古池や蛙飛こむ水のおと - 白日の下なら見えるかも
>から井戸へ飛そこなひし蛙よな  鬼貫

古池の句をもじった句として、櫂氏が挙げたモノであるが駄作です。
こんな駄作を引き合いに出されたって、芭蕉に傷がつく物ではない。

>古池に蛙が飛びこんでキャブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。(子規)

子規のフレーズに甚く気分を害された櫂氏ですが、打つ手に欠ける。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのとおりで、長谷川櫂氏の苛立ちは分る。

>芭蕉が深川の庵にあって、聞くとなく聞いてをると、蛙が裏の古池に飛び込む音がぽつんぽつんと聞えて来る。(虚子)

虚子の文が気に入らないのであれば、虚子に噛みつくべきでしょう。
虚子の文を以って、子規に噛みつくのは筋違いと云うものでしょう。
蛙が水に飛びこむ音が虚子の耳に、ぽつんぽつんと聞えたのですよ。

>子規が一掃しようとしたさまざまな深読みも同じだった。

長谷川櫂氏は、ここに至っても未だ深読みの説明をなさっていない。
深読みのどこが間違いで、どこが合理的なのか…説明が欠かせない。

>ほんとうに蛙は古池に飛びこんだのだろうか。

一般的に云って、真実は一つだけど、事実はいっぱい有るものです。
「古池に飛びこんだ蛙はいない」と想像するほうに無理があります。
櫂氏は真実を知りたいのでしょうか。事実を知りたいのでしょうか。
それをハッキリとお述べにならない櫂氏の話法は無駄に曲りくねる。

長谷川櫂氏の手法は、誰かを追詰め・問詰める手段になっています。
とうぜん、なにを質したいか、なにを知りたいかは暗闇に置かれる。
或いは、後出しジャンケンと同じで、納得ある結果が出る筈はない。

私程度の能力があれば言えること。それは、
詩歌は信頼・協調・励まし合いです。希望・勇気・平和の土台です。
俳句が詩の一分なら、理解しあい、和解に繋げていかねばならない。