6-415 梨佳

「お願い、キスして」
「え……今、ここで?」
「うん、今すぐ。ここで」
 土曜、PM6:00、池袋、東口。貧相ないけふくろうの石像前。
ただでさえ人の多く狭苦しいこの場所で、待ち合わせた彼女が言った。
「ゆーくん、私より遅れてきたんだからね。さあ、早く」
 少し涙でうるんだ黒く艶やかな瞳で、しっとり俺を睨め上げる。
脳がぐらっとした。
性悪い。こいつは俺の、くるポイントを知っている。
 襟と袖と裾と、細かいレースに縁取られた白いワンピースの丈は短めで、
マネキンのような理想的ラインを描く脚がすらりと伸びている。
亜麻色の髪はセミロングでふわりと巻かれて、人形のような顔立ちを引き立てる。
こんな雑多な人ごみのなかでも、一際異彩を放つ美貌の持ち主のこの少女が
俺の彼女だなんて信じる奴はまずいないだろう。
 なんせ俺は、キモオタ系…とまではいかないと思いたいけど、
ムサイ顔にムサイ体つき。彼女とほぼ変わらない低い身長。
太ってまではいないことが唯一の救いくらいの、
ルックス的には何の取り柄もない外見だ。
 二人で街を歩くと、十人のうち二人は俺らを振り返り、
「ねぇ、今の見たぁ?」と冷ややかな眼差しを送ってくる。
俺はなんだか、いたたまれなくなって、そっと彼女と距離をとろうとすると、
俺の行動を見越して、彼女はわざと、俺の手をとり、指を絡ませ、
腕にしなだれかかたて歩きたがる。
 しかし、今日は……会ってそうそういきなりこれかよ。
困惑する俺を傍目に、彼女は目を閉じる。
黒い密度の濃い、長いまつげがふわりと下りる。
グロスをのせた桜色のくちびるが、ぷるりと魅力的に膨らんで見える。
やばい。
めちゃくちゃかわいい。
ぶっちゃけ、キスしたい。
つーか、したいだろ、こんな顔されたら!
あらゆる意味でしたい。

でもダメだ。
ここは公共の駅中。しかもこの人、人、人、人だらけの中。
すでになんかさ、奇異なものを見る目線がびしばし飛んでくるんだよ。
ほら、お前の隣に連れ立ってる女子高生っぽい二人の女の子。
さっきから顔が「なにアレ」って言ってるぞ。「この子のカレシ? まさかね」
言ってる。絶対言ってる。俺はわかる。
キス……できる、訳が無い。
なぜなら俺は、誰よりも他人の目が気になる男。


「梨佳、あのさ。その……また、あとで。店、予約してるからもう行こう?
 お前が行きたがってた店だろ」
 わずかに震えて俺を待つ魅力的すぎる唇をなるべく見ないようにして、
目を伏せる彼女の肩をとんと叩く。
その身体は華奢なくせに、触れると想像以上に柔らかくて、いつもどきりとする。
肩を叩かれた梨佳は目を開けて、責めるように俺を見た。
「嫌。キスして。
 しないなら私、今すぐ帰るから」
 頬はバラ色に紅潮し、子犬のように黒い目は、怒りを滲ませている。
俺は口をへの字に曲げる。
そりゃあ女の子が、こんな公衆の面前で、男に(しかも俺みたいな)キスを迫るだなんて、
すっごく恥ずかしくて、勇気が入ることだとは思うよ。
しかもその勇気を、肩透かし食らわされたというのなら尚更、彼女の怒りも分かる。
でも、でもなー……公衆の面前だぞ?
誰が見てるのかわからないんだぞ?
いや、知人友人親戚いようがいまいが関係ない。この人ごみの中だぞ。
そこでキス?
いやあ、無理だ無理。無理無理無理無理無理無理無理。
俺はこう見えても、公共の秩序とマナーと恥じらいを重んじる男だ。
目のまで路上にタバコをポイ捨てた奴が許せなくて、
「ちょっと、あなた。落し物ですよ」と、にっこり笑って落とされた吸殻をつきつける男だ。
それがこんな、駅の出入り口という超公共の場でキス?
いや、いかんいかんいかんいかんいかんいかん断じていかん。
アメリカ人じゃないんだ。俺は日本人なんだ。
人前でキスとか、もっての他! 結婚式は絶対神前と決めてるんだ。
 黙りこくっている俺に、黒い瞳がじとりと射抜いた。
「あっそ。じゃあ私、帰る。
 バイバイ、ゆーくん」
亜麻色の髪をふわりとなびかせて、彼女は俺の横を通り過ぎようとした。
「待てよ」
 慌てて、俺は彼女の腕を掴む。
その細さにどきりとする。
振り返る彼女はキッと俺を睨む。その甘い顔立ちからは、想像できないほどきつい顔だ。
彼女、本気で怒ってる。
「何?」
 もはや俺には用無しとまで言い渡しそうな瞳で俺を見る。
胸のなかがぐるぐると渦巻く。背中に変な汗垂れてきた。
彼女の腕掴んだ手、汗でべっとりしてないか? 気持ち悪がられてないかな。
できたら腕を離して、いったん拭いて、また掴みたいけど、
離した途端、こいつは人ごみを盾に消えてしまいそうだ。
「キス、してくれる気になった?」
 汗でべとつく俺の手の感触に、微塵の不快感も見せずに、彼女は俺と向き合った。
桜色の唇に目がいく。端があがってわずかに微笑む様子は、なんとも言えず、魅力的だ。
キスしたい。キスしたいさ、そりゃあ。
俺はいつだってキスしたい。そういうこと、こういう人前で口に出すのすら憚られる俺。
「でも今は…ここじゃだめだ」
苦々しく呟いた。
彼女の耳に、ちゃんと届いたようで、愛くるしい瞳がすうと細められる。
「あっそ、じゃあ、バイバイ」
「だから待てって!
 なんでいきなりそーなるんだよ、おまえはっ」
 俺の手を振り解いて去ろうとする彼女の腕を、さらにしっかり掴んで引き寄せた。
 潤んだ瞳が、切実な光を宿して俺を見る。
ああ、だからそーいう顔すんなって。心臓締め殺す気か。
こういうとこじゃ……嫌なんだよ、俺はーーーっ。
視線、視線。刺さるぞ、視線。
ちょっと待て、なんかこれ、
かわいい美少女に絡んで、無理やり引き止めてるナンパ男(むさくるしい)図じゃないか?



「ちょっと、いい加減にしたら? 彼女、嫌がってるじゃん」
俺と彼女の間に、見知らぬ男が割って入る。
美容室で手入れの行き届いたカラーされた髪。
同じものを俺が着ても絶対似合わない洗練された服装。
女の子なら誰でもときめきそうな、ひきしまった細い身体つきに嫌味な甘いマスク。
彼も、自分のもつ視覚的優位をちゃんと心得ているらしい。
彼女の肩になれなれしく手をまわしながら、俺をつま先から頭までじろじろ見回す。
「おまえさ、そんなルックスでこんな可愛い子、声かけてるわけ?
 すっげー根性あるな。ある意味尊敬? っていうかバカ?
 嫌がられた時点でさっさと引けよ、クズ」
 ムサイ男は人権がないとでも言うように、頭ごなしに吐き捨てられた。
「ねえ、彼女。よかったら俺とご飯食べにいかない? おいしー店知ってるよ?
 ほんと君、かわいいね? 芸能人? はじめてみたよ、君みたいな? かわいい子」
すでに俺はこの世に存在していないかのように無視して、そいつは彼女に話かける。
無意味に疑問形の多いしゃべり。彼女の肩を抱いて、そのまま去ろうとする。
そんななれなれしく、彼女に触れるな。俺の彼女に。
沸騰した血液が、全身から凝縮していくのを感じる。
「ゆーくん、ゆーくん、ゆーくん!」
そいつにほとんど、連れさられるように歩かされながら、
彼女は振り返って俺の名を呼ぶ。悲しそうな黒い瞳。
ぷつんと、俺の中でなにかが切れた。
人の波をかきわけ、スプリンターも顔負けの速さでそいつに追いつくと、
彼女の肩にまわされた腕を叩き落とし、今度は俺が、彼女の肩を抱いてぐいと引き寄せる。
「ゆー…くん?」
 涙で滲んだ瞳がうるりと俺を見つめる。ぷるりと揺れる唇。
あーこいつは、もう……。
 さっきまであれほど、ひっきりなしに渦巻いていた喧騒が消えていく。
俺の心臓の音以外、無音の世界。
周りの視界も全て消えた。目の前にあるのは、彼女と、その瞳と、唇。
俺はその唇に、そっと自分の唇を重ねた。

静寂と、真っ白な世界のなかで、触れた彼女の唇は、俺の想像を遥かに超えて、
柔らかかった。

 周囲のざわめきが一瞬で戻る。
密集状態に近い状態で、それぞれ蠢く人々の群れ。
彼女の肩をしっかり抱いて、
あっけにとられて、ぽかんと間抜けに口を開けた男に向かって、俺は言い放つ。
「こいつは、俺の、彼女ですから!」
 ふわわと一気に、満面の笑みを浮かべた彼女は、
その間抜けた顔をしたままの男に向かって、あかんべーと舌を出した。


* * *

「あー、すきっとしたーっ。
 なんだ、ゆーくん、やれば出来るじゃない」
 花咲くように、にっこり微笑む彼女は、彼女の愛するチョコパフェをつつきながら、
これ以上になく上機嫌だった。
「あのなあ……。つーかあれは……。
 もうしなからな、人前でキスなんて」
 不機嫌そうにみせかけつつも、彼女の機嫌に引きっぱられて、実は悪い気分じゃない。
「すみません。レアチーズケーキもください」
「うえっ、まだ食えるのかよ」
 店員がにこやかにオーダーを取る。さりげない目線で俺と彼女を見比べる。
はいはい。せいぜい控えキッチン側で、「ほら見てあのカップル」と噂するがいいさ。
「あのね、いけぶくろうで待ち合わせしてたとき、
 私の横に女の子二人いたの、分かる?」
スプーンについたチョコクリームを舐めながら、彼女が唐突に言い出した。
ひょっとしてあの、女子高生らしき二人組みのことだろうか。
「あの子たちね、ゆーくんのこと見て、嫌な事いったの。
 それがすっごくムカついた」
 黒い瞳にじわりと透明な液体が滲んだ。怒りと不機嫌を押し殺した顔。
そうだ、待ち合わせでであった最初に、彼女はこんな顔してなかったか?
なんとなく光景が思い浮かぶ。
『ほらみて、あれ。マジムサくない?』
『ほんと。やっだ、マジキモ』
『ねえねえ、こっちくるよ。やだ、あんなのにナンパとかされたらマジウザイんだけど』
『うわ、マジ鳥肌〜。あ、でも隣の子のほう見てるよ』
『そのマジかわいい子? ほんと、手、振ってる』
『ひょっとして、その子のカレシとか? マジありえねー』
『きゃっはは、ないないって、それー』

ま、そんなとこだろう。俺には悲しいくらい聞きなれた会話。

そうか、それで彼女は、……ぷちんと来たわけだ。
「でもさあ、だからってなんでそれでキスになるわけ?」
 半分呆れて、半分照れて俺は言った。
「さあ?」
とぼけて彼女は、くるりと愛らしい瞳を上げて、口端のチョコシロップを
ちろりと舐めながら俺を見つめる。
「でもね、ゆーくんにキスしたかったのは、本当だよ」


終了
2009年10月28日(水) 20:22:30 Modified by amae_girl




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