古池や蛙飛こむ水のおと - 心と心をつなぐ
.
>取り合わせの句の中には句中の切れがわかりにくくなっている句がある。

*さまゞゝの事おもひ出す桜かな

>「おもひ出す」は連体形で文法上は「桜」にかかる。
>それで一物仕立てのようにもみえる。しかし、あくまで取り合わせの句

櫂氏は俳句は文法どおりに詠まれていないと承知している事になる。
故に、俳句を文法どうりに読むべきでないと知らなければならない。
文法どうりに読むべきでなければ、それならどう読むべきでしょう?

注意して戴きたいことは、好き勝手に読んで好い訳ではありません。
俳句の字面を文法解釈して遊ぶのは、一向に構わないと思うのです。
但し、凡ての行為は理屈をいうためでなく、近づくための行為です。

作者の心を感じようとする気持ちがなければ、詩の心は分からない。
即ち、切れ字のジョイント・宇宙空間に心身を委ねて過ごす事です。
そうしている中に、詠み手の宇宙に近づけたら、もうシメタ物です。

文法をいうなら「さまゞゝの事おもひ出す」も既に変になっている。
実際、上五中七に「主語」が見えないけど、省略しているのですね。
下五「桜かな」だって文章になってないけれど、それで大丈夫です。

極論ですが、俳句は一字一字で切れていると考えても好いのですよ。
もちろん、バラバラにしてしまっては俳句にならなくなりますけど、
文字が仮につながって一句を形成して、生きていると捉えるのです。

それで誰が、さまざまのことを想い出すのだとお考えになりますか?
切れ字でつながった「読み手」の一人ひとりが想い出すのでしょう!?
切れ字の宇宙空間に遊びつつ、さまざまの事を想い浮かべるのです。

*行春を近江の人とおしみける

一物仕立て(一句一章)の句でも、安易に読む人はいないでしょう。
棒読みして・棒解釈して「これは報告俳句だ」って、切捨てますか?
一字一字を切れ字と思うときは、一字一字の宇宙を楽しむでしょう。

芭蕉を好きなら、芭蕉を知りたいし・芭蕉の俳句を理解したいハズ。

なんで行なの?なんで行春なの?なんで近江なの?なんで近江の人?
なんで? なんで? どうして? どうして? どうしてそうなの?
十七文字の宇宙に詰め込まれた詠み手の想いにジョイントする心根。

即ち、俳句を通じて人は心と心を通わせあう空間・宇宙を共有する。
.