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ballatasinfonica 2012年10月14日(日) 11:24:04履歴
編成:ピッコロ、フルート2、オーボエ2、コール・アングレ、変ロ管クラリネット2(2番は変ホ管クラリネット持ち替え)、変ロ管バス・クラリネット、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、テューバ、ティンパニ、カスタネット(拍子木)、小太鼓2、タンブラン、ウッドブロック、シンバル、大太鼓、タムタム、ピアノ、ハープ2、弦楽5部。(《日本狂詩曲》総譜、龍吟社)
片山、「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p12ではトランペット3、シンバル又は饒鉢、カスタネット又は拍板、ウッドブロック又はラリ、とある。
三浦淳史、CD「日本狂詩曲・交響譚詩・古代日本旋法に依る蹈歌/伊福部昭」ブックレット、p5によると、この録音では「作曲者の原作のイメージ通りに、clavesには歌舞伎の拍子木、wood-blockには祭太鼓の胴打ち、side-drumにはオケドウ(桶胴)、カスタネットの代りにはハクバンあるいはパイパン(拍板)が用いられている」
作曲:1935年。
初演:1936年4月5日、フェビアン・セヴィツキー指揮 ピープルス響、ボストン、ジョルダン・ホール。
国内初演:1944年9月27日、金子登指揮、東京交響楽団(現東フィル)により、日比谷公会堂における「第31回演奏會」で初演(初演時のプログラムで確認)。ただし編成を縮小して演奏された(木部、2004、p25)
楽譜出版:ユニヴァーサル、シャーマー、プロムジカ、竜吟
受賞:1935年チェレプニン賞作曲コンクール第1席。
編曲:2004年5月16日、川上敦子によりピアノ独奏版初演。
備考:フェビアン・セヴィツキーに献呈
当初は現行の「夜曲」「祭」の前に「じょんがら舞曲」という楽章があったが、チェレプニン章応募の際、規定時間の都合でこの第1楽章を省いた。以後このカットされた版を正式な版とした。じょんがら舞曲のモチーフは《交響譚詩》第2楽章に使われているという。
(1939年)「小船幸次郎指揮で「日本狂詩曲」がワルシャワ他で演奏される」(伊福部,p175)
「ところが、肝心の日本の舞台で演奏されるのは、それから何と四十四年を待たねばならなかった。一九八〇(昭和五十五)年五月、山田一雄の指揮により、新星日本交響楽団が演奏した。それ以前の日本では、一九六二(昭和三十七)年、レコード化のための演奏があったのみである」(木部、1997、p180)
しかし、CD「伊福部昭「日本狂詩曲」/有馬礼子「交響曲・沖縄」」のデータによると1967年12月に若杉弘、1967年に録音が行われており、ブックレットにおいて細川は「この曲の初録音にして隠れた日本初演かもしれない」と記述している。
さらに、1961年10月9日の東京交響楽団第116回定期演奏会プログラム「シンフォニー」第57号、p6において、東芝音楽工業と東京交響楽団の提携により《日本現代作曲家シリーズ》が企画され、「伊福部昭の「日本狂詩曲」と「交響譚詩」(山田夏精・指揮)が録音を終え、11月からの発売を待っている」とある。
これらの録音については調査が必要とされる。
「この曲が日本のプロフェッショナルなオーケストラの定期演奏会でとりあげられたのは、何と四十五年後の一九八〇年、山田一雄指揮、新星日本交響楽団である」(富樫、相良、p38)
「結果、この作品は第1位になり、ボストンで初演されたのですが、日本では、作曲以来45年間、コンサートでは取り上げられはしませんでした」(伊福部、CD「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p7)
「日本での初演はその44年後の1980年5月13日、山田一雄指揮新星日本交響楽団第40回演奏会で行われた。曲はセビツキーに献呈された」(小村、CD「伊福部昭 作品集」ブックレット、p5)
「初稿では《夜曲》の冒頭にあるヴィオラの独奏はヴァイオリンの独奏として書かれていたが、1937年にチェレプニン・エディションとして出版の際、現在のように直された」「日本では山田一雄指揮東京交響楽団によるレコード録音(1968年3月発売の東芝レコードTAー7015が初演ということになるが、ステージ初演は今日の演奏でようやく実現したことになる」(小村公次、新星日響第40回定期演奏会プログラム)
上記の木部、1997と富樫、相良、伊福部昭の芸術1、小村の記述にある1980年国内初演は戦後初演の誤りと考えられる。1980年5月13日の戦後初演プログラムは確認済み。
応募された楽譜を龍吟社でまとめてパリに送る前に、応募規定などの確認の作業で《日本狂詩曲》の楽譜を見て非難の声があがったが、それに対して大木正夫が反論してパリに送られた(木部、1997、pp178-179)
「ちなみに、チェレプニン賞の審査員は、次の人々であった。アルベール・ルーセル、アレクサンドル・タンスマン、アンリ・ジル=マルシェ、アンリ・プリュニエール、ジャック・イベール、ティボール・ハルシャニー、ピエール・オクターブ・フェルー。六十六歳のルーセルを筆頭に、三十五歳のフェルーまで、パリで活躍する気鋭の作曲家たちであった。当初はラヴェルの名前も上がっていたが、折悪しく病気療養のため、審査員を辞退している」(木部、1997、p177)
片山、「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p13では「アンリ・ジル=マルシェックス」と書かれているがこれは「アンリ・ジル=マルシェ」の誤り。
「審査の結果が明らかになったのは、十二月十六日である。パリの日本大使館のにチェレプニン自ら赴き、日本大使や新聞記者らが立ち会う前で、当選者の名前が発表されたのであった」(木部、1997、p179)
「《日本狂詩曲》がチェレプニン賞の一等に入賞したという知らせを、伊福部は厚岸の森林事務所で聞いた。一九三五(昭和十)年十二月十七日。伊福部昭という人物が、確かにそこで勤務しているかどうか。「東京朝日新聞」の記者から、事務所に電話がかかってきたのである」(木部、1997、p175)
「翌十八日の「北海タイムス」には、さっそくチェレプニン賞受章のニュースが報じられている」(木部、1997、p176)
戦時中、新交響楽団がローゼンストック指揮でチャイコフスキーの《悲愴》と《日本狂詩曲》の演奏会を計画していたが、非常時に《悲愴》とは何事かと横槍が入れられ演奏会ごと中止させられた。伊福部はこれが《日本狂詩曲》日本初演打ち切り事件と記憶していた(木部、1997、p379伊福部談話部分)
「一九三三(昭和八)年の『日本狂詩曲』」(木部、2002、p88)『ピアノ組曲』(木部は『日本組曲』と書く)の誤りと思われる。
「「日本狂詩曲」(1936)」(小村公次、CD「伊福部昭 舞踏曲「サロメ」」ブックレット)これは初演の年と考えられる。
第1楽章は伊福部が自分のソロで初演すべく作曲し、ほぼ完成していたヴァイオリン独奏と打楽器合奏の作品のリライトである(片山、CD「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p13)
「もともと『日本狂詩曲』が、伊福部本人のヴァイオリン独奏パートと、北海道帝国大学の学友たちの演奏することを想定した打楽器オーケストラのために書き始められていた作品を母体として生み出された」(木部、CD「伊福部昭米寿記念演奏会完全ライヴ」ブックレット、p24)
「その楽譜を読んだルネ・レイボヴィッツは「ストラヴィンスキーの影響を受け、植民地的な感性を持った注目すべき作曲家」とパリで雑誌に書いた」(片山、CD「日本作曲家選輯 伊福部昭」、p5)
「1939年には、《日本狂詩曲》が小船幸次郎の指揮によってヘルシンキで披露され、シベリウスに称賛された」(片山、CD「日本作曲家選輯 伊福部昭」、pp5-6)
「初稿では《夜曲》の冒頭にあるヴィオラの独奏はヴァイオリンの独奏として書かれていたが、1937年にチェレプニン・エディションとして出版の際、現在のように直された」(小村公次、新星日響第40回定期演奏会プログラム)
「その後、メフィスト(三浦淳史)は36個の打楽器とヴァイオリンとの協奏曲を書くことを勧め、又、前言を覆して、絃楽合奏に改めよとも勧めた。彼は結局3管編成の9人の打楽器を持つ管絃楽曲を書き上げた。この最初の管弦楽曲は「日本狂詩曲」と題された(略)」(富樫、p74)
片山、「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p12ではトランペット3、シンバル又は饒鉢、カスタネット又は拍板、ウッドブロック又はラリ、とある。
三浦淳史、CD「日本狂詩曲・交響譚詩・古代日本旋法に依る蹈歌/伊福部昭」ブックレット、p5によると、この録音では「作曲者の原作のイメージ通りに、clavesには歌舞伎の拍子木、wood-blockには祭太鼓の胴打ち、side-drumにはオケドウ(桶胴)、カスタネットの代りにはハクバンあるいはパイパン(拍板)が用いられている」
作曲:1935年。
初演:1936年4月5日、フェビアン・セヴィツキー指揮 ピープルス響、ボストン、ジョルダン・ホール。
国内初演:1944年9月27日、金子登指揮、東京交響楽団(現東フィル)により、日比谷公会堂における「第31回演奏會」で初演(初演時のプログラムで確認)。ただし編成を縮小して演奏された(木部、2004、p25)
楽譜出版:ユニヴァーサル、シャーマー、プロムジカ、竜吟
受賞:1935年チェレプニン賞作曲コンクール第1席。
編曲:2004年5月16日、川上敦子によりピアノ独奏版初演。
備考:フェビアン・セヴィツキーに献呈
当初は現行の「夜曲」「祭」の前に「じょんがら舞曲」という楽章があったが、チェレプニン章応募の際、規定時間の都合でこの第1楽章を省いた。以後このカットされた版を正式な版とした。じょんがら舞曲のモチーフは《交響譚詩》第2楽章に使われているという。
(1939年)「小船幸次郎指揮で「日本狂詩曲」がワルシャワ他で演奏される」(伊福部,p175)
「ところが、肝心の日本の舞台で演奏されるのは、それから何と四十四年を待たねばならなかった。一九八〇(昭和五十五)年五月、山田一雄の指揮により、新星日本交響楽団が演奏した。それ以前の日本では、一九六二(昭和三十七)年、レコード化のための演奏があったのみである」(木部、1997、p180)
しかし、CD「伊福部昭「日本狂詩曲」/有馬礼子「交響曲・沖縄」」のデータによると1967年12月に若杉弘、1967年に録音が行われており、ブックレットにおいて細川は「この曲の初録音にして隠れた日本初演かもしれない」と記述している。
さらに、1961年10月9日の東京交響楽団第116回定期演奏会プログラム「シンフォニー」第57号、p6において、東芝音楽工業と東京交響楽団の提携により《日本現代作曲家シリーズ》が企画され、「伊福部昭の「日本狂詩曲」と「交響譚詩」(山田夏精・指揮)が録音を終え、11月からの発売を待っている」とある。
これらの録音については調査が必要とされる。
「この曲が日本のプロフェッショナルなオーケストラの定期演奏会でとりあげられたのは、何と四十五年後の一九八〇年、山田一雄指揮、新星日本交響楽団である」(富樫、相良、p38)
「結果、この作品は第1位になり、ボストンで初演されたのですが、日本では、作曲以来45年間、コンサートでは取り上げられはしませんでした」(伊福部、CD「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p7)
「日本での初演はその44年後の1980年5月13日、山田一雄指揮新星日本交響楽団第40回演奏会で行われた。曲はセビツキーに献呈された」(小村、CD「伊福部昭 作品集」ブックレット、p5)
「初稿では《夜曲》の冒頭にあるヴィオラの独奏はヴァイオリンの独奏として書かれていたが、1937年にチェレプニン・エディションとして出版の際、現在のように直された」「日本では山田一雄指揮東京交響楽団によるレコード録音(1968年3月発売の東芝レコードTAー7015が初演ということになるが、ステージ初演は今日の演奏でようやく実現したことになる」(小村公次、新星日響第40回定期演奏会プログラム)
上記の木部、1997と富樫、相良、伊福部昭の芸術1、小村の記述にある1980年国内初演は戦後初演の誤りと考えられる。1980年5月13日の戦後初演プログラムは確認済み。
応募された楽譜を龍吟社でまとめてパリに送る前に、応募規定などの確認の作業で《日本狂詩曲》の楽譜を見て非難の声があがったが、それに対して大木正夫が反論してパリに送られた(木部、1997、pp178-179)
「ちなみに、チェレプニン賞の審査員は、次の人々であった。アルベール・ルーセル、アレクサンドル・タンスマン、アンリ・ジル=マルシェ、アンリ・プリュニエール、ジャック・イベール、ティボール・ハルシャニー、ピエール・オクターブ・フェルー。六十六歳のルーセルを筆頭に、三十五歳のフェルーまで、パリで活躍する気鋭の作曲家たちであった。当初はラヴェルの名前も上がっていたが、折悪しく病気療養のため、審査員を辞退している」(木部、1997、p177)
片山、「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p13では「アンリ・ジル=マルシェックス」と書かれているがこれは「アンリ・ジル=マルシェ」の誤り。
「審査の結果が明らかになったのは、十二月十六日である。パリの日本大使館のにチェレプニン自ら赴き、日本大使や新聞記者らが立ち会う前で、当選者の名前が発表されたのであった」(木部、1997、p179)
「《日本狂詩曲》がチェレプニン賞の一等に入賞したという知らせを、伊福部は厚岸の森林事務所で聞いた。一九三五(昭和十)年十二月十七日。伊福部昭という人物が、確かにそこで勤務しているかどうか。「東京朝日新聞」の記者から、事務所に電話がかかってきたのである」(木部、1997、p175)
「翌十八日の「北海タイムス」には、さっそくチェレプニン賞受章のニュースが報じられている」(木部、1997、p176)
戦時中、新交響楽団がローゼンストック指揮でチャイコフスキーの《悲愴》と《日本狂詩曲》の演奏会を計画していたが、非常時に《悲愴》とは何事かと横槍が入れられ演奏会ごと中止させられた。伊福部はこれが《日本狂詩曲》日本初演打ち切り事件と記憶していた(木部、1997、p379伊福部談話部分)
「一九三三(昭和八)年の『日本狂詩曲』」(木部、2002、p88)『ピアノ組曲』(木部は『日本組曲』と書く)の誤りと思われる。
「「日本狂詩曲」(1936)」(小村公次、CD「伊福部昭 舞踏曲「サロメ」」ブックレット)これは初演の年と考えられる。
第1楽章は伊福部が自分のソロで初演すべく作曲し、ほぼ完成していたヴァイオリン独奏と打楽器合奏の作品のリライトである(片山、CD「伊福部昭の芸術1」ブックレット、p13)
「もともと『日本狂詩曲』が、伊福部本人のヴァイオリン独奏パートと、北海道帝国大学の学友たちの演奏することを想定した打楽器オーケストラのために書き始められていた作品を母体として生み出された」(木部、CD「伊福部昭米寿記念演奏会完全ライヴ」ブックレット、p24)
「その楽譜を読んだルネ・レイボヴィッツは「ストラヴィンスキーの影響を受け、植民地的な感性を持った注目すべき作曲家」とパリで雑誌に書いた」(片山、CD「日本作曲家選輯 伊福部昭」、p5)
「1939年には、《日本狂詩曲》が小船幸次郎の指揮によってヘルシンキで披露され、シベリウスに称賛された」(片山、CD「日本作曲家選輯 伊福部昭」、pp5-6)
「初稿では《夜曲》の冒頭にあるヴィオラの独奏はヴァイオリンの独奏として書かれていたが、1937年にチェレプニン・エディションとして出版の際、現在のように直された」(小村公次、新星日響第40回定期演奏会プログラム)
「その後、メフィスト(三浦淳史)は36個の打楽器とヴァイオリンとの協奏曲を書くことを勧め、又、前言を覆して、絃楽合奏に改めよとも勧めた。彼は結局3管編成の9人の打楽器を持つ管絃楽曲を書き上げた。この最初の管弦楽曲は「日本狂詩曲」と題された(略)」(富樫、p74)

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