古池や蛙飛こむ水のおと - どうしても…でしょうか?
枯枝にからすのとまりたるや秋の暮   (図1・画師不明  書・芭蕉  句・芭蕉)

枯朶にからすのとまりけり秋の暮    (図2・画・芭蕉  書・芭蕉  句・芭蕉)

かれえだにからすのとまりけり秋のくれ (図3・画・許六  書・芭蕉  句・芭蕉)

長谷川櫂さん> 三枚の絵のうち、初案の「からすのとまりたるや」を添えた一枚目の絵には何羽もの烏が描かれ、推敲を経た「からすのとまりけり」を添えた二枚目と三枚目の絵には一羽の烏が描かれていたのにはこうしたわけがある。

長谷川櫂さんは人の逆逆と逆らう方に捉えることをお止めになって、
これからは人・景を素直に観察し・直に読む訓練を積むべきですわ。
ここに引用した文章にも流れに逆らいたい櫂さんの癖が見られます。
それとも、於多福姉が櫂さんの文章を読み違えているのでしょうか?

引用文に「添えた」と書かれてありますけども、それは真でしょうか?
「添える」とは、本体となる物に何かをつけてやることと存じます。
文から窺えるのは「本体」が絵で、芭蕉の句が「添え物」に感じます。

櫂さんがそのように仰るからには確たる証拠をお持ちだと思います。
それとも櫂さんの常識的に、このような場合の俳句は添え物かしら?
それなら猶のこと、これまでの於多福姉の主張が正しくなりますわ!?

添え物の俳句が本体の絵を謳い・詠うのは当然ではないでしょうか?
大勢の烏が騒いでいる絵なのに、一羽の静かな烏を詠むでしょうか?
本体の絵にそぐわないような変な俳句を松尾芭蕉が詠むでしょうか?

けれども実際は逆で、松尾芭蕉の俳句が「本体」ではないでしょうか?
図1の俳句は推敲不足の詰まらないモノだという思いは思いとして、
於多福姉は実の所、芭蕉の俳句こそが「本体」だと考えたいのですよ。

「書」に通じ、「画」に通じ、「俳句」を興した俳聖・芭蕉ほどの人です。
絵は添え物としても、好い加減な・推敲なしの俳句を載せるかしら!?
大切な俳句を好い加減な気持・安易な心で器(画)に盛るでしょうか!?

俳聖は「器」と「俳句」がお互いに引き立てあう事を願ったと思います。
芭蕉の俳論は長谷川櫂さんの理屈に劣っているとお考えでしょうか?