古池や蛙飛こむ水のおと - 朶(えだ)と枝の違い
(参考)描き詠み書いた俳聖


* 枯朶にからすのとまりけり秋の暮

>まず秋の暮がある

先ずここで、櫂氏は「秋の暮は実景」であると証言している。

>今までそこの枯枝にとまっているのを知らずにいた烏に突然、気がつく。

櫂氏は、芭蕉を「当に烏が止っていた現場の目撃者」と断定している。
つまり、櫂氏は「枯朶に」の句は芭蕉の肉眼で観察された実景と言う。

>芭蕉の肉眼ではなく心の目に映った烏と秋の暮のようでもある。

肉眼は肉眼であって、心の目は肉眼とは次元が異なる世界でしょう。
こんな曖昧な言い方を弄ぶ長谷川櫂氏に誤解を好む性状を感じます。
櫂氏が誰にも判りやすい表現をしなければ、私が代って説明します。

『枯朶にからすのとまりけり秋の暮』の櫂氏の本音をいえば実景です。
『今・気がついたけれど、枯枝に烏が止っていたのだなあ!
 秋の暮の景色に心を奪われていて気がつかなかったなあ!』です。

つまり、芭蕉は秋の暮の中に居たけど、心は周りの実景を見なかった。
櫂氏の本音を言えば結局、そういう事になります。


さてそれで、長谷川櫂氏の「枯朶の句」の解釈は正しいのでしょうか。
於多福姉は櫂氏の説明をなぞり・ていねいに見ていきたいと存知ます。

*枯朶にからすのとまりけり秋の暮

>今までそこの枯枝にとまっているのを知らずにいた烏に突然、気がつく。

「枝」は、幹から分かれ生ずるものというご理解で充分だと思います。
「朶」は「樹木のしだれるさま」「うごかす」「えだ」「たれさがる」等の意味。
「しだれ」と言い、「うごかす」と言い、細く柔らかなイメージのハズ。

>二枚目の短冊は画句ともに芭蕉の自筆。

烏の図体が止れば、その枯朶だけが動いて目立つのではないかしら。
しかもこの句の口絵の烏は口を開いて落ち着き悪そうにしています。
芭蕉は「枯朶」と書いておいたけれど、櫂氏は「枯枝」と書き換えている。

「朶」と「枝」はこれほど異なるのに、櫂氏は意識的に換えたのかしら。
長谷川櫂氏の経歴に法学部卒業・文学部教授とあるのは周知の事実。
櫂氏の中で『枯朶』と『枯枝』はソックリ同じ意味・同じ感覚なの?

櫂氏には皆が納得を得るに十分な申し開きをする責任がある筈です。
文学部教授であれば、古文法等の解説は得意な分野かとぞんじます。

芭蕉は絵を描く才能が無い・下手くそという「言い訳」は感心しない。