょっと汚れちゃったかも。わたしは別に悲しいことはなかったが、
うーぱクッションをぎゅっと抱いた。……べ、別に嬉しくもないけどな! 
目が少しうるうるするだけなんだからな! 
「すまなかった」
「え?」
「さっきは言い過ぎた。お前がここまでやるにはかなり練習が必要だったはずだ。
なのに俺は……」
「別にいいわ。逆にハードルが下がって助かったもの」
「すまん」
 岡部があんまりしょんぼりしているので、少し笑ってしまった。鳳凰院凶真と違って
素の岡部倫太郎はかなりの小心者で、……優しい奴だということをわたしは知っている。
「で、どうだったの、ラグナロクは? 鳳凰院さん」
「さあな。お前は食べないのか?」
「じゃあ、いただこうかしら」
 岡部はフォークで一切れとってわたしに渡そうとしたが、何かを思い出したように
それを置いた。そしてアコーディオンカーテンの向こうのガラクタ置き場に歩いて行った。
間接キスを気にしたのだろうか。岡部はしばらくがさごそやっていると戻ってきた。
「お前にこれをやろう」
 白くて小さな細長い箱だった。
「今開けていいの?」
「ああ」
 包装紙を外して蓋を開けると、金属の輝きが透けて見えた。薄い紙をどかすと……。
「これは……」
 それは銀色のフォークだった。四本歯で丸みの帯びた柄がついている。柄にはNo.004と
刻印されて、その隣にはピンバッジをかたどった模様が刻まれていた。
「ほ、本当は明日の夜渡す予定だったのだが、アップルパイを修得した褒美にと思ってな。
それで食うといい……?」
 わたしはもう我慢できなかった。眼から生理食塩水が溢れてきた。これは脳幹の
副交感神経が極度に興奮しているためで……さすがに岡部も気づいてしまったようだ。
「あ、ありがとう」
 わたしは変な声で早口にそう言うと、そのマイフォークをパイを突き刺して口に運んだ。
「どうだ、自分で作ったアップルパイの味は」
「少し塩味が効いてるわね」
「フ……それもまた」
「シュタインズゲートの選択でしょ? ワロスワロス」
「なっ……なぜ人の台詞を取る、クリスティーナ!」
「ワンパターンだから」
「決め台詞の重要性が分かっていないらしいな。涙目の助手よ」
「べ、別に泣いてなんか……いや、でも、ありがとう。正直に言ってすごく嬉しい」
「なっ」
 岡部は相当面食らったようだった。
「さあ、岡部ももっと食べて。冷めちゃうから」

 洗い物を済ませるとわたしは岡部の隣に座った。
「ふう」
「ご苦労だったな。しかしいつまでエプロンをしているつもりだ。
見せびらかしたいのはわかるが」
「え? ああ、すっかり忘れてた」
「家庭的な女アピールはよすんだな」
「べ、別にそんなんじゃ」
「……なかなか似合っているぞ」
「なっ」
「い、いや、なかなかの偽装工作だ。だれもマッドサイエンティストの助手とは思うまい。
フゥーハハハ、ハ……」
 ツンデレ乙。と言いたかったが、わたしにそんな余裕は無かった。
「白衣の代わりにユニフォームにしてもいいぞ」
「せんわ!」
 しません。

「明日の夜このアップルパイをみんなに出そうと思うんだけど……どう?」
「問題ないだろう」
「良かった。じゃあ今度は付け合せのサラダも作っちゃうかな」
「ほう。どんなサラダだ?」
「まずはグレープフルーツでしょう? 塩胡椒で味付けした挽肉に、あとは納豆! 
それかららっきょうに……」
「助手よ」
「なに?」
「その、あれだ。他のラボメンの料理もあるからな。お前はとりあえずアップルパイだけで
どうだろう?」
「そうね。漆原さんやフェイリスさんの料理も食べたいし。ケーキもあるのよね?」
「そうだ。だからアップルパイだけだ。いいな? 絶対だぞ」
 岡部はしつこく繰り返した。よくわからないけど、明日みんなが驚く顔が楽しみだ。

「……まるで成長していない……」
「え? 何か言った?」
「いや、何も」
 ゆっくりと夜は更けていく。








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「なんぞこれぇぇぇぇぇ!?」

「良いから黙って走れ!あともう少しだ!」

降りしきる豪雨の中、強風に煽られながら俺達はラボへの道を走っていた。

10年に一度という大型台風の接近で日の暮れた街に人影はない。

「お…かべ…。待って…もう無理……」

「あと少しだ、足を止めるな」

息をつく紅莉栖の手を取ってラボの階段に駆け込む。


「……えらい目にあってしまったな」

「はぁ…やっぱり、フェイリスさんのところで雨宿りした方がよかったかしらね」

メイクイーンを出た時には雨はほとんど止みかけていたのだが、ラボまでの道を半ば来たところで凄まじい降りに変わり、
強風にあおられて傘を壊された俺たちはラボまでの道のりを全力疾走する羽目になっていた。

「まったく、下着までずぶぬれじゃ…くちゅん」

文句を言う紅莉栖の口から、やけに可愛らしいくしゃみが零れた。

「濡れたままで冷えるといかんな。シャワーを使って着替えるがいい」
「は、いや、ここにあんたがいるのにシャワーとか。何考えてんのこのHENTAI!」
「そんなことを言ってる場合ではなかろう、風邪をひくぞ」
「う……それは、そうだけど」
「わかったら早くしろ、俺も体が冷えてきた」

「う、うん。……い、一応年の為言っておくけど、覗いたりしたら……わかってるわよね?」
「あのな助手よ、今まで一度でもそんなことをしたことがあったか!?」

いや無い!


…………この世界線では。

「べ、別にあんたがそんなことするヤツだと思ってるわけじゃないけど。その……念の為よ」

「心配するな、そんなことはしない」
「う、うん。そうよね、DTのあんたにそんな度胸があるわけないか」
「うるさい、メリケン処女。良いから早く行って来い。本当に風邪をひくぞ」
「…うん、じゃホントにこっち来るなよ!そこにから動いたらダメだから!」

真っ赤な顔をして喚きながら紅莉栖はシャワールームへ消えていった。

「まったく、騒々しい奴だな」

溜息をついて、ふと足元をみると小さな水たまりができていた。

「いかんな、このままではこっちが風邪をひいてしまうか」

下は後でいいとして、Tシャツくらいは着替えておいた方がよさそうだ。
白衣とTシャツを脱いでデスクの前の椅子に掛ける。

「さすがに半裸ではまずいか……」
あのうるさい助手の事だ、出てきて何を言われるかわからん。

とりあえず替えの白衣をはおったその直後……。


世界が暗転した。


視界の全てが闇に包まれテレビから聞こえていたバラエティーの下らない会話も音楽も、
一切の光と音が消失する。

そして次の瞬間、

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

静寂を引き裂く悲鳴が俺の聴覚を埋め尽くす。

「紅莉栖!?」

慌てて悲鳴を頼りにそちらに駆け寄ると、突然何かが胸にぶつかってきた。
咄嗟に抱え込んだ手に触れたのは濡れた髪。

「紅莉栖か?どうした、大丈夫か!?」
「お、岡部ぇ…」
「ああ、俺だ。どうした、何があった?」
「きゅ、急に。真っ暗になって……」

なるほど、突然明かりが消えたのでパニックになったのか。
よほど怖かったらしく、震える声には涙の気配が交じる。

「大丈夫、心配することはない。ただの停電だろう」
なんとか安心させようと精一杯の優しい声を懸け、頭を軽く撫でてやる。
彼女はまだ動転しているらしく、暗闇の中で白衣の背中をきつく握ってしがみついてきた。

「そんなに怖がることはない、紅莉栖。じきに復旧するだろう」
そういって濡れた髪を軽く叩き、震える背中を撫で……て?



あれ?


「ちょっ!おま!」

そう、不覚にも失念していたが、彼女はシャワーを浴びている最中だったのだ。
慌てて身体を引き離そうとするが、


「いやっ!」

まだ動転しているのか一層強くしがみついてくる。
そして俺はいまひとつ失念していたことに気付いていた。

俺も白衣の下は……


「やだ、岡部……どっか行かないで、ここに居て……」

裸の胸に……(ささやかな)何かが……当たって。

(くっ……沈まれ……わが『情欲の魔神(アスモデュウス)』よ!)


遠のく意識を必至で奮い立たせ、最後の力を振り絞って『鋼鉄の自制心(スティーリー・ジェントルメン)』を呼び覚ます。


「はぁ…はぁ、はぁ」
一瞬が永遠に引き延ばされたかのような戦いの時が過ぎ、俺の心とラボ内(は元々静まり返っていたが)は静寂を取り戻していた。

両手の震えを何とか押し隠してしがみつく紅莉栖の身体を少し引き離し、白衣を脱いで手探りでその肩にかけてやる。

「あ、ありがとう……って、私?ええええぇぇぇぇぇぇ?!」

「……ようやく、気付いたか……」
「こっ!こっち見んな!」
「心配するな、この暗さではどうせ何も見えん」
「あ、あの、これはその何というか急に真っ暗になって慌ちゃってその、普段ならこんなことはあり得ないというかその……」

紅莉栖の慌てように逆に落ち着きが戻ってきて、俺は思わず苦笑してしまう。

「落ち着け」

頭にポンと軽く手を載せるとどうやら少しは落ち着きを取り戻したか、彼女はおとなしくなった。

「ゴメン……あ、岡部」
「なんだ?」

「ありがと」
「何のことだ」
「あの、あんたって……その、結構、紳士……だよね……時々……」

「……時々とはなんだ」


紙一重だったがな!


「ほら、もうシャワールームに戻れ」

「う、うん……ねぇ岡部?」
離れようとした腕を紅莉栖が掴んでいた。

「その……もう少しだけ、ここに……いて」
「なっ!?」

これ以上の精神攻撃にはさすがの俺も抗しきれんぞ!

「あの、脚が……震えて、力が入らない……」



やれやれだ。

「少しだけだぞ。俺の『鋼鉄の自制心』にも自ずと限界は在るのだからな」
「……うん」

白衣の肩に軽く腕をまわすと随分と緊張していたのだろう、彼女は力の抜けた身体をこちらに預けてきた。

「怖がることなどない我が助手よ、この世に鳳凰院凶真がいる限りお前のことは必ず守ってやる」
「廚二病乙、あと助手じゃないから」

悪態をつきながらも離れようとはしない紅莉栖の髪にそっと指を通すと、
「んっ……」すこしくすぐったそうな声をあげて暗闇の中こちらに顔を向ける気配がした。

「ねぇ、岡部は?」

「なに?」

「鳳凰院じゃなくて。岡部は?」
「……」

「岡部倫太郎は私の事、守ってくれる?」
「そ……それは」

危うい均衡を辛うじて保っていた心の水底から、何かが姿を現そうとしている。

(い、いかん!これは、避けられん!当たる!)

わが心のジェントルマンが避け得ぬ死を覚悟した次の瞬間



目の前が真っ白に塗りつぶされた。

室内に光が満ち、テレビから聞こえるアホ丸出しの下らない会話が静寂を払う。


そして。



ガチャ


「ふぃー、死ぬかと思ったでゴザル。あ、オカリン凄い雨……」

開け放たれた玄関では濡れネズミになった丸いなにかがその体型とまったく同じに形に見開いた目でこちらを見つめていた。

時が凍りつき、永遠とも思える数秒間が刻まれたのち、

「……お邪魔しました」

バタン




「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

そして本日二度目の悲鳴がラボ(とご近所)にひびきわたる。


残響を引いてシャワールームに飛び込む紅莉栖の後ろ姿を横目に見つつ、
俺はテーブルの上でメールの着信を告げる携帯に何と答えたものかと思案しながら力なくソファに沈み込んでいった。








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比翼恋理のだーりん、紅莉栖ルートエンディング後の世界です。


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2度目ともなれば慣れたものだ。
紅莉栖と俺は苦笑しながらもホテルの部屋に入ると順番にシャワーを浴びた。
心なしか口数は少ないが、特に変わった様子もなく深夜のニュース番組を
二人で見て、天気予報で明日の最高気温に2人で文句を言った後、暫く2人
とも携帯で@ちゃんねるを巡回した。

意識していないと言えば嘘だ。

なにせ、本心かどうかはさておきクリスティーナの頭の中を覗いてしまった
のだ。あれだけ嫌そうにしながら、本当に、少しもデレた様子がなかったの
に、あの映像が本心だと言われても納得はしないが。

何故ならこいつは隠し事がうまそうな奴には見えない。
故にあそこまで拒絶しておきながら本心は好き好きチュッチュなど、こいつが
隠し通せるわけがない。
まあそれと同じくらい、俺も空気というものが読めないのかもしれないので
可能性はゼロでもないような気がしないこともない。

ふと、そんなことを考えていたからか@ちゃんで相談したらどうなるだろうか
と、俺はいつもは行かない純情恋愛板にやってきた。
vipだとこいつがいそうだから...と、となりの天才脳科学者をちらっと見たが、
仏頂面して携帯を見つめている。
きっとまた低能な煽りにいらついているんだろう。

さて、pureな住人達は一体どんな悩みを持っているんだろうか。
俺はスレ一覧を斜め読みした。
そこで目にとまった一つのスレ。

”女って何考えてるかわかんねwすげえ冷たいのに好きとかアリ?”

ほう。
まさに今の俺の心境だ。
早速のぞいてみる。

1 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 23:58:40.83 ID:QEDqL9Qq
  どういうことだ?わかんね。
  俺の前では殺意すら感じるんだが、聞くところによると
  俺とのラブシーンを夢に見るほど気になって仕方ないらしい。
  そんなことってあるのか?

  ちなみに俺は理系の喪男で長身痩身だがチャラくはない。
  相手はそこそこキレイだ。

まず1のIDがキューキューなのに笑う。
内容はなんだか今の俺に当たらずとも遠からずといったところだ。
ふむ。
で、どこまですすんでいるんだろうか。

5 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:06:41.72 ID:K+z+1+sS
  夢なんかあてにならんだろ。
  俺なんか全く好きでもないやつとセクロスする夢見るぞ(藁
  現実で殺意を感じるならそれが全てだろ?

6 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:10:55.23 ID:UzaI6y+C
  私女だけど何とも思っていない奴にエネルギー使うほど
  女も暇じゃないから。
  とりあえず夢はともかく殺意の方は脈ありの印だと思うけど。

なるほど。そういう考えもあるのか。
いやしかし、それは考えにくい気が。
なにせ殺意だぞ?
こんなスイーツ(笑)丸出しのやつが、惚れた相手を前にして殺意
なのか?

しかしこのスレの続きが気になるのも事実。
俺は書き込んでみる。
コテが出ないように気をつけなければ。

7 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:13:33.10 ID:HqUn9SaC
  俺も似たような境遇だが、殺意はさすがに好意とは結びつかない
  気がする。だって訳あって二人きりになってもまったくアプロ
  ーチないぞ?

この板はvipほど進みが早くなさそうだから返事は期待できないが、
他のスレでも覗くか。
そう思ってスレ一覧を見ると先ほどのスレが一番上にあがっている。
しまった。sage忘れた。

しかし良く見るとレス数が伸びている。
中身を確認する。

8 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:14:15.41 ID:MkpBnTr+
  >>5
  いや、俺やったことないからわかんねーし。
  >>6
  確かに夢に関しては同意だが、普通殺意感じたら脈無しと思うだろ?

IDが変わってしまったのでわからないが、これは1なのだろうか。
いや、全く同意だ。
殺意だぞ?
ヤンデレとかそういうんじゃない、純粋な殺意だ。
縛られたり目隠しされたり、容赦なくするんだぞ?
どこをどう好意的に受け取っても心を許しているようには思えないのだが。

9 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:16:21.15 ID:UzaI6y+C
  二人きりで何にもないとか本気で言ってる?
  そこは男の方が何かするのを待ってるんだろうが(苦笑)
  それとも女の方からアプローチして欲しいわけ?
  これだから傷つくのを怖がる童貞ちゃんは(笑)

む。
確かに一理あるな。
例えこいつが俺のことを好きだろうと、こいつからアプローチしてくる
なんざ考えつかない。
とはいえ待っているとも考えられないが。

俺は顔をあげる。

紅莉栖は何やら真剣な顔で携帯を操作している。
また書き込みか。

「クリスティーナ。
 そろそろ寝たいのだが。」

俺は床に座ったままだったが、この前のことを期待してそう声をかけて見た。
どう考えてもベッドの方が寝心地が良かったからというだけで、それ以上の
ことを期待していたわけではない。

紅莉栖は俺を一瞥すると、すぐに携帯に視線を戻し

「寝れば?」

と冷たく言い放った。
まあ、さほど大きな期待をしていたわけでもないが。

「せめて枕を一つくれ。」

言い終わるが早いか枕が飛んできて俺の顔に命中した。
ほんのりと紅莉栖の髪の匂いがした。

枕に転がってはみたものの、すぐに眠くなるわけもない。
先ほどのスレをまた覗いてみる。

10 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:18:37.84 ID:MkpBnTr+
  >>9
  なんかアドバイスくれ。
  女のどんな行動があったら脈ありなんだ?

必死だな、こいつ。
そんなの個人差があり過ぎてわからんことくらい、この俺でもわかる。
そして同時に同じような悩みを持っている輩を見つけ、安堵した。

そうか、安堵か。

俺は、もしかして紅莉栖が好きなのだろうか。

確かに容姿はかわいいとは思う。
性格や趣味はかなり残念だが。

しかしそれでも、この鳳凰院凶真の助手となればしっくりくるから不思議だ。

...いや、どうかしてる。

そもそもこんなのよりよっぽどルカ子の方が女らしいし、それにコイツと
カップルになるとか全く想像がつかない。

リロードしてみる。
何気にこのスレに活気があるような気がする。

11 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:21:09.00 ID:UzaI6y+C
  暑くなっちゃったとかいって服脱いだらじゃね?
  若しくは昔のこととか質問してきたらかな。
  気になる相手じゃなきゃ肌は出したくないし、過去のことなんか
  興味もわかないしね。

ほう。
こいつ、意外と親切だな。
IDとは全く逆だ(苦笑)

「岡部?」

紅莉栖の声でふと視線を向けると、怪訝そうな顔でこちらを見ている紅莉栖と
目があった。

「にやけて。
 気持ち悪い。
 寝るんじゃなかったの?」

にやけていたのか。
これは迂闊だった。

「いや、もう寝るぞ。」

俺は携帯を閉じると紅莉栖に背中を向けた。
部屋の灯りが消えた。

毛布とシーツの擦れる音が聞こえ、2度ほどバサバサと枕がたたかれる。

「ねえ。」

紅莉栖の無味乾燥な声が聞こえる。

「なんだ?」

「その...ごめん」

何故謝られたんだろう。わからん。

「悪いのはまゆりだ。
 あいつがこんなものはめなければこんな目には合わなかっただろう。」

そう。
まゆりの後先考えない行動には本当に困ったものだ。
これが如何に俺たちにとって苦痛なことなのかあいつには全くわかっていない。

「...。」

沈黙。
紅莉栖から特に返答はない。
なんなんだ?
いったい、何を謝りたかったんだろうか。

こんなガジェットを作ったことか?

「なんだ、それともこの12号機の不出来を詫びているのか?」

「そんなわけあるか!」

そうか。
そこはやっぱり謝らんのか。

「じゃあ、なんだというのだ?」

「...。
 その、嫌な思いをさせたかな、って。
 秋葉原中で...。」

「そのことか。
 驚きはしたが気にはしていないぞ。
 幸いアレを見ていた連中は俺の周りにはいなかったしな。」

本当にアナログTVだけだったのは不幸中の幸いだった。
アナログしか見られない奴が録画環境なぞ揃えているわけもなく。
ラボメンにしても紅莉栖には気を遣うらしく、あれ以来あの話題も全く
なくなったのだ。
この俺ですらアレは夢だったのではないかと思うくらいだ。

「...あんな夢見たの初めてだったんだから。」

「ふん、当たり前だ。
 貴様も科学者の端くれなのだから、あんなスイーツ(笑)な夢よりも
 ブラックホールに吸い込まれて特異点を通過する夢を見る方が似合って
 いるというものだ!」

いや、こいつは脳科学者だからそんな夢は見ないか。
きっとモルモットの小脳あたりに電極を刺して計器類とにらめっこする
方が近いかもしれない。

...ん?初めて? 
どういうことだ?
その、何かあの夢を見させるようなきっかけがあったというのか―。

別れを惜しむようなあの紅莉栖の夢。
そう。
俺たちはこの夏休みだけの約束でこうして過ごしているのだ。
短い間だったはずなのに、既にこいつも他人とは思えないな。

「そうか。
 もうすぐあっちに帰るんだったな。」

俺は暗い天井を見つめた。
ベッドサイドの柔らかいランプの光が部屋の一角を照らし、その光が俺の
頭上までかろうじて届いて来ている。
その光が一瞬さえぎられるのと同時にバサッという音がした。

「なんか暑いな。
 エアコン効いてないのかな。」

紅莉栖はそういうと上に着ていたシャツを一枚脱いだようだった。
ベットの上なので良く見えないが、目の前の影がそれを克明に描写している。

先ほどの@ちゃんねるの書き込みが思い出される。

た、確か、紅莉栖はいつものワイシャツ姿だったはずだ。
一枚脱いだってことは...。

「おかべ?」

「いへ?な、なんだ?」

”いへ”ってなんだ?我ながら恥ずかしい声が出たな。
俺は目を壁側にそむけつつ、耳をすませた。

「岡部は科学者になりたいの?」

「お、俺が目指すのはマッドサイエンティストであって、科学者などではない。
 世間の評価など必要としていないからな!」

「...そう。
 でも世間から相手にされなくなった科学者は、科学者としては死んだも同然。」

その紅莉栖の声は悲哀がこもっている。

「ふん。
 だから科学者など糞喰らえなのだ!
 かのガリレオもマッドサイエンティストだったからこそ世間の目など気にせず
 真理を探究できたのだし、その着眼点が斬新過ぎるがため世間がついていけず
 彼をマッドサイエンティストと認識したのだろう?
 だったら俺はそんな世間の評価など糞喰らえだといっているのだ。
 お前が助手どまりなのはそのせいだ、クリスティーナ。」

半分は本音だ。しかし残る半分は未だに力不足な自分へのいら立ちでもある。

「助手じゃないって何度言えば...。
 でも、そうね。
 あんたのいうこと、悔しいけど一理あるわ。」

...。
何を聞きたかったのだろうか?
紅莉栖は頭が良い。
何の理由もなく、こんな話題をするわけがない。

世間から相手にされない科学者...。

ん?まさか。

こいつがドクター中鉢の発表会に来ていたのはそういう理由なのか?
俺は自分の推論を元に話を始めてみる。

「ドクター中鉢か?」

「な!
 なんでそれを...。」

「やはりな。
 で、お前としてはどうしたいのだ?」

「...。
 わからない。」

「ではわかるまで一緒に考えてやる。
 お前とドクター中鉢はどういう関係なのだ?」

その質問がよもやこんな話になるとは思わなかった。

.
.
.

ずいぶんと時間が経ったような気がする。
俺はその間天井を眺めながら、たまにベッドの上をちらちら見ながら、
紅莉栖の昔話を聴いていた。
大まかに言えばこうだ。

ドクター中鉢は紅莉栖の父親であること。
紅莉栖の論破癖が災いしてその父親との仲が決定的にこじれていること。
今回来日した目的の一つが、父親との再会だったが実現できていないこと。

こいつは俺たちが想像していたほど人生の成功者というわけでもないようだ。
話し終えた紅莉栖はすっきりしたのか、先ほどまで若干涙声だったが

「言っとくけど、こんな相談ママにもしたことなんてないんだからな!」

というとベッドを飛び出し、足元の冷蔵庫からペットボトルを取り出して喉を
潤した。

ちらりとそちらを見ると暗い部屋の中ではあるが下着姿の紅莉栖と目があった。

「HENTAI!
 こっち見んな!」

あわてて目をつむる。
ていうか下まで脱いでいたのか...。
上、キャミソール、だったか?あれ一枚だったような...。

「いや、わざとじゃないぞ!」

「うー、鬱だー。
 誰にも見られたことないのに...。」

何気なくすごいこと言っているな...。
こいつ、処女か?

「お、俺だって見たことなんかないわ!」

「そ、そんな童貞自慢すんな!
 っていうかまゆりとはそういう仲じゃないの?」

「バカ言え!
 まゆりは大事な人質であって、そんなわけあるか!
 お前だって処女のくせにそんな挑発するような格好するんじゃない!」

「ちょ、挑発って!
 仕方ないでしょ、いつもこの格好で寝てるんだし。
 大体本当ならあんたは目隠しして...」

「待て待て待て!
 これ以上ヒートアップしたら...」

「あ!」

条件反射的に俺たちは手を繋ぐ。
勢い余って紅莉栖がベッドの上から俺の方に落ちてきた。

「っつ!」

「だ、大丈夫か?」

「って、へ、へん...!」

左手が柔らかいものをぐにゃりと掴む。
思わずそれを確かめるように何度か握ってしまった。
紅莉栖の落ちてくる体を受けとめようとした俺の左腕は紅莉栖の右胸を
鷲掴みにしていた。

「うわあ!
 いや、こ、これはだな!」

俺はすぐに左手を離して紅莉栖から遠ざけたが、勢いよく振ったその手は左の
壁に当たりバシッと音を立てた。
俺は痛みに悶えながら恐る恐る紅莉栖の表情を伺う。
いつもなら暴れ出すはずの紅莉栖が抵抗もせずおとなしくしている。
こちらから表情は見えないがすごい震え方で、紅莉栖の小さな右手は俺の左胸に
添えられている。
おそらくものすごい鼓動が紅莉栖にも伝わっていることだろう。

「お、岡部ェ...。」

「く、紅莉栖さん?」

なんかスイッチ入っちゃってないか?
いや、心の準備がまだ、その、なんだ!

紅莉栖の唇が近づいてくる。
い、勢いでこんなことしていいのか?
俺もしたい、したいがまだお互いの気持ちも確かめていないのに...!
順番ってものが―――


かちゃり。


腕輪が...。だーりんのばかぁが...。


外れた!

「く、クリスティーナ!
 腕輪が!」

「ふぇ?」

お互いが重なりあったお互いの手を見た。

.
.
.

その次の朝、お互いに冷静になった俺たちはもう一度腕輪をはめなおす。

紅莉栖はこれ以上ないほど真っ赤な顔で言う。

「か、勘違いするなよ。
 これはなんで一晩で外れたのかまゆりたちに詮索されたら厄介だから、
 外れたことを”なかったこと”にするだけなんだからな!
 その、決してまだ岡部と一緒にいたいとか、そういうんじゃなくて...」

「あ、ああ。」

「で、でも、外し方はわかったから、その、今晩ももし窮屈だったら、
 その、は、外すようなことしてもいいから...。」

「あ、ああ。」

その照れた顔が愛おしくて。
そう思ったら

かちゃり

また腕輪が外れてしまった。

「く、クリスティーナ...。」

「わかってるわよ!
 ラボについたら即効改造するから!
 その、少しくらい...しても外れないように!
 で、でも勘違いするなよ!これは」

紅莉栖の右手が俺の左胸に添えられる。

「岡部と一緒にいたいのが皆にばれないようにするためなんだから、な。」
















後日談だが。
あのあと例のpure板のスレを見てみた。


15 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 04:55:11.48 ID:t4OPOgaH
  こいつ栗御飯じゃん!
  > 10 :名無しさんの初恋:2011/08/XX 00:18:37.84 ID:MkpBnTr+
  >   >>9
  >   なんかアドバイスくれ。
  >   女のどんな行動があったら脈ありなんだ?

  > 571 :栗御飯とカメハメ波:2011/08/XX 00:19:15.26 ID:MkpBnTr+O
  >   おまいらDTと違って俺は今、嫁と部屋で二人きりだからw
  >   これから書き込めなくなるけどあとよろしくww
  >   

紅莉栖...。















「そういや、お前って岡部ゼミなんだろ?」
「そうだけど」
「なあなあ、たまにゼミ室にあの牧瀬紅莉栖が来るって本当か?」
「牧瀬じゃなくて、岡部紅莉栖な。教授にそれ言ったら怒るから気をつけろよ」
「え、何で怒るん」
「何でも嫁さんからも未だに岡部岡部呼ばれてるのが不満なんだと」
「……あの二人結婚してから何年だっけ?」
「知らん。でも確か教授が働き出してからだって言ってたから、二十代半ばとかじゃね?」
「もう結婚して十年以上、子どももいるのに名字呼びされてる旦那か……。ちょっと可哀想だな」
「確かにな」

 それが数時間前、食堂で今日のお勧めメニューカツカレーをもぐもぐしていたときの会話だ。俺はこの大学の教授の中でも「変」「おかしい」「厨二」と評判……評判? の、岡部ゼミ所属の学生である。大学に入って四年目、最後の最後にこいつのゼミで良いのかな、俺選択間違ってないかな、と一抹の不安を覚えつつ、他の教授に今更阿ることもできず、結局彼を師事することにした。まあ、岡部教授はなかなか良い人なのだ。行動と言動はアレだが。

「うぃーっす」

 ゼミ室をノックして入ると、同じく岡部ゼミ所属の、ある女と目が合う。彼女は目をパチパチさせた後、丁度ラッパ飲みしていたドクペから口を離して片手を上げた。

「うーっす。久しぶり」
「お前相変わらず入り浸ってるな……。つーかそれ教授のドクペじゃね?」
「これは私の。そこの自販機で買ってきた」
「このゼミ室のドクターペッパリアン率は異常」
「教授がしょっちゅう美味しそうに飲むからつい手を出しちゃうんだよね。一口飲んだらもういいやって思うんだけど」

 パラパラとレポート用紙をめくるそいつの手からドクペを取り上げて口をつける。同学年ということもあり、こいつとは旧知、ほどではないが仲は良い。彼女はちらりと俺を見て「それあげるから今度ご飯おごってね」と言うが、割に合わない取引なので黙殺する。それにドクペはやっぱり俺の口には合わなかった。こんなの二口で十分だ。教授は何でこんなのガブ飲みするんだろうな。理解できん。

「教授、まだ来てないん?」
「ん。もうちょっとで来るはず」
「お前卒論どこまで進んだ?」
「まだ半分かな……。なかなか進まない。そっちは?」
「俺も似たようなもん」
「やっぱ難しいよねー」

 お互い憂鬱に溜め息を吐いたとき、コンコン、と扉がノックされた。

「ほいほい。どうぞー」

 ノッするってことはお客さんか、と思い立ち上がると、俺がドアノブに手をかける前に扉が開いた。

「こんにちは……。岡部倫太郎はいる?」
「あ、紅莉栖さんじゃないですか!」

 ひょこっと彼女は立ち上がり、俺を押しのけてその人――、岡部紅莉栖の前に顔を出した。えって言うか何でお前この有名人と知り合いなの、おかしくね? しかもなんか親しげだし。ずるいぞ。

「久しぶりね。この間はありがとう」
「いえいえ、覚えていてくださって光栄です。今日はどうなさったんですか?」
「来月、ここの大学で講演をすることになっているの。今日は打ち合わせ。ついでにうちの旦那を拾って帰るつもりだったんだけれど、そういえば今は講義中だったのね」
「旦那さんの時間割、把握していらっしゃるんですね。良い奥さんですねー教授ってば愛されてますねー」
「な、ち、違うわよ! お互い働いてるから、時間割把握していた方が家事とか分担しやすいの! けして会う時間を作るために覚えてるわけじゃないからね」
「……へえー」

 ……何だこれ、この人本当に岡部紅莉栖か? 雑誌やメディアで取り上げられる姿とはかなり違うその人に、俺はポカンと口を開けた。でも確かに、顔は岡部紅莉栖だ。教授の机の上にある写真で何度も見たことがある。

 余談だが、教授の机の上にある写真は三種類あり、大体週一の頻度で変わっている。そしてその三種類の写真に必ず写っているのが目の前のこの人、岡部紅莉栖なのである。ゆえにこのゼミの生徒は十代、二十代、三十代の岡部紅莉栖の姿を知っている。旦那馬鹿もいい加減にしろと言いたい。どんだけ奥さんに恋してるんだよ、さえない無精ひげのオッサンのくせに。

 岡部紅莉栖はもうとっくに三十を越えているはずだが、年齢に反して随分若々しかった。外見こそ全てと言うつもりはないが、教授がべたぼれなのには納得できる。何であの教授がこんな美人を捕まえられたのだろう。正直そこのところをじっくりと講義してほしい。奴の普段の講義内容よりもよっぽど有意義なものになると思う。

「そう言えば、あなたもこのゼミの生徒なの?」

 急に話題を振られて、俺はびくりと肩を強張らせた。何というか、美人に微笑まれる経験がこれまであんまりなかったからだ。

「初めまして。岡部紅莉栖です。夫がいつも迷惑をかけて、ごめんなさいね」
「あ、いや、どうも」
「あんた何で緊張してんの? キャラ違うよ?」
「うっせえ! 緊張もするだろこんな美人目の前にしたら!」

 思わず本音が口を滑って出てしまう。「年上好きなんだよ俺は!」と言う一言が辛うじて喉の引っかかって表に出てこなかったことは幸いだった。

 岡部紅莉栖は俺の一言にきょとんと目を丸くしたものの、年上の余裕たっぷりにくすりと笑い、けれどほんのちょっと照れた様子ではにかんで「ありがとう」と言った。その笑顔の写真を撮らせてくださいと頭を下げたかった。正直ガチで好みです。若い燕が必要になったらいつでも呼んでください。

 俺は実物で見る岡部紅莉栖に、すっかり参ってしまった。もっと早く生まれていたかったとしみじみ思った。

「教授が来るまでゆっくりしていってください。飲み物お出ししますよー」
「ああいえ、お構いなく。というより、もしあなたがいたらと思ってお茶菓子を買ってきたの。良かったら食べない?」
「良いんですか? やったー! 紅莉栖さん素敵!」
「大げさよ。……あなたも良かったらどうぞ」
「は、はい。いただきます」

 岡部紅莉栖は美人な上に気遣いもできる。尚更何で教授なんかと結婚しちゃったのか疑問だった。

 俺はすぐさまゼミ室の中を簡単に片づけて、三人が座れるスペースを確保する。パイプ椅子を取り出し、その上に座布団を敷いて岡部紅莉栖のためのVIP席を作る。お茶菓子を載せられるように折り畳み式のミニテーブルも引っ張り出した。

「お前はテーブル拭け。飲み物は俺が用意するから」
「どうしたの? そこまで気を利かせるなんてあんたらしくない」
「良いから動け。紅莉栖サンを待たせるんじゃない」
「オーキードーキー」

 すぐに布巾を持って「紅莉栖さんこっちにどうぞ」と椅子に案内するそいつを見送りながら、俺は冷蔵庫を開けた。相変わらずドクペしかなかった。誰かあの教授にドクペ以外の飲み物の美味さを教えてやってほしい。

「俺、外行って飲み物買ってきますね……」
「ああ、本当にいいのよ。何ならそこのドクペでも」
「えーと、……く、紅莉栖サンもドクペがお好きで?」
「本場で育ったからね」

 俺みたいな若造に「紅莉栖サン」呼びされてもさらりと流す。しかも「ドクペで良い」だなんて言って気を遣ってくれる。年上最高、人妻最高。教授に飽きたら俺で遊んでくださいと膝をつきたいくらいだった。

 俺は紙コップを三つ取り出してドクペをなみなみ注ぎ、それを持って二人の元に戻る。岡部紅莉栖の持ってきたお茶菓子はマドレーヌで、とても上品な感じだった。ちゃっかり岡部紅莉栖に近い方に座った奴は「美味しいです!」と目をキラキラ輝かせている。彼女はにっこり笑って「良かった」と微笑んだ。俺ももそもそとマドレーヌをかじった。実に美味い。人生史上最高のマドレーヌだ。

 それからは俺達二人で岡部紅莉栖に教授のことを聞いたり逆に尋ねられたりしながら過ごした。しかし岡部紅莉栖はどれだけ俺達が尋ねても「どうやって岡部教授と出会ったのか」については教えてくれなかった。

「うーん、なら、告白はどちらからだったんですか?」
「おか……夫の方、だったかしら? もう随分前のことだから曖昧よ。それに昔は遠距離恋愛だったから」
「遠恋!? うわーすごい! でも紅莉栖さん、最終的にはこちらに戻っていらっしゃったんですよね? それはどうして?」
「確かに、最新の研究に身を置くというのも魅力的だったんだけれどね。でも今はネットワークも充実しているし、アメリカにだって行こうと思えば行けるし。それに」

 岡部紅莉栖はそっと微笑んだ。俺はその笑顔を見たことがあった。勿論、教授の机の上でも写真で、だ。教授に面立ちの似た息子と、岡部紅莉栖にそっくりな娘と一緒に写った、一枚の家族写真。誰もが羨む「仲良し家族」の、母親の顔をした岡部紅莉栖だ。

「私はどうしても、家族と家庭を大事にしたかったの。確かに出張でアメリカの研究所に行って家を空けることもあるし、研究者としての自分が一番生き生きしていることも自覚してる。でも、どこにでもある『普通の家庭』に憧れていたのも事実だった。岡部はそういう私の願いを理解してくれて、それでも結婚しようって言ってくれた。だったら私はアメリカの研究所への未練を引きずるんじゃなくて、日本の研究所を同じレベルまで引き上げることに尽力しようと思ったのよ」

 そう言って微笑む岡部紅莉栖は、今度は研究者の顔をしていた。すがすがしく、今の人生に満足していると言いたげの顔だった。

 すごく、格好良かった。痺れた。何て良い女だろうと思った。

「紅莉栖さん、かっこいい……」
「そう? ありがとう」

 あ、先を越された。そいつはぽうっと憧れのまなざしで岡部紅莉栖を見つめる。彼女はにっこりと笑い返した。ますます岡部教授が羨ましい。

「……あら?」
「え、な、何ですか」

 不意に岡部紅莉栖がこちらを見て、ぷっと噴き出した。俺は訳が分からず首を傾げる。何だろう、寝ぐせでもあっただろうか。

「ほっぺにマドレーヌのかけらがついてるわよ」
「え、あ!? こ、これは失礼しました」

 俺が慌てて口に手をやるのと同時に、岡部紅莉栖はポケットティッシュを取り出してそれを俺の口元に寄せた。きゅ、と優しく拭われる。

「小さい頃の息子みたい」

 ふふ、と口元をほころばせる岡部紅莉栖を見て、俺は顔が熱くなるのを感じた。恥ずかしいのと、近くでその笑顔を見られたことの二つが重なって、頭がパンクしてしまいそうだった。うわあああああ。

 しかし俺の沸騰した脳内を覚ますように、

「フゥーハハハ! 我がラボメン予備軍よ! 真打ち登場!」

 バーンとゼミ室の扉が開け放たれた。教授は爆ぜろ。心からそう思った。

「あ、岡部」

 岡部紅莉栖は俺の口元を拭いながら扉の方へ顔を向ける。

「何だ紅莉栖、来ていたの」

 か、という語尾がしりすぼみに消えて行って、教授は岡部紅莉栖と、それから口元を拭われている俺を見てから、しばらく真顔でそれを見つめていた。しかしツカツカ歩いてこちらまで近づくと、

「とうっ」

 と言って、岡部紅莉栖の腕を取り上げ、その手に握られていたティッシュをきゅっと丸めてゴミ箱へ放った。

「……あんた、何やってんの?」
「これも運命石の扉の選択だ」
「はあ?」
「それよりクリスティーナ、何故またゼミ室にいるのだ?」
「大学に行くって話は朝にしておいたじゃない」
「しかし、ゼミ室に来る必要はないだろう」
「何よ、私が来たら邪魔だとでも?」
「そうではないが……。……ここにいるのが男一人じゃなかったのなら、まあ良いか」
「? 一人? 何が?」
「な、何でもない!」

 何よどういう意味よ、うるさい黙れ答えんぞ。いきなり目の前で始まった夫婦喧嘩に呆然としながら、ああ俺、完全にあて馬だな、と思った。

「なー」
「ん?」
「三十路越えた男の嫉妬って醜いな……」
「そう? 結構可愛いと思うけど」
「……女の感覚って分かんねー」

 俺は岡部夫妻の喧嘩を眺めながら溜め息をついた。そこにいつもの教授の姿はなく、「自分の女が他の男の世話を焼いていたのでとても不機嫌です」と顔にでかでか書かれているような男が一人いた。

 俺も早いところ、良い彼女見つけたいな、と思った。










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ふよんふよん…

「…」
「さて、何を食べに行こうかしら…昨日はラーメンだったし、今日は違うものがいいわよね…」

ふよんふよん…

「…」
「でも、ジローのメンチカツって気分じゃないし…たまには違うものも食べたいわ。」

ふよんふよん…

「…」
「ちょっと。岡部、聞いてるの?」
「ん?ああ。相対性理論の話だったか?」
「全然違う!そんなわけないでしょ!」
「…すまん。何の話だった?」
「今日のお昼ご飯の話よ!」

あぁ、そういう話をしていたのか。
正直言って全く耳に入っていなかった。

「…」
「どうした?」
「もしかして、あと残ってる?」
「あと?」
「さっきから私の後ろを歩いてるし。もしかして昨日のあと、首に残ってる…?」


ああ、そういうことか。
確かに昨日は…だから首を気にしているのか。

しかし、恥らう紅莉栖を見ていると…
いじめたくなるものだよな?

「あとって、何のあとだ?」
「あとは…その…あとよ。」
「だからなんの?」
「…」

そう聞き返すと、紅莉栖は黙りこくってしまった。
うつむいて、なにやらモジモジとしている。
…かわいい。

「き、きすまぁく…」
「む?」

おおげさに、聞こえない、ポーズをとってみせる。

「キスマーク!岡部…たくさんつけてた…でしょ?」
「そんなにつけたか?」
「つ、つけたわよ!首に、肩に…それに…」
「それに…?」
「お、お尻も…」

紅莉栖はもう、熟れたトマトのように真っ赤になっている。
…いや、この表現だとつぶれた頭になってしまうか。
まぁともかく、このうえなく。

おもしろい…じゃなくて、かわいい。

「紅莉栖、顔がチンチンになっているぞ。」
「ち、ちん…顔が?こ、このHENTAI!」

そして予想通りの反応を返してくれる。
まったくもって扱いやすい。

「熱くなっているって意味だが?なぜそれでHENTAIとなるのだ?」
「へ?だってちんちんって…」
「触れないくらい熱くなることを、チンチンになるというのだぞ?」
「ちんちんにそんな意味があるの?」
「…まぁ、ある。だから、そう大声で連呼するな。」
「あ、あぁ、そうね…」

NDKNDKと騒いでやりたいところだが、すでに紅莉栖が大声でチンチンと叫んでしまい人だかりができている。
…もっといじめたいのは山々だが、紅莉栖を痴女と勘違いされては困るからな。
とりあえず、場所を変えることにしよう。


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「ふぅ、おいしかったわ。」
「さすがはメリケン処女だ、バーガーは大好物だな。」
「メリケン言うな!あと…もう処女じゃ…」

このところ、クリスはこの手のいじりに弱くなっている。
当初は過剰に反応し、いつも通り洋書でクリスチョップをしてはラボメンに笑われたものだ。
それが今となっては赤面する始末。
どう言った心境の変化があったのかは分からんが、こちらとしてはいじりがいがあるので問題ない。


「しかし、いきなりフレッシュネスに行きたいなんて。アメリカが恋しくなったのか?」
「別に、そんなんじゃないわ。ただ、この服でラーメンやサンボはちょっと…」

クリスは素っ気なく、そう言った。

「それに、たまに食べたくなるのよ、ここ。」
「そんなにアメリカのに似てるのか?」
「いいえ、全く。」
「なに?」

どういうことだ?

「アメリカのバーガーは…そうね。」

そういいながら、クリスはメモ帳とペンを鞄から取り出す。

「もっとこう、こんな感じ。」
「あぁ、なるほど。おまえが意外にかわいい絵を書くことは分かった。」
「そこかよ!」
「いや、実際絵からは伝わりにくい…おまえに絵心が無いと言ってるわけではないのだが。すまん。」

残念ながら、クリスが書いた絵と先ほど平らげたものに差は見られなかったのだ。

「オーケー。そうね。とりあえず、マックとかは日本ともちろんメニューが違うわ。ただ、品質…というより、衛生面は日本の方が上だと思う。」
「ほう。」
「あと、日本にはバーキンがあるわよね?あれもアメリカに多いわ。」
「バーキンはマックに比べ、肉の味が強い印象だな。」
「まぁ、そんな感じ。で、ちょっとしたカフェみたいな場所にもバーガーはおいてあるけど、それはさらに無骨な感じよ。」

そういって、また絵を書き出す。
今度はさっきと違い、内容物を階層別に書いてある。
うむ、わかりやすい。なぜかカイバーが描かれているが。

「こんな感じ。これを軽くつぶしながら食べるわ。サブウェイみたいに、中身をチョイスできるところも多い。」
「野菜を多くできるのはありがたいな。」
「まぁそれは日本人の思考かも。あっちじゃ、BLTの付け合わせにポテチがでてくるわ。」
「BLT?」
「ベーコン、レタス&トマト。アメリカではステレオタイプなのよ。」

マックのベーコンレタスバーガーのような物だろうか?

「まぁ、切り方は適当だから、ものすごく分厚くなることもあるわ。」
「そして、それを大きく口を開けたはしたない顔でほおばると…」
「ちょ、ちょっと!そんなこと言わないで!」

またも一瞬にしてトマトに。

「口を開け、貪る様に…」
「やめてってば!もう、最近橋田みたいよ…」
「すまんな、慌てるおまえがかわいくてな。」
「そ、そんなこと言っても、ダメ!ダメよ!」
「しかし、俺はおまえが食べてる姿を見るのは好きだぞ?」
「…」

クリス、轟沈。
だいぶこいつのツボが分かってきた気がする。
あまりいじめすぎてもあれだが。

「こ、今度から岡部の前では大きいもの食べないようにする…」
「ほう。ならドクペを飲むのを見て我慢するか。」
「それもかよ!」
「残念だったな。変な意地を張っても意味がないぞ。ほら。」

そういってクリスに手を差し出す。
黙って俺の手を握り、立ち上がったクリスは一言。

「もう、こういう時は本当に紳士なんだから…」

と、ぼやいた。



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「で、なんでまだ後ろに回って歩くのかしら?」
「気にするな。」
「気にするわよ!さっきはジェントルだったくせに!」

クリスはキーキーわめきながら俺の腕を握ろうとする。

ひょい

「ふぇ?」

が、ひらりとかわす俺。

「ふぇ…ふぇぇぇ…」

そして泣き出すクリス。
って、泣くなよ!

「ふぇぇ…」

ぽろぽろとクリスの目から涙がこぼれる。
しまったな、やはり今日はやりすぎたか。
このところ歯止めが利かなくて困る…って、それより紅莉栖だ。
マジ泣きに突入する前に止めねば!

「す、すまん。ほら、よしよし。」
「…」
「泣きやんでくれ。な?」
「…」

なでなで

「私のこと、嫌いになってない?」
「何をいきなり言い出すんだ。」
「だって…」
「そんなはずないだろ。ほら行こう。だいぶ目立ってる。正直恥ずかしい…」
「…うん。」



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そして今現在。巨大なだっこちゃんを腕にぶらさげている。
幸い、このだっこちゃんは自分で歩いてくれるのだが…それでも密着され、腕をがっしり掴まれると歩きにくい。
ちなみに、あまり柔らかくはない。

あ、まずい眼があった。伝わったかもしれん。すごい形相でにらみ返してきた。
そして、いっそう力をこめて腕を抱きしめてくる。心なしか、無い谷間に押しつけられてる気もす…あ、ごめんなさい。にらまないでください。

まぁともかく歩きにくい。泣かせた俺が圧倒的に悪いわけだが。

「で、本当はなんだったの?」

顎を俺の腕に乗せながら、上目遣いで尋ねてきた。
おまえ、それ痛くないか。
最大限に甘えているのだろうが…

「些細な事だ、気にするな。」
「気にするわよ!ね、怒らないから…ね?」

そして、いきなりの猫なで声である。これまたテンプレな…

「自分からそういうやつに限って、怒るからなぁ…」
「お願い、倫太郎。」

この状況で名前を呼ぶな。
どれだけ必死なんだ。

「…本当に怒るなよ?」
「約束するわ。」
「なら、ちょっと腕から離れてくれ。」

ぎゅう

「すぐまた握らせてやるから!逃げたりしないから!」
「…」
「…」
「…ほんと?」
「ほんとだ。」

子供じゃないんだから…かわいいから許すが。

「じゃあ、向こうを向いてくれ。」
「こっち?」

ぐいっ

「んぁっ!な、何するのよ!」
「怒らない約束だろ?」
「約束はしたけど…ってまさか、今の?髪ひっぱるだけ?」
「そうだ。」

クリスの髪はきれいなストレートなのだ。
それを束ねてできたポニーテール。
当然ながら、よく動く。かわいく。

それを見ていて、我慢できるだろうか?いや、できない。

おさげやポニテを見るとひっぱりたくなる。これは、人類(雄)として当然のことだ(鳳凰院調べ。)

「え?ほんとにそれだけ?」
「うむ。」

ぐいっ

「んあっ。ちょ、やめ。」

ぐいっぐいっ

「岡部っっ!」

ぐいぐい

「あぁ、もう!」
「なんだ。こっちを向いたらひっぱれないぞ。」
「ひっぱんなひっぱんな!」
「怒らないといったではないか。」
「何度も許すとは言ってない!もう、崩れちゃったじゃない。」

ばさっとゴムをはずし、いつものクリスにもどった。
もどって…しまった…

「…」
「え、ええ?なんでそんな悲しそうな顔してんの?」

悲しいのだから仕方がない。目の前からポニーテールが消えたのだ。こんなつらいことは無い…

「ちょ、え?えぇぇ?」
「…」

クリスには分からないだろうな。これは雄の遺伝子に刻まれた本能なのだ。
それをないがしろにされた。どう立ち直れと言うのだ。

「わかった、わかったから!」
「ん?」
「ほら、今から結ぶから!そんな悲しい顔しないで?ね?」
「…」
「こんなことで、子供みたいな無垢な瞳になるな!ほ、ほら!」
「おお!」

ぐいっ

「んあっ!もうちょっと優しくして?そんな風にされると、首が痛いの。」
「こうか?」

ぐいっ

「ん、そんくらいならいいわ。いい?私以外の髪をひっぱっちゃだめよ?フェイリスさんとか!」
「なぜフェイリスなのだ?」
「なんとなくよ!」
「心配するな。俺はクリスのポニーテールが好きなのだ。こう、髪が多く握り心地がよく、さらにほどよくやわらかい。長さも完璧だ。」
「…私に告白した時よりも真剣な顔で語られたわ…」
「ふ、それだけ俺はクリスの髪が好きなのだ。」
「微妙にじゃなく、うれしくない…」

そう言ってまたそっぽを向くクリス。

ぐいっ

「んあっ!だから、優しくしろと!」
「安心しろ、おまえのことはもっと好きだ。」
「へ?う、うん…。」

ぐいっ

「ちょ、言ってるそばから!」
「キスマーク消えるてるな。もっと強く、つけないと。」
「…もう、バカ。」