古池や蛙飛こむ水のおと - 落葉に美を知る茶人
>「水のおと」の「水」は古池の水である。とすると、芭蕉はここで「古池や」といい「水のおと」といって同じ古池の水を二度出したことになる。
>十七音しかない俳句で同じことを繰り返すのは言葉の無駄である。

僅か百年も生きられないのに眠るのは人生の無駄と考える人はいる。

俳句は付き過ぎてはいけないという言葉に振り回されているのか…。
形式とか理屈に囚われて、詩の心を見失っているとも言えそうです。
俳句はこうでなくてはならないと決めて、窮屈な考えに陥っている。

掃き清めた庭に落葉を散らすなど、有ってはならないと考えている。
整然たる美、落葉の美、侘び、寂び、自然美、人工美、全て美しい。

破調に破調の味わい、付き過ぎには付き過ぎの味わいが有って好い。

>「古池や蛙飛こむおと」といえばこと足りる。

「古池や蛙飛こむおと」の句、どこの誰が味わいを感じるでしょう。

才能があれば、古池を描くだけで幽霊の存在をも表現できるのです。
古池と述べるだけで蛙を想像する人はいる、睡蓮だって想像できる。
だからと言って「古池」と書いて俳句とするなら、アバウト過ぎる。