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武者震之助大河ドラマレビュアーその2


※このページは、『武将ジャパンの武者震之助データ』(https://seesaawiki.jp/w/amamasa/d/%c9%f0%be%ad%a5%...から、大河ドラマレビュー及び大河ドラマ関連記事の魚拓などの情報を分離独立させたものです。

※このページの具体的内容は、歴史ライター・ドラマレビュアー武者震之助(=小檜山青)氏が歴史ポータルサイト『武将ジャパン』及び小檜山氏自身のnoteで執筆した大河ドラマレビュー及び大河ドラマ関連記事につき、その魚拓を採取し、若干のコメント等を追記したものです。なお必要に応じ、小檜山(武者)氏以外の執筆者の記事も若干数を収載しています。
 コメント文中で「(part19・221)」と表記しているのは、その内容が5ちゃんねる『武者震之助スレッド』のpart19のレス番221であることを示します。
 コメントのうち「→(tweet)」「→(note)」「→(Blog)」と記されているものは、X(旧Twitter)やnote、ブログで多くの方が呟いておられるのをページ管理人が採取させていただいたものです。ただし、文体の調整などページ管理人の責任で手を加えさせていただいたこともあります。

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(4) [ ]はそのドラマの回数(話数)、小檜山(武者)氏の記事が複数ページに亘る場合には( )はページ数を示します。


【目次】
 【魚拓一覧その0ー1(どうする家康魚拓)】(作業中)



【魚拓一覧その0ー1(どうする家康魚拓)】(作業中)
◎【第30回】(2023/08/07)
 (1)https://archive.md/ermwE (2)https://archive.md/3e20h (3)https://archive.md/UqMzE (4)https://archive.md/vFRUg (5)https://archive.md/ocZyG
 【ナレーターは「新たなる覇者が求められておりました」と語る。って、ここは王者ではなくて?今川義元に教えられた「覇道」と「王道」はどうなったのでしょう。】(1ページ目)
 → これより先、武者氏は「王者」の語を用いなかったことを非難していくのであるが、まず登場人物の台詞ではなくナレーションであること、次に本能寺の変の直後に「新たなる王者」と言ってしまえば、信長が王者になってしまうことの2点を押さえておくべきである。
 【「覇道」とは、力で治めること。「王道」とは、徳と仁、思いやりで治めること。本作においては、そんな教えを義元から家康に伝えられたことが放送され、以下の記事でも注目されていますが、
  ◆【どうする家康】徳川四天王子孫とプロデューサーがドラマを語る シンポジウム記録(→link)(https://archive.md/wip/WlOUv)
  そんな昔のことは忘れたよ、ってことでしょうか。
  朱子学と陽明学の区別もついていないようだし、『麒麟がくる』と比較することもおこがましい本作ですが・・(中略)・・覇者もいないし王者もいない。では何がいるのか?孫権の水軍を目撃した曹操にでも、例えを聞いてみましょう。
  「子を持つなら、孫権がいい。劉表の子供なんて、豚と犬みたいな連中だからな」(『十八史略』「赤壁之戦」)
  って、すみません……これは流石に言い過ぎですね。曹操は口が悪いから。
  覇者も王者もいない、せいぜいが「匹夫」ばかりだ。あたりでしょうか。】(1ページ目)
 → 「覇者」という言葉が出てくるわけではないが、金谷治は『孟子』「公孫丑」の「以力仮仁者覇、覇必有大国。以徳行仁者王、王不待大。」の部分について、「覇というのは、諸侯の旗頭のことで、周の王権が弱くなった春秋時代では、この覇者によって、世界の秩序が維持されていた。孟子の時代すなわち戦国時代の諸侯たちにとっては、諸侯はこの覇者になることが一つの目標であったが、孟子は覇者のつまらなさを説いて、真の王者になることが必要だと力説したのである。」(『孟子』朝日文庫版上125頁)と述べている。
   また、吉川幸次郎は『論語』「子路」の「如有王者、必世而後仁」の「王者」を解説して「『論語』ではここのみに見えるが、ややのちの、『孟子』以後の文献では、完全な道徳者たる君主、したがって、世界全体の君主たるべき資格をもつ君主、という概念となり、『覇者』の概念と対立する。」(『論語』朝日文庫版中127頁)と述べている。
   『廣漢和辞典』(下616頁)は「,呂燭しら。諸侯の長。また、武力によって天下を治める者をいう。∈任睥呂龍い者。制覇した者。スポーツなどの優勝者。」と説明し、出典として上述の『孟子』「公孫丑」のほか、『荀子』「王制」の「王者富民、覇者富士」を挙げる。
   以上を総合するに、『孟子』以降の儒教での観念を説明する場合は別にして、先学たちも、単純な語義としては、「王者」の対義語としての「覇者」だけではなく、より一般的な「力強い者」「支配している者」という意味での「覇者」の用法を認めているように思われる。
   余談ながら、慶應義塾大学の応援歌『若き血』の末尾は「陸の王者慶應」であり、早稲田大学の応援歌『紺碧の空』は「覇者早稲田」で終わる。早稲田の作詞者が慶應を意識したとも言われるが、さりとて慶應が徳と仁で治める大学で早稲田が力で治める大学だというのは不当であろう。
 →(note)本能寺の変で信長が討たれ天下人(京や畿内周辺地域を治める人)はいなくなり、次の天下人になろうと宣言した光秀も山崎の戦いで敗れ首を討たれた。
   織田領である旧武田領の甲斐・信濃は国衆や武田遺臣による一揆、隣接する上杉・北条の侵攻を受け、『王道』を説いた今川義元の治世は遠く、大名としての今川家も今やない。
   今川の王道とて、それが届く範囲は今川家の領内(駿河・遠江・三河)であり、今川仮名目録など法度が整備されていたからこその治安である。「覇者も王者もいない、せいぜいが『匹夫』ばかりだ。」と言う前に本能寺の変直後の状況を確認しましょう。
 → 仮に家康が『孟子』以降の「王」と「覇」の儒教概念に拘りがあったとしても、ここでは彼の台詞ではなくナレーションである。現代日本の一般的な用語法に依拠してもよいのではないか?
 【それにしても秀吉の衣装がひどい。清洲会議は歴史上の名場面であり、絵画の題材にもなっています。こんなもしゃもしゃ頭に妙ちくりんな衣装で三法師を抱えられても、まったく説得力がありません。三法師を抱える秀吉をフィクションで描くなら、お手本があるでしょ。
  月岡芳年『魁題百撰相』「羽柴太閣豊臣秀吉公」でも、「紫野大徳寺焼香之図」でも、いくらでも参照できたはず。それを知らないか、あえて無視して個性を出そうとしたのか。奇をてらってばかりで時代劇特有の面白みを消してしまう制作陣には、やはり頭を抱えるしかありません。】(1ページ目)
 →(note)月岡芳年は1868(慶応4年/明治元年)に『魁題百撰相』を手掛けるが、当時は錦絵に戊辰戦争を取り上げることが禁じられていたため、出来事やかかわった人物を戦国時代の武将などに仮託することで規制から免れたという時代背景がある。
   『羽柴太閣豊臣秀吉公』は戊辰戦争において明治天皇(三法師に見立てられている)を擁した薩長率いる官軍を秀吉になぞらえ東征した事を描いたもの、『紫野大徳寺焼香之図』は『絵本太閤記』より京の大徳寺での信長の葬儀で焼香の順番をめぐる議論で織田の遺臣達が争う場面を描いたもの。
   この二作では秀吉が殿上人(公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人)の証である黒い束帯を着用しているが、実際には『清須会議』の時点で秀吉公は『筑前守』であり無冠、つまり浮世絵の装束はお手本にできない。
 【なんでこの子らは、母親が徳川家康に輿入れしたかったなんて話を知っているのか。お市がペラペラ話していたとか?・・(中略)・・この浅井三姉妹は、物語の展開を説明セリフで語っている。いわば大人の考えた駒です。
  「私たちのお父様が徳川様だったかもしれないのに」
  よく子どもにこんな最低の台詞を言わせられますね。浅井長政に対しても失礼極まりない。人をなんだと思っているのでしょうか】(1ページ目)
 →(note)幼い浅井三姉妹が折に触れて母・お市さまの昔語りを聞きたがって何が悪い?・・(中略)・・父浅井長政の面影を良く知る長女の茶々は妹たちの「もしかしたら私たちの父上は、徳川様だったのかもしれないのですね」(次女初の台詞・確認済み)という言葉に同調せず否定している。






2023年08月19日(土) 13:59:56 Modified by ID:a0PoIGQe+g




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