古池や蛙飛こむ水のおと - 心には栄養が好い
* 古池や蛙飛こむ水のおと

* 灰汁桶の雫(しずく)やみけりきりぎりす


>古池の句の蛙は何匹いるのだろうかという問題である。
>結論を先にいえば、蛙もまた一匹である。
>なぜかといえば、これも切字「や」の働きである。
>切字「や」のまわりには豊かな「間」が広がっているが、この「間」は水の音が一回きりだからこそ生まれる。
>実際には蛙が何匹いようが水の音が何度聞こえようが一向に構わない。

本来、於多福姉は理屈をこのように弄ぶのは嫌いです。
でも、古池の句の新境地が啓けるなら、マッ好いかって気持ちなの。
つまり、櫂氏の論は蛙が同時に複数匹飛び込んでも「一匹」なのね。

それは現実の時間でなく「計算上の蛙の数」だって言ってると思える。
櫂さんの心が蛙を数える場合は「0101010101」的に数えてると思うの。
パソコンは一万個の物を数える場合も基本は「バイト単位」ですよね。

それが「0・1」を「1バイト」とする単位しか無い世界の限界だと思う。
だから、一万個単位で数えられる人がいて、一個ずつの人もいるの。
きっと、十進法に慣れてると「10のn乗」単位の数字で計算しやすい。

コンピュータは二進法だけど、人間よりも速く演算できるじゃない。
だけどいくら速くっても「バイト単位」の計算しか出来ないじゃない。
結局、コンピュータには同時に二匹の蛙は認識出来ないって事なの。

例えばだけど仮に、
【「0・1」に捻りを加えた】単位を「1バイト」とする新単位が生れたら?
その新しい単位を「1バイト」とする世界が心に生れたら世界観が変る。
長谷川櫂氏の認識はその瞬間一変して「1兆匹まではOK」と言うかもね。

ここで、於多福姉はなにを言いたいかというと、そういう事なのです。
古池に飛びこむ蛙の数をバイト単位で数えると一度に一匹しかいない。
だけど、一日のスパンで数えたら蛙が飛びこむ音はかなりの数になる。

結局、
メロディを楽しむには「1バイト」でなく、譜面というスパンが必要ね。
俳句という「詩」を楽しむには「悠久の時の流れ」というスパンが要るわ。
私には長谷川櫂さんがどのように考えてらっしゃるか、分らないけど…

灰汁桶の雫が一滴では役立たず、きりぎりすの一鳴きも不満が残るよ!?