古池や蛙飛こむ水のおと - 文化と言葉づかい
>時雨は古くははらはらと通り過ぎる風情を何となしに楽しんでいたのであるが、鎌倉時代以降はその音を愛でて詠むようになった。

*霜さえて枯れゆく小野の岡べなる楢の広葉にしぐれ降るなり  藤原基俊(千載集)

きっと小野の岡の全面とまで云わないにしても、楢林になっていたのでしょう。
踏むとバリバリ音が響く、そんな朝霜が降りている小野の岡の周辺の景色なの。
そこに生える広葉樹・楢の大木の枯れ葉だと思うけれど…に時雨が当っている。

樹上の僅かの広葉に当たる時雨を詠わないと思うから…落ち葉じゃないのかな。
色々の音色に感応して、過去の記憶を呼び覚まされるのがキッと、人なのです。
落ち葉に当る雨音なら…藤原基俊はどのような記憶を呼び覚まされたのかしら。

*まばらなる真木の板屋に音はしてもらぬしぐれや木の葉なるらん  藤原俊成(千載集)

まばらにしか見掛けられない立派な家に音がしたのでしょう。
そこは、外界の音も光も雨風も入って来れない家の筈ですね。
けれども、響くような物音だけはどうしようもないでしょう。

お屋敷内に聞えてくるのは、時雨・それとも・木の葉が降ってるのかしら。

板屋…高層ビルが当たり前の現代に板葺きの家など、と思い勝ちですけど、
古語辞典には「真木は立派な木、ヒノキや杉など良質の木材になる木」と。
人間らしく人が暮すには、獣の侵入を防ぎ・雨風をしのぎたいと思います。

藤原基俊の歌と藤原俊成の歌、この二首を比較して於多福姉は思いました。
基俊の歌は年代に関係なく、誰にも・いつの時代にも、理解し易そうって。
文化を取り入れた俊成の歌は、文化の土壌を同じくする人にしか解らない。

そしてそれなら、言葉遣いも文化ですから・乱れた現代語が好いのかしら?
詩歌を詠む言葉も、口語体・文語体・歴史的な仮名遣いなど、色々ですね。
芭蕉は和歌から俳諧を取出し、子規は俳句を取出し、使用する言葉遣いは?

五百年・千年後の人たちにも通じる言葉が嬉しいように思えてくるのです。