伊福部昭データベース - 1939年昭和14年
一九三九年六月三日「東京日日新聞」北海道版に伊福部と早坂の記事「絢爛たり北海道楽壇 轡並べて躍進する人々」あり。伊福部は5月末に森林官を退職し、大作ピアノコンチエルト(おそらく《ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲》)を書いている途中とある。(木部、1997、p279)

柴田、p147に「一九三九年四月以降、伊福部昭は厚岸を去り札幌に戻っている」とあるが、出展不明。

「《土俗的三連画》が初演された一九三九(昭和十四)年、伊福部は厚岸森林事務所の森林官を辞し、北大の演習林事務所に嘱託として勤務していた」(小林、2001、p19)

「39(昭和14)年には森林官を辞して、再び札幌へ」(木部、CD「伊福部昭 米寿記念演奏会完全ライヴ」ブックレット、p20)

厚岸からの詳細な転居時期については調査が必要。

一九三九年から一九四一年の間に言語学者・人類学者服部健(はっとりたけし)と出会い活動を共にする(木部、1997、pp322-323)

「一九四〇年代初期、伊福部はサハリンの先住民族の一つであるギリヤーク族(ニブヒ族)研究の先駆者、服部健に協力を求められ、ギリヤークの土俗音楽・口承芸能・伝承歌謡類を調査・研究した」(小林、2004、p219)

「1940年頃からしばらくして、札幌で、ギリヤーク族研究のパイオニア、服部健に協力し、彼らの音楽を調査した。伊福部は、日本名、宝部某というギリヤーク人に、記憶にある歌謡の類いを片っ端から歌ってもらい、それを録音、採譜したのである」(片山、CD「伊福部昭全歌曲(旧)」ブックレット、p3。片山、CD「伊福部昭全歌曲(新)」ブックレット、p4)

服部健とギリヤーク族の文化について調査をした正確な年代については調査が必要。

日本近代音楽館所蔵プログラム確認。1939年7月25日、北大中央講堂にて、新音楽連盟・北大文武会音楽部の共催で、「近代ピアノ音楽の夕」が松平頼則のピアノ独奏で開催。

このプログラムにより、伊福部が厚岸を離れて札幌に戻ったのは1939年7月25日以前であることが推測される。