1-667 『どんぐり日記。』一

○月○日。
 何の因果か、日記帳なるものを貰ってしまったので、今日から日記をつけようと思う。
 元来筆不精だった自分にどれだけの詩的感性が備わっているかは甚だ疑問だが、やれるだけはやってみようと思う。とりあえずは向こう一年間の継続を目標にしよう。
 この日記が使い切られることを願いつつ、筆を取る。



 果たして時代が進んだせいなのか、それとも運と確率の問題なのか、俺にも彼女というものができた。
 名を、栗山千由乃(くりやま ちゆの)という。
 あだ名は『ちゅー』。さん付けする場合もある。恐らくは、千由乃、の音から来ているのだろうが、どうにも本人の本質を的確に表しているような気がする。


 千由乃は電車を使って通学している。よって、朝は学校最寄の駅での待ち合わせが基本だ。
 今朝は俺のほうが若干早く駅に着いた。といっても、そこまで差があったわけではなく、自転車を留めに行こうとする前に千由乃が出入り口から姿を現した。
 向こうはまだこちらを捕捉しかねているらしく、きょろきょろと周囲を見回している。
「千由乃ー」
 声をかけると、こちらに気付いたらしく、ほんのりと赤みのある顔をぱあっと明るく微笑ませて、こちらに走り寄ってきた。
 近くの駐輪場に自転車を留め、そこから徒歩で学校に向かう。駅は俺の通学路の途中に位置しているので、俺としても負担がないのは非常に助かる。
 その道中。
「千由乃、なんか今日は眠そうだな?」
 こっくりこっくりと頷く千由乃は、どうやら首肯したのではなく春の陽気にまどろんでいるだけのようである。
 それでも路肩に倒れたりしないのは、その小さな手が俺の制服の袖をしかとつまんでいるからだ。
 千由乃は、一緒にいるときは基本的に俺の服の袖をつまんでいる。なんか落ち着いたりするんだろうかと聞いてみると、手をつないだり組んだりは恥ずかしいからだとか。
 別に袖をつまむのも大して変わらず恥ずかしいんじゃないかと思ったが、本人はこのスタイルをとても気に入っているようなので、俺も気にしないことにしている。
「千由乃? だいじょぶかー?」
 ――こっくりこっくり。
 なんだか頷いているようで紛らわしい。
 ……よし。
「千由乃ー! 火事だーーー!!」
「ふみいいいぃぃぃぃぃ!!?」
 千由乃が飛び上がった。
 嵌め手も典型的なら、反応もすばらしく典型的だ。
「? え、かじ、かじ、火事! 火事!? め、めがねめがね」
 混乱は相当のものらしく、訳の分からないことを言いながら錯乱する千由乃は見ていて実に面白い。ホームビデオの番組とかで賞金もらえそう。
 因みに、千由乃の視力は両目1.5である。
「よぉ千由乃、お目覚めかい?」
「お、お目覚めてる場合じゃないよ火事だよ逃げようよ早くやかんを」
「落ち着け、火事は嘘だ」
「…………ふぇ?」
「いや、うとうとしてて危なっかしかったから、つい」
「………………」
 実に恨めしげな視線を送ってくる千由乃。
 ほんのりと目に涙を溜めている。
 これはなにかフォローの必要ありと見た。
「あーうん、まさかここまでいい反応が帰ってくるとは思ってなくてさ。悪かった」
 なぜにもっと恨めしげな視線を送ってくる。
 個人的にはすばらしいフォローだったと言わざるを得ないと思うのだが。
「……ゆ、愉快だったぞ?」
 ――ぷいっ。
 そっぽ向かれた。



 帰り道。
 千由乃は学校でも結構素っ気なかったが、まだそれが尾を引いているようだ。
 俺の半歩前をちょこちょこと歩く。
 ちょこちょこちょこ。
 小柄で歩幅の狭い千由乃の歩き方を表すには、この表現が非常にしっくりくる――などと考えながら、さてどう謝ったものかなと思考を巡らそうとして、
「ん?」
 いつの間にか、千由乃が今度は半歩後ろにいる。と言うよりは、俺が前に出てしまったのか。
 いつもは千由乃に歩調を合わせているのだが、ちょっとボーっとしているとつい追い抜いちゃうんだよなあ。
 と。
 千由乃の視線が、自分の目の前、俺の袖に向けられている。
 ちらちら。
 見てはぷいっと逸らしてはまた見てはぷいっと逸らし。
 ちらちらちら。
 ちらちらちらちら。
 必死に誘惑に耐えるような行動を取る千由乃。
 俺にそれをばっちり観察されてることなど、勿論彼女の頭の中にはない。
 千由乃は必死なのだ。
 ――――ああ、もう、こいつは。
「千由乃」
 突然動きをみせた俺に、千由乃はびくんと体を揺らす。やましい事を見つかったような反応。
 そんな千由乃に、俺は自然と笑みを浮かべてしまう。
「ごめんな」
 頭をくしゃくしゃと撫でてやる。笑って撫でて謝るなんて、言動一致とはとてもじゃないけど言い難い。
「――えへ」
 でも、千由乃は嬉しそうな顔をした。
 頭を撫でる手に、気持ちよさそうに目を細めて。
 きゅー。
 とかなんとか、小動物じみた鳴き声をあててぴったりの笑顔。
 ――――いや、反則だよな、これ。
 その後は、いつもみたいに袖をきゅっとつままれての帰宅。
 心なしか、いつもよりちょっと力が強かったと思う。



 千由乃が家に寄っていきたいと言うので我が家へ。
 千由乃の本領が発揮される時がやってきたようである。
「ほいジュース。おかわり欲しかったら言ってくれ」
 こくり。
 と頷きつつも、こちらに寄ってきて俺の隣を確保。
 二人きりなのだから、そんなに確実なポジション取りをしなくても。
 ……と、始めは思ったりしたものだが、しばらくして、実はそういう問題ではなかった事に気付く。
 ぴと。
 ぴったり寄り添って、えへへと顔を綻ばせる千由乃。
「膝、乗る?」
 こくこく。 頷くが速いか素早く俺の膝の上に乗った千由乃は、自分から俺の腕を取って身体の前に回す。
 抱きしめる形になった腕に僅か力を込めながら、俺は聞いた。
「どーした、今日は。なんかやけに積極的」
「学校でできなかったもん」
 拗ねたような声。
 頬の赤みも増している。
「そっか? いつもとあんま変わんなくなかった?」
「そんなことないよ。今日はずーっと離れてた」
 千由乃的な評価基準は俺のそれとは少々異なるらしい。
「そりゃ頑張ったな」
 うそぶく俺に、
 ぷー。
 と頬を膨らませる千由乃は、原因は俺だとでも言いたげだ。
「……じゃあ、褒めて?」
「えらいえらい」
 ぎゅー。
「……もっと」
 なでなで。
「えへ……」
 どうやったらこんな幸せそうな顔ができるんだろう。
「……ちゅーも」
 あ、調子に乗ってきた。
「ん? 一人称変えたのかい? ちゅーさんや」
「…………いじわる」
「はいはい」
 膝の上で向き直ってもらい、軽いキス。
 唇が離れると、千由乃は恥ずかしそうに俺の胸に顔をうずめた。
 きゅ。
 いつの間にか背中に回された両手に、力がこもる。
 ――しかし、ここまでの甘えたがりもそう多くないのではなかろうか。
 そんなことを考えつつ、ゆったりと時間は過ぎてゆく。
 お互いに幸福感に浸れるなら、それはプラスでこそあれ決してマイナスではないはずだろう。
2008年07月20日(日) 12:56:33 Modified by amae_girl




スマートフォン版で見る