Wiki内検索
最近更新したページ
最新コメント
Menu
..
タグ

武者震之助の司馬遼太郎論

※このページは、『武将ジャパンの武者震之助データ』( https://seesaawiki.jp/w/amamasa/d/%c9%f0%be%ad%a5%... )から、小檜山(武者)氏の司馬遼太郎関連記事の魚拓などの情報を分離独立させたものです。

※このページでは武者(小檜山)氏の執筆記事の魚拓を採取していますが、これは同氏が掲載後の記事にサイレント修正を加えたり、同氏に批判的なコメントを削除することに対応するため、記録として魚拓を保存しているものです。魚拓を悪用して武者(小檜山)の著作権を侵害することのなきよう、十分にご注意ください。

※コメント文中で「(part19・221)」と表記しているのは、その内容が5ちゃんねる『武者震之助スレッド』のpart19のレス番221であることを示します。

※完全な魚拓URLをそのまま5ちゃんねるに貼り付けますと、警告が出たり書込み不能になることがあります。十分にご注意ください。


◎【参考魚拓】「『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読み幕末史実をキッチリ確認すると……」@2020/02/07(ただし、コメント欄の記載から2017/10/05以前の初出と思われる)(https://archive.is/9DMIQ)



◎【参考魚拓】「司馬遼太郎おじさんをバカにしていた君たちへ」@2021/07/04(https://archive.is/4WGTp)(4スキ)
 ※(itou_tosiyuki・itawasa3)(非会員からの3スキ)
 【こういう文脈では司馬遼太郎読者全員がバカにされているわけじゃない。講演会で研究者に「それは司馬遼太郎とはちがいますよね」と質問するおじさんがバカにされているだけ・・(中略)・・メッケルの関ヶ原を筆頭に、司馬遼太郎のガセネタは研究されています。けれども、それが戦国で止まって、幕末明治以降は検証不十分ではないかとしみじみ思うのです。】
 → 連続tweetではなく独立したnote記事なのに、「こういう文脈」というのがどういう文脈なのか、説明がない。
  なお、司馬遼太郎『坂の上の雲』への批判は既にいくつも存在している。「検証不十分」という曖昧な表現(どこまでいけば「十分」なのか)のみで済まそうとするのは、それこそnote記事では「説明不十分」であろう。
 【日露戦争本をざざっと読んでいくと、海外のものは勝因として外交をあげます。そこにはイギリスとアメリカの思惑がある。】
 → まず日露戦争が日本側の大勝利でなかったことは司馬遼太郎でさえ言及していること。日本軍はロシア領内はおろか哈爾浜への進撃も叶わなかった。局所的優勢を確保して何とか講和に持ち込んだが賠償金は取れなかったことはよく知られている。
  逆に金子堅太郎・高橋是清などの外交的・財政的努力に一切触れていない「日露戦争論」があればお目にかかりたいものだが、ついでに小檜山氏のいう「海外のもの」を読んでみたいとも思う(例によって具体的な提示がないので分からない)。
  小檜山氏は「2021年大河ドラマ『青天を衝け』青天どころか曇天、いや嵐か」@2021/02/06(https://archive.vn/JquTJ)で【日本で日露戦争の勝因論争となると、まず秋山兄弟の名前があがります。けれども、海外では違う。】と述べているが、「秋山兄弟が大活躍した」と思っている人はいても「勝因」だと思っている者はまずいないだろう。小檜山氏には『坂の上の雲』同作品を秋山兄弟の英雄譚、日本スゴイ論として把握する固定観念が強すぎるように思える。
 【そこにはイギリスとアメリカの思惑がある。年老いたロシア帝国を颯爽と倒す日本を喧伝し、資金援助してきた。アドミラルトーゴーなんて、プロパガンダ由来の褒め称えぶりではある。】
 → イギリスの思惑は分からなくもないが、一応日本の同盟国であった。アメリカも専制主義やユダヤ人差別の問題からやや日本側の肩を持ったが、戦後処理も含めればそれほど日本贔屓だった訳ではない。
   東郷については、それこそ小檜山氏のお好きな英国史のトラファルガー海戦以上のスコアを挙げたのだから、この時点では賞賛されても当然。裏事情が全くなかったとまでは言い切れないが、何をもって「プロパガンダ由来」というのだろう。これらについても具体的な提示がないのでよく分からない。
 【司馬遼太郎おじさんの子の世代にとって、ポスト司馬遼太郎は何かと考えてみる。司馬遼太郎も好きだけど、距離は置いてますよね。その答えが見えてきた気がする。 
〔小見出し・サブカルで天下国家は語れるのか?〕
  まずは田中芳樹氏。断っておきますが、彼には何の恨みもない。ただ、手法に問題があったのだろうとは思う。】
 → Twitterでのやり取りが堪えたのか、田中氏及び『銀英伝』への言及が幾分ソフトになったような気がする。
 【大手掲示板には歴史系のまとめがある。かつて過去noteにも書いたのですが・・(中略)・・私も逸話系スレッド常連投稿者で、いつの間にやらその対象人物の評価が変わってしまった経験があります。
  私は国会図書館に通い詰めにし、コピー代を払い、ファイリングしてまでやっていたのだから我ながら意味がわからない。まとめた側はさておき、投稿した側の栄誉には一切ならないものだから。
  でも敢えて私は言いたい。当時まだ少なかったあの地方の歴史がらみの本を調べてソースを確認した上で投稿したこと。それは自分なりの責任の取り方ではあった。でも、そうでない人がいたらどうなるんでしょうね。】
 → 小檜山氏の国会図書館通いは「歴史上の人物評価ですらインターネットが変え得るし、それは危険なことだ」@2021/01/23(https://archive.is/RFom3)に記されている。小檜山氏が調べた人物というのは最上義光のことだと思われる。
   しかし、週末に国会図書館に通った割には、調べた史料が「主人公ライバルの対する論文、市町村史、大正時代まで遡るような古い文献」しか例示されていない。せめて江戸期の軍記物くらい当たれよ。この点については(part21・182-183)を参照。
 【私如きを信じる人はいないだろう。とはいえ、それでも英語でいろいろ発信したりするとき、嘘はいかんからソースありきでつぶやこうと最近は心がけています。一応、良心は捨ててません。】
 → 小檜山氏に良心がないとまでは言うまい。ただ妄想に耽溺しているだけだと思うことにしよう。あと、文脈的に「ソースありきでつぶやこうと心がけている」のは「英語で発信するとき」に限られているように読めるのだが、日本語での発信は「どうでもエエ!」のか?
 【東京オリンピックだの万博だのリニアだの。そんなもん税金でリメイクされても困るだけ。】
 → 東京五輪については「リメイク」という表現も許容されるかもしれないが、万博は1970年以降もつくば・愛知・大阪(場所が違う)でも開催されているし、リニアに至ってはリメイクではないことは明らか(しかも大規模な税金投入は予定されていない)。
 【これから先は、サブカルや大手掲示板のノリが焼き直されてゆく。そしてそれを下の世代が嘲笑する。そんな時代になるわけですか。暗澹たる思いはあるものの、仕方ないという気はします。ただ、それが有害とみなされて叩かれることを想定し、理論で反駁するなり、態度を改める準備はしておきましょうね。】
 → この言葉、そっくりそのまま小檜山氏にお返ししたい。



【小檜山『司馬遼太郎の何が問題か?』の魚拓・本文・注釈】
 『司馬遼太郎の何が問題か?』と題した9本の小檜山note記事について、5ちゃんねる武者スレでのツッコミを注釈として付記しつつ、紹介します。
 なお、5ちゃんねるの仕様の都合及び出来る限りの文字数を減らしたいという観点から、スレッドのレスをそのまま注釈に流用していない場合があります。ご了承ください。

【目次】
 ◎「司馬遼太郎の何が問題か?序」@2020/09/26(https://archive.is/Cc3BR)(以下【序】という)(9スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(akimo(明るい季節の森の音)・soramoumimo)(大野潔・kiyoshi_ohno)(C3P王 // 返信遅延あり。・note2020pizza)(エマニエル・ベンダサン Emmanuelle ben-Dassin・emma_ben_dassin)(上水優輝(うえみずゆうき)・y_uemizu)(非会員からの3スキ)
  ●小見出し・はい、ここに饅頭があるとします!
  ●小見出し・親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す
  ●小見出し・司馬遼太郎という壁が立ち塞がる
  ●小見出し・本はおもしろいから読むのだろうか?

◎「司馬遼太郎の何が問題か?【個人崇拝】の古さと危険」@2020/09/27(https://archive.is/cAbHE)(以下【個人崇拝】という)(16スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(大野潔・kiyoshi_ohno)(C3P王 // 返信遅延あり。・note2020pizza)(The Creative CAT・the_creative_cat)(つばめさん・jankenpom)(C-POP研究所・cpopkenkyusyo)(あるノンバイナリのnote置き場だった・randagio)(mhpng253・xdyssgh637)(やまねこ手帖・luke0915)(非会員からの6スキ)
  ●小見出し・まくら「危険な車をどうするか?」
  ●小見出し・マルボじゃない、ジェラールだ
  ●小見出し・ネルソンじゃない、ホーンブロワーだ
  ●小見出し・リチャード・シャープは私生児から将校になった
  ●小見出し・そしてナポレオン戦争に空軍参戦!
  ●小見出し・個人崇拝史観は、まだまだ現役のようで
  ●小見出し・英雄だけを見ていては、麒麟も来ない

◎「司馬遼太郎の何が問題か?【手段】の分析」@2020/09/28(https:// rchive.is/2KQCv)(再魚拓:https://archive.is/0VG0O)(記事アップ後に変更があったので再魚拓。変更点についてはpart19・982-983参照)(以下【手段】という)(6スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(ボードゲームカフェ7Gold・岸谷惣次(きしたにそうじ)・soikiiai)(大野潔・kiyoshi_ohno)(C3P王 // 返信遅延あり。・note2020pizza)(非会員からの1スキ)
  ●小見出し・【まくら】トイレの“ルール”を守らせるハエ
  ●小見出し・リンカーン大統領はヴァンパイアハンターだった!
  ●小見出し・キミは黄算哲教授を知っているか?
  ●小見出し・伊賀女忍者の神秘!ウンドマーレーとは?
  ●小見出し・文体そのものがドラマチック!
  ●小見出し・”ゲームのルール“は自分で決める

◎「司馬遼太郎の何が問題か?【江湖】を知らずに、どうして笑い飛ばせるのか?」@2020/09/30( https://web.archive.org/web/20240609221254/https:/... )(以下【江湖】という)(12スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(chu_san・noteIDなし)(541d・noteIDなし)(ミシェリー#香港ぐらっしー#Vlog/HKGlossy・asianviewhk45)(大野潔・kiyoshi_ohno)(紅而note・774weco)(非会員からの5スキ)
  ●小見出し・中国語文化圏国民的作家といえば?それは金庸
  ●小見出し・極めて政治的な金庸の世界
  ●小見出し・日本に金庸のような作家はいるのか?

◎「司馬遼太郎の何が問題か?勢に任ずる者は、時流を読む」@2020/10/01 (https://archive.is/LYndI)(以下【時流】という)(7スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(リック西大寺・rick140)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(りゅうたろKindle『哲学を使うとはどういうことか』発売中・ryuta3227)(非会員からの3スキ)
  ●小見出し・【まくら】勢いっちゅうもんがあんねん
  ●小見出し・司馬遼太郎が国民的作家である理由とは?
  ●小見出し・武士道が日本人を変えたって?
  ●小見出し・軍歌が青春だったひとびと
  ●小見出し・”水路“をさがせ
  ●小見出し・水路ではなく、激流をくだること

◎「司馬遼太郎の何が問題か?“将”だけでは勝てない」@2020/10/03( https://web.archive.org/web/20240609220736/https:/... ))(以下【将】という)(5スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(浅野トシユキ・asano7026)(非会員からの2スキ)
  ●小見出し・【まくら】国の大事には要素っちゅうもんがあんねん
  ●小見出し・ナポレオン戦争はなぜ?
  ●小見出し・西洋崇拝の時代
  ●小見出し・日本の英雄もスゴイ=日本人スゴイ?
  ●小見出し・英雄崇拝の果てには何がある?

◎「司馬遼太郎の何が問題か?歪んだ“三英傑”像」@2020/10/10(https:// rchive.is/W5N70)(再魚拓:https://archive.is/CbLNt)(以下【三英傑】という)(19スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(ダーク・ディグラー@宮崎駿と鈴木敏夫の夜逃げで特殊詐欺・dakudhigura)(大野潔・kiyoshi_ohno)(The Creative CAT・the_creative_cat)(あるノンバイナリのnote置き場だった・randagio)(浅野トシユキ・asano7026)(いつき・itsuki_a)(拝啓 あんこぼーろ・peacedes)(東風 塔子・tohko_k)(守屋吉之助■Healing artist・kichinosuke1972)(つなまよちゃん・tunapon)(非会員からの7スキ)
  ●小見出し・その国の基盤を作った君主は高い評価を受ける
  ●小見出し・なぜ、日本で家康評価は低いのか?
  ●小見出し・バイアスありきの家康像
  ●小見出し・秀吉を再評価する困難
  ●小見出し・信長の天下と、ヴィーナスの腕

◎「司馬遼太郎の何が問題か?提灯が照らすもの」@2020/10/11(https://archive.is/BwW9v)(以下【提灯】という)(12スキ)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(吉隠ゆき (Yuki Yonabari)・yonabariyuki)(大野潔・kiyoshi_ohno)(つばめさん・jankenpom)(こばやん@人生コンサルYouTuber・kobayan0101)(拝啓 あんこぼーろ・peacedes)(タダノヒト・tadano_note)(非会員からの5スキ)
  ●小見出し・目次
  ●小見出し・幕末史は政治と地続きである
  ●小見出し・エモーショナルな幕末論、漂白された政治色
  ●小見出し・幕末日本にいた!西洋思想の持ち主とは?
  ●小見出し・【脱亜入欧】という美酒

◎「司馬遼太郎の何が問題か?(終)明治礼賛の罠」@2020/10/16(https://archive.is/uMbvo)(以下【明治の罠】という)(27スキ?)
 ※(竹仙坊・calm_lily80)(ダーク・ディグラー@宮崎駿と鈴木敏夫の夜逃げで特殊詐欺・dakudhigura)(akimo(明るい季節の森の音)・soramoumimo)(大野潔・kiyoshi_ohno)(C3P王 // 返信遅延あり。・note2020pizza)(The Creative CAT・the_creative_cat)(つばめさん・jankenpom)(おたんこなすのぬま・tanumaokitugu)(籐子・zinzya09)(あるノンバイナリのnote置き場だった・randagio)(jmzh・uj_221b_snow)(chu_san・noteIDなし)(非会員からの14スキ)
  ●小見出し・目次
  ●小見出し・“明治礼賛”の罠
  ●小見出し・昭和に残った【脱亜入欧】
  ●小見出し・満州国への反省も不十分かもしれない
  ●小見出し・坂の下の崖




――【序】――
 何やら、歴史界隈で司馬遼太郎の話題がホットなようですが。

〔(part19・922)今更司馬史観の功罪説いても歴史マニアからは鼻で笑われ、歴史にわかからは興が冷めるから読んでもらえず、歴史初心者は司馬も読んでいない可能性がある。というか、今の子は司馬遼太郎も山岡荘八も池波正太郎も吉川英治も全部並列に読んでるし、気になった事件は必ずwikiを読んでる。本を楽しむけど、信用はしてないんだよ。大河ドラマでもそう。ネットの情報の方が最新で正確だと思ってる。そう考えると司馬史観を論じる事自身、時代遅れで誰に向けて発信してるんだ?〕
〔(part19・927)小檜山氏が「司馬遼太郎を批判して全世代からにらまれた」って批判の中身が的外れか、司馬遼太郎好きを罵倒しまくっているか、そんなところだろう。大体自分は批判から逃げ回っているくせに何を言っているのだろうか?〕
〔(part20・036)武者氏の記事は本題説明もしない、例示や引用がほぼ皆無の考察でもないなんでもない主観的意見だけずらずらと並べてた、それこそ司馬遼太郎の劣化エッセイですよね?〕
〔(part20・200)引用が一つだけだったり、引用の内容を詳細に記載しないのですごく長い考察文にも関わらずまったく説得力がない。〕
〔(part20・051)山田風太郎などの好きな作家の悪口を言われたなどの個人的体験や、会津・徳川大好きという嗜好なのか、明治期日本全否定すべきだという使命感なのかは分からない。しかし、それらのみを原点として、自らに「歴史小説はこうあるべきだ」という立脚点もなく、個別の作品も押さえていないままに、大作家を斬ろうとして醜態を晒しているといったところだろう。〕

 敢えて言いましょう。わかりやすく、せやろがいおじさんを踏まえつつ、ちょっと関西弁で入りますね。
【序】●小見出し・はい、ここに饅頭があるとします!
 この饅頭に、遅効性の毒が入っていて、食べると健康被害が出るとわかりました。ほんで、こないなうこと言われたらどう思います?
  「そないなこと言うけど、めっちゃうまいんやで」「競合製品と比べ物にならんほどうまい!くせになるわ」「むかーし、遠足の時食ったええ思い出があんねん」「全種類食ったで。コンプや!」「好きな味がどれか語り合うと、盛り上がるやんか」
「高度経済成長期に、サラリーマンの定番がこの饅頭でな」「かと思えば、不況の世界でも希望を与えてくれて」「NHKが何度もこの饅頭取り上げてとんのやで!」「えらい先生、政治家もうまいと太鼓判押してはる」「面接でこの饅頭好き言うたら、点数取れるやんか」
  「先生や上司も好き。ようこの饅頭の話してはる」「定番やで、定番!」「スイーツ好きでこの饅頭嫌いな奴おらんやろ」「あれは国民的饅頭やからね!」
 いや、どういう言い訳しても、毒性見つかったんで。黙っとるわけにはいかないんで。
  「せやけど……たまたまロットに不良品が入っとっただけやろ?」
 いや、製造過程であかんと証明されとるんで。
  「死にゃせんのよ!」
 いや、死ななければええっちゅうもんでもないので。
  「もうええわ。お前がスイーツについて無知っちゅうことはようわかったわ」「空気読めやボケ」「出てけ」
 はい、出ていきます。別にこの饅頭の話、したくないんで。ほなさいなら!……って、できたらええんやけどな。できひんのよ!このままではあかんのよ!!というわけで、おつきあいください。

〔(part19・265)司馬作品の文章が素晴らしいので、嘘を本当と思い込んでしまったというだけなら話は分かるが、司馬氏はあくまで小説家であり、1996年死去なのだから、
 「司馬遼太郎の小説の嘘を日本人が信じていて困る」ということを問題視しようとするのなら、それは彼の責任ではなく、それを検証する歴史学者など後世の人間の仕事のような気がする。〕
〔(part19・267)最近の司馬叩いてりゃ歴史通ぶれる風潮にがちょっと嫌だ。〕
〔(part20・053)最初は司馬遼太郎の何処が面白いか、そしてなぜ面白いか、さらに皆どこに惹きつけられるかを書いてから、批判に繋げていくのが正しい手順。
  この手順を踏まずにいきなり批判すると、「読んでいない」「理解できていない」「馬鹿」ってなるのは当然の話。たとえ嫌でもそこから始めるのが手順であり、礼儀なのがわかってない〕
〔(管理人)小檜山氏の本文中の「いや、どういう言い訳しても・・・」までに鍵括弧付きのほぼ無内容な台詞的記述が14もあるように、無意味にページ数を稼ぐという『武将ジャパン』で染み付いた悪癖から脱していない。
  また、この例では「食べると健康被害が出る」「製造過程レベルで問題があると証明されている」ということが明白に確定した前提とされている。
  これから司馬遼太郎を論じようとするのなら、これに対応する事実を明白に論証する必要があるが、仮に前提に引きずられたまま議論を進めていくというのであれば、いわゆる「論点先取の誤謬」である。〕
〔(part19・277)現在は閉鎖されているが、コラムニストであったK谷M彦氏(故人)を斬りまくるブログがあった。ブログ主がK谷氏のTV番組上での戦国時代に関する発言につき問い合わせメールを送ったところ、「司馬遼太郎を読め!」という返信があったということを発端として開設されたブログであった。この発端となった出来事は確か2005年頃のことだったと記憶している。 その後もブログ本文・コメント欄ともに「K谷M彦の歴史知識は司馬遼太郎レベルwww」というノリだった。〕

【序】●小見出し・親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す
 司馬遼太郎を毒饅頭呼ばわりだとおおおおッ!
 そうキレられるのは、はい、織り込み済みなので。覚悟はもうできました。どうにもこの議論は、奥歯にものが挟まったようなイライラ感がある。
 明白なミスを指摘しておきながら、誰を恐れてか、歴史創作の自由を語られたりするわけですが。私は別の自由を提案します。司馬遼太郎を斬る自由です。歴史創作を語ってもいいなら、そこには批判も入らなくちゃ。

〔(part19・929)いままじで司馬って叩かれ過ぎじゃねって思うぐらい総攻撃されてる印象だが、やっと一小説家っていう正しい立場にたったと思えるぐらいで「司馬は聖典化されてる!」って何年前の感覚か?〕
〔(part20・038)今世紀に入って人とあんまり関わっていないので世間の潮流を認識していない、これぐらいしかで思い浮かばない。それぐらい司馬批判は普通になってないか?〕
〔(part20・030)小檜山氏にとっては、別に司馬遼太郎でなくてもいいんじゃないかと。やろうと思えば、海音寺潮五郎、陳舜臣、山岡荘八、宮城谷昌光、もっといえば永井路子や藤本ひとみあたりでもかまわないが、とりあえずすぐに思いつくのが司馬遼太郎だからそうしたような気がする。〕

 どういうことになるかは、想像がつきます。私も周囲に、司馬遼太郎ファンは多い。むしろ気分は山田風太郎の『魔界転生』ですね。
 あれはどえらい剣豪と戦わねばいけないわ、父はじめ親族までぶった斬るわ。ストレスフルな世界観です。尊敬する上の世代を斬る。全世代からもにらまれることは想像くらいできますって。
 親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す――。
 なんだか別の柳生を持ち出しましたが、柳生十兵衛の気持ちになりきれば、なんとかなる気がしてきた。
 やはり、こんな時代だからこそ、積極的に親を斬らねば。いや、物理的なことではない。概念です。親世代が拠り所とするものを斬らねばならない。真剣勝負をせねばならない時に、歯切れが悪いのはいかにもよろしくない。
 それに、根本的な価値観から辿るということであれば、ディテールをいちいち指摘するのは手間がかかるばかりでよくないと思うのです。根源を斬る。そういう気構えでいきます。

〔(part19・927)「根本的な価値観から辿るということであれば、ディテールをいちいち指摘するのは手間がかかるばかりでよくない」ってそういう手間を惜しむから、説得力のないレビュー(?)が出来上がる〕

【序】●小見出し・司馬遼太郎という壁が立ち塞がる
 メッケルと関ヶ原とか。捨てがまりとか。いろいろ問題はありますが、私はもっと根本的な困難に直面しました。
 わかりやすいところで、『坂の上の雲』でも取り上げましょうか。

〔(part19・265加筆)『坂の上の雲』という作品そのものの問題より、日露戦争を司馬以外の視点で描いたものがほとんどなく、児島襄『日露戦争』なども文章が硬く読みにくくて一般的影響力がないということの方が問題だと思う。
  日露戦争を司馬以外の視点で描き社会的発信力のある作品がないとすれば今の歴史学者や作家の責任があるのでは?〕
〔(part19・927)司馬遼太郎の批判は、小檜山氏が例に挙げている『坂の上の雲』だけで本が複数出ている〕

 日露戦争について語る時、海外の視点だと日本という国家をまずみてゆく。
 ・当時の国家予算では、戦費が捻出できない。戦うことすらできない。
 ・日米の後押しとプロパガンダ。イギリスは、対ロシアにぶつけるために、幕末以来露骨に日本政府に介入してきた。輝かしい明治国家のイメージ形成には、イギリスの影がどうしたってチラつく。そこは無視できない。
 ・日露戦争後がむしろ問題だ。そこで勝利して、どうして第二次世界大戦へ向かうのか? アジア諸国が日露戦争の勝利に熱狂したことはすぐに冷えてゆき、むしろ嫌悪感が募ってゆく。その過程こそ、重要なのに。
 そういう視点で歴史を見ている海外の方々が、日露戦争の話を振ったところ、秋山兄弟だのなんだの……そんな個人崇拝の話をされて、どう思うか想像できます?

〔(part20・444・446要約)そもそも『坂の上の雲』って小檜山氏のいうような個人崇拝系の作品だろうか?
  主人公たる秋山兄弟の描写が相対的に多いのは当然としても、大山巌や児玉源太郎、東郷平八郎など様々な人物が登場して主人公よりもよほど魅力的でそれなりの分量を割いて叙述されている。
  一方、先入観を取り払って読めば、秋山兄弟が大活躍しているシーンはほとんどなく、魅力的というよりむしろ変人として描かれている。
  個人的経験の範囲だが、『坂の上の雲』が好きだという人はそれなりに知っているが、秋山兄弟が好きだ・尊敬しているという人にはお目にかかったことがない。〕
〔(part19・277)1980年代後半年に、既にコテコテ左翼系の準学術論文集(書名・筆者は失念)に「『坂の上の雲』には明治の困窮した民衆の姿が描かれていない」と批判するエッセイがあるのを立ち読みしたことがあり、
 小説のテーマではないものを盛り込んでないからけしからん!というのはいかがなものかと苦笑した覚えがある。〕

秋山兄弟以下、日本人がいくら奮闘しようとも、そもそも戦費がなければ、戦争継続できなかったのに?
 司馬遼太郎本人も、どこか危ういと思っていた傍証はあります。『坂の上の雲』の映像化は、しないようにと厳命していた。そのパンドラの箱を、NHKはむざむざと開けたわけですが。
 NHKに個人的怨恨でもあるかと問われたら?どうかわからない。それはさておき、『坂の上の雲』映像化は本当に愚かの極みとしか言いようがない話でした。決まった時点で怒りがやまず、関連情報からなるべく距離を空けるようにしていましたが。
 端的に言い切りますけど、司馬遼太郎への愛がないんですね。
 その危険性は理解できる。だからこんなに怒っている。おかげで、話は進めやすくなったところはあるけれど。
 Wikipediaを見てみれば、日本語版以外にテレビドラマとしての『坂の上の雲』各国語版がある。あの作品が海外の目に触れやすくなる、その危険性を見越していたのではないかと、今つらつらと思うわけです。
 『坂の上の雲』は、司馬遼太郎作品でも最高傑作と名高く、人気があります。その割には、翻訳から漏れているともされています。

〔(part20・354)「歴史小説『坂の上の雲』の英語版(CLOUDS ABOVE THE HILL)を読もう!」で検索すると出てくると思うが、『坂の上の雲』の翻訳はある。「紅葉のかんざし柘植のくし」というサイトにもA〇azonにもある。この時点で間違っているのだから、その後の小檜山氏の論稿を読む気にもならない。〕
〔参考:『坂の上の雲』の英訳"Clouds above the Hill: A Historical Novel of the Russo-Japanese War, Volume 1 "(Kindle版)のA〇azonページの魚拓:https://archive.vn/Vqq3A

 「戦争は悪いとパヨクは言うが、日清戦争と日露戦争はどうだ?勝ったからよかったじゃないか!」
 こんな理屈を最近見かけますが、そういうことを言い張るのは日本人だけなのです。典型的な帝国主義の戦争として、海外からの評価は低いものです。日清・日露までは綺麗で、それ以降だけが例外的に駄目になった。そういう【司馬史観】が通じるのは、日本だけですので。

〔(管理人)右翼系雑誌・ブログ等にもそれなりに目を通しているつもりだが、さすがに「勝ったからよかった」などという乱暴な言論にはお目にかかったことはない。また、時期的に近いボーア戦争や米西戦争と比較しても、海外での日露戦争の評価が低いというのなら、その根拠を示すべきである。〕

 海外では、19世紀帝国主義での戦争は、どこの国のものでもまずプラス評価はされません。もちろん、それに反発する極右はいるけど。
 あるイギリス人の書いていることは、辛辣でした。「我が国で、ヴィクトリア時代を懐かしんでいるような人間は、『モンティ・パイソン』で茶化されるようなものとして捉えられているが……」

〔(管理人)そのイギリス人の具体名及び出典を挙げよ!また『モンティ・パイソン』で茶化されるか否かが歴史的事実の評価尺度として重要であることの理由を述べよ!〕

 イギリスではBBCが茶化すようなこと(BBCの『トップ・ギア』でも、「ルール・ブリタニア」が最低最悪の使い方をされていましたっけ……)。それをNHKではドラマにして真顔で美化しているのでは? そう思うと不安が募ってきました。イギリス人のヴィクトリア朝賛美の日本版って、明治賛美ですから。

〔(管理人)海外でも帝国主義戦争が高評価を得ているとはいえないという点は事実としても、その例証としてテレビの自動車番組をもってくるようではお話にならない。〕

  外国の方と話していて、日本人の日露戦争観形成を説明するとき。国民作家として司馬遼太郎のことから説明して、秋山兄弟云々言っている……その困難を噛み締めて、私は絶望と激怒を覚えました。

〔(管理人)先に注記した(part20・444・446要約)にもあるように、『坂の上の雲』では様々な人物が登場して主人公よりも魅力的に、それなりに分量を割いて叙述されている。
  むしろ主人公の秋山兄弟が大活躍しているシーンはほとんどなく、魅力的というよりむしろ変人として描かれている。
  小檜山氏のいう「外国の方」って実在するのか?〕

 歴史好き同士で、スモールトークにしばりょでキャッキャウフフしている分には、まことに結構でございます。それは絶望的なまでにガラパゴスで、このVOD配信とBLM時代、危険極まりないことは考えておきましょうか。
 細部でミスがあるどころではない。司馬遼太郎の創作スタイルは、海外の歴史ものでは古い上に極めて悪質なものであると。他の国なら通らないものもある。彼一人の問題でもありませんが。
 そこを指摘していきます。遅効性の毒にゆっくりと侵され、日本人の歴史観は世界から比較すると歪んでいます。そこを見つめなければ、先はありません。
 嫌われ者になることはもう覚悟ができました。もう、腹を括るしかないんですよ。

【序】●小見出し・本はおもしろいから読むのだろうか?
 最後に意地悪なことを書きますけど。
 あなたは、司馬遼太郎を自分から読み始めたのですか? 親や教師から勧められたのですか? そしてその勧めた方はいつの時代に生まれていましたか?
 あなたは心の底から、司馬遼太郎がこの世界で一番おもしろい歴史小説だと信じていますか?もっと面白いものを見出せなかっただけではありませんか?
 面白いから好きなのですか?話のタネに便利だから好きなのですか?司馬遼太郎の話をしている限り、親、教師、上司が感心してくるから、読んでいたのではありませんか?違うと断言できますか?
 感想を共有したくて。みんなで「わかりみー!」と言い合いたくて、何かの作品を鑑賞するのか。
 それとも、心の底からおもしろくて読んでいるのか? 
 否定できないとすれば、断言できないとすれば、親殺しが怖いからではないのか?
 素浪人なので、それがし、そこは深く斬り込むつもりでござる。
 この先、問題点としてあげることは、以下の通りです。
 ・個人崇拝・英雄史観
 ・恣意的な取捨選択
 ・脱亜入欧思想
 ・明治賛美
 柳生裏口伝でなくて、臨済の言葉を借りればこうだ。
 「仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢に逢うては羅漢を殺し。
  父母に逢うては父母を殺し。親眷に逢うては親眷を殺し。始めて解脱を得ん。」
 「仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。羅漢に会ったら羅漢を殺せ。
  父母に会ったら父母を殺せ。親族に会ったら親族を殺せ。それでわかることもあろう。」
 大河ファンに会ったら大河を燃やせ。朝ドラファンに会ったら朝ドラを燃やせ。
 しばりょファンに会ったらしばりょを燃やせ。それで始めてわかることもあろう。
 ではさらばじゃ!

〔(管理人)別に司馬遼太郎ファンでもないが、「しばりょファンに会ったらしばりょを燃やせ」は非礼にして党派性丸出しの罵詈雑言としか言いようがない。〕

――【個人崇拝】――
 何やら、歴史界隈で司馬遼太郎の話題がホット。炎上に便乗して、三流歴史ライターがnote芸人呼ばわりを目指しているらしい……まぁ、そういう理解で結構ですけど。
 でも一応、真面目な問題提起はしたい。わかりやすく、せやろがいおじさんを踏まえつつ、ちょっと関西弁で入りますね。
【個人崇拝】●小見出し・まくら「危険な車をどうするか?」
X月X日、ある自動車運転手がギア操作を間違え、大事故が発生。そのメーカーでは……。
 「うちのあの車での事故、結構続いてますね」
 「アレやろ、今回のはお年寄りや。免許返納しいひんのがあかんのやで」
 「ま、そういうことはありますけど。でもこちらの事故は、まだ運転手が30代です。ほんで私、ちょい調べてみたんですけど。ネットでもいろいろ言われとりますわ」
 「なんやて?」
 「うちの車は、そもそもギア操作がわかりにくい。それに、急発進をするような操作をしたら、止めるような仕組みが必要やと思うんです!」
 「あのな、この30代の事故はな、夜勤明けで疲れた時に起きとんねん」
 「人間誰しも、万全の状態で運転するとは限らないのです。間違った操作をしたときに、大事故を防ぐ仕組みを作ってこそ、エンジニアちゅうもんやないんですか?」
 「お前、めんどくさいやっちゃな〜。注意喚起しとけばええの! きっちり操作して、事故を起こさないようにしよう! ブラックガムでも噛んで、眠くならずに、いつも気を使うようにしよう!」
 「根本的解決してへん……」
 銃にせよ、危険な動きをする機会にせよ、事故を防ぐ安全装置ついてますやん。動作を失敗したとき、「油・断・大・敵だぞ♪」とか言われたところで、何眠たいことぬかしとんねん!ってなりますやん?
 歴史小説もほんまはそうやと思います。読者があかん思い込みをせんように、書く側が設定から見直す仕組み考えるべきやないですか!?
 えらそうなこと言うてるけどきみ、んなもんあるんか……?って、あります!はい、あります!ちゅうことでイギリスからまずはいきます!
【個人崇拝】●小見出し・マルボじゃない、ジェラールだ
「創作と史実を区別して読みましょう」
 では、残念ながら根本的な解決にならない。
 この作品に書いてあることは、フィクションなのだとハッキリわかる仕組みが、英文学ではあります。シェイクスピアまで遡るのは流石に面倒ですし、シェイクスピアはそこのところ無頓着ですので、もっとあとの作家を出します。
 コナン・ドイルです。
 ドイルといえばシャーロック・ホームズが有名です。しかし本人は、重厚な時代小説で売れっ子になりたかったのです。販売数という現実を前に、かなり挫折を味わっていますが。
 ドイルの歴史ものは、なかなか面白い。私が読んだものは『勇将ジェラール』もの。これには元となる史料があります。フランスの陸軍将校マルボです。こんなんむしろマルボ主役でええやん。そう言いたくなるかもしれませんが、ドイルはそこにワンクッションを入れています。
「なんだこれは、マルボはこんなことしてないだろ、嘘こけ!」
「いやだって、マルボじゃないんです。そこはジェラールですからね」
「ぐぬぬ……」
 こういう回避はできる。ドイルは、紋章マニアから散々突っ込みを入れられ苦い経験を味わっていますので、納得はできます。イギリスの歴史ファンは容赦がなく、有名な作家だろうとビシバシと突っ込みますので。

【個人崇拝】●小見出し・ネルソンじゃない、ホーンブロワーだ
 ナポレオン戦争とは、イギリス人にとって定番人気ジャンルです。インドでの戦い。アヘン戦争……そのあたりだと、どうしたって苦い顔にならざるを得ませんが、ナポレオン戦争は大義名分があるといえばそうなのです。
「暴君ナポレオンを倒すイギリス軍!」
 イギリス人はシビアなので、そこで「大正義!」と言い切ることは、そうそうありませんけどね。
 そんなナポレオニックもので古典的な名作は、セシル・スコット・フォレスターのホーンブロワーシリーズ。映画化もされています。
 架空の海軍人であるホーンブロワーが、いかにして出世し、戦い抜き、家庭を築き、生きてゆくか。そういう物語が展開されます。
 でも、どうして同じホレイショでも、実在したネルソンではないのでしょう? ネルソンはおもしろい逸話が満載の、魅力的な人物です。ホレイショというファーストネームはイギリスでも有名ではなく、あえてあのネルソンと同じものを使ったことで、そこは意識しているでしょうに。
 理由は想像がつきます。
 ◆ネルソン柱を見上げても、ネルソンにはなれない
  ネルソンは、かつてのイギリス人にとって崇拝対象、アイコンでした。ネルソンの肖像画を見上げる少年は、典型的な姿であったものです。今でもトラファルガー広場にはネルソン柱がありますね。
  そういう軍神のような存在を崇めても、現実を見れば負ける。トラファルガー海戦で世界の頂点に立った王立海軍は、第一次世界大戦で苦い敗北を何度も喫します。
  軍神ネルソンの威光頼りではなく、新時代を見据えていかねば進歩できない。そう悟ったのです。
  ネルソンはもちろん偉大です。けれども、どうせならその時代にあった英雄像を求めたい。
 ◆個人崇拝は危険で古い
  ホーンブロワーシリーズは、1930年代から1960年代にかけて執筆されました。この時代ともなると、イギリス人には理解があったのです。すごい英雄を崇拝していれば勝てる? そんなわけはない。
  のみならず、戦争の主役とは自分たちであるとも気付きました。
  二度の世界大戦を経て、貴族の家がいくつも断絶していった。自分たちの先祖も、自分たち自身もそこで戦ったことをわかりきっている。じゃあ、ナポレオン戦争の頃にもいたのではないか? 時代を遡り、そう考える意識がそこにはありました。
  それに実在の人物で、子孫がいる方の話を書くと、安易な個人崇拝が現代まで続くからリスクがあるんですよね。創作は自由で無害とは言い切れない。
  二度の世界大戦で、イギリスという国家はかなり変わっています。国民が求める英雄像も、当然変化しました。
 ◆英雄だけが勝敗を決めない
 「ネルソンといえばネルソンタッチ!」
  はい、名前がなまじキャッチーなだけに、日本でもある程度知名度あるみたいですけど。
  ネルソンタッチだけがトラファルガーの勝因ではありません。あの作戦はそもそも、操船技術が相当に高くないとできません。当時最高峰であった王立海軍以外ができたとは思えないのです。
  操船技術は、ネルソン一人だけのものではもちろんありません。将校。水夫。火薬運搬員。ひとりひとりの技術や士気の高さがなければ、実現できません。そういう組織論までふまえないと、勝利は遠ざかるばかりでしょう。
 ◆「英雄のネームバリューに縋った連中の末路をみろ!」
  イギリス人の書いたナポレオン伝記は、皮肉めいたものがともかく多い。そして反面教師として、ナポレオンが即座に持ち出されることはあります。
  ナポレオンに、フランス人は酷い目にあわされたのですが。喉元過ぎれば何とやら、甥っ子が「3世」として出てくると、なんと選挙を経て彼を皇帝にしてしまいます。
  ナポレオン3世の器量や能力よりも、「同じ名前だからいいかも」と思ったんですかね。それをイギリス人は冷たい目で見ていたわけです。
  英雄一人よりも、強い将兵が集まった方がきっとなんとかできるんだぞ!そういう信念にマッチするのは、英雄を支える層です。
  マルクス史観云々は、そこに関係ないですからね。
 ◆英雄はアイコンとして悪用されかねない
  祖国の英雄は、愛国心のアイコンとして悪用もされてしまいます。イギリスの場合、アルフレッド大王を称える愛国歌「ルール・ブリタニア」が典型例でしょう。
  BBCの自動車番組『トップ・ギア』では、オーストラリア人相手に狡猾な手段を使うイギリス人の背後で、この歌が高らかに流れました。ブリタニアよ、統治せよ!一歩間違えれば、最低最悪の帝国主義者です。ふざけんなよ!そうなりかねないと。
  極右大好き愛国スピーチといえば、シェイクスピア『ヘンリー5世』の「聖クリスピンの祭日演説」が有名です。勇猛かつ名文。『バンド・オブ・ブラザース』はドラマや小説のタイトルにもなったし、ともかく使われます。
  本当に素晴らしいのですが、愛国心を煽るため極右も大好きでよく使う。
  そういうことをされていくと、ヘンリー5世や作品そのものに極右イメージがこびりつきそうで、疲れ果てます。迂闊に好きとも言えなくなりそう。
  そういう危険性から実在する人物を守るためにも、架空の人物を主役に据えることは安全です。実在の人物よりも、そちらを目立たせると。
  極右が変なイメージをつけることで、アイコンは消え去りかねません。アメリカの南軍旗、旭日旗が典型例。ハーケンクロイツだって、期限をたどれば無害なものでした。

〔(管理人)小檜山氏の誤字を指摘するのは野暮だが「期限」は「起源」である。
  また、複数の種類はあったものの伝統的に存在していたものから選択したに過ぎない旭日旗とは異なり、ハーケンクロイツには昔から存在していた右卍をナチス党旗として根本的に意匠し直したという経緯がある。〕

  最近の典型例として、漫画のキャラクター「カエルのぺぺ」騒動もありましたっけ。極右がインターネットミームにしすぎて、作者が殺す羽目になったあの問題です。
  それを踏まえますと、SNSで歴史人物なりきりをしているアカウントが差別発言をしているのを見るともう……。そんなに誰かを台無しにしたいのでしょうか。
 ◆歴史とは、消えてしまった声を聞くこと
  トラファルガーの戦いに、水夫として参加した。身体中には、砲弾に吹き飛ばされた船の木片が入り込み、雨の日の前ともなるとしくしく痛む。そんな哀れな、国ために尽くした老人なのに、道ゆく人は誰も気に留めない。
  ネルソンのことは称えても、その元で戦った哀れな水夫を、誰も助けようとしない……。
  こういう悲哀に、イギリス人は胸を打たれました。そういう声なき声を拾ってこそ、歴史には役割があるのではないか?
  ホーンブロワーのような作品には、主人公を支える士官や水夫も描かれています。
  そういうニーズが背景にあるからこそ、ホレイショはネルソンではなく、ホーンブロワーになったとは想像がつきます。そしてこうした措置は、安全装置にもなりました。
 「ホーンブロワーがこういう戦術で勝った! 歴史はすごいんだ!」
 「ホーンブロワーは実在しないよ」
 「そうなの?」
 「でも、この場面でホーンブロワーが使った戦術には、モデルがあるんだよね」
  思考が停止しないし、史実と創作の混同が起こりにくいし、議論のテーマにもなるわけです。ちなみにホーンブロワーには「伝記」まで存在します。架空の人物だからこそ、ディテールを細かくしてもよいのです。誰も騙されません。

〔(part19・934)小檜山氏が挙げている史実とフィクションを区別している事例というのは、概ね「安藤百福を立花萬平に変えました」に類似する程度の話である。〕

【個人崇拝】●小見出し・リチャード・シャープは私生児から将校になった
 ホーンブロワー依頼、王立海軍ものは定番ジャンルとして人気を集めました。帆船はロケに予算を取られて映像化が低調でしたが、VFXでカバーができるとよいのですが。
 「海軍がありなら、陸軍もよいのではないか?」そういう発想の転換をした作家がおります。バーナード・コーンウェルです。彼はミステリも手がけていて、日本だとそちらの知名度が高い頃もありましたが、歴史ものも手がけている小説家です。
 そんなコーンウェルのシャープシリーズは、イギリスでベストセラー。歩兵のリチャード・シャープが、叩き上げ下士官として半島戦争やワーテルローを戦い抜くシリーズです。インド駐留時代を描いた前日譚もあります。
 1980年代から2000年代まで、原作が執筆されております。実はハリー・ポッターシリーズ以前、イギリスの中学生が読んでいる定番シリーズ王者が、このシャープシリーズでした。おもしろいし、文体が簡潔で読みやすいのです。
 海軍でなくて、陸軍なら、ロケ費用がかからない!このシリーズの人気を定着させたのが、1990年代のドラマ化でした。ショーン・ビーンが「全イギリス人の恋人」になったのは、タイトルロールを演じたから。連続ものなので惨殺もされないから安心ですね。
 このタイトルロールは、ドラマのホーンブロワーシリーズで、ブッシュを演じたポール・マッギャンが演じるはずだったものの、怪我で降板したという余談もあります。
 シャープは、海軍が陸軍になっただけではなく、当時のイギリス人の心に響くような要素も盛り込まれています。
 ホーンブロワーのような王立海軍ものは、貴族の次男坊以下であるとか、アッパーミドルとか。それなりによい家の出身が多かったものです。
 それがシャープは、社会の底辺層出身でした。娼婦の私生児であり、父親が誰かもわからない。”Son of a bi***”そのものです。
 イギリスにおける庶子差別は、極めて厳しいものがありました。娼婦の息子で、読み書きもろくにできない無骨な男。そんなシャープが、度胸と勇気で立ち向かう姿に、イギリス人は夢中になったのです。実際カッコいいし!
 コーンウェルは社会情勢や、価値観の変化を作風に取り込むことに意欲的な作家です。アーサー王伝説に、ケルト人としての苦悩や、キリスト教伝来をからめた『神の敵アーサー』シリーズはじめ、傑作揃いなのです。それなのに邦訳が低調なのが悩ましいところですが。
 ちなみにコーンウェルの『アジンコート』の主役は、ヘンリー5世ではなく、ニック・フックという長弓兵が主人公となります。あの戦いを、ヘンリー5世の物語で描いても、シェイクスピアの焼き直しにしかなりかねませんし。

【個人崇拝】●小見出し・そしてナポレオン戦争に空軍参戦!
 ちなみに、ナポレオニックものは新たなる局面を迎えています。ナオミ・ノヴィク『テメレア戦記』シリーズです。
 この作品は、ナポレオン戦争時代に【空軍】があったという設定です。空軍といっても、飛行機はまだありません。生きているドラゴンを戦艦として乗りこなす設定です。
 ドラゴンとの相性のため、このシリーズには女性士官が登場します。そこにいたはずなのに、いなかったことにされた女性や少数民族をどう描くのか?
 そこがこれからの歴史創作が直面する大きなポイント。ドラゴンを出すことにより、ジェンダー観やアジアへの目線も取り入れた、意欲的なシリーズです。
 スコット・ウエスターフェルド 『リヴァイアサン』三部作も、スチームパンクに新たなジェンダー観を取り入れた意欲作です。ナポレオニックより一世紀ほど後の設定になりますが。
 日本では、ドラゴンが出てくるだけで、子ども向きのファンタジーやライトノベルと小馬鹿にされがちです。ファンタジーやスチームパンクを読んでいるというだけで、いい歳こいた大人のすることではないという目線もつきまといます。そしてこうなりかねない。
「あなた、歴史好きなんでしょ? そんなドラゴンが出てくる子ども向けの本でなくて、『竜馬がゆく』あたりでも読んでみなくちゃ!」
 あー、はい……余計なお世話なんですけど。

〔(part19・933)結局司馬遼太郎がどうとか言うよりも、私はこんなに素晴らしい海外の歴史小説を読んでるのよッ!!と自慢したいだけでは?〕

【個人崇拝】●小見出し・個人崇拝史観は、まだまだ現役のようで
 海外のフィクションでは、ファンタジーやSFの要素は、ジェンダー比や観の見直す要素として機能します。SFドラマ『宇宙空母ギャラクティカ』のリメイク版では、凄腕パイロット・スターバックが女性にされています。リーダーとして皆を率いる大統領も女性です。
 これだけ技術が進歩しているのに、ジェンダー観がいつまでも同じだったらヤバいぜ! そういう見直しは適宜入ります。2020年、Amazonプライムのドラマ『ザ・ボーイズ』では、原作では男性だったストームフロントを女性にしました。ポリコレだなんだの騒ぐ奴は、無理して見なくてええんやで……製作側がそう言い切っております。
 ここで何かを思いだした方もおられますよね、はい、『銀河英雄伝説』だ。
 司馬遼太郎ファンだけでも手強いのに、提案だけでも首を取れと大騒ぎするあの界隈に突っ込むって、もう地雷原横断にもほどがある……ってかんじですけど。でもまあ、柳生十兵衛精神で乗り切ってみせますよ!
 ちなみに私は『銀河英雄伝説』のファンかって?そもそも読んでいないのでよくわかりません。何度もいろいろな人から勧められたのですけれども。好きそうだとも言われましたけど。士官構成のジェンダー比になんとなく嫌な予感を感じたり。自分に合わない兆候を感じたので、そっと断るようにしてきました。
 あのヒロイン家事分担論争を見ていて、似たようなSFでも、ジャック・キャンベル『彷徨える艦隊』シリーズあたりを選んでいてよかったんだなと痛感できたわけですが。あの作品には、思えば危うい点があったのだと、あの騒動で気づきました。
「ああ、こんな時代に、ヤン・ウェンリーみたいな政治家がいたら……」
「そうだね、竜堂兄弟が今の世の中を見たら何て言うだろうね」

〔(part20・414)小檜山氏の文章のれからすれば、「ヤン・ウェンリー」も「竜堂兄弟(=四兄弟)」も『銀河英雄伝説』のキャラクターであろうと推測できるところだが、後者は同じ田中芳樹氏の著作とはいえ、全く関連のない別作品『創竜伝』の主人公たちである。
  なぜこういう雑な記述をするのか?意図などなくて単なる粗雑さの故か?〕

 あ!これは【個人崇拝】ベースの歴史観ですね。世直しをする英雄が出現するパターンだ。司馬遼太郎でも定番の展開です。
 繰り返しますが、これは危ういし、かつ古いのです。たとえるのであれば、他の国がスマホアプリを使っている一方で、日本がFAX現役でいるくらい、古臭いと思います。
 ヤン・ウェンリーにせよ。四兄弟にせよ。そういう誰かがいたらと妄想する前に、自分が何をできるか考えていく。社会参加をどうするのか?そのへん、『ゲーム・オブ・スローンズ』のエンディングが象徴していたのですけれども。
 誰かを個人崇拝して生殺与奪を預けていると、その誰かが変節した際、座して死を待つだけになる。そういう危険性をもっと意識しないと。ヤン・ウェンリーが何者かよくわかりませんけど、彼は絶対に神聖で民衆の希望を裏切らないと保証されているのでしょうか?
 『銀河英雄伝説』ファンは、司馬遼太郎ファンよりも構成年齢は若いはずですよね?それでもこういう個人崇拝歴史観が根を下ろしているのかと思うと、危険性ばかりを感じます。
 司馬遼太郎だけの問題ではない。司馬遼太郎フォロワーも【個人崇拝】歴史観という、古いOSを日本人の脳裏にインストールしているとしたら?危険ですよ!

〔(管理人)このように主張するのであれば、小檜山氏がいうところの「若い世代の個人崇拝史観」が司馬遼太郎を受け継いでいるという論証が必要だが、彼女がそのようなそのような丁寧な仕事をするわけがない。
  フィクションである『銀河英雄伝説』や『創竜伝』のヒーローに憧れることが、どうして若い世代の「歴史観」そのものに結びつくのだろうか?〕

 A○azonプライムが日本史ドラマを作るうえで、司馬遼太郎あたりの織田信長像ではなく、若桑みどり『クアトロ・ラガッツィ』の天正少年使節団を主役にしたのはなぜなのでしょう?
 海外では信長よりも、弥助に焦点が当たる理由は?

〔(管理人)日本ならいざ知らず、海外のメディアがドラマを制作しようとする際に、その信長像が参照程度ならともかく50年前の司馬作品を下敷きにしていたとすれば、逆に世界の笑い者になるだろう。
  また、日本人だけに焦点を当てるより、海外では珍しくない黒人に注目することは何ら不思議ではない。〕
  
 映画『1917』には、実在した軍人が出てこないのはなぜなのか?伝令が主役なのはなぜなのか?
 ナポレオン戦争までの戦争絵画は、名を残した英雄が誰か判別できる。けれども第一次世界大戦あたりからは、名もなき兵士に焦点が当たっているのはなぜでしょう?
 日本のゲームが『信長の野望』というタイトル。歴史人物をカードガチャで集めるものが多い。一方、海外は『シヴィライゼーション』(文明)や『トータル・ウォー』。この違いは?
 日本の作品でもこうした【個人崇拝】からの脱却は進んでいないわけでもありません。少数派の作品をあげてみましょう。
 長谷川哲也『ナポレオン』シリーズには、ビクトルという青年が出てきます。元は処刑人の弟子であり、兵士となって戦場を歩き回っています。英雄的な活躍をするわけではなく、むしろ情けなくて、コメディリリーフのようではある。実在の英雄に殴られたり、恨まれたりしてしまう。彼は影の主役であり、英雄ではなく民衆目線で見る役割を果たしています。
 ビクトルはただバカな行動をしているわけではなく、実際に英雄以外の誰かがやらかしたことを再現しています。当時の民衆や兵士目線で歴史をみられるのです。兵士が行軍する厳しさや、恐怖感は、彼の目線でなければ描けない。
 ナポレオン戦争について調べていると、一兵士の記録がかなり残されていて、かつ欠かせないものとして扱われるため、ビクトルを入れることは理にかなっています。ロベスピエール童貞発言だけをネタにされるのは、あまりに惜しいことなんですよね。

〔(管理人)『坂の上の雲』の主人公は確かに秋山兄弟ではあるが、要所に下級将校や兵士の記録・証言も記載されており、単純に高級司令部内の物語とはいえない面もある〕

【個人崇拝】●小見出し・英雄だけを見ていては、麒麟も来ない
 2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の、駒も、民衆目線で歴史を見る役割を果たしています。この駒にケチをつける感想が毎週あがってきて、私は正直、失望を繰り返しています。歴史に名を残す英雄以外をいらないものとして扱うってどういうことなんでしょう?

〔(管理人)駒が批判されたのは、女性だからでも庶民だからでもないと言われているのに、小檜山氏の耳には届かない。〕

 英雄が魚ならば、水は民衆です。水なくして魚が泳げるか! そういう目線に、日本人の歴史観が育ってゆくのはいつになるのでしょうか。昔はもっとマシだったのか? 駒バッシングのあまりのひどさを見ていると、もう、猶予はないと思えたのです。
 お約束の嫌味をかましますけど。
 本当に歴史が好きなんでしょうか?自称現代の織田信長、坂本龍馬、ジャンヌ・ダルクとして、アクセサリーに英雄を使いたいわけじゃありませんよね?
 私はたまたま海外の歴史ものを突き進んだおかげか、歴史観がチューニングされたようですけど。ゆえに、日本の歴史ファンとは話が全然噛み合わなくて、もうどうでも良くなってきてはいるのですけれども。言うても野良三流ライターで、研究者でもないわけだし。
 いいんです。海外にはおもしろい、歴史そのものを食べるような極上コンテンツがあります。古代ギリシャやローマの旅行ガイドとか。その時代最低最悪の仕事ガイドとか。
 おもしろいものは、いろいろあります。そういうものを楽しんでいれば満足できるので、お互い没交渉にしましょうか……と、言いたかったんですけれども。
 コロナの時代に、大きな転換点を迎えているのに。日本だけがいつまでも信長、龍馬、ヤン・ウェンリーの到来を待っていたら、どうにもなりません。
 スゴイ日本の英雄像を海外も見たがるはずだと言い張ったところで、海外が「そんなもの求めてません」とかえってくればそれまでのこと。
 日本人の大多数が見せたい歴史像と、海外が見たい像はかなりずれました。個人崇拝という古い歴史観をインプットした責任を、誰かが取らなくてはいけない。といっても、現役作家を叩くとなると心が痛むわけですし。
 どうせなら、象徴的な像を批判した方がよい。司馬遼太郎の弊害を今見直した方が、よいと信じているからこその蛮行です。彼の作品のせいで、日本の歴史観アップデートに遅れが出ているのであれば、やるべきことは明らかでしょう。
 といっても、別に司馬遼太郎が家にあるなら焼いてしまえとか。埋めてしまえとか。発禁だとか。そんなことを言うつもりは全くありません。
 映画『風とともに去りぬ』と同じ措置です。注釈付きにするのです。私が昔読んだ歴史小説でも、わかりにくい用語や事情にはその手の解説がついていました。現実的な対応だと思います。
 あるいは、一坂太郎氏『司馬遼太郎が描かなかった幕末』の、戦国版、明治版、中国史版を出すとか。いかがでしょう。

〔(part20・200)一坂太郎氏の著作を紹介するなら、まず引用記事を抽出してから、考察を書くべきであり順番が逆である。〕

 いかに『風とともに去りぬ』が名作であろうとも、黒人奴隷がいる社会を郷愁とともに振り返っては危険です。司馬遼太郎の作品も、そういう危険な名作枠だということです。BLM運動を見ながら、大坂なおみ選手の果敢な言動を見ながら、なおもよくわからん個人崇拝に陥っているのであれば、現実逃避としか思えません。
 さて、今日はここまでとします。どのへんが危険なのか? 次はアメリカに目線を移し、比較しつつ考えます。

――【手段】――
「あの思い上がった歴史クラスタどもめ! 司馬遼太郎を、小説を小馬鹿にしくさって! 小説のおかげで目覚めたあれやこれやまで否定するのか! 斬る!」
 燃えてますね。案の定、こういうお怒りの声も出てきていると。

〔(part19・954)小檜山氏の記事で燃えている人が本当にいるか?検索すれば何人かはいるかもしれないが、そもそも小檜山氏の記事にそんな影響力はない!(爆)〕

 ちょっと待ってください。塩野七生の話はそもそもしていないし、これ以上『魔界転生』の柳生十兵衛並なハードモードを突破するのもめんどくさいので反論しますが。

〔(part19・954)私も司馬氏には批判的だが、その理由の一つは塩野作品にも共通する観点で、予測できる範囲での「小檜山氏による司馬批判の骨格」に照らせば、その刃は塩野批判にも向かわなければならないような気がする〕
〔(part19・975)司馬は許さん、でも塩野七生は別ね!みたいにお気に入りの俳優かそうじゃないかだけなんじゃないか〕
〔(part20・012)一応「司馬遼太郎 塩野七生」で検索したが二人をまとめて批判するものって見当たらない〕
〔(part20・046)Wikipedia【ローマ人の物語】の項によれば、古代ローマ史研究者の石川勝二氏・ローマ社会経済史が専門の坂口明氏・ローマ史学者として著名な本村凌二氏が塩野七生『ローマ人の物語』を批判している。
  石川氏は同書を「歴史書の性格をもっていることは明らか」と述べた上で、事実関係の記述などに多くの誤りが見られる上、史料とはかけ離れた叙述も存在し、固有名詞の表記の誤りや、ごく単純な事実の錯誤を数多く指摘している。
  坂口氏は、根拠のない断定や誤謬があり、歴史書として読むことはできないと指摘している。
  本村氏は、史料がないにもかかわらず「何をもってそう描けるのか」という疑問があると述べている。〕
〔(part20・051)小檜山氏は、司馬遼太郎にも増して塩野七生を読んでいない可能性も高いと思われる。
もし二人の作家の作品をそれなりに読んでいるのなら、「塩野七生の話はしていない」等ではなく、「○○という点で塩野氏は司馬氏と違ってまともだ」とか「二人は同類と思うけど今は司馬氏のことに特化して論じたい」とか、物の言い様があるだろう。 〕

 あのですね……司馬遼太郎ファンから、こっちはさんざん、好きな歴史小説をバカにされてますけど。そんなしょうもない、くだらないものを読んでいる暇があるなら、『坂の上の雲』を読みなさいだって!

〔(管理人)司馬ファンから好きな歴史小説をバカにされたことを主たる動機として超長文の司馬批判記事を書きまくる人物が「歴史ライター」たりえるのか?〕

 司馬遼太郎がワンアンドオンリーであるのは、小説を超えた【第二の歴史教科書】扱いだからでしょう?作家を親しみをこめて「司馬さん」と呼ぶなんて、どんだけ特別扱いなのかって話ですけど。

〔(管理人)司馬遼太郎がワンアンドオンリーっていつの時代の話?〕

 でもまあ、そこはいいんです。もう終わった話ですし。どうしたって許せないことがあるとすれば……。
「そんなくだらないものを読んでいる暇があるのなら」
 ここです!この前半部。何を読もうと自由でしょうに。だから私は言いません。司馬遼太郎を読んだらバカになるとか。司馬遼太郎なんか読んだら祟りがあって、大仏に踏み潰されるとか。
司馬遼太郎なんか読んだら裏柳生に襲撃されるとか。そういう読んだらいけないという話は、今後、一切しません!

〔(part20・012)「今後、一切しません!」という事は今まではやっていたんですね〕

 そう前提した上で、むしろ司馬遼太郎の超絶技巧を分析してゆきましょう。
 あ、ついでに書いておきますけど。その歴史の先生なり、誰かは、司馬遼太郎なり、塩野七生が“ゲームのルール”を破っていたから、それを問題視していたんじゃありませんか?
 そこを無視して褒めるとか。あるいは教え子が“ルール”を破ったら、師匠としては辛いとか。そういう可能性はありませんか?
 その“ゲームのルール”は何か、って話ですけど。それはこれからでも。
【手段】●小見出し・【まくら】トイレの“ルール”を守らせるハエ
ある会社男子トイレにて。
 「はぁほんま嫌なるわ。男子トイレの小便器の周りやけど。なんでこないにに飛び散っとんねん」
 「そらお前、掃除するのはえらい社員さんやのうて、うちらパート清掃員やもん。むしろ汚したるで!ってなもんやろ。社会のエリートの考えとることやで」
 「えぇ……そうだ、張り紙したらどや!マナー啓発やね」
 「ほーん。会社のプリンタ使ってええっちゅうこと?ならラベルプリンタ使えへんかな?うちには別の考えあんねん」
 「ほんまに?どういうこと?」
 「ハエの絵文字でもなんでもシールにして、便器に貼り付ける!」
 「なんでそんなんがトイレマナーに効果あんねん」
 「まあ、見ててみ!マナーやない、“ルール”を変えたる!」
 こういう会話があっとして、なんやわけわからん、そない思います?
 実はこういう話は効果があるんやで。その、ハエを流れる液体で狙った結果、外にすっ飛ばすことが減少するわけやね。無意識のうちに、ハエを狙う“ゲームのルール”に従ってまうわけや。
 こういう発想の転換、逆転の発想で、人は適切な行動へ誘導されることがあります。一例をあげてみまひょか。
 あなたは、とある人物に戦国武将グッズを贈りたいとします。その人は相当な戦国マニアで、ある武将が大好きなんだそうです。でも、それを秘密にしています。素直に聞いても、はぐらかされる。じゃあ、どうします?
 「あなたは確か、戦国武将では徳川家康推しだと聞いてますけど」
 「は?何言うとんねん!家康のわけないやんか。家康はむしろ憎い敵や。うちはな、石田三成にはこだわりあるんやで。石田三成巡りの写真見る?」
 人間ちゅうもんは、反論するとなるとガーッとヒートアップして、無意識で論点をずらしたり、迷走してゆきます。
 司馬遼太郎の話だけをしているのに、塩野七生の話に流れてゆく方がいれば、まあ、そういうことです!

〔(part19・956)小檜山さん、あんたが言うか・・・。〕

 むしろこういうとき、アルカイックスマイルを浮かべて静観している人がいたら、たまたま現代に生まれた謀将の類なので、警戒しましょうか。
 今回は、司馬遼太郎読者の反論を想定して、一歩先をゆく、対抗策を考えていきます。ほないくでぇ!

【手段】●小見出し・リンカーン大統領はヴァンパイアハンターだった!
 司馬遼太郎ファンが、タイトルだけで失笑してきそうな歴史物のタイトルなら、どんどんダース単位で輸送できます。任せておいてください。厳選しましたよ。
 そこからこちらをどうぞ。セス・グレアム=スミス『ヴァンパイアハンター・リンカーン』だ!
 リンカーンが南北戦争を戦い、奴隷制度廃止に視力(ママ)を尽くしたのは、吸血鬼撲滅という悲願成就のためでした。斧をふるい、吸血鬼を殺しまくるリンカーンの勇姿を是非とも楽しんでいただきたい。『リンカーン/秘密の書』として映画化もされました。
 映画版は原作に比べるといまひとつなのです。理由を考えてみるに、原作にあった手法がわかりにくくなっている。原作は、この作中で語られていることこそ真実だと強調するように、極めて真面目ぶった手法を使います。
 フェイクの表やら、史料やらをともかく引用する。ジャンルとしては斬新で、伝記調を用いていると認識されています。
 そういうバカ話は求めてないんでッ! ええ、そうでしょうね。でも、BLM時代の今こそ読みたい大事な要素があるのです。
 アメリカの吸血鬼ものは、南部舞台のものが多い。本作にせよ、そうした作品にせよ、その背景に【黒人奴隷が死のうが数に入らない】という激烈な要素があります。
 人種差別、人の命を軽んじる傾向を止めなければ、根本的解決にならない!ゆえに、リンカーンが戦うのだと。他の大統領だと成立しない話なのです。
 化け物は化け物でも人間型ともなると、共生社会の理念が問われるフィクションになり得ます。セス・グレアム=スミスは『高慢と偏見とゾンビ』以来、歴史と社会風刺とシュールなジョークを組み合わせる、極めて高度な技術を使っています。
 イロモノすぎて、日本では「バカが読むゲテモノ」扱いですが。英語圏では、実はそうでもない。実際、ゾンビぶちこんでも原作にあるテーマを踏襲しているのです。

【手段】●小見出し・キミは黄算哲教授を知っているか?
 セス・グレアム=スミスは大好きだけれども、猛烈に悔しくなる作家でもあります。というのも、彼と似たテクニックを使いこなしている日本人の歴史作家もおりますので。
 荒山徹です。彼の小説紹介は、ファン以外意味不明すぎるし、このご時世では荒れそうなので、もっとよい紹介サイトでもご覧いただければとは思います。
 ここでは、彼のテクニックを紹介しましょう。彼の小説では、トンデモ理論の裏付けとして鶏林大学の黄算哲教授なる研究者が出てきます。お気づきの方もおられるのでしょうが、こんな大学も教授も実在しません。
 つまりはこういうこと。
荒=黄   山=算   徹=哲
 要するに、『魁!!男塾』における架空の出版社である民明書房と同じテクニックです。あの漫画では、トンデモ理論の背景として、民明書房の書籍から引用がなされていたのです。もちろんそんな出版社は実在しません。
 その中身がどんな馬鹿馬鹿しいことであろうと、生真面目な文体と肩書きや出版社名をつければ、リアリティが発生してくる。その結論が、リンカーンが斧をぶん回して吸血鬼の頭を砕くとか。そういう話なら、無害で笑える話です。そういう心理作用には、ちゃんと名前もついています。
 ◆【ウィンザー効果】
 「私はこの饅頭が美味しいと思う」
 「この饅頭がうまいと、あの佐藤さんが言っていたんですよね」
  饅頭はうまいという事実を述べているにもかかわらず、後者のほうが信じられる。こういう第三者の目線を経由する効果を【ウィンザー効果】と言います。コマーシャルでもよくある手口です。
 「あのイタリアンのカリスマが絶賛! 和食の匠も太鼓判!」こういうインスタント味噌汁とかね。

〔(管理人)Wikipediaによると【ウィンザー効果】とは「直接言われるよりも第三者から間接的に言われたほうが信憑性や信頼性が増す」という心理的効果をいう。
  したがって「佐藤さんと饅頭の件」はともかく、「イタリアンのカリスマと味噌汁の関係」はWikipedianにも項目がある【権威に訴える論証】というべきものであろう。〕

 ◆【ハロー効果】
  第三者目線が有効である。これは権威ある誰かが言えばより効果的になりえます。大学の先生とか、研究者とか、有名作家が言えば効果アップ!小説ならば、でっちあげればよいのです。
  これは歴史番組でもやる手口。ある歴史研究者は、歴史番組のシナリオ通りの説を補強する解説をするように依頼されて、断りました。それでもその番組は放映され、そこには番組シナリオ通りのことを語る研究者の姿がありました。

〔(管理人)Wikipediaによると【ハロー効果】とは「ある対象を評価する時に、それが持つ顕著な特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる(認知バイアス)現象」のこと。
  Wikipediaは「ある分野の専門家が専門外のことについても権威があると感じてしまう」「外見のいい人が信頼できると感じてしまう」ことを例示しているが「良い印象から肯定的な方向にも、悪い印象から否定的な方向にも働く」とも述べている。
  先の「ウィンザー効果」の場合と同様に、小檜山氏は【権威に訴える論証】との区別がついていないように思われる。〕

 別分野を研究していても、見る側には問題はありません。たくさん本がある棚の前で、えらい大学の先生が語っていれば、「松下村塾では吉田松陰の妹がおにぎりを握っていた」ような話でもある程度は通ります。
 大河ドラマにしたって、考証に誰を使うか。そこで出来はそこそこ予想できますよね。

【手段】●小見出し・伊賀女忍者の神秘!ウンドマーレーとは?
 ウンドマーレーとは? 傷口もないのに突然出血する怪奇現象です。伊賀忍者の朱絹は、このウンドマーレーを使いこなし、血を噴き出す忍法を使ったんですね。
 何の話かって?山田風太郎の『甲賀忍法帖』です。
 司馬遼太郎と同年代の作家である山田風太郎は、医学部卒という経歴を無駄にフル回転させ、忍術の背景として医学的な解説を添えます。現代から見ると知識としては古いけれども、ただの嘘でもないらしい。医学だけではなく、中国由来の房中術も勉強したらしく、これも使ってきます。
 山田風太郎が医大卒の肩書きと知識を利用し、ガンに効くキノコでも販売していたのであれば、それは極めて悪質で許されない話ですが。忍法の説明ですので、特に有害でもありません。誰も信じませんから。
 伊賀の人と甲賀の人は結婚できないかもしれない?そんなもの、「ありえへん」の一言で終わりますから、これもそこまで有害でもないのです。山田風太郎は、極めて無害なかたちで心理操作をしています。
 「コロナに緑茶が効くんだって」
 こんな雑な話では信じられなくとも。
 「医大卒の山田さんが、コロナには緑茶がいいって言ってましたよ。カテキン、この成分に秘密があります。さらに、いれるときはなるべく熱く、沸騰したらすぐにいれることが大事だって。一定の湯温でないと、効果が薄れるのです」
 このくらい、【ディテールを細かくすれば信じられる可能性があがる】。現在、その手のデマが荒れ狂っていますよね。
 創作でも定番の技術です。『三国志演義』のようなフィクションでは、諸葛亮が南東の風を呼ぶ部分において、道教由来の細かいディテールが追加されています。
 現代人ならばそんなことをされても、そもそも祈ったところで風が吹かないとわかっているのでそれで終了します。けれども、昔の人は信じる可能性が高くなったわけです。
 ここであげたセス・グレアム=スミスにせよ、荒山徹にせよ、山田風太郎にせよ、人を煙に撒く技術は熟知していても、その誘導方向がわけのわからない荒唐無稽さなので、無害なのです。
 超絶技巧の持ち主の司馬さんが、そんな初歩を知らないわけもない。
 「トラック一杯分、古書一千万円」
 「蔵書60万冊」
 「史料を読む以外楽しみがない」
 そんな司馬遼太郎さんですから。そこは当然、細かなところが書いてあります。
 こういう神話めいた情報があり、ファンがそれをブログなりSNSで拡散し、図書館にはムック本がある。国民的作家という肩書きもある。嘘なんかついているわけがないし、全部丹念に情報を反映させているはずだ!そう思いますよね。
 司馬遼太郎はと、司馬遼太郎である時点で、安きこと泰山の如し。高く聳え立つものなのである――ってところかな。
 そんな大作家の、使い方が危険なからくりを知って、それでも読みたいかどうか。それはあなたの判断に任せますよ。

【手段】●小見出し・文体そのものがドラマチック!
 司馬遼太郎の文体は、極めてドラマチックで流麗で、読んでいるだけで興奮します。例えばこんなニュースがありますが、これもこんな風に書けば、ワクワクしてきませんか?

「 ◆木村拓哉、大河ドラマ主演決定?スキャンダル続きのNHKがすがる、清廉潔白キムタク一家 https://biz-journal.jp/2020/09/post_180965.html
  それには、司馬遼太郎を原作かつぎ出すことであった。これをかつぐことによって大河ドラマ延命をはかり、オールド日本史ファンを引きつけさせ、そのうえで、
 (キムタクだ)
  とNHKは考えた。
 (キムタクを主演に据え、滅多やたらと女性アピールをやってやる)
  と、ひそかに心に期した。たとえば壁ドンをやってやる。BLも。それもカップリング相手には島左近や大谷吉継級の大物がいいだろう。
  腐女子を興奮させ、BL路線にもちこむ。日本じゅうをあげて――ジャニーズファンやその友人だけでなく日本史ファンも男性も――大河に熱中し、タイムラインは燃え、ネットニュースは焦土になり、炎上があちこちに発生し、
それとともに既成の秩序はまったくこわれ、NHKもなにもあったものでなくなるとき、ドラマをやってゆく民族的元気のなかから統一がうまれ、新大河が誕生する、とNHKはおもった。
  それが革命の捷径(はやみち)であった。ジャニーズからキムタクを迎えてBL推しをやってのける以外、すべての革命理論はみな抽象論にすぎない、とNHKはおもった。
  しかし、これは大河そのものを賭けものにするという、きわめて危険な賭博だった。負ければ、枠ごと打ち切りになってしまうのである。  」

 文体はもちろん、作家の基礎ではあるのだけれども。あまりにドラマチックに描くと、印象に残りやすくなりし、デマを信じ込ませることもできるし、厄介ではあるのですね。嘘をデマとして拡散する際に使われる手ではある。
 三流ライターも、意識している。ドラマ系の記事は、独特の香り高くて、読み手の心をくすぐるような文体が大盛況ですね。私は文体が下品だから、こういう媒体からは縁遠い。ま、言っていることも嘘ばっかりだし。

〔(part20・013)小檜山氏の嘘はいつも指摘はしているが、仮にも歴史ライターが「言っていることも嘘ばっかりだし」と自分で言っちゃうのはまずいのでは?〕

 「こんな出鱈目記事が、今後どのように展開していくのだろうか」って、こういう感じの文体ですね。
 文体には力がある。そんな“からくり”を踏まえている善良な前述の作家は、大統領の吸血鬼退治論や忍法の裏付けに使うわけですけれども。
 この手の文体論ならば、清水義範『猿蟹の賦』(『蕎麦ときしめん』収録)をお勧めします。司馬遼太郎の華麗な文体ならば、猿蟹合戦でも重厚になるのです。 
 小説は魅力的であるからこそ。小説家は華麗に嘘をつけるからこそ。人の心を動かせるからこそ。危険であるという自覚が必要なはずなのですが。どうにも、そのゲームのルールが曖昧な気がするのです。
 前回あげたイギリスの歴史シリーズですと、前書きや後書きに作者からの連絡事項が書かれていることがあります。考証ミスを指摘された箇所の説明をしていることもある。どうやって創作したのか、明かす場合もあります。こんな感じです。
 この作品では、主人公がイギリス陸軍兵士として初めて元帥杖を奪取したことになっている。史実では某が、この数年後に達成した。
 小説は何を書こうが自由と言えば、そうです。けれども、史実との混同を避けるための工夫はしてあります。作家が何冊史料を集めたかどうかはではない。どんな研究や論に用いて描いたか、明確にせねばあまり意味がないと思うのです。
 繰り返します。こういうからくりを知っても、まだ小説とは無害だと言い切れますか? それもテーマ、使い方次第では?
 こういう危険な“からくり”が使える小説というもの。それが低劣だとか、見下してるとか、そういう話ではないのでは?
 その“からくり”の危険性を認識しているのか。ここです!
 小説を“第二の歴史教科書”扱いをして、持ち上げて、ますます嘘が通りやすい状況を継続してきた。そのことの是非について話したい。
 その危険性を見直すわけでもなく、押し通す気満々で、反対意見は握りつぶす。そういう傲慢さが、愚かで低劣で、反論するしかないと私はいいたいのです。
 司馬遼太郎を“第二の歴史教科書扱い“をするな。”ルール“を守れ。それだけのこと。それがそんなに難しいことなんですか?

〔(part20・013)司馬の存命中はともかく「第二の歴史教科書扱い」している人なんてほとんどいないだろう。上に小檜山氏自身が述べているように、単に自分の趣味を馬鹿にされて悔しかったというだけでは?
 (しかも自分はそれ以上に人の趣味を馬鹿にしているというおまけつき)〕
〔(part20・027)司馬遼太郎「作品」に問題があるとすれば、それは作者本人にではなく、あくまでもフィクションである司馬作品を、それが史実であるかのようにもてはやした一部の政財界のノータリンのせいではないか。
  そう言えば、創作と事実の区別がつかず、始終ワンワンキャンキャン吠えまくってる、自称クソレビュアーって、どっかに居たっけねw〕

【手段】●小見出し・”ゲームのルール“は自分で決める
 司馬遼太郎の話となると、こういう意見は出てきます。
「小説をバカにしている歴史マニアどもの暴虐! 史実通りでないといけないのか!」(いや、私個人としては、リンカーン大統領が吸血鬼退治するような小説でも好きなんですけど)
「塩野七生もダメですか!」(いや、彼女の話は別にしていない)
「どうやって歴史に興味をもてと言うのですか!」(小説から興味を持つ人もいれば、別の何かで興味を持つ人だっているわけであり)
「私の読書習慣にケチをつけるんですか!!」(いや別に……)
「マウントとっているな!」(なにっ!!)

〔(part19・924)自分に対してマウントとってきた人を虚仮にしたい一念で司馬を殴ってるだけだと思う〕

 はい、最後のこちら。これはすごく不思議な話です。なんか知らんけど、歴史トークになると、無茶苦茶不機嫌になられることが多いのです(まあ、私の不徳がでかいとは思うけど)。確か『平清盛』の時だったかな。あの宋剣は考証としておかしいし、そもそも斬首できないとチラッと言っただけで、なんか無茶苦茶怒られたんですよ……指摘そのものが悪意とみなされたらしい。なんや知らんけど!

〔(part20・013)小檜山氏の認識→歴史好きな人に史実の指摘をすると怒られる。私の考える小檜山氏の状況→相手が全く違う話をしているのに「平清盛」のことを言い出したから不機嫌になっている。相手を馬鹿にするから不機嫌になる。又は言っている内容がピント外れなので相手がいらいらする〕
〔(管理人)「『平清盛』の宋剣は考証としておかしい」というのは、同ドラマを熱狂的に擁護する者が「あえて宋剣を用いたことに意義がある」と主張する場合を除き、ほぼコンセンサスが得られていること。『平清盛』放送当時の2ちゃんねる大河板を見ればよくわかる。小檜山氏があたかも自分が最初に気づいて指摘したように装い、「無茶苦茶怒られた」と被害者ぶることの滑稽さ!〕

 日本史好きな人、中国史や西洋史の話になると、なんか、機嫌、悪化しますよね……。この話題はやめておこうかな。

〔(管理人)日本史好きな人が日本史のことを語っている時に、あえて中国史や西洋史の話題を持ち出せば、不機嫌になることもあるのは当たり前〕

 されど、敢えてここは柳生十兵衛精神で言うがの。歴史知識をマウント材料にしておるのではないか? これがドラマ論も同じことが言えるとは思うがのぅ。誰にだって得意不得意はある。それがしも、スコータイ王朝の概要、マヤ文明衰退の謎……いろいろわからんことがある。わからんことのほうがむしろ多い。
 わからないことがある。それはとても幸運なことで、新たな気持ちで歴史を学べる。新しい食べ物を見つけたような、とてもしあわせなことだと思うのじゃが。いかがかのう? これは【敵意帰属バイアス】によるものかもしれん。歴史がどうこうでなくて、精神状態の問題じゃ。
 どうしてそうなるのか?
 無意識下で、何かあるのかもしれませんね。司馬遼太郎がすごいと言っても、下の世代にいけばいくほど、読者数そのものが減っている。現実として、司馬遼太郎原作大河なんて、最後がいつだったかすら即座に出てこない状態であるし、そもそもが原作つき大河が減っている。
 先ほどのスポーツ紙の大河とばし記事。おちょくって使いましたが、悲しすぎて直視できないものはある。司馬遼太郎原作も、キムタク主演も、そんなものが斬新で目玉になるなんて、一体いつの時代を生きているのでしょう? Windows 95デスクトップを使っていそうな世界観ですね。

 司馬遼太郎なんて、もう正直古いし。いいじゃないですか、古典名作枠で。もっとはっきり言いますけど、危険な”ゲームのルール“破りをしているのです。本当は薄々気づいているんじゃありませんか?
 こんなnoteを書く理由のひとつとして、社会情勢があります。
 中国の日本史好きの方も、司馬遼太郎の”ゲームのルール”は熟知している。韓国もそうでしょう。
 BLM運動を契機に歴史の見直しが広まる中、その手段を暴かれたらどうなるのか?
 松下村塾は、世界遺産にまで登録されている。それに、新札人物の人選センス。あの大麻ドラマ。無害なエンタメといって逃げられるはずがない。
 これだけ危険要素が揃っているわけです。ロイヤルストレートフラッシュ状態だ。
 でもファンがいるから大丈夫? それはどうでしょう。そもそも司馬遼太郎て、海外の知名度はどうなのでしょう? 『魔界転生』と『バジリスク』効果もあり、山田風太郎の方が高いとしても驚きはありません。むしろ海外では、山田風太郎手法の方が、安全装置つきで善良とみなされる可能性は高い。
「作品は娯楽としてのみ消費されなければならない」
「表現の自由があるから、批判はゆるされない」
 こういう”ゲームのルール”を声高にずーっと延々と、SNSに投稿している誰かがいるのだとすれば?
 むしろ裏に何かあるのでしょう。でも、そんなことを押し付けられる理由は、こちらにはありませんので。あしからず。
 娯楽は人の心を動かす。社会や政治も動かす。それなのに、批判されたくないとすれば、どこか殴られて痛い箇所があるとか。危険なルールを、薄々わかりつつ、使っているか?
 どうなんでしょうね?
 とはいえ、繰り返しますが、司馬遼太郎を読むななんて言いません。
「司馬遼太郎なんて呼んでいると、妖術師が命を狙ってくるぞ……」
 そういう話も、一切していない。ただ、私はトイレの便器にハエのシールを貼り付けました。それで誰かの気持ちが変わるかどうか、そこは感知しませんよ。
 自分が読むものは、己の心と対話して、そのつど決めていけばよいだけのことです。お互い、そうしましょう!
 と言いつつ、次は目線を東に向けます。

─【江湖】─
 今まで紹介した作家は、距離や年代的に離れていました。そこで、距離、年代、そして職業と肩書きまで司馬遼太郎に近い作家を考えたいと思います。
 香港の金庸です。今回はまくらはなしで。
【江湖】●小見出し・中国語文化圏国民的作家といえば?それは金庸
 金庸は中国語文化圏では国民的作家です。その浸透度は、魯迅以上かもしれない。それというのも、十年に一度くらいのペースでドラマ化され、漫画化もされているのです。どの世代だろうと作品名を言うだけで結末を知っているし、どの人物がどんな役割を果たすのか、把握できています。
 金庸作品のドラマ化は、日本の大河ドラマに似ている部分もあります。
「次に小龍女を演じる女優が決定!」
 これだけでニュースになり、自分が若い頃に見たそのキャラクターと比べてどうなのか、ワクワクすることになります。ベテラン俳優が、別の役で再登板する伝統もあります。若い頃森蘭丸を演じた役者が、数十年後の織田信長を演じるようなものです。
 金庸の作品は、中国語圏の方ならば誰でも知っているようなもの。「私は黄蓉(ヒロイン名)じゃない」というポップソングもあるほど。親の世代も、子の世代も、黄蓉がどういう人物像であるか理解していればこその曲です。
 映画『アイスマン 宇宙最速の戦士』(映画の出来そのものはお粗末でした)では、明末から現代にタイムスリップをした主人公が、明が滅亡すると悟り、破滅を避けるべくある本を手に取ります。
「『碧血剣』か……この袁承志を見習わねばなるまい」
 おいっ、主人公(演:ドニー・イェン)、それは金庸の武侠小説だ、袁承志は実在しないから! 思わずそう言いたくもなります。百度で明末について調べる方がいいんじゃない?
 でも、これこそ金庸と読者の関係だと思いました。明末という大流血を避けられない人は大勢いた。たくさんの命が失われた。金庸はそんな時代を生き抜く知恵を、自分がつくりあげた主人公を通して描いたのだから。確かに参考にはなる。実在しない主人公だからこそ、むしろ理想を実現できるのです。
 金庸は、小説を通して人のあるべき姿を問い続けた、実はとても真面目な作家です……強いおっさんや美少女がやたらと出てくるし、変な映像化作品も多いから、なんだか誤解されているけど。 
 金庸は、動乱の時代を見ている。思想や読書経験、そのために生死を彷徨った人がいることを知っている。ならば、筆を握る手に魂や理想をこめるのは当然でしょう。
「エンタメなんて楽しければいいじゃん!」
「思想とか、そういう難しいこといらないんだよね」
 そう言える誰かがいるのであれば、その人は灼けつくような焦燥や衝動とは無縁の、能天気でゴムがゆるんだパンツじみた生き方でもしてきたのでしょう。うらやましい。
 いいんじゃないですか。楽しそうで。その楽しい日々がいつまで続くかわからないからこそ、生き抜く知恵を作品に込めた作り手もいるわけなんですけどね。そんなこと想像もできませんか?それって、そんなに難しいことなんですか?

〔(part20・018)「エンタメなんて楽しければいい」等と言った相手に、「能天気でゴムがゆるんだパンツじみた生き方でもしてきたのでしょう。うらやましい」「動乱の時代を見て生死を彷徨った人がいる。そんなこと想像もできませんか? それって、そんなに難しいことなんですか?」等と返したら、相手が腹を立てることも分からない小檜山氏の方が想像力がなさすぎる。返すのなら相手に「何故その考え方では駄目か」と説明することだが、小檜山氏はこの文章で「私は説明したんだーッ!!」とか思ってそうである。もし、これを説明だと思っているなら有害だからやめた方がいいと言うしかない。〕
〔(part20・027)司馬遼太郎をゴムがのびたパンツみたいに言ってるが、彼には従軍経験あるようだし、だからこそ書けるものもあるだろうに。司馬「作品」に問題があるとすれば、それは作者本人にではなく、あくまでもフィクションである司馬作品を、それが史実であるかのようにもてはやした、一部の政財界のノータリンのせいであると言って、過言ではないだろう〕

【江湖】●小見出し・極めて政治的な金庸の世界
 エンタメと政治や批判は無縁。そういう戯言は中国文学を見ても言えるのでしょうか?そう意地悪に突っ込んでしまいます。現在は確かに中国共産党が締め付けているように思えるかもしれません。それも彼らが筆の力を熟知しているから、ということも考えられませんか?
 金庸について言えば、彼は第二次世界大戦を経験し、香港の新聞記者であった作家です。そう、元新聞記者という経歴まで、司馬遼太郎と一致しています。
 しかも、日本ではGHQが日本史ものの作品を、中国共産党は武侠作品を、上から禁止されていたというのも興味深い。日本も、中国語圏の人々も、自国のチャンバラものを味わいたくてたまらないのに、できない! そんな悩ましい時代が訪れていました。
 どうにかならんだろうか? 1950年代、中国共産党の影響が及ばない中国語圏は考え始めます。香港では、新聞に武侠小説を掲載すると売れる。筆力のある記者にペンネームを名乗らせて、武侠小説をバンバン書かせたらよいのでは? そうと盛り上がるわけです。こうして第二次世界大戦後に生まれたジャンルを、それ以前のものと比較して「新武侠」と称します。
 金庸はそんな「新武侠」でも、トップクラスの作家にのぼりつめます。中国共産党は禁止しているものなのだし、そこは彼の目を通したシャープな中共批判に突っ込んでいきます。
 金庸の小説は、そのイマジネーションを駆使して、社会批判をしています。武侠ドラマを見ていると、還暦を過ぎたおっさんがワイヤーで吊るされて、グルグル回されます。血尿が出ていそうで、見ていて胸が痛む。元気と体力いっぱいのティーン主人公に、こんなおっさんが勝てるわけないでしょうに。それを言うのならば、こんな華奢なヒロインが棒で叩いたところで、悶絶するほど痛いとも思えないし……。
 これは武術ではなくて、現実世界、政治の力関係の反映なのです。長老格で名のあるおっさんが一番偉い。イキのいい若者は、そこまで強くない。よくわからない修行で主人公がパワーアップするのは、人格の成長や昇進なのでしょう。女性だろうと、きっちり実力を示せる人間は、周囲から敬意を集め、実力者となれる。
 そういう興味深さのみならず、金庸世界のおっさんどもは、下劣の極みを見せてきます。君子ぶって偉そうな顔をしながら、裏では陰険な足の引っ張り合いをして、妻子はじめ周囲を絶望に追い込み死なせてでも、権力にしがみつこうとすると。
 金庸は、中国の古典文学やその根底にある倫理とは、一味違う世界を示しているのです。目上の人はともかくは敬え。男性ならば特にそうすべきである。そういう枠組みをとっぱらい、尊敬されるべきおっさんの汚らしさに筆誅を加えます。
 美少女だって強くて賢い! 組織の長にもなれる!
 これはただの伝統的な女侠要素や作者の趣味というだけでもなく、『紅楼夢』に通じる価値観の転換も感じます。中国の伝統では、年若い女性は一番軽んじて良いもの。科挙の受験すらできないし、結婚して良妻賢母にでもならなければ駄目。それが武侠ではどうか?
 美少女萌え!それだけでなくて、若い女性の持つ価値を再発見しているのです。見た目がかわいいとか、それだけではない。聡明さや意志の強さもそこにはあります。
 漢人のありようにも、鋭い目線を向けています。
 『天龍八部』蕭峯の扱いが典型的です。漢人がそれ以外の民族を差別してきた、そんな悲しい歴史にも迫る。
 描写が差別的だとされる指摘があると、適宜修正も入れる。「金庸にポリコレを適用されたらどうするつもりか?」という意見を見かけたことがありますが、そこはもう通過済みです。差別を問いかけたい金庸が、そこから逃げるはずがありません。彼自身、改訂版を出してもいます。
 そんな金庸の最高傑作とされる『笑傲江湖』は、社会批判という意味でも強烈なものがあります。
 この作品は明が舞台。最高の武術をマスターするには、自宮(=去勢)をするしかない。そんな衝撃的な設定があります。いくら武林(武術家の世界)で頂点に立ちたいからって、ナニを切るかな? これは明という時代への批判でもあるのです。明代は宦官の弊害が最高潮に達しています。科挙合格という難関を経由せずに、自宮で出世した連中がいたことを、武侠小説を通して見せているのです。
 大物のおっさんが見栄っ張りで、しょうもない謀略で足を引っ張り合っているところも、極めて印象的です。この作品がここまでパワーに満ちているのは、発表当時の1960年代と言う時代の影も感じます。香港から当時荒れ狂っていた中国の文化大革命を見て、金庸がどれほど失望し、悲しんでいたことか……。
 香港の作家が、ストレートに文化大革命を批判する小説を連載したら、いろいろと大変でしょう。けれども、明代を舞台にして武侠という体裁を取れば可能です。読者の側も、どこか既視感のある醜い争いだと感じたはずです。
 中国は、そんな金庸をどう思っていたのか? 70年代末から粗悪な海賊版が出回ります。80年代の改革開放路線ともなれば、香港から極上のエンタメがドッとなだれ込む時代となります。
 金庸は知名度と人気が爆発的に高まります。「金学」という金庸研究が提唱されるほど。そしてなんと、北京大学が発表した二十世紀を代表する作家第4位に位置づけられたのです。
 えっ……金庸が? あのおっさんが空中浮遊するチャンバラ小説の金庸が? そういうツッコミはもうやめましょう。中国人が低劣なものを好んでいるとか、そういう差別的な話はいいんです。
 痛烈だと思いませんか?文化大革命を自作で皮肉り、漢人の偽善や悪徳を批判的に描いていた金庸が、中国大陸まで制覇し、代表する作家にまで上り詰める。これぞ、まさしく中国文学の伝統を踏襲し、発展させた大作家だと思うしかありません。彼の作品はめっぽう面白いし!
 現在では流石に古く、古典になりつつあるとは感じます。けれども、忘れられたわけではありません。若い世代が書いて、読んでいる武侠もののWeb小説、漫画、そのドラマ化作品は、金庸の世界観や設定を踏襲していると思われるものが多いのです。金庸という20世紀の提言をふまえ、21世紀を生きる私たちはどう変えていくか。そう考える意識を感じます。
 金庸の話が長くなり過ぎましたよね、ええ、わかってます。
 でも、日中の感覚の差がわかりませんか? 金庸の小説は、荒唐無稽で無茶苦茶で、イロモノ扱いをされます。武侠は韓国でも大人気なのですが、日本はいまだにこうです。
「武侠……ですか? 中国史ものならばよいのですが」
 売れないイロモノ、低劣な扱いです。古典ですら『三国志』は扱われても、武侠ものの名作古典『水滸伝』すらあまり読まれなくなって久しいと。
 どうしてでしょう?
 司馬遼太郎の責任をそこで問うのか? そう突っ込まれそうですが、無関係とは言わせませんよ。

【江湖】●小見出し・日本に金庸のような作家はいるのか?
(山田風太郎、正史に対する稗史の意識はあるかという問いに答えて)「あるかもしれませんね。稗史の方が好きだという。本当は、正史といったって、何が正史なのかわからないけどね」
 金庸の作風や年代と近い作家として、ここは山田風太郎をあげましょう。彼特有のお色気展開についての話は、後述します。
 山田風太郎は、中国の古典である『金瓶梅』を『妖異金瓶梅』としてミステリにしました。忍法帖は、『水滸伝』の翻案なのです。『金瓶梅』と『水滸伝』の翻案に挑んだ日本人作家は、滝沢馬琴に続いて彼が二人目となります。山田風太郎にはそんな滝沢馬琴にシンパシーがあるのか、滝沢馬琴の創作過程と『八犬伝』のプロットを組み合わせた『八犬伝』という作品もあります。
 では、本題にでも。
 本質的なことを指摘します。両者ともに【江湖】を描いているということです。【江湖】とは、武侠用語と誤解されておりますが、本来は【官(=廟堂)に対する民衆の世界】という意味です。
「廟堂の高きに居りては、則ち其の民を憂い、江湖の遠きに処りては、則ち其の君を憂う」(范仲淹『岳陽楼記』)
「為政者は、民のことを気にかけねばならない。民は、遠い場所にいようと、常に為政者を気にかけねばならない。」

〔(管理人)「民は、遠い場所にいようと、常に為政者を気にかけねばならない」というのは、范仲淹の文章の解釈としては小檜山氏の誤訳であろう。あるブロガーは「役人として朝廷で高位高官の職にある時には、常に民草の事を心配し、逆に江東地方の僻遠地に左遷された時には、我が君の事を心配するのである」と訳している。『廣漢和辞典』(中776)では【江湖】には「∪ご屐世の中D廷に対して、いなか・民間・地方をいう。隠者武士の住む所」とあり、ここではの意味であろう。なお、小檜山氏は「民衆」という意味で【江湖】の語を用いているようだが、【江湖之人】という言葉があり、「民間の人。在野の人」の意で『漢書』「皇甫規伝」に用例がある。〕

 これはなかなか便利な分類です。
 例えば、Amazonプライムの『ザ・ボーイズ』は、アメリカを仕切る大企業ヴォートなる【廟堂】の住人であるヒーローたちと、ザ・ボーイズという【江湖】の住人の戦いを描いていると定義できますね。

〔(管理人)【廟堂】が舞台か【江湖】を描いているかによって歴史小説を分類すること自体は、いずれとも分類し難い作品の存在も忘却しない限りにおいて、有用かもしれないとは思う。しかし、以下に小檜山氏が述べているところを見れば「【廟堂】舞台作品=劣」「【江湖】描写作品=優」という評価がなされているようである。そのような評価を不可避的に伴うのなら、この「分類」はむしろ有害である。〕

 山田風太郎の忍法帖は、忍者の世界です。武士にもなりきれず、中途半端な忍者。彼らは権力者の道具として使われ、相討ちし、惨殺されてゆきます。
 戦国時代を描いていても、無批判な【廟堂】賛美はしません。豊臣秀吉を主役に据えた『妖説太閤記』では、秀次に殉じて死んでいく女性のことを、一人一人描いてゆきます。彼女らは作品中で名前を得て、また死んでいくのです。この作品は秀吉を賛美するものではなく、権力者の惨さを徹底して描いてゆきます。
 幕末になると、さらに対比が強烈になってゆく。幕末ものは、武士の権力争いに巻き込まれる博徒や、民衆が描かれます。明治維新革命論を壊し、汚れ仕事を押し付けていた欺瞞を暴く、暗い問題提起があります。
 明治ものは、賊軍扱いされた会津藩出身者、囚人、女性……権力から遠ざけられた人々に目線が定まっています。
 最晩年の室町ものでは、【廟堂】側にうつり、権力者を解剖する目線があります。
 私は山田風太郎の作品が、司馬遼太郎に劣るとは思わない。知識にせよ、文体にせよ、両者ともに極めて巧みである。それなのに、山田風太郎はイロモノ、ゲテモノ扱いをされる。

〔(管理人)Wikipedia【司馬遼太郎】の項には「1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。」と記されている。〕

 読んでいると知られただけで、そんなものやめろと何度言われたことか。苦笑を浮かべつつ、そんなものより司馬遼太郎を読めと言われたことか。これは金庸にせよ、他の作家でもよくあった話ですが。
 誰かにすんなりと、「これを読んだ方がいい」という理由で、本を勧められる。そういう明快な方って、うらやましいとは思う。私は万人に自信を持って薦めたくなるような本は、知りませんので。

〔(part20・019)小檜山氏のように「司馬遼太郎のファンを頭から馬鹿にする文章を書く」くらいなら「これを読んだ方がいいと本を勧める」方が無害だと思う〕

 私が司馬遼太郎を読んだことあるかどうか、そこが気になりますか?そんなこと、どうでもいいでしょう?だって、これを読んだ方が賢くなれると私にアドバイスをしてくる司馬遼太郎ファンの皆様は、その点を確認しませんでしたから。彼らにとって、私は愚かでお説教すべき存在だったこと。そこが重要ではありませんか?

〔(part20・020)小檜山氏自身が司馬作品をあまり読んでいないことを自白しているようにも見える。
  また、小檜山氏に司馬作品を薦めた人が彼女の読書経験を確認していなかったとしても、
だからといって、現に司馬遼太郎を批判している彼女が司馬作品を読んできたか否かにつき「どうでもいいでしょう?」ということにはならない〕
〔(part20・023)叩くなら普通読み込むだろう。それやらないでうわべだけで批判するから軽蔑される〕
〔(管理人)小檜山氏は2020/02/07付け(コメント欄の記載から2017/10/05以前の初出と思われる)で『武将ジャパン』に「『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読み幕末史実をキッチリ確認すると……」(魚拓:https://archive.is/9DMIQ)という記事をアップしている。彼女は同記事で以下のように述べているが、これによるとかつては司馬作品の愛読者だったようである。その割にはこの論稿中に司馬作品からの引用が見られないのは奇妙である。
──【引用開始】──
  私も彼の作品は愛読していました。寝る間も惜しんでむさぼるように読みたくなる、圧倒的なおもしろさがありました。
   ところが現在になって彼の著作を読み返してみると、何か違和感をおぼえてしまうのです。引っかかってよくよく調べてみると、彼の著作に書かれている「史実」はまったくの創作であったとわかるわけです。
──【引用終了】── 〕

 どうして山田風太郎は、バカにされるのか?
 エロいから?それはあるでしょう。山田風太郎はメディア化へのチェックがゆるい。ないに等しい。『忍法帖』はエロ時代劇の定番として定着しました。
 ただ、これは指摘しておきたい。昭和の歴史および時代小説のステルスエロ率は何なのか?真面目なタイトルと装丁、作品紹介なのに、延々と大名が側室とエロいことをする場面が続く。その手のものは、時間を返してくれと言いたい。そういうBLもあったっけ。それをふまえますと、自作はエロだと言いきって嘘をつかないだけ、山田風太郎は良心的です。
 じゃあ、エロ以外に理由があるか? ええ、そこに気づいてしまった。
 【江湖】、民衆視点だから「低劣なもの」とされたのではありませんか?

〔(管理人)以下の小檜山氏の記述について、後記注釈のため、(a)〜(f)の記号を付ける〕

 (a)『麒麟がくる』を見ていて、駒の出番は飛ばすと堂々と語る人。
 (b)朝ドラヒロインが自立を目指すと、「この生意気なバカ女!」と口汚く罵倒し、「こういう良妻賢母になれない女は、社会を困らせるからどうかと思う」と言い出す視聴者。
 (c)労働者でありながら、経営者目線に立って、「困るんだよな」「バカか」とストライキを冷笑する人。
 (d)フラワーデモは「法律を知らないバカがしていることです」と冷笑的なことを書き込む法曹界の人。
 (e)「歴史はただの豆知識」と言い切り、歴史の教訓から否定された非人間的なアイデアを、得意げに語る理工系の賢いらしい人。
 (f)エンタメに政治的な主張や批判的な目線はいらないと、作り手目線でポリコレを罵倒する人。

〔(管理人)(a)その人がどういう理由で「駒の出番は飛ばす」のかを説明しなければ、「【江湖】、民衆視点だから『低劣なもの』」としたのかどうか、分からない。
  (b)男女協働という観点からは問題があるとしても、「【江湖】、民衆視点だから『低劣なもの』」に直結するとは限らない。
   むしろ「朝ドラ」は自立していくヒロインの姿を描くことが多いところ、あえてヒロイン像に批判が集中する場合は「自立するまでの過程」が共感を喚ばないケースが想定される。
  (c)1970年代まで頻発していた旧国鉄のスト等を経験しておれば、むしろ国鉄以外の労働者こそストによって困っていたといえる。まさしく【江湖】の問題であった。
  (d)指摘が具体的でないので分からないが、性暴力の加害者と呼ばれた人間が真に犯罪者であるとは限らず、冤罪防止という観点からは法曹の意見にも耳を傾ける必要もあろう。
  (e)指摘が具体的でないので分からないが、理系の人間は文系の人間よりも過去の失敗事例を学んでいることがある。理系は文系よりも相対的に失敗か否かの判断がつきやすいので、失敗事例も把握しやすいからである。
  (f)「表現」を制約するとしてポリコレを批判する者は多いが、ポリコレへの反発と「エンタメに政治的な主張や批判的な目線はいらない」という主張とは直結するものではない。〕

 ヴィーガンに見せつけるためだけに、焼肉画像をSNSにあげる人。
 献血ポスターへの抗議だけで、強烈な反応をして、皮肉ったフェミニスト批判をずっとSNSに書き込んでいる人。
 人々の声で世界を変えたい。グレタ・トゥーンベリさん、石川優美さん、署名活動を始めた女子高生。そんな人たちを延々と、世間知らずで生意気だと、しつこくずっと叩いている人。
 大坂なおみさんと伊藤詩織さんがTIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたことで、不愉快になっている人。
 「空気読めば」「意識高いね〜」が口癖の人。
 コロナが猛威を振るう現実を前にして、人命より経済だと言い切る人。
 私に対して「なんだこのパヨクがw」と冷笑気取りの人。そう、そこのあなた。左翼もクソもない。私はただずっと【江湖】の住人です。VR【廟堂】住人であるあなた達とは違う。
 何も、彼ら全員が司馬遼太郎ファンだとは言いません。けれども、司馬遼太郎の創作ありきの信長像や竜馬像を元にした作品を、鑑賞なり愛好しているとか。
 親、恩師、上司が司馬遼太郎ファンで、その話を聞いているとしたら?
 ならばこの社会の一員です。現代日本で、司馬遼太郎の影響抜きで生きていくことが可能かどうか? ましてやそれが歴史がらみならば?
 それが社会というものなのです。よほど強固な自我でもないかぎり、かなり難しい話だ。
 社会に溢れる皮肉った笑みに、私は見覚えがある。【江湖】をくだらないと失笑し、【廟堂】にいる権力者の目線でだけ世界なり歴史を語れと言ってくる人に共通する何かが。

〔(part20・022)「小檜山氏が不快な物、気にいらない存在」はみ〜んな司馬遼太郎が悪いらしい。「今の社会は皆司馬遼太郎の影響を受けているから、『駒の出番は飛ばすと堂々と語る人』がいるのも司馬遼太郎が悪い」ってメチャクチャな理屈だと思うが。こんなものを書いているから馬鹿にされると言うのに。私小檜山は、【江湖】を馬鹿にし【廟堂】の歴史ばかり大切にする司馬ファンより上の人間なのよッ!!と言いたいらしい(そういう事が文章ににじみ出ているから、人に嫌がられてボッチになるというのに)。〕

 よいもの。売れるもの。みんなが好きなもの。そうしたものは無謬で正しく残量。それを愛好する自分またそうであると、確信を込めた笑みです。
 【廟堂】でなくて、“王道”という言葉の方がよく使われますかね。
 「これぞ王道!」
 そう小鼻を膨らませ、自分の好きなモノを勧める人。その自信が、ああ、うらやましい。
 でも、いつまで【江湖】をバカにしているんですか?もったいない話です。【江湖】の歴史こそ、教訓の宝庫なのに。
 徴兵制度の是非。権力者だって、民衆の力を動員せねばどうにもならないこと。踏みつけにされた人々の痛み。そこから逃れた痛快な話。為政者の気まぐれで翻弄されるデメリット。為政者側をいかにして打倒し、社会を変えていくか?
 その結果が積み上がっていて、声だってたくさん詰まっているのに。おもしろい話がたくさんあるのに。そこから目を逸らして、偉そうな顔をすると。
 【江湖】を軽視すると、社会はどうなるのでしょう? サンプルはあります。
 時代劇。日本にはかつて、【江湖】を描く大衆向けの民放時代劇がありました。けれどもそれも消えてゆき、【廟堂】を描く大河だけになった。その結果、時代劇そのものが沈没気味です。
 まだまだありますよ!そんなもん妄想でしょって言いますか? まあ、そうなりますよね。ただの妄想で済ませられたら、よかったけど。
 まだ、続きはあります。【江湖】軽視の弊害はまだまだありますとも。

─【時流】─
 さて、今までのものは前置きです。ただ、前置きにも意味はありました。
 世界では、稗史重視、【江湖】、民衆視点で描く時代ものが主流となっているのに、日本だけがガラパゴスでいると危険だということです。
 藤沢周平のような、武士の悲劇に翻弄される作品や、しっとりとした市井ものにも魅力はあるけれども。やはり、どうしても日本の時代もの、歴史ものは何か齟齬がある気がしてなりません。

〔(管理人)ここで藤沢周平の魅力に触れるのなら、司馬遼太郎が時代小説界に君臨しているという議論の前提が危うくなるのでは?方向性は違うが稗史的というなら池波正太郎も該当するだろうし。〕

 いいじゃん別に、日本人さえ楽しければいいでしょ! 無理に海外と比べるな、って?
 それもどうでしょう。現実を見れば、日本という市場そのものが収縮している。先はない状態です。お前には日本の時代ものや歴史ものへの愛がないと言われれば認めます。そもそも日本のベストセラーリストはチェックしていませんが。
 嫌みたらしいことはそろそろやめにしまして。さて、そろそろ本題に入りましょう。

【時流】●小見出し・【まくら】勢いっちゅうもんがあんねん
あんな、戦いが上手な人ちゅうのは、戦いの勢いによって勝ちを求めとるわけや。人材? 能力? せやのうてな、まずうまく、人々の本性みたいなもんを引き出して載せて、流れ通りに従わせとんねん。
 勢いのままに任せ、将としてが兵士を戦わせるっちゅう有様は、木や石をころがすようなもんやね!
 木や石は、平面に置いておけば静かなもんやけどな。
 せやかて、傾いた場所ではガーッと動き出すやろ。
 周り囲っといたら動かへんけど、トラックに置けば走り回るやん?
 そうやって巧みに兵士を戦わせるわけやね。その勢いちゅうもんは、千切の高い山から丸い石を転がしたほどになんねんで!これぞ、それが戦いの勢いってやつや!
   故に善く戦う者は、これを勢に求めて人に責めず、故に能く人を択びて勢に任ぜしむ。勢に任ずる者は、其の人を戦わしむるや木石を転ずるが如し。木石の性は、安ければ則ち静かに、危うければ則ち動き、方なれば則ち止まり、円なれば則ち行く。故に善く人を戦わしむるの勢い、円石を千切の山に転ずるが如くなる者は、勢なり。(『孫子』「勢篇第五」)

 いきなり『孫子』かよ!
 個人的な話ですが、何かうまくいかないときがあると、『孫子』を開ます。
ビブリオマンシーちゅう「書物占い」ちゅうもんもあるそうですけれども。発祥元では文学や聖書使うそうですけれども、ワイは『孫子』。で、これにも意味はあるのです。

【時流】●小見出し・司馬遼太郎が国民的作家である理由とは?
司馬遼太郎が国民的作家になったのはなぜか? 自分なりに、心当たりを考えてみましたし、エライ方の意見もざっと読んでみました。
 でも、あまり具体性がない。
 ・自分がともかくハマったから!
 ・読んで楽しかったあの思い出!
 ・周囲のみんなもおもしろいと言っているから!
 ・言うまでもないだろう!
 ・だってともかくすごい! すごいからすごい!
 おもしろくて素晴らしいのは自明の理。座談会なりなんなりしていると、自分がこれだけ司馬遼太郎を理解したマウント合戦になっているというか。ファンダムあるあるではあります。
 
〔(管理人)いや、こんな単純なことを語っている「エライ方」が現実にいるのなら、出典を示してほしい。〕

 でもこういうファンダムって、批判した誰かがいれば弾き飛ばして、どんどん聖典にしてしまうところはある。【エコーチェンバー現象】です。そりゃ、誰も司馬遼太郎批判なんてしなくなりますよ。
 司馬さん、司馬さん、司馬さん……そうエライおじさんたちが語り合っているところで、彼を否定するなんてできます?
 いわば、日本はもう司馬遼太郎は褒めることこそ、【空気を読む】ことになっていると。けれども、この空気の醸成に至るまでには、何かがあったはずなのです。

〔(管理人)司馬ファンの「エライおじさんたち」が和気藹々としている中では、司馬批判をしにくいという現実はあるだろうが、無条件に司馬を褒めることが空気を読むことだなんて、どこの平行世界の日本の話だ?〕

【時流】●小見出し・武士道が日本人を変えたって?
 前回、金庸のところでも書きましたが、第二次世界大戦後、GHQは武士道を称賛するフィクションを禁止しました。それはやりすぎではないかと私も思っていたことはありましたが。懸念は理解できるところではあります。
 武士道をモチーフとしたフィクションは、日本人の精神を変えました。
 ひとくちに武士道といっても、鎌倉時代、戦国時代、江戸時代、それぞれ異なります。下克上もありえた戦国時代の武士道は卑劣とされ、江戸時代には変質していったのです。

〔(管理人)武士道が変質していったというより、平安後期以降「武士道」という特定の思想が一貫して継続していたと考えているような人物は相当な歴史オンチであろう。
  ちなみにWikipediaでは「武士道とは、日本の近世以降の封建社会における武士階級の倫理・道徳規範及び価値基準の根本をなす、体系化された思想一般」と述べている。〕

 明治維新を迎えると、政府としてはこれからは徴兵制の時代だと制度刷新に挑むわけです。とはいえ、フランス革命と明治維新は異なります。徴兵制は明治の人々にとって、嫌なものでしかありませんでした。

〔(管理人)フランス革命期の人々にとって、徴兵制は嫌なものではなかったのだろうか?〕

 陰部に漆を塗りたくる。破傷風にわざとかかる。指を欠損させる。さまざまな手段を使い、徴兵回避を試みたのです。
 それが十五年戦争の頃にもなると、徴兵検査で落ちることが屈辱そのものになってゆく。そこには、社会の雰囲気を形成するさまざまな手段があったことは確かでしょう。童謡、童話、絵本、小説……先祖が武士ではなかった日本人でも、武士道が刷り込まれてゆくのです。
 その材料として、武士道ものが用いられたことは確か。ゆえに、禁止された。
 禁止されたところで、日本人は読みたがります。中国古典を題材とした時代もの等で凌いでいたあとに解禁されれば、それはもう貪るように時代ものに食らいつくわけです。
 それは何も、司馬遼太郎一人のことではないけれども。彼は、“水路”を見つけることが抜群にうまかったのだと理解できてきました。

【時流】●小見出し・軍歌が青春だったひとびと
 いちばんの水路は何か?
 それは、司馬遼太郎と同年代の人々が刷り込まれ、琴線にふれるものである。かれらの世代は、十五年戦争で多数が兵士として死んでゆきました。
 それでも、青春時代をそんな戦争の中で生きていたことは確かなのです。
 カラオケに行くと、【軍歌】というカテゴリがあります。あれがどうにも理解できなかった。何が悲しくて、『月月火水木金金』なんて歌を熱唱しなくちゃいけないのか?そうギョッとしたものですが、理解はできるようになりました。
 青春時代を振り返るとき、軍歌しかない世代はいたのです。だから歌うしかない。朝ドラ『エール』では主人公周辺の軍歌どっぷり時代をゴニョゴニョ誤魔化していましすが、セコい話です。彼らが鼓舞して、兵隊さんの背中を押したのは事実でしょうに。

〔(part20・39)今まさに『エール』でそこを描いていると思うんだが。小檜山氏(武者氏)には「主人公周辺の軍歌どっぷり時代をゴニョゴニョ誤魔化している」に見えるのか?〕

 軍歌を聞くだけで嫌気がさす人もいれば、軍歌を高らかに歌い、靖国神社に軍服を着て参拝する元兵士もいる。戦地での経験をエキサイティングに語る人もいる。
 そういう戦争青春エキサイト層は、便宜上隠されていたに過ぎません。教科書に掲載されない。本にもならない。だから、隠されてしまう。
 以前、ある村の文集を手伝った方の話を聞きました。なんでも中国戦線での生々しい思い出を、意気揚々とつづっていたと。
 恐ろしい話ではある。
 戦争体験者の遺品が、メルカリで売られていると言います。だって仕方ないじゃないですか。民衆が語る歴史の価値、語り継ぐことの重要性なんて、知らずに習わずに来たら、遺品なんてただのガラクタになるでしょう。そうして記憶は消えてゆくのです。

〔(管理人)その「戦争体験者の遺品」を具体的に説明しなければ、意味のない批判である。〕

 のみならず、敢えて意図的に燃やした話も聞いたことがあります。おぞましくて見ていられなかったという日記と遺品アルバムのことを語るとき、その人の目は暗かったものです。家族がおそるおそる日記やアルバムを見返すと、耐えきれないことがあるのです。
 戦争が終わりました。GHQが指導しました。日本人は全員、平和を愛する民になり、きっちり反省しました!……そう思います?
 そんなに甘い話のわけがない。かつては、興奮した元兵士の自慢話を聞いてしまい。下の世代もいろいろ察するところはあったわけですが。時代がくだれば、そうでもなくなってゆくのです。
 あんたは何の話をしているんだ? 司馬遼太郎の話をしろ、そういうヤバい戦記、日帝擁護論なら別の……そういうツッコミはありますよね?
 はい、それはそうです。じゃあ、話を元に戻しますよ。

【時流】●小見出し・”水路“をさがせ
「そうだ。あの戦争は過ちだった……」
 表面的には、大多数の人がそう思ったけれども。彼らが幼少期から終戦まで、親しんできた娯楽を求める欲求はあるのです。
 だからこそ、軍歌をバンバン作った、古関裕而なり古賀政男の曲調にコロリと参ってしまう。そういう曲調に馴染んでいるのだから、彼らが平和やスポーツ応援歌を作ったら、そりゃもう聞いてしまうわけです。彼らは才能はあるし、馴染みがあるのだから。
 前歴?いいんです。彼らは反省している。何も作曲を全放棄しなくてもよいのだ。そうなるのでしょう。 
 けれども、人々が胡散臭さに気づいていたのではないかと思われる節もあります。
 戦時慰問で反抗心を見せた渋谷のり子は、日本歌謡界に否定的な発言をしばしばしていました。
 杉本苑子は、東京五輪開会式を見て学徒出陣を連想しました。
 古関裕而は国民栄誉賞を辞退。
 古賀政男は晩年宗教に夢中になり、自分のメロディーを聴いている限り、日本人は幸せになれないと言い残している。
 こういう歌謡界と同じことを、司馬遼太郎もしたのではないか?つらつらとそう思えてきたのです。
 むろん、司馬遼太郎は賢いから、そう簡単にどす黒い水路の蓋を開けるようなことはしなかったことでしょう。賢い者とは、誰にも気付かれないようにそっと、罠を仕掛けるものです。
 疑念をひとたび抱けば、私は止められなくなった。
 どうして日本の歴史フィクションは、こんな第一次世界大戦前のようなところで、足踏みをしているのか? 民衆目線のオーラルヒストリーを取り上げる『この世界の片隅に』が、さも斬新であるかのように喧伝されているのか?
 祖先の苦難を忘れまいと語り継ぐ他国の人に対して、「反日だ!」「日本を貶めるつもりか!」といきりたつのか?
 「ひろしまタイムライン」で、無様な失敗をするのか? 『麒麟がくる』での駒がしつこく叩かれるのか?
 そこで、時計を巻き戻してみることにしました。『坂の上の雲』日露戦争です。
 あの戦争は、秋山兄弟のような人の活躍ありきで勝てたわけではない。英米の思惑やバックアップと資金援助。幕末以来刷新してきた新兵器。ロシアの内部崩壊と遅れた戦術。そうした要素で勝利できました。時代の”勢“に乗ったわけです。
 けれども、日本人にそう伝えるわけにはいかない
 講和がなると、新聞社が弱腰だと政府と軍部を叩き始めました。日本人は、日露戦争のやり口に納得できない。日比谷焼打事件まで起こり、政府は対策を練る必要性を痛感します。
 マスコミの制限。
 言論の自由を封じる。
 精神論の吹聴。
 けれども、世界中は日本を持ち上げ始める。
 ポスト日露戦争時代の“知性”とは、かくして始まります。そしてこういう“水路”に、日本人の精神という水を流していくと。
 日本人は民族的に優秀だ。
 日本人は野蛮なアイヌだの琉球人を教え導かねば。中国や朝鮮の連中もだ。なにせ、我々はアジアの他国とは違うのだ。女の言いなりになる惰弱な連中ともむろんちがう。
 そんな日本人の頂点に立つのは、偉大なる薩長の人々である。松下村塾は最高だ、薩摩の人々だって。そうだ、坂本龍馬も素晴らしい!
 徳川幕府?あれは愚かな時代だった。徳川家康には魅力も何もない。むしろ日本人が称揚すべき英雄とは、豊臣秀吉であり、織田信長なのだ!
 そう、日本人はすばらしい。何せ織田信長は、中国由来の知識なんぞなく、西洋人のような知性があったのだ。脱亜入欧こそ。日本人の真髄である!
 だからこそ、日露戦争にも勝利した――。
 なんちゅう時代錯誤だ!そう思います?
 でも、これって司馬遼太郎の小説の背景にある思想ではありませんか?
 反論は想像できます。ええ、司馬遼太郎は中国古典を題材にした小説もあるし、そんな雑に脱亜入欧は出してこないし。幕末だって、新選組なり会津藩を称揚する作品がありますよね。
 戦前の日本は、アジアの盟主だという思想がありましたからね。中国古典由来の知識は、むしろ吸収していたのですよ。愚昧なあいつらよりも、素晴らしい日本人が活用すべきだ。そんな上から目線でそうしていたのです。
 道具って、何事も意図と使い方次第ですからね。戦前は“朝敵”会津藩だって、ある文脈では褒められたことあるんですよ。白虎隊が国に殉じた精神性は美しいってことで。
 あの「ひろしまタイムライン」だって、企画そのものは悪くない。雑で悪い意図が背後にあったことが問題ですから。
 何の道具を選ぶのか。そこよりも、その道具を、どんな心と意図で使ったか? そこを見ていかないと。

【時流】●小見出し・水路ではなく、激流をくだること
 司馬遼太郎は、知識も筆力もある。もちろん運も。そして何より、勢いを知っていた。自分と同世代の人間の心に響く水路にGHQが被せた蓋を剥がし、進路を変えて、そこに導けば、勝てるとわかっている。そういう戦上手だったと。

〔(part20・042)この【水路】というのが今一よく分からない(というか、司馬遼太郎を真面目に読んでいない人のレビュー(?)がよく分かったら逆に恐いかもしれない)〕

 さすが司馬さん!
 そう言えたらよいのですが。ポスト日露戦争の思想が、日本人を押し上げて、頂点から突き落とし、どれだけの損害を与えたか、彼が知らなかったはずがないのです。
 そこを踏まえて、自分の栄誉なり利益のために、この水路を使ったのだとすれば?
 そしてその結果、成れの果てが、目の前にあるとすれば? 第二の敗戦だなんて、言われてしまう、このコロナ時代が、その果てだとすれば?
 やっとここまできました。まだ山も半分、どうか何卒、おつきあいください。
 水路をゆくどころか、激流くだりの気分だけれども。それはそれで、エキサイティングではありますから。

〔(part20・042)読んでいない作家のレビュー(?)を書くのが「激流くだりの気分でエキサイティング」って良心が痛まないのか?いや、小檜山氏にそんなものあるはずがないのだった。〕

─【“将”だけでは勝てない】─
 日本人が日本の英雄を愛して何が悪いんですか?
 今回、そういう反論があることは、予測しておきます。
 けれども、個人英雄崇拝をしているばかりでは、はっきり言いますが古く、かつ危険です。過度の個人崇拝思考は、人々を堕落させる罠ではないかと思ってしまうほど。
 妄想でもなく、理由はあります。

【将】●小見出し・【まくら】国の大事には要素っちゅうもんがあんねん
 戦して勝つちゅうんは、まぁ、楽なこっちゃないでぇ!そこを間違えたら滅びてまう。よーく考えることやね。
 だからこそ、まずは5要素分析していかなあかん。
5要素っちゅうんは、第一は道、第二は天、第三は地、第四は将、第五は法やで。

  孫子曰く、兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の情を案む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法なり。(『孫子』「計篇第一」)

【将】●小見出し・ナポレオン戦争はなぜ?
 このシリーズでは、しつこいまでに個人崇拝は時代遅れであり、危険だと指摘してきました。それに滑稽でもあります。
 スターリン。毛沢東。金正日。こういった共産主義者の偶像崇拝はさんざん茶化しておいて、自国にそれを適用しないとなれば、ただの恣意的な話です。
 愛国心のために、自国の英雄を求める気持ちは普遍的なものです。けれども、人類はその危険性と愚かしさを理解したからこそ、変革したのです。
 世界史的に言えば、ナポレオン戦争が転機です。
 フランス国民は、偉大なる皇帝ナポレオンに心酔していたことは確かです。一方で、宿敵のイギリスは皮肉な見方をしていました。
「ボナパルト?(イギリス人はナポレオンをこう称しました。ファーストネームで呼ばないことで、皇帝だと認めないのです)ああ、革命って宝くじを引いた奴な」
 何もイギリス人お得意の嫌味というわけでもない。強さの秘訣は、理解されていました。
 フランス革命初期、フランス軍は各国から包囲され大敗を喫し、国家存亡の危機に立たされます。そんなフランス軍を救う軍政改革をしたのが、革命政府のカルノーでした。数学者としても名高い彼の組織編成は絶大な効果を発揮し、革命軍は猛威を振るうようになります。
 革命はフランス軍を変革しました。庶民の息子でも将としての道が開かれ、実力によって出世を遂げる者が出てきます。徴兵制度で集められた兵士も力強く戦い、ヨーロッパを席巻してゆきます。
 ボナパルトが強いわけじゃない。フランスは改革を成し遂げただけ!ま、その“だけ”見事なんだけどね。
イギリス人としてはそう皮肉り、かつ自軍編成も見直すことにつながってゆきます。陸軍の階級は金銭売買されていたものの、海軍はそうではない。アッパーミドルに属するネルソン提督のような人物が、最強の海軍を作り上げていたことを彼らは知っていました。
 ナポレオン戦争絡みのうんちくはいいからさ。そういうツッコミはあるかと思いますけれども。ちょっとおつきあいください。
 ナポレオンという個人ではなく、彼に象徴される時代にあった変革こそが、注目すべき要素であるとされているのです。孫子の理論で分析すれば、こうなると。
  一に曰く道:民衆と政府の目標を一体化させる政治のあり方。革命以来の一体感がある。
  二に曰く天:時節の巡りあわせ。18世紀末の革命時代とはまさしく運命的。
  三に曰く地:土地の状況。ナポレオンが下り坂になる半島戦争も、ロシア遠征も、気候的にそれまでとは異なる。ナポレオンの戦争は、フランスと気候的に近い戦地でこそ猛威をふるっている。
  四に曰く将:ナポレオンと元帥以下、名将揃い。
  五に曰く法:ナポレオン法典等の整備。
 “将”のありようだけで強かったわけではない。ここが重要なのです。

【将】●小見出し・西洋崇拝の時代
 そしてこのフランス革命とナポレオン戦争は、地球をぐるりと回って日本にも届きます。19世紀初頭――江戸幕府にまで、ナポレオン戦争の余波は到達します。
 それまで南下し、樺太やら蝦夷地を虎視眈々と狙っていたロシアがおとなしくなる。そして長崎出島には、突如イギリス軍艦がやってきた!【フェートン号事件】です。
「なんかものすごい英雄がいるらしいぞ……」
「何が起きているんだろうな……」
 ここで、幕府と蘭学者の間で争いが生じます。幕府は日本で百姓一揆が起きて将軍と御台所が斬首されたらおそろしいことだと、革命を隠そうとする。隠された蘭学者たちは、その隠蔽の下にあるものを探ろうとする。
 断片的にナポレオンを知った当時の人々は、いろいろ吹っ飛びました。ナポレオン戦争の戦地は日本よりはるかに広いし、動員人数も桁外れ。
 こりゃもう、川中島で盛り上がっている場合じゃねえな! そう焦燥感を募らせます。ワールドワイドな英雄の活躍に、大興奮してしまうのです。頼山陽はナポレオンを漢詩で称えるし、伝記も流通するし、ブームが到来するのです。
 幕末になれば隠すこともできず、思想的な影響もバンバン受けることになります。吉田松陰や西郷隆盛が有名ですが、幕臣だって学んでいます。勝海舟だって江戸に西軍が迫って来た際には、【ロシア戦役】の戦法を研究して撃退しようと考えていました。

〔(管理人)江戸焦土化という話があったのは聞いたことがあるが、それがロシア遠征を参考にしたというソースは何か?〕

 ナポレオン戦争以来、日本人は西洋に学ばなければならないと痛感していました。
 幕末の難局を乗り切った英雄たちは、上杉謙信や武田信玄を見習ったわけではありません。そういう人もいたかもしれませんが、「ルーツとしてはそうだけど、そこを守っても今時勝てないでしょ」となります。
 ナポレオンになろう。ネルソンになろう。アレクサンドル1世になろう。そう皆が西洋に学び、装備も取り替えて、時代の変革に挑んでいきました。

〔(管理人)それが小檜山氏の嫌いな脱亜入欧の一側面でもあるわけだが。〕

 そうなれば、民衆動員も当然のことながら行います。これは維新側だろうが、幕府側だろうが、同じことです。
 むしろ、治安悪化が早かったのは関東地方であるぶん、身分に関わりない民兵組織は将軍様のお膝元の方が早かったのではないかと思えるのです。新選組にせよ、天狗党にせよ、身分を問わずに戦えたからこその存在です。
 松下村塾や奇兵隊を、身分に関係ない画期的なものであると誘導するのは無理があるのです。身分を問わずに徴兵し、先頭動員することは、世界史的な流れの中で見られた現象であり、日本は急ピッチでそれを進めました。それは維新側も幕府側もそうでした。

〔(part20・063)天狗党って身分に関わりない民兵組織とは言えないような・・・。天狗党ってコトバンクにも「水戸藩で下級藩士を主体に結成された改革派グループ」とあるので「身分に関わり」あるだろう。しかも新選組も天狗党も「徴兵」じゃないし。小檜山氏の嫌いな長州藩の物である「松下村塾や奇兵隊」を貶めたくてトチ狂ったのだろうか?〕

 日本の英雄を貶すわけではないけど、これからは西洋の英雄なり、技術なり、思想だ。日本は冷静にそう分析し、舵取りをしたからこそ、危機を乗り切れました。坂の上にある雲とは、西洋のそうした要素かもしれませんね。
 そう、それができたのです。日露戦争までは……。

【将】●小見出し・日本の英雄もスゴイ=日本人スゴイ?
 日露戦争において、日本は勝利をおさめました。
 しかし、勝利と言っても薄氷を踏むようなものであり、日本はさまざまな困難に直面します。
 経済面では常にギリギリ、福祉予算を切り詰めてなんとかしてきた。その綱渡りができたのは、各国の思惑あってのもの。イギリスが対露橋頭堡として日本をうまいように使ってきたことが大きい。
 ロシア革命、第一次世界大戦のあと、世界は変わってゆく。戦術や兵器の見直しもなされていく中、日本は開発が遅れていく。そもそもが、物量面で日本は決して豊富とは言えない状態でした。
 けれども、日本人は謙虚さを失っている。あの大国ロシアを倒したと意気揚々。言論の自由を解禁していたら、いろいろ困ったことになります。
 そこでポスト日露戦争時代に蔓延した“知性”とは、こういうものでした。
 日本人はともかくスゴイ! 世界を制覇できる特殊な民族だ!
 だからこんなスゴイ英雄もいたんだぞ!
 何を言っているのやら。そう突っ込みたくなりますが、史実なのでそこはみつめなければ。
 「魚を食うから日本は強い!」
 「英米の婦人参政権運動をみてみろ。あんな女房の尻に敷かれる連中は弱いに決まっている!」
 「日本人は草食だから!食料がなくとも進軍できる!」
 こうした日本人スゴイ論は、早川タダノリ『日本スゴイのディストピア』に詳しく書かれております。おすすめの一冊です。
 いいから司馬遼太郎の話をしろよ!そうなりますね。はい、お待たせしました
 「日本人は物量が足りなくても勝てる。なぜならば、織田信長こそ我らが日本人の代表だ。信長は、物量差がこれだけあるにも関わらず、今川義元に勝利した。信長をみならえば、我々だって鬼畜米英に勝てる!」
 どういう三段論法だ。ツッコミどころが満載ですね。

〔(part20・064)司馬遼太郎はそんな雑な三段論法を用いていたか?彼は「我々だって鬼畜米英に勝てる!」と言う人ではなく、むしろ、そういう考えを嫌っていたし、批判していたと思う。司馬は自分が戦争中に陸軍にいたせいか、特に「昭和の陸軍的な考え方」を非常に嫌っていたと思う。〕

 言うても、信長が物量差があるうえで大勝利したのは、桶狭間だけですよ。それ以外は、そんなギャンブルはしていないでしょ?
 三段撃ち論争はとりあえず横に置きまして。長篠だって、信長が大量に鉄砲を揃えていたことはそうでしょう?物量で勝ってるんじゃないですか?
 そう言いたくなりますよね。
 けれども、かつて『日本戦史』という、陸軍参謀本部がくちばしをさんざん突っ込んだ書物ではそういう論調でして。歴史を学ぶというよりも、歴史をネタにしたプロパガンダをやってしまった感はある。
 私がその奇妙さに気づいたのは、「慶長出羽合戦」における直江兼続撤退戦の評価をに疑念を抱いたことでした。
 あの撤退戦は、最上義光がリップサービスして褒めてはいる。伊達政宗は「最上衆弱い! 最上衆弱い!」としつこくバカにしている(ただ、政宗は義光をバカにする傾向が強いのでそこは差し引きましょうか)。
 けれども、華麗な撤退とは言えない部分もあると思えたのです。
 山形と米沢間はそこまで距離が離れていない。
 直江兼続は撤退できたとはいえ、上杉軍の将兵で投降、戦死した者は多い。
 フィクションでは、最上勢を多く、直江勢を少なく描写することが多い。前田慶次らの活躍には、水増しも感じられる。
 当時の屏風や軍記を見るに、直江だけが突出してすごいという扱いではない。
 そう思いつつ調べていると、『日本戦史』で直江が絶賛されているという記載がありました。ハハァ、なんだか尻尾を掴んだ気がするぞ。そう思ったわけですが。

〔(part20・068)全く司馬遼太郎に関係ないと思う。
  『日本戦史』は陸軍参謀本部が編纂したもので、そこで直江兼続の撤退戦争が取り上げられているという事は、日本陸軍的にその撤退線を評価すべきと思ったか、すでに直江の評価が定着していたからそれを取り上げたのか、ということであって、『日本戦史』はどう考えても時期的に司馬遼太郎の小説の影響は受けていないだろうと思うので、関係ないだろう。小檜山氏の主張は、彼女イチオシの最上義光が貶されて、直江兼続が持ち上げられているのが許せない!とかいう事だけでは?〕
〔(part20・079)国会図書館デジタルコレクションでは「関原役」記載した『日本戦史』は1911年刊行のもので、例えば下記に「第七十三 直江兼続大軍ノ指揮ヲ泉胤政ニ委任ス」の記載がある。
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/6
   https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771073/76
  文字が潰れている部分もあり、『日本戦史』は断片的な話を連ねていくスタイルのようなので、同書が「慶長出羽合戦」や「直江兼続」を全体としてどのように評価していたのかは簡明ではない。しかし、記述ぶりからみて小檜山氏も、『日本戦史』における「直江兼続」の評価を把握しないまま「参謀本部がくちばしをさんざん突っ込んだ」という事実(本当は「編纂」)から「尻尾を掴んだ」とハッタリをかましているだけだと思う。〕

 そういう違和感を覚えると、日本の歴史ものフィクションには引っかかることが増えました。将の力量でガーッとヒートアップして収めるタイプが多すぎる。
中国史を題材にすると食い合わせがかなり悪く、兵法書を真面目に読んでいるのかと思うくらい、根性ゴリ押し展開が多くてついていけなることがあると。
中国にせよ朝鮮半島にせよ、将自らが勇気をアピールすると「くだらんことをするな!」と怒られることが徹底しておりますので。

【将】●小見出し・英雄崇拝の果てには何がある?
 なんでこんなに、日本の歴史ものは、英雄や個人崇拝ばかりしているのだろう?
 どうして日本のえらいおじさんは、織田信長や坂本龍馬に感銘を受けたと語るのだろう?SNSのプロフィールに尊敬する歴史上の人物を書き、アイコンをその肖像画にするのだろう?
 そう思い、いろいろと探っていくと、高確率で司馬遼太郎につきあたると。
 司馬遼太郎と同世代の山田風太郎は稗史思考を表明する一方、司馬遼太郎は“第二の歴史教科書”として昭和の正史を作り上げてゆきました。気持ちがよいに決まっている。そりゃ、爽快に決まっている。いつから司馬遼太郎がそうなったかは、わからない。初期は稗史寄りの作品もある。転換点を探ることは、今はしませんが。

〔(part20・070)司馬遼太郎が「歴史教科書、正史を作っている」という自覚を持っていたとは考えにくく、小檜山氏の勝手な想像と思われる。〕
〔(part20・233)小檜山氏は山田風太郎を司馬遼太郎の対立軸的な存在としているが、山田風太郎もしばしば作中人物に織田信長への極めて高い評価を語らせている。〕
〔(管理人(一部再出))Wikipedia【司馬遼太郎】の項には「1958年(昭和33年)7月、「司馬遼太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。」と記されている。
  また、司馬が直木賞を受賞(1960(昭和35)年)した『梟の城』は実在の人物を交えながらも架空の忍者を中心とする話であり、「忍者同士のアクションシーンの描写が評価され」(Wikipedia【梟の城】の項)たという。
  よって「初期は稗史寄りの作品もある。転換点を探ることは、今はしませんが。」という小檜山氏の態度は極めて不誠実なものといえよう。〕
〔(part18・674)西洋史学者の会田雄次氏は『歴史小説の読み方』の中で司馬氏を次のように評している。
──【以下引用。ただし、括弧内は引用者】──
   ただ、『竜馬がゆく』はどこまで「歴史」小説といえるだろうか。・・(中略)・・・(竜馬の)具体的行動を語る史料は乏しいし、伝記としての空白部分を埋め合わせるところは無限に存在し、自由に構想し得る。司馬氏は非常に明るい、反権威的な自由人として竜馬像をつくりあげた。(以上28頁)
   ・・・(中略)・・・
   私が司馬作品で小説から本格的な歴史小説への移行の転機を作ったものとして一番中心に据えたいのが、ついで書かれた『国盗り物語』である。これは前編と後編に分かれているが、氏は前編で斎藤道三を取り上げた。・・(中略)・・(道三の)足跡、ことに前半生は杳として判っていない。・・(中略)・・時代を揺るがすような大変化、より正確にいえば商品経済の勃興を捉えた男として氏は斎藤道三を設定したのである。(以上29頁から30頁)
   ・・・(中略)・・・
   前編、と書いたが『サンデー毎日』に連載された『国盗り物語』は、当初これほど長くなる予定ではなかった。
   斎藤道三をのみ書こうと思い、題も『国盗り物語』としたが、途中で編集部が「もっと続けては」としきりにそそのかしたと司馬氏はのべている。
   革命児信長の先駆として斎藤道三を設定していたのだから、この延長は自然の結果ともいえるのだが、面白いことにこの続投こそが氏の小説歴の中での転機となったのだ。そう私はみる。
  後編の信長編は前編と、さらにはそれ以前の諸作ともすっかり変わった展開になっているからである。
   氏はそこで二つの大問題に遭遇することになる。ひとつ(※)は、初めて主人公の人間評価を内包する全伝記といった同時代の「史料」にぶつかったことである。(以上31頁)
   ・・・(中略。信長に関する現存史料や研究書の多さについての説明)・・・
   氏は史料批判をはじめ、ここで失礼な言い方をすれば、はじめて「歴史家」にならざるを得なくなってきた。そうでないと信長は料理できないのである。
   つまり、その人物の解釈について自由は多分に残されているものの、その行動でのフィクションの余地が非常に少なくなり、歴史「小説家」としては悪戦苦闘せざるを得ない対象にぶつかったということになる。
   『国盗り物語』が、同じ小説とは思えないほど後編での叙述が地道になって行くのはそのためではなかろうか。
  【引用終了。(※)もう一つの理由として会田氏が挙げているのは、信長が権力の頂点に立とうとした人物で、司馬氏がそれまでに取り扱った人物とは異なる類型であったこと】
  実際には『竜馬がゆく』と『国盗り物語』はほぼ同時期に並行して執筆されており、会田氏が言うほど違うのか?という気もするが、一つの見解として紹介した。〕

 江戸時代後期から日露戦争まで、日本は自国の英雄ではなく、西洋の英雄を見つめるようになった。その目線を日本の英雄に移してよいとされて、従ってきた。戦争で負け、GHQに規制されたところで、自国の英雄を求め、我々はスゴイと言いたい気持ちは変わらない。そういう“水路”に水をどっと流されたら、そこに心は向かうでしょう。
 司馬遼太郎とそのファンだけの話でもありません。
 日本の歴史観は、どっぷり英雄や個人崇拝に浸かりました。以前も取り上げましたが、『信長の野望』と『シヴィライゼーション』にある歴史観の違いは何でしょう?
 スマホアプリには、ともかく歴史上の人物を集めるものがあふれている。老将だろうが猛将だろうが、ロリロリ美少女にするのであれば、名前なんてどうでもいいと思いますが。上目遣いで裏声でしゃべる少女にされていても、どういうわけか英雄の名前がひっついていると。
 戦国武将、幕末の新選組隊士、維新志士と恋をする乙女ゲーも大量にあると。月代も剃っていないでホストそのまんまのスタイルならば、別に歴史上の人物を名乗る必要はないと思いますが。それでもやっぱり、ひっついている。
 こうなってくると、日本人は歴史上の人物名に何か特別な意識があると思わざるを得ない。スマホアプリの広告ならば、「孝明天皇と恋をするって、不敬罪怖くないのか?」と突っ込めば終わりですけれども。
 自称現代の織田信長だの、坂本龍馬だの。そういう人物と出会した際の厄介さはどうしたものだろう。いやいや、それだってまだしもマシだ。
 司馬遼太郎の小説で読んだ英雄伝説を否定すると、怒り出す人の存在とか。
 政策決定に関わるようなお偉い方が、英雄信仰にメロメロしているとか。
 自分の推し武将ライバル人物の伝記A○azonレビューに、「こんな悪党を褒めるなんて酷い!」と星ひとつが並ぶとか。
 日本史は苦手な私でも、その分野の本を読んでいると、フィクションと史実の混同を指摘する注意喚起はよく目にします。
 もうとっくに、深刻は弊害は、出ているのではありませんか?
 かなり前になりますが、ある歴史雑誌の記事を見て心の底から呆れ果てたことがあります。
 イングランドのエリザベス1世と、織田信長が戦ったらどちらが勝利するのか? シミュレートした結果、信長が勝利するというものでした。顔面蒼白になったエリザベス1世のイラストが、あまりに馬鹿馬鹿しくて印象深いものがありました。
 陸戦主体の織田信長。海戦で大勝利をおさめたエリザベス1世。強いにしても、条件が違いすぎて意味がわからない。李舜臣とドレークの対決ならば、まだ理解できなくもありませんが。
 シャカ・ズールーを織田信長にたとえる話も、正直理解ができなかった。軍事力を比較するにせよ、時代なり地域が違いすぎると無理がありますから。
 歴史論議が嫌いになっていったのは、こういうともかく自分の推しが強くてスゴイという方向性になるからかもしれない。だって、こういうスモールトークをしている時に、真顔で「前提条件が違うから比較になりません」と言ったら、空気の読めないただのバカじゃないですか。しみじみと、沈黙って金ですね。
 ……と、歴史論議を避けて愚痴でも書いていれば、平和だったのですけれども。そういうわけにもいかない。
 司馬遼太郎一人の責任ではないけれども、日本人が自分のアイデンティティアイコンとして、歴史上の人物をもちあげ推しトークみたいなことばかりしていると、絶対確実に蝕まれる何かがあります。
 現実世界においても、崇拝できるアイコンを求めると。香港の周庭氏を“女神”呼ばわりするとか。政治家の絵入りお菓子が並ぶとか。政治思想以前に、幼稚で、かつおそろしいと思います。
 そうやって持ち上げ、チヤホヤすることは、次のアイコンを見つけたら相手を引き摺り下ろすことと紙一重だ。諸刃の刃だ。チヤホヤして、実在の人物をおもちゃにして遊んでいる人は、その罪深さに気付けるのでしょうか?
 『坂の上の雲』をあらためて見直すと、ポスト日露戦争時代に誇張気味に“軍神”扱いされた人物を、リバイバルするように持ち上げていて、そこもひっかかりました。
 海軍の東郷平八郎、陸軍の乃木希典を“軍神”とした弊害を、司馬遼太郎が知らなかったとは思いません。作中で乃木希典をあそこまで悪く書いた理由も、そのへんにあるのではないかと思いますけれども。
 個人を崇拝し、英雄を待望する心。そういう気持ちばかりになると、社会は弱体化します。自己責任論に溺れ、黙ったまま、英雄になれなかった己を恥じて消えてしまう人が増えていく。
 もっとも、それを昭和の日本が望んでいたのではないかという疑いも湧いてきます。国民が自分の持ち力に無自覚でいた方が、為政者にとってはやりやすことは確かです。
 無力で、何もできないから個人を崇拝し、英雄を待ち望む――自分では何も変えられないと思いこむ。とても弱い国なり組織はかくしてできあがります。
 私たちは社会、歴史、そしてそれを形成するの意識の中に生まれ、生きてゆく。本能で動く?そこは疑った方がよいのでしょう。
 今、日本学術会議がニュースになっています。
 歴史学は関係ない?いや、歴史学なんてそのもののほとんどが軍事研究?
 どうでしょうね。愚かな私にはサッパリわかりません。でも、そんな私ですらわかることはある。
 ポスト日露戦争の時代、日本の歴史研究者だって軍の求めるままに歴史を引っ掻き回し、その影響は今だって払拭しきれていないわけじゃないですか。
 「また信長英雄論に振り回されているのか……」
 「何をどうすれば秀吉がナイスガイってことになるんだ」
 そう愚痴る原因があるとすれば、その辺ではありませんか?
 ちょっと個人的なことを書きますけど。私は何かあると『孫子』を持ち出すので、不気味な軍事マニア扱いされ、友達もしょっちゅうなくします。気持ち悪いから仕方ないよね!
 ま、それはさておき。どんな研究だって、やろうと思えば軍事につながりますって。だから、孫子もそう言っているでしょ。政治のありよう、法律のありよう。気候や地形の研究。人間心理の研究。
 何もかもが軍事につながるからこそ、そこは慎重になりたい。そう思ったからこその、あの声明ではありませんか?
 そういうことをキテレツ呼ばわりできる明快な歴史観や明晰な知性が、羨ましい限りではあります。
 ともあれ、話がずれましたが。ものごとの大事を構成する要素のうち、“将”ばかり拡大解釈し、それを広げた司馬遼太郎には問題があると思えるのです。
 まだ、続きはあります。申し訳ない。

─【歪んだ“三英傑”像】─
 野望といえば、信長。
 女体化といえば、信長。
 内閣総理大臣になるのも、信長。
 高校生がタイムスリップして入れ替わるのも、信長。
 そしてSNSで「現代の……」と名乗る人が好きなのも、信長。
 軍事的天才で、ともかく日本人が大好き。真っ赤なマントに西洋甲冑をつけて、月代を剃っていなくて、何よりもイケメン!それが信長です。
 そんな大人気の織田信長について、敢えてこう言いたい。
 織田信長の凄さはいうまでもありません。それはそう。けれども、どうして“三英傑”首位かつ戦国大名の代表が、織田信長なのでしょうか。別の信長をモチーフとしたあれやこれや、そうしたものをどうこう言うつもりはありませんけれども。
 そんなことは当たり前すぎて、疑念に思わなかった。西瓜が甘いように、日本人が織田信長を推すのは当然のこと。けれども、徳川家康の記事を書くために世界史視点から眺めて、異変に気づきました。
 海外では、徳川家康の知名度が一番高い。評価も高い。”Shogun”には、特別な響きがある。
 そんなこと、考えてみればごく当然のことだったのだけれども。

【歪んだ三英傑】●小見出し・その国の基盤を作った君主は高い評価を受ける
 イングランドのエリザベス1世。
 フランスのルイ14世。
 ロシアのピョートル大帝。
 清の乾隆帝。
 朝鮮の世宗。
 そして、日本の徳川家康。
 彼らは高評価を受けます。『シヴィライゼーション』でもプレイヤーが操る君主として、時に登場しますね。どうしてなのか?それはその国独自の文明や文化が発展した時代を代表しているから。今でも授業で習うような文化、芸術、規範、精神性。そうしたものの基盤を作ったとみなされているのです。
 日本人が、徳川家康よりも織田信長がすごいとプッシュしても、こうなることでしょう。

〔(管理人)家康より信長が好きだという人ならいっぱいいると思うが、家康よりも信長がすごいとプッシュしている人がどれ程いるだろうか?〕

 「織田信長は統一政権を担っておりませんからね。文化にせよ、道徳律にせよ。日本人が日本人たる基礎は、やはり徳川家康が築いた面はあるわけでしょう?全国を統一し、あれだけの長期政権を築いたのですから」 
 そこで三方ヶ原の焼き味噌だの、鯛の天ぷらだの、古狸だの持ち出しても、意味がない。人格だの、ロマンの話ではありません。
 海外の世界史人物辞典をみれば、そう評価されている。BBCの『ウォリアーズ』だって、世界史に名を残す将として徳川家康を取り上げ、「シーザーやナポレオンに匹敵する」とまで絶賛しています。
BBC版の関ヶ原ってイケてる?『ウォリアーズ 歴史を動かした男たち〜家康編』 https://bushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2020/01/13...
 もう、認めましょう!
 世界史的には、信長より家康が評価されています。いや、もっと正確に言えば、日本史上屈指の英雄評価です。

〔(part20・188)「世界では家康が評価されている。しかし日本では評価されているのは信長である。それは問題だ」との主張であるが、では「日本人が信長を評価することの何が問題なのか?」ということを、小檜山氏がどう考えているのかが全然分からない。これまでも小檜山氏(武者氏)はこんな感じの文章を書くことが多く、「○○が問題だーッ!!」とは言うが、「○○はどうして問題なのか」という事は説明できていない。〕

【歪んだ三英傑】●小見出し・なぜ、日本で家康評価は低いのか?
 じゃあどうして、本国で家康評価が低いのか?理由は割と簡単に到達できますね。
「『覇王の家』、なんだか、好きになれないし……」
 これが大きいのではありませんか? 司馬遼太郎の『覇王の家』。大阪出身であることを差し引いても、家康を描くのが嫌でしょうがなかった苦痛を感じるほど。なるべく突き放したいような、そんな出来です。

〔(part20・233)司馬遼太郎に大阪出身ゆえの豊臣贔屓的な心理があるとするなら、会津贔屓の小檜山(武者)氏が言えた義理かという話にもなるだろう。〕
〔(管理人)いや、『覇王の家』にそこまでのインパクトはない。〕

 山岡荘八版もあるから、バランスとしてはちょうど良い?どうですかね。
 とはいえ、私なんぞのぼやきはさておき、軒並みレビューは高評価です。家康研究になる。家康の性格がわかった……このあたりに、私はどうしたって危険性を感じます。
 世界史的には、信長より家康が評価されています。いや、もっと正確に言えば、日本史上屈指の英雄評価です。
 世界史の人物辞典には、当然のことながら家康の逸話やら性格には、そこまで注力しない。彼が築き上げた江戸時代の重要性を記す。それはそうなるでしょう。ピョートル大帝の抜歯趣味だの、乾隆帝と香妃のロマンスだの、真っ先に出てきます?そうはなりませんよね。当たり前のことです。
 そこを踏まえると、“家康の性格がわかる”らしい『覇王の家』が、“家康研究に役立つ”ものとしてとらえられている時点で、問題があるとご理解いただけるかと思います。
 そのうえで、日本のメディアの家康像を見ていくと、影響も感じる。地味で、古狸で、陰キャ……。

〔(小檜山noteへのポッペリアンのコメント)司馬に織田・豊臣好きの傾向が強く、三英傑観に影響を与えているという側面があることは否定しないが、それをもって現代人の織田好きに直結すると考えるためには、より詳細な検討が必要である。例えば「レファレンス協同データベース」(URL省略)には、下記引用のような記述があり、江戸時代から、徳川が上手く天下を掠め取ったという認識があった可能性が示唆されている。また、甫庵の『信長記』『太閤記』は流通しており、当時の支配者たる徳川政権に対する民衆の不満を吸収していた側面もあろうかと思われ、そのような傾向が昭和・平成の庶民に引き継がれていると考えることも必要であろう。
──【以下引用】──
   『近代日本漫画百選』(清水勲編 岩波書店 1997)p18-19「徳川を攻撃する諷刺画」に、「天保期あるいは嘉永期に生まれたと思われる落首にこんな作がある」として「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」が掲載されている。〕
──【引用終了】──〕

 そういう人物像ありきで、家康について調べていくと、違和感ばかりが湧いてきます。家康は西洋渡来の甲冑を身につけ、三浦按針ことウィリアム・アダムスを受け入れていた。
 人種差別をしない戦国大名といえば、これまた織田信長が筆頭としてあげられます。弥助への扱いに偏見がなかったというものです。けれども、それを言えば家康もそう。三浦按針に妻、屋敷や土地まで与えたからには、むしろ信長以上かも知れない。現代人からすれば、黒人と白人という違いが当然のことながら意識します。けれども、日本人からすればどちらも“異人”。どちらも身分は低かった。そこを踏まえれば、何か別の家康像が見えてきます。
 リンク記事:ウィリアム・アダムス(三浦按針)と家康で始まった日英関係 なぜ終わった?(https:// ushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2020/03/10/101932)
 異国のものを受け入れる先見の明。差別心がない。アダムスから新兵器である大砲を手に入れ、使いこなす革新。別に地味でもなければ、保守的でもない。
 じゃあ、私たちが抱いている家康像って何だっけ?むしろなんとなく抱いている信長像に近いかも。ここで家康像へのバイアスを分析してみましょう。

【歪んだ三英傑】●小見出し・バイアスありきの家康像
 実際にはウィリアム・アダムスをもてなし、オランダのみならず、イギリスとの貿易も行なっていた家康。それなのに、保守的で頭が固く、国を閉ざす印象を受けるのだとすれば?
 それは、家康本人と、彼の跡を継いだ将軍たちの業績なり性質、江戸幕府の政策が混同された結果もあるのでしょう。家康が神格化され、絶対のものであったがために、起こった誤解です。
 これは他国にもあること。エリザベス1世時代にスペイン艦隊を撃破したため、彼女が海軍なり海賊女王のように思われがちです。けれども、王立海軍の基礎を積み上げたのは、何かとイメージが悪い彼女の父・ヘンリー8世です。
 そんな家康への憎悪と嫌悪感が頂点に達し、表明できるようになる時代はいつのことでしょう。幕末です。
 高杉晋作は、日光東照宮を憎悪し罵倒しておりますし、維新志士たちが徳川憎しで村正を買い漁った等の逸話もあります。関ヶ原まで遡り、長州と薩摩が憎悪を募らせる理由が、正当化されてゆくと。そんな幕府秩序の中でいきのびてきて、薩摩なんて将軍家と縁組をしていたのに……というようなことを指摘するのは、野暮なのでしょう。この憎悪は明治以降も続き、明治政府が日光東照宮を破壊しようとし、明治天皇が止めたという話もあります。徳川にストレートにぶつけられない憎悪や怨恨を、会津はじめとする佐幕藩にボールがぶつけられたような形跡も見えてきます。
 司馬遼太郎が徳川家康が大嫌いであることは、確かなのです。そんな彼の本を“歴史書”や“実践の本”、“ビジネスマン必携の書”として読んでしまう人が大勢いた。
 徳川家康は影武者と入れ替わっていた。徳川家康は朝鮮半島から来ていた――以前も書きましたが、そのくらいの暴投をする作家ならば、何を言おうがある意味無害。されど司馬遼太郎は“史実”をひもとく“国民的作家”であるがゆえに、歴史人物の評価まで決めてしまったとすれば?
 読者が気づかないうちに、その洗脳を受けているとすれば?しみじみと、罪深いと思えました。家康をちょっとほめただけで、罵倒された身としては、つくづくそう言いたくもなるのです。

〔(管理人)やはり小檜山氏は「家康をちょっとほめただけで罵倒された」という個人的体験を主たる動機として、司馬遼太郎を論じているようである。〕

【歪んだ三英傑】●小見出し・秀吉を再評価する困難
 三英傑を逆順にたどります。次は秀吉です。『新史 太閤記』は、スカッとする傑作ですね。司馬遼太郎の出身地である大阪の英雄を、カラリと描いてめっぽう面白い。これぞ、“新”たな歴“史”としての”太閤記“だ!
 と、言いたいところですが。大河ドラマ『秀吉』と同じ問題点が本作にはあります。
 それは晩年の、秀吉の迷走や暴虐を描かないこと。一番暗くなる局面を抜かし、ただただ、明るいだけの人物像にしている。これまた『秀吉』もそうですが、別の作品では暗黒面を描いたという言い訳はいりません。続編まで鑑賞するかどうか、保証ができないのですから。
 当たり前ですが、朝鮮なり、明(中国)からすれば、秀吉は攻めてきた甚だ迷惑な側の総大将です。彼らの目から見た秀吉が”侵略者“になったところで、不思議はありません。むしろ当然です。
 そんな秀吉の一生を描くと言いながら、その部分をカットするというのは、一体どれほどわけがわからないことなのか?
 アメリカ人がペリーのフィクションを作ったとする。そのうえで、日本に黒船来航するくだりを「アメリカ人には馴染みがないし。日本人がぐちゃぐちゃとうるさいからカットします」と言われたら?
 苦学生ヒトラーが、ナチスを率いて国を立て直すところで終わる、ドイツのドラマとか。
「ナチスドイツには、悪いところもありますけど。それは他の作品で描かれていますからね」という言い訳もセットでついてくると。
 こういう姿勢が、果たして通用すると思いますか?

〔(part20・219)「ペリーの黒船来航前」も「ヒトラーの国を立て直すところまでで終わるドラマ」もその作者が特にその部分を描きたいというテーマがはっきりしているのならありではないか?〕

 どうしてそんな手口が、秀吉ならば通ると言えるのでしょう?
 アジアにとっての”侵略者“像を消し、クリーンアップした像を提示していると言えます。実は、秀吉評価の流れは、司馬遼太郎世代にとってはなじみのある話でした。
 江戸時代、当然のことながら秀吉は低評価を受けます。前政権を担っていたこともありますが、海外への出兵で、無駄な消耗をしたと評されていたのです。徳川政権は、朝鮮と清(中国)との関係正常化に尽力していました。その原因を作った秀吉の評価が辛かったとして、不思議はありません。

〔(part20・219)関係が全く逆であり、家康は、秀吉が「唐入り」で失敗していたから、「秀吉と違う自分」をアピールできて、朝鮮と清との関係正常化をやりやすいというところもあったと思う。〕

 そんな江戸時代が終わって明治を迎えると、アンチ徳川の時代となります。さらに日本がアジア諸国へ領土拡張を狙い始めると、秀吉は参考すべきロールモデル(とは言えないと思いますが、当時の政府はそう思っていたのです)となってゆきます。

〔(part20・225・230-232要約)次のような逸話がある。
  韓国併合が成功した祝宴で、寺内正毅が「小早川加藤小西が世にあらば 今宵の月をいかに見るらむ」と詠んだところ、小松緑が「太閤を地下より起こし見せばやな 高麗山高く上がる日の丸」と返したという。
  しかし、朝鮮半島に渡った当時の外交官や軍人の中に「我こそは今の秀吉!」と感じた者がいたとしても、それをもって「政府のロールモデル」とするのには無理があるだろう。秀吉は結局、朝鮮支配に失敗ているのである。
  神功皇后ならいざ知らず、秀吉が明治政府のロールモデルだったという話について、小檜山氏は論拠を示していない。
  ちなみに寺内正毅は長州出身、小松緑は会津出身である。
  なお、「地図の上朝鮮国に黒々と 墨を塗りつつ秋風を聞く」と詠んだ石川啄木のような人物もいた。〕

 こうした経緯を踏まえると、秀吉の再評価とは、極めて慎重になるべき話なのです。ご存知”国民的作家“であり、あの戦争を体験した司馬遼太郎ともあろう賢者が、そこに無頓着だったとは思えませんが。
 ゆえに、私は秀吉を肯定的にみなすよう誘導し、晩年をカットする作品は評価できません。発表当時はもちろんのこと、BLM時代にそんなものを評価することそのものが、私にとっては恥辱そのものです。
 面白いからいいって?国民的作家だからいいって?毒入りのワインだろうと、美味しくて、カリスマソムリエが推したから。笑顔で飲んで、そして人に勧めるのですか?私は、そんなこと御免です。

〔(part20・184)ちょっと考えただけで次のような矛盾がある話を、武者氏はなぜ必殺技のように使うのかわからない。
 (1) ソムリエはワインの品質管理役なので、毒を飲ませた段階で一流では無いし、そもそもソムリエではない。
 (2) ソムリエが開栓する時、必ず品質チェックでテイスティングするから毒を飲む事になる。
 (3) ソムリエがワインを勧めるのは客であるあなたに対してで、それをさらに誰に勧めているのかわからない。〕

【歪んだ三英傑】●小見出し・信長の天下と、ヴィーナスの腕
 そして最後は、一番人気の信長です。
 前述の通り、日本の一般的な信長像は、どこか変だ……西洋甲冑にワイン、人種差別をしない。
 そこには“脱亜入欧”の影だって感じる。信長が火器導入なり、キリシタンの布教なり、認めたことは事実です。

〔(part20・213)司馬の描く信長像に東洋と対立する意味での西洋思想が示されているのか?単に珍奇なものが好きだったということではないのか?なぜそれが「脱亜入欧」の影になるのか?〕

 けれども、だからといって漢籍由来の教養を持っていなかったとも言いきれない。岐阜の地名由来だって、中国の故事由来なのです。当時の知識は、どうしたって明を経由する。漢籍を否定してどうするのかというところです。

〔(管理人)信長が漢籍の教養を持っておらず、漢籍を否定したという事実は寡聞にして知らない。また、司馬遼太郎がそのような信長像を呈示したとも知らない。〕

 秀吉ならば、まだしもわからなくもありませんが。
 どうして織田信長が人気なのか? 実は普遍的でもない。江戸時代は、残虐行為をしすぎたために本能寺で討たれたという見方もありました。革命的な人物は反発もされます。むしろ万人が受け入れる方が、不自然ではありませんか。
 そんな信長人気の爆発と変遷には、どうしたって“国民的作家”や、高度経済成長期を生きてきた日本人のニーズを感じてしまいます。
 信長って、ロマンチックなんですよ。
 絶頂期の本能寺で討たれたから。確固たる政権を樹立して、ビジョンを示すことができなかった。
 いわば、ミロのヴィーナス。両腕が欠けているからこそ、見る側が欠落した最も美しい腕を想像して、無限の可能性へと引き込まれてゆく。
 ミロのヴィーナスを前にしてうっとりするのであれば、極めて無害な心理ですが。これを歴史上の人物でしてしまうと、どうなるのでしょう?
 信長はまだしもよいかもしれない。幕末となると、これまた厄介なのです。
「明治政府の悪いところは、一流の人物が志半ばにして斃れ、二流の人物だけが残ったためである」
 そういう既視感がある主張も、これまた司馬遼太郎でお馴染みの話です。けれども、本当に維新前に死んだ人物と、後に死んだ人物が、そこまで極端に変わるものでしょうか。結局のところ、これはこの言葉で十分な話だと思います。
「命長ければ恥多し」
 維新前に死に、政策なり、汚職なり、穢れた要素にタッチしなかったということです。毛沢東だって、文化大革命を起こさなければロマンチックな英雄で済んだことでしょう。

〔(管理人)毛沢東は文化大革命以前に大躍進政策で大失敗しているわけだが。〕

 ナポレオン戦争でのイギリス。海の英雄であるネルソンは戦死を遂げて神話となり、陸の英雄であるウェリントン公ことアーサー・ウェルズリーは、評価が辛くなる。
 他国のことならば納得できるのに、信長なり龍馬もそうだと指摘されて、不愉快になるとすれば、そこにこそ何かがあるはずなのです。
 端的に言えば、【無責任】です。
 とっくに龍馬と信長の享年を超えているのに、もう何かを成し遂げたがゆえの信賞必罰を受けるべき立場にいるのに。それすらのらりくらりと避けて、家康を罵倒し、信長気分でいる。自分はまだ見果てぬ夢を追いかける戦国大名気分でいる。
 そんな人間ばかりがあふれる世界は、【無責任】の極みです。映画館に行けば、難病女子高生がまた死ぬ映画。SNSをみれば、自称信長と龍馬が溢れている。そういう社会は、要するに幼稚で無責任で、滅びたところでそれこそ、
「是非もなし」
 というところではありませんか?
 どうです?問題提起。“国民的作家”の罠と技術にうまうまとはめられて、ガラパゴス三英傑評価を飲み込んで、SNSに自称・現代の織田信長と書いちゃう気分。


〔(part20・220)「SNSをみれば、自称信長と龍馬が溢れている。そういう社会は、要するに幼稚で無責任」ってそれ司馬の責任なのか?〕

 そのからくりを、いやらしくプロファイリングされて、腹が立ちました?まあ、そうなりますよね。

〔(part20・220)ここまでの小檜山氏の文章だと「国民的作家のプロファイリング」とやらが全く伝わっていないんだが。自己評価の高い人である。〕
〔(part20・221)「“国民的作家”の罠と技術にうまうまとはめられて」というのは、司馬の文章を引用しないと分からない。小檜山氏のつたない文章力では「司馬の罠と技術」が全然伝わらない。〕

 “国民的作家”調で書けば、こんなところですか。
  ひとびとはみな、司馬遼太郎ファンのおっさんに平伏している。が、小檜山は貶しまくっていた。
  『いよう。』と、この三流ライターは、花道の役者に大向うから声をかけるように叫んだ。
  「―――令和の織田信長』
  といったとき、さすがに周囲も顔色をうしなった。昭和以来、天下のぬしであるかのような彼らに対してこれほどの無礼の挙動をとった者もない。そういう事件も、昭和高度経済成長期以来、一件もなかった(かもしれない)。
  もしあったとすれば、ただの刑では済まず、コメント欄炎上の刑にでも処せられたであろう。
 ね?わかりました?
 このクソ生意気な三流ライターのやらかしていることは、“国民的作家”の創作した(あの掛け声の話は、史実ではありません)、幕末の一流英雄の粗悪なパロディなのです!
 だから、お目溢しくらいしましょうって。そう怒らないでください。じゃ、結論でも。
 結局のところ、“司馬史観”で見た戦国時代なり三英傑とは何か?それはポスト日露戦争の知性ということです。

〔(part20・221)何が「ポスト日露戦争の知性」か全然分からないし、どこからそういう結論が出てくるのか意味不明である。〕

 卓越した文才、知名度、広報戦略、そして高度経済成長期の昭和日本人マインドと噛み合って、“国民的作家”として君臨したのが司馬遼太郎というわけですけれども。

〔(part20・221)小檜山氏の文章を見ても、司馬遼太郎が「卓越した文才、知名度、広報戦略、そして高度経済成長期の昭和日本人マインド」を持っているのか分からない。それが分かるような司馬の文章を引用して欲しいものである。〕

 それってつまり、新しい酒を古い皮袋に入れただけではないか、ってことです。他にやりたいこともありますが、このよくわからない話も、あとちょっとだけ続きます。

─【提灯が照らすもの】─
 さて、いよいよ幕末史です。
 会津藩家老・田中土佐玄清を先祖にもつ田中清玄は、司馬遼太郎をこう評しました。
 「薩長の提灯持ち」
 これを初めて聞いた時は、いくらなんでも言い過ぎではないかと思いました。『王城の護衛者』をはじめ、会津藩を顕彰する作品だってあるし、会津若松市には司馬遼太郎の碑文すらある。

〔(part20・200・203要約)小檜山は、田中清玄という、大法螺吹きの自称フィクサーを信用しているのか?『八重の桜』にも登場した会津に殉じた田中土佐の子孫だから説得力があると考えたのか?〕
〔(管理人)会津藩家老の子孫だからこそ、薩長絡みの作品の多い司馬遼太郎を提灯持ちと呼んだ可能性もあるわけで、その発言に一般化することは不当である。〕

 けれども今は納得感があるのです。
 会津藩が公然と“賊軍”呼ばわりされていた時代だって、会津藩が褒められることはありました。白虎隊が代表例です。慰霊、顕彰とからめて、あんなふうに散るのが美しいとされて、散々プロパガンダとして持ち上げられました。
 飯盛山にはホラが現実になったかたちでムッソリーニの碑がたつ。ヒトラーユーゲントがやってくる。
 プライドをくすぐり、慰霊と顕彰をしつつ、取り込んでゆく。なかなか巧妙な手口でした。死者のシンボル化はあやうい。ましてや、自害となればあやうい。飯盛山で顕彰されている全員が自刃したのか、否か。実は現在も研究過程にあります。なまじ神話と化しただけに、なかなか難しいものがありまして。
 顕彰と慰霊をセットにする危険性は、そんなところにもある。だからこそ、アイヌの遺骨がらみでウポポイにも警戒しているのですが……それはさておき、司馬遼太郎に話を戻しましょう。

【提灯】●小見出し・幕末史は政治と地続きである
 咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉は、ジョージ・ワシントンの子孫のゆくえを誰も知らないことに驚きました。これがデモクラシー!そう驚いたことで有名な話です。
 残念なことに、150年という歳月を経ても私たちは福沢諭吉の時代からさほど進歩していないのではないかと思ってしまいます。
 中国共産党ですら、毛沢東の孫に強力な実権を握らせていない。韓国では、二世政治家の朴槿恵が引き摺り下ろされた。
 一方で、日本はどうかといいますと、明治維新150周年行事を政治家が主導で盛り上げる。明治元勲の子孫だから素晴らしいという論調は出てくる……青い血はまだまだ効くようです。芸能界でも、作家でも、何にせよ二世だの血筋が出てくる。映画雑誌は、イギリス人俳優がパブリックスクール卒だの、貴族の家系だの、仰々しく盛り立てる。あのドラマに出ているあの俳優は、血筋がすごい! ご先祖にこんな有名人がいる、びっくり! それって一種の珍獣扱いではありませんか? 俳優ならば演技をみればよいでしょうに。
 HBOが『ゲーム・オブ・スローンズ』で、血統による王位継承を強固に否定したあとの2020年代でも、この通りです。
 そういう弊害があるからこそ、海外の歴史ものでは実在人物を扱わないと指摘してきました。血の通った人間は、気軽に神輿にするものではありません。
 そういう“ゲームのルール”を破っていること。司馬遼太郎はその時点で、私は称賛する気になれませんが。戦国大名ならば、まだしも無害です。戦国大名が権勢を持っていた時代は、明治維新によって終わっています。

〔(part20・204)小檜山氏によれば、海外では明治維新期の歴史人物は小説にしないという事だが、Wikipediaの【西太后】の項によると、西太后を主人公にしたAnchee Min(閔安)著『Empress Orchid』という小説がある。
  Anchee Minを調べると、1957年1月14日中国上海生まれでサンフランシスコと上海に住む中国系アメリカ人の作家、西太后だけでなく江青(1914年〜1991年)をモデルとした小説も執筆している。
  江青の方は『マダム毛沢東 江青という生き方』という題名で翻訳もされているようである。つまり、海外の歴史もので実在人物を扱っている例はある。〕

 けれども、明治維新はちがう。
 山口県が歴代首相を一番多く輩出していると、2020年になってもニュースになりました。
 山口県民が優秀だから? これは因果関係が逆転した典型例です。要するに、藩閥政治の流れがずっと続いている。それだけのことです。

〔(part20・200)「現代でも藩閥政治が続いている」という考察も「山口県出身首相が多い」「世襲議員・俳優が多い」「松下村塾他が世界遺産に選定された。」という結果の紹介だけで、なるほどと思えるか?〕
〔(管理人)2020年10月時点で戦後の総理大臣は55人(延べ57人)、うち山口県の者は岸信介・佐藤栄作・安倍晋三の3人(延べ4人)であり、異常とはいえない。岸・佐藤・安倍の3人は親族関係にあり、そのような地盤・看板に依存した日本の政治慣習を批判するのならともかく、「藩閥政治の流れ」と捉えるのは失当であろう。〕

 気づかないのか、そのフリなのか?くどいようですが、海外はとっくに気づいています。世界遺産に松下村塾が登録され、国際政治案件になりました。

〔(管理人)世界遺産登録に際し、韓国が問題視したのはもっぱら軍艦島(端島)の方であって、松下村塾に関する議論は明らかに付随的なものであった。また、韓国以外の国が主体的に世界遺産登録を政治問題化していたとは思えない。〕

 雉も鳴かずば撃たれまいとは言ったものですが、幕末史という雉はここ数年、やたらと大声で鳴いているようですよ。
 実在の人物を顕彰するにせよ、幕末以降は特に利用されやすい。そこは抑えておきましょう。

【提灯】●小見出し・エモーショナルな幕末論、漂白された政治色
 小説と歴史書はちがう。感情をゆさぶることこそ、小説の本領発揮ではある。だからこそ、“ゲームのルール”を守り、個人の顕彰なり、事実誤認を防ぐ工夫は必要です。ましてや“第二の歴史教科書”扱いは危険です。
 私は山田風太郎の幕末にせよ、明治物は好きです。“ゲームのルール”の範疇におさまっていて、いくら感情をゆさぶられても危険性はない。
 けれども、なまじ司馬遼太郎はめっぽううまく、史実と創作の区別があいまいで、実名を使い、それが政治に直結しているから厄介なのです。
 司馬遼太郎の場合、いくら格好良く佐幕派を描いても、どうしたって誘導したい方向性が見えてきます。物語としてめっぽうおもしろいし、『燃えよ剣』の土方歳三はじめともかく素晴らしいから、文句をつけにくくはなるのですが。
 『燃えよ剣』について語るとなると、ともかくトシさんがカッコいい、ヒロインの雪もよい……そういう話に突っ込んでいきます。確かにあの話はおもしろい。けれども、それはそれ、これはこれ。
 あんなに素晴らしい新選組を描いたからには、司馬遼太郎が【薩長の提灯持ち】のはずがない。そういう反論は思いつきます。新選組を評価することは、長らくタブーでしたから。
 おおっぴらに顕彰はできないけれども、彼らを知る証人がまだ生きているうちに、残しておこうと子母沢寛らが、証言ベースにまとめ始めます。それはそれで大変貴重なことであり、偉業です。民衆目線の歴史という意味で結構なことで、否定するつもりはない。ただ、民衆視点の歴史、稗史目線が生きてくるのは、あくまで正史あってのこと。車は両輪がなければバランスを欠きます。
 新選組を語る上で「誠」として掲げられた忠誠心、恋愛沙汰、逸話がベースとなってしまう。フィクションはさらにそれを広げていくことになったと思えるのです。
 政治色もかなりある団体なのですが。それは当然です。幕末の京都におり、かつ会津藩所属組織であったのに、ただの気のいいお兄ちゃんでいられたはずもありません。
 これは司馬遼太郎だけの話でもありませんが、どうにも新選組フィクションからは政治色が脱色されてしまうとは思えるのです。それはなかなか、彼らにとって失礼な話とも思える。

【提灯】●小見出し・幕末日本にいた!西洋思想の持ち主とは?
 フィクションを作り上げるうえで、斉藤一左利き説あたりは、さしたる実害がないと思えます。
 私が気になるのが、近藤勇は無能で、実質的には土方歳三が新選組を取り仕切っていたというものです。
 調べれば調べるほど、どうにもわからなくなっていく。確かに土方には若い頃から、リーダーシップや聡明さがあったとされる証言はあります。

〔(part20・208)「土方には若い頃からリーダーシップがあった」という証言があるのなら、それを生かして小説を書いた司馬に何の問題があるのだろうか?
  以下、小檜山氏は近藤が土方より優れていたという主張を展開するのだが、自分で「調べれば調べるほど、どうにもわからなくなっていく」と書いているのだから、その主張には「根拠はない」のだろう。〕
〔(管理人)以下の小檜山氏の記述について、後記注釈のため、便宜的に(a)〜(h)の記号を付す〕

 けれども、(a)教養や教育面では近藤と比較すると見劣りしてしまうところはある。(b)土方は多摩時代俳句を趣味しており、辞世は和歌です。
 一方で、(c)近藤の場合は関羽を崇拝しておりました。辞世は漢詩であり、かつ自らの境遇を文天祥になぞらえている。近藤の教養はかなりのものです。といっても頭でっかちということもなく、政治力もあった。
 一会桑政権の切り札として動き、(d)幕府の政策にまで意見できる先進性がありました。
 新選組だって、(e)身分を問わない戦闘集団としては奇兵隊のような側面はある。西洋式の医療、食生活、軍事訓練も取り入れていた。刀槍頼りの時代遅れ集団とはされがちですが、それは屋内戦闘や逮捕を主軸とした彼らの任務を考えれば妥当なところです。
 新選組の任務は、いわば憲兵のような性質もあります。近代における憲兵は、ナポレオン戦争以降増えていった組織形態です。幕府なり会津藩がその影響をどこまで受けていたのか、私もはっきりと理解できてはいない。
 けれども、フィクションでさんざん言われるほど時代遅れというわけでも、西洋思想と無縁であったわけでもありません。
 (f)そういう組織を運営する近藤が、愚かで素朴な人とは思えません。関羽のような大人(たいじん)としての振る舞いを意図的にしていたように感じられる部分はありますけれども。
 (g)新選組は近藤勇が動かしていた。そんな当たり前のことに、違和感があるとすれば、それは『燃えよ剣』であるとは思えます。
 (h)現に、『鞍馬天狗』はじめ司馬以前のフィクションでは、土方より近藤が前面に出ていた。変わった重要な起点はどうしたって司馬遼太郎でしょう。

【提灯】●小見出し・幕末日本にいた!西洋思想の持ち主とは?
 フィクションを作り上げるうえで、斉藤一左利き説あたりは、さしたる実害がないと思えます。
 私が気になるのが、近藤勇は無能で、実質的には土方歳三が新選組を取り仕切っていたというものです。
 調べれば調べるほど、どうにもわからなくなっていく。確かに土方には若い頃から、リーダーシップや聡明さがあったとされる証言はあります。

〔(part20・208)「土方には若い頃からリーダーシップがあった」という証言があるのなら、それを生かして小説を書いた司馬に何の問題があるのだろうか?
  以下、小檜山氏は近藤が土方より優れていたという主張を展開するのだが、自分で「調べれば調べるほど、どうにもわからなくなっていく」と書いているのだから、その主張には「根拠はない」のだろう。〕
〔(管理人)以下の小檜山氏の記述について、後記注釈のため、便宜的に(a)〜(h)の記号を付す〕

 けれども、(a)教養や教育面では近藤と比較すると見劣りしてしまうところはある。(b)土方は多摩時代俳句を趣味しており、辞世は和歌です。
 一方で、(c)近藤の場合は関羽を崇拝しておりました。辞世は漢詩であり、かつ自らの境遇を文天祥になぞらえている。近藤の教養はかなりのものです。といっても頭でっかちということもなく、政治力もあった。
 一会桑政権の切り札として動き、(d)幕府の政策にまで意見できる先進性がありました。
 新選組だって、(e)身分を問わない戦闘集団としては奇兵隊のような側面はある。西洋式の医療、食生活、軍事訓練も取り入れていた。刀槍頼りの時代遅れ集団とはされがちですが、それは屋内戦闘や逮捕を主軸とした彼らの任務を考えれば妥当なところです。
 新選組の任務は、いわば憲兵のような性質もあります。近代における憲兵は、ナポレオン戦争以降増えていった組織形態です。幕府なり会津藩がその影響をどこまで受けていたのか、私もはっきりと理解できてはいない。
 けれども、フィクションでさんざん言われるほど時代遅れというわけでも、西洋思想と無縁であったわけでもありません。
 (f)そういう組織を運営する近藤が、愚かで素朴な人とは思えません。関羽のような大人(たいじん)としての振る舞いを意図的にしていたように感じられる部分はありますけれども。
 (g)新選組は近藤勇が動かしていた。そんな当たり前のことに、違和感があるとすれば、それは『燃えよ剣』であるとは思えます。
 (h)現に、『鞍馬天狗』はじめ司馬以前のフィクションでは、土方より近藤が前面に出ていた。変わった重要な起点はどうしたって司馬遼太郎でしょう。

〔(part20・208)(a)教養や教育がなくても組織を取り仕切ることって出来ると思う。
  (c)関羽を崇拝すること、辞世が漢詩であることも、組織を動かすこととは何も関係ない。
  (d)組織を動かすこととは何も関係ない。
  (e)新選組が身分を問わない戦闘集団であり、西洋式の軍事形態を取り入れていたとしても、小檜山氏の文章にはそれを土方ではなく近藤がやったという事は何も書かれていない。
  (f)(e)と同じく「組織を運営していたのが土方ではなく近藤だ」という根拠が書かれていない。
  (g)日本の組織ならトップではなくサブが動かしているなんていくらでもあり、(a)〜(f)を論拠に「新選組は近藤勇が動かしていた」ことを「当たり前のこと」とは判断できない。
  (h)『鞍馬天狗』だってフィクションだろう。この場合必要なのは「史実では局長近藤勇が新選組を取り仕切っていた」ということだと思う。〕
〔(管理人)(a)(b)によれば、辞世が漢詩か和歌かで教養の優劣が決まると小檜山氏は考えているのだろうか?〕

 この司馬由来の新選組像は、なかば史実のように後進作品にも影響が出てしまっている。典型例と知名度でいいますと、『るろうに剣心』が代表です。新選組隊士があきらかにモデルとなった人物を説明するとなると、とても手間がかかりました。
「この人物像は、沖田総司をモデルとしています。けれども史実ではなく、司馬遼太郎の創作で……」
 リンク記事:『るろうに剣心』の新選組が複雑だ 司馬遼太郎の影響強くてややこしや(https:// ushoojapan.com/jphistory/baku/2020/08/23/150345)
 二度手間がかかる。これは結構な弊害だし、大問題だと思いました。

〔(part20・210)『るろうに剣心』ははっきり誰がモデルとか書いているから、あれを読んで「これが史実新選組だーッ!!」と思う人っていないんだが(小檜山氏を除いて)。だいたい沖田総司をモデルにしてるのって、瀬田宗次郎だろう。名前も全然違うのにどうやって間違えるんだ?緋村剣心だの比古清十郎だのあんな人間離れした奴、どう考えても史実じゃないなんて誰だって分かるだろう。
  あれを「史実だと勘違いする恐れがあるーッ!!二度手間がかかる。これは結構な弊害だし、大問題だーッ!!」と勝手に騒いでいるのは小檜山氏くらいである。しかし「『るろうに剣心』が史実と区別がつかなくなる人」なら確かに「司馬作品が史実と区別がつかなくなる」というのは当たり前かもしれない。〕

 新選組のイメージは、逸話とそれをふくらませたフィクションがベースになっていく。だからこそ乙女ゲーでも大人気なのかもしれませんが、どんどん泥沼に陥っているのではないかという気持ちにはなります。
 新選組は内部粛清が多いとか。なんでも殺傷で解決する野蛮な集団だとか。そういうイメージをSNSでつぶやいてこれまたRTやいいねを稼がれますね。けれどもこれはキッパリいっておきます。
 幕末期の集団なり組織は、内部粛清や殺傷がともかく多い。頻発している。藩、思想、主義を問わない。そういう時代の特性だと思った方がよいかと思います。新選組だけが異常だと思っていると、誤解が増えてゆくばかりですし、それこそポスト日露戦争時代を引き継いだ価値観だと思いますが。
 本項では敢えて新選組を取り上げました。
 司馬遼太郎が幕末史の維新側を描く過程において、どんなテクニックを使ったのかは、一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』にまとまっています。決定版です。ぜひお手にとってみてください。三流歴史ライターなんかよりも、よほどためになることを指摘しております。

〔(part20・200再出)一坂太郎氏の著作を紹介するなら、まず引用記事を抽出してから、考察を書くべきであり順番が逆である〕

【提灯】●小見出し・【脱亜入欧】という美酒
 そうまとめる前に、新選組に話を戻しまして。

〔(管理人)以下の小檜山氏の記述について、後記注釈のため、便宜的に(a)〜(j)の記号を付す〕

 どうして土方を持ち上げて、近藤を落とすようなことをしたのだろう?(a)新選組について調べていて、司馬遼太郎のエッセイをみていて、ピンと来ました。
 (b)織田信長像にせよ、司馬遼太郎は、日本人でありながら西洋の思想を持つ人間が好きです。(c)土方が優れている理由として、幕末の日本にありながら、西洋の軍隊における副官のような役割を果たしているところが素晴らしいという趣旨のことが書いてあります。
 確かに、副官は重要ではあります。ナポレオン戦争における、ネイとジョミニは有名ですね。
 とはいえ、西洋の軍隊といっても、時代なり国によってかなり異なるものではあるし。
 (d)副官が参謀の役割を果たすとなれば、それこそジョミニくらいのきらめく才能は欲しいところ。土方はそうだったのかどうか?土方に全てを委ねなければならないほど、近藤は無能だったのか?もしかして、順番が逆なのではないだろうか?
 前提条件として、(e)自分がプッシュしたい英雄は、西洋思想の持ち主でなければならない。だから(f)後付けで、史実を曲げてでも、西洋の香りがする英雄を自作で作り上げていったのでは?
 対極にいるのは、漢籍なんぞぶつくさ読んでいる頭のお堅い連中です。近藤勇がそうです。
 どうしてそんなことをするのか?
 その答えは簡単です。(g)【脱亜入欧】――司馬遼太郎が幼少時からどっぷり浸かった思想です。
 西洋が世界を支配する時代が訪れた。けれども、日本は東洋でありながらもその中に入り込めた。そんな(h)【脱亜入欧】思想は、自分たちは他の東洋人どもとは違うという、レイシズムを含みつつ、日本人を酔わせてゆきます。いわば毒の酒でした。
 第二次世界大戦で敗北して、抜け切るかといえば、そう単純な話でもない。
 アメリカは、鉄のカーテンの向こうにいってしまった中国や北朝鮮に対抗するためにも、日本を取り込みたい。
 (i)第二次世界大戦を“太平洋戦争”と呼んで、“日中戦争”の影を薄くする。東側の中国に、西側日本は頭を下げる必要はないと。西側に引き込むために、名誉白人扱いは継続する。アジア人の中でも特別だからすごいのだとおだて続ければ、日本人は参ってしまう。
 だって、明治維新以降、そういう自意識のもとで生きてきたのだから。イギリスはしくじったけれど、アメリカはうまくやれるさ。二度目だもんな!
  そういう昭和の日本人です。【脱亜入欧】を果たしている日本人像を描かれたら、そりゃ酔いしれますよね。信長が選んだ岐阜という地名が中国の故事由来だなんて、捨てていい話です。邪魔だもの。
 やっとここまで、(j)【脱亜入欧】までたどりつきました。これが一番いいたかったことかもしれない。レイシズムという毒を感じたら、いくら美味だろうと、そんなもの私は飲み込めないのです。

〔(part20・213・214)(a)司馬のどのエッセイなのか出典をはっきり書くべきでは?
  (b)司馬は「西洋思想を持つから織田信長が好きです」とかはっきり言ってるのか?
   司馬の描く信長像に東洋と対立する意味での西洋思想が示されているのか?「単純にいいものはいい」とか「新しいものが好き」と思っているようにしか見えないのだが。
  (c)単に土方の「西洋の軍隊における副官のような役割を果たしているところが素晴らしい」というだけなら「西洋の思想がある」とは言えないと思う。
  (d)小檜山氏の根拠なき断定と独りよがりの仮定に基づき「順番が逆」と言われても説得力は皆無である。
  (e)(b)(c)(d)のような根拠不明の断定と論理の飛躍の上に「(司馬が)自分がプッシュしたい英雄は、西洋思想の持ち主でなければならない(と考えていた)。」と結論づけても意味がない。
  (f)司馬が「史実を曲げて英雄を自作で作り上げた」出典を明示すべきである。
  (g)「司馬遼太郎は脱亜入欧にどっぷり浸かっている」ということが分かる文章を引用すべきである。
  (h)ある種のレイシズムを派生させたではあろうが、脱亜入欧思想自体はレイシズムではない。
  (i)そもそも戦争中の呼称は「日華事変」「日支事変」であり、「日中戦争」ではない。Wikipedia【太平洋戦争】の項には「戦後GHQの占領政策で「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ強制的に変更させられた」とあり、日本側が「日中戦争の影を薄くするために」名称を変えたわけではない。
  (j)(a)〜(i)にみたように、小檜山氏の妄想が司馬遼太郎と【脱亜入欧】とを結びつけたにすぎない。
   小檜山氏はいわゆる「論点先取の誤謬」(証明すべき命題を暗黙または明示的に前提の一つとして用いる詭弁の一種)を犯している。〕

─【明治の罠】─
 2019年上半期『なつぞら』放映時、100作目であることを記念して、NHKは歴代朝ドラ人気投票をおこないました。第一位は、『あさが来た』。
 笑顔のあさが赤い着物を着て笑う、明るいイメージがサイトを飾っていたものです。確かにドラマとしての出来はよい。人気が出る要素はいくつもある。なんといっても、ディーン・フジオカさんの五代様!
 と、手放しで褒めたいようで、2015年はNHKの歴史を考える上で悪いターニングポイントになるのではないかと私は思っております。
 朝ドラの話はいい。ここは司馬遼太郎の話ですね、いよいよ最終コーナーです。

【明治の罠】●小見出し・“明治礼賛”の罠
 朝ドラでもなく、大河の話です。『青天を衝け』は作ることそのものに問題が発生する可能性が高い。危険なので、『麒麟がくる』なり『鎌倉殿の十三人』を延長する方がまだよいのではないかと思います。吉沢亮さんはじめ、出演者へのお詫びは何かするにせよ。そこは私が考えることでもありませんので。
 汚名を被りかねない大河主演にしたら、むしろキャリアに停滞期が訪れそうで気の毒ではありませんか。吉沢さん以下、出演者のキャリア、VOD時代ともなれば特に海外でのこともふまえると、再考をした方がよいと思えるのです。
 この話は、あとでいつかじっくり語るとしまして。
 司馬遼太郎の話です。
 彼の作品で、最も人気があるとされるのは想像がつきます。『坂の上の雲』です。私の家にも、初版本全巻がかつて揃っておりました。
 そんな『坂の上の雲』の映像化だけは、してくれるな。司馬遼太郎本人は厳命していたそうです。海外版もない。他の作品は、翻訳もされているのに、これはないのです。

〔(part20・354・再出)【歴史小説『坂の上の雲』の英語版(CLOUDS ABOVE THE HILL)を読もう!】で検索すると出てくると思うが、『坂の上の雲』の翻訳はある。「紅葉のかんざし柘植のくし」というサイトにもA〇azonにもある。〕

 日本では屈指の人気なのに、海外版はない。この時点で、不思議なものはある。どういう思惑があるのかわかりませんが、実害はもう出ていると思えなくもありません。
 企業トップにアンケートを取ると、好きな司馬遼太郎作品として、『坂の上の雲』があげられたというのは有名な話。けれども、繰り返しますが、海外では認識されていない。
 私なりに、日露戦争の書籍は海外のもの翻訳版も含めて読んでみました。ギャップにめまいがするほどではある。日本人向けですと、『坂の上の雲』の副読本としてのニーズを満たしたいものがともかく多い。
「未曾有の危機に立ち向かう姿に学べきだ!」
 そう日本人がうっとりしている一方、世界はこうなると。
「日露戦争勝利の背後には、英米の支援があると。その英米を敵に回せば、そりゃ第二次世界大戦は負けますよね」
 危険です。
 司馬史観は、【明治までは素晴らしくて、昭和だけが突発的に駄目になった】ような、そんな雑な誘導があります。けれども、どうして転落したのかという理由、それが芽生えていたことすらたどれない。
 「殷鑑遠からず」という言葉がある。歴史を学ぶ意義には、前時代の失敗をたどり、教訓とするという意義がある。エンタメとして楽しむ歴史は、楽しければそれはそれでよいのですが。
 正史がそれではいけないというのは、当然のことだとは思うのです。
 正史と娯楽の混同。
 混同した上で、国のトップがそれを教養なり教訓にしている。
 しかも、その理屈が通じるのは日本国内のみ。
 そういう状況でも、昭和まではそこまで実害がなかったのかもしれない。
 けれども、状況は既に危険水域を超えました。松山市は、ご当地起こしの材料に『坂の上の雲』を推す。かくして司馬遼太郎本人の遺志を無視し、2009年から2011年にかけて、NHKでドラマ化されました。
 そのあとの2010年代大河は、露骨な明治礼賛になってゆく。2013年『八重の桜』は例外として、2015年、2018年、そして2021年。前述の通り、朝ドラの『あさが来た』でも明治礼賛。維新150周年に向けて、国策として明治礼賛が定着しました。
 これがどれほどど異常な話か、考えてみましょうか。
 イギリスのドラマ『ダウントン・アビー』にせよ、『ヴィクトリア』にせよ。単純な当時の礼賛でもない。『エノーラ・ホームズの事件簿』では、フェミニズム要素も取り込む。
 アメリカは、奴隷制を振り返り反省する映画が当然のことながら多い。いちいちあげるまでもない。
 中国ですら、『三体』は文化大革命を批判的に扱っている。
 韓国も圧倒的。『タクシー運転手』は傑作でしたね。
 自国の歴史を「スゴイ!スゴイ!」と手放しで褒める。その背後に国家がチラつく。そんなこと、まっとうな近代国家ならば堂々とやらかしませんってば。もう2020年代ですよ!
 日本では、そうでもないらしい。そんな嚆矢を切ったのが『坂の上の雲』です。そもそもこの作品って、明治維新100年を記念すべく、産経新聞に連載されたものです。おや、なかなか素晴らしい条件が揃っているじゃありませんか。
 どうしたって、切り離せないほど圧倒してくる司馬遼太郎パワーと日本スゴイという何かを感じます。そのパワーが、もはや頓挫し見直しが必要だということを確認しましょう。
 だからこそどうせなら、時代の一歩先を歩きたい。見据えたい。ゆえに、こんな長文を書いております。
 なお、このあたりの明治礼賛の危険性については、斎藤貴男『「明治礼賛」の正体』をお勧めします。

【明治の罠】●小見出し・昭和に残った【脱亜入欧】
 明治以来の【脱亜入欧】は、大東亜共栄圏を掲げて敗戦を迎え、本来ならば反省されるべきであったはず。けれども、いくつかの偶然と幸運の結果、そうはならない。
 朝鮮戦争。
 文化大革命。
 そういう朝鮮半島や中国の躓きの結果、日本は東アジア随一の経済成長を果たします。冷戦下、自勢力の同盟国を確保したいアメリカにとっても、それは歓迎すべきことではあった。
 第二次世界大戦に負けたとき、日本人は暗い諦念に包まれました。明治以降、欧米に追いつけ追い越せ、脱亜入欧、列強入りを目指した。けれど、それは結局表層的なものに過ぎなかったのか。そんな苦い思いを噛み締めて、反省するかというと、どうにもそうではなかったようです。
 戦後すぐに日本人は、アメリカから渡来するものに飛びつきました。“鬼畜米英”どころではないのです。
 子どもは「ギブミーチョコレート!」と米兵にねだる。給食には、ララ物資だ。
 屈辱に耐えながら、米兵の恋人となる若い女性もいる。性暴力被害者もいれば、「米兵は私を人間扱いする」と感激して妻になる女性もおりました。
 大人だって、アメリカのために働くし。ハリウッド映画を楽しむし。
 マッカーサーが帰国する際は、帰らないで欲しいと懇願するほど。
 そんな日米関係を長く書くとキリがありませんが、そういう手のひら返しがありました。後年、この日本での成功体験を引きずって、中東で失敗したのではないかなんて話もありますが。
 ともあれ、アメリカと同盟関係を結び、経済的にムクムクと成長する日本人には、既視感のある気持ちが湧いてきます。
 日本は、アジアの中でも特別なのだ。ゆえに、歴史的に見ても優れている。中国や朝鮮半島とは別なのだ!儒教?どうでもいいし。
 そういう昭和の日本人、司馬遼太郎と同年代の価値観をオープンにすれば、それはもうヒットを狙える。本来封鎖すべき価値観を再生させるのです。
 日本人はともかくスゴイ! 戦術戦略に優れた大天才が出てくる、優れた民族だ!
 日本人はともかくスゴイので、いつの時代も、定期的に【脱亜入欧】ヒーローが出てくるのだ!
 じゃあ、なんで戦争負けたか、って?昭和改元前後、ちょっとバグが起きただけ。これが【司馬史観】です。
 うまくいっている間は、まさしくこれぞバイブルであったとは思う。彼の同世代の作家は、彼とは別の姿勢が見えます。GHQの禁止令が解かれた作家たちは、「武士道のせいで日本人は道を誤ったのではないか?」と批判的な調子の時代ものを多数発表しております。
 有名なものと言いますと……。
 『駿河城御前試合』:山口貴由『シグルイ』原作。暴君のお楽しみのために、ひたすら死んでいく侍たち。それに逆らうこともなく、ただひたすら死ぬ様が無惨無断。
『甲賀忍法帖』:せがわまさきが『バジリスク』としても漫画化。隣人殺しに突き動かされる忍者も、スキルのある忍者を「武士でないから死んでもいい」と軽い気持ちで殺す将軍たちも、ひたすら外道。
 映画もそうです。『切腹』、『武士道残酷物語』、『十三人の刺客』。『上意討ち 拝領妻始末』、『柳生一族の陰謀』、『戦国自衛隊』……。
 そういう「武士道は日本人を、人命を重んじない非人道的集団にした! 明治以降は庶民まで武士道強要されて最悪だった!」という路線もあったわけですが。
 それがだんだんと、B級扱いで消え、反省と戦争への苦い思いが消え去り、司馬遼太郎一強時代になってゆきます。これって要するに、トイレのウォッシュレットを褒めるような、あの気持ちとそこまで差がない。ええ、【日本スゴイ】です。
 英雄史観。それと表裏一体の稗史、江湖、民衆の声を軽視する歴史観。
 脱亜入欧とアジア蔑視。
 「女子供には理解できない本格派」という男尊女卑意識。
 「親や教師が勧めるし、読んでおくか。面接で褒められそうだし」そんな後進世代のスマートな処世術としての読書。
 【脱亜入欧】と【日本スゴイ!】と、【昭和改元前後が例外】という価値観は、昭和の教養として育まれてゆく。当時はインターネットもない。ガラパゴス歴史観が刷り込まれ、海外との比較をするまでもない。
 海外では、司馬遼太郎の知名度なんて限定的なのに。【司馬史観】なんてローカル価値観、国内限定なのに。GHQが警戒して武士道賛美を禁じたことも無駄になった。
 そりゃ2020年現在、外国人、それも白人が目をキラキラさせつつ、日本スゴイと賞賛するテレビ番組が流れるようになるわけですよね。
 褒められたかった。名誉白人扱いされたい。そういう気持ちをずっと日本人は持ち続けている。いつか捨てるべきだった気持ちを、手を替え品を替え、抱いてきたと。

【明治の罠】●小見出し・満州国への反省も不十分かもしれない
 このあたり、反論は思いつきます。 
 司馬遼太郎は、『項羽と劉邦』なり『韃靼疾風録』なり、中国史を題材にした作品があります。だから、中国にも敬意を払っていたはず。そう思いませんか?
 戦前の日本人も、中国史を題材としたフィクションを楽しんできました。大東亜共栄圏として仲良くするからには、親近感を深める必要があったのです。だから、日本人が中国史を扱うことを、能天気に全て“善意”と片付けることはできません。
 そして問題は『韃靼疾風録』だ。
 改めて、『韃靼疾風録』のことをつらつらと思い出すうちに、苦い思いが胸いっぱいに広まってゆきます。
 明と朝鮮を“形式にとらわれた”とみなし、そうではない満州族を持ち上げる構造がある。日本人と満州族の公主(姫)の関係?そんなあらすじを読むと、満州国建国前夜に新聞で連載された小説のようでもある。アビアは李香蘭の役だ。
 そんなこの作品を「世界史の勉強になった!」という感想もあるほどです。そういうことを堂々と言える、書ける方は、受験に際して世界史ではなく、日本史を選んだのだろうと推察しますが……。
 それは日本人として、一番してはいけない中国史の解釈ではありませんか。それは満州国建国の時と同じトーンです。漢民族なり、朝鮮なり、そういう劣ったアジア人を、日本や満州族が支配する。儒教文化圏を見下す中、自分たちは違うと思い上がる。特別なアジア人として、満州族を救うという傲慢極まりない発想です。何様のつもりだと思う。一体何なんだ、何のつもりで他国を見下していたのだと、心の底から苦いものが湧き上がってきます。
 あの時代の日本人は、思い上がってそういう試みをした。そして悲惨な末路を迎えたわけです。
 「このように、日本人と満州族は仲良くなれる。そうして、あの漢民族や朝鮮人を糺す。これぞ正しき道!」

〔(管理人)見かけ倒しのただの看板だったかもしれないが、満州国のキャッチフレーズは「五族協和」、「和・韓・満・蒙・漢」の五民族が協同して「王道楽土」構築を目指すというものだった。その本音が日本による満州・他民族支配であったとしても、小檜山氏がいうような日・満両民族が漢民族・朝鮮民族(なぜか小檜山氏は「朝鮮『人』」と記しているが)を下位に置こうという構図とは明らかに違う。〕

 そういうしょうもない誘導をして、満州に皇族を悲惨な末路、川島芳子は刑死にまで追い込んでいる。日本が満州でしたことなんて、何の言い訳もできないほど、どうしようもない歴史です。そういう歴史をなぞるロマンを描くって、いったい何のつもりだったのか、ふつふつと怒りすら湧いてきます。二十世紀でなくて十七世紀の話だという言い訳はいりませんから。
 この作品の中国語なり、他の言語訳があるのかどうか。ないでしょう。あれば大問題になることは、なんとなく想像くらいできます。
 けれども、だからこそ、日本人を酔わせる作品にはなりえる。満州国建国のリプレイを見せられたら、そういう記憶を持つ人々のハートはつかめることでしょうけれども。
 国際的に見て、危険な司馬作品ツートップが、『坂の上の雲』と『韃靼疾風録』です。あわせ技で、この作者を国民的作家としているのであれば、日本は第二次世界大戦の反省をしていないと明らかになります。
 “脱亜入欧”と、満州族ロマンスに酔いしれ、能天気に褒めていると。そりゃ国連も敵国条項を外さないわ。そう言いたくもなる。
 なお、このあたりの歴史つきましては、嵯峨隆『アジア主義全史』も参考になります。
【明治の罠】●小見出し・坂の下の崖
 雲がある坂の上を登りきって、日露戦争に勝利をおさめたあと――日本人は、暗い大敗戦に向かってゆきます。一朝一夕でそうなったわけではない。
 日本人は物量差があろうと勝てる! そんな民族的な優位感と英雄論。
 日本人はアジア人とは違う。そんな【脱亜入欧】。劣ったアジア人を導くという使命感。
 漢族や朝鮮人は駄目だ、けれども満州族とならば手を組める。
 抑え付けられる世論の中、そんな甘い毒酒が人々の心を酔わせました。その酩酊がたたり、一番戦死者が多い、それが司馬遼太郎の世代であったはずなのですが。そんな酩酊が、人をどうするのか、危険性は見たはずなのですが。
 それでも、そういうポスト日露戦争の知性という水路に、司馬遼太郎は人の心を流した。筆力や資料調べの才能はもちろんのことある。それだけではない、元新聞記者としての広報戦略、人身掌握術も彼は使いこなせたのでしょう。
 そしてもののみごとに、司馬遼太郎の歴史観は日本人に定着しました。そんな2020年、その弊害を噛み締めずにはいられない。
 どうすれば、『坂の上の雲』や『韃靼疾風録』について、海外に説明できるのか?特に、同じアジア人に対して。
 日本人だけが司馬遼太郎で盛り上がる。そんな時代ならばよかった。実際、便利でした。司馬遼太郎愛読者だと主張すれば、面接で点が取れますもんね。できる、賢い、歴史好き。そうちやほやされて、一味違うインテリとして振る舞えたわけですし。
 歴史好きなよい子になれるって、やっぱり、とても魅力的なことだったとは思う。
 けれども!中国の方と話していて思った。どうやって、日本人の日露戦争観を説明する?『坂の上の雲』から?そこで私は絶望し、ポストコロナの時代にこれでは到底無理だと思ったわけです。
 BLM運動で、銅像が倒される時代。そんな時代に、松下村塾を無邪気に褒められない(のに、世界遺産登録!)。
 そういう時代です。
 私なんぞが指摘しなくとも、司馬遼太郎を“第二の教科書”とみなし、“司馬さん”と褒める論調は終焉すると確信しています。そのあと、何が訪れるかまではわかりかねますが。

〔(管理人)終焉を迎えたか否かは知らないが、そのような論調はもはや微弱なものであろう。〕

 最後に。私は何も、彼の本を読むなとか。発禁にしろとは申しません。
 『風とともに去りぬ』のように、注釈付きで楽しむようにする。それはそこまで難しくないはず。そうなる。注釈付きの古典になる。そんな未来を予測して、この長い戯言を終える次第です。

〔(管理人)私も、小檜山氏の記事を読むなとか、発禁にしろとは言わない。注釈付きで楽しむようにする。ということで、この小檜山氏の記事に注釈を付けてきた。〕

 もう、坂の上の雲を見上げる時代は終わりました。今は、坂の下の崖に落ちないよう、しがみつく時代です。
 ここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。私たちはこれからもずっと、歴史について考えていかねばなりません。努力しつつ進みましょう。


2024年06月10日(月) 07:15:06 Modified by ID:VXV/GYLm4Q




スマートフォン版で見る