古池や蛙飛こむ水のおと - 山吹・古池・水族館…
基角と芭蕉の句、本当の秀作はどちらだとお考えになるでしょうか?
「山吹や蛙飛こむ水のおと」と「古池や蛙飛こむ水のおと」の比較。
本来・詩歌は心の発露であって、優劣を競うこと自体が変なのです。

詩歌は共鳴の文化と捉えるべき種類の物ですし、俳句も同じ事です。
と言うよりも、全ての文学は共鳴のうえに成立する文化といえます。
山吹に共鳴するか、古池に共鳴するか、或いは他の物に共鳴するか…

水たまりや、ぬかるみを嫌う社会で、大地はアスファルトに覆われ、
四季の移り変わりが有り難がられなければ、人工的環境が考えられ、
自然の食べ物が受け入れられない社会で、人口食品が作られていく。

人は誰でも、子供時代に慣れ親しんだ場所に想いを馳せるでしょう。
山吹の里が消滅し・古池が消えたとき、子供が蛙を眺められるのは?
それなら「水族館蛙飛こむ水のおと」に共鳴するかも知れません…。

なぜ、私たちはかつて遊んだ記憶がある古池に親しみを感じるのか。
そこは日々の暮しに疲れた時に、癒し・元気づけてくれる魂の故郷。
人は故郷の古池に遊んでいた蛙を友として過した記憶を大切に思う。