古池や蛙飛こむ水のおと - 俳聖・芭蕉の道場
>中下の「蛙飛こむ水のおと」が先にできたということである。
>「其角が『山吹や』としてはどうですか」と口をはさんだ。
>芭蕉は…「山吹や」を採用せず「古池や」とおいた。

櫂氏は芭蕉の弟子・支考の『葛の松原』を引用して上記の如く綴る。
そしてそれらの光景は、さらに詳しく次のように続けられていく。

>「蛙飛こむ水のおと」は当時はこれだけで驚くべき表現だった。
>当時…蛙は鳴声を詠むもの…河鹿のこと…夜…涼しい声で鳴く。
>芭蕉は河鹿ではなく…ただのカエルをカハヅとして…詠んだ。
>座に居合わせた其角らはこの中下を聞いて「これはおもしろい…
>上五を何とするか。ここで其角が「山吹や」を提案した…
>和歌では古くから河鹿の声を必ず山吹と取り合わせてきた。
>京都府の南、井出町の山あい…河鹿の名所…山吹の名所…

櫂氏は鴨長明(1155年〜2016年)の方丈記を次のように引用なさる。

>世の人の思ひ侍るは、たゞ蛙をば皆かはづと云ふと思へり。
>カハヅは普通のカエルのようにはねることもなく…
>中下を聞いて、其角はこの井出の蛙を思い出し…山吹を連想した
>これをかぶせると句はこうなる。 山吹や蛙飛こむ水のおと

このような貴重な資料を収集して戴いた長谷川櫂氏に感謝致します。

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さて、芭蕉の高弟として知られる其角はどのような人だったのか。
江戸生まれ。十五歳で芭蕉の弟子になり、四十七歳で亡くなった。
医者の息子。医学・絵画・詩・漢籍・書等に長じていたそうです。

そしてこれらを要約すると、
俳句の中七・下五の部分「蛙飛こむ水のおと」を初めに決めていた。
その後で芭蕉は上五は何が好いかと其角などの弟子に問うたとなる。
学問を積んでいる知識人・其角は事も無げに「山吹」と答えました。

他の弟子にすれば其角の言葉には重みがあったに違いないでしょう。
其角の「山吹や」に他の弟子は成り行きを見守ったかも知れません。
師匠と弟子の句会というより、俳人が練磨し合う道場だと考えたい。

芭蕉と其角の勝負は静かな中にも火花を散らし鎬を削る剣豪の如く。
天才肌・其角が佐々木小次郎なら、芭蕉は当然・宮本武蔵でしょう。
武蔵の「小次郎敗れたり」に、小次郎は「山吹や」と切り掛ります。

「小次郎敗れたり」は当然、中七下五の「蛙飛こむ水のおと」です。

武蔵が斬られたと思われた刹那、気合一閃「古池や」で勝負有った。
其角より五百年前の人・鴨長明は蛙(かわず)は跳ねないと述べた。
しかるに「蛙飛こむ」と詠まれた蛙なら、それは普通の蛙であろう。

「普通の蛙」と「山吹」の取合せに意外性はあっても、何の脈絡もない。
汗一つ流さないで爽やかな澄まし顔でいた筈の小次郎は最早いない。
そこには好好爺風かどうか知らないが、ゆとり笑顔をした芭蕉のみ。

他の弟子たちは、只ただ・感嘆の面持ちで『古池や』と唱えるか…。


   其角住居跡