古池や蛙飛こむ水のおと - 子規は間違ってますか?
序章的な部分は終えて、愈々第一章に入ることにしたいと思います。
長谷川櫂氏には真に申し訳ないけれど、氏の説明に納得できません。

長谷川櫂氏は「古池や」の句に深遠な意味が隠されているのではないかと深読みする人々も出てきた、と述べる。

深読みとは何のことか…櫂氏は「深読み」の説明を省いておられる。
「深読み」は正しいのか、それとも「深読み」は間違っているのか。

氏の次のフレーズは深読みは間違いであると思わせぶりに表現する。
『正岡子規は、そうした怪しげな深読みを一笑に付して…喝破した』
即ち、深読みを否定する「怪しげ」、子規を肯定する「喝破」です。

けれど、氏は次に一転して、疑問形を使って子規を否定しに掛かる。
即ち「子規が自明のこととしている…といっているのだろうか」と。

櫂氏が言いたいのは「深読みは間違いで、子規も間違い」でしょう。
説明のないままに「深読み」を否定するのは如何かと思うも…置く。

それなら氏は、子規のなにが間違っていると言いたいのでしょうか。
それについて、氏は正岡子規の次下のフレーズを挙げているのです。

「古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、復他に意義なる者無し」(古池の句の弁)

「古池に蛙が飛びこんで水の音がした」光景を子規が想像したのは間違いと述べているようです。
更に氏は「古池に蛙が飛びこんだ」光景を想像すること自体が間違いと述べているのでしょうか。

この句に、詠み手は詠み手の、読み手は読み手の古池を想起します。
子規がそのような説明をしたとして、それの何が間違いでしょうか。

或いは、氏の著書の第一章に載っていない事実が有るのでしょうか。