古池や蛙飛こむ水のおと - 俳句の切れ字の真
* 枯朶にからすのとまりけり秋の暮

>今までそこの枯枝にとまっているのを知らずにいた烏に突然、気がつく。

それで、芭蕉の真実・現実はどこにあったと考えるべきでしょうか。
櫂氏の説は、芭蕉が「秋の暮」から「枯朶の烏」の過去に戻ったとする。
烏の存在を知らなかった芭蕉が過去に戻って「枯朶の烏」を知るなら変。

つまり、芭蕉はタイムマシーンにでも乗って過去に戻ったのですか?
芭蕉は、烏が枯朶にずぅ〜っと前から止っていたって知っていたの?
芭蕉は、烏に気づく前から烏の存在を知っていたけど知らなかった?

長谷川櫂さんの理屈だと、日本語が何だかおかしく成りませんこと?

* 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす

この句の場合は初めから灰汁桶の雫の音の存在を知っていたのです。
芭蕉は、何かに集中して雫の音の存在を忘れてしまっていたのです。
そして、きりぎりすの鳴声を聞いて雫の音の存在を思い出したのよ。

>今までそこの枯枝にとまっているのを知らずにいた烏に突然、気がつく。

枯朶の句で、烏の存在に気づいたのは「秋の暮」の余韻に浸った後よね?
櫂さんの説だと烏の存在に気づいた芭蕉には烏の過去が見えたのよね?
芭蕉は未来と過去を行き来する宇宙人だとか…櫂さんはおっしゃるの?

そんな阿呆な戯け話にお付き合いする時間はないから、次に行くわよ。

* 枯朶にからすのとまりけり秋の暮

>今までそこの枯枝にとまっているのを知らずにいた烏に突然、気がつく。こうした芭蕉の心の動きを伝えるのが切字の「けり」である。

櫂さんの説が正しいとして、やり直してみようね。
既に「枯朶の烏」に気づいてた。そして今、枯朶の烏に「改めて」気づいた。
すなわち、秋の暮に心を没頭していて、ふと、枯朶の烏を思い出した。
芭蕉は、そんな事を思い出して、過去の烏を回想しつつ思ったんだよね。

枯朶に烏が止っていたのだなぁ…。ワシは秋の暮に心を奪われていたよ。
これでもなんだかやっぱり、芭蕉が「恍惚の人」っぽく、感じませんか?

櫂さん、なにが変なのかな? 「けり」を回想と捉えて無理したのよ。
じゃあ、どうしたら良いかというと、「けり」を過去として捉えよう。
感動とか詠嘆とか伝聞過去とせずに、ここの「けり」は「…た」だよね。

上・中「枯朶に烏が止まった。」そして、下五「秋の暮だなあ!」です。
すると「切れ字」の宇宙に心の広がりが顕れるのです。
櫂さんの心に浮んだ回想も実は、この俳句の宇宙空間に生れたのですよ。

ただし、於多福姉の捉え方は「枯朶に烏が止まっている!」ですけどね。

(追記します)
それにしても、長谷川櫂さんはどこで躓いたのでしょうって考えました。
「けり」に回想の働きを持たせようとして欲張った事にあると言えそうね。
回想は過去に経験したことを懐かしむこと…ここに櫂氏の矛盾が表れた。

灰汁桶の句の場合だと「回想」で構わない…詠むのに方程式はないのよね。
「二者択一」で詠むのは無理なのに、櫂さんはコンピュータで詠む気なの!?
感動・詠嘆の「けり」は判らないでもないけど、「朶」の解決が先でしょう。

俳聖・芭蕉は「朶」の一字で、烏の存在を気づかせようとしたのでしょう。
そして絵師・芭蕉は烏の表情で烏のバタついているのを教えてくれてる。
芭蕉の折角の気配りのアイディアなのに、櫂さんには通じないのかしら!?

>この烏は夕闇に包まれて誰にも気づかれないでひっそりと枯枝にとまっていた。

図3の烏を図2に配していたら、静かな烏と言えるかも知れないけどね。